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2006年1月14日

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わかる、という誤解と幸せ。

金曜日にあるお客様を訪問したときに、「いつも私の言いたいことをすぐに理解してくれて、とても助かる」という言葉をお客様からいただきました。ぼくにとっては最高のほめ言葉なので、とてもうれしかった。企画書の出来がよいということはプランナーとしては当たり前であり、こちらの方が重要です。お客様のことを理解できなければ、よい企画書も書けないので*1。

けれども、その言葉を受けてぼくがお話したことは「最初はお話いただいたことの半分も理解できていなかったと思います。やっと最近わかるようになりました。ずいぶん長い打ち合わせの時間をいただき、いろんなことをお話いただいたからです。ありがとうございます」ということでした。これはぼくの正直な気持ちであり、誰かの言いたいことを瞬時に理解すること、なんてできないと思うんですよね。超能力者でなければ。

言葉にしたことの背景には、言葉にしなかった世界が広がっているものです。言葉というのは意識の氷山の一角であり、その下には言葉として選ばなかった意識が広がっている。氷山の下の部分まで推測することは難しい。しかしながら、その推測する姿勢が大事であり、誰かの話に耳を傾けること、わかろうと理解することが、仕事に対するEQを高める上では重要ではないかと思います。仕事だけでなく、家族や友人などの間でも大切になります。

さて。昨日読み終えた「脳と仮想」という本のなかにも、「他者という仮想」という章で、断絶した他者を理解することについての難しさが書かれていました。レビューにも書いたのですが、ぼくは茂木さんの本は「脳と創造性」の方から読んでしまい、いま発行時期を逆行するような形で彼の著作を集中して読書を進めている状況です。そして茂木さんの意図をできる限り理解するために、茂木さんが引用した作品については、これはと思ったものはできるだけ読んでみよう、映画を観てみようと思っています。結果として100%茂木さんの考えたことにシンクロすることは不可能ですが、彼のみていたものを追体験することで、思考が生まれた場を共有できるのではないか。そう考えています。

そんなわけで「脳と創造性」に引用されていた小津安二郎監督の「東京物語」という映画も鑑賞したのですが、この映画のなかで、静かなざわざわ感として印象に残ったのが、笠智衆さんが演じる年老いた父親が、知人と飲んだくれながら息子のことを批判するシーンでした。「脳と仮想」にもこの部分がかなり長く引用されていて、ぼくが漠然と感じていた「ざわざわ感」を的確な言葉で分析されていたので、思わずうーんと唸りました。

いつもニコニコしていて、人生を諦めた感じの年老いた父親(笠智衆さん)が、ぼそっと息子をなじる。刃(やいば)のような言葉をこぼすわけです。彼が冷たい内面をみせるのはこの一瞬だけなのですが、その一言が最後まで効いている。だから、人物像に深みが出る。茂木さんもこのシーンに着目していて、どんなに表面上はニコニコしていても、その人物の心のなかまではわからない、ということを書かれていました。

一方で、原節子さんが演じる「ええ人」も、戦争で行方不明になった夫について「忘れてしまいそうになるんです。思い出さない日さえある。だからわたしはずるいんです。いいひとなんかじゃありません」というようなことを言う。このシーンの伏線としては、夫の母親を自宅に泊めたときに、あなたはいいひとだ、と泣いてしまった母親に背を向けて、じっとうつろな目線をこちらに向けるシーンがありました。そのときに考えていたことを彼女は夫の父親に告白するわけです。

いいひとばかりではいられません。人間の内面は、表面に現れたものだけでは語りつくせない。上っ面で表現されたことだけが、そのひとのすべてとはいえないものです。しかし、だからこそ人間だと思う。茂木さんの言葉を借りていえば、脳は物質としては限られているけれど、そこに無限の仮想が広がっている。同様に、言葉は文字として限られているけれども、その向こう側には言えなかった、あるいは言わなかったさまざまな感情がある。その他者の隠された部分にまで目を向けられるかどうか。自分としてはときにはそんな内面を発露できるかどうか。そうした洞察(インサイト)の発見が、よりレベルの高い仕事をするために、心に触れるクリエイティブを行うために、力のある文章を書くために、人間という深みを理解するために、そして深みのある人間になるために、重要になるのではないでしょうか。ニコニコした人間であるためには、ニコニコできない人間の心についてもわかっておく必要がある。その両面をみることが、人間について理解するためには必要という気がしました。

