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2007年8月14日

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「アフォーダンス―新しい認知の理論」佐々木正人

▼世界の認識を変える、考えつづけたギブソンの軌跡。

4000065122アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))
佐々木 正人
岩波書店 1994-05

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アフォーダンスって・・・。なんだか「わい、あほやねーん」という陽気なおじさんたちが腕を組んで、たらったらった踊っているイメージがありませんか?そりゃ、アホダンスか(苦笑)。

残念ながらダンスの理論ではなく、ジェームズ・ギブソンというアメリカの知覚心理学者によって1960年代に確立された、従来の考え方を覆すような画期的な認識理論だそうです。彼が生涯かけて考えつづけた理論は、ロボットなどAI(人工知能)を研究する学者にも注目されている、とか。

そもそもぼくは少年の頃から、世界がどこにあるのか、世界はどうやって存在しているのか、という哲学的といえば哲学的ですが、どーでもいいことに関心があり、物思いに耽るひとでした。

しかしながら、そんな深遠なテーマの答えがみつかるわけもなく、わかったとしても何か儲かるのかといえば利益も何もないのですが、いまでもその分野に好奇心がそそられて、脳科学とか認識論の本を手に取ってしまいます。

この薄い本にはギブソンの考え方の要点がわかりやすく説明されています。彼の生い立ちからはじまるところに親しみやすさを感じたのですが、ギブソンは生涯に100を超える研究論文と3冊の書物を著しているそうです。まず、彼の生きざまとして、次の言葉に惹かれました(P. 14)。

三冊の書物には一つの思考が流れている。その歩みを振り返ると、ジェームス・ギブソンという人が、「生涯をかけて一つのことだけを考え続けた人」であるという印象が強く残る。ギブソンはアメリカという風土が生んだ「タフなサイエンティスト」だった。

いいですねえ。ドラッカーも同様ですが、ぼくは考えつづけるひとに憧れます。

「考えすぎ」なのは困りものですが、立体的な思考の獲得を目的にブログを書きはじめたこともあり、できれば脳が機能を停止する寸前まで、フルに考えていたい。企画という考える仕事に就いていることもあるのですが、脳の病に倒れた亡き父の面影に背中を押されているのかもしれません。

■点から面へ、面から動きへ

と、前置きが長くなりましたが、ギブソンの思考の発端について、この本では「ゲシュタルト」から解説されていきます。

ゲシュタルトと言って思い出すのは、「お」という字をたくさん書いてじーっとみつめていると、それがだんだん何という文字だかわからなくなってくるゲシュタルト崩壊ですが、彼はゲシュタルトについて「感覚要素の総和以上のもの、総和とは異なったもの」と定義したようです。著者の佐々木さんも非常にわかりやすく解説されていて、本のなかから次の部分を引用します(P.16)。

たとえば音のつながりは、一つのメロディーとして聞こえる。「移調」して要素音をまったく変えてしまっても、同一のメロディーを聞くことができる。したがってメロディーは、要素である個々の音とは異なるレベルをもつ「ゲシュタルト」である。

要するに1+1=2なのですが1+1と2はまったく別のもの、ということでしょうか。足されて2になったときに別の何かになる。あるいは、好きなひとがいるとします。声だったり、仕草だったり、部分的に好きな部分があるかと思うのですが、結局のところ総体として好きだったりします。部分が集まったときの全体は、まったく別物になる。

一時期、パソコンで勝手に音を組み合わせて音楽にする、というようなソフトがありました。しかし、ぼくは何かが納得できなかった。そのときのもやもや感がこの文章を読んですっきりしたのですが、音+音が音楽になるかというとそんなことはなく、メロディという流れは組み合わせを超えたものである。だからめちゃめちゃに音を組み合わせても音楽にはならない、というわけです。音という部分にこだわることも必要だけれど、ゲシュタルトとしてのメロディや音楽全体を考えるべきである、という。

ゲシュタルトを発端として、ギブソンは点で世界は構成されているという考え方を「ビジュアル・ワールド」という考え方に進化させます。それは、面(サーフェス)とキメ(テクスチャー)による認識です。わかりやすいのが3Dゲームだと思うのですが、点と点のキメが粗いと近くに、キメが細かくなると遠くにみえる。パースペクティブ(遠近法)的な考え方かもしれませんが、模様(キメ)の細かさが距離を表現するわけです。

