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2008年4月 2日

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そんな括り方。

桜が咲いて街のあちらこちらがぼんやりと霞む4月。はなやいでみえるのは桜のせいだけではなくて、新しいひとたちが東京に溢れているせいでもあります。

入社であるとか入学であるとか、新しい生活をスタートした新社会人や新大学生がどっと増えるのもこの月。満員電車に乗ることに慣れていなくて、どことなく混雑が余計に窮屈な状態になったりもするのですが、ゴールデンウィークが過ぎる頃には、その混雑も緩和するような気がします。都会の生活に慣れてきたのか、あるいは社会に疲れて引き篭もっちゃったひとが増えたのか(苦笑)。

サイモン&ガーファンクルに、「4月になれば彼女は」という名曲がありました。YouTubeからライブの映像です。

■Paul Simon & Art Garfunkel 1 - April Come She Will

出会いと別れを短い曲のなかに結晶化した、すばらしい曲ですね。ちょっと切ないのですが、まず歌詞がいい。メジャーコードとマイナーコードがくるくると変わるような曲にぼくは惹かれるのだけれど、コード進行もいいと思います。それから、3フィンガーのギターもいい。

出会いと別れを時間の流れにしたがって追っていくと物語ができあがる。名曲の歌詞を、非常に個人的な解釈から掌編小説化すると、次のような感じになるでしょうか。曲を物語に“翻訳”するという試みといえるかもしれません。勝手に物語化してすみません。クリエイティブ・コモンズのライセンスだったら許されるのかもしれませんが(苦笑)。

やさしい雨で小川の水が溢れる4月、きみはやってきたね。5月にはいっしょに過ごして、きみを抱いた。僕の腕のなかで眠った。でも、6月になると気が変わって眠れない夜を彷徨い歩いたっけ。そして7月。きみは飛び立ってしまったんだ。ひとことも行ってしまうなんてことを告げずに。

8月、僕のなかできみの記憶が消滅した。あんなに好きだった想いが消えてなくなった。凍えるように冷たい秋の風が、僕の心を吹き抜けていく。そして9月になれば、僕はまたきみのことを思い出す。かつて新しかった恋も、いまはもうずいぶん色褪せてしまったのだけれど。

「August, die she must」をどう解釈するか悩んだのですが、「8月に彼女は死んでしまうだろう」と直接的に解釈するのはいかがなものか、と。なんとなく村上春樹さんの「ノルウェイの森」のような世界観になります。なので、主人公のなかで彼女の存在が消滅する、としてみました。

また、きみ=彼女というように、実際のカップルを想定すると恋愛の物語になるのですが、夢とか希望のメタファ(暗喩)として捉えると、もう少し別の物語になる。追いかけていた夢を見失った青年の話として読み解くこともできます。入社のときに抱いていた仕事に対する夢を、8月には喪失してしまった、という。

さて、そんなブンガク的な方向から話をまったく別の方向へ転換するのですが、解釈という面から気になった記事をピックアップすると、新社会人の傾向のネーミングです。社会経済生産性本部の提言によると、今年の新入社員のタイプは「カーリング型」とか。以下、引用します。

■平成20年度・新入社員のタイプは「カーリング型」
http://activity.jpc-sed.or.jp/detail/lrw/activity000857.html

「カーリング型」
冬期オリンピックでおなじみになったカーリング、新入社員は磨けば光るとばかりに、育成の方向を定め、そっと背中を押し、ブラシでこすりつつ、周りは働きやすい環境作りに腐心する。しかし、少しでもブラシでこするのをやめると、減速したり、止まってしまったりしかねない。
また、売り手市場入社組だけに会社への帰属意識は低めで、磨きすぎると目標地点を越えてしまったり、はみだしてしまったりということもあるだろう。就職は楽勝だったかもしれないが、サブプライムローンの問題等の影響により経済の先行きは一気に不透明になった。これからも波乱万丈の試合展開が予想され、安心してはいられない。自分の将来は自分の努力で切り開いていくという、本人の意志(石)が大事になろう。

