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2012年10月28日

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秋から冬のとばぐちにかけて考えたこと。

秋になって空が高くなったなあとおもったら、もはや冬の気配。なんだか眠いです。冬眠に誘われているのでしょうか。ぼくの次男は喘息持ちなのですが、空気が乾燥するこの時期、喉をいためるひとも多いのではないかとおもいます。お気をつけくださいね。

しばらくまとめていない間に溜まってきたので、10月中旬以降の連投ツイートをまとめてみます。順序は日付通りではなく、文章は修正しています。超長文で失礼いたします。


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■「なめこ」の秋。(10月28日)

「なめこ」が流行っている。といってもお味噌汁に入れるなめこではなく、株式会社ビーワークスのiPadやiPhone/Android無料ゲームアプリ「おさわり探偵なめこ栽培キット」のキャラクターである。豆しばなどキャラクター好きの小学校4年生の次男は、半年ぐらい前から嵌っている。

そもそも「おさわり探偵」という名前と(小沢里奈が主人公なのだが)「なめこ」というストレートに言ってしまえば男性特有のアレを想像させるキャラクターがちょっとエッチであり、オトナ的である。しかしながら子供にもウケている。最近では版権を売り出したのだろう。お菓子にもなっている。

・・・・・・とつぶやいたところ、「ダンボールなめこ( @BIG_the_NAMEKO ) 」さんから早速ツイートをいただいた。ダンボールなめこさんからのツイートは以下の通り。

考察、評価を興味深く拝読いたしました。「おさわり探偵」について申し上げると、ニンテンドーDS出始めの頃、「タッチ操作」をコンセプトにした企画として「おさわり」探偵は生まれました。つづく

なめこに関しては、元々別のMMORPGの企画書にスライム的な雑魚キャラとして描かれたのがオリジナルでして、とても印象的なキャラだったことから「おさわり探偵」の助手に抜擢されたという経緯があります。ちなみにそのMMORPGはお蔵入りとなっています。

長々とすみません。という訳で何が言いたいかと申しますと、「おさわり探偵」にアダルトな要素は一切ありませんよ~ということです。むしろ全く逆のハートフル&ファンタジーな世界観のゲームです。安心してお子様に楽しんでいただいて大丈夫です笑

ダンボールなめこというのは、なめこファンのひとにはわかるかもしれないが、ダンボールで顔の部分だけの着ぐるみ(?)をつくって、制作会社の「なかのひと」がなかに入ってゲームやグッズの解説をするキャラクターである。

ゲーム内でゲットできるキャラクターのひとつにもなっていて、ストラップをうちの次男も持っている。なめこの情報発信サイトに「なめこぱらだいす」通称「なめぱら」というコンテンツがあるが、そのコンテンツのナビゲーターであり「著名人(著名なめこ)」である。ちなみに、「なめぱら」はうちの次男は毎日iPadで読んでいる。4コママンガが大好き。

なめこぱらだいす http://namepara.com/

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とはいえ、ぼくのイメージが勘違いだったようだ。なるほど。失礼しました。そこで次のようなツイートをぼくから返信した。

先日、電車のホームでバックになめこのぬいぐるみをくくりつけた女子高生のふたり組をみた。どちらも同じようにぬいぐるみをぶら下げている。高校1年の長男に聞くと「いま、なめこのぬいぐるみをバックに付けるのがトレンド」なのだそうだ。3つぶら下げている男子高校生もいるらしい。

プロダクトを持ち歩くことが「広告あるいはPR」になり、さらにプロダクトを文化として浸透させることで「おさわり探偵なめこ栽培キット」はマーケティングに成功している。情報発信サイトを使って継続的に消費者の関心を集めていることでいえば、コンテンツマーケティングとして、またソーシャルメディアを活用したインバウンドマーケティング的にも成功しているだろう。

ソーシャルメディアなどネット広告に限定するから広告の未来がみえなくなるわけで、ぼくは広告にはまだまだ可能性があると信じている。そのひとつの効果的な方向性はアート化、「絶対領域広告」のようなファッション化なのかもしれない。そこから逆OtoOでオフラインからオンラインに引き込んでもいい。


絶対領域広告 http://www.zettaipr.com/
2012-10-28_zettairyoiki.jpg


少し話が逸れるが、女性の脚のみえている部分にステッカーを貼る絶対領域広告も、広告をひとつの文化として広める「メディア」であると感じている。実は歩いている女性の脚に注目することは、リアルでは(男性にとっては)難しい。訴求されているメッセージを読み取ることは困難だ。しかし、たとえば村上隆著『創造力なき日本 アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』のプロモーションなどは、村上隆氏の描くアートをうまく利用して、広告を掲載した本人が友達に写真を撮ってもらうなどしてSNSで拡散している。

ちなみにOtoOとは、通常はオンライン・トゥ・オフラインの意味である。オンラインで醸成した話題から消費者をオフラインの店頭などに誘導する。しかし、オフライン・トゥ・オンラインもあり得ると考える。絶対領域広告のようなパターンだ。

ぼくの私見にすぎないが、生き残る広告マンは、オンラインとオフラインの両方を見渡した俯瞰的な視点から、ニッチを突いた芸術(アート)やファッションの切り口で発想した広告的思考ができるひとではないかとおもう。文化として広告を創り出せるひとである。

このことについては「ダンボールなめこ」さんからも同意をいただいた。

次男と散歩に出掛けたとき、ぼくらはUFOキャッチャーでなめこのぬいぐるみをゲットした。300円でゲット。次男のよろこびようといったらなかった。おとーさん的には満足な瞬間だ。夏休みの終わりに上野のヤマシロヤにも連れて行ったが、なめこのコーナーがあり、集まっているのはOLさんたち女性ばかりだった。ヤマシロヤで購入したグッズはこんな感じ。


121028_nameko.JPG


株式会社ビーワークスは無料アプリ「おさわり探偵なめこ栽培キット」という魅力的なキャラクターの「プロダクト」で消費者を惹き付け、ゲームからグッズや菓子に展開している。さらにソーシャルメディアを通じて話題づくりをするとともに、ブランドイメージの維持に努めている。

現在、なめこアプリは色彩の宴バージョンからアップデートして、ハロウィン仕様になっている。ソーシャルゲーム的な要素、バックアップの機能も追加されている。利用者の拡大が予想される。次男は自分で考えたなめこの絵を日々描きまくっている。もの凄い種類を書いた。ビーワークスさんで次男を雇ってくれないかな、とおもっている。


