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2009年5月24日

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屋根裏の休日。

雨が降ったり曇りがちな日曜日でした。最近、長男くんが中学でテニス部に入ったので、空き地でテニスボールをぽんぽんやって休日を過ごすこともあるのですが、天気が悪い日ので今日は断念。とはいえ、インドアだからこそのんびり羽を休めることもできます。

昨年の暮れに引越しをして、屋根裏部屋のある家に住んでいます。自室でパソコンを使ってネットを愉しむ時間もよいのだけれど、休日のお気に入りは、屋根裏に篭って昼寝をしたり本を読んだりすることです。書斎や隠れ家、あるいは秘密基地のようなものは男のロマンという気がしています。そんな場所があるのは贅沢極まりない。でも、あるからには積極的に活用したい。なんといっても、もったいないですからね。

自宅の2階から屋根裏には、はしごで登ります。

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写していない左側にはダンボールで荷物が積まれていたりするのですが、それでもわずかばかりのスペースはあります。右上に空に向けて窓が開けていて(いまはカーテンっぽいもので覆われている)、天気のいい日は青空がみえる。けれども、夏は直接日が入り込むので温室状態になりそうです。したがって、もうすぐここへは登れなくなる。秋が来るまで入室禁止でしょうか。

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ここで音楽が聴けるといいなあ、と思って、先日リサイクルショップでラジカセを購入しました。ソニーのCFD-E500TV。2000年頃の製品のようです。けれども新品のようにきれいで4,800円でした。満足して気に入っています。音はそんなにはよくありませんが。

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ラジカセの下にちょこっと見えますが、読んでいるのは柴田元幸さんの責任編集による「モンキービジネスVol.5」。村上春樹さんの対談や川上弘美さん×小川洋子さんの対談がある。しかし他の本といっしょに読んでいるので、なかなか読み終わりません。数ページずつ、ゆっくりと読んでいます。

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今日のオンガクは、グールドのピアノ。ブラームスです。金曜日の会社の帰りにCDショップで購入しました。輸入版ですが5月末まで1,230円なり。とてもやさしいロマンティックなバラードが多く、何度も聴き直しています。

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ところが、グールド効果なのか屋根裏効果なのか、CDを2曲も聴かないうちにぐがーっと寝てしまった。はっと気付けば夕方でした。でも、気持ちよかった。

フォト日記風に書いてみました。さて、ビールでもいただきましょうか。今日はあいにくの曇り空ですが、もうすこしでビールがうまい季節になります。

投稿者: birdwing 日時: 17:01 | | トラックバック (0)

2009年4月 6日

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入学式というはじまりに想う。

東京のサクラは満開。3月から4月にかけて、あわただしく時間がすぎていきます。というのも、うちの子供たちは3月から4月にかけて卒業・入学ラッシュです。長男は小学校を卒業、中学へ。次男は幼稚園を卒業、小学校へ。さすがに4回も会社を午前半休するわけにはいかないので参加しなかったのですが、本日は次男の小学校の入学式に付き添って行ってきました。

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いい天気でした。グラウンドが眩しかった。青空に伸びるサクラの樹、はらはらと散るサクラの花びらがきれいでした。ハレーションを起こしたようにまばゆい校庭が、思いのほか広くみえました。家族のことを書くのは久しぶりなのですが、考えたことをすこしばかり書いておきます。

教育の荒廃とか、モンスターペアレンツとか、さまざまな問題が掲げられていますが、毎回、子供たちのイベントに参加して感じるのは、子供たちの歌声を聞いていると、こころが洗われるというか、ああ、この気持ちを信じていたいな、と感じることです。天使の歌声とまではいいませんが、子供たちが式で歌う合唱は、形容しがたい感覚を呼び覚ましてくれます。

かつてはぼくらもあんな子供たちであったという事実が、どうしても信じられません。物理的な変化があるからでしょう。たくさんの時間も過ぎています。それでも、こころのなかに残っている何かだけは信じられる。子供たちの歌を聞いていると、あどけない声がトリガーとなって忘れていた感覚がよみがえります。

しかしながら、楽しそうな顔の裏側で、進行している闇もあるかもしれません。存在しないことを祈るのですが、いじめなど、やりきれない気持ちを抱えている子供もいるかもしれないですね。子供=純真というステレオタイプな構図もどうかと思っていて、子供は基本的に意地悪な感情を持っているものであり、子供の社会にも子供なりの狡猾さや残虐さがある。けれどもそうした暗さも含めて、校舎のなかで過ごす数年間というものを大切にしてほしいな、と思いました。