うーむ。うまい・・・といえるのかもしれないけれど、どうだろう。余計なお世話だ、という気もします(苦笑)。山野美容短期大学の名誉教授である森清さんを座長(座長って・・・)として、斉藤幸江さんのような就職・採用アナリストをメンバーに加えた4名の「職業のあり方研究会」で命名されているそうです。

だいたいこういうネーミングはわかりやすいので、すぐ流用して多用しはじめるおじさんなどが多いのですが、ぼくは全員を同じ傾向で括ってしまう姿勢が気に入らない。というよりも括ることによって、逆に現実自体をその方向へ変えてしまうこともあるのではないか。心理的に大衆を操作、とまでは言わないけれど。

というのは占いに近いものもあって、たぶんそういわれたら誰でも外れることはないと思うんですよね。新入社員ではないぼくだって、カーリング型っていわれたら、そうかな?と信じてしまう。ボーナスというゴールであるとか、評価という「ブラシ」がないと失速するわけで。

社会的にネーミングを面白がっているだけではなく、ではどうするのか、ということまで考えないと提言にならないような気もしました。もちろんこの提言のなかには、「自分の将来は自分の努力で切り開いていくという、本人の意志」が重要であるという言葉があるのだけれど。

しかしながら、時代の傾向を一語で切り取る視点の鋭さは見事です。そこには、メタファとして、前進するモチベーションの維持=カーリングというなぞらえ方も効いている。ひょっとしたらその背後には、膨大な意識調査であるとかヒアリングのデータがあって、最終的にこの一語にまとめられたのかもしれません。思考のあざやかさ、最終的にシンプルにわかりやすくまとめる仕事は見習いたい。

というわけで、ぼくはといえば、セルフカーリングでいきますかね。

自分に自分でご褒美を与えて、ゆるゆると自分を前進させていく。目的地がどこなのかわからないけれど(苦笑)、人生と言うのは全般的にカーリングのようなものかもしれない、などと乱暴に括ってみて収拾がつかなくなりました。やれやれ(と、村上春樹風に終わってみる)。

投稿者: birdwing 日時: 23:33 | | トラックバック (0)

2008年3月29日

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無駄なこと礼賛。

春は、どこかへ出かけたいような、身体を動かしたいような、何かを終わらせて別のことを始めたいような、要するに心機一転したいような、それでいて過去を大切にしたいような(けれども途方もなく眠い)季節です。

先週の日曜日には、昼間からビールを2缶空けてよい気分だったのですが、こりゃちょっと休日の過ごし方としては緩くないか?ということで、息子(長男くん)と渋谷へ行って卓球してきました。なぜか卓球(笑)。といっても、長男くんは小学校で卓球クラブの課外活動をやっているそうです。ラケットを買ってあげたりしていたので、マイラケット持参で渋谷まで行ってきました。

花粉症のマスクをして非常にテンションの低い長男くんは、行っても行かなくてもどーでもいいような顔でした。というよりむしろゲーム三昧の日曜日のほうがいいという顔なのですが、そんな彼を無理やり連れ出して、酩酊70%の父は、息子とふたり電車に揺られて休日の渋谷へ繰り出したわけです。まず行き慣れない渋谷の東口方面で迷った。そして若者たちの雑踏にくらくらした。ついでに30分760円の卓球は高くて困惑。けれども、久し振りに少しばかり身体を動かして爽快でした。酔いも抜けたし。

今日は晴れたり曇ったりの一日でしたが、東京のサクラは満開。髪を切ってさっぱりして、近所のサクラを眺めながら散歩しました。そのときのショットです。

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ついでに図書館に行って本2冊とCD3枚を借りてきました。図書館の近くの植え込みには白い水仙のような花が咲いていて、なんだか懐かしい匂いがする。子供の頃を思い出すような匂いです。ネットを通じて匂いまで届けることができればいいのだけれど・・・難しいですね。