■プロトタイピングなコミュニケーション。(10月25日)

コミュニケーションの目的は相手の正解を突くことではない。共感を得て安心を得ることでもない。コミュニケーションの本質は、異質なものと出会うことではないだろうか。極論を言ってしまえば、自己と他者が完全に同じ意識を共有することは不可能だ。しかし、だからこそ寄り添う行為が必要になる。

押井守氏は『コミュニケーションは、要らない』という本でふたつのコミュニケーション、「現状を維持するためのコミュニケーション」と「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」を挙げている。前者は「馴れ合い」であり、新しい価値感を生み出す意志はない。しかし、後者は「議論」である。


434498255Xコミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)
押井 守
幻冬舎 2012-03-30

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議論ができない日本人を押井守氏は嘆く。コミュニケーションが「わかるでしょ?」という暗黙の了解を得る行為に陥ってしまうのだ。完全なものが最初からあるという幻想が馴れ合いを生み出すのだろう。ぼくはコミュニケーションは一方通行×2ではなく、双方の中間点に形成されるものだと考える。

つまり、創造的対話としてのコミュニケーションは、双方の協創による「プロトタイプ(試作品)」の制作過程だ。お互いが双方向の対話を繰り返すうちに、未完成なプロトタイプを削ったり付け足したりして完成形らしきものに近づけていく。まったく予想しなかったものができあがることもあるだろう。

協創的なコミュニケーションは何が生まれるかわからない。だからこそクリエイティブであり、わくわくした体験だ。最初から答えのあるコミュニケーションはつまらない。ともに未知の何かを創り上げていくプロセスにこそ魅力がある。そしてぼくはインターネットにおいてもそれが可能であると信じている。


■文体の弛緩。(10月18日)

昨夜、久し振りにはっぴいえんどの『風街ろまん』を聴いて癒された。音楽的にも素晴らしいことはもちろん、この70年代のアルバムで特長的なのは松本隆氏の作詞が「ですます調」であることだ。なんとなくとぼけたような歌詞の文体が、リスナーのこころを癒しにいざなう。


B001INLH5A風街ろまん
はっぴいえんど
ポニーキャニオン 2009-02-18

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ところで、日本語の文体には大きく分けて「です・ます調」と「だ・である調」のふたつがある。通常、作文のセオリーでは文体を統一することが重要であるといわれるが、混在して使うこともある。冷泉彰彦著『「関係の空気」「場の空気」』という本で「コードスイッチ話法」という用法を知った。

「です・ます調」と「だ・である調」を混在させる「コードスイッチ話法」は意識的に文体の弛緩と緊張を作り出す。「文体を変えることで、リズムの変化がつき、一方的にその場を支配している冷たい感じを避けることができる」と冷泉彰彦氏は語っている。確かにその通りだろう。文体にはリズムが必要だ。

文体の弛緩と緊張のリズムは、身体の弛緩と緊張のリズムを生み出す。ぼくも試行錯誤の末にブログでこの「コードスイッチ話法」の文体に辿り着いたのだが、より話し方に近づいた文体になり、強調部分の「だ・である調」と親しみを表現する「です・ます調」がうまく調和するように心がけている。

たかが文体、されど文体である。文章の奥は深い。いま読書中の押井守著『コミュニケーションは、要らない』ではインターネットの文章を徹底的に批判されているが、ぼくはこの場所で日本語が損なわれているとは感じない。より洗練された次世代の日本語はインターネットから生み出される、と考えている。


■日本語と身体感覚。(10月20日)

日本語の言葉には身体感覚がともなう。日本語の大きな特長といえるだろう。押井守氏が『コミュニケーション、は要らない』で指摘されているように、漢語を輸入して改良して日本語をつくり上げた日本人には言語的オリジナリティはないだろうが、身体感覚をともなう日本語こそが大きな文化である。

日本語の独自性が最終的には世界から日本を守る、というようなことをドラッカーも述べていた。ぼくらは日本語を文化として有していることに自信をもち、大切にしていかなければ、とおもう。インターネットで日本語が乱れるともいわれる。しかし、この場から新しい日本語も生まれると信じている。

日本語の語感に注目して、感性的な分析をされているのが黒川伊保子氏である。『怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか』を読んでファンになり『ことばに感じる女たち』『恋愛脳』などの著作を読んだ。彼女は言葉のクオリアやサブミリナル・インプレッションなどを研究されている。非常に面白い。


4106100789怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか (新潮新書)
黒川 伊保子
新潮社 2004-07

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4584392544ことばに感じる女たち (ワニ文庫)
黒川 伊保子
ベストセラーズ 2007-12-18

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4101279519恋愛脳―男心と女心は、なぜこうもすれ違うのか (新潮文庫)
黒川 伊保子
新潮社 2006-02

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例えば、母音の「あいうえお」は開放的で親近感を持たせる。異性と話すとき「あいたかった、あえてよかった、ありがとう、あとで○○しようね、あしたね、いいね、うん、おはよう」と母音はじまりの言葉を使うと親近感がぐっと増すそうだ。黒川伊保子氏は製品やサービスについても分析されている。

黒川伊保子氏は「ちぇっ」という舌打ちを、歯の裏側を舌で蹴飛ばす行為であり言語であるとともに身体感覚が連動していると考察されている。書き言葉と話し言葉がほとんど同一である日本語は、インターネットの書き込みも身体に影響を与えていると考えていいだろう。身体的に快い言葉を使いたいものだ。


■感情との付き合い方。(10月15日)

感情は「情報」のひとつである。というと伊藤計劃氏の小説『ハーモニー』をおもい出す。21世紀後半を描いたこのSFでは、EMOTION-in-Text Markup Language:Version=1.2というマークアップ言語で物語が綴られていく。感情がタグとして記述される。


415031019Xハーモニー (ハヤカワ文庫JA)
伊藤 計劃
早川書房 2010-12-08

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ぼくらが伝達・共有する情報は、無機質なデータだけではない。怒りや嫌悪、よろこびやかなしみなどの感情も立派な情報である。したがって不毛におもわれるような「ばーか」や「死ね」などの言葉も情報のひとつといえる。その情報に積極的に関わるか無視(スルー)するかは、情報の受信者に委ねられている。