さらに面からレイアウトへ、レイアウトから動きへ、とギブソンは認識論を進めていくのですが、さすがに彼の考え方を追っていると大量な文章になりそうなので、省略することにします。

■ぼくらが動くと、そこに世界が生まれる

ぼくが凄いと思ったギブソンの考え方に焦点を絞ると、動くものこそが世界として認識される、ということでした。面やレイアウトがあったとしても、動かなければ世界は成立しないということです。

しかし、たとえばいま目の前にあるパソコンの機械は動かないですよね。それでもぼくの目の前に世界として存在している。それがなぜ世界として認識されるかというと、ぼくらの眼球が動いているからです。眼球の動きによって視点がいつも変わりつつあるから、世界がそこに生まれる。眼球が固定されていたとしたら、世界には精彩がなくなる。

そして「情報は光のなかにある」ということが述べられています。ギブソンは「生態光学(エコロジカル・オプティックス)」という新しい光についての考え方を提示したそうですが、特定のモノが反射した光だけでなく、ぼくらの周囲は光に満たされています。

これを「包囲光(ambient light)」と彼は呼んだようですが、満たされているからこそ面やキメが生まれるわけで、ぼくらが動くことによってその配列の構造が変化して、またそこに別の世界がみえてくる。環境の「持続」と「変化」によって世界を認識しているのですが、鳥が羽ばたく、クルマが走るなど世界の動きだけでなく、ぼくらが主体的に動くことによることでも世界は認識されるわけです。

次の部分にも、ぼくは衝撃を受けながら読みました(P.49)。

もし私たちが動かない「動物」(これは言葉の矛盾である)ならば、固定された一つの包囲光配列に表現された立体角だけから対象が何であるのかを「推論」する必要がある。個々の立体角をつなげるために「記憶」を必要とするかもしれない。しかし、動くことが可能ならば、そのような不十分な情報から「推論」する必要はないし、静止した情報を「記憶」でつなぐ必要はない。情報が足りないのならば、視点を変えることで、十分な情報を光の中に探せばよいのである。

記憶や経験がなくても、動けば環境が情報をぼくらに伝えてくれる、ということではないでしょうか。要するに動かないで世界を認識しようとしたら、膨大な記憶や推論が必要になる。でも、自分が動くことによって、ぼくらは世界から情報を入手し、最小限の記憶や推論で世界を認識できる。

■情報はぼくらのなかではなく、ぼくらの外にある

ちょっと猫っぽい喩えですが、この道通り抜けられるかな?と思ったとき、その場所にじっと佇んでいるだけでは何もわからないですよね。これぐらいのところを通った経験があるから大丈夫じゃないの?いやいや無理かも、と永遠に考えつづけなければならない。けれども、道に近づいてみることで、んーやっぱり無理そうだ、などということが直感的にわかる。

ブログもそうですが、一歩踏み出してみるとわかることが多いと思います。それは自ら動くことによって視点が変わるからであって、踏み出すことによって世界も「動く」からなのでしょう。知覚に関する理論なのですが、なんだか人生論にまで発展させてしまいました(苦笑)。

そこでアフォーダンスなのですが、この道通り抜けられる、という情報はどこにあるかというと、自分の脳内ではなく、風景の方にある、という考え方のようです。アフォーダンスとは「~ができる、~を与える」というアフォード(afford)という言葉からギブソンがつくった造語とのこと。この考え方にも、がーんと衝撃受けました(笑)。なぜなら、情報は脳内で処理していると思っていたので。

上手く説明できないのですが、ベッドを持ち上げられるか持ち上げられないか、という情報について例にあげると、可能か不可能かの情報は脳内にあるのではなくベッドのほうにある、という考え方のようです。しかも個人によって世界観が異なり、がんがん力仕事に能力を発揮しているひとにはベッドを持ち上げるアフォーダンスは可能として認識されるのですが、マウスより重いものを持ったことがないひとには不可能となる。あるいはベッドという「情報」に近づいたときに、アフォーダンスが発動するという感じでしょうか。

面白そうだと思ったのは、もし自分の脳内でしか世界を認識できないのであれば、ベッドを持ち上げる感覚は共有できないですよね(それを共有してどうする?という話は置いといて)。しかし、外部に情報があるとすれば、感覚を他者と共有することも可能だろうし、ロボットにその処理を移植できる。さらに同じベッドを見ていたとしてもアフォーダンスは各個人で異なるわけで、だからこそ多様な発想が生まれるわけです。

