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2007年6月22日

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好き/嫌い、感情というアナログ。

ブログの影響からか、最近は雑誌やフリーペーパーの記事でも、ライターである個人を全面に出した記事をみかけるようになりました。署名原稿であれば昔からそんな記事はあったのかもしれませんが、それでも個人的な感情はある程度抑制して書かれていた気がします。ところが最近では、感情をあからさまに表現した文章が増えた気がする。しかも「好き/嫌い」で判断していることもある。

昨日、AERA No.29のジョニー・デップの特集を引用しましたが、この記事を書いているフリーランス記者である坂口さゆりさんは、ジョニー・デップに「会いたい一心」からライター稼業についたと冒頭で宣言している通り、彼の熱烈なファンのようです。文章から愛情が滲み出ています。例えば次のような部分。

静かで深い声。初期の、孤独感漂う感じが好きだったんだけど、なんて温かなオーラで包まれているの。あぁ、ジョニー。あなたの慈愛(憐憫?)に満ちた黒い瞳を忘れません。

なんだかくすぐったくなっちゃいますね(笑)。古いジャーナリストの方であれば、なんだこれは!と眉をひそめるかもしれないのですが、ぼくはいいと思うな。たぶん、この記事を書いているとき、坂口さんは幸福感に満ちていたことでしょう。ジョニー・デップのことを思い出して、瞳は潤んできらきらしていたりして。そんな文章の裏側というかライターである彼女の書いている姿まで想像して、にこにこしながら記事を読んでしまった。悪い感じはしませんでした。むしろ好感触でしょうか。

感情も情報である、とぼくは考えています。技術的には、コールセンターなどの補助的な機能として音声情報から感情を解析する技術というのはありましたが、最近は、テキストマイニングの応用として文章のなかの感情的な要素を分析する取り組みもあるようです。

もちろん、共感したり感情を判断する部分を機械に任せてどうかという疑問もありますが、研究の過程で人間の感情に関連するさまざまな発見があるのはうれしいことですよね。とはいえ、ブログで自己表現をするひとが増えてきている現在、人間のほうの能力を向上させることも大事ではないか。書くひとは増えたけれど、書き方などの問題はまだまだ未整理な印象があります。

関係性を変えてしまう言葉

ところで、ジョニー・デップが好き、青空が好き、エレクトロニカが好き、という言葉と、特定の誰かに向かって、あなたが好き、という言葉は同じ「好き」であっても異なります。

谷川俊太郎さんと長谷川宏さんの共著である「魂のみなもとへ」を今日読み終わったのですが、そのなかに「好きと嫌いと」という長谷川宏さんの散文があり、これが、がつんと殴られるぐらいぼくにとっては考えさせられた文章でした。引用します(P.32)。

好き、といわれた相手は、その言葉に応答しなければならない。山が好き、川が嫌い、とちがって、あなたが好き、あなたが嫌い、は、あなたの応答を予想することばとして発せられている。相手は、受けいれるにせよ、いれないにせよ、なんらかの応答をしないではすまない。態度をきめかねて黙りこくるのも、それはそれで、無視する、という応答の形なのだ。空がただ頭上にあり、川が変わらず流れているのとは、わけがちがう。

特定の誰かに、好き/嫌いが発せられたとき、その言葉はコミュニケーション機能の側面が強まります。文字面(記号)は同じであっても、一般的な好き/嫌いという表現と働きが異なる。

長谷川さんは次のようにつづけます。これは、恋愛過渡期にあるような方には、ぜひ読んでおいてほしい気がする考え方です。恋愛はどうも・・・と思うひとでも、誰かに何か声をかけるとき、ほんの少しだけ気に留めておきたい。この視点は大切だと思います。

あなたが好きの「好き」は、たんなる自己表現ではない、と、そういってもよい。相手を巻き込もうとする「好き」なのだ。相手は身がまえざるをえない。身がまえたところから出てくるのが応答であり、そこをくぐった二人の関係は、くぐる前と同じだとはもういえない。人間関係を大きく変えるものとして、あなたが好き、ということばはあり、だからこそ、それにまつわる話は、近代小説の好個の題材となってきたのだ。

うーむ、深い。哲学者おそるべし。何も難しい言葉は使っていないのですが、真理をぎゅうっと掴んでいる気がする。そして、さらに次のように書かれています。好き、という言葉によって追い込まれるのは他者だけではない。自分も追い込まれる。

相手に応答をせまり、相手との関係に変化をもたらすことばは、発言者のほうにはねかえり、発言者の心を波立たせずにはおかない。あなたが好き、とはいったが、本当に好きなのか、なにが好きなのか、どう好きなのか、・・・・・・。疑問が疑問を呼んで、心は落ち着かない。