誰かの痛みを忠実に理解することなんて不可能です。でも、不可能だからこそ理解したい。言葉はどんなに饒舌であっても言い足りないものであり、気持ちの全体を言い表すことなんてできません。でも、不可能だからこそ言葉を信じて、不可能を超えるような言葉を求めていたいし、コミュニケーションを諦めて口をつぐむのではなくて、発言していたい。発言から生じた波紋を受け止めて、さらに発言していたい。

実は昨日は学生時代の知人たちと(バンドを組んでいたこともある知人なのですが)、徹夜で語り合ってしまったのでした。ゼミの先輩の新しいマンションを訪問して、学生時代のように音楽や人生や(ちょっとお恥ずかしいお話なども)語り合いました。

素敵なマンションを手に入れてぼくらのために料理をちゃっちゃっと作ってくれて現在も音楽を続けている教師の先輩、ものすごく野球がうまい息子さんに何時間もつきあってあげてジャズギターで表現できることを追求し続けているやさしい先輩のお兄さん、企業のなかで我慢して生きることよりも不安や家族を背負いながら独立してコンサルタントとして生きることを選んだ逞しい友人、そんな3人の話を聞きながら、ものすごく充実した時間をすごすことができました。それぞれみんなが抱えている問題や喜びを、完全にわかったかというとわかっていないかもしれない。ただ、昨日生まれた一回性の時間、そこで共有できた気持ちを、それが幻想だったとしても信じていたいと思いました。

ちょっとかっこよく書きすぎたかもしれません。昨夜の熱が残っているようです。それにしても、もう徹夜で語り合うのは辛いですねえ。気持ちは若いのですが、年を取ってしまったなあ。

*1:ところで、そのお客様からは5つも課題をいただき、嬉しい悲鳴でした。意図をきちんと理解しながら、ひとつひとつを誠実に進めたいと思います。

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2006年1月13日

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音あるいは文章のノイズなど。

とある駅で電車を待っていたところ、反対側のホームから電車が走り出したのですが、そのときにとても素敵なバイオリンの音が響いた。わーしゃれてるなあ、発車のときにこんな音楽を使うんだ、と思ったのだけど、どうやらそれは発車の音楽ではなくて、電車と線路が軋むことによって偶然に生まれた音のようです。5つぐらいの音階で、次第に上昇していくメロディだったのだけれど、ちょっとはっとするような音楽でした。もう一度聴いてみたい。けれども、きっともう聴くことはできないでしょう。たぶん一回性の偶然が作った音楽なので。

まったく人工的なんだけど、似ている音というものがあります。電車に関していえば、よく言われるのが電車のなかのノイズは、お母さんの胎内の音に似ているということ。うちのふたりの息子たちはどちらも電車好きで、どうしてだろうと不思議に思っているのですが、幼い子供たちが電車を好きなのは、電車のなかの振動音が胎内への記憶を呼び覚ますというようなところに秘密があるのかもしれません。同様にテレビのいわゆる「砂の嵐」の音も、幼児たちを安心させる、ということはよく言われます。放送終了後のざーっという音です。シンセサイザーでいうとホワイトノイズでしょうか。ぼくには耳障りとしか思えないのだけど、それがまだ幼い子供たちには胎内のなかにいる安心感を与えるらしい。そんなことを考えながら今日は耳を澄まして帰宅しました。クルマが走り去る音は、波の音に似ているかな、とか考えつつ。

音楽の世界にはマスタリングという最終的に音を整えたりお化粧をするような作業があるのですが、あるマスタリングの教則本のなかに、バイオリンの音と歪ませたエレキギターの音は最初の部分(アタック)をカットして部分的に短い断片だけを聴くと同じ音に聴こえる、という話が書いてあったような気がします。バイオリンというのは、次第に音が立ち上がっていくので、エレキギターのボリュームをくりくり回して音をだんだん大きくすることによって、バイオリン風に聴こえさせる奏法もあったりします。つまり特長的な部分を省略してしまったり、ボリュームのつまみなどをいじって真似をすると、まったく違う楽器でも同じ楽器のように聞こえるようです。

ということは、文章にも言えるかもしれません。具体性を欠いた曖昧な文章は、みんな同じ文章にみえてくる。要するに立ち上がるべき最初の発話を切ってしまうとか、文末を「思います」「ではないでしょうか」などでしめるとか、過激な発言を省略してしまうと、あたりさわりはないけれど文章の切れ味もなくなっていく。一方で、肉声に近い発言やそのひとならではの視点があると、文章もエッジが立ってくる。