重要なのは脳という閉鎖された機関のなかで世界が形成されるのではなく、外部の環境とのやりとりのなかで世界が「生成」されていくということではないかと思いました。脳に関する研究はどうしても脳内の物理的な変化に注目する印象がありますが、ぼくらは情報に囲まれて生きている、情報は外にある、という考え方は、なんとなくぼくの発想を変えてくれそうな期待感があります。

このアフォーダンス理論を基盤として、さまざまなリアリティーのデザインが行われているようです。まだまだ書きたいことがたくさんあり、消化できていないもどかしさを感じるのですが、ぼくにとっては目からウロコな一冊でした。

投稿者: birdwing 日時: 17:33 | | トラックバック (0)

2007年6月28日

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「魂のみなもとへ―詩と哲学のデュオ」谷川俊太郎, 長谷川宏

▼book017:散文の思考、詩の思考。そしていまを生きること。

4022615346魂のみなもとへ―詩と哲学のデュオ (朝日文庫 た 46-1) (朝日文庫 た 46-1)
長谷川 宏
朝日新聞社 2007-05-08

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「詩と哲学のデュオ」とサブタイトルに付けられたこの本は、近代出版編集部の桑原芳子さんの次のような企画から生まれたことが、長谷川宏さんの書いた「おわりに」で語られています。

谷川俊太郎の詩を一篇選んできて、それにわたしの短文(四百字詰め原稿用紙四枚)を一本つける。そんんなつけあいを三十回くりかえして一冊の本に仕立てる。テーマは、「生・老・死」。

このアイディアが秀逸だと思いました。長谷川宏さんの短文は長すぎもせず短くもなく、谷川俊太郎さんの詩と交互に読んでいると、心地よいリズムが生まれる。詩の解説というわけでもないし、テーマは重なっているけれども散文では少しずつズレていくので、表現の世界が広がる。場合によっては、詩と散文の対決のようにも思える。

そんなことを考えながら、詩と散文の違いは何だろう、ということを考えました。少年時代には、改行すれば散文は詩になるのではないか、などという乱暴なことを考えていた時期があり、確かに改行で体裁を変えることによって言葉のつながりが断絶されるので、散文的な文章は擬似的に詩にみえるようになる。

息子の書く作文は、詩なのか作文なのか明確に分かれていないところがあり、けれども改行させると、どこか詩らしくなる。あるいは、助詞など言葉と言葉をつなぐものを省略して、単語を羅列すると詩っぽい。邪道かもしれないのですが、3分間で息子の作文を詩らしくするには、それがいちばん最短な方法だと思います。

この本を読みながら考えたことは、ピンポイントで刹那を直感的にキャッチして書かれたものが詩であり、そのピンポイントでキャッチした感覚を時間をかけて思索したものが哲学ではないか、ということでした。つまり詩人は外部からのインプットであるセンサー、哲学者は内部の処理能力である思考回路が重要になるような気もします。つまり、詩と散文は体裁の問題ではなく、思考の問題でもあります。散文詩は詩なのか散文なのか、非常にびみょうな分類という気もしています。ブンガクの形態なんて、すべてびみょうなものかもしれないのですが。

好き/嫌いという感情に関するテーマについてはブログに書いたのですが、最近、どちらかといえば子育てから意識が離れつつあるぼくは(以前は子供のことばっかり考えていた気がする)、谷川俊太郎さんの詩「子供は駆ける」に打たれました(P.86)。引用します。

もう忘れてしまった
くちのまわりに御飯粒をくっつけたきみ
拳闘選手みたいに手を前へつき出して
はじめて歩きはじめたきみ
昨日のきみを
私はもう忘れてしまった
それはきみが私に
思い出をもつことを許さないから
きみがいつも今を全力で生き
決して昨日をふり返ろうとしないから
きみは日々に新しく
きみは明日を考えずに
私よりも一足先に明日へ踏み込む
いっしょに散歩するときも
きみはきまって私の先を駆けてゆく
その後姿が四つになったきみのイメージ

この詩を受けて、長谷川宏さんは次のように書きます。まずは冒頭の部分。
「精神は反復をきらう」といったのはポール・ヴァレリーだ。精神の人ヴァレリーに似つかわしい寸言だ。
裏返せば、肉体は反復を好むことになる。あるいは、自然は反復を好むことに。