はるかぜちゃん(春名風花さん)のように、あらゆるネガティブな書き込みに丁寧に向き合う姿勢は驚きに値するが、自分に気持ちのいい感情だけが情報ではない。とはいえ、あらゆる情報を受け止める彼女のこころの強度は凄いとおもうし、新たなデジタルネイティブが持つべきリテラシーなのかもしれない。

感情という情報は共鳴(共感)を生む。思考と違ってアタマのなかを暑くしたり寒くしたり、こころを揺さぶるから問題だ。ブロックして安全地帯に逃げ込むのも手かもしれないが、正々堂々と感情に向き合うとすれば、感情から共鳴を奪い、客観的に自分の外側に置いて観察することが必要になるだろう。

感情から距離を置くためには、伊藤計劃氏の感情マークアップ言語ではないが、<anger>アタマが爆発しそうだ</anger>のように一度、怒りをカッコで括ってみるのもいい。機械的に感情を自分の外に置くとすこしだけ落ち着く。感情という情報は、翻弄されたものが負けである。


■プライベート/パブリック。(10月21日)

クリス・アンダーソンの新刊『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』が超面白い。わくわくしながら読み進めている。しかし、気になるのはかなり長い間放置してあるジェフ・ジャービス著『パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ』である。こちらも大変興味深い本なのだが。

ジェフ・ジャービスの『パブリック』は、半分以上読み進めているのだが、異性と混浴のサウナを恥ずかしがるか恥ずかしがらないかなどというわかりやすい点から、ドイツでグーグルマップの撮影がプライバシーの侵害として猛反対を受けたことなどまで、プライベートとパブリックの境界を探っていく。


4140815132パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
ジェフ・ジャービス 小林 弘人
NHK出版 2011-11-23

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ブログやSNS、ツイッターなどもプライベートとパブリックの境界がわかりにくいツールである。匿名にすればプライベートとしての利用であろうが、だからといっておおやけに殺人予告をすれば個人の責任が問われる。また、プロフィールに実名や企業代表者などを記述すれば、もはやパブリックである。

企業の社長が「いま昼食なう」などくだらない写真付きのツイートをして自己満足していたから気が緩んでしまったのかもしれないが、企業名と職名を明記すればパブリックな発言と読まれて当然。まして「バカ」という暴言や「死にたい」など発言すれば、本人が無意識でも企業人としての責任が問われる。

池田紀行著『キズナのマーケティング』では、企業のソーシャルメディアガイドラインとして「このブログの内容や意見は、私個人に属するものであり、私が所属する組織はもとより、他の組織の見解を示すものではありません」という免責事項を書くことが重要であり、記載頻度が高いと書かれている。

プロフィールを実名にし、企業名や代表者との肩書きを書いた時点で、その発言は必然的にパブリックな発言になる。「だってつぶやきだから会社と別でいいじゃん」などというのは幼稚。甘えたことを言っていられない。企業人として矜持を正すべし。それができなければツイッターなど辞めたほうが無難だ。


■つながりについて。(10月22日)

ソーシャルメディアは「つながり」を重視する。mixiではマイミク、Facebookではフレンド、Twitterではフォロワーなどと呼ばれたが、ソーシャルネットワークサービス(SNS)ではつながりを通してネットワークを構築し、そのつながりにおけるコミュニケーションが注目されてきた。

しかしながら、インターネットのつながりは仮想のものであり脆い。日本では実名ではなく匿名であることもその要因のひとつとなっているかもしれない。たとえば数百人のフォロワーを持っているTwitterでもアクティブなつながりは数名に過ぎないだろう。「沈黙」しているつながりもある。

「キズナ」ということも池田紀行著『キズナのマーケティング』で書かれているが、「キズナ」を感じられる心からのともだち「心友」をつくることは難しい。幸いなことにぼくはTwitterで心友をつくることができ、コミュニケーションの可能性を信じているのだが、企業と消費者ではさらに難しい。

「六次の隔たり(Six Degrees of Separation)」ということも言われる。「自分の知り合いを6人以上介すと世界中の人々と間接的な知り合いになれる(Wikipediaより)」という仮説である。つながりのネットワークを張り巡らせると、あらゆる人物とつながっていく。

リアルなつながりでは細田守監督の『サマーウォーズ』をおもい出す。あの映画で、主人公たちが危機的状況に陥ったとき、陣内家のおばあちゃんは知人に電話をかけまくって叱咤激励した。たぶんインターネットでは、あの場面ほど強い絆で人を動かすことはできないだろう。つながりの強度は重要である。

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投稿者: birdwing 日時: 11:10 | | トラックバック (0)

2012年9月23日

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視点が変わると世界が変わる。


少年時代、自分の眺めている青空と他人の眺めている青空が別物ではないかという考えが浮かんで、愕然とした覚えがあります。なかなかこの感覚を誰かに伝えることができませんでした。青空は同じ青空ではないか、と言われてしまいそうで、胸のうちにそっとしまい込んでおきました。

欲張りなぼくは、自分の見ている世界だけでなく他人の見ている風景も眺めてみたいなあ、とよく考えていたものです。しかしながら、自分は自分であり、他人の視点からものをみることはできません。残念でした。どうしたら他人の視点を獲得することができるだろう。そんなことを真剣に考える少年でした。

自分にこだわり続けると視野は狭まるものですが、他人の視点に想像を働かせることによって、わずかばかりではありますが視野はひろがります。そんな「見る」ことをテーマに朝の連投ツイートを書いてみました。

9月10日~9月18日までのツイートをまとめて掲載します。若干、推敲などをしました。


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■青空を見上げる。(09月10日)

青空が好きだ。自宅から近い場所にぱあっと空が開ける場所があって、毎朝そこで空を見上げてから出掛けることが多かった。空は毎日違う顔をみせてくれた。雲が多い日もあれば、雲ひとつなく青空が広がっているときもある。ぽかんといくつかの雲が浮かんでいることもある。空の表情が楽しかった。

いつからか空の写真ばっかり撮っている。広角レンズの一眼レフであれば広い空をそのまま切り取ることができるのかもしれないが、自分が持っているデジタルカメラや携帯電話では空の一片しか記録できない。空のいちばん素敵な部分を撮ってパソコンにアーカイブする。フォルダが空の写真ばかりになった。

P1000238.jpg少年の頃、青空をテーマにした小説らしきものを書いたことがある。こんな物語だ。ある日気がつくと空に何かがぶら下がっている。横に引っ張ると、すぅーっと青空がファスナーのように開いて、その向こうに見知らぬ暗黒の世界がみえる。一気に引きおろすと主人公は別の世界にいる、というような掌編。