借りたのは次の本。長男くんの折り紙飛行機研究から、ちょっと折り紙に興味が沸いてきたので。

4416300077空とぶ鳥のおりがみ (新・おりがみランド)
桃谷 好英
誠文堂新光社 2000-02

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441630515Xおりがみ はこ (おりがみ工房)
布施 知子
誠文堂新光社 2005-05

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いやーしかし箱の折り紙は最初で躓いた。難しい。これ、できないかも(泣)。つづいて借りたCDはハーゲン弦楽四重奏団のモーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ長調 K.421(417b)、キップ・ハンラハン・アンド・ジャック・ブルースのアルバムとこれ。

B0000W3RSAソロ・モンク+9
セロニアス・モンク
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル 2003-12-17

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「ソロ・モンク」は、CDショップのカフェ・ミュージックのコーナーで試聴していました。なかなかよかったので買おうか買うまいか迷っていたのだけれど、図書館にあってラッキー。ありがとう、図書館。

それにしても、どうして図書館のCDはオーソドックスなのか突拍子もないのか、びみょうなアルバムばかり置いてあるんでしょうね。ロジャー・二コルスがあってびっくりしたのですが、「ビー・ジェントル・ウィズ・マイ・ハート」でした。名盤や定番のアルバムはないのですが、妙なこだわりのあるチョイスになっているような気がします。

ネットでダウンロードして音楽を購入でき、図書館の蔵書はデジタルでアーカイブ(保存)されつつある時代です。けれども、ぼくは新しいメディアの恩恵を十分に理解したり歓迎している一方で、それでもアナログなCDショップや図書館という場所を肯定したいと思っています。

効率化から考えたら、そんなもの不要ですよね。NGN(Next Generation Network:次世代ネットワーク)によって、テレビとネットの融合が加速されつつあります。したがって、オンデマンドによる映画の配信もより身近になっていくことでしょう。レンタルビデオショップに行かなくても、自宅でビデオをダウンロードして観ることができるようになる。それでもやっぱり、リアルなレンタルビデオ店とか、図書館は残っていてほしいなあ。要するに人が介在して借し出す場所は、モノのレンタルそのものだけでなくコミュニティとして意義があると思います。

何が違うかというと、あまりにも当然ですが、そこには"ひと"がいるということ。もちろんネットにおいてもアバターやバーチャルボディなどを使えば人間的な質感のあるサービスは可能だと思うのですが、貸し出しのときの笑顔だとか、ちょっと困った顔だとか、そうした表情は体験できない。さらに、いまのところ図書館の本の匂いであるとか、窓から光の差し込む具合だとか、そんなリアルな空気感も体験することは不可能です。また、リアルな場所の確保は、そこで働く人材や雇用の創出もできると思う。

本や音楽のコンテンツだけ入手できればいいのだと効率化の観点から割り切ってしまうと、付随的な感覚や面倒なことはすべてノイズであって、排除しても問題ない。けれども、その無駄なものが結構大事だったりします。そもそも春の休日に図書館まで歩くことは健康にもよかったりする(笑)。参加したことはないけれど、地域のコミュニティで行われる講演や朗読会のようなものも、レベルが低いとか参加者が集まらないとかの問題だけでなく、実施していること自体が重要な場合も考えられます。

などと考えながら、なんだかぼくも老人になりつつあることだなあと思い、微笑ましくなりました。

老人結構。どんなに威勢のいい若者も年をとります。アンチエイジングも大切だけれど、衰えていく身体や脳ときちんと向き合ったり、覚悟を決めることも大事でしょう。年相応の生き方もある。