たとえば合唱をする時間、運動をする時間など、社会に出てしまうとそんな機会はほとんどなくなってしまう。子供だからこそ体験できる時間があるはずであり、勉強はもちろん、その時期でしかできない体験をさせてあげることが学校の大切さかもしれないな、と。英語とか、パソコンとか、あまり特殊なことを早い時期からさせなくても、成長過程に必要な体験があると思います。

ところで、ふだん見慣れているとわからないのですが、たとえわが子であっても時間を分断して比較すると、赤ちゃんから小学校までの子供の成長には驚くべきものがあります。たとえば、生まれたばかりのときは、こんな後ろアタマだったのが・・・。

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小学校では、こんなになる。

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次男の後ろアタマは、どことなくやはりぼくに似ているようです。それから親のひいきめですが、大きな声で返事をしている次男に驚きました。長男はもじもじしていたからなあ。兄弟は似ているけれど違う。次男は堂々としていて頼もしい。

一方、頼もしく変わりつつある息子の背中を眺めながら自分を省みると、正直なところ父親であることはとても難しい。ここしばらく考えつづけてきて、やっと認めつつあるのですが、ある種の子供じみた思考を残したまま、ぼくは成長してしまったようです。だから大人であることを受け止める覚悟に欠けていました。また、遠くのものにこころを奪われて、こころはここにあらずという状況が長くつづいていたため、現実に関わっているという感覚、リアリティが希薄でした。遠くにある自分と、いまここにある自分の乖離にずっと苦しみつづけていたようです。

その認識の乖離をなんとかしようともがきつつ、あらためて思うのは、大人もまた成長の過程にあるということです。

大人に求められる成長は、背が伸びるように、知識を増やすように、上方に向けて伸張させたり広げる成長ではない、と考えました。自分にとって悪影響を与えている何かを切り捨てること、自分自身を辛くさせている執着や呪縛を解くこと。つまり自己を削ぎ落とすことも成長であると思います。ときには、身の程にあまる理想を却下することも成長かもしれません。人脈を増やしたり情報のキャパシティを広げたり、他者と競うようにして多くのものを得ることだけが成長ではない。孤独な状態に身を沈め、自分の尺度を確立し、深く自分の内部を鍛えていくことも成長です。

成熟ということばに置き換えることもできそうですが、大人も、そして親たちもそんな成長ができるといいのではないか、と思いました。という一般論はおこがましいですね。ぼくはそうありたいと願っています。

ある一点を記して、左側に線を引けば、その一点は終点であるかのようにみえます。一方で、その右側に線を引けば、始点であるかのようにみえる。もうおしまいだ、という状態は、実は右側の線を見すごしていて、右側に補助線を引けば、そこからはじまる未来もみえてくるかもしれません。

右側の未来の線をみるためには、左側の線をきちんと消すことも必要になる。もちろん過去はなくなりません。写真やテキストなどの記録は残り、何よりも脳内の記憶も決して消し去ることはできない。けれども、過去に囚われているばかりでは、はじまらないものもあります。

終わったものを清算し、はじまった未来に目を向けること。子供のころには卒業式や入学式という式典によって節目が提示されていて、リセットせざるを得ない状況にあったのですが、大人になったいま、自分でものごとの卒業(=終わり)や入学(=はじまり)を決めることが必要になるようです。自分の責任において終わりとはじまりを決めることができるのが大人であり、自立した思考ではないか、とも考えます。

投稿者: birdwing 日時: 23:36 | | トラックバック (0)

2009年2月 7日

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ハカイオーの創造。

創造のためには破壊が必要だといわれます。つまり既存のものを一度壊して、その上にまっさらな気持ちで新たなものを組み立てるべきである、と。しかしながらぼくは、そうかな?と疑問を抱きました。いくら破壊しても、こころのうちにいままで組み立てたものを引き摺ったままでは、新たな何かを創造できない。

過去の幻影が新たな創造の力を奪います。新しいものを!と意気込んでも、結局のところ過去に囚われていたなら、そのときの設計図を参照しながら似たような何かをつくってしまう。また、こころのなかに構築したものは、そう簡単に破壊できません。なぜなら、そいつを破壊することによって、自分のこころまで壊してしまうこともあるわけなので。

ただ、破壊できないことはいけないことなのか。破壊もいいけれど、いちど構築したものは大事にすべきじゃないかな、ということをぼくは考えています。

長い時間をかけて培ってきた何かを、ぞんざいにしない。組み立ててきたものをきっちりと大切にする。大切にした上で、あらたな気持ちに向かう。未練がましく拘るのではなくて。

