思えば学生時代から、歩いて移動できる半径数キロの距離でちょこちょこ引っ越してきました。そして、このたび11年間ばかり暮らした住処を引き払って、新しい家に移ることになりました。これもまた歩いて移動できる場所なのですが、よほどこの街に縁があるのでしょうか。気分的には都心を離れて海辺のほうへ引っ越したいのですが。
というわけで引越し準備のために、てんてこまいな毎日です。いろんなものを捨てましたが、こんなものも捨てました。
高校時代に友人からもらった通信販売のストラトキャスターです。これがまた柔軟なギターで、弾いているとペグ(糸まき)が緩んで、どんどん音程が低くなるのでした。ちなみに隣りにあるのは、社会人バンドで録音したテープを食ったまま吐き出せなくなって、壊れて放置していたカセットデッキです。カセットテープはいま、ほとんど使わなくなりましたね(遠い目)。
■書物を所有する意義、楔的体験のすすめ。
とにかく溜まりに溜まった本を処分しまくりました。資源ゴミの日に廃棄したり、デイバックに詰めて売りに行ったり。かつての3分の1の量にスリム化したと思うのですが、2000年どころか1980年代の雑誌までご丁寧に持っていて、まるでタイムカプセルをひっくり返したようなありさまです。本と書類関連だけで全部で29梱包のダンボールが完成しています。まだ少しばかり増える予定です。どうしたものか(困惑)。
ぼくは書店のブックカバーをかけるタイプなので、余計に面倒ですね。一冊ずつカバー剥きに時間を費やし、ああこんな本買っていたっけと驚き、ちょっと読んでみたり。剥いたカバーのゴミだけで大きなポリ袋が3つばかりできました。地球にやさしくありません。しかし、このカバーのおかげで書籍が最良の状態に保たれていて、かなり高い値段で古本屋に売ることができました。
つらつらと考えてみるに、本を所有している意味は何でしょうか。大量の印刷物のオーナーになっている意義はあるのか、と。
情報だけあれば紙媒体である必要はなく、テキストデータで読めばいい。お金を節約するのであれば、図書館で借りてくればいい。場所は取るし、お金もかかる書籍をなぜ購入するのか。
私的な要因に思いを馳せると、育った環境の影響が大きいと思います。ぼくの父は国語の教師だったのですが、自分の書斎ならびに廊下に文学全集をずらりと並べていました。なので、その光景を当たり前に眺めながらぼくは育ったわけです。無意識のうちに、そんな父と書斎をかっこいいなあ、と憧れていたのかもしれません。全集の壁があることが父親の部屋の一般的な風景だと思っていたのですが、そうではないことを知ったのは、かなり成長した後のことでした。世のなかのおとーさんには書斎を持っていないひともたくさんいるのだ、と。
場所を取るし、お金もかかるし、本を所有することはとんでもない無駄です。でも、ぼくはその無駄がいとおしい。
すぐれた装丁のデザインにも惹かれるし、本を開いたときの紙とインクのにおい(知人に借りた本の場合は、そのひとの部屋のにおいがすることもある)、ページをめくるときの音。そして何よりも書店を徘徊しながら気になった本をぱらぱらとめくって選ぶときの気持ち。そういうものを全部含めて、本に対価を支払っている気がします。CDも同様です。ダウンロード販売は確かに便利だけれど、ショップで試聴して、ジャケットを手にとって眺めて購入を決めて、レジでビニールの袋に入れてもらって・・・という「無駄」な時間が結構大事だったりする。
しかしばっさばっさと処分して思ったのは、本はなくてもぜんぜん問題ないということでした(笑)。捨てると惜しいな、と感じているものであっても、潔くえいっと捨ててしまうと結構すっきりする。
そこで少しばかりテツガク的な思考に入ってしまったのだけれど、ぼくらは死んでしまえば何も残らないですよね。親父は大量の文学全集を残してくれたけれど、田舎にそのまま残されてカビていくだけで、息子であるところのぼくは、ほとんどめくったこともありません。書物ではなくネットの情報であっても、いくら大量の情報に目を通して、たくさんのひとたちとリンクでつながったとしても、人生をスルーしていくだけの通過物として関係していたならば何も残らない。
むしろ、辛かったとしても楽しかったとしても、こころに楔を打ち込むようなたったひとつの体験にこそ、人生の価値が集約されているのではないか。頻繁に会える恋人よりも、簡単に会えない遠距離の恋人のほうが想いが募るものです。そして、だからこそ会うことのできる逢瀬の短い時間が何よりも濃厚で尊い(のではないかな。どうでしょう。苦笑)。
これはぼくのちっぽけな生活に根ざしている所感ですが、その所感というインサイト(洞察)に、経済や社会やビジネスの機会につながる"しっぽ"が隠されているかもしれません。そんなしっぽをずるずると引っ張ること。ぼくはブログでそんな試行錯誤を繰り返していきたいと考えています。そんなしっぽ探しから、新しい生活のためのヒントを探っていけるといいですね。
■ソライロの人生、そして。
ところで、あわただしい毎日に忙殺されて公開できずに下書きにしたままの原稿がいくつかあるのですが、そのうちのひとつで、ソライロの人生を歩んでみたい・・・という、ポエムな一文がありました。こりゃ恥ずかしいなーと思って、公開を踏みとどまっていたのですが、自分で自分の未公開エントリの冒頭を引用してみます。
自称・空の風景写真家であり、鳥の羽(BirdWing)というハンドルを使っていて、さらに空をテーマとした曲を趣味のDTMで作ることが多いせいか、最近、空に関係するあれこれに注目するようになりました。
いっそのことソライロの人生を歩んでみたい。薔薇色ではなくてソライロの人生です。どういう人生かというと、地上の生活を包み込んではてしなく広がり、ときには雨を降らしたりしながらも、ずっとそこにある。見上げなければ存在感はないのだけれど、ときどき夕焼けで赤く染まって、明日は晴れだと未来への希望を提示したりもする。そんなイメージでしょうか。
このあと、空に関連するものとして紙飛行機をあげ、かつて息子の夏休みの自由研究で紙飛行機を取り上げたこと、宇宙に紙飛行機をとばす計画があったのですが、飛ばしそこねると人工衛星を破壊したり宇宙のゴミになるので断念した、という記事を取り上げたりしていました。
そんなことを考えつつ空を眺めていたら、すーっと二本の飛行機雲が青空にレールのような線を引いていました。ケータイで撮影した写真を掲載してみます。
飛行機雲といって思い出す音楽は、荒井由実(松任谷由実)さんの曲でしょうか。化粧が濃すぎるせいか顔が怖いのですが(苦笑)、YouTubeから映像を引用してみます。かなしい歌なのだけれど、明るく透明なメロディがせつない。1982年のライブのようです。
今度の新しい家は、家を建てたひとのこだわりなのか、首を傾げるような造りの箇所が多いのですが(無駄に広い納戸とか、逆に上半分は壁になっていて狭すぎる中途半端な押入れとか)、2階以上の建築ができない住居地区で可能な限り広く使おうとしたため、地下室と屋根裏部屋があります。屋根裏部屋なのですが、空に向かって、はめ殺しの窓があるんですよね。
実は夏に下見をしたときには、この部屋はむんむん暑くなっていて、温室か!ここは!という感じだったのですが、リフォームが終わって入ってみると、この時期には快適でした。何よりも青空を眺めることができます。休日にはこの狭い隠れ家のような場所で、ひとりで空を眺めながらビールを飲んでいる自分が容易に想像できます。
家全体は屋根が斜めになっているせいか、どこか教会のような趣きがあります。これもまた建てたひとのこだわりかもしれません。玄関にはステンドグラス風の窓ガラスがあって、おおきな3つの照明が下がっています。こんな感じ(写真はリフォーム前なので、ひとつ電球が壊れていますが)。
というわけで、新しい家で来年からはまたブログを書いていきたいと思うのですが、書く環境が変わると文体やテーマも変わってしまうかもしれません(あるいは、そのままかも)。インターネットの回線も本日外してしまうので、しばらくは更新できないかと思います。うーむ、ネットができないと禁断症状になりそうで怖い(苦笑)。
クリスマス、大晦日、お正月と、イベントと節目の時期にブログが書けないのは心苦しいのですが、落ち着いたところで書きはじめますので、拙い文章ですがまた読んでくださいね。検索エンジンから新しく訪問いただいている方も多いようですが、気が向いたらコメントなどいただけるとうれしいです。ひょっとしたらネットカフェからコメントの返信をするかもしれません。
では、一年間ありがとうございました!
よいクリスマス&大晦日&お正月を。来年もよろしくお願いいたします。
投稿者: birdwing 日時: 01:06 | パーマリンク
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