先日、書店でブルータスという雑誌をめくっていたら芸術家集団Chim↑Pomが取り上げられていた。随分有名になったものだなあとおもったが、彼等のことがあまり好きではない。というのはかつて、彼等は飛行機を使って広島の空に「ピカッ」と落書きをしたことがあったからだ。それが許せなかった。

幻想的な夕焼けをみた日。明日は晴れるだろうとおもったら、やはり一面の青空だった。季節によって青空の深みにも違いが出る。飛行機の上から眺めた青空は、とてつもなく青かった。トウキョーと地方の青空の色も違うだろう。遠く離れた国も違う。ぼくときみが眺める青空さえ異なっていて、それがいい。


■見えないもの。(9月11日)

トウキョーでは星が見えないとおもっていた。植物も少ないし、昆虫もいないとおもっていた。ところが、わずかであったとしてもトウキョーでは星はみえる。田舎と比べたら少ないかもしれないが、植物だってたくさんあるし昆虫も生活を営んでいる。先入観が星や植物や昆虫を見えなくさせているのだ。

「見ない」と「見えない」は違う。「見ない」は見ることができるはずのものから意識的に視線を外すことに対して、「見えない」は無意識のうちに見ていない。見えない世界は、そのひとのなかに存在しない。ぼくらの世界は個々人が見えているものしか信用しない。見えないものは世界から抹殺される。

インターネットの世界では「スルー力」というものが強調される。自分にとって不快であったり気に障る情報は、さっと目を通しても深く関わらずにやり過ごすことである。その発言に関わることを拒否するわけだ。情報を無視しているのような印象もあるが、陰湿な負の言語が飛び交うネットの世界では賢い。

「見る」には「視る」「診る」「看る」「観る」などの漢字もある。「視る」は調べる、「診る」は診断、「看る」は世話をする、「観る」は見物することである。メラビアンの法則というコミュニケーションについて調べた結果がある。他人に最も影響を与えるのは「視覚情報」=Visual」だそうだ。以下、Wikipediaから引用する。

この研究は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションについてを扱う実験である。感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった。この割合から「7-38-55のルール」とも言われる。「言語情報=Verbal」「聴覚情報=Vocal」「視覚情報=Visual」の頭文字を取って「3Vの法則」ともいわれている。

他人や社会の悪いところは「見えない」ほうがしあわせなことがある。あまりに繊細では自分が傷付きやすくなる。ときには自分の感度を劣化させて「見えない」ことも自分を守る上で大切になる。何もかも見えればいいわけではない。見えることで苦痛ならば、見なくてもいいものは見えなくていい。


■ホークアイ。(9月12日)

職場に置いてあった大前研一氏とアタッカーズビジネススクール編著の『決定版!「ベンチャー起業」実践教本』を借りて読んでいたところ、「ホークアイ」という言葉が使われていた。上空から獲物を狙う鷹のように、地上全体を俯瞰(ふかん)する視点ということ。事業計画のプランニングで重要だという。


4833418398決定版!「ベンチャー起業」実戦教本
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かつて「鳥の視界とイヌの視界」という比喩で、地上を俯瞰した視線の獲得をめざしたい、という自分の理想を書いた。地上を歩くイヌは路上のあれこれを詳しく見ることができるが、道の先に何があるか見通すことができない。しかし、地上から遠く離れた上空を飛ぶ鳥は道の全体を見渡すことができる。

「木を見て森を見ず」という言葉もある。物事の細部にばかりとらわれて、全体を見失うことである。木を見るのがイヌの視線であるとすれば、森を見るのは鳥の視線、つまりホークアイといえる。経営的な言葉を使えば、木を見るのは現場の担当者の視点であり、森を見るのは経営者の視点といえるだろう。

部分を見る/全体を見るという対比を時間に応用すれば、部分をみる思考は「いま」を生きること、全体を見るのは「いま」を含む過去と未来全体を見渡すことになる。また、この対比を社会に当て嵌めると、部分を見るのは住んでいる地方行政を見ること、全体を見るのは国家全体の政治を見ることになる。

鷹は人間の約8倍の視力を持っているといわれる。上空1,500メートルから獲物を見極めることができるそうだ。ホークアイとは全体を見渡すとともにターゲットを絞り込んで獲物を注視している。「森」だけでなく「木」もみている。鷹のような視界をもちたい。鷹のようにゆったりと上空を飛翔したい。


■見る/見られる関係。(9月13日)

ひとは他者を「見る」と同時に「見られる」存在でもある。登壇する講師は複数の参加者から見られている。ゴシップで話題になった政治家や芸能人も見られている。見る/見られる関係のうち、どちらが優位かといえば「見る」立場ではないだろうか。受動的であることからも「見られる」立場のほうが弱い。

インターネットではROM(Read Only Membe)という和製英語もある。掲示板やSNSを読むだけで書き込まない人物である。ROMしている人間には書き込む勇気のない興味本位の存在もあるかもしれないが、良識があって語らないひともいる。書き込まないユーザーの存在は「見えない」。

監視という言葉もある。警察やセキュリティーの面から常に相手の状況を見張ることをいう。インターネットで目立つ発言をするひとは衆人監視の状況にあるといえるだろう。問題発言は逐次取り上げられて拡散する。揚げ足を取られることもある。暴力的な視線で見られたり批判されたりすることもある。

見られる立場は弱いかもしれないが、女性やアイドルたちは視線で磨かれることがある。「見られている」ことが彼女たちをうつくしくする。視線が彼女たちを研磨する。見られていることは緊張感を生んだり、演出の仕方をより洗練させていく。見られていると意識すれば、品のない言動は慎むようにもなる。

どんな時代にも若いひとたちは自意識過剰なものだが、見られていることを過剰に意識するとたいへん疲れるものである。それほど他人は自分のことを見ていないことも多い。自分像を勝手に作り上げて「俺ってこういうやつなんだよね」と言及するのは苦しい。他人の視線を意識しないぐらい傍若無人でいい。


■視点が変わると世界が変わる。(9月14日)

zu120923_re.jpgコップに半分水が入っている。「まだ半分水がある」と考えることができる一方で「もう半分しか水がない」と考えることもできる。ポジティブ思考の例に使われる比喩だが、ぼくは両方の考え方ができるほうがいいとおもう。ネガティブだったとしても「もう半分しか」と考えなければいけない場合もある。

マーケティングリサーチの結果で80%が「はい」と答えて残り20%が「いいえ」と答えた場合も同様だ。80%に着目して結果を考察する場合と20%に着目して考察する場合では、考察の方向がまったく異なってくる。どちらが正解とは一概には言えない。選択と考察にマーケッターのセンスが問われる。

長所は裏返せば短所になる。協調性が高いということはリーダーシップに欠けることかもしれない。短所は裏返せば長所になる。細部にばかり拘るということは慎重であるということかもしれない。自己否定ばかりするひとは肯定的に考えてみたらどうだろう。認知の歪みで自分を貶めているかもしれない。

視点が変わると世界が変わる。自分が見ている世界が絶対であるという思考の拘束を解き放ってみよう。もっと違う世界がそこに現れることがある。他者の見ている世界を批判せずに、どうしてそういう見方ができるのか、理解を試みてみよう。他者の視点を獲得すれば自分の視野はもっと広がるものである。

世界にはさまざまな見方と解釈があり、それぞれが正解であり、かつ正解はない。正解があるとすれば、多くのオプション(選択肢)から「自分は」何を選ぶかということだ。他者の視点に惑わされたり迎合するのではなく、視野狭窄な自分の視点に拘るのではなく。客観性と自律性を持ちえた視点は尊い。


■音に色を見るひとたち。(9月15日)

「心眼」という言葉がある。目に見えないものを見抜く心の目のことである。武術などでは相手の技や間合いを心眼で見抜くともいわれる。オカルト的に信じるわけではないが、確かに心の目はある。動物的な勘と言い換えられるかもしれない。術を究めた人間にしかできない境地であるとも考えられる。

音に色をみることができるひとがいる。「共感覚(synesthesia)」と呼ばれる特殊な知覚現象である。音に色をみることは「色聴」と呼ばれ、絶対音感をもつひとに多いらしい。作曲家でピアニストのオリヴィエ・メシアンは共感覚の持ち主で、連想する色を楽譜に書き込むことも多かったらしい。

最相葉月著『絶対音感』によると、オリヴィエ・メシアンは「ド・レ・ミ♭・ミ・ファ♯・ソ・ラ♭・シ♭・シの音程配列ではグレーの奥から金が反射してきて、オレンジ色の粒が散らばって、そこに黄金色に輝いている濃い目のクリーム色」という色がみえるそうだ。音階とともに変化する色が興味深い。


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ぼくらは聴覚、視覚などの五感を別々に分けて考えている。しかしインプットする器官は違っていたとしても、情報を処理する脳はひとつである。だから、音を聴いて色が見えること、色を見て音を感じることは決して特殊とはいえないとおもう。潜在的にぼくらはそのような能力を持っているのではないか。

「共感覚(synesthesia)」の持ち主は、書かれた言葉に色を見ることもあるという。数字にも色が見えるらしい。共感覚のない自分には、共感覚の持ち主に世界がどのように見えるのかさっぱりわからないが、きっと世界はいま見ている世界以上に色彩に溢れているのだろう。なんだか悔しい。


■見守る役割。(9月18日)

親が子供に接するとき、いちばん大切なことは教えることでも褒めることでも叱ることでもないとおもう。見守ることが最も大切ではないか。きちんときみのことを見ているよ、きみのことをわかっているよ、ということ。無関心ではなく、しっかり気にかけていることが大切ではないだろうか。

うわの空で接していてはいけない。空返事をしてもいけない。「ねえねえ」と子供から呼ばれたときに、しっかり向き合い、子供がやっていることを認めてあげる。「そうだね、これが好きなんだよね」とか「上手く描けたね」という言葉をかけてあげるだけで、子供の満足そうな顔は随分違うものだ。

子供のことを見守るだけなのに、これが意外と難しい。頓珍漢な答えをしてしまって「違うよ」と子供からそっぽを向かれてしまうこともある。見守ることは理解することでもある。ただ見ているだけでも子供には十分に想いが伝わるのだが、子供が何をしたがっているのかを理解することは大切。

教師と生徒も同様だろう。叱ることができない、教えることができない教師が増えているような気がするが、最低でも子供たちのことを見守っていてほしい。見て見ぬ振りをするのではない。きちんと直視してほしい。子供たちのいじめを加速させるのは、見守る教師の視線が足りないからではないだろうか。

教壇の上から見下すのではない。子供たちの視線に降りて見守ること。家庭でも同様だろう。子供たちの視点を理解しながら、その視点の先にあるものを見守ること。監視することではない。やさしさをもって見守る大人たちが増えてほしい。そうすれば次の世代の子供たちを育むことができるとおもうのだ。

投稿者: birdwing 日時: 10:05 | | トラックバック (0)

2011年7月31日

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善意の拡散。

経済的な窮地に陥っていたときのこと。親に電話をかけてなんとなくそんな状況を言い澱んだところ、その後、ふいに上京した親が「これはわたしの親が亡くなったときに預かっていたものだけれど」といって、決して少なくはない額のお金を渡してくれたことがありました。

恥ずかしかったけれど、うれしかった。きちんとことばでお願いしたわけではないのですが、暗黙のうちに親に頼っていました。息子の窮地を察知してくれて、親のほうから手を差し延べてくれたわけです。

有難いことです。親不孝なぼくは親を頼ってばかりで、親からの恩を返すことができません。親から与えてもらったものは数知れず、悩ませることも多々あり、恥の多い人生を歩んできました。

親から与えてもらった善意に対してどうやって答えていけばいいのか。

簡単なことじゃん、温泉や旅行に連れて行ってあげたり、美味しいものを食べに連れて行ってあげたり、頻繁に帰省するなど何でもいいから恩を返すことだよ、とアドバイスしてくれるひともあるかもしれません。そんなさりげない恩返しをさらりとできるひとも、ぼくの周囲にはいます。けれどもその簡単なことでさえ、ぼくはできていません。いやはや、頼りない長男というべきか。

ところで、月読寺の住職をされている小池龍之介さんに「ブッダにならう 苦しまない練習」という本があります。

4093881820ブッダにならう 苦しまない練習
小池 龍之介
小学館 2011-03-30

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その本のなかで、親孝行についてブッダの次のようなことば(増支部経典 三集)が引用されています(P.42)。

