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2013年2月10日

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一回性のドラマという愉しみ。

■■イベント情報■■
ちょっと風変わりな展覧会を開きます。展示するのはスープの写真。私が毎朝作り、家庭の食卓に出してきたスープです。
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物語というのは(大袈裟に言ってしまえば人生も同じですが)原則としては巻き戻せないもので、時間軸の上に沿って進行していきます。

難しいことを言ってしまうと「不可逆的」でしょうか。人間の発話する言葉も同様であり、リアルな世界においては言ってしまったことを消去できなければ、逆回転させることもできません。書かれた物語は何度も読み直すことができるけれど、最初に読み進めるときは一回性のもの。とはいえ物語も人生も発話も、取り返しのつかない一回性のものだからこそ尊いともいえるでしょう。

さて、1月19日から毎週土曜日の午後9時に日テレで放映されている『泣くな、はらちゃん』というドラマを観ています。土曜日が来るたびに、今週はどんなはらちゃんに会えるのだろうという「一回性」の気持ちでわくわくしながら観ています。今週で4回目でした。公式サイトはこちらです。

■「泣くな、はらちゃん」公式サイト
130210_泣くなはらちゃん.jpg


ぼくはドラマどころかテレビ自体をあまり観ないほうなのですが、TOKIOの長瀬智也さんが出演されるドラマが好きで、石田衣良さん原作の『池袋ウェストゲートパーク』もレンタルでDVDを借りてきたら面白くて次々と借りてしまったし、『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』も(新垣結衣さんが出ていることもあったけれど)毎回観ていました。長瀬智也さん出演のドラマは期待外れがない気がします。彼だけにしか演じられないキャラクターを演じているからかもしれません。

B00005HNT7池袋ウエストゲートパーク DVD-BOX
ジェネオン エンタテインメント 2000-10-25

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B000NJWNLWマイ★ボス マイ★ヒーロー DVD-BOX
大森美香
バップ 2007-04-25

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『泣くな、はらちゃん』も、長瀬さんらしいドラマだなあ、とおもいました。というのも、脚本家の岡田惠和さんが長瀬智也さんをイメージして書き下ろしたものだそうです。なるほど、長瀬さんの魅力を最大限に活かすように作られたわけだから、世界観がびしっと嵌っているわけです。

物語の主人公は、かまぼこ工場で働く薄幸そうな独身女性の越前さん(麻生久美子さん)。彼女は現実世界の不満などをマンガに書いて鬱憤を晴らしていますが、彼女の書いたマンガの世界に住む「はらちゃん(長瀬智也さん)」が現実の世界に飛び出して、ひとりの女性に恋をします。その女性こそが、自分のマンガを書いている越前さんでした。

はらちゃんはマンガの世界の人間なので、マンガに設定された古臭い居酒屋のちいさな世界のことしか知らず、現実の世界の「イヌ」や「ピラフ」に驚き、ひとつひとついちいち感動します。また、片思いという心理が理解できずに涙を流します。長瀬さんは、この赤ん坊のようなはらちゃんの純粋さを好演していて、毎回観ていて微笑ましくなります。

ドラマの挿入歌である「私の世界」も人気があるようです。歌詞と楽譜は公式サイトの「はらちゃんギャラリー/はらちゃんの歌「私の世界」の歌詞&楽譜」にあります。とてもいい詩なので引用させていただきます。

世界じゅうの敵に降参さ 戦う意志はない
世界じゅうの人の幸せを 祈ります

世界の誰の邪魔もしません 静かにしています
世界の中の小さな場所だけ あればいい

おかしいですか? ひとはそれぞれ違うでしょ?
でしょでしょ?

だからお願いかかわらないで そっとしといてくださいな
だからお願いかかわらないで 私のことはほっといて

いきなり「世界じゅう」という大上段から入って、かかわりを拒否するサビに落ちていく。しかし、どういうわけかそれが「つながり意識過剰」ともいえそうな現在の「世界」に住むぼくらを癒してくれるような気がします。この曲をかもめ合唱団に歌わせたところもいい。サウンドトラックのCDも発売されるようですが、携帯サイトでは着うたで先行配信されています。詳細は「はらちゃんの歌『私の世界』(かもめ児童合唱団ver)」にて。

B00AQC2QWC「泣くな、はらちゃん」オリジナル・サウンドトラック
井上 鑑
バップ 2013-02-20

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はらちゃん自体は越前さんに恋をしたがゆえに、執拗なくらいに(でも純粋に)越前さんにかかわろうとするのですが、そんなはらちゃんの歌は越前さんの気持ちを反映して「ほっといて」になっている。それが、かもめ児童合唱団の子供の声で歌われると、ひねくれたような感じで和みます。

同じメロディで歌詞だけかえて「清美の歌「初恋は片思い」」にもなっています。ドラマのなかでは忽那(くつな)汐里さんが歌っていて、こちらもいい感じ。忽那さんが演じる紺野清美はツンデレぶりがかわいいですね。

マンガの世界の中は「永遠」ですが、現実の世界に飛び出した途端に毎回新しいものに出会う「驚き」と、自分の「意志」ではどうにもならない出来事がある。はらちゃんと同様に越前さんも恋をすることによって変わっていきます。そうしてドラマを観ているぼくらも変わる。毎回(厳しいところをいえば4回までは、ですが)新しい気持ちにさせられる。そんなところがいいなあとおもいます。

今後ドラマはどう展開していくんでしょうね。黙っておけばいいことかもしれませんがつぶやいておくと、薬師丸ひろ子さんの演じる矢口百合子が、越前さんの大好きなマンガ家の矢東薫子だとおもうんですよね。えーと、観ているひとには薄々気付いていることかもしれないけれども(苦笑)

というわけで、ドラマのお話は終わり。ここから先はコラムです。ぼくは気が向いたときにTwitterで140字×5回を目安にコラム的なことをつぶやいています。
1月中旬から2月初旬までの「Twitter Column」をまとめました。どうぞ。


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アクティブサポートの重要性。2013.01.29

現在、ぼくがマーケティングで注目しているのは「アクティブサポート」である。TwitterなどのSNSでつぶやいた製品やサービスに関する言葉を企業がウオッチし、「企業側」から声をかける。通常サポート業務は「インバウンド」だが、積極的に顧客などに接するアプローチである。

アクティブサポートについては河野武氏の『Twitterアクティブサポート入門』という本に詳しい。サイトから抜粋すると「疑問や不安、ときには不満を抱えている消費者をソーシャルメディア上で発見し、企業自らが能動的に、彼らに直接語りかけることで問題解決を図るもの」とまとめられている。

4844330748Twitterアクティブサポート入門 「愛される会社」時代のソーシャルメディアマーケティング
河野 武
インプレスジャパン 2011-08-24

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実際に、いくつかのアクティブサポートをぼくも体験した。たとえば人気ソーシャルゲームのなめこではツイッター上のキャラクターから感想に対する意見をいただいたし、シックス・アパート株式会社からは、質問として投稿していないにも関わらず設定上の疑問に解決方法をいただいた。とても嬉しかった。

購入を検討している見込み客の背中を押してあげたり、購買後の利用者の疑問に答えたり、アクティブサポートはさまざまな場面で活用が考えられるだろう。Get found(見つけてもらう)だけでなく、企業がアンテナを張り巡らして自ら顧客に手を差し延べる。新しい時代のマーケティングモデルである。

アクティブサポートには、高度なコミュニケーションスキルが求められるだろう。迅速に適切に、かつ「親切」な対応が必要になる。押し付けもいけない。顧客のこころを読まなければ対応できない。つまり、どれだけシステムが充実していても不可能で、アクティブサポートは人間の対応が重要なのである。


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ピュアであることについて。2013.01.30

ピュアであること、純粋であることは「残酷」である。ピュアな人間は他人を傷付ける。なぜなら純粋であるがゆえに自分の意志を尊重するからだ。他人の意志を尊重して妥協すること、汚れることを知らない。ピュアな人間はいつでも社会から浮いている。社会というものを知らないし、学ぼうとしない。

純粋であることは「悪」ともいえるだろう。不純であることが正しく善とされる世界において、ピュアである人間はいつでもはみ出している。抹殺すべき人間としてまっさきに吊るし上げられる。自分の感性に正直なだけなのに、だからこそ晒し者にされる。純粋であり続けることは、この世界では許されない。

不純物であふれたこの世界の澱みに、ぼくらは生きている。子供たちでさえ不純にまみれている。ピュアな人間は社会を変えようとはおもわない。自分のなかにある純粋なこころに従うのみだ。それが反感を誘うのは、だれもがほんの少しだけ、ピュアに生きたいと望む気持ちがあるからかもしれない。

干渉されたくないし、できれば動揺したくない気持ちがぼくらにはあるのだが、ピュアな人間は土足でぼくらのこころに入り込み、揺さぶる。ピュアな人間を嫌悪して罵るのは、それがぼくらを脅かす存在だからだ。攻撃の背後には身を守る怯えがあり恐怖が潜んでいる。不純であるほど純粋さを恐れる。

生成変化する世界のなかで、ピュアなものだけは変わらない。逆説のようだが、人間は変わっていくものに安心し、変わらないものに不安を抱く。永遠ではないからこそ安堵する。しかしながら、ピュアであることは永遠であり、未熟なまま維持されていく。ぼくらが純粋さを畏れるのはそれが永遠だからだ。


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140文字で可能なこと、不可能なこと。2013.02.05

ツイッターの制限文字数140字で「議論」は難しいかもしれない。しかし、自分の考えを伝えるのであれば、できないことはないとおもう。できないとすれば、書き手の能力がないだけだ。140字を数回連ねることが許されるとすれば、短いユニットを連結させてぼくらはかなりの内容を語ることが可能だ。