若い頃には無駄に身体を鍛えて腹筋割ったり、無駄に遠征したり、無駄に酒を飲んだりしたものですが、年をとってそんな無駄なことをしなくなった反面、かえって別の意味で無駄を楽しめるようになってきました。心に余裕ができたからかもしれません。他人と比較して無駄にしゃかりきになることもなくなったけれど、自分の大切なものに対しては無駄に熱中したり没頭できる。

その取捨選択ができるようになったことを、われながら褒めてあげたいですね。老いた気分にはなりたくないけれども、精神的に成熟したい。無駄に目くじらを立てるのではなく、無駄を許容できることは、ある意味オトナだと思います。

ブログや趣味のDTMによる音楽制作も、無駄であっていいと思うんです。もちろん無駄じゃなくて、儲け第一で稼ぎが多ければ多いほどいいというスタンスでやることも間違いではありませんが、ぼくは(個人的な見解としては)人生における膨大な無駄で構わないと思っています。無駄だけれど、いちばん尊いし、適当にやるのではなくてあらゆるものを注ぎ込む。無駄に対して真剣に取り組みたい。

かつてぼくはブログや趣味にも、ビジネスライクな目標管理の視点を導入したことがあったのですが、疲れちゃいました(苦笑)。ただでさえ仕事で疲れがちなのに、プライベートでさらに疲れてどうする、という。しかしながら、ほんとうに熱中しているときは、人間疲れを感じないものです。作曲家の江村哲二さんも本に書かれていましたが、何時間でも集中できる。趣味のせいで、とか、趣味のために、という発想自体がなくなる。そもそも無駄とか有益だとか、そんな発想自体がなくなる。

究極の理想としては、そんな風に生きてみたい。ということを前提として、まずは無駄ウェルカムの方向で、春を楽しみたいものです。

のんびりと、やわらかい風に吹かれながら。

投稿者: birdwing 日時: 22:41 | | トラックバック (0)

2008年2月16日

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危機感と創造、恒常性について。

考えることが趣味ともいえる自分ですが、風邪をひいて寝込んでしまって頭の切れが悪いです。熱は下がったのだけれど喉が痛い。関節もちょっと痛んでいます。あったかくして寝よう。でも寝るのが惜しい。ああ、どうすれば(苦悩)。

考えるテーマはいろいろとあるのだけれど、先週久し振りにDTMに着手したこともあり、クリエイティブとは何かということを考えていました。すると、お気に入りのブログで紹介されていた以下の本のことを思い出して気になって、どうしても読みたくなったので火曜日に購入。これです。

4480687602音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書 58)
茂木 健一郎
筑摩書房 2007-05

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音楽は「考える」ものではないかとも思うのですが、考えなくてもいいものまで考えがちなぼくにはうれしい。あまりの面白さにぐいぐい読んでしまい、木曜日には読了しました。脳科学者である茂木健一郎さんと、工業大学出身でありながら独学で作曲家の道に進んだ江村哲二さんの異色の対談なのですが、考えどころ満載です。面白すぎる。いちばん注目したのは「自分の内なる音を聴く」ということなのだけれど、美味しそうなので後日に取っておくことにします(笑)。

そこで別の側面をクローズアップします。創造性の背景には危機がある、ということです。

対談のなかで、江村さんが12時間ずっと楽譜を書き続けていたことがある、という体験をお話するのですが、それを「一種のフロー状態」という言葉で括って、茂木さんは「そういう状態のときには生命の危険とか感じませんでしたか?」と質問します(P.172)。そして次のようにつづけます。

茂木 脳には、あるところでブレーキをかけるという安定化機能がホメオスタシスとして備わっています。フロー状態というのは、その制限をかけているタガを外してしまった状態ですから、それをどう外すかということは生命体にとっては深刻な問題なのです。

ホメオスタシスは恒常性ですね。一応、Wikipediaから引用しておきます。

恒常性(こうじょうせい)、ホメオスタシス(ホメオステイシスとも)とは、生物のもつ重要な性質のひとつで、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質、あるいはその状態のこと。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重要な要素でもある。生体恒常性とも言われる。