両親に按摩(マッサージ)をし、入浴を手伝ってあげ、リラックスさせてあげる。
しかしそれだけでは、父母に育てられた借りを返済したことにはならない。父母に家や大金をプレゼントしても、返済したことにならない。
なぜなら君の父母は君を養い、いろいろなことをしてくれて、君にこの世を見せてくれたのだから。
父母が確信がなく優柔不断な性格ならば、確信を持って生きられるようにしてあげる。
父母が破戒者であるならば、心のルールを守れるようにしてあげる。
父母がケチであるならば他人に分け与えるよう心を変えてあげる。
父母に智恵がないなら、智恵をつけさせてあげるように。
君がこうして親を育ててあげれば、父母からの借りを本当に返済したことになる。

ここで書かれているのは、親を教育することで恩を返す、ということです。これはかなりハードルが高いですよね。しかし、大袈裟な教育ではなく、たとえば日々イライラした態度で親に接していたら、親に対する接し方を少し変えて、ゆったりと接するようにする。そのことで親のほうも落ち着いて話ができるようになる、というようなことでも「教育」になるようです。要するに自分を変えることで、親を変える、というようなことのようです。

考えてみると、お金を受ける→お金で返す、というのは経済的な等価交換であり、恩を受ける→恩を返すというのは非経済的な等価交換的な善意の受け渡しです。しかし、恩を受ける→教育で返す、というのはまったく違う価値観による善意の返し方になっています。こういう恩の返し方もあったのか、と目からウロコな感じです。

さらに考えてみると
「親から受けた恩を、自分の子供に返す」
という伝承的な恩の返し方もあるかもしれません。

古くから日本には「情けは人のためならず」ということわざがありました。親切は巡り巡って自分のもとに戻ってくる意味です。あるいは「恩送り」ということばもあったようです。感謝の気持ちを拡散させるという意味では、「ペイ・フォワード 可能性の王国」という映画を思い出しました。

B00005MINWペイ・フォワード [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ 2001-08-23

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「もし自分の手で世界を変えたいと思ったら、何をする?」という教師の問いに、中学生のトレバーは「自分が受けた思いやりや善意を、その相手に返すのではなく、別の3人の相手に渡す」というアイディアを提案します。挫折を繰り返しながらも彼の行動は波紋を広げていくのですが・・・。映画自体は若干、理想主義的な印象もあるのですが、トレバーの構想が波及していくところは注目しながら鑑賞しました。

人間の教育は、世代を超えて歴史の連鎖によって成立してきた、途方もないバトンリレーなのものかもしれません。ということを考えていたら、今度はあまり詳しくはないのですが、遺伝子のことがおもい浮かびました。

リチャード・ドーキンスに「利己的な遺伝子」という本があります。有名な本です。

4314010037利己的な遺伝子 <増補新装版>
リチャード・ドーキンス 日高 敏隆
紀伊國屋書店 2006-05-01

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その本のなかで、ドーキンスは"ミーム"ということばを用いました。子孫に限らずひとからひとへ、複製されていく文化的情報のことで、Wikipediaには次のように定義されています。

ミーム(meme)とは、文化を形成する様々な情報であり、人々の間で心から心へと伝達や複製をされる情報の基本単位を表す概念である[1]。簡単に言えば、人から人へコピーされる情報である[2]。ミームは会話や人々の振る舞い、文字、儀式等によって人の心から心へとコピーされていく。遺伝子が子孫へ伝達される生物学的情報であるのとは対照的に、ミームは人から人へ伝達される文化的情報である。

いわゆるトレンドのようなものも含まれるため、ミームが対象とする文化は広範囲に渡ります。

災害時に飛び交うデマ、流行語、ファッション、言語、メロディなどの文化情報の伝承伝播の仕組みを、論者の定義に基づいてすべてミームという仮想の主体を用いて説明することがある。

いま、ぼくはビートルズの「A HARD DAY'S NIGHT」を聴きながらこの記事を書いているのですが、古いリズム&ブルースの「ミーム」が彼らの曲のなかには息吹いているのを感じます。

B00267L6SKハード・デイズ・ナイト
ザ・ビートルズ
EMIミュージックジャパン 2009-09-09

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それは彼らの音楽を貫いている律動感であると同時に、単なる複写ではなくオリジナリティを感じさせるものになっている。古い遺伝子を取り込みながら突然変異を起こした新しさがあるからこそ、ビートルズの音楽はいまでも新しい。そしてさらに、亜流といっては失礼ですが、彼らの音楽から影響を受けた音楽がたくさん生まれています。

投稿者: birdwing 日時: 18:49 | | トラックバック (0)

2011年4月10日

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でっかいモニュメント。

東京スカイツリーが3月18日、634メートルになりました。333メートルの東京タワーを抜いて、東京で(そして世界で)いちばん高い自立式電波塔になったわけです。東京タワーの四角張ったデザインもレトロな感じでよいのですが、グリーンで丸みを帯びた東京スカイツリーは21世紀的な印象があります。この近辺の小学生たちは、スカイツリーを仰ぎながら学校に行くのでしょうか。

「スカイツリーを超えるような、でっかい人間になれよ!」

そんな激励が聞こえてきそうな気がします。

ところで、幼少の頃、ぼくは静岡県御殿場市そして沼津市に住んでいました。御殿場市はやや北ですが、沼津市は駿河湾に面して気候が穏やかで、市の中心に狩野川が流れ、とても過ごしやすい街でした。ひものが名産でしょうか。沼津市から東京タワーはさすがにみえませんでしたが、この街からみえるいちばんでっかいものといえば、富士山でした。

富士山、でっかかったなあ。

子供だったせいもあったかもしれないのだけれど、冬のすかーっと晴れ渡った空に雪を被りながらどーんとそびえる富士山は、まさに日本一の山でした。

Wikipediaに御殿場市からみた富士山の風景写真がありますので引用します。そうそう、こんな感じ。


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厳しい父のおかげで(また、ぼくは足が不自由だったせいもあって)毎朝マラソンで町内を一周することが日課に決められていました。特定のコースを走ったあとで学校に行っていたのですが、早朝に眺める富士山は格別でした。小学校にも冬になると授業の前に朝のマラソンの時間があり、グラウンドをぐるぐる回らされたのですが(走ってばっかり)、トラックの向こうでどっしりと見守っている富士山が頼もしくみえました。

そして、その富士山の雪解け水を浄水した水道水が、きーんと冷たくて、ものすごくおいしいのです。水を買うなんて考えられなかった時代、柿田川用水からの富士山の雪解け水は、水道水でありながら最高においしい水でした。いまはどうなんでしょうか。いまでもあの味のままなのかな。

富士山は、いつどんなときにもどーんとそこにそびえていて、ぼくらを見守ってくれていました。富士山は何も語りません。不動の存在です。ときに山頂の雪を風で吹き飛ばしたり、雲をかぶったりしていましたが姿は変わらない。静岡県といえば地震の頻発地帯であり、座布団型の防災頭巾を学校の椅子にはいつも敷いていて、地震の避難訓練を何度も行ったのですが、なんとなくどっしりとした気持ちで構えることができたのは、富士山が守ってくれる、というような意識があったからかもしれません。という富士山だって、活火山で地震が起きたらどうなるかわからないのですが。

富士山に登ったことは2度ほどあります。1度目は小学校の頃の遠足(?)、2度目は大学の山岳部での登山でした。

小学校のときには、こまかい石の道(砂走りというのでしょうか)をじぐざぐに登っていったのですが、帰路、そのちいさな石が滑りやすいのです。うひょーこりゃ止まらん、滑る、滑ると、スピードをセーブしながらじぐざぐな道を降りていったところ、ごろごろごろっという感じで隣のクラスの男の子が直線で落っこちていったのが印象的でした。彼は救急車で病院に運ばれました。

大学のとき、ぼくはやったことがないのに入学とともになぜか山岳部に入部し(根性がないので1年で退部)、冬山登山のひとつとして富士山頂をめざしました。山岳初心者のぼくは、登頂の前に先輩から滑降訓練などを教えていただきました。仰向けにおしりと背中で滑りつつぐるっと回ってピッケルを雪に突き刺して止まる、強風がきたときは身体を山の側面にぴったりと付ける、ピッケルをスキーのスティックみたいにして登山靴で山を滑り降りる、などを教えていただいたんですが、ゆるやかな斜面で練習したので、子供の雪あそびみたいで不安だったなあ。大丈夫か?とおもいました。

いざ登頂したときは、山頂まで数メートルというところで強烈な風と雪にみまわれ、登頂を断念しました。ぼくは、はー、ひどいめにあった、とんでもない風だった、と軽く考えていたのだけれど、先輩たちの話によると、ベテランでもかなり危険な天候だったとか。冬山をなめてはいけません。断念したからよかったものの、そのまま山頂をめざしていたら大変なことになったかもしれなかった、とのことでした。無知な人間は怖いもの知らずです。

遠くで眺めている山と、登頂する山は別物です。眺めているときの富士山は穏やかですが、登るときの富士山はかなり険しい。夏の富士山であれば冬と比較して楽に登ることができるようですが、富士山にチャレンジするのはもういいかなーと腰が引けています(苦笑)。とはいえ退職して老人になったら、ふと思い立って富士山頂をめざすようになるかもしれません。山がオレを呼んでるぜ、とか言っちゃったりして。

Wikipediaでは、富士山の項目は次のように記載されています。

富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。

標高3,776mの日本最高峰(剣ヶ峰)[3]であるとともに、日本三名山(三霊山)、日本百名山[4]、日本の地質百選に選定されている。富士箱根伊豆国立公園に指定されている[5]。 1952年(昭和27年)に特別名勝に指定された。

さすがにどんなに未来になっても3,776メートルを超える建造物はできないでしょう。富士山が日本一でっかい。童謡の歌詞をおもい出します。場所がら、幼少のときにはこの歌をずいぶん歌ったような気がします。YouTubeから。



ぼくは高所恐怖症ぎみなのですが、なぜか高いところから眺める風景は好きです。鳥瞰あるいは俯瞰(ふかん)というのでしょうか、眼下にちいさな建物や玩具のようなクルマをみていると飽きない。そして、高い建造物などを見上げるのも好きです。電車に乗っていて西新宿の高層ビル群などがわっと目の前に広がると、なぜだかわくわくします。実際に西新宿界隈を歩き回って高層ビルの風景を見渡したときにも、ほーっという具合に感動がありました。

別に東京スカイツリーを見上げながら、手のひらをぐーにして、よっしゃーっ!と気合を入れなくてもいいのですが、日本一の建造物はぼくらを見守っていてくれると同時に、パワーを与えてくれるような気がするんですよね。富士山がそうであるように。もちろん富士山は人工的な建造物ではありませんが、モニュメント的に。

高い建造物は天に近いから祈りが届きそうだ、という考え方もあるのかもしれません。やや宗教的ではありますが、ぼくらの生活には、そんなささいなモニュメント、拠り所が必要です。

自分だけのモニュメントをみつけてみてはいかがでしょう。志をでっかく保つために。おっきな夢を育てるために。

投稿者: birdwing 日時: 12:35 | | トラックバック (0)

2011年3月21日

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大震災のあとで。

2011年3月11日午後2時46分、午後のまったりした間隙を突いて、最初の東北地方関東沖大震災が起こりました。

マグニチュードは9.0(当初の発表では8.8だったかと記憶しています)。その後も余震が続き、名称についてはさまざまに名前を変えましたが、歴史に残る大震災だったといえるでしょう。津波の被害も予想外に大きなものでした。福島原発の事故も相まって、計画停電が実施されたり、東京でもパニックでした。

被災地で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、現在も避難所で厳しい生活のなか、復興をめざしているみなさまにお見舞い申し上げます。

東京では横揺れとともに、ぐわんぐわんという縦揺れが加わって、まさに地面が波打つような感じでした。青森や仙台の被災地の状況と比較すればたいしたことがないかもしれないのですが、自宅のぼくの部屋はこんな惨状になりました。

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ちょうど揺れる方向に本棚とCDを積み上げた棚があったため、まずCDが床に落ちて散乱し、その上に本がばらばらと崩れて、CDケースが20枚以上ばりばりと割れてしまいました。大事に扱っていたアルバムもあり、ショックです。しょぼん。とはいえ、プラスチックケースでCDを保存するのは時代遅れであり、データで音楽を聴く時代かもしれませんね。

さて。大震災を通じて考えたことをすこしまとめてみます。

偉そうに啓蒙するわけでもなくアドバイスするつもりもありません。あくまでも自分が考えたことを、自分のためのメモとして残しておくつもりです。あれほど大きな地震だったとはいえ、人間の記憶は日が経つにつれ次第に薄れていきます。だから感じたことを残しておきたいとおもいます。