たとえば、歴史はなかったことにできません。戦争が起こってしまった事実を消去できないし、そこで命を落としたひとびとを忘れ去ることはできないでしょう。

歴史のなかで繰り返されてきたよいことも反省すべきことも、帳消しにはできない。ぼくらの先輩たちの行いの反省を背負いつつ、よいところを継承して生きていく。ぼく自身の犯してきた過ちや罪にしっかりと目を向けて、その重みをしっかりと感じながら、それでも踏み出すことを諦めない。そんな姿勢が大事ではないかと考えています。

ところで、家族の話です。

おとなしめの長男くんに対して、DSだとかおもちゃだとか、あらゆるものを破壊しまくるのが次男くんです。以前には壊したものを写真に撮って、「ハカイオー。」というエントリも書きました。しかし、壊すだけではない。最近は自分で何かを作りはじめました。

たいてい机の上で何かを書いています。書いているかと思うと、ハサミやセロハンテープを使って何かを作りはじめます。あ、あれ作る、と思いつくと、たいていのものは作ってしまう。以前、型紙を切り抜いて工作する図鑑を買ってきて、さんざん作らされたせいかもしれません(そのときのエントリは、こちら「サカナのなかさ。」とかこちら「どうぶつを作る。」、あるいはこれも)。

最近作ったものから、ぼくのハンドルにちなんで、鳥を紹介しておきましょう。

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オナガだったか何だったか。なかなかよくできています。親の贔屓目ですけど。

今日は彼の幼稚園の発表会(展覧会)でした。快晴でものすごく天気はよかったのだけれど、風が少し寒い。ハカイオーが何を作ったのか、久し振りに彼の幼稚園に行ってきました。

いろんなものが展示されていて、かなり見所があったのですが、まずはアイスクリーム。粘土で作ったもののようです。

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アイスクリームの歌が模造紙で貼ってあって、王子様と王女様の大きな人形もありました。そのほかにも迷路があった。迷路の絵を描いたものを展示された場所が迷路になっている。そういえば、小学校の頃に、ダンボールで基地のようなものを作ったことがあり、それがとても楽しかったことを思い出しました。結局、雨に降られてぺちゃんこに潰れてしまったのだけれど。

おとうさん、というテーマで、それぞれの父親の絵を描いたものも展示されていました。どれどれ、息子からみたぼくはどんな顔で描かれているのだろう。

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うむー(困惑)。

毛がない・・・。ぼくは長髪(そして茶髪)なんですけどね、いちおう。なんかこんなキャラクター、マンガにあったなあ。4コママンガに出てきそう。まあ、目が大きいというのは黒目のぐりぐりでよく表現されていると思います。

自分の息子の作品はどうしても贔屓目でみてしまうのですが、他の子も上手でした。かつての某アイドルさんの子供も通っている幼稚園ですが、某アイドルさんも来ていました。

いろんなことを考えすぎたせいか朦朧として、日差しが眩しい一日でしたが、ハカイオーのクリエイティブなものに触れてなんとなく和みました。なぜかいつもより沈みがちな彼だったのだけれど、緊張していたのかもしれません。そんな1日も悪くないものでした。

凡庸であるぼくは、さまざまなカルチャーに対する憧れはあるけれど、いまひとつのめり込むことができません。生活や日常の周辺にあるさまざまな事柄から、文芸やテツガクにも近いテーマを抽出できればと考えています。

いろいろな葛藤があり、いまはまだ自分をきちんと究めることができていない状態です。ときどき、自分がほんとうに空っぽな人間のように思えて、何も考えられなくなる。深く落ち込みます。辛い時間を過ごしています。

それでも、ぼくは関わってきた過去とそのときに考えたことを編集こそするけれど消去したりしないし、苦悶した日々がどんなに薄汚れたものであっても、その過程を大事にしたい。そして、ネットや創作の閉ざされた暗い場所に逃げ込むのではなく、現実という明るい場所から、さまざまな困難を通じて自分の知見を見出していきたいと考えています。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年1月25日

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娘をシミュレーションする。

ぼくには音大を出ていまは専業主婦をやっている妹がいます。大学では音楽療法のようなものを専攻していたようで、サックスを吹いていた時期もありました。音楽教室の先生に就職したのち、音楽だけではいけないと思い立って大学の通信講座で図書館司書の資格を取ったこともありましたが、結局のところ母に落ち着きました。いまのところは、ですが。

母であるところの妹は(といっても、ぼくにはやはり妹は妹なのだけれど)、そこそこ幸せそうです。去年の暮れには、ふたりめの子供を出産。上の子も女の子なのですが、下の子も女の子です。娘がふたり。いいなあ。お年頃になったら大変そうですけどね。

残念ながら、うちは息子ふたりです。娘がほしかった・・・。

そんなぼくのぼやきにいつかブログでコメントをいただいたこともありましたが、子供の頃であれば朝の出がけに「いってらっしゃい」のちゅーを娘にしてもらうとか、パパちゅき・・・のようなバースデイカードをもらうとか、彼氏のことで喧嘩するとか(おとーさんはそんな男は許さないぞ。ああ言ってみたい。苦笑)、嫁いでいく娘を結婚式に送り出す父親の悲哀とか、そんな経験をしたいと思いました。

いや、しかしだめだ。特に最後の結婚式はいけません。きっと涙でぼろぼろになりそうな気がします。

ちなみに何かの本で読んだのですが、娘ができると、おとーさんは丸くなるらしい。やさしくなるそうです。そりゃそうですね、家のなかにコイビトのような存在がいるわけなので。といっても娘からすれば、親父うざい、あっちいけ、という感じなのかもしれませんが(苦笑)。

逆に息子を持った父親はワイルドになるとのこと。これもわかります。ある意味、息子はオトコとして競争相手なので、一種の敵です。敵と常に臨戦状態で暮らしているのだから、そりゃワイルドになる。最近は油断していると刺されちゃったりもしますから、しゃれになりません。たまにぼくも取っ組み合いの喧嘩をするのですが、なんとなく最近は負けそうです。すっかり弱ってしまったので。

娘がいないぼくにも、娘のいる人生をシミュレーションできるサイトがありました。ソニーのハンディカムのキャンペーンサイト「Cam with me」です。

■Cam with me
http://www.sony.jp/products/Consumer/handycam/camwithme/

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一部で盛り上がっているらしい。ブログパーツになっていたので、以下、貼り付けてみます。


「Cam with me」は娘の成長に合わせて、ビデオを撮る楽しみをシミュレーションできるサイトです。スタートボタンを押すと、ひとりの女の子が0歳から26歳まで大きくなっていきます。その途中で、赤いRECボタンを押すと、その年齢のシーンを擬似撮影できる。ストップを押すことで、画像を切り取ることができ、スクラップした画像は下に並んでいきます。そして、最後には連続して再生される。

女の子は最初、無邪気に笛を吹いていたりします。行進するようにして歩きながら、どんどん成長していきます。

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その後、彼氏ができたりして。

090124_cam3.JPG<

やがて高校や大学を卒業して、就職して・・・。

090124_cam4.JPGのサムネール画像

はうう。な、泣けた(涙)。ストーリーらしき筋はなくて、映像は何気ない日常のひとこまばかりです。でも、ふつーの日常の断片というのがいい。結婚式の最後に流れるスライドショーっぽい雰囲気がありますが、なんだかじーんとした。

実際にひとりの人間の成長を撮影して映像を編集して観賞するまでには、26年間という長い時間がかかります。このときやっぱり不安になるのは、メディアの問題です。うちも最初は8ミリビデオでしたが、その後にDVに買い換えました。8ミリビデオは壊れてしまったため、当時に撮影した映像は観ることができません。さらにDVDの時代もそろそろ終わりを告げようとしているらしい。ブルーレイディスクが主流になっていくようです。

将来的には、技術の進歩のもとに、せっかく映像というソースはあったとしてもハードウェアとして観ることができない環境になっている可能性もありますね。互換性、持続性をなんとかしてほしい。それこそインターネットの雲の向こう側に、半永久的に保存してくれるような場所があるといいのですが。

ソニーとしては、ライフストリーミングのサービスであるLife-Xなどと連携する試みだと思います。業績の大幅な下方修正が発表され、人員削減の嵐が吹き荒れるソニーですが、がんばってほしいなあ。

投稿者: birdwing 日時: 17:37 | | トラックバック (0)

2009年1月11日

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羊男の作り方。

ほとんどテレビを観ないのですが、最近は家に帰って家族が寝静まったリビングのソファにひとり座り込み、テレビを観るようになりました。えーと、インターネットのお引越しがいまだに終わっていないので、暇なのです(苦笑)。いやー、ほんとうに暇だ。暇だ暇だ暇だ。それにしても、ネットに接続しないおかげで早寝早起きになりました。時間がゆったりと流れます。ネットジャンキー気味の自分には、なんとなく日々が物足りないんですけどね。

そんなわけで暇をもてあまして、先日、日付変更線を越えるあたりの時間帯にNHKの韓国語講座をぼんやりと観ていたとき、面白い情報を得ました。

ドラマ形式のレッスンになっていて、とある家族のストーリーです。嫁いできた女性が体調を崩してしまう。すると息子の母親とお姉さんが彼女をサウナに連れて行って、元気づけてあげます。韓国風のサウナのことを韓国語で何といったか忘れましたが、みんながアタマに巻いているタオルが一風変わっていました。

それぞれの耳の横にボンボンみたいなものが付いています。なんだろうこれ?と思っていたら、その後、解説に加えて作り方を教えてくれました。「羊の頭」というそうです(韓国語は失念)。どうやらふつうのタオルで作ることができるらしい。作り方を覚えたので、写真つきで解説してみましょう。

①タオルを用意します。

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②3つに折ります。

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③端っこを内側から巻いていきます。

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④反対側も巻いていきます。

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⑤真ん中を開いてここに頭を入れます。

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というわけで、携帯電話のカメラで自分撮りですが、被ってみました。

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次男くんにもかぶせてみた。似合うようです。

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DSに夢中になっている長男くんにもかぶせてみました。どうやら気に入ったらしく、眠るまでずーっとかぶっていました。

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インドではターバンの巻き方に特長があります。あの巻き方をすれば、ああインド人だね、というように即席インド人になれます。被り物にもそれぞれの国の文化があるようですね。といっても、この「羊の頭」はサウナができた後に生まれたものだと思うので、遠い昔から伝統があったわけではなく、最近生まれたものではないでしょうか。サウナに入っているみんなが羊の頭を被っている光景を想像すると、おかしい。とはいえ主として女性向け、あるいは子供向けという気がします。いい年をした男性が被ると、どこか不気味だ(苦笑)。

羊の頭で思い出したのですが、村上春樹さんの初期の小説では、特長的なキャラクターとして羊男が出てきます。確か着ぐるみの羊だったような気がして気になって調べてみたところ、こんな挿絵が掲載されていました。

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これは「羊をめぐる冒険」のなかに出てくる挿絵です。ぼくが持っているのはハードカバーで、1983年3月10日の第5刷ですが、P.335に掲載されています。

4062002418羊をめぐる冒険
村上 春樹
講談社 1982-10

by G-Tools

「羊をめぐる冒険」といえば、いまは亡き親父が群像を定期購読していて、雑誌に書き下ろしで掲載されていたこの小説をひと晩で読み終えて、「面白いからおまえも読んでみろ」とすすめられたことを覚えています。いま思うと、村上春樹を息子にすすめる親父は、かなり頭がやわらかかったのかもしれない(羊毛なみに)。とっつきにくい親父で、頑固だとばかり思っていたんですけどね。

小説から、羊男の容姿について描写された部分を引用してみます(P.336)。

羊男は頭からすっぽりと羊の皮をかぶっていた。彼のずんぐりとした体つきはその衣装にぴったりとあっていた。腕と脚の部分はつぎたされた作りものだった。頭部を覆うフードもやはり作りものだったが、そのてっぺんについた二本のくるくると巻いた角は本物だった。フードの両側には針金で形をつけたらしい平べったいふたつの耳が水平につきだしていた。頭の上半分を覆った皮マスクと手袋と靴下はお揃いの黒だった。衣装の首から股にかけてジッパーがついていて簡単に着脱できるようになっていた。

あらためて引用すると、さすが村上春樹さん。文章がとてもうまい。などと書くのは大変失礼ですが、描写の正確さといい、何を描写して何を描写しないかという取捨選択といい、ひらがなと漢字の配分といい、まいりました。昔の作品をいま読み直してみると、別の発見があるかもしれません。

引越しにともなって本を整理したのですが、村上春樹さんの小説が(ほとんどハードカバーで)ほぼ全作品出てきたのでびっくりしました。彼の作品だけピックアップして本の山を作ってみたのだけれど、他の誰よりも高くなりました。こんなに読んでいたのか。

とはいえ、80年代に学生だった世代にとっては、村上作品を読むことはひとつのステイタスだったような気がします。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」も物語が終わってしまうのを残念に思いながら、一気にひと晩で読み終えたっけなあ。

「羊をめぐる冒険」のように作り込んだ完璧な羊男になるのは手間がかかりますが、インスタントな羊男になってみたい方は、韓国風の「羊の頭」をぜひお試しください。

投稿者: birdwing 日時: 14:56 | | コメント (4) | トラックバック (0)