ここでは、好きだ、という言葉をめぐるコミュニケーションについて考察されていますが、なんとなく思い巡らせたのは、ブックマークにおけるネガティブなコメントの問題についても、この考え方から考察できる気がしました。

実はブックマークに付ける短いコメントを、コミュニケーションと考えているひとはあまりいないのではないでしょうか。そもそも能動的に見にいかなければ見られないものだし、記入画面でも書いた内容は意識していても、書いたひとを意識することは少ない気がします。天気がひどい、世の中がひどい、映画がひどい、と同じレベルでコメントをつけているのではないか。

けれども、つけられた個人にとっては、自分に突きつけられたコミュニケーションの言葉となります。つまり、その言葉は相手に「変容」もしくは「応対」を迫る一種の刃になってしまう。発信者の意図があろうとなかろうと、コミュニケーションという文脈に絡め取られてしまうわけです。だから問題になる。

コメントを付ける人間にリテラシーが欠けていると、相手の実体というものは希薄です。相手はただのテキスト情報としか捉えられません。つまり無機質なニュースにひとりごとを言うのと同じ感覚で個人のブログを批判してしまう。共感力に鈍感なひとたちは、何気なくつけた言葉が相手を追い込んでいることを理解しません。というぼくもそうでした。幸いなことに、ぼくはそのことに気付くことができたのだけれど。

それでも、言葉を発するとき

好きである、嫌いである、という言葉は、告げたときに関係性を大きく変えてしまう破壊力を秘めた言葉かもしれません。最終兵器的なものもあり、できればその言葉は回避して、曖昧な状態のまま、ずっと仲のよいお友達でいたい。

けれども、告げなければならないとき、告げなければならないひとがいるのではないでしょうか。発せられた言葉によってどんなに悪い状況に変わり、最悪の場合は関係性に終止符が打たれることになっても、思い切って言葉にしなければならないときがある。

「魂のみなもとへ」を読み進めていって、谷川俊太郎さんの「しぬまえにおじいさんのいったこと」(P.170)の詩にじーんとしました。

全体がひらがなで書かれているのですが、「わたしは かじりかけのりんごをのこして/しんでゆく/いいのこすことは なにもない/よいことは つづくだろうし/わるいことは なくならぬだろうから」という静かな諦めにも似た呟きのあとで、最後には次のように語られます。

わたしの いちばんすきなひとに
つたえておくれ
わたしは むかしあなたをすきになって
いまも すきだと
あのよで つむことのできる
いちばんきれいな はなを
あなたに ささげると

泣けた(涙)。ぼくがいちばん大切なひとに捧げるのは花でしょうか。あるいは言葉かもしれないし、自作の音楽かもしれません。できる限り生涯を通じて「すきだ」を連発しないつもりでいるのですが、だからこそ告げた言葉はできれば永遠に保持していたい。そういう重みのある言葉を使いたいものです。

でも、一方で言葉によっては言わない選択というものもある。その言葉をコメント欄に書き込むことで、誰かを追い込んでしまわないか。変わることを余儀なくさせないか。傷つけないか、力づけられるのか、ほのぼのと癒すことができるのか、生かすことができるのか・・・難しいですね。理屈ではわかっていても、ぼくにはまだまだできない。反省することが多い。

たかがコメントであったとしても、言葉の重みを感じることが重要ではないでしょうか。それはリテラシーとかシステムとか、冷めた思考でくくることができない何かのような気がします。というよりも、温かいものであってほしいという個人的な希望なのですが。

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2007年6月19日

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下降と上昇。

バイオリズムや運勢というものが人間にはあるようです。年周期なのか月周期なのか、あるいは一日のなかで時間によって変化するものなのかわからないけれど、確かに波のようなものに翻弄されながらぼくらは生きている。

もちろん物理的な波ではないから、ぼくらにその波の実体は見えない。見えないから厄介であって、うまく波に乗れるときもあれば、波にのまれて沈んでしまうこともある。その波は自分で変えられるものかもしれないし、自分では変えられないものかもしれません。変えられない波であれば乗り方を工夫するしかなくて、あるいは波を予測して対処するしかない。

ブログを書いていて思うのですが、日記を書くという行為にもやはり周期があります。見えない波に影響されます。インスピレーションを受けて神様が降りてきたような文章を書けそうだ、という波もあれば、ダークサイドに落ち込んでとんでもないことを書いてしまいそうだ、という波もある。人生は寄せては返す波のようなものかもしれない(誰かが言っていそうなフレーズですが)。

下降と上昇の差が激しいと、まるで乱気流の飛行機のような人生になります。本人は大変かもしれないけれど、それはそれで面白いんじゃないのかな、と思う。一度きりの人生であれば、社会から脱落しない範囲で、メーター振り切るぐらいの体験をしてみるのもいい。しかしながら、実際にそんな体験をしてみると、もう懲り懲りだと思うものかもしれません。平穏無事に暮らしたい、と思うのかも。

一方で縁側でぼんやりと微笑みながらお茶を飲んでいる老人のような生活もあり、それはいわば凪のような人生といえるでしょう。打ち寄せる波は決してないわけじゃないのですが、静かで穏やかで、その高低の変化率は少ない。よろこびもかなしみもフラットで、大きなよろこびもないかわりに大きなかなしみもない。

そのどちらを選ぶか、という問題でもないような気がして、結局のところ、放っておけばぼくらは老人になるものであり、いずれは淡く生きる(生きざるを得ない)ようになってしまう。もちろん老いても過激に怒りや憎しみをぶちまけたり、年不相応な愛情に溺レルひともいることでしょう。それはそれでそのひとの人生としては有意義なのだろうけれども、やはり傍からみると恥ずかしいものもあったりする。まあ、本人さえよければいいのですが。

音楽にも波があります。リズムはゆったりと身体を揺らし、波を作る。自作曲をチェックするために何度もヘビーローテーションにして繰り返し聴いていたのですが、その世界にのめり込みすぎて離れられないような感じになりました。で、ヘッドフォンを外すと、なんだか船酔いしたような気分になる。聴きすぎです(苦笑)。

健康な状態から体調不調の状態に下降すると、こんなにしんどいものだったか、健康でありたい、と望む。逆に、不健全な状態から健康を回復すると、世界のあらゆるものが美しく、美味しく、素敵に思える。人生という波に翻弄されるのも、それほど悪いものではないのかもしれません。

波に揺られてみますか、ほどほどに。そしてお手柔らかに。

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2007年6月18日

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強さが目指すものは。

言葉はときにひとり歩きします。たいていぼくらは書かれたものの全文をじっくり読まない。キャッチーなフレーズだけに焦点を当てて読むことが多い。だから、書き手の意図に反して、ブログに書かれた文章やコメントも一部分だけがクローズアップされてしまう。しかし、書かれたものである以上、どのように解釈されようと仕方ないものかもしれませんね。解釈は自由であり、だからこそ解釈することが創造的な活動にもなる。

ブログ内の言葉に言及しない、社会批判的なことは書かないようにしている、ということを以前に書いたのだけれど、梅田望夫さんのブログの「サバイバルのための人体実験を公開すること」というエントリーについて考えることがあったので、今日はそのことについて書いてみます。

ここでも「サバイバル」「人体実験」が過剰にクローズアップされすぎている感じがしました。というぼくもその言葉について書こうと思っているのですが(苦笑)。

まず最初に梅田さんのブログで何を問題にされているかというと、最近、はてなブックマークをはじめとしたコメントで柄の悪い表現が増えていること、あるいはネットイナゴについても触れて、ネットにおけるサバイバル、強靭さについて言及されています。

一回性の人生を生きる、ということ。

まず「人体実験」という言葉が気にかかったのですが、ぼくもまたブログを通じて人体実験のようにいろいろなことを試みています。梅田さんの「総表現社会」というキーワードに影響を受けて、そのコンセプトを実現すべく、ネットで自作曲を日記のように作っては公開しています。最近はそればっかりになってしまいましたが。

とはいえ「人体実験」に関しては、若干、梅田さんの言葉が与える影響に危惧を感じました。たとえばまだネット初心者の若いひとたちのなかに

「なんか梅田さんの言っていることって新しそう、失敗してもリセットできるからなんでもやればいい、面白いからいいじゃん、どんどん人体実験やれば」

というひとも出てくるような気がします。しかしながら、ぼくはそうした姿勢に疑問を感じます。なぜならば、

人生はリセットできない(ブログはリセットできたとしても)

と、考えるからです。

SFでもなければ、あのときに遡ってもう一度生きる、なんてことはできない。当たり前のことだけれど、やり直すことのできない一回性の人生をぼくらは生きています。

あなたの人生は実験なのか。観察されてデータを収集されるモルモットなのか。梅田さんはあえてご自身の身体で実験しているのだけれど、その実験を面白半分で安易にとらえるべきではないのではないか。