震災を通じて、ぼくが大切だと感じたのは、
"譲ること"
でした。

震災直後、あわてて電話をかけたのですが、とてもつながりにくい状況になっていました。やっと電話の相手とつながったときには「ひどかったねえ」「こちらはこんな状況になってるよ」と長話をしたくなるのですが、安否を確認したらひとまず切る。そして、被災地と大事な連絡を取ろうとしているひとたちに回線を空けること。些細な気遣いですが、みえない回線を譲ることは大切。

みんな電話かけているからいいじゃん、という気持ちもあるのですが、すこしでも他のひとのために回線を空けてあげること、譲ることは大切だとおもうのです。自分に対して抑止力が必要とされるのですが、パニック状況においてどれだけ抑止力を維持できるかは自身に対する強さが必要とされます。

また、ソーシャルメディア、主としてTwitterなどでは「自分からできることをしなければ」という責任感に燃えて、ひたすらテレビの情報を手入力でコピー&ペーストしたり、その情報をまたリツイーとして広めるひともいたようですが、手入力した情報は間違いが生じることもあり、その間違いがそのまま拡散されると消去しようがありません。

随時書き換わる情報は、情報の発信時刻をスタンプしておかないと鮮度が落ちて、現状と食い違うことにもなりかねないものです。したがって最悪の場合、意図せずに「デマ」を量産することにもなってしまいます。

そもそも震災時のコミュニケーションで最も重要なものは電話であり、つづいてテレビがあり、ケータイやPCのWebはその後に使用されるものかもしれません。どちらかといえばソーシャルメディアの情報網は被災地中心というより、被災地周辺で状況の再確認やフック(テレビのメディアへつなげるもの)として使われるべきでしょう。

とはいえ、Twitterにおいても、テレビから引用された二次情報に埋め尽くされたタイムラインは、マスメディアの断片あるいは欲しいひとより発信したいひとに主眼を置いたノイズでしかありません。パニックになってひたすら目に付いた情報をリツイートしたり再発信するより、一次情報、つまり岩手では食料が不足していますとか、親戚の誰それさんの安否が気になりますとか、拡散的ではなくピンポイントで求める情報にコミュニケーションの場を「譲る」べきではないかと感じました。

節電も同様ですね。

大手企業では暖房をオフにしたり、コンビニの営業時間を短縮、電飾など広告の灯りを控えるなどさまざまな施策が実施されました。たいへん冷静で理性的な対応であると感じました。その後、地区をグループに分けた計画停電も行われ、混乱しつつも、みんなで電力の危機を乗り切ろうという意思が感じられました。震災を契機に節電に対する意識が高まった気がします。普段は当たり前のように供給されている電力、それがかけがえのないものであると。

買い占めもまた同じ。

スーパーやコンビニからは米やパン、カップラーメンなどが消え、トイレットペーパーなども不足するようになりました。マスメディアに煽られて、買い占める必要のない物資が買い占められたわけです。「必要な場所に必要な物資が届く」譲る精神が必要だったのではないのかな。とはいえ、なかなか消費者側では制御できないものですよね。店舗側の物流コントロールが必要だったようにもおもえます。もちろんある程度は行われていたのではないかと推測しますが。

「俺がやりますよ」「いや、俺にやらせてください」「いやいや俺に」「それなら私も」「どうぞどうぞ」というのはダチョウ倶楽部の上島さんのネタですが、自分がやるという選択肢だけでなく他人に譲る選択肢があることを認識すると、こころがすこし軽くなります。

「自分にできることを」というメッセージは、義援金や物資の支援のために背中を押す力強いことばではあります。しかし、逆に「なんかやらなきゃ」というプレッシャーとしてみえない空気の密度を高めます。その圧力が活動の輪を広げる力であるとはいいながら、みんながやっているのになぜやっていないんだ、という強制力として感じられることも多い。なんかオレ、なんにもできなくてダメだなあ、という劣等感にも結びつきます。

阪神大震災における経験を綴った「被災者の役に立ちたいと考えている優しい若者たちへ~僕の浅はかな経験談~」には非常にこころ動かされるものがありました。ボランティア活動に参加しようとする受験を控えた高校生に、教師は次のように諭したといいます。

※残念ながらブログの内容は、ボランティアに対する誤解を生むという配慮のもとに3月23日に削除されてしまうようです。良質な記事だっただけに残念です。同時に、多角的な配慮がすばらしいと感じました。

下校時刻になって、担任の物理教師がおもむろに話しだした。
「今回の震災で我校の教師や生徒も被災者となり、登校できない人がいます。センター試験が終わり、受験生としての役目を終えた人もいると思います。あなた方の中には、正義感や義侠心に駆られて現地に乗り込む人もいるでしょう。それは間違ったことではありませんが、正直に言えば、あなた方が役に立つことはありません。それでも何かの役に立ちたいという人は、これから言う事をよく聞いてください。

まず食料は持って行き、無くなったら帰ってくること。被災地の食料に手を出してはいけません。
寝袋・テントを持っていくこと。乾いた床は被災者のものです。あなたがたが寝てはいけません。
作業員として登録したら、仕事の内容がどうであれ拒否してはいけません。集団作業において途中離脱ほど邪魔なものはないからです。
以上の事が守れるのであれば、君たちはなんの技術もありませんが、若く、優秀で力があります。少しでも役に立つことがあるかもしれない。

ただ私としては、今は現地に行かず受験に集中し、大学で専門的な知識や技術を身につけて、10年後20年後の災害を防ぐ人材になって欲しいと思っています。」

ボランティアに参加して人力を提供すること、あるいは義援金や物資の支援は、強制的なものではありません。できるひとに「譲る」ことでもいいのではないでしょうか。そして、お金やモノの援助はできなくても、こころから「祈る」ことはできるはず。

インターネットでは、「pray for Japan」として世界中のひとびとが日本に対して頑張れ!というメッセージを送ってくれました。



みずから義援金や物資の支援、ボランティアの活動のために「行動」を起こすことは簡単なことではありません。それだけに貢献は評価されます。けれども、だからといって、行動できないあなたに価値がないわけではない。

さまざまな支援は行動できるひとに譲って、被災地で起こっている出来事に胸を痛めるあなたは、せめて復興のために祈りエールを送る。それだけでもあなたの「想い」は被災地のために生かされているのではないでしょうか。

投稿者: birdwing 日時: 20:33 | | トラックバック (0)