そして次の言葉につないでいきます。
さて、問題は子供だ。
子供は反復を好む。ヴァレリーのさきの寸言に接したとき、わたしの頭にまっさきにひらめいたのがそのことだ。

確かにそうですね。子供と遊んでいると、楽しいと思ったことは何度でも繰り返す。抱っこして飛行機、などというときは、もう一回!と言われつづけるとへとへとになります。それはきっと、過去の経験を反復しているというよりも、一回性のわくわくやどきどきや嬉しさを、なんども一回性の楽しみとして繰り返すからでしょう。大人はそうは思わない。それってさっきやったでしょ?と思う(苦笑)。

大人は効率的です。既にやったことは同じこととして共通項でくくろうとする。けれども子供にとっては、いまやった飛行機と、さっきやった飛行機は違う。それぞれがユニークな体験として認識するわけです。次のようにも書かれています(P.90)。

子供が反復を厭わないのも、まるごとの体がいまを精一杯生きているからだ。過去を引きずらず、未来を思いわずらうこともなく、いまという時間をまるごと生きる体は、同じことを何度くりかえしても、そのたびに経験が新鮮なのだ。そこには、しあわせというものの原型が示されているように思う。

「過去を引きずらず、未来を思いわずらうこともなく」というくだりがいいですね。いまある自分をまったく新しい自分として、生きてみたいものです。そんなことを考えさせてくれる詩と散文です。

谷川俊太郎さんが書いた詩を生きる、長谷川宏さんが書いた散文を生きる、ということが詩と散文を日常において実践することかもしれません。詩と散文、そして芸術は決して日常とかけ離れたところにあるものではなく、日常を豊かにしてくれます。そういう意味で、ほんとうの詩と散文は生活と乖離せずに、むしろ生活に対して実践的ではないでしょうか。6月22日読了。

※年間本50冊プロジェクト(17/50冊)

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年6月19日

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「イノベーションと企業家精神」P.F.ドラッカー

▼book016:イノベーションの本質を探る名著。

4478000646イノベーションと企業家精神 (ドラッカー名著集 5)
上田 淳生
ダイヤモンド社 2007-03-09

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学生時代に読んでおけばよかったと思う本、あるいは手薄だったジャンルがいくつかあります。経営書もそのひとつですが、特にドラッカーの著作は学生時代にきちんと読んでおけばよかった。けれども、学生時代の浮ついた自分には、その言葉はしっくりと馴染まなかったかもしれません。いまだからこそ意義がある。

社会に出て面白いことも面白くないことも経験し、実現可能なことも可能性の限界も分かりはじめ、それでも静かに前を向こうとする現在。自分にとってドラッカーを読む時間はしあわせです。どれだけ時間がかかったとしても、ドラッカーの名著集を読破したいと思っています。ほんとうに時間かかりすぎなのが、どうかと思うのですが(苦笑)。

易しい言葉で語られるドラッカーの文章は、場合によっては刺激が少なく、平明すぎて引っかかりに欠けるような印象もあります。けれども、その平明さのなかに鋭い洞察が隠されている。たとえば、「予期せぬ成功と失敗を利用する」という、イノベーションのための7つの機会の第一。不確実な要因をイノベーションの機会の第一に持ってくるところに、ドラッカーの卓越したセンスを感じました。

情勢をじっくりと見極め、資料だけでなく現場を訪問して、そこで何が起こっているのかを自分の目で確認すること。その自分の目で確かめたことを自ら考え、分析によって体系化・構造化せよ、というのがドラッカーの基本的な姿勢ではないでしょうか。ドラッカーの本質はこの姿勢にあるのではないかとこの本を読んで感じました。

けれども、分析しやすいこと、パターン認識しやすいことを第一に考えるのではなく、イレギュラーな予測もつかなかった変化をあえてイノベーションのチャンスと捉えている。しかも成功だけでなく、失敗も機会となる。この思考にぼくは注目したい。

変化というものは、最初はほんのわずかな動きであることが多いものです。一般のひとにも変化が感じられるようになったときには、もはやそれは変化ではなく時代の主流になっている。この変化の芽をわずかな段階でキャッチするためには、鋭いセンサーを働かせる必要があります。経験はもちろんのこと、直感も必要になる。

この本のなかでは、大量の事例が紹介されていますが、過去に起こった事例からパターン認識と分析・構造化が繰り返されていきます。そうして最終的には作り上げたフレームワークにこだわるのではなく、前触れもなく訪れた現在もしくは未来の新しい(パターン認識できない)何かを掴み取ることを重視されています。

75歳のときの著作でありながら、その若々しい思考には、ほんとうに頭が下がります。むしろぼくらの方がアタマが固いんじゃないかと思ってしまうぐらいで、ドラッカーのように柔軟な思考でありたい。

いま、イノベーションは注目されるキーワードのひとつであり、書店には背表紙にその言葉を掲げた本がたくさん並んでいます。もちろん新しいイノベーション論も参考にしたいと思うのですが、ではドラッカーの本が古いかというとまったくそんなことはありません。現在でも十分に通用する。

翻訳の上では変更点もあり、かつて「起業家精神」と書かれていた言葉は、今回の訳にあたって「企業家精神」と書き換えられたそうです。確かにベンチャー企業隆盛の頃には、「起業家」という言葉が目につきました。けれどもそんな一時的なバブルが過ぎ去ったあとで、永続的に使える言葉として「企業家精神」という風に落ち着いたのでしょう。読み始めたときには若干違和感があったものの、あとがきの解説を読んで、なんとなく納得しました。むしろ起業家よりも企業家のほうが、ベンチャー企業も含めてエンタープライズ(大企業)までを含んだ理論として読むことができます。

この書物のなかでは、第一に、第二に・・・という風に体系的にポイントが語られていきます。全体を構造化したいところですが、ぼくの興味のある部分に限って、覚書的にまとめてみることにしましょう。

まずは、第1章「イノベーションと企業家精神」において、7つの機会が提示されているのですが、その7番目の「新しい知識を活用する」から、知識によるイノベーションの特徴・条件・リスクを抜粋してみます。

■知識によるイノベーションの特徴(P.115)
1)リードタイムが長いこと(25〜35年を要する)
2)知識の結合

■知識によるイノベーションの条件(P.129)
1)分析の必要性
2)戦略の必要性
2-1.システム全体を自ら開発し手に入れる
2-2.市場だけを確保する
2-3.重要な能力に力を集中し重点を占拠する
3)マネジメントの必要性

■知識によるイノベーションのリスク(P.136)
1)時間との闘い
2)生存確率の減少

知識によるイノベーションについて解説された後で、アイディアによるイノベーションについても言及されているのですが割かれているページは非常に少ない(苦笑)。アイディアも重要なのだけれど、知識レベルに昇格させなければ事業としては危なっかしい、アイディアは事業ではない、というドラッカーの厳しい視点が感じられます。

広告業界などではアイディア一発のようなところもあり、それがまた楽しいのだけれど、事業化するにあたっては「ラスベガスのスロットマシーンで儲ける」ようなギャンブル的な夢想を避ける、ということでしょう。ドラッカーはアイディアによるイノベーションについても認めながら、その可能性については非常に疑問視しています。

つづいて、第13章「既存企業における企業家精神」からまとめてみます。イノベーションは新規事業だけでなく、既存企業においても重要になる。どちらかというとぼくにとっては、特殊ではない通常業務のなかにおけるイノベーションのほうに関心があります。

■企業家精神の4つの条件(P.174) 1)変化を脅威ではなく機会とみなす組織を作り上げること 2)イノベーションの成果を体系的に測定すること 3)組織、人事、報酬について特別の措置を講じること 4)いくつかのタブーを理解すること

■イノベーションの段階(P.177)
1)組織の衛生学 最高の人材の確保、資源の投入、過去事例の廃棄
2)ライフサイクルによる現状把握(製品、サービス、流通チャネル、工程、技術)
3)イノベーションの領域、期限の明確化
4)企業家としての計画化

■企業家精神のための具体的方策(P.180)
1)機会に集中すること 問題に集中する会議+機会に集中する会議
2)戦略会議の開催
3)トップマネジメントが部門の若手と定期的にミーティング
 (開発研究、エンジニアリング、製造、マーケティング、会計)

■イノベーションの評価(P.184)
1)成果を期待にフィードバックすること
2)活動全体の定期的な点検
3)成果全体を、目標、市場における地位、企業の業績で評価

通常、イノベーションというと先端企業であるとか、ベンチャーであるとか、そんな特殊な状況を思い浮かべます。けれどもイノベーションはあらゆる企業において必要であり、可能である。以下のようにも書いてあります。(P.175)

イノベーションを異質なものとして推進していたのでは何も起こらない。日常業務とまではいかなくとも日常的な仕事の一つとする必要がある。そのためには、企業家精神のマネジメントといくつかの具体的な方策が必要である。

ジェフリー・ムーアの「ライフサイクル・イノベーション」にも通じることでしょうか。ぼくはさらにそれを企業内ではなく、個人の生活のなかにおける「日常業務」として考えてみたい気がしています。

読了後、感想を書くまでに時間が経ってしまいましたが、読み進めながら集中力が途切れてしまった感じもあるので、再度読み直してみたい気もしています。最後に、最終章から次の言葉を。

企業家社会は継続学習を必然のものとする。

中盤は省略しますが、次のように語られます。いままで継続学習をしなければならないひとは、芸術家や学者、僧侶など特別なひとだったのですが、これからの社会ではそれが特別ではなくなる。企業家である以上、すべてのひとが継続学習が必要になるとのこと。

ところが、企業家社会ではこの例外が当然となる。企業家社会では、成人後も新しいことを一度ならず勉強することが常識となる。二一歳までに学んだことは五年から一〇年で陳腐化し、新たな理論、技能、知識と代えるか、少なくとも磨かなければならなくなる。そのため、一人ひとりの人間が、自らの継続学習、自己啓発、キャリアについて責任をもたなければならなくなる。もはや少年期や青年期に学んだことが一生の基盤になることを前提とすることはできない。それは、その後の人生において全面的に依存すべきものではなく、そこから離陸すべきスタート台にすぎなくなる。
ぼくは梅田望夫さんの述べているサバイバルの意味もここにあるような気がしました。サバイバルという言葉が、他者を蹴落とす競争と捉えがちだから誤解も生むのだけれど、自己を革新していく、つまり自己の絶え間ないイノベーションがサバイバルではないか、と。ほんとうに闘うべき相手は自分のなかにいます。それは妥協したり、まあいいっかと自ら限界を設定するような自分であり、それを超える必要がある。

日々学習です。そして、いまここが離陸すべきスタート台であることを認識しようと思います。6月7日読了。

※年間本50冊プロジェクト(16/50冊)

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2007年6月 7日

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「ノイズ―音楽/貨幣/雑音」ジャック アタリ

▼book07-015:音楽の変遷について考えつつ、最新動向も考えつつ。

4622072777ノイズ―音楽/貨幣/雑音
Jacques Attali
みすず書房 2006-12

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ジャック アタリがこの書物を書いたのは1977年のようですが、DRM廃止などが論じられている現在において読み直す、あるいは解釈し直すと、新しい見解が生まれるような気がしました。この本は音楽論ではなく、音楽という現象をサンプルとして社会がこれからどのように変わるか占うようなところがあり、そのアプローチが面白い。

性能の悪いぼくのアタマで、この本に書かれていた音楽の変遷をまとめてみることにします。

音楽の社会的な意義は、まずジョングルール(大道芸人)によって演じられる一回性の音楽、そして祝いなどの儀礼的な音楽がありました。しかしながら暗記して継承されていたものが、記譜されること、記譜されたものが印刷によって流通することにより、そこに経済的な価値が付与され、音楽は反復されるものとなった。反復されるものは制度化され、あるレベルの階級だけが享受できる音楽になる。

ところが制度化された音楽を破壊する試みもあり、特権階級でしか聞けなかった音楽を大衆のものとする。大衆のものになったときにさらに反復され、ヒットパレードのようなランキングも生まれる。ここでまたさらに破壊する試みがあり、商業音楽を原初的な雑音(ノイズ)に戻そうとする。こうした一連の流れについて書かれていて、これは録音を印刷に置き換えると小説などの流通にも当てはまるといえます。

DRM(Digital Rights Management)廃止について考えてみると、DRMはコンテンツの流通・再生に制限を加える機能であり、制度・機能的にデジタル音源がコピーによって広がるのを抑止します。つまり、きちんと対価を支払った人間だけが、音楽を聴く権利を有することができる。それは当然のことかもしれませんが、音楽を聴く自由を奪っているともいえます。つまり、別に他人に譲渡する意図ではなくても、DRMがあることによって音楽を再生できる機器や場面が制限されることがある。

そもそも音楽って何だっけ?という基本的な問いを感じてしまったのですが、制度のための権利?、利益を生むための商品?、それとも自然のノイズと同様に世界にあふれている美しさのひとつ?という。真似したとか、勝手に歌詞を書き換えたとか、著作権に関わるさまざまな問題も重要なことかもしれませんが、音楽以外の制度が音楽をつまらなくしていることも多く、個人的な感想を述べてしまうと、もっとオープンソース的な音楽(クリエイティブ・コモンズ的なのかもしれませんが)の考え方にしたがった純粋かつ自然な音楽があってもいい気がします。

というよりも、それをぼくらアマチュアが作ればいいのかもしれない、とも思いました。商業的なクオリティの高い音楽から見下せば、ぼくらが作る趣味のDTMなどはノイズ(雑音)に過ぎないかもしれないのですが、時代を逆行して、ネットのジョングルールとして日記のように音楽を作り、無料で配布していきたい。そういうスタンスがあってもいいのではないでしょうか。

無駄といえば無駄だし、そんなに苦労してなぜ一銭にもならないものを公開しているのか、プロを目指す向上心はないのか、という考え方もありますが、ぼくに関していえば、残念ながらそんな気持ちはまったくありません(苦笑)。反体制的なスタイルを気取るつもりもないのだけれど、ぼくの場合は音が勝手に生まれてくる。つまりぼくにとっての音楽は、朝起きて食事をして眠るぐらいに自然なことだったりします。仕事として曲を作って稼ごうという意識があまりはい。それはブログの言葉だって同じですね。ゴミのような言葉かもしれないけれど、原稿料で稼ごうという意識の前に、言葉が勝手に溢れ出すのだから仕方ない。

それでいいんじゃないでしょうか、創造するということは。難しい本の内容をしかめっつらで読み進めつつ、そんな純粋な創造性について思いを馳せました。世界は複雑でややこしいものだけれど、あえてややこしく複雑にする必要はないような気がしています。6月6日読了。

※年間本50冊プロジェクト(15/50冊)

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年5月 5日

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「男の品格―気高く、そして潔く」川北義則

▼book07-015:孤高を恐れず、気高く生きる覚悟のために。

4569652115男の品格―気高く、そして潔く
PHP研究所 2006-04

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思考するブロガーでありたいぼくは、いろいろなことを考え、ときに考えすぎて消耗することさえあります。まず"どう生きるべきかを考える時間は途方もなく無駄である"と仮に言ってみましょうか。どう生きるかなど考えなくても、いまを充分に生きればいい。ぐちゃぐちゃ考えていないで生きろ、行動しろ、という視点です。

けれども人生の密度を高めるためには、たとえ万人にヒンシュクをかってもオレはこう生きる、という行動指針のようなものが重要になることがあります。既成のステレオタイプな考えではなくてもよい。自分なりの価値判断でかまわない。自分の規範(ルール)を持っている男は強いと思います。なんとなくハードボイルド的でもあります。

男にとって生きる規範となるものが美学です。美学は決してきれいごとではない。オレは人生の闇の部分すなわち汚れちまったかなしみだけを引き受けて、ダークサイドに生きていくぜ(ふっ)という選択および価値判断もひとつの美学です。ちょっと辛そうですけどね。無理してそうだよな、これは。決して泣き言を言わないというのも美学です。簡単そうで、なかなかできないことです。どうしても愚痴や辛さは口から零れてしまうので。

あるいは嫌われようが批判されようが、その先に出口がないばかりか荒涼とした大地が広がっていようが、ひとりの人間に徹底的に愛情を注ぐこと、あるいはひとつの分野の仕事や研究を穿ちつづけることもまた美学でしょう。映画や小説のなかにはそんなストーリーがいくつもあります。が、しかしながら現実には、あまりあり得ない。どこかで折り合いをつけてしまうものです。もっと効率よく考えましょう、無駄だからやめときましょうと思う。

しかしながら、無駄なことに対して途方もない費用と時間を費やす生き方こそが、川北義則さんの考える最上の「男の品格」のようです。見返りも求めないし、横並びに誰かがやっているから自分もやるのではない。自分で選び、自分で責任を取る。その覚悟について書かれた本です。そう、覚悟なんですよね、大切なのは。

ビジネスでは効率化が重視されますが、実は効率ではないところに人生の価値があったりもするものです。生活を豊かにするためには「遊び心」が必要です。遊びという言葉からは一見いい加減な印象がありますが、ほんとうの趣味や遊びは、いい加減に適当にやるものではない。趣味や遊びだからこそ真剣にやる。ここまでやったから遊びは終了というものではなく、遊びには限界がありません。無限につづけることができる。だから、徹底的にお金も時間もかけて、あるいは遊ぶために健康管理をして体力を万全にして臨むのが大事である、と。恋愛も同様とのこと。ホンモノの恋愛は命がけであるから、めったにできるものではないと書かれています。

男は遊びのための金を年間100万円用意しろ、というような提言があって、ううむと思ったのですが、「無駄金をどれだけ使えるかが、その人間の器を決めるともいえる。」という一文には圧倒的な何かを感じました。ちまちまと消費しているぼくは、だから器がちいさいのか(苦笑)。

ただ、自分のことを考えてみても、ブログや趣味のDTMには途方もない時間や費用をかけているのですが、これが遊びなのかもしれません。ブログに関していえば、ライターとして原稿料をもらって書くのだとしたら、きっとここまで注力することはないと思います。なんだ○万円しかくれないなら、このぐらいの文章でいいか、と割り切ることもきっとある。もちろん、そんなビジネスライクな職業原稿書きが多いからこそ、費用以上のクオリティや成果をあげるライターが評価されるのだと思いますが。

この本では、いくつも矛盾した見解が出てきます。趣味を究めろ、恋愛は他人の女とするものだ、他人の幸せだけ考えて男は自分の幸せなど考えるな、と述べたかと思うと、趣味で熱くなるのはみっともない、家族が大切、自分だけ幸せになればいい、などと力説されたりしています(苦笑)。ある意味、破綻している。さっき言ってたこととまったく反対じゃん、という提言が多い。

でもですね、ぼくはこの矛盾した提言にむしろ信頼を感じました。世のなかはひとつの理論で解明できるものではない。さまざまな正解が複雑に入り組んでいるものだと思います。また、いずれかの正解を選ぶ覚悟は重要ですが、頑なに守り通すことがよいとはいえない。違うと感じたら潔く捨てる覚悟も必要です。それがしなやかに生きることでもあるわけです。

そして、対立項を同時に存在させようとするときに創造性が発揮され、イノベーションが生まれるのではないでしょうか。いわゆる、小型だけれど高性能、という相反する要件を同時に成立させる無理な難題に取り組むことによって、飛躍的に進歩してきた技術分野は多いと思います。欲張りであることが大切なんだな。

しなやかな生き方の例としては、ハンプトン・ルトレンドという人物のエピソードを引用されていました(P.198)。株で儲けたカリスマ的な存在だった彼は、問題を起こしてどこかへ消えていたのですが、十数年後に現れたときには生き方を180度変えてしまっていたそうです。ストイックな過去のライフスタイルをまったく変えて、煙草は吸う、酒はがぶ飲みする、美味いものを食べる、という徹底的に「いまを楽しむ」スタイルになっていたとのこと。

抑制されたライフスタイルを厳しく評価するかつてのエグゼクティブたちからはヒンシュクを買ったようですが、自分に正直な生き方から彼はまたカリスマになったとのこと。ちなみに「男ならもっと顰蹙を買うことを考えよ」ということも書かれていました。確かに顰蹙を買うことを恐れていると、人間は(というか男は)ちいさくまとまってしまうものです。危なっかしい不良のほうがかっこいい。

他にもいくつも面白いエピソードを引用されていて、川北さんの美学に考えさせられるところがたくさんあります。ちょいワルオヤジなどという言葉もありましたが(もう死語?)、ファッションとか、おしゃれな店を知っているとか、そういう面だけが強調されていた印象もあります(それってちっともワルくないのでは)。大切なのは考え方のような気がしますね。そして川北さんは、考え方はもちろん「経験値を増やすこと」が大事だと述べられています。いくつも恥をかいて、顰蹙を買って、痛い目をみてはじめて、かっこよくなれるのかもしれません。

とはいえ、こんな本を読まなくても粋に生きている男性もたくさんいる。うらやましいものです。読みかけの本を置いていたら「男のひんかくっ(ぐいっと腕を上に)・・・ってなにさ?」と奥さんにからかわれました。「やせ我慢することだよ」と答えておきました。5月1日読了。

※年間本50冊プロジェクト(15/50冊)

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)