プレゼンテーションの能力に、エレベーターテストというものがある。シリコンバレーの企業家が投資家に売り込むための訓練だったそうだが、エレベーターに居合わせた30秒のあいだに相手に自分のアイディアを簡潔に伝えられるかどうかを問う。時間に合わせて伸縮させることができれば完璧だ。

文章を書くプロであれば、同じ内容でも数十文字のキャッチコピーから数百文字の記事まで自在に書きこなせるべきではないか。ただし、自分の意見であれば編集が可能であるが、他者との対話や議論はそうはいかない。議論や討論は互いの理解力などによって枠を超えることがある。すれ違いも起こりやすい。

特に日本の文化では議論や討論はハイコンテクストな認識の上に成り立つ。お互いにコードを共有していないと、まったく平行線の議論に陥る。このときコミュニケーションの上級者は相手のコードを読み解き、その範囲にみずから入り込んで語ろうとする。あんたとは話ができない!と憤るのは下級者である。

140字のやりとりで議論は難しいかもしれないが不可能とはいえない。思考の周波数をチューニングし、ハイコンテクストな文脈を共有できれば、短いメッセージのなかに多くの意味を込めることもできるのではないか。ソーシャルメディアの時代には、そんな高度なコミュニケーションが求められている。


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とても残念なイケダハヤト氏の言動から学ぶこと。2013.02.10

いまネットの界隈では、やまもといちろう氏とイケダハヤト氏の「交流」が話題になっているようだ。はしょって経緯を書くと、お互いの「意見交換」の後に、会ってお話しましょう、対談イベントをやりましょうということになったが、実施の条件が複雑過ぎたために進捗が滞ってしまったようである。

イケダハヤト氏が毎回書いている頼りないブログを読めば、ブログがこの程度ならイベントの仕切りなどこの若者に任せてもぜったい無理、と直感でわかる。家入氏なら「逃げろ」とアドバイスしたところだが、イケダ氏は条件付きで引き受けた。が、実はやるつもりなどなかったのではないかと推測する。

要するにイケダ氏の取ったのは「かぐや姫の3つの問題」作戦である。結論としてはイケダ氏はイベントをやるつもりはない(できない)のだが、200人規模だとか数百万の寄付だとかいう条件を張り巡らせて、イベントが不可能なことを自分の無能ではなく、条件のせいにしようと画策したわけだ。

イケダ氏が本気で200人規模の寄付を前提としたイベントを企画し、実現を想定していたら、話があった時点で外部協力会社にアウトソーシングすることが賢明だったろう。また、マーケッター的な視野があれば、日程・場所・人数・費用・運営体制のうちのプライオリティ(優先順位)もわかるはずだ。

やまもといちろう氏とイケダハヤト氏の件に関しては「何も箱を借りなくてもUSTでいいだろう、どこかの喫茶店の片隅で対談やっちゃえばいいじゃん」というのが自論である。というのは炎は熱いうちが旬であり、日程が優先だから。逃げようとするから行き詰まる。ビジネスには覚悟が必要なときがある。


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ドラッカーに憧れて。2013.02.08

ピーター・ドラッカーといえば経営学の父である。フューチャリスト(未来学者)と呼ばれたともいう。彼の本は8冊ほど持っている。そして彼の本を読んで非常に衝撃を受けたことがあった。それは愚かしいことだが内容ではなく『ポスト資本主義社会』を83歳のときに執筆したということだった。

447800210Xドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会
P・F・ドラッカー 上田 惇生
ダイヤモンド社 2007-08-31

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80歳になったことがないのでわからないのだが、いったいひとは『ポスト資本主義社会』のような若々しい文章を80歳で書けるものだろうか。ドラッカーにはかなわない、とおもった。同時に元気を与えてもらえた。ドラッカーのようになれば、80歳になっても若々しい思考を保てるのだと。

ビジネスでは実績が重視される。現場にいないものは嗤われる。しかし、ぼくは実績はともかく、現場にいないからこそみえてくるものもあると考えている。もしドラッカーが経営者であったならば、あれほど若々しい思考を保ち、経営を俯瞰した見事な執筆活動には勤しめなかったのではないだろうか。

夏目漱石は教師や新聞社勤めをしたのちに作家になった。ぼくは漱石にはそんな「道草」があったからこそ、すぐれた文豪になったのではないかとおもう。人間を理解する上では世間という泥の上を這い回らなくてはいけない。しかし同時に、泥にまみれた地上から離れ、天上から地上を見渡すことも必要だ。

漱石とドラッカーを同一視することはいかがなものかと疑問だが、社会や人生を俯瞰するひとは、ときには「現場」から離れていたほうがよい。クリエイターは生活と切り離されている必要がある。若さから遠ざかったときに生まれる思考もある。だからこそ人生を半分降りた「老い」が面白くなるのだろう。

投稿者: birdwing 日時: 10:35 | | トラックバック (0)

2013年1月21日

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毒を持つ、ということ。

東京では1月14日に初雪が降りました。ちょうど成人の日。雪に困った新成人の方もいらっしゃったのではないでしょうか。でも天候が祝福してくれたのだとおもいますよ。大きな通りでは雪は消えましたが、いまでも屋根の上や建物の陰に雪が残っているところもあります。

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さて、1月中旬までの朝の連投ツイート(140文字×5ツイート)によるコラムを以下にまとめてみました。どうぞ。


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■ライフワークのすすめ。2013.01.06

やりたいことを仕事にする、ということがよく言われる。だから就職活動では自己分析が要求される。しかしながら、仕事を「金を稼ぐ手段」と割り切ってしまえば「やりたいこと」を仕事にする必要はないんじゃないか。一方で、金を稼ぐ手段ではない仕事をここで「ライフワーク」と呼んでみたい。

金を稼ぐ手段と自分のやりたいことを混同するから、いわゆる「仕事」に不満も出る。アフィリエイターなのかブロガーなのかわからなくなる。ところが、儲けることにこだわらず、自分が納得するまで定年なしで関わりつづける仕事として「ライフワーク」を考えると、その呪縛から解かれる気がする。

究極をいえばライフワークは儲からなくてもいい。しかし徹底的にこだわりたい。自分がやりたいことなのだから妥協は許さない。かつ社会に求められ、非貨幣市場的な価値を生み出すものでありたい。こうした「仕事」を実現するためには、生活基盤を安定させるために金を稼ぐ「仕事」も重要だろう。

ライフワークとして考えている「仕事」がぼくにもある。それはカタカナ用語で幻惑させるマーケッターでなければ、物書きやプロブロガーの仕事でもない。「市井の思想家」である。ぼくは市井の思想家として、ちいさなコミュニティであっても自分の言葉と思想を後世にまで残したい。それがぼくの仕事だ。

黒川伊保子氏は著書で「ヒトの脳は男女とも、五十代半ばに、知の大団円=連想記憶力という力がピークに達する。」と述べている。よわいを経たからこそ結果を出せる「仕事」もある。金を稼ぐための仕事とライフワークの複線的スタイルで生きていくことも、人生の選択肢としてあるのではないか。

4480066977キレる女 懲りない男: 男と女の脳科学 (ちくま新書)
黒川 伊保子
筑摩書房 2012-12-05

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■流れるままに。2013.01.17

辞めた会社に机の引き出し一段分の量の名刺をごっそり残してきたことがある。何枚あったのか自分でも把握できていない。若かりし頃、異業種交流会に参加して「収集」したり、積極的にひとに会いに行っていただいた名刺だった。しかしながら、そのなかで芽が出たものは、ほんの一握りにすぎなかった。

家入一真氏が「人の付き合いなんてストックするんじゃなくてフローでどんどん回す。」とつぶやいていて共感した。「名刺なんてバンバン捨てたら良いし、名刺交換会なんてのも行かなくていい。必要な時に必要な人とはまたどこかで出会うから。」にも頷いた。さわやかでポジティブな考え方だ。

来るものは拒まず(ただし選別し)去るものは追わず。「流れる」ままにフローな人生を漂ってみたい。しかし、ほんとうに大切だと感じた人脈には楔を打つように努力したい。流れていく人生のなかでストックすること、流れに抗うことは容易ではない。しかし、だからこそストックする努力も必要だ。

ストックすることが必要だとしても、執着心からは解き放たれていたい。どうしようもなく去っていくものについては、執着しても仕方がない。去っていく運命に任せるのみである。何をフローさせるか、何をストックさせるかという選別は大切なのだろう。得てしてぼくらはその選別を間違うものだけれども。

流れるものには「生」を感じる。執着によりとどまる、澱むものに感じるのは「死」だ。生成変化する時間に無理やり楔を打とうとすると、生命のチカラを失う。若さに「生」を感じるのは日々インプットとアウトプットがあって、とどまるところがないからだろう。人生は轍ではなく回転する車輪でありたい。


■人間関係を楽にする方法。2013.01.13

いつもあったかい雰囲気のしあわせな話をするひとがいる。かといって、そのひとの人生がしあわせなことばかりだとは限らないだろう。ちっと舌打ちしたくなるようなこともあるだろうし、辛くて立ち上がれないこともあるに違いない。けれどもそのひとは、しあわせそうにツイートしている。

いつもどす黒い毒ばかり吐いているひとがいる。何か言わせれば他人の誹謗中傷と暴言が口をつく。かといって、そのひとの人生が暗澹としたものであるとは限らないだろう。やさしい朝の光のなかで気持ちよさそうに伸びをすることもあるだろうし、電車のなかで隣りに座った赤ん坊に笑いかけることもある。