ハードディスクのOSを消して再インストールするように、自己をすべて入れ替えることはできません。やり直すとしてもトラウマや後遺症は必ず残るし、(ぼくが弱いのかもしれませんが)過去のあれこれはそう簡単に忘れられないものです。それほど大きくひとは変われるものではない。過去の想いが自分を縛り、清算されない想いをじっと抱えながら生きていかなければならないこともある。実験が取り戻せない失敗をすれば・・・・・・人生もまた取り戻せなくなる。

ぼくもかつては、「人生は何度もリセットできる!」というオプティミスト的な理想を掲げていたことがありました。だからこそ奔放にブログを書いたこともあった。

けれどもホンネを言ってしまうと、実験なんかしていないで自分の人生をきちんと生きるべきだと思うし(実験ではなく挑戦は必要です)、時間はどんどん過ぎていくからリセットしようにも若さは取り戻せない(苦笑)。リセットしなければならないような状況は、できれば回避したい。辛い思いをするのはしんどい人体実験で学んだ自分だけで十分であって、誰かに実験は勧めたくはない。できればこれから実験を考えているひとには、くだらない実験なんてやめたほうがいい、と進言したい。

もちろん雑草のように踏み潰されても立ち上がる強いひともいるでしょう。何度も何度も人生をやり直して、結果として成功をつかむひともいる。どんなに叩かれても信念を貫くひともいる。しかしながら、世のなかは強者ばかりではない。強者にならなくちゃとわかっていても、なれないひともいるだろうし、弱者であることをあえて選択した生き方もあるような気がします。

かつて格差社会を批判したある雑誌の記事を読んで疑問を感じたのですが、その記事では「下流であるひとたちは努力が足りない、強くなれば変わることができる」というような提言が書かれていました。ぼくはなんとなくその考え方に違和感があった。それはそうだけどさ、なんか違うんじゃないのかな、そんなに簡単なものじゃないんじゃないのでは、と。

そこで深く考えてしまうのは、強さっていったいなんだろう、ということです。

弱者を守ってこそ強者ではないのか。

たとえば、こんな場合はどうでしょう。梅田さんに続けとばかりに人体実験をやるぞと奮起して、過激な発言によって実験を遂行した若いはてな日記のユーザーがいたとします。あまりにも過激なことを書き過ぎてエントリーが炎上してブックマークでも辛辣なコメントが続き、悪質なコメントで収拾が取れなくなり、さらに実名だったので特定の個人を突き止められ、精神的に追い込まれたとする。彼は疲れ果てて、最終的に自分を殺めてしまう。

彼は強靭ではなかった、強くなれなかった、と傍観者の立場で言ってしまうことは容易いでしょう。でも、その批判には生命の重さを感じ取る共感力に欠けているのではないか。そう言い切れるあんたは確かに強いかもしれない、けれども人間についてほんとうにわかってんのか、と憤りを感じる。そしてさらにぼくは次のように考えます。

このとき、システムを提供しているはてなは、企業として、自殺したブロガーのために社会的責任を負えるのだろうか?、と。

「いや、システムは提供しましたが、書くのは個人の責任においてであって、われわれの責任ではありません」と逃げないだろうか。「50%ルールで進めていますが、システムもリテラシーも不完全な維新的な状態だからこういうことも起きる。いずれは改善していくつもりです」といい訳しないだろうか。梅田さんは「彼は弱かったんだ。強靭になればそんなことにはならなくて済んだはずだ」とコメントするのでしょうか(そんなコメントをしないことを祈りつつ)。

言い過ぎかもしれないけれども、彼はブログによって、あるいはブログ社会によって殺されたのであり、はてなのシステムが(ここで、はてなはあくまでも例であり、どんなブログやSNSも同様だと考えます)彼を追い込むのに加担していないとは言い切れない。あるいは彼に影響を与えた(煽った)人間に罪はないのか。

梅田望夫さんは人体実験というけれども、そこまで覚悟があるのなら、企業としても技術やサービスの進化だけでなく、誤った方向に進まないような努力であるとか、抑止するための仕組み、社会的なインフラについて(強靭さについて言及しているよりも)もっと積極的に着手すべきではないでしょうか。もちろん、システム面においては、はてなでは伊藤直也さんがその実現を進めているわけですが、その動きと重ねてみると、梅田さんの「強靭になればいい」という言葉は無責任な気がするし、どうしてもぼくには強者の理論に思えてしまう。

そう。個人の人生論としては、シリコンバレー主義を持ち込んでネット社会で強靭であれ、というのは充分に納得できます。けれども、そこにブックマークの柄の悪いコメントなど、はてなの問題が絡んでくると、どうしてもそちらの文脈の影響を受ける。悪質なコメントに負けない強靭な精神を持て(システムの改善に依存するのではなくて)と勝手に文脈をつないで解釈を進めてしまう。だから不快感を煽るのであって、はてなに関係している人間であればそのふたつを連関させることは問題だと思うし、もう少し慎重な発言が必要なのではないか。

