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2009年1月 2日

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初夢、そして夕焼け。

2日といえば初夢。縁起のいい夢は、「一富士、二鷹、三茄子」などといわれています。しかし、なすびの夢ってみることがあるのだろうか。ぼくはみたことがありません。三番目の茄子を狙って夢をみるほうが難しい気もします。

鷹がなすびをくわえて富士山の上空を飛んでいくような夢をみることができたらとてもいいことがありそうですが、そう都合よく夢はみれないものでしょう。また、合成された作りもののような夢では、ご利益がなさそうです。

ちょっと余談になるのだけれど、「合成された」で思い出したのが、去年公開されたウルトラマンの映画でした。

時間がなくて観にいくことができませんでしたが、この映画に出てきたギガキマイラという怪獣が次男くんのお気に入りで、人形を買ってあげました。箱入りで3000円もする豪華な人形でした。とはいえ、こいつがなんとも困惑するような怪獣で、ゲスラ、ヒッポリト星人など、往年のウルトラマンシリーズに出てきた怪獣を無理やり合体させています。これです。


B001F4PCQ2ウルトラ怪獣シリーズ2008MOVIE ギガキマイラ
バンダイ 2008-10-11

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パパには気持ち悪いだけだぞ、これ(苦笑)。

親たちの世代に向けて、ああ、懐かしいなというノスタルジーを誘う戦略かもしれないのですが、ただ寄せ集めればよいというものでもないだろうという感じ。なんだかとっても投げやりです。新しい怪獣をデザインする予算がなかったのか、と思わず円谷プロのお財布事情が気になります。経営に苦戦している、ということもどこかで聞いた覚えがありますが大丈夫でしょうか。ウルトラマンシリーズは子供に夢を与えるものだけに、頑張ってほしいと思います。

さて、よい夢がみられるように祈りつつ眠ったのですが、昨夜2度ほど夢をみました。それがどうにも首を傾げるような夢でした。こんな感じです。

■第1弾
電車に乗ってどこかの駅で降りる。JAZZバーが密集したようなところで店を探して歩く。ピアノの音色が低音のスタッカートで聴こえる。加山雄三がユニゾンして歌っている。環境についての話を聞く。内容は思い出せない。

■第2弾
鳥の丸焼きがテーブルの上に乗っている。羽の部分が黒くなっていて、食べるとちょっと気持ち悪くなる。

うーむ、よくわかりません(苦笑)。鳥系のハンドルを使っているぼくとしては、2番目の夢は共食いにも思えるのですが・・・。

このところあまりみないのですが、カラーの夢も一時期よくみました。一方で最近は音を聴く夢が多いですね。DTMをぱたっとやめてしまって音楽といえばラジオでFM(あるいは古いCD)ばかり聴いているので、音的な欲求が高まっているのかもしれません。加山雄三が出てくるのは意味不明ですが、ひょっとしたら過去の映像と合成しているパチンコか何かのCMをテレビで観たせいかもしれない。

家のなかで1日まったりと過ごしてしまったので、夕方、さっそく本屋を散策しながらふと気付くと、すばらしい夕焼けでした。電車の高架の向こうに富士山がみえました。きれいだなーということで、東京から富士を望む夕焼けをデジカメで撮影してみました。

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望遠レンズのついているカメラではなく、チープなデジカメのため分かりにくいかもしれませんが、夕焼けのいちばん向こう側にちょこっとだけ富士山があります。夢ではみることができなかったけれど、現実の富士山を眺めることができて、少し得した気分です。

みなさんにも、ご利益がありますように。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2008年12月20日

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引越しの顛末と来年の展望。

思えば学生時代から、歩いて移動できる半径数キロの距離でちょこちょこ引っ越してきました。そして、このたび11年間ばかり暮らした住処を引き払って、新しい家に移ることになりました。これもまた歩いて移動できる場所なのですが、よほどこの街に縁があるのでしょうか。気分的には都心を離れて海辺のほうへ引っ越したいのですが。

というわけで引越し準備のために、てんてこまいな毎日です。いろんなものを捨てましたが、こんなものも捨てました。

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高校時代に友人からもらった通信販売のストラトキャスターです。これがまた柔軟なギターで、弾いているとペグ(糸まき)が緩んで、どんどん音程が低くなるのでした。ちなみに隣りにあるのは、社会人バンドで録音したテープを食ったまま吐き出せなくなって、壊れて放置していたカセットデッキです。カセットテープはいま、ほとんど使わなくなりましたね(遠い目)。

■書物を所有する意義、楔的体験のすすめ。

とにかく溜まりに溜まった本を処分しまくりました。資源ゴミの日に廃棄したり、デイバックに詰めて売りに行ったり。かつての3分の1の量にスリム化したと思うのですが、2000年どころか1980年代の雑誌までご丁寧に持っていて、まるでタイムカプセルをひっくり返したようなありさまです。本と書類関連だけで全部で29梱包のダンボールが完成しています。まだ少しばかり増える予定です。どうしたものか(困惑)。

081220_konpo.JPGぼくは書店のブックカバーをかけるタイプなので、余計に面倒ですね。一冊ずつカバー剥きに時間を費やし、ああこんな本買っていたっけと驚き、ちょっと読んでみたり。剥いたカバーのゴミだけで大きなポリ袋が3つばかりできました。地球にやさしくありません。しかし、このカバーのおかげで書籍が最良の状態に保たれていて、かなり高い値段で古本屋に売ることができました。

つらつらと考えてみるに、本を所有している意味は何でしょうか。大量の印刷物のオーナーになっている意義はあるのか、と。

情報だけあれば紙媒体である必要はなく、テキストデータで読めばいい。お金を節約するのであれば、図書館で借りてくればいい。場所は取るし、お金もかかる書籍をなぜ購入するのか。

私的な要因に思いを馳せると、育った環境の影響が大きいと思います。ぼくの父は国語の教師だったのですが、自分の書斎ならびに廊下に文学全集をずらりと並べていました。なので、その光景を当たり前に眺めながらぼくは育ったわけです。無意識のうちに、そんな父と書斎をかっこいいなあ、と憧れていたのかもしれません。全集の壁があることが父親の部屋の一般的な風景だと思っていたのですが、そうではないことを知ったのは、かなり成長した後のことでした。世のなかのおとーさんには書斎を持っていないひともたくさんいるのだ、と。

場所を取るし、お金もかかるし、本を所有することはとんでもない無駄です。でも、ぼくはその無駄がいとおしい。

すぐれた装丁のデザインにも惹かれるし、本を開いたときの紙とインクのにおい(知人に借りた本の場合は、そのひとの部屋のにおいがすることもある)、ページをめくるときの音。そして何よりも書店を徘徊しながら気になった本をぱらぱらとめくって選ぶときの気持ち。そういうものを全部含めて、本に対価を支払っている気がします。CDも同様です。ダウンロード販売は確かに便利だけれど、ショップで試聴して、ジャケットを手にとって眺めて購入を決めて、レジでビニールの袋に入れてもらって・・・という「無駄」な時間が結構大事だったりする。

しかしばっさばっさと処分して思ったのは、本はなくてもぜんぜん問題ないということでした(笑)。捨てると惜しいな、と感じているものであっても、潔くえいっと捨ててしまうと結構すっきりする。

そこで少しばかりテツガク的な思考に入ってしまったのだけれど、ぼくらは死んでしまえば何も残らないですよね。親父は大量の文学全集を残してくれたけれど、田舎にそのまま残されてカビていくだけで、息子であるところのぼくは、ほとんどめくったこともありません。書物ではなくネットの情報であっても、いくら大量の情報に目を通して、たくさんのひとたちとリンクでつながったとしても、人生をスルーしていくだけの通過物として関係していたならば何も残らない。

むしろ、辛かったとしても楽しかったとしても、こころに楔を打ち込むようなたったひとつの体験にこそ、人生の価値が集約されているのではないか。頻繁に会える恋人よりも、簡単に会えない遠距離の恋人のほうが想いが募るものです。そして、だからこそ会うことのできる逢瀬の短い時間が何よりも濃厚で尊い(のではないかな。どうでしょう。苦笑)。

これはぼくのちっぽけな生活に根ざしている所感ですが、その所感というインサイト(洞察)に、経済や社会やビジネスの機会につながる"しっぽ"が隠されているかもしれません。そんなしっぽをずるずると引っ張ること。ぼくはブログでそんな試行錯誤を繰り返していきたいと考えています。そんなしっぽ探しから、新しい生活のためのヒントを探っていけるといいですね。

■ソライロの人生、そして。

ところで、あわただしい毎日に忙殺されて公開できずに下書きにしたままの原稿がいくつかあるのですが、そのうちのひとつで、ソライロの人生を歩んでみたい・・・という、ポエムな一文がありました。こりゃ恥ずかしいなーと思って、公開を踏みとどまっていたのですが、自分で自分の未公開エントリの冒頭を引用してみます。

自称・空の風景写真家であり、鳥の羽(BirdWing)というハンドルを使っていて、さらに空をテーマとした曲を趣味のDTMで作ることが多いせいか、最近、空に関係するあれこれに注目するようになりました。

いっそのことソライロの人生を歩んでみたい。薔薇色ではなくてソライロの人生です。どういう人生かというと、地上の生活を包み込んではてしなく広がり、ときには雨を降らしたりしながらも、ずっとそこにある。見上げなければ存在感はないのだけれど、ときどき夕焼けで赤く染まって、明日は晴れだと未来への希望を提示したりもする。そんなイメージでしょうか。

このあと、空に関連するものとして紙飛行機をあげ、かつて息子の夏休みの自由研究で紙飛行機を取り上げたこと、宇宙に紙飛行機をとばす計画があったのですが、飛ばしそこねると人工衛星を破壊したり宇宙のゴミになるので断念した、という記事を取り上げたりしていました。

そんなことを考えつつ空を眺めていたら、すーっと二本の飛行機雲が青空にレールのような線を引いていました。ケータイで撮影した写真を掲載してみます。

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飛行機雲といって思い出す音楽は、荒井由実(松任谷由実)さんの曲でしょうか。化粧が濃すぎるせいか顔が怖いのですが(苦笑)、YouTubeから映像を引用してみます。かなしい歌なのだけれど、明るく透明なメロディがせつない。1982年のライブのようです。

今度の新しい家は、家を建てたひとのこだわりなのか、首を傾げるような造りの箇所が多いのですが(無駄に広い納戸とか、逆に上半分は壁になっていて狭すぎる中途半端な押入れとか)、2階以上の建築ができない住居地区で可能な限り広く使おうとしたため、地下室と屋根裏部屋があります。屋根裏部屋なのですが、空に向かって、はめ殺しの窓があるんですよね。

実は夏に下見をしたときには、この部屋はむんむん暑くなっていて、温室か!ここは!という感じだったのですが、リフォームが終わって入ってみると、この時期には快適でした。何よりも青空を眺めることができます。休日にはこの狭い隠れ家のような場所で、ひとりで空を眺めながらビールを飲んでいる自分が容易に想像できます。

081220_genkan.JPG家全体は屋根が斜めになっているせいか、どこか教会のような趣きがあります。これもまた建てたひとのこだわりかもしれません。玄関にはステンドグラス風の窓ガラスがあって、おおきな3つの照明が下がっています。こんな感じ(写真はリフォーム前なので、ひとつ電球が壊れていますが)。

というわけで、新しい家で来年からはまたブログを書いていきたいと思うのですが、書く環境が変わると文体やテーマも変わってしまうかもしれません(あるいは、そのままかも)。インターネットの回線も本日外してしまうので、しばらくは更新できないかと思います。うーむ、ネットができないと禁断症状になりそうで怖い(苦笑)。

クリスマス、大晦日、お正月と、イベントと節目の時期にブログが書けないのは心苦しいのですが、落ち着いたところで書きはじめますので、拙い文章ですがまた読んでくださいね。検索エンジンから新しく訪問いただいている方も多いようですが、気が向いたらコメントなどいただけるとうれしいです。ひょっとしたらネットカフェからコメントの返信をするかもしれません。

では、一年間ありがとうございました!
よいクリスマス&大晦日&お正月を。来年もよろしくお願いいたします。

投稿者: birdwing 日時: 01:06 | | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年10月27日

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父に帰る。

しばらくのあいだ父親をサボっておりました。どうしても父親になりきれなかった。ごめんな、息子たち。パパは自分のことでせいいっぱいだったよ。きみたちのことを考えている余裕がなかった。

世のなかのおとーさんたちはどうやって、やりきれない気持ちに折り合いを付けているのだろう。子供ができれば必然的に親としての責任を果たさなければならないのだけれど、だからといって親になれるとは限らないものです。親の責任を果たすことと、きちんと親になることはまったく違う。

アウトドア志向でキャンプに連れて行ったり、休日にドライブしたり。そんな100点満点のパパがうらやましい。ぼくもできる限りよき父親であろうとしたのだけれど、正直に告白するのですが、父親失格でした。見栄を張るつもりもないし、あえて正直に書きます。ここ数ヶ月のぼくは、父親を放棄していたと思う。

子供たちのイベントには毎年のように皆勤賞の出席だったのに、今年は長男の最後の小学校の運動会、次男の最後の幼稚園の運動会にも、ぼくは参加しませんでした。体調がすぐれずに寝込んでいた、ということはある。でも言い訳にすぎない。ボイコットしたのだ、ぼくは。父親であることを。

罪悪感のせいから、というわけではないのですが、土曜日、久し振りに次男くんを連れて、ふたりで新宿でデートしてきました。母親が忙しかったので、どうせならふたりで玩具でも見にいこうか(長男くんは、ぼくはいいよ、とのこと)・・・と言ったら、思いのほかに、ぶんぶん縦に首を振られてしまった。数日前から、パパと新宿に行くんだよね、ぜったいだよね、何買おうかな、ということばかり話していたらしい。それじゃあ、行かなきゃな、と思いました。でも、考えてみると次男くんとふたりだけで出掛けるのは、ほとんどはじめてのようなものです。

あらためて次男くんと向い合うとき、ぼくは一抹の不安を感じずにはいられません。彼の脳の働きを心配してしまう。細菌性髄膜炎という病気で入院したのが、今年の夏のはじめ(エントリーはこちら)、ラッキーボーイの彼は奇跡的に健康を取り戻すことができたのだけれど、気のせいか、どうも話す言葉がたどたどしい。考え込むことが多いし、じーっと上を向いて話すこともある。なんだか以前のように歯切れがない。

やっぱりどこか脳に後遺症が残ってしまったのではないか、と思う。失礼な実家のぼくの母は、以前から知恵遅れのようだったよ、話す言葉が幼稚だった、おまえがきちんと教えないからだ、などと気遣いもなくぼくを責めたのだけれど、馬鹿らしいと笑い飛ばすこともできなくて、ぼくは心配になる。きみの笑顔は、なんだか以前とは変わってしまった気がする。以前はもっと利発そうに笑っていたのではなかったか。薄ら笑いのようなそんな表情じゃなかったのではないか。きみの脳は炎症を起こして壊れてしまったのだろうか。

けれども、壊れてしまったのはきみだけじゃなかったのだ。

きみがうつろな目をして病室で細菌性髄膜炎と闘っていた後半あたり、ぼくと相方、ぼくと実家の母、ぼくと相方の家族と、きみを取り巻くさまざまな関係が、どうしようもなく壊れてしまった。そんなことをここで晒すわけにはいかないからこれ以上は書かないけれど、ある夜、ひどい口論を聞いて長男くんは大声で泣いたことがあった。あの静かな長男くんが声をあげて泣くほど、ぼくらの家族は、そのときに壊れてしまっていた。きみの繊細なお兄さんは、そのことを敏感に感じ取ったのだろうね。かわいそうに。

そうして一見、しあわせそうだけれど残骸のようないまがあります。ぼくは給料を運ぶために、ここにいる。途方もない借りを返済するためだけに。放棄することもできない。皮肉に自分を嗤うだけでしかない。

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土曜日、次男くんと久し振りに手をつないで歩きました。なんだかしめぼったい。緊張すると汗をかくんだね。父親に緊張しているのか。まあそれもそうだろうな。久し振りだもんね。そうやって新宿で、ウルトラマンの怪獣の人形を2体買いました(にいちゃんにはカードデッキ)。あと2体ほしかったらしいのだけれど、えーもういいよう、今度にしよう、とぼくが言ったら、あっさりと、うん、そうする、と引き下がった。欲しいもののために駄々をこねることがなくて、父としては少し残念だったりします。もっと困らせればいいのに、ふがいのない父を。

手をつないで・・・ということで思い出したのだけれど、ぼくが父と最後に手をつないだのは、父が脳梗塞で倒れた病室でした。

家族が揃うまでクスリで延命されている状態で(つまり家族が揃えばもうこの世から消えてしまう瀬戸際で)、クスリのためか手はぱんぱんに膨れていた。その手を握りながら、ぼくは父であることを、ぼくの父親からバトンタッチしたつもりでした。しかし、バトンタッチできていたのだろうか。

ところで、以前にもどこかのエントリーに書いて、未公開の海に沈めてしまったのかもしれないけれど、教師でカタブツの父から、ある日とつぜん、若い頃の告白を聞いたことがありました。

いつだとは聞かなかったけれど、若い頃の父には好きな女性がいて、彼女が住む遠い街まで一緒に電車に乗って送っていったことがある、とのこと。うえええ、どうしちゃったの親父?(苦笑)という感じで、唐突にはじまった告白に息子であるぼくは困惑するしかなかったのだけれど(ほんとうにぼくらはそういう話を一度もしたことがない)、一方でなんだか大人の秘密を共有したような、うれしい気持ちだったことも確かです。おふくろには悪いけどね。

電車に揺られながら、次の駅名を必死で考えている次男くんをぼんやり見つめつつ、パパには大好きな女の子がいたんだよ、いっしょうわすれられないこいをしたんだ、しあわせだったなあ、ママじゃないけどね、と、そんなことを言いたい衝動に駆られて、5歳児にそんなこと言ってもいかがなものか、と思ってやめました。まだ、きみには早すぎる。お酒を飲めるぐらいになったらともに語ろう。

そんな風に時代は繰り返されるものかもしれません。悩んだり迷ったりしながら、やっぱりぼくは父に帰る。きみたちがいるのだから、父親であらねば。ぼろぼろになって疲れ果てて、給料を運ぶだけの存在であっても、父親であることに覚悟を決めなくては。

そういえば、27日は亡くなった父の誕生日でした(ええと・・・確か)。そっちはどうかな。こっちもいろいろだよ(苦笑)。

おめでとう。そして安らかに。

投稿者: birdwing 日時: 23:54 | | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年8月15日

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楽しかったね。

日曜日にポケモンの映画を観に行ってきたのですが、翌日から長男くんは38度の熱を出して寝込んでしまいました。ところが熱が下がった14日になっても、なんだかテンションが低い。元気がなく、ぼんやりと寝転んでばかりいます。

「どうしたんだ?」と訊いてみたところ、「なんでもない・・・」とのこと。

その元気のなさは、なんでもないことはないだろうと追及すると、しぶしぶ話し出したのは、DSのゲームカセット一式を入れたケースが見つからないらしい。8本のソフトが入っていて、デュエルモンスターやマリオなど、いままで購入したものは全部そこに入れていたそうです。「映画から帰ってきて、デュエルのダウンロードしたのになあ・・・」と呟いている。

「そういうときはさあ、考えていても仕方ないんだよ、身体を動かして探せーっ」ということで部屋を片っ端から探したのだけれど、みつからない。どこにもない。「ほんとに映画から帰ってきて家でダウンロードしたの?」と訊いてみると、「ぜったいにダウンロードしたんだよ」とのこと。けれども探しても探しても出てこない。もう一度訊いてみると「うーん、どうだっけかなあ・・・」と自信がなくなっている。

こういうとき、ひとは得てして希望のある方へ現実を捻じ曲げてしまうものです。見つかってほしい、という気持ちが曖昧な記憶から確かな虚像を作り上げてしまう。帰ってきてダウンロードした(はずだ)から、ぜったいにケースは家にある(はずだ)という現実を作り上げる。想像ですが、きっと映画館に置き忘れてきてしまったのだと思います。というわけで、映画館に電話をしてあげようとするのだけれど、つながらない。

ところが、ぼくに発破をかけられて部屋中を探していると、にいちゃん(長男くん)の背筋もぴしっとしてきて、声が出るようになってきました。結局みつからないので、昼ご飯を食べることにしたのですが、実はおとーさんであるぼくも月曜日にPasmo定期券(10月まで)を紛失したばかりで、さらに体調も悪く、ついてない親子だなあ(苦笑)、家族は運勢的にも似るものかなあ、と思わず痛感。

「なくなっちゃったときはさ、考えていても仕方ないんだよ。早いうちに動くこと。誰かが取っていてくれるかもしれないし、やるべきことをやると気も紛れる。あとは気持ちの切り替えが大事だね。いつまでもくよくよしていないこと」などと、冷やしたぬきそばを啜りながらにいちゃんに話していたのですが、叱りそうになってしまう気持ちをぐっと堪えました。こういうときにぼくは感情的になりがちで、すぐに怒ってしまう。それがいけない。ただでさえ落ち込んでいるのに、さらに追い討ちかけちゃだめですね。なんて声をかけようといろいろと考えたあと、ぽつりと言ってみました。

「でもさ・・・なくなっちゃったけど、楽しかったんだろ?」

うん、と頷く。しかしですね、なぜかここで、とーさんであるぼくのほうが思わず涙ぐみそうになった(困惑)。なんだか感傷的になってしまった。

絶対的だ永遠だと信じていても、いつの間にか紛失してしまったり、失われてしまうものがあります。失われてしまっても、心のなかにある楽しさやイメージは残っているのだけれど、モノがなければ褪せていくばかりです。記憶の中に残ったデータは新しく書き換えられることもなければ、もう一度リセットして最初からやり直すこともできません。テキストや映像にして過去を残すことはできるけれど、現在の残滓であるところの過去は、どこか現実とは切り離された別の世界です。

などという理屈っぽいことはともかく、「でもさ、楽しかったんだろ?」という自分の言葉でまいってしまったのですが、きっと長男くんの人生には、これからそういうことが何度もあるのではないかな。また、おとーさんの人生も、実はそういうことの繰り返しなのだ。大きな何かを得れば得るほど、失うときの喪失感も大きくなるものです。人生に安定などあり得ない。人生は何かを損なっていくことの連続のようなものです。

とはいえ、楽しかったね、だからいいよね、と呟くことにしよう。

かなり昔にもDSのカードを引っこ抜いてしまい、それまでこつこつと遊んでいたデータが全部消えて、長男くんがしおしおと一日泣いていたことがありました。いまの中学生は、ケータイに保存されたメッセージやアドレスが消えると悲しみに打ちひしがれて立ち直れない子供も多いようです。現在(いま)を残そうとする気持ちは大事だけれど、固執すると辛くなる。でも、固執するよなあ。固執するなというほうが無理だと思う。現在の世界を永遠に残したい欲求や衝動から、文学やカメラや映像の技術も発展したのではないでしょうか。

ゲームソフト8本といえば、金額にして4万円ぐらいになります。しかし、単純に価格だけで済むものではなく、遊びに費やした膨大な時間も付加される。だから、その損失は金額に換算できるものではないし、代替可能というわけでもない。

けれども、多くのものは最後には失われてしまうものです。苦しみ、悩み、せつなく思う現在の自分でさえ、最期には失われてしまう。あらゆるものは消えてしまう。

「もし、1本だけ戻ってきたとしたら何が戻ってきてほしい?」

そう訊いてみると、「デュエルかな」とのこと。やはり、最新のゲームがまだ心残りなのでしょう。いま、とーさんは自分の小遣いをちょっとはたいて、その1本だけ知らぬ顔で買ってあげようかどうしようか迷い中。とはいえ、自分でゲットしてやるぜ!ぐらいの勢いがあるとうれしいのですが。

日常のひとこまから、そんなことを考えています。

投稿者: birdwing 日時: 22:57 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月 3日

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どうぶつを作る。

立体的な造形に関心のあるうちの息子の次男くんですが、先日、入院したときの退院祝いとして立体クラフトのさかなの本を買ったことがあり、「サカナのなかさ。」というエントリで書いたことがありました。実は、あれから以降というものの、朝起きるとあれ作ってこれ作ってという始末で大変です。小学館のクラフトぶっくはシリーズ化されていて、結局のところせがまれて次の2冊も購入しました。

409734661Xりったい昆虫館 (小学館の図鑑NEOのクラフトぶっく)
神谷 正徳
小学館 2005-04

by G-Tools
4097346687りったいお花館 (小学館の図鑑NEOのクラフトぶっく)
神谷 正徳
小学館 2008-07

by G-Tools

感想としては、さかな館がいちばんよかった。昆虫館は懲りすぎというか、作るのが難しい。糊で止めなければならない箇所が多く、またうまく立体にならない。さらに子供たちにとっては飾って観賞するよりも、それを使って戦ったり動かしたりするので、壊れてしまうことが多いようです。

一方で、お花館の方は地味です(苦笑)。花なので当然なのですが、たぶん出版社の立場から考えると、男の子向けのクラフトが多いので女の子市場を開拓するために作られたのでしょう。しかしながら、やはり作者が男性だからか、なんとなくクラフトに乗り気がしない感が漂っています。造形自体もダイナミックな展開がないので、息子も飽きてしまいました。

そこで続いて買ったのが、どうぶつ館です。これは結構イケテル。

4097346628りったいどうぶつ館 (小学館の図鑑NEOのクラフトぶっく)
神谷 正徳
小学館 2005-11

by G-Tools

さっそく今日、2つの動物を作らされてしまいました。まずは、キリン。

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キリンは立って寝るんでしたっけ。動物園のキリンは、ぐるりと首を回して自分の首を枕にして眠っていたような気もします。鳥は枝で編んだ巣のなかで寝ますね。人間であるところのぼくは、眠れない夜に途方もなく長いエントリを書いたりDTMで曲を作ったりしています。

そして次にライオン。

080803_lion_re.jpg

たてがみがどう表現されるのかな、と思っていたのですが、マンガ風にぎざぎざで表現するよりも、このカタチのほうがリアリティがあります。さすがクラフトの達人だけあります。

この2体だけで勘弁してもらったのですが、次男くん自体も、自分でコオロギとか作りはじめています。なんとなく立体クラフトではなくて、平面的なところがおかしい。しかし、紙という平面図に書かれたものが立体になるという過程は、大人であるぼくにも新鮮な印象がありました。その究極のクリエイティブが折り紙ではないかと思うのですが、折り紙は身近なアートでありながら数学的な思考やセンスが要求されます。

数学的な思考やセンスに欠けるぼくは、ただ図面としてあるものを組み立てるだけです。しかしながら、真っ白な画用紙から何かを創造することはきっと楽しい。

実はDTMもそうですが、難しいという先入観を捨てて一歩踏み出してみると、ぱあっと創造の地平が広がる。その広さが逆に怖かったりもするのだけれど、特に次男くんは、そういうセンスを広げて創造性の大地の開拓者になってほしいものだと思いました。それよりまず第一に、健康であってほしいんですけどね。

投稿者: birdwing 日時: 23:35 | | コメント (2) | トラックバック (0)