ただですね、エッジが立ってないような文章にもよいものはあります。たとえるなら、グラスハープのような文章、でしょうか。グラスハープというのは、ワイングラスのようなものに水を入れて、水の量を調節することで音階をつくる。グラスの縁(エッジですね)を擦ることで、音を出すものです。そういえば先日観た「死ぬまでにしたい10のこと」という映画にもグラスハープを弾くひとが出てきました。大道芸人っぽい感じで、何度か映画のなかで現れる。これは何の意味があるんだろうと思ってしまったのですが。

グラスハープの音色のような印象の文章というのは、ふわっとした浮遊感と、あたたかみのある雰囲気をもつ文章のこと。グラスハープは擦って音を出すので、最初のアタックはあまり強くない。ふわーという感じで次第に音が大きくなる。文章にもそんな雰囲気のものがある。誰の文章がそうか、という例を挙げることはできないのですが、たまにブログを読んでいると、そんな文章に出会うことがあります。元気がいいわけでもなく、調子が悪いわけでもなく、なんとなくニュートラルな脱力感にあふれている。そういう文章を書けるひとはうらやましい。自然に書かれた文章で、狙って書いているのではなければ、さらにいい。

さて、めちゃめちゃ忙しい日々を送っています。もう2週間ぐらい息子の顔をみていないな、と思ったら、まだ3日だった。というよりも、今日が1月中旬であるということが信じられません。もう3月かと思った。そんな忙しいときに悪いコンディションにはまると、ノイズばかりが聞こえてくるものです。つまり、胎児にとって安らぐざーっという音が大人には神経をざわざわさせる雑音にしか聞こえないように、ふだんは聞き逃していたようなささいなことが、ざわざわと心を掻き乱すノイズになる。安穏としていた気持ちをささくれだたせてしまうわけです。しかしながら、木曜日に仕事に集中していたら、無音状態を経験することができました。あらゆる音が消えたような気がした。そしていつの間にか5時間ぐらいが経過していた。分析と企画書に集中していたわけですが、何か集中できることをみつけると、ノイズも聞こえなくなる。この集中を土日(休日返上)および来週後半まで維持しなければならないのがツライのですが。

ノイズと安らぐ音楽の境界は、紙一重という気もします。誰かにとっては安らぐ音楽も、誰かにとってはノイズになるかもしれない。いちいちそれを気にしていても仕方がないし、ノイジーな自分の心の状態もまたぼくの心には違いないものです。大事なことは、失敗してもトラブルを起こしても(嫌われても)書き続けることです。書き続けていれば何かが変わる。辞めてしまったら、それまでです。だからぼくはどんなにクオリティが下がっても、めちゃめちゃな文章になっても、書き続けることにします。

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2006年1月 7日

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音楽とスポーツ。

オンガクって何だろう、ということをふと考えました。音楽は音楽じゃん、と言われるかもしれませんが、音楽がなくても生活には何も支障がない。けれども、音楽がなければ生きていけないともいえる。一方で、言葉で書かれた小説に対して、歌詞のある音楽は言葉の世界があるという意味では小説に近いかもしれませんが、歌詞がない場合には、とても抽象的になる。風景画や肖像画が現実の世界を再現するものであるのに対して、インストゥルメンタルの音楽は抽象画に似ているといえるかもしれません。

コーラス」というフランスの映画を観たのですが、これはある問題児を集めた寄宿舎のある学校に、舎監として音楽の先生がやってくる。ものすごい問題児ばかりなので、やられたらやり返せ風の考え方によって厳しい体罰を与えているんだけれど、その先生は合唱によって、彼等のこころを変えていこうとするわけです。問題児のなかには歌の才能のある生徒がいて、彼は母子家庭なのだけど、その先生は彼の母親に恋をしたりする。なかなかあったかい気持ちになれる映画でした。ちょっと泣けた。

その映画のなかで、同僚の教師は音楽とスポーツをこよなく愛していて、人生にはこの2つが両輪のように動かなければいけないという哲学を持っている、というエピソードもありました。確かに、うまくなるためには練習が必要だし、ときには挫折もある。そんなわけで音楽とスポーツはまったく違うのだけど、似ているところもあるかもしれません。特に合唱は団体競技ともいえる。人間の声は基本的にはモノフォニックなので、ピアノのようにぽーんと複数の和音を出すことはできない。だからソプラノやアルトなどのパートに分かれて、みんなでハーモニーを奏でる。「コーラス」の映画のなかでは、そのハーモニーと挿入曲の美しさに感動しました。

ところで、挫折を乗り越える音楽ジャンルの映画として思い出すものは、「ドラムライン」と「レイ」でしょうか。「ドラムライン」は、ブラスバンドのエリート学校のお話ですが、主人公は天才的な才能を持つドラマーなのだけど、彼は楽譜が読めない。また、天才であるがゆえに協調性なども考えない。しかし、最終的には仲間の力を借りて、その挫折を乗り越えていく。叩くという演奏自体が既にスポーツ的なのですが、太鼓の威力というか、かなり熱い気持ちになりました。「レイ」は、レイ・チャールズの人生を描いた映画です。彼も盲目でありながら天才なのですが、みんなを楽しませるということを重視してきたあまり、オリジナリティに欠ける、どれもみな誰かのコピーに聴こえる、という指摘を受けて落ち込む。それでもプロデューサーとともに、新しい自分を切り開いていく。

ひとを変えることができるのは、やはりひととの関わりなんだろうな、と思います。ぼくの趣味のDTMは、ある意味、自己完結しているのですが、それでもいろんなひとの影響を受けています。リアルやバーチャルなひと以外に、小説であったり、映画であったりすることもあるのですが、小説や映画であっても、ひとが創作したということには変わりがない。作品を通じてひとに出会えることが大事なことです。

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■チアリーダーやブラスバンドはアメリカならではの文化という感じがします。筋トレもすごい。吹奏楽は文化部というイメージが変わりました。

B000VRXIL0ドラムライン (ベストヒット・セレクション)
ニック・キャノン, チャールズ・ストーン三世
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2007-10-24

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■レイ・チャールズが過去を回想する映像に号泣でした。目の前でちいさな弟を溺死させてしまったり、目が次第に見えなくなっていく回想など。悲しみがあったからこそ、深みのある音楽を創ることができたのかもしれません。


B0007TW7WSRay / レイ 追悼記念BOX
テイラー・ハックフォード ジェームズ・L・ホワイト
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2005-06-10

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2006年1月 5日

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最初のペンギン。

年末、仕事納めが納まらない、ということを書きました。実は今日は仕事始めですが、今度は仕事始めが始まりすぎ、という感じです。忙しい。目が回ります。いや、ほんとうにくらくらする。大丈夫だろうか。

しかし、学生の頃からそうだったのですが、忙しいとなぜか別のことに時間を使いたくなるものです。今日も昼食に外出したついでに新宿の紀伊国屋書店に立ち寄って、茂木健一郎さんの本を二冊も買ってしまいました。「脳と仮想」と「クオリア降臨」です。いつものクセでビジネス書の階に行ってしまい、そこにあった端末で検索をかけてフロアを探したのですが、思想書のフロアに行ってみると茂木さんのコーナーができていた。人気があるんですね。ぼくは、考えることが大事だ、いろんなことを考えたい、などと言っているわりには思想書やテツガク関連のフロアに行くのは久し振りで、レヴィ・ストロースの本が平積みにされているのを見て、おおー懐かしい、とか思ってしまいました。なんとなく欲しい本もあったのですが高いんですよね、この手の本は。

忙しいのでちょこっとだけしか読んでいないのですが、茂木さんの本は内容はもちろん、使われている言葉がいい。キーワードからさまざまなイメージが膨らみます。年末にツンドクを整理して、片付けたい本もたくさんあるのに、今日買った本から先に呼んでしまいそうです。

先日読んだ「脳と創造性」にも、たくさんの気になるフレーズがあって、昨日もざーっと読み直して、気になる言葉や引用されている作品などをカードに書き出したりしました。で、それに疲れると川上弘美さんのエッセイを読む。そして、またカードに書き出す。そんなことをやっていたら、夜更かしすぎになってしまいました。何事もほどほどが肝心です。

書き出した言葉のなかで、いちばん気に入っているのがタイトルの「最初のペンギン」です。英語では開拓者精神にあふれる、勇気がある、というような意味でも使うらしい。テレビなどでもよく放映されるのですが、ペンギンは最初のひと(ではないか、鳥?)が海に飛び込むと、次々とその後につづいていく。しかしながら、海のなかには、ペンギンを狙っているトド(だっけかな)のような動物もいて、最初に海に飛び込むペンギンは、そんな動物たちにねらわれてしまうキケンもはらんでいる。

まったく関係ないのですが、最初のペンギンという言葉から個人的に連想したのは、うちの長男でした。幼稚園の頃、いちばん背が低かった彼は、いつも最前列にいた。前ならえ、のときには、腰に手をあてるタイプです。ちょこちょこ歩く姿もどこかペンギンっぽい。お遊戯などをやる場合にも、真ん中にいれば、周りの真似をすることができるのですが、最前列だと後ろを振り向くわけにはいかないから、彼なりにいろいろと緊張もしたのではないかと思います。運動会のときには、開会式の体操でいきなりしゃがみ込んで動かなくなった。どうやら、おしっこがしたくなったらしい。先生が気がついて、彼を抱えていったのだけど、ぼくも慌てて付いていったら、トイレの入り口で「あとはこちらでやりますから」と、ぴしっと制止された。幼稚園児もいろいろと大変です。

あと、思い出すのは、彼がはじめて立ち上がったときの姿でしょうか。実はぼくは2歳ぐらいの頃に、足が悪かった。右足が内側にひねったかたちになっていて、ギブスをはめて直していました。そこで長男が立ち上がる頃に、大丈夫かな?きちんと歩けるのかな?と不安だったのですが、なんとかぺこぺこ歩けるようになって、ある日、公園に連れて行ったときに、いきなり駆け出した。わっと思って「危ないよ」と声をかけようとしたのだけれど、振り向いてなんともいえない顔で笑ったのが印象的だったことを覚えています。(ぼくはだいじょうぶだよ)そんな風に言ったような気がしました。

関係のない連想が長くなりましたが、ぼくは最初のペンギンでありたいと思います。最初のペンギンは、自分のための勇気だけではなくて、仲間たちのキケンを確かめる役割もある。キケンであることがわかっても一歩踏み出すこと、飛び込むこと。そんな勇気を持っていたいと思います。

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2006年1月 1日

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文脈から遠く離れて。

あけましておめでとうございます。田舎でまったりと時間を過ごしたら、正月の一日だけでもう三日も一週間も過ごしたような気分になりました。何をしたわけでもないのだけれど、なんだかとても大事な時間に浸ることができました。大事な時間というのは、日数ではないようです。内容でもないようです。いろいろな要素の絡み合う人生という文脈のなかで、ちょっと離れた場所に身体をおいたとき、ぽこっと穴ぼこのように生まれるものかもしれません。

帰省する電車のなかで、そして父の遺影が飾られた部屋で、じっくりと読書に耽ったのですが、茂木健一郎さんの「脳とクオリア「この私」というクオリアへ」を読んで、がつんとやられました。実はお名前は知っていたのですが、その著作について触れることはなかった。しかし、ひとと同様に小説や映画にも、出会うべきとき、というのがあると思います。著作としては新しいものではないのですが、2005年の終わりから2006年のはじめにこの本に出会えたことが、ぼくにとってはいちばんの幸せであり、出会うべきときに出会えた、という感じがしています。

ムーアの法則からピカソ、夏目漱石と、縦横無尽にジャンルを超えて脳と創造性というテーマについて飛びまわる茂木さんの思索は、まさにぼくがこのブログでやりたかったことであり、理想の世界でした。しかしながら、このブログを書く前に出会っていたら、たぶん茂木さんの思考をなぞることにしかならなかった気がします。まったく知らないところでぼくはブログをはじめて、ぼくなりに独自の道を模索してきたあとで、茂木さんの著作に出会って、ああよかった、という安堵がありました。

これは何かと言うと、茂木さんの言葉を借りていえば「安全地帯」をみつけたということになると思います。つまり、いままでぼくは試行錯誤してきたのだけれど、こうしたとりとめのない書き物が果たして何になるの?という不安が絶えずあった。ちまちま考えていないで動け、という声も自分のなかで絶えず聞こえていたし、もっとほかにやることはあるだろう、という焦りもあった。とはいえ、ぼくは考えることが好きなんだと思います。そして考えたことを書くことが、たまらなく楽しい。できれば、どっぷりとこの世界に浸っていたいのだけれど、なんだか不安を感じる。ひょっとしてぼくは特殊なんじゃないか、という疑問がある。ところが茂木さんの本から、それでいいんだよ、という優しくもあり頼もしい声を聞いた気がしました。これは、茂木さんの文脈に包み込まれた、という安心感でもあるのかもしれないけれど。

実はクリスマスの前に何気なく書いていたセレンディピティという言葉もこの本のなかにみつけて、おおっと感動しました。ただ、それはぼくにとってはあって当然だろう、という気もしたわけです。これはどういうことかというと、ぼくはたまに予知夢のようなものをみることがあるのですが(引っ越しの先の部屋の風景をみたり、まだお腹のなかにいる生まれてくる息子の笑顔をみたり)、それはぼくに特殊な能力があるわけではなく、いくつかの現実の可能性と、夢というものすごく曖昧なものを、文脈のなかで再構成しているんだと思うんですよね。

記憶はあいまいなものです。夢のなかの風景もあいまいです。しかし、リアルな風景とあいまいな夢(もしくは記憶)の共通項を抽出して、「つながり」を生み出す。文脈づくりとは、可能性の共通項を見出すことであり、コンピュータのように完全一致でなければダメというものではない。あいまいなものとあいまいなものを補完して、生成するものです。だからセレンディピティという言葉を本のなかにみつけた偶然だって、クリスマスに紐づけて何気なく記憶からぼくが引っ張り出してきたことを、その後買った本のなかの言葉を結びつけた(こじつけた)だけに過ぎないんじゃないかと思います。

ただし、茂木さんの本を選んだ直感、そしてその本のなかにセレンディピティという言葉が書かれていた偶然がすごい(本屋で購入したときには、まったく内容を読んでいませんでした。ほんとうに前書きが面白そうで買っただけでした)。直感と偶然が人生をドラマティックに演出してくれます。出会いというとちょっと不謹慎なイメージもありますが、偶然や直感の賜物であるところに意義がある。この意識を鍛錬していくと、求めているものが勝手に引き寄せられてくるようなフォースになるんじゃないか、なったらいいなあ、なんてことをふと考えました。たとえばネット検索でも、慣れてくると抽出された膨大な候補のなかから、こいつは違うな、これはなんか情報としていけそうだ、という判断が自然にできてくる。そんな風に、直感と偶然から出会いを創造することができたら、楽しい人生になりそうです。

何度も出てくるコンテキスト(文脈)という言葉ですが、なんだろうな?と思うひともいるかもしれません。ちょっと簡単に説明すると、というかぼくなりの解釈をまとめてみるのですが、たとえば「ぼく」という言葉があったとします。この一語だけでは、「ぼく」が何者かよくわからない。ところが「ぼくは都心の大学に通う学生です。」という文章にしてみると、「ぼく」の背景が少し見えてくる。次に「静岡から上京して一人暮らしです。」ということになると、かなり「ぼく」の生活がイメージとして広がる。誰でもそうですが、人間には生活や過去や信条などなど、その個人を中心として面や立体的に広がるつながりがあり、つながりのなかで生きている。その背景を文脈(コンテキスト)と言っているわけです。

ぼくにとっては、それこそ田舎から出てきた学生時代、ポスト構造主義を学びつつ、それをブンガク評論にどう生かしていくか、ということを考えていた時期に学んだ言葉のひとつが「コンテキスト(文脈)」でした。したがって、どこか懐かしい響きがあるのですが、社会人となってマーケティングという仕事をしている現在、父親として子供に接している現在で考えてみると、まったくあたらしい意味を生成するような気もしています。

ところで一方で世のなかには、いくつもの使い古された文脈があります。いわゆるステレオタイプな固定観念です。人脈が広くて明るいひとが素敵とか、アウトドア志向がかっこいいとか、クリエイターは私服でいるべきだ、のようなものでしょうか。世間一般で言われていることであり、あるものは広告代理店のような仕掛け人によって作られていたりもする。偏見も多い。ただ、そういう文脈から遠く離れて、正直なところ自分はどうなの?と問いただすこと。100万人がそうであっても、オレは違うね、オレはこれでいく、という新しい文脈を生み出そうとすること。そのために自分の内側から聴こえてくる声に耳を傾けること。それが大事だと思います。社会という文脈から遠く離れたところで聴こえる自分の内側の声こそが、クオリアではないでしょうか。

茂木さんの著作については、集中的に読み漁ってみるつもりです。同時に、再度この本を読み直してみて、キーワードからいろいろと考えてみようと思います。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)