ぼくらのツイートする発言は所詮テキストだ。ある特定の瞬間にアウトプットされた文字にすぎない。しかしながらその文字をTLでつなげていくと、そのひとなりの人間性や傾向がみえてくる。人間にはアウトプットの特性や耐性があり、あるひとはしあわせな言葉が多く、あるひとは毒舌が多めになる。

「誠実に真摯に」を標榜するひとにも嘘つきは多い。誠実に真摯に対応することが他人を傷付けることがある。むしろ、正直に話さない嘘つきのほうが他人にやさしいこともある。どんな問いにも正解や不正解があるわけではない。善悪は表層的に判断されるものではない。善人が掌を裏返すことだってある。

発言や書かれたものではひとは判断できないということを前提に付き合うと、人間関係は随分楽になる。人間不信ではないが、一種の諦めとも妥協ともいえる。期待しなければ裏切られることもない。妄信しなければ隙を突かれることもない。人間関係には常に緊張(ストレス)が付きまとうものだと理解しよう。


■質問の技法。2013.01.16

質問されると怒るひとがいる。インタビュアーに対して「ノーコメント!」と吐き捨てて立ち去る政治家や芸能人がいる。答えないからといって彼らが不誠実なわけではない。質問をするひとが「失礼」なだけだ。どんな場合でも質問は相手に「回答」という「負荷」を負わせる。ゆえに質問は迷惑なのである。

コミュニケーションの観点から、優れた質問には三つの原則がある。第一に、相手が応えられる時間の余裕を設けること。第二に、ひとつの質問はひとつのテーマに限り、回答を待つこと。第三に、矢継ぎ早に次々と一方的に質問をぶつけないこと。この原則を外した場合には礼儀を欠いた質問になるだろう。

ある本で学んで以来、ぼくはメールなどで何かを催促するとき「送付していただけますか。」のように文末に「?」マークを付けないようにしている。「?」マークを付けてしまうと相手に強制的な圧力を感じさせ、負荷になるからだ。些細なこころ配りに過ぎないが、質問の語尾についても快くありたい。

幼児は「なぜ?」が大好きだ。「ねえママ、どうしてお月さまはまあるいの?」などの無邪気な質問をする。母親は「それはね・・・」と優しく答えてあげる。母親には許容性と余裕があるから応じてあげられる。しかし、なぜなぜなぜなぜ・・・が繰り返されると、母親も「うるさい!」と逆上しかねない。

好奇心から発生する質問は決して悪いものではない。といっても仕事の場面で、できるビジネスマンは質問をしながら答えを想定している。「・・・と私は考えますが、部長はどのようにお考えでしょう」のようにあらかじめ道筋を付けておけば、その後の対話がとんでもない方向に向かわなくなるものだ。


■わかる、ということ。2013.01.12

わかるひとは変われる。ここで「わかる」ということはアタマで理解することではなく身体と精神を含めた全体的でわかることだ。わかるということは一種の閃光的瞬間でもある。理屈ではなくセンスに関するものかもしれない。わからないひとにはその閃光が降りてこない。だからいつまで経っても変われない。

わからないひとには何がわからない障害になっているかというと、先入観などの固定観念かもしれない。定型的なフレームに囲まれた既成概念かもしれない。二〇代の若者は人生経験的にわからないことも多いけれど、思考が柔軟だから新しいものを理解する。スポンジのように新鮮な思考を取り入れる。

男性脳と女性脳の違いについて書かれた黒川伊保子氏の本を読んでわかったことがあった。女性は習慣的に責務を果たしている男性の行為を「大切にされている」とおもうらしい。洗濯物を干すとき「いつも」干しているからこそ妻は大切にされていると考える。持続しないことがなぜ怒りをかうのかわかった。

ずいぶん人生を重ねてきたが、まだわからないことが多い。しかし、わからないことが多い人生は楽しみが多いといえる。無知であることを素直に受け止め、決して恥じることなく、わかるときに降りてくる閃光を楽しみにしよう。ひととひとがわかり合えないことに可能性は宿る。それは絶望ではない。

わかるひとはしあわせである。わかりたい、理解したいという欲望がコミュニケーションの原動力にもなる。異質なものを排除したり畏怖したりしなくていい。異質なものに出会うときはチャンスである。いくつになってもわからないひとでありたい。したり顔で薀蓄などを垂れるのではなくて。


■オピニオン系ブロガーについて。2013.01.04

ネットメディアから配信される情報を仮に「報道系」と「オピニオン系」の2つに分けてみよう。報道系の情報は新聞社や記者などから配信され、速報性と信憑性が求められるために情報のチェックが厳重に入る。一方でオピニオン系のチェックはゆるい。著者の個性を際立たせた記事が喜ばれるからだろう。

最近、オピニオン系のブロガーや事業家が人気があるようだ。彼等はブログなどの独自メディアを持ち、ときには毒舌や辛口の批判などで炎上をさせながらも、若い世代を中心に支持されている。社会のカンフル剤として悪いことではない。しかし、プロなら発言の品質を考えたほうがいいと感じるときがある。

オピニオンを売りにするブロガーが「今月これだけ儲けました」「話題のあれをやってみました」というレベルの記事はつまらない。オピニオンでも何でもない自分語りと真似だからだ。「今年は嫌われ者になります」という宣言も失笑する。おずおず様子を伺わないで、とっとと嫌われればいい。

某テレビ番組の「1万円生活」のパクリで、ガラス張りのネットで自分の貧乏生活を晒してネタにする、という芸人的な生き方もあるかもしれないが、道化師であれば道化に徹するべきであり、道化師がオピニオンを語るのはうざったい。プロブロガーとして路上生活者になるぐらい体当たりで書いてほしい。

「オピニオン系」ブロガーは自分の身体を切り売りしているようなものであり、その態度が中途半端な場合、ぼくらは萎える。いずれ飽きる。別に成長は望まない。感情も情報であり、自暴自棄な生活も書けば情報になる。冷酷だが、ぼくらは情報に飢えている。そして、面白くなければ離れていくだけだ。


■毒を持つ、ということ。2013.01.18

岡本太郎氏の『自分の中に毒を持て』は、平凡な生きざまにインパクトを与える本である。安藤美冬氏もお薦めしていたことをどこかで読んだが、会社員から自由な世界に踏み出すための契機になったと評していた。既成概念を打ち破る破天荒な岡本太郎氏の発言は熱く、鋭利な刃物のように尖っている。

4413090101自分の中に毒を持て―あなたは"常識人間"を捨てられるか (青春文庫)
岡本 太郎
青春出版社 1993-08

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中島義道氏の書物もまた独特の毒がある。彼の講演会後、精神に変調をきたした女子学生がいたというエピソードが語られているぐらいだ。しかし、その毒は常識や優等生気取りの社会を覆すものであり、ある意味ピュアな印象さえ受ける。彼の書物を貪るように読んだ時期があり、ほぼコンプリートした。

4101467269私の嫌いな10の人びと (新潮文庫)
中島 義道
新潮社 2008-08-28

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悪口で他者を傷付ける、毒舌である、物言いが辛辣である、という表層的な言動が「毒を持つ」ことではない。社会一般の優等生的な常識に流されず、自分がおかしいと考えることに誠実に向き合う、正しいとおもったらリスクをともなうマイナスの道であっても選択する生き方が毒を持つということだ。

暴言を吐いて、特定の個人に食って掛かるような人間に毒があるとおもわれがちだが、そんな狂犬のような人間には、実はホンモノの毒なんてない。ただ、臆病だから他者を威嚇して自分の不安を慰めているだけである。ホンモノの毒は、生きざまに凄みとしてあらわれる。毒のある人間はおそろしく強い。

他者を見下す人間は傲慢で愚かである。ほんとうに自分より上の人間なら傾聴もするが、体裁だけ偉ぶった人間の言葉は聞くに値しない。最近、若者を見下したり、考え方の相違に執拗にこだわってdisってみるなど、そんな発言をネットで多く読んで呆れている。いまのネット社会には毒がない。


■徳とお金とエンターテイメントと。2013.01.19

与沢翼氏が話題になっている。29歳。株式会社フリーエージェントスタイルホールディングス代表取締役として情報商材ビジネスで年商12億円を稼ぎ、住居はミッドタウン最上階、愛車はロールスロイス、フェラーリ、ベントレーという「ネオヒルズ族」だそうだ。最近テレビなどのメディアに頻出らしい。

良識者の方々から顰蹙をかうかもしれないが、ぼくは与沢氏は「面白い」とおもう。クラウドファンディングに投資するならゴルフ用具買えばよかったとか、年収150万円で生活するとか、ルームシェアでも人生楽しめるとか、そんなちまちました話に比べると格段に面白いひとである。突き抜けている。

与沢翼氏は堀江貴文氏と比較されることが多いようだが、似ていてまったく異なるタイプだとおもう。しかし「儲けること」に対する執着はお二方とも強そうだ。日本では金儲けの成功者を嫌い、「徳」を重視し、出る杭を打とうとする。でも、いいんじゃないかな。社会と経済のために「成功者」は必要だ。

急速に成長する事業にはたいてい穴があるものだし、没落するリスクもある。ぼくは「徳」を重視し、結果はもちろんプロセスにも矜持を正すべきであると考える。しかしながら、物事は簡単に善悪や正誤の判断で裁くことはできない。社会を賑わすという意味では、与沢翼氏は良質なエンターテイナーである。

「徳」だけでしばられた世の中は窮屈だ。ときには「毒」も必要だ。萎縮しがちでちいさくまとまる日本の経済と社会において、不真面目かもしれないけれど、与沢翼氏のような存在は強烈なカンフル剤になる。かといってぼくは情報商材は要らないし、彼のような金持ちにもなりたいとはおもわないけどね。

4046537981スーパー フリーエージェント スタイル 21世紀型ビジネスの成功条件 (角川フォレスタ)
与沢 翼
角川学芸出版 2012-09-25

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投稿者: birdwing 日時: 18:03 | | トラックバック (0)

2012年12月31日

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2012年の終わりに。

2012年が暮れようとしています。今年の10大ニュースは・・・と考えてみたのですが、あまりにも芒洋としすぎていて、まとまりませんでした(苦笑)。しかし年の後半、政治への関心が高まったことだけは言えそうな気がします。とはいえその期待も、どちらかというと脱力感のなかで萎えた印象がありますが。

個人的には、今年の後半から朝もしくは夜にツイッターで140文字×5ツイートの連投ツイートをするという課題を継続していましたが、年末には滞りがちでした。とはいえツイートしたままにしておくのも年を持ち越すのもどうかとおもいますので、12月の連投ツイートを以下にまとめます。

それではみなさん、よいお年をお迎えくださいね!


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■主体的に進化すること。2012.12.10

406253312Xダーウィン論・主体性の進化論 (今西錦司全集)
今西 錦司
講談社 1993-07

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読後の興奮が静かにつづいているのだが、今西錦司氏の『主体性の進化論』は久し振りに感動した本だった。全体の80%ある前半部分では、ダーウィンとラマルクの進化論を引き合いにしながら、ウスバカゲロウの棲み分けについてフィールドワークで得た結果などを解説していて、のどかな雰囲気である。

今西錦司氏の『主体性の進化論』が凄いのは、最終章の「人類の進化――応用問題として」の思考の突き抜け方だ。ここで四足歩行から二足歩行に至る人類の進化は、長時間かけて途中段階を経た進化ではなく、ある日突然に同種の人類の祖先に起きた大進化(レ・オリエンテーション)だという。

人類の直立二足歩行がどのようにして達せられたかについて今西氏は「赤ん坊は立つべくして立った」という。人類は「変わるべくして変わる」のだ。この視点が衝撃的だった。確かにぼくらの一生を進化に喩えると、赤ん坊から立ち上がるということは大きな進化のようにおもう。が、当然の進化なのだ。

人類を取り巻く環境の変化が人類を進化させたのではなければ、徐々に二足歩行に移行していったのでもない。今西氏は、人類は「変わるべくして変わる」進化の道筋が定められていたのだということを語っている。つまり環境や他の要因が進化させたのではなく「主体的」に進化したのだと考察する。

ぼくらは自分が変われない(進化できない)要因を、得てして政治とか社会とか、あるいは会社や学校など「環境」に責任転嫁したがる。しかし、人類を含めた生物には「主体的」に進化できるチカラを秘めていたと仮定すると希望も生まれる。いつかその進化の種が芽を出すときがくると考えると楽しい。


■選挙が終わって。2012.12.17

選挙が終わった。結果はともかく(といって済まされることではないが)、朝日新聞によると今回は衆院選投票率59.32%と戦後最低の記録を更新したようだ。政治に対する関心が低かったというわけではなかったという気がする。政治に対する諦め感というか不信感が強かったのではないかとおもわれる。

実際に投票場へ行って感じたことだが、体感的には過去と比較してそれほど投票者が少ないとは感じられなかった。それでも最終的に蓋を開けてみれば、投票率は低下していた。いったい投票者のどの層が投票率を下げていたのか。世代なのか地域なのか。分析する視点はいろいろとあるだろう。

若年層の投票にも期待が集まったが、どうだったのだろう。ぼくは自宅の近くに投票場があったので、およそ30分で投票を済ませることができたが、投票場所が遠いと足が重いかもしれない。だからといってネット投票は早急すぎる気がしている。日本においてネット投票はまだ先ではないか。

投票を促進するアイディアでは、ガ島通信などに挙げられていたが「投票済証」をいただいて、ネットにアップするというアイディアが秀逸だとおもった。AKB48のカードにするとまでは言わないが、各地の投票済証の写真をネットにアップロードして収集するような、ゲーミフィケーション的なアイディアは必要だ。

個人的には、政治的知識に自信をもって臨むことができなかった選挙だった。やさしい解説による津田大介氏や荻上チキ氏の本を読んで、政治について意識的に考えるようにはなったのだが、まだまだ政治を語るには道のりは遠い。しかしながら、選挙は終わりではなく政治を考えることのスタートでもあるといえる。これからの政治を考えたい。


■ゼゼヒヒで二者択一。2112.12.23

津田大介氏が作った国民投票サイト「ゼゼヒヒ」が面白い。似たようなサービスはWiiにもブログパーツにもあったのだけれど、リサーチ会社ではなく津田氏のようなジャーナリストが作ったところに意義がある。「ヒヒ」というネーミングがTwetterの「tt」に似せている部分にもセンスを感じる。

ゼゼヒヒ
http://zzhh.jp/
ZZHH_2012-12-31.jpg


「ゼゼヒヒ」への登録は簡単だ。ログインはツイッターアカウントで認証される。いくつかのお題が画面に表示されているので(現在は35個)、賛成か反対かのどちらかをクリックすると円グラフが連動してリアルタイムで結果を表示する。リサーチの仕事をしているとき、こういうサイトが大好きだった。

ツイッターと連動し、なぜ選択肢のうちのひとつを選んだのか自由回答(FA)で理由がわかるところが「ゼゼヒヒ」のよいところである。定量的だけでなく定性的な分析が可能になる。メルマガの記事やPR記事にも活用できる。UGC(User Generated Contents)のひとつになる。

しかしながらチキンなぼくは、まだ「ゼゼヒヒ」に参加していない。優柔不断なのだ。二項対立の狭間にあるグレイな部分が大事であって・・・・・・などと言い訳してみるが、要するに選べない男なのである。選べない男は嫌われる。ここはひとつ「ゼゼヒヒ」に参加して、ずばっと世論を斬ってみようではないか。

AかBかどちらかを選ぶこと。二者択一を生活の習慣化して理由を考えるクセをつけることは、選挙で候補者を選ぶよい練習になるかもしれない。津田氏がそこまで構想して「ゼゼヒヒ」を作ったのであれば凄い。いや津田氏は、記事・PR化、政治選択の下地作りを考えてこのサイトを作ったと睨んでいる。


■信じること、覚悟を決めること。2012.12.16

「永遠に愛してる」というコトバは、それが嘘であったとしても歴史を越えて多くの人々に支持されてきた。ラヴソングにも多用されている。なぜだろう。逆説的に、ぼくらは永遠に誰かを愛することなどできないからではないだろうか。不可能かつ虚言だが、ゆえにそのコトバは「必要」であり支持される。

「大丈夫だよ」「安心しろ」という言葉も、どう考えても大丈夫じゃない場合に使われることがある。だからといって「おまえもう無理だ。観念しろ」とはいえない。その「大丈夫だよ」という言葉が延命に役立つこともあるからだ。ひとはいつでも真実をいえばよいものではない。必要な「嘘」がある。

しかしながら、行動の伴わない言葉だけの約束には、ぼくらは耐えられなくなってきている。実行できない自覚なしに繰り返される「日本を変える」という建前の政治の公約などがそうである。どう動いても日本は変わらないのではないか。積み重なった諦観がある。麻痺してしまった感覚がある。

池田信夫氏はアゴラで、民意をウェブで反映するのをやめ「専門家が合理的な政策を独裁的に実行」する「独裁制による都市国家が21世紀の国家モデル」と述べている。いささか過激にもおもわれるが、変わらない日本を変えるには、それぐらいの構造的な変化が必要とされるのかもしれない。

窮地に置かれても、ぼくらはまだお花畑のようなスローガンを信じて、安穏に生活している。変わらない日本から一抜けた!で降りてしまうのではなく、変わるよ、日本は永遠だよ、という虚妄な言葉を信じている。だか愚かであっても日本で生きていく覚悟をしてしまったのだ。かなしいことではある。


■憧れというビタミン。2012.12.12

いきなり辛辣なことを書く。書店で平積みされていた伊藤春香(はあちゅう)氏の『自分の強みをつくる "なりたい自分"を"自分"にしちゃえ。』の表紙をみて、幼稚園児の落書き本か?とおもった。家入一真氏の『もっと自由に働きたい とことん自分に正直に生きろ。』はアイドル本だな、とおもった。


4799312057自分の強みをつくる (U25サバイバル・マニュアル) (U25 SURVIVAL MANUAL SERIES)
伊藤春香(はあちゅう)
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2012-08-26

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B009SKNUOQもっと自由に働きたい とことん自分に正直に生きろ。 (U25 Survival Manual Series)
家入一真
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2012-08-25

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余計なお世話だが、はあちゅう氏や家入氏の本を信者のように読み耽っている若者たちの脳は大丈夫か?というのが、おじさんの率直な危惧である。ディスカヴァー21から出版されている「U25 Survival Manual Series」という25歳以下の読者に向けた一連のシリーズのようだ。

店頭で内容をさらっただけだが「U25 Survival Manual Series」は自己啓発の本としては内容が浅いと感じた。だからこそ若者に理解されるのだろう。だが人生の苦渋を舐めてきたおじさんは、責任感のない薄っぺらなこと言いやがって、のような冷ややかな目で眺めている。

しかしながら前言を覆すが、はあちゅう氏や家入氏は、その存在が若者たちに必要であるから本も支持されていると、ぼくは擁護したい。安藤美冬氏やイケダハヤト氏のようなカリスマもいらっしゃるが、よしあしはともかく若い世代を元気付ける「ビタミン」性が共感を生み、人気があるのではないか。

カリスマ的なひとの存在は若者たちにとっては「憧れというビタミン剤」なのだろう。もちろん成長するためにはビタミンだけでなく多様な栄養が必要になる。しかしビタミン以外は他から摂取すればいい。元気のない社会において、元気を出すためのビタミン摂取が取りあえず急務なのかもしれない。


■突っつく挨拶。2012.12.19

POKE_2012-12-31.jpgフェイスブックに「POKE」という機能がある。すこし前までは「あいさつする」だった。POKE(ポーク)ってなんだろうな、とおもって調べると「指で突っつく」という意味のようだ。「つんつん」という感じである。あるサイトに「小学生の授業中の消しゴム爆弾」と解説されていて納得した。

個人のウォールに「最近どう?」と書くのも大袈裟だし、だからといってメッセージするほどでもない。そんなときに「つんつん(どうしてる?)」というフェイスブックのPOKEは手頃だ。ちょっとあったかい。もちろん突っつきすぎには注意だが、言葉にする以上に相手の気持ちが伝わることもある。

多くのソーシャルメディアはテキストによるメッセージが主体である。しかしフェイスブックの「POKE」は、非言語的な独特のコミュニケーションといえるかもしれない。「つんつん」という名称自体が身体に訴えるものであり、突っつく相手との距離も配慮すべきだが、上手く使うと親近感が沸く。

「いいね!」ボタンは、コメントを書くほどでもないが、読んだよという気持ちを伝えたいときには使いやすい。カジュアルである。「POKE」と同様、言葉以上の感情を相手に伝えることができる場合がある。当然、ボタンを押してはいけないときにはボタンを押さないリテラシーも大事である。

とかく考え込んで「あっち(どっち?)」の世界に行ってしまいがちなぼくは、心友の「POKE」に救われることが多い。ボタンの向こうから「おーい、そっち行っちゃダメだよー、戻っておいでよ」という声が聞こえてきて目覚める。ひとりじゃないんだと気付かせてくれる。ありがたいことである。

投稿者: birdwing 日時: 18:57 | | トラックバック (0)

2012年12月 8日

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陽のあたる場所で。

121208_icho.jpg寒いですね。指先を擦ってあたためながらブログを書いています。カフェオレは必須です。あたたかい飲みものは、身体はもちろん、こころまであたためてくれますから。

先日、都内某所の駅に降り立ったところ、駅前をぱあっと明るくするような銀杏の木が立っていました。その先には銀杏並木がつづいている。青空に映える黄色が印象的でした。寒い日でしたが、陽射しを浴びながら立つ銀杏は、なんとなくぼくをあったかい気持ちにさせてくれました。足元には黄色い葉っぱが、ぽとっと落ちてきた。銀杏の木は夜になると電飾で光るそうです。

さて。毎朝、ツイッターを使って140文字×5ツイートでエッセイらしきものを発信しているのですが、11月の下旬から12月初旬にかけての連投ツイートから10本セレクトして以下にまとめました。タイトルの横にある日付は実際に書いた日付です。あったかいカフェオレでも飲みつつ、読んでいただければ。


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■ビジョたちに癒される。2012.12.08

あえて公言したくないが何度も見にいってしまうウェブサイトがある。ささくれだった毎日を癒してくれるようなコンテンツが誰にでもひとつぐらいはあるのではないだろうか。ぼくは健康な男性だから、当然、美しい女性にはとても興味がある。だから美しい女性のページを見にいって癒されている。

たとえば「日本ツインテール協会公式サイト( http://twintail-japan.com/ )」。ヘアスタイルがツインテールの女性たちを集めたサイトで、放課後ツインテールや週末ツインテールなどと、さまざまな場面のかわいい写真が掲載されている。写真集も発行されたようだ。


121208_twin.jpg


「美女世界地図( http://bijin-world.com/ )」。今朝相互フォローさせていただいた Kei Akatsu さんのプロジェクトサイトだが「【旅×美女】のコンセプトで北中南米を旅しながら美女の写真を撮影」されているそうだ。ちょっと羨ましい。世界の美女が素敵だ。


121208_bijo.jpg


カメラをみつめて笑う女性たちは美しい。かわいらしい。撮影するカメラマンの力量にもよるかもしれない。カメラマンがモテる職業である(と勝手に信じているのだが)というのもわかる気がする。彼女たちの最も美しい瞬間を永遠に残せるのだから。写真には動画とは違った空間の緊張感がある。

クリスマスやバレンタインが近くなっていつも感じることは、女性たちが急に美しくなるということだ。イベント自体で街全体の空気が変わるせいかもしれないが、はなやいだ気持ちが彼女たち自身を美しく変えるのだろう。そんな美しい街を見るのが、ぼくは好きである。いい季節になってきた。


■電飾の未来。2012.11.28

電飾好きである。イルミネーションが大好きだ。したがってクリスマスに至るこの時期は、賑やかな街を歩くのが楽しい。とはいえ電飾に目をきらきらさせているおじさんはやや気持ち悪いかなあとおもうので、わくわく感はこころのなかに潜めておいて、見ためはクールにしばしばと目蓋を瞬いたりしている。

クリスマスのちかちか光る電飾が好きになったルーツは、幼少の頃、ちいさなもみの木に飾った点滅するムギ球だった。また、奥さんとの初デートで行ったディズニーランドのエレクトリカルパレードの感動もある。あの日パレードに感動して彼女のお尻を触ったら、1メートルぐらい飛びのかれたものだった。

遠くの街に住む恋人に東京の電飾の美しさを伝えたくて、クリスマス間近の数日間、会社の帰りにデジタルカメラで街の風景を取り溜めておいて、クリスマス・イヴの日に集めた写真を「ひかりの花束」としてウェブを通じて公開したことがあった。同時に写真のBGMとしてひかりの花束という曲も作った。


ブログ「ひかりの花束」
http://birdwing.sakura.ne.jp/blog/2007/12/post-83.html

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DSCF2882_R.jpg DSCF2829_R.jpg DSCF2852_R.jpg

DTM「ひかりの花束」(4分1秒 5.53MB 192kbps)

曲・プログラミング:BirdWing


まばゆいほどに光る電飾は、星のみえない東京では「地上の星空」といえそうだ。消費電力の問題や発熱が樹木に影響を及ぼすことから、最近は発光ダイオード(LED)がよく使われるようになったという。LEDのテクノロジーを使った照明は、今後さまざまなかたちで日常に浸透していくことだろう。

ひかりを照らすためには電力が必要になる。電力の自由化と「発送電分離」については政治問題として大きく扱われている。再生可能エネルギーの供給なども含めて、今後も討議が重ねられていくことだろう。21世紀の日本を明るく照らしてくれる施策に期待したい。ひとりの電飾好きとして期待を込めて。


■教養について。2012.12.07

教養のあるひとになりたい。教養のあるひととは「知識+人格」にすぐれたひとのことだろう。知識が豊富なだけではない。常に人格の研鑽に努めていて、芸術から政治社会の動向まで深い洞察があり、良識に基づいた行動をして自分の品位を貶めないひと。ああ、ぼくには教養が足りないなと恥じるばかりだ。

知識が豊富なひとはたくさんいる。たいてい胸をはって知識をひけらかすとともに「そんなことも知らないのか」と威圧的に、無知な人間を蔑んだりする。しかし、インターネットの登場とともに知識はアーカイヴされているネットのクラウドに頼ればよくなった。誰でも知識は簡単に入手できるようになった。

人格が何であるかという定義は難しい。すぐれた人格にはさまざまな解釈が生まれる。個人的には、自律的であり、自分の言動に自信があるとともに、他者を尊重する人間は人格的にすぐれていると考えている。暴言を吐かないモラルや節操であるとか、規律的な生き方も人格に関わることかもしれない。

ソーシャルメディアにおける「教養人」は誰だろう。そんなことを考えた。文化人や著名人ではない。あくまでも教養人だ。知識が豊富で人格的にも優れているひと。なかなかおもいつかない。プロブロガーやインフルエンサー、カリスマなんとかのなかには、そんなひとが居てもいいとおもうのだけれど。

ネットではどんな発言も自由だという誤解が教養を育む機会を失ったのかもしれない。しかし、ネットを使った選挙の是非が問われるような時代。政治家のステマやネガキャンでせっかくのソーシャルメディアの可能性を潰してしまわないように、教養あるネットの活用を考えるべきではないかとおもう。


■パクリと模倣。2012.12.01

ツイートを眺めていたらイケダハヤト氏の「クリエイターよ、パクりまくれ!」という強引なブログタイトルに遭遇した。以前にも読んだ覚えがあるのだけれど、ちょっと何か勘違いしていないかなあと考えたのでひとこと。パクリ、盗用はいけない。歴史上の著名人が「盗め」といっているのは「模倣」だ。

アリストテレスは、芸術創作活動の基本的原理は「模倣( ミメーシス)」であると述べた。なるほど確かに彫像などは現実の人間の模倣であり、文学は言語による模倣であるということもわかる。しかし、どんなに模倣しても創作者の視点や個性が反映される。だから創造は新たなものを生むのだとおもう。

初期のビートルズは、黒人音楽、リズム&ブルースの影響を色濃く受けていた。バディ・ホリーの「ワーズ・オブ・ラヴ」などを演奏している。しかしながら彼等の演奏はカヴァー(コピー)であって「パクリ(盗用)」ではない。ビートルズの4人の「憧れ」がそのなかにはある。金や名誉のためではない。


The Beatles - Words Of Love (2009 Stereo Remaster)


自分の持っていない才能に対する崇拝、憧れ。これが存在するかしないかで「模倣」という行為はまったく意義が異なる。創造的な模倣には必ず憧れという熱意がある。すべてにおいていえるのだが、イケダハヤト氏の言説は「クリエイターよ、パクりまくれ!」といっちゃうように思考が浅すぎて失笑する。

多くの文学評論家は他人の作品を引用することだけで飯を食っているわけではない。小林秀雄などを読むと評論する対象に向かう熱情を感じる。その熱情によって批評空間というあらたなステージを創造している。とはいえ、創造はパクリだというのは下品なアフィリエイターならではの言葉かもしれない。


■メディアの棲み分け。2012.11.26

津田大介氏の『ウェブで政治を動かす!』を読んでおもったこと。ソーシャルメディアが絶賛され、テレビや新聞は廃れると予測されていた時期と変わり、最近ではそれぞれのメディアの特性もみえてきた。使い分けされるようになってきた。メディアの特性が明らかになり棲み分けができてきたようだ。


B00A47EMP8ウェブで政治を動かす!
津田 大介
朝日新聞出版 2012-11-13

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ツイッターなどのソーシャルメディアは、速報性に強く感情などを含んだ一次情報のメディアだ。フローであるがストックされる。対して従来は速報的なメディアとされていた新聞は、プロの記者の目による検証・編集のメディアになった。さらにテレビでは図解化や識者の討論の場を作って分析する場となる。

ソーシャルメディア VS テレビ・新聞のような視点からでは判断できない。あくまでも報道に関してだが、これらのメディアは個々の領域の強いところを活かしながら連携することによって、尖がったメディア(ソーシャルメディア)から安定したメディア(テレビ・新聞)までのメディア共同体になってきている。

信憑性も異なるだろう。ツイッターなどの情報は信憑性が低いだろうが、日本ではテレビや新聞の信憑性は高い。未確認情報が多いアルジャージラのようなメディアも日本にも生まれるかもしれない。ただ、情報のインプット回路が複数生まれることは、情報を吟味する上でよいのではないだろうか。

津田氏が語られているように、ウェブで政治を動かす時代は既にここにある。日本は世界と比較してネット政治が遅れているという声や、この勢いで一気にネット政治の浸透を、という考え方もあるかもしれないが、逆に焦らず、構想をきちんと描いてネットの動きを拡大化していくべきではないかと感じた。


■ブロガーの楽しみ。2012.11.24

いまさらブロガーって何?と考えたのだが、ぼくはテクノロジー系ブロガーではない。ITについて少しばかりわかっているつもりだけれど、基本的に文系ブロガーである。だからエッセイのようなものを長文あるいは短文で書く。ブロガーといえばテック系が多かった時代には、かなり肩身が狭かったものだ。

かつて自分のブログに「ブロガーはどこへ行くのか。」というエントリーを書いた。大胆にもブロガーは「ライターであり、デザイナーであり、エンジニアであり。」と標榜した。そこでレンタルサーバーを借り、MovableTypeでブログを構築した。デザインも自前だが、もう一度同じ事をやれと言われたら絶対にできない。

最初はFlashのブログパーツを組み込んで、自分のブログに写真をスライドショーで掲載したり自作曲を聴けるようにしたり、いろいろといじっていたのだけれど最近は、全く放置している。しかし、先日ソーシャル機能を追加したくて、Zenbackというブログパーツを加えてみた。楽しかった。

BASE(ベイス)という簡単にECサイトを構築するツールにも登録してみた。デザインがいい。自作曲のダウンロード販売をしたかったのだけれどできないので運営側に質問すると、現在はBASE上にその機能はないらしい。とはいえ、メールによる問い合わせに迅速に対応いただいた。すばらしい。

文系ブロガーはテクノロジーの世界から離れるとあっという間に取り残される。ホンモノのエンジニアのように技術的に詳しくなくても構わないのだが、ブログをめぐる技術の動向に好奇心のアンテナを張り巡らせていたほうがいい。ブログには書く以外にも、さまざまな楽しみ方がある。


■ロマンスグレイのおじさまになりたい。2012.12.05

土曜日と日曜日に髭を剃らなかったところ無精髭が伸びた。最近感じるのは、無精髭のなかに白髪の占有率が増えたということである。頭髪にも増えているのだが、鏡をみた限りではそれほど目立たない。年をとっちゃったなあと感じる。しかしながら、白髪が混じる状態は案外悪くはない。気に入っている。

音楽家の坂本龍一氏の白髪がかっこいい。枯れた印象がある。それでいてどこかエロい。川上弘美さんに『センセイの鞄』という小説がある。年齢差のある老人との恋愛小説である。坂本龍一氏がセンセイを演じたドラマを観てみたい。丸縁の眼鏡をかけて、ちょっとお洒落な帽子をかぶったら似合いそう。

RyuichiSakamotoJI4.jpg
*Photo:Joi Ito

4167631032センセイの鞄 (文春文庫)
川上 弘美
文藝春秋 2004-09-03

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坂本龍一氏のようなロマンスグレイのおじいさんになりたい。センスのないぼくには難しい望みかもしれないが、白髪の知的なおじいさんに対する憧れがある。とはいえ頭髪の動向は気まぐれであり、3年後にはどさっと抜けて禿げアタマになっているかもしれない。それはそれで仕方ない。悔しいけれども。

中年の禿げアタマもかっこいい。ジャン・レノとかブルース・ウィリスとか外国の俳優には頭髪が薄くてもオトコを感じさせるひとがいる。詩人の谷川俊太郎さんもいい。村上春樹氏の『1Q84』で殺人のプロである青豆はバーで頭蓋骨の形で選んだ男を口説くが、頭蓋骨のかっこいいオトコは禿げが似合う。


41035342221Q84 BOOK 1
村上 春樹
新潮社 2009-05-29

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残念ながらぼくの頭蓋骨はかっこわるいのだ。だからあんまり禿げてほしくないし、10代の頃に一生懸命になって養毛剤でケアしたせいか、いまだに頭髪は残ってくれている。だから白髪の、ロマンスグレイのおじさんになりたい。それで若い女性の気を惹いて恋に落ちようとかおもわないけどね。


■名前を変えられたら。2012.12.03

最近、年齢を経るにしたがって、過去の自分は自分ではなかったような気持ちになっている。幼少の自分などはもう別人のようだ。そんなことを考えていたら、年齢の節目で「名前」を変えることができるといいなあとおもい付いた。武士や貴族は幼少時に「竹千代」などと呼ばれていたが、幼名の復活である。

生物でも幼生は学術的に違う名前がつけられているようだ。ウナギの幼生がマリンスノーを食べているという学説が支持されたニュースを最近読んだことがあった。ウナギの幼生は「レプトセファルス」と呼ばれるそうである。これは個人名の変化ではないが、ウナギも稚魚から成長し、名称が変わる。

ポケットモンスター、いわゆるポケモンも進化すると見た目や能力はもちろん名前も変わる。あんなにかわいかったポケモンがこんなにごついキャラに・・・・・・と驚いたり嘆いたりしてしまうことがあるが、それが進化というものかもしれない。声変わりした息子に対して同様のことを感じたことがあった。

成長にしたがって名前を変えられるとすれば、3回ぐらい機会があってもいいかもしれない。第一は15~25歳、幼名から青年の名へ。第二は35~45歳、働き盛りの名へ。第三は55歳~60歳、シニアの名へ。社会環境と成熟度にあわせて、個人のブランドともいえる「名前」を変えられると面白い。

親父によると、ぼくの名前は孟子の一節から取ったそうである。名前のなかでは比較的多いありふれた名前であるが、長男に込められた願いがある。とはいえ、名前負けといえなくもない。シニアの世代を生きるにあたって、セルフブランディングのひとつとして、名前を改めることがあってもいいかなとおもう。


■陽のあたる場所で。2012.12.06

昨日、朝の電車に揺られながらドア側の場所にいたら、まるで温室のように陽射しでぽかぽかあたたかくてうれしかった。「天気いいけど寒さは相変わらずですね!」というツイートをいただいたが、確かに外はきりきりと寒かった。とはいえ電車のなかはあたたかい。しばし夢心地である。

太陽の光を浴びることは体内時計をリセットするので有効だといわれる。また、冬期うつにも効き目があるそうだ。冬の陽だまりが好きだ。寒くて空気はぱりっとしているのだけれど、陽射しはやわらかくて身体をあたためてくれる。くつろげる椅子とカフェオレやほっとレモンなど飲み物があればさらにいい。


B0062Z1Q50カルピス ほっとレモン280mlX24本(1ケース)
カルピス

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幼少の頃の陽だまりの記憶がある。いつだったか、ぼくは縁側でぽつんと座って毛糸の毛玉ができた靴下を眺めていた。赤っぽい靴下だった。風はなく、陽射しはとてもやわらかい。枯れた木が空に向かって伸びていた。寒い日にはその記憶がぼくをあたためてくれる。あったかい記憶だけがぼくのなかにある。

「チェット・ベイカー・シングス」はヘビーローテーションで聴くジャズのアルバムのひとつだが、「ルック・フォー・ザ・シルヴァー・ライニング」という曲では「暗い雲の裏側には陽がさしているものだ。銀色のふちを持つ雲を探して、いつも人生の明るい面をみることにしよう」と歌っている。


B001CRGTO6チェット・ベイカー・シングス
チェット・ベイカー
EMI MUSIC JAPAN(TO)(M) 2008-09-26

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Chet Baker "Look For The Silver Lining"


チェット・ベイカーの歌う「And try to find the sunny side of life」という言葉が気に入っている。その言葉でアルバムが終わるのも素敵だ。さんさんと陽のあたる場所で生きていきたい。陽だまりに感謝しつつ、穏やかな微笑みを忘れないようにしたい。


■思考をザッピングする。2012.11.30

あまり新しい言葉ではないが、ザッピング(zapping)という言葉がある。テレビのリモコンで番組を次々と切り替えながら視聴することである。ぼくは読書においても常に数冊の本を同時に平行して読むようにしているのだが、ザッピング的な読書といえるかもしれない。これが楽しい。発見もある。