書物を書かれたり、啓蒙されていることは意義があると思うのだけれど、それだけでは(あえて厳しいことを書かせていただけば)不十分のように感じます。梅田さんは具体的なサービスを担うのではなく、はてな自体のソースコードを書いている=企業としてのはてなのビジョンを担っているという考え方もわかる。けれども高邁な理想も具体的なサービスに落とし込まなければ意味がない、とも考えます。

伊藤直也さんがリテラシーの回復とシステム面からの改善を述べていて、ぼくは非常に好感を持ちました。まずはそのことを断っておきます。けれどもここにおいても、一方でぼくは、集合知を利用するのも大切ですが、集合知に依存するのではなく、はてなの企業としての姿勢を示すべきことが重要ではないかと思いました。外部に耳を傾けることも大事だけれど、じっと自らの企業のあり方に耳を澄ますことも大切です。

梅田さんのサバイバル発言は個人の人生論としては十分に意義があり、そういう生き方もあるのだけれど、はてなのシステムを改善する上では構想として何も機能しない気がするのが残念です。つまり、強靭であれ、という言葉自体が思考停止を招く。強靭ではないものにとっては途方に暮れるだけです。

これはあらゆる企業においても言及できることかもしれません。理想を掲げるのは容易いものです。さらに「そのことはずいぶん前に言った」という発言をよく聞くのだけれども、言ったと言及するのもまた容易い。しかしながらリーダーやマネージャーであれば、言ったことを計画や行動に変え、組織を指揮して発言を実現に向けて動かさなければ意味がない。言うだけなら誰にでもできるわけで。

たとえば、交通事故を起こすのはドライバーの責任だ、と言うこともできますよね。でも、自動車メーカーは被害を最小限にとどめるべく企業努力をしています。最近、倫理のねじが緩みがちなところもあるかもしれないのですが、それでもより安全な社会を実現するために努力している。それが企業の信頼につながり、本質的なブランド価値にもなる。だから安心してそのメーカーのクルマを選ぶ。

情報化社会を生き抜くためには、個々が強くなり、自衛の力を付けること(簡単に言ってしまうとスルーする力かもしれないのですが)も大切だと思います。けれども、社会において強者である企業は弱者である個を守るための活動を重視すべきではないか、と思う。それは集合知であるみなさんからアイディアを募集しましょう、という問題ではないのではないか。サービスを提供している企業の倫理として、企業が頭を悩ませて、決定しなければならないことではないでしょうか。

イジメについての問題に通じるところもあるかもしれません。イジメられている人間に強く生きろ、ということは簡単です。けれども、強さこそがすべて、というのはなんとなく湾岸戦争などにおけるアメリカ的な力の理論であって、ものごとはそれほど単純なものではなく、強さですべてを片づけるのはあまりにも無責任な気がする。確かにエグゼクティブである梅田さんや一部の特権的なブロガーだからこそ、強靭な力によって勝ち残れ、という言葉も重みがあるのかもしれない。けれども特権的であるからこそ見えないこともあるのではないか。

強者だからこそ弱者を守る論理がなければいけないと思います。

ぼくも強くなりたいと思うのだけれど、ぼくが強くなれるなら、弱いものを守るために強くなりたいですね。青臭い理想論かもしれないのですが、ヒーローがなぜ存在するかというと、弱いものを守るためにある。とかなんとか書きつつ、そもそも体調不調ばかりのぼくは強くなれませんが(苦笑)。

実験を受け止められる社会でなければ。

人体実験的にブログを利用して過激な発言をしてみたり、ぎりぎりのプライベートをパブリックに公開してみることによって、ぼくも痛い目をみたり、凹んだりもしました(苦笑)。確かに強靭であることは重要で、ブログを続けていると強くなれることも確かです。いや、ほんとうに打たれ強くなりますね、これは。1年前と比べるとずいぶん強くなりました。

ただ、すべてのひとがネットのネガティブな部分を受け止められるかというと、疑問を感じます。冒頭にも書きましたが、ぼくらの人生は実験用のモルモットではない。失敗したら替えがあるわけではない。テキストだけの情報は簡単に削除できたとしても、その背景にリアルな命という価値があり、テキストと身体はまるっきり別々ではない。テキストの文体のなかに、生々しい身体性が息吹いていることもある。

ぼくがなぜ人体実験的な危険を冒すかといえば、アタマが悪いので経験してみなければわからないということもあるのだけれど、幼いふたりの息子のため、ということもおぼろげに考えていました。これから情報化社会を生きていく子供たちのために、どんな恩恵があり、どんな闇があるのか、また危機に直面したときどのような回避ができるのか、父親として知っておいたほうがいいかな、という気がした。まあ、それほど強く意識していたわけではありませんが。

ぼくは決して梅田望夫さんの姿勢を否定しているのではなく、つまり覚悟ができているからこそ、ご自身を人体実験的に使って身をはってネット社会を体験されているのだと思う。シニアの人間、つまり大人たちは次世代のための実験をどんどんすべきだと思うし、ネットのなかの「親」として弱者である「子(=個?)」を守る必要がある。

しかしながら、実験しても失敗を取り戻せるインフラがなければ、実験することが致命的になることもありますよね。シリコンバレーのような場所では何度もやり直しができる文化であっても、現実の日本においてはまだまだ困難かもしれない。かつて明治維新の頃には、欧米に倣え!ということがあったかもしれないけれど、いますべてをシリコンバレー風あるいは欧米のようにすれば解決できるかと言うと、そうでもないんじゃないか。

逆に日本だからこそ意義のある文化もあるのではないか。

システムを育てるのではなく、個を育てるために。

集合知という言葉は好きだけれど、ぼくは、人間ひとりひとりが全体のシステムの構成要素である、という考え方はあまり好きじゃないですね。人間はシステムのコンポーネントではないし、プログラミングの一部でもない。全体の関係性、もしくは社会的な文脈のなかに生きているけれども、個々はやっぱり個であると思う。

「個」は「孤」なのかもしれないけれど、だからこそ数百万分の一ではなく、一分の一の尊さがある。一分の一の尊さを記述できるのがブログのすばらしさであって、もちろん全体のためにやっているひともいるかもしれないけれど、すばらしい多様性である個=弧は、それぞれ勝手がいい。個=孤の自律なくして、全体に対する協調もないと思う。

そんな個をインキュベーションする場所がネットではないかと思うのですが、インキュベーションするのはシステムではなくて個という人間です。そして、そのためには全員が実験をする必要はなくて、実験を受け止められる成熟した大人=親となれる人々が必要だと思う。

ここで言う大人は年齢的なものではなく、アスキーアートで遊んでいるだけの大人ははたして大人なのだろうか?と首を傾げたくもなるし、逆に20代であっても世界に目を向けてたくさんの本を読み、新しい技術を貪欲に吸収して新たな何かを構築しようとしている人物は立派な大人ではないかとぼくは思います。年齢や職業に関わらず、実験に許容力があるひともいるし、実験すべきでないひともいる。それを見極める必要があり、誰でも実験すればいいというものではない。

と、いつになく超・長文で語りまくりましたが、ぼくもDTMで遊んでばかりではなく、精神のほうを少しばかり大人にしていきたい(苦笑)。というわけで久し振りに少し真面目に考えてみました。

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2007年6月 9日

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ペルスペクティーヴァを究める。

未読の本が机の隣りには山積みになっているのですが、それでいて新しい本を購入してしまう浮気ものです(笑)。本屋をうろうろするのが趣味で、先日もそうやって趣味の書店散策をしていたところ、タイトルに惹かれてまた3冊ほど購入。山積みにされた本にはなぜか気持ちが入り込めなくて、この本から読み始めています。

4062583852東大駒場連続講義 知の遠近法 (講談社選書メチエ 385)
H. ゴチェフスキ
講談社 2007-04-11

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学生に向けて書かれた本です。ぼくも学生時代に、こういう本を読んで知を究めていたらよかったのに、とわずかばかり後悔するのですが、いくつになっても知を吸収する気持ちはあっていいのではないか。本を読んだからといって偉いわけでもないし、実践的に役立つわけではないのだけれど、新しい考え方に触れる時間はわくわくするものです。単純に楽しい。

読書した時間にもし外出していたら・・・などということを考える必要はなくて(そんなことを考えると、どんな時間であっても没頭できなくなります)、読書であっても趣味であっても、そしてもちろん仕事や誰かと過ごすときであっても、絶対的に純粋に楽しめる時間って尊いと思うんですよね。他者との比較もしくは仮想的な「もし、別のいまを生きていたら」の世界を拒絶すること。そんな風に選択肢をなくして現在に集中することによって、いまを生きている時間は深まり、密度も高まるのではないか。そんな風に考えます。

パースペクティブ(Perspective)という言葉は、視点とか遠近法という意味で使われるようですが、かつてぼくがブログで重視していた言葉でもありました。この本は、パースペクティブの語源となったラテン語のペルスペクティーヴァ(Perspectiva)を発端として、宇宙、絵画、写真、音楽、そして小説と、さまざまなジャンルを横断して「視る」ということはどういうことなのかを考察していきます。あまりにもぼくの趣向にぴったりでうれしい(笑)。

内容によっては、基礎知識がないとわかりにくい部分もあるのですが、一冊のなかに凝縮されたさまざまな知に触れたテーマが興味深いものばかりで、久し振りに楽しい読書ができそうです。読書する時間は基本的には孤独な時間でもあるのですが、読書はやっぱりいい。

かつて、情報はたくさん摂取しなければならない、ひとにはたくさん会わなければならない、と考えていた時期があり、大量の本を読んだり、RSSリーダーに大量のブログを登録したり、異業種交流会に参加して名刺を配りまくったときもあるのですが、いま思うと、そこに主体がなければ、情報やツールやひとに流されるだけです。ものすごく忙しそうで充実しているような日々になるのですが、その見せかけだけの忙しさに意味があるのかと省みると、ただ忙しかったり慌しかったりするだけだったりする。結局のところ何も残らない。

ぼくはいま、ほんとうに大切なもの(書物、音楽、映画、ひと・・・)だけを絞り込み、あるいはそれらをまさに遠近法(パースペクティブ)の視点によって配置し、ときには近づき、ときには離れながら接していくことができれば、などと考えています。

流行や外部に流されると疲れてしまう。大切なものはまずはぼくのなかにあり、そして自分のなかにある大切なものを通して「視る」=つまり光を認識できる限定された世界のなかにこそ、大切なものを見出すことができるのではないか。つまり自分のなかに闇があれば、どんなにすばらしいものが外界にあったとしても光を当てることができない。

疲れちゃっていろんなことに手を出せない(苦笑)という体力的な限界もあるのですが、体力の限界という「ふるい」にかけたあとに残ったものは、かなり自分にとって大切なものなんじゃないかな、と思ったりもしています。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年6月 5日

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カタチにするチカラ。

職業には名称や呼び名があります。教師だとか、バスガイドだとか、板前さんだとか。乱暴に羅列してみましたが、すべてプロフェッショナルなお仕事ですね。専門的な技能を活かす職種といえます。サラリーマンは職種ではないと思うのですが、ビジネスマンにはスペシャリストとゼネラリストがいる。そして、営業であるとか、人事だとか、プログラマーだとかの職種があります。

ぼくは調査分析や企画立案を仕事としているのですが、おちまさとさんのように派手な面白い企画を立てられるわけではないし、かといって多変量解析のような統計的分析をばりばりやるわけでもない。ぼくの携わっている仕事はうまく言葉にできません。というのは、何でも屋のようなところがあるからで、問題解決=ソリューションと言ってしまうときれいですが、困ったときに誰かを支援する裏方的な感じもある。黒子でしょうかね。

その中途半端な感じ、根なし草のようなふわふわしたポジションを不安に思っていたことがあるのですが、逆にいまは浮雲のような所在なさが心地よかったりしています。何者でもないかわりに、何者にもなれる。液体のように器にしたがってカタチを変えることができる。年を取ってくると、安定や保守的なものを求めるようになるものであり、ぼくもそれほどふわふわしていられないな、とは思うのですが、言葉化できないもの、不安定さや変化を楽しむのもまたいいものです。何かを言葉化してしまうと、それで損なわれてしまうものもある。

とはいえ、強いてぼくのやっている仕事を言葉にするならば、

「カタチのないものにカタチを与える」仕事

ではないかと思っています。

カタチのないものにカタチを

ブログを書いていることにも通じることかもしれません。文章を書くという行為も、もやもやっとした意識というカタチのないものにカタチを与えることではないでしょうか。カタチの与え方によってはナイフのように研ぎ澄まされたものにもなるし、他者のこころにぽっと灯をともすようなものにもなる。臨場感あふれるリアルを再生する言葉にもなれば、抽象的で難解な哲学にもなる。

言葉のプロとしては、作家はもちろんコピーライターの発想が面白い。ぼくの仕事でも、ときには一文で説得できるような言葉のチカラが必要になります。このときぼくは一時的にコピーライターモードに入ります。文筆家が憑依した感じでしょうか。一方で、図解やチャート化が求められたりすることもあるのですが、このときにはデザイナーモードに入る。専門的にコピーライターやデザイナーのお仕事をされているひとには大変申し訳ないのですが、そうやって不謹慎にもさまざまなモードをチェンジしながら(プレッシャーも含めて)楽しくお仕事をしています。

企画という仕事を考えるとき、突拍子もない発想をするアイディアマンがよいプランナーであるという認識をしているひとが多いと思うのですが、ぼくはそうは思っていなくて、お客様のなかに既にある何かを、きちんと言葉や図解で整理してあげることがいちばん大切ではないか、と考えます。アイディアは企画ではない。プロとして考えると、自己満足にすぎない突飛な発想より、たとえステレオタイプであったとしても、お客様のなかに潜在的に眠っている夢を掘り起こすことができる能力のほうが重要ではないか。

現場から遠く離れた別世界から突拍子もない答えを引っ張ってくるのが企画ではない。答えは、既にいまここ(=お客様の脳内)にあり、それをきれいに体系化・構造化して表現すればいい。木のなかから仏を掘り出す仕事が企画ではないか、と。あるいはデザインもそうかもしれません。斬新で変わっているものがよいデザインではなく、実は生活のなかに違和感なくしっくりとおさまるものがよいデザインなのかもしれません。深澤直人さんあたりが言っていそうな言葉ですが。

企画という特殊な職業ではなくても、他の職業であっても、企画力あるいはクリエイティブなチカラが必要になることがあります。新しいものを創造すること、つまりクリエイティブな能力は、一部の特権的なひとたちに与えられたものではありません。ぼくらの生活をちょこっとだけ豊かにするのが、クリエイティブなチカラです。

五感をカタチにする

生活のなかでは五感を表現することが重要になることもあります。五感は基本的に個別のものですが、しかしながらうまく表現すると共感を生むものです。曖昧な感覚をカタチにすることによって、錯覚かもしれないけれど他者と感覚を共有できる。五感について少しばかり考えてみました。

視覚。画家やイラストレーターは視覚的なイメージをカタチにするプロです。ぼくは映像作家にも憧れるのですが、動画では時系列は物語、空間は詩的な表現になります。最近、視覚的な表現の大切さをしみじみと感じているのですが、自分の視覚的人生の大半を占めているのは雲と青空のような気がする(苦笑)。デジタルカメラで撮影した写真は、家族以外は圧倒的に空ばかりなので。

嗅覚。アロマセラピストなどは、匂いをカタチにする職業でしょうか。料理人も間接的に匂いをカタチにしているような気がします。どうでもいいことですが、知人の家を訪問すると、その家独特の匂いってありますよね。別に創造しているわけではないのだけれど、なんとなく作ろうとしても作れない匂いです。香水などもさまざまな匂いをブレンドするようですが、匂いの要素に分類できるものがあるのでしょう(よく知りませんが)。細分化していった場合、よほど嗅覚がすぐれていなければ言葉化するのが難しそうですね。

触覚。メタリックな冷たさ、和紙のざらざら感、液体のぬるぬるした感じ、ぬくもり、手触りなど、触感で楽しむ余暇というのは非常に贅沢な時間のように思えます。触感アーティストって言葉をどっかで聞いたことがあるような、ないような。ぼくは息子のほっぺたの触感が好きです。ぷにぷにしている感じ。息子たちは粘土好きですが、何かを作るよりあの触感がすきなんじゃないか。とはいえ、ひとのぬくもりに勝る触感はなし、かもしれません。

味覚。食に対するこだわりのあるひとも、贅沢な趣味人だと思うのですが、残念ながらぼくはあまり食にこだわりがあるとはいえません。だからといって何でも食べられるわけでもなく、高校のとき母が詰めてくれた弁当にタケノコが入っていたのですが、タケノコというより既に立派な竹で、あれには泣きました。パンダじゃないだから。竹は食べれませんって。しかもタッパー全部竹だし(号泣)。ぼくは非常に曖昧な舌の持ち主らしく、先日も舌の付け根が痛いと思っていたら先っぽにでっかい炎症ができていた。舌に鈍感力です。そういうもんですかね舌って。レストランガイドなどの表現は美麗な言葉のオンパレードですが、味覚を表現する新しい言葉を創造するのは意外に難しそうです。

聴覚。音にはこだわりたいですね。ただ、ぼくは安っぽいラジオでも音楽さえ聴ければいいや、というところがあって、まだまだかなと思います。趣味が音楽の割には貧弱なステレオで聴いているので、余裕ができたらよいスピーカーなど揃えたいものです。音がイメージするサウンドスケープを言葉化したり、言葉として感じられたイメージを音化したくて、趣味のDTMでそんな試みをやっているのですが、どうやら言葉に還元できないものが音かもしれない、と思う今日この頃。

と、あらためて五感を俯瞰してみると、ぼくの書いている文章は視覚と聴覚がメインになっている。嗅覚、触覚、味覚のジャンルの話は、結構苦手かもしれません。苦手な部分にも挑戦してみることにしますか、いずれは。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)