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2006年5月30日

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「ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代」ダニエル・ピンク

▼book06-039:ほんとうの大変化はここから始まる、かも。

4837956661ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代
大前 研一
三笠書房 2006-05-08

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インターネットやテクノロジーが何をもたらすのか、ということはいまでもぼくの大きな関心ごとであるのですが、どちらかというとWeb2.0のようなトピックにはあまり興味を失いつつあり、むしろそうした技術を含む社会全体を飲み込むような波、もっと大きな変化をキャッチしたいと思っています。しかしながら、あまりにも大きすぎると妄想のようなものになってしまう。あくまでも等身大で考えていきたいものです。

自分のセンサーの感度を高めるために、本を読んだり映画を観たり、プレゼンの前の日にへとへとになりながらブログを書いていたりするのですが、量が質に転じるときがあるというか、たくさんの情報をとにかくインプットすることで、ようやくパターンがみえてきたような気がします。センサーがキャッチしたキーワードを蓄積できるようになりました。それはどうやら脳科学であったり、比喩やメタファーであったり、認識論のようなもののようです。

もう既に何回かブログで触れてきたのですが、この本はぼくがキャッチしたかったことの集大成という感じがします。直感についての記述もあり、さらに比喩についての記述のなかでは、EQだけでなく比喩指数(MQ)を高めよう、などという表現もありました。確かに左脳的な処理はコンピュータがどんどんこなしていく世界になるので、じゃあ人間は何をするのか、ということを考えると、右脳的な思考が必要になります。「答えのない社会」あるいは「答えが複数ある社会」であり、さらに答えを創り出さなければならない社会には、逐次的な処理ではない「全体思考」が大事になる。

ここで「ねばならない」的な発想をすると、つらくなります。じゃあすぐ息子に右脳教育を、という方向に焦るとつらい。楽観的にとらえると、ダニエル・ピンクさん的な予見から将来は暗記や論理は通用しなくなる社会になるので、無駄なことを覚える必要もなく(無駄なことは情報としてネットの世界にアーカイブしておけばいい)、逆に余裕があって豊かな創造的な世のなかになるともいえます。そんな予見をした上で、それこそ「全体」を俯瞰して、慌てずに自分は何をしたいか、というようなことを考えたほうがいいでしょう。

過渡期にある現在がいちばんつらいかもしれません。情報に追いまくられている気がします。けれども情報から解放されるときがきっとくる。それは大きな希望でもあります。

この本は楽しんで読んでほしい、と書かれていましたが、ほんとうに楽しめました。最後の「笑うこと」の大切さを説いている章では読んでいるぼくも楽しくなった。3歳と9歳の息子たちは、ほんとうに毎日よく笑います。何がそんなにおかしいんだろうと思うほど、笑っている。楽しいことだけを考えて生きているのが、しあわせなのかもしれません。ぼくにとっては、考えている時間がしあわせなので、いろんなことを考えつつしあわせに浸っていたいと思います。5月30日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(39/100冊+34/100本)

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2006年5月26日

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「メタファー思考―意味と認識のしくみ」瀬戸賢一

▼book06-038:思考すべてがメタファー。

4061492470メタファー思考―意味と認識のしくみ (講談社現代新書)
講談社 1995-04

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文章術のレトリックとして認識していたメタファーが、実は世界をとらえる意識の働きであり、英語であっても日本語であっても、例えば「明るい」という表現は光にあふれているという現象だけでなく、「見通しが明るい」のようにクリアになったことに使われるという指摘が面白いと思いました。しかしながら、表現方法の解説に終始していて、もう一歩高いレベルの見解まで到達していないところが残念という気がします。全体の大半を費やされている例文については図表としてまとめて、そのなかの特長的な表現についてさらに深い考察ができるのではないでしょうか。モノの運動を分類して、すべてを丁寧に解説されているのですが(この運動を分類したアイコン自体は興味深いものがありました)、なんとなく読んでいて焦点がぼけていく印象があります。

たとえばぼくが面白いと感じたのは、「乗り越える」と「回避する」という表現ですが、例えばこれを岩ではなく「課題を乗り越える」「課題を回避する」といったときに、課題は物質ではないけれども岩のような物質に思えてくる。そして、「乗り越える」は課題をよじ登って「上」をよいしょと通過するのに対して、「回避する」は岩の「左」もしくは「右」を遠回りする印象があります。そして「上」には「上流」のようなポジティブな印象がある。だから、「乗り越える」は自発的かつよいイメージなのですが、「回避する」のほうはいまひとつ前向きではない。到達点および、向こう側へ行く、という目的は同じであったとしても、です。

さらにこれが何か、ということを考えたのですが、人間が地面に足をつけて立つ生き物だからではないか、と思いました。つまり地面という「道」を行くことは簡単にできるのだけど、重力に逆らうことには抵抗がある。けれどもこの抵抗を突き抜けて向こう側へ行きたいという思いを実現することが理想でもある。「乗り越える」の究極は「飛ぶ」だと思うのですが、地面から遠く離れて空へと向うことが、長い間の人間の夢であったかもしれません。もちろんいま飛行機で飛ぶ夢は実現していますが、人間そのものはやっぱり飛べない。背中から翼でもにゅーっと伸びるぐらいに進化すれば別ですが。

というのは、この本から考えたぼくの稚拙な考察ですが、この本のなかに点在している視覚的メタファー、空間的メタファーについての考察を横断して、さらに文学や映画をその視点から考察を加えて論じると、面白いと思いました。そういう意味では、さまざまな示唆を与えてくれる本ではあります。5月26日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(38/100冊+33/100本)

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2006年5月21日

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「村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する」小森陽一

▼book06-037:言葉を操る生き物、の倫理。

4582853218村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)
平凡社 2006-05-11

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問題の多い評論です。「海辺のカフカ」を精読することによって物語の背後にある意味を解き明かし、文学作品だけでなく歴史という文脈(コンテクスト)のなかに、この作品の問題を位置づけていきます。癒しという視点からベストセラーになった作品を「処刑小説」であると断言し、村上春樹的現象の社会的な責任を問う評論ともいえる。評論のなかで、この作品は読者の「思考停止」を促すという言述があったのですが、確かにその通りであると感じました。文芸評論家ではないぼくは印象で語るしかないのですが、村上春樹さんの小説には、たとえば「どうよりよく生きるべきか」という問いと答えをうやむやにしてしまう何かがあるような気がしていました。また、「海辺のカフカ」は9月11日に出版されたということをあらためて考え、出版社のマーケティング戦略というものにも目を向けてみるべきだ、とあらためて感じました。養老さんの本では、テロリズムを人間的な行為であると解説し、倫理というアウトプット(行動の規制)が重要であると書かれています。出力という意味では言葉も出力であり、言葉の暴力、言葉によるテロというものもあり得る。ぼくも爆弾発言をするタイプなので逆によくわかるのですが、言葉を操る生き物としての倫理観については、もう少し考えてみたいと思いました。非常に示唆に富む見解が多く、特に第五章の結びについては深く考えさせられました。このことについてはいずれまたブログで書いてみるつもりです。5月21日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(37/100冊+31/100本)

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2006年5月17日

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「超バカの壁」養老孟司

▼book06-036:変わった視点が、考えを広げる。

4106101491超バカの壁 (新潮新書 (149))
新潮社 2006-01-14

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たぶんAmazonのレビューなどではぜったいに掲載されないような感覚的なひどい批評を書きましたが、ぼくはこの本に書かれている養老さんの視点には、斬新なものや、とても切れ味のいい何かを感じました。考え方には共感するし、支持したい部分もたくさんありました。

以前書いたことがありましたが、ぼくらの意識にできた太い道を「常識」と考えると、その本道から外れたものは「非常識(異端)」であり、マイノリティーであるからこそ何か居心地の悪さを感じる。排除したり、クレームをしようとするのは、それが「変わっている」からです。けれども、変わっていることを言語統制の下に排除するのではなく、変わっていてもいいんだ、と認めることができるのが、成熟した社会であるように思います。

テロはとても人間的な行為だということ、人間の身体は基本的に女性をベースに成り立っていて男性は特別なものだから極端な行動が多いこと(一方で女性は安定していること)、自分はただの人であることを認識して(特別な自分探しをするのではなく)目の前にある社会の穴を埋めることに専念しろということ、都会人がイライラするのは人間が多いからで人間が多いと匂いだけでイライラするということ(という意味では、オフィスはあまり人口密度を高めない方がいいかも)などなど、養老さんの考えにはひとつひとつ納得することが多くありました。

この養老さんの考えに腹を立てるひとがいるのもわかる気がします。なぜなら「変わっている」からです。しかし、養老さんも書いているように、頭にきたら読まなければいいだけのことで、わざわざ意見を戦わせることもないような気がします。こういう考え方もある、ということです。そして、一元論的な発想のもとに反対論の旗を揚げるのではなく、では自分はどう考えるか、のような合理的な方向へ思考を向わせたほうがいいのではないでしょうか。5月17日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(36/100冊+30/100本)

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2006年5月16日

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「クオリア入門―心が脳を感じるとき」茂木健一郎

▼book06-035:思考の本質をめざして。

4480089837クオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫)
筑摩書房 2006-03-09

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脳科学は1999年のチャーマーズの言葉を使うと「やさしい問題」「難しい問題」という幅広い問題を対象としているようですが、ぼくの関心があるのは、脳のどの部位でどんな機能があるかというホムンクルス的な機能論ではなく、「難しい問題」の方の、なぜ自分がここにいるのか、ここにいて考えることができる(意識が生じる)のはなぜか、他人や世界との関わりで自分が変化していくのはどういうことか、ということのようです。

したがって、脳科学の分野のなかでも、どちらかというと科学よりテツガク的、ブンガク的、あるいは言語学的な考察に興味があります。風景のなかで地と図をわけるような主体的な意識が生まれるのはなぜか、ミラー・ニューロンのようなものを通して他人の痛みを感じられるようになれるのか、ということが知りたい。だから、茂木健一郎さんの著作は、まさにぼくが疑問を感じていることにぴったりと合った「志向性」が感じられるものばかりです。さらに発展させると、アンドロイドは涙を流せるようになるのか、ということを考えたい。SFっぽいかもしれませんが、21世紀なので、そんなことを真剣に考えるひとが出てきてもいいのでは?

空想物語のようなことを考えて何になるのか、という思いが時々心をよぎりますが、ビジネスではないので、結果を追求するものではないでしょう。ぼくはプロの脳科学者でもありません。ごく普通のひとです。けれども学術的には稚拙であったとしても、「考えること」について考えることで、ぼくにとっては至福ともいえる楽しい時間を過ごすことができます。それに、この思考のエクササイズによって、いろんな考え方のパターンをストックできたような気がしました。無意識のうちに難題に対する処理のアプローチが多彩になった気もしています(その反動で頭痛もしているのですが)。時間があれば、以前に読んだ著作も再読して、それぞれのキーワードから自分の考えをまとめてみたいと思っています。とはいえ、老後の楽しみ、なのかもしれません。あまり欲張らずにいきましょう。

まだ読んだことのない茂木健一郎さんの著作もあり、とりあえず全部を読了してみたいと思っています。5月16日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(35/100冊+30/100本)

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