たとえば津田大介氏の『ウェブで政治を動かす!』を読みながら、今西錦司氏の『主体性の進化論』を読む。最先端の政治から生物学の進化論についてのエッセイはギャップがあり、文章のトーンもがらりと変わる。「政治の進化論ってあるのかな」と、2冊を横断した新しい発想が生まれることもある。


406253312Xダーウィン論・主体性の進化論 (今西錦司全集)
今西 錦司
講談社 1993-07

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ぼくらは社会のなかでさまざまな役割をザッピングしている。会社員であり、おとーさんであり、ブロガーだったりする。役割と役割の落差が大きいほど刺激的だ。スキルも必要になる。家庭人と仕事人をさっと切り替えたり、おとーさんの役割のなかで仕事のメソッドを活かしたり、複数の自分を統合する。

懐かしい言葉を使うと、偏執症(パラノイア)から分裂症(スキゾフレニー)へと現代人の傾向は変わってきたという浅田彰氏の指摘があった。範列的な事象と事象の溝を飛び越えながら、ぼくらは平行した役割をこなして生きていく。思考のスイッチングとともに、統合するアイデンティティも必要になる。

情報が氾濫する時代において大事なスキルは、平行したいくつもの情報の領域をぴょんぴょん飛び越えながら前進する軽やかなフットワークかもしれない。ぼくはブロガーはネットの世界のジョングルール(大道芸人)ではないかと考えている。危なっかしい綱渡りを軽やかに演じてみせることは魅力的である。

投稿者: birdwing 日時: 07:03 | | トラックバック (0)

2012年11月18日

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自分のなかにカリスマを。

クリスマスまでもうすぐ。イルミネーションが華やかな時期になってきました。

ツイッターを使って、ぼくは140文字×5ツイートの連投で考えたことを発信しています。朝5時に起きて考える+書くことを習慣にしたいとおもっているのですが、今月は朝の時間を取ることができず、夜に書いたこともありました。ほんとうは長文のエントリにしたいツイートもあるのですが、なかなか時間もなく、連投するだけで力尽きています。希望を述べてしまえば、この連投ツイートだけを別ブログで展開したい気持ちもあるのですが。うーむ。

とはいえ、月刊誌のような感覚で、連載コラムをまとめた記事として読んでいただけるといいかな、とおもっています。10月下旬~11月中旬に配信したもののなかからセレクトした10個のコラムです。どうぞ。


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■クリス・アンダーソンの仕事場にある未来。(11月13日)

クリス・アンダーソンの『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』 は読んでいてお尻がむずむずする本だった。どうも落ち着かない。『FREE』は概念論的で、ビットの世界の話が中心である。しかしながら『MAKERS』は小ロットで欲しいものが創れるモノ(アトム)のロングテールの実践だ。


4140815760MAKERS―21世紀の産業革命が始まる
クリス・アンダーソン 関美和
NHK出版 2012-10-23

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ラジコン飛行機を自動操縦できないかという趣味から、クリス・アンダーソンの試みは始まった。ソフトウェアはオープンソースのチカラを借りて次々と改良され、オープンハードウェアを使って基盤から部品まで作りはじめる。やがて彼の趣味は3Dロボティクスという立派な企業として収益をあげる。

レーザーカッター、3Dスキャナ、3Dプリンタ、CNC装置。そんな名前を聞くと、ぼくは製造業の中小企業の人間じゃないから、と腰が引ける。しかし家庭用3Dプリンタが登場する時代も近いという。キャラクターのフィギュアはファイルを入手して、自宅で3Dプリントができるような時代がくる。

ビットの世界のオープンソース化が、アトムの世界も変えようとしている。既製品の椅子を買うのではなく、目の前で3DのCADファイルをいじって、世界に1個だけのカスタムメイドの椅子を作ることが可能になる。アップロードされたデザインはさらに手が加えられていく。デザインの協創化である。

『MAKERS』の最後にはクリス・アンダーソンの自宅の作業場にあるハードウェア、ソフトウェアもリストアップされていた。半田ごてでパワーアンプなどを作った少年の頃がよみがえった。製造業といっても遠いものではない。ぼくらの子供の頃にそこにあった、あの世界がものづくりの原点だったのだ。


■自分のなかにカリスマを。(11月10日)

アドバイスには迂闊に従ってはいけない。というよりアドバイスなど話半分に聞いておいたほうがいい。たとえば「会社なんて辞めちゃえ」という無責任な忠告は、たいてい金銭的に問題のないひとが会社を辞めても生活できる場所から煽る意味も含めて投下している。あなたとは状況が違う他人の言葉である。

「人生なんて面白おかしく生きろ」という言葉も無責任だ。もしあなたが余命2週間で病の床に臥していたのであれば、その言葉のどこがアドバイスとして有効だろう。しかしながら、余命2週間のあなたがその言葉を発するのであれば、それはまた別のメッセージとして捉えられるかもしれない。

いまネットの界隈で若い人たちの支持を得ている方々の発言に対して疑問を感じるのは「わかりやすく浅い言葉が多過ぎないか」ということだ。深みがない。何も眉間に皺を寄せて難しく生きるのが正しい、エライというわけではないが、本質から目を背けて表層的に生きることは生を劣化させるとおもう。

というぼくが書いたアドバイスめいたものもまた、どうでもいいことだろう。大切なことは自律して考えること、自分なりの尺度をもって物事を測り、取捨選択できる能力を有することではないだろうか。カリスマ的なリーダーの言葉に寄り添いたくなる気持ちもわかるが、自分のなかにカリスマを持ちたい。

自由であるということは束縛から解き放たれることではない。みずからを解き放つことだ。他人の言葉を全面的に信用しているのも自分であり、他者からのやっかみに囚われているのも自分だ。すべて自分の覚悟に依る。「あのひとのアドバイスだから」を言い訳にしていないかよく考えたほうがいい。


■スーツマン。(10月24日)

通常、仕事中にはスーツを着用している。私服でも構わないよ、という職場でもスーツを着用していた。夏でも長袖の白いワイシャツにネクタイ。クールビズだからネクタイなんて外せばいいのに、といわれたけれどネクタイをきゅっと締めていた。上着も持っていた。それがぼくのスタイルだからだ。

いつもスーツ着用であるのは、仕事中に私服では気が緩んでしまうせいもある。私服よりスーツのほうが楽だからということもある。ネクタイを緩めたり外したとき飲むビールが美味いせいもある。しかし基本的にスーツが好きなのだ。憧れのビートルズがスーツ姿で音楽を演奏していたことにも影響を受けた。

リッケンバッカーのギター、ヘフナーのバイオリンベースを抱え、スーツ姿で刺激的なロックを奏でるビートルズスタイルが、かっこいいとおもった。シリコンバレーでベンチャー企業が隆盛していた頃、スーツ姿のIBMがバカにされ、ヒッピーみたいな格好がよしとされたが、ぼくはスーツ派だった。


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*Photo:Op de set van The Beatles (VARA, 1964).

ぼくの父親は公立高校の校長を勤めた男であるが、校長の職に就く時代の前から学校にはスーツで通っていた。ぱりっと糊のきいたワイシャツを着て、スーツ姿で決めた親父の背中はとても格好良かった。誇りだった。防虫剤であるナフタリンの匂いかもしれないが、凜としたスーツの匂いがぼくは好きだった。

古い映画で観る昭和初期のビジネスマンのスーツ姿もかっこいい。日本の男子はかつてはとても紳士的であったとおもうのだ。紳士的だが世界中が目を瞠る驚異的な経済成長を実現していた。スタイルから入ってもかなわないかもしれないが、ぼくも毎朝ネクタイを締めることで矜持を正しているつもりである。


■日本に足りないもの。(11月4日)

日本人は「製品・サービスを創った」後に「市場に投下する」ことは得意だ。しかし逆に「どんな市場が求められているか考える」ことから「製品・サービスを創る」ことは苦手なようだ。「マーケティングが弱い」といわれる所以である。将来的に拡大する市場を創造(想像)できない。

いまさらながらであるが、米国は逆である。こんな市場が求められているだろう、という発想のもとに製品やサービスを創り出す。スティーブ・ジョブズなどはマーケティングリサーチの結果さえ信用していなかったようだ。この市場はぜったいに必要だという信念が、ものづくりを支えていた。

日本の特技は「カイゼン」である。日本語も漢語を輸入して改善したものであり、多くの製品も改善によりすばらしいクオリティを維持することができた。カイゼン力がダメだとはおもわない。ただ、日本はマーケティング的な構想から市場創造をしなければならない時代に追い込まれているように感じる。

日本の文化は「組み合わせ」から生み出されることも多い。組み合わせは発想法のひとつとして最強の手法だ。モバイルや電子書籍と日本文化的な何か、伝統な日本の文化と新しい技術を組み合わせて、新しい市場を生み出すことができないだろうかとふと考える。多くのひとが考え抜いた道筋だろうけれども。

組み合わせから何かを生み出すという思考の枠自体が日本人的な感じがして、何かもやもやする。ほんとうは自律する「覚悟」が足りないのだろう。これで食っていく、日本の未来を変えるのはこれしかない、という覚悟で注力すれば、すくなくとも何らかの実績は残せるはず。足りないのは覚悟かもしれない。


■直感も創られる。(11月15日)

直感は侮れない。「直感的に」いいとおもった、目を奪われた、共感したというモノは、本質的に優れていることが多い。第一印象ですべてが決まるとはいわないが、購買意識にも大きな影響を与える。広告ではAIDMAの法則のうち主にAttention(注意)とInterest(関心)に関わる。

「需要創出(Demand Generation)」というマーケティング用語がある。見込み客の「獲得(Lead Generation)」「育成(Lead Nurturing)」「絞込み(Lead Qualification)」の段階をくくった言葉で、特に見込み客の育成は重要だ。

見込み客の育成(ナーチャリング)段階において、ソーシャルメディア(またはEarned Media)による製品やサービスの評価の醸成は、インバウンドマーケティング的にも重視すべき点だろう。このとき企業側のメッセージが明確に伝わることはもちろん「直感的な」良さが共有されると効果的だ。

「直感的な良さ」はプロダクトやサービスがもともと持っているものもあるかもしれないが、見込み客や消費者が評価する際に「育成」され、洗練されていくものもあるだろう。企業の意図とは全く別に、評価を通じて見込み客や消費者がプロダクトやサービスの直感的な良さを見出すこともあると考えている。

「直感も創られる」といったら大袈裟だろうか。従来はCMなどの広告が担う分野であったイメージやメッセージなどのクリエイティブが、ソーシャルメディアの評価のなかで醸成され、支持されるようになる時代だとおもう。われわれがプロダクトやサービスの直感的良さを磨き上げる時代でもある。


■社会実現のために。(11月16日)

就活や仕事をする上で「自己実現」は重要だといわれる。マズローの欲求5段階説では安全など低次元の欲求が満たされると、高次元の自己実現の欲求に向かうと解説される。しかし、坂口恭平氏の著書『独立国家のつくりかた』のなかで自己実現より「社会実現」をめざせと書かれていてガツンと打たれた。


4062881551独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口 恭平
講談社 2012-05-18

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「社会実現」。考えもしなかった。自殺者が少ない社会にしたいであるとか、子供たちの教育に恵まれた社会にしたいだとか、そんな理想をうっすらと考えることはある。しかし、どうせ無理だろう、と斜に構えて思考を打ち切ってしまう。自分のことでせいいっぱいだ。社会のことなど考える余裕もない。

「志」が低いのかもしれない。かつて高度成長期の日本には、がむしゃらだったけれど先進国に追いつこうという志があったのではないか。日本はその原動力のもとに躍進したのだが、現在は向かうべき目標を失っている気がする。政治のことも他人任せであり、みずから動く前に諦めてしまうことが多い。

個人が生きることでせいいっぱいの時代だが、津田大介氏の『ウェブで政治を動かす!』を読みながら、わずかではあるが日本の将来に対する希望を感じた。原発の再稼動反対のときのデモなど、日本を変えていこうとする新しいチカラはまだぼくらのなかに眠っている。その潜在能力を信じていたいとおもう。


B00A47EMP8ウェブで政治を動かす!
津田 大介
朝日新聞出版 2012-11-13

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いきなり社会を動かそうとおもっても絶望するばかりだ。志を高く掲げろといっても困ってしまう。できることから、ちいさなことからはじめればいい。社会のこと、政治に関心をもつというスタートでもよいだろう。機会は訪れている。自分の周辺1メートルの思考から脱皮することからはじめてみたい。


■感動の持続。(11月17日)

sora121115.jpg感動という言葉は「感」じて「動」くと書く。動かされるのはまず「こころ」だ。懐かしいひとに出会って、あるいは素晴らしいアートに出会って、こころが揺さぶられる。こころの動きは内部から身体の動きとしてぼくらを突き動かす。おもわず拍手したくなる、駆け寄って抱きしめたくなる、というように。

感性のレベルはひとそれぞれ違う。ぼくらが何をもって感動するかは千差万別である。いつもと同じ凡庸な青空にふと空って青いんだなと感動することもあれば、壮大なスペクタクル映画に涙を流して感動することもある。感性が磨耗すると感動を察知できなくなってしまうかもしれない。それは寂しい。

作品、つまり音楽や小説や詩や絵画やアートのようなものだけに感動するわけではない。スポーツ選手が記録を更新した瞬間、競技で勝利を勝ち取った瞬間にも感動する。政治家や経営者などリーダーによる力強いスピーチにも感動する。地球の果てに広がる荘厳な光景、憧れの地を旅して感動することもある。

ぼくらの感動はなかなか普遍化できない。持続することも難しい。ガツンときた感動も放っておけば衰退していく。忘れられる。だからアーティストは、多くのひとを感動させ、数千年に渡って感動を持続させるような芸術作品を残そうとするのだろう。刹那の感動を持続させるための営みは容易ではない。

最近何か感動したことがあったか。脳天を殴られる衝撃があったか。情報過多なネットの世界にも感動はある。ネットだからこそ感動を誰かに伝えることで感動のエコシステム(生態系)を循環させることだってできる。感動を創り出すことは難しいが、せめて感動の伝道師(エヴァンジェリスト)でありたい。


■エンターテイナーと批判。(11月2日)

ツイッターで楽しいとおもうときは、非公式リツイートの連続やメンションで、ひとつのアイディアに対して多様な角度から、こんなことも考えられる、こうも考えられると発想がつながって集積されていくとき。情報でもいい。音楽を聴いているときに、この曲もいいよ、と推薦されると嬉しい。

インターネット界隈の著名人の批判が、非公式リツイートでつながっていくこともある。批判といえば聞こえはいいが、悪口に過ぎない幼稚なものもある。読んでいて不快なことも多い。しかし本人たちは楽しいのだ。他人を楽しませているという意味では、批判されている著名人はエンターテイナーといえる。

自覚的であっても無自覚であっても、関心はもちろんその逆の批判を巻き起こすひとは「エンターテイナー」だ。極論や暴論で批判の渦を巻き起こすひとに対して、賢明な人間は相手にしない。本業に集中するようにしている。しかし、いいように煽られて、扇動者の批判にのめり込んでいくひともいる。

煽られて批判の渦にのめり込んでいくひとたちの模様がガラス張りの状態でみえてしまうから、押井守氏は『コミュニケーションは、要らない』という本でツイッターが愚かであると指摘されたのであろう。しかしながら、熱くなっている批判者の影に無数の沈黙している良識者がいることを忘れてはならない。


434498255Xコミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)
押井 守
幻冬舎 2012-03-30

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米フェイスブックのマーク・ダーシー氏が「ad:tech Tokyo 2012」に登壇して語った言葉をウェブの記事で読んだ。企業と消費者(BtoB)であっても消費者同士(CtoC)であっても、基本にあるのはローカルなコミュニケーションだ。人間同士のソーシャルな世界が基本である。


■引用におけるモラルとセンス。(11月12日)

文学や芸術は「引用の織物(テクスト)」であると言われる。ある物語の主人公の台詞に古典で著名なフレーズが引用されていたり、他の芸術作品からの文脈が流れ込んでいたり、幾重にも引用によって織られているという比喩である。何を引用するかによって作者の「教養」が問われるともいえるだろう。

ブログ界隈を彷徨っていたら「引用はパクリか」という言及に出会った。アフィリエイトのためにどこかのサイトから人気グッズの案内を拾ってコンテンツを作り、読んだことのない本を引用しているようなサイトは確かに読んでいて気分がよくない。自分の利益のために情報を勝手に拝借している印象がある。

個人的な感想としては、面白そうだから(載せとけばアフィリエイトで稼げそうだから)なんでも取り上げてしまえ、というブログは品がない。ブロガーが書く記事のモラルとセンスを問う。書籍を掲載するのであれば少なくとも読むべきだろうし、グッズなら買って使ってからブログに載せるのが誠実だろう。

一時期流行して急速に消えてしまったが「キュレーション」であっても、情報や作品や作家や社会的な文脈背景など時間をかけて調べたり勉強することが必要となる。二次情報を手軽に入手できる「まとめ」サイトも便利だが、ほんとうに信用できるのは一次情報、つまり「体験したかどうか」だとおもう。

デジタル関連の著作権は、クリエイティブ・コモンズのライセンス規約などのように、ある程度ゆるくしていただけるのが希望だ。だからといってリブログと大差ない安易な引用ばかりで書かれたブログは、ブロガーの編集能力のレベルが低すぎて読むに値しない。引用のモラルとセンスは重要である。


■語尾感覚。(11月18日)

先日、レンタルCDショップで中古CDのワゴンセールをやっていたので、松田聖子さんのCDを6枚も買ってしまった。通常あまり歌謡曲は聴かない。しかし久し振りに松田聖子さんのCDを聴いて、80年代の歌謡曲は凄いとおもった。最近のAKB48などにはない楽曲のクオリティがあると感じた。

松田聖子さんの曲を聴きながら感じたことは、松本隆氏が書いている歌詞の秀逸さと語尾の違和感だ。たとえば「Rock'n Rouge」。「動機が不純だわ」とあるけれど、その「だわ」に何か異質な感じがある。たぶんAKB48などが歌うとすれば「不純だよ」とか「不純だね」になるとおもう。



個人的な感覚であるが、女性言葉の「だわ」という語尾は廃れつつあるのではないだろうか。しかし、だからこそぼくのようなシニアに片足を突っ込んだ男には訴えるものがある。川上弘美さんの小説の文体にも同様なことを感じる。「だわよ」という語尾の表現があって、なんだかみょうに惹かれてしまった。

歌謡曲(いまならJ-POPなのか)のアイドルの歌詞から考察すると、かつては年齢差のある恋人どうしという物語世界があったのに対して、現在では友達感覚もしくは同年齢の恋人どうしという印象を感じる。これは私見であり、さまざまな歌詞が書かれているとおもうのだが、歌詞の世界に変化を感じた。

アイドルにどんな歌詞を歌わせるかということは時代の文脈を反映する。ぼくは日本語は変化するものであっていいと考えている。そもそも中国の言葉を輸入して改良したオリジナルではない言語であり、だからこそアイデンティティはないかもしれないが、フレキシビリティはある。日本語の変化は面白い。

投稿者: birdwing 日時: 08:01 | | トラックバック (0)