19世紀のクロード・ベルナールは生体の組織液を内部環境とし、 20世紀初頭にアメリカ合衆国の生理学者ウォルター・B・キャノン(Walter B. Cannon)が「ホメオスタシス」 (同一の(homeo)状態(stasis)を意味するギリシア語から造語)と命名したものである。

趣味のDTMになぞらえて考えると、リミッターというエフェクターがあります。過剰なインプットがあったときに、その音を抑えるように働く。音が大きければ大きいほど作用して、一定のレベルに押さえ込む。ただ、レベル以下のときには作動しません。そのままの音をアウトプットする。コンプレッサーの機能の一部なのですが、恒常性とは、そのエフェクトのようなものと考えてよいのではないでしょうか(乱暴すぎますか。苦笑)。

江村さんのような偉大な作曲家となぞらえるのはおこがましいのですが、創造の過程で共感したのは、ぼくも集中してDTMをやっていると時間を忘れてしまうことがある、ということでした。眠らず、食べず(飲むことはあります。ビールだけど)、気が付くと鳥が外で鳴いていたりする。さらに創作にのめり込むと妙な恐怖感に襲われることがあるんですよね。これ以上は踏み込んではいけない領域なのではないか、のような。ちょっと神がかり的な状態です。これは音楽だけでなく、文章を書いているときにもたまに遭遇する感覚です。

これが精神のリミッターというか恒常性のようなものではないかと考えました。創作する主体が、精神的もしくは身体的に危機的な状況に置かれると発動して、あちら側(いわゆる非日常)へ行ってしまわないようにする。

そもそも何かに集中しすぎる状態というのは、一種の自閉的な状態でもあり、原始的な状態でいうと外敵から襲われやすい状態にあります。ぼーっと人生について考え込んでいるシマウマがいたとしたら、ライオンに食べられちゃいますよね。思考している状態というのは一種の無防備な危険な状態にあり、それを制御するために生物の本能的な制御がかかるのかもしれません。というか、どこかで読んだっけかな?この話。

その制限を突き抜けたところ、つまりタガを外したところにアートの世界があるのではないか、と考えたりしたこともあったのですが、同様のことが池谷裕二さんと糸井重里さんの「海馬」という本にも書かれていました。この本を読んで「頭のいい人、ストッパーを外すこと。」というエントリーで取り上げたこともありました。

昔の芸人さんは、たくさん恋愛をしなさいということをよく言われたようです。はちゃめちゃな事件を起こすことも多かった。同様にブンガクをやる人間や芸術家は、許されない恋をしたり酒に溺れたり薬をやったり、さんざんな放蕩生活をして、ぎりぎりのなかで結晶化した作品を生み出していたかと思います。

しかし、ふと考えたのは、芸術こそがストッパー/タガ/リミッターのようなものなのではないか、ということでした。

人間の身体はよくできていて、痛みを感じると脳内麻薬のようなものが出て痛みを和らげますよね。美しい音楽や文学は、それ自体が麻薬のように人生のさまざまな痛みを和らげます。だから、過剰な辛さや苦しさによって人間が押し潰されないように、美しい芸術などが生まれたのかもしれない。

しかし、まったく苦痛がない世界がしあわせかというと、そうではないでしょう。たぶん過剰にしあわせな世界に長期的に暮らしていると、進歩がなくなってしまう。だから、平和や喜びに溢れすぎている状態も生体にとっては危険ではないか。その危険を回避してバランスを取るために、破壊的なロックやアートが生まれるのかも。

というのはいま、ひとりの人間内の恒常性として考えていなくて、社会全体をひとつの生体として考えたときの恒常性です。ガイアとかホロンとか、そんな発想っぽいところがありますけれども。

黒川伊保子さんの「ことばに感じる女たち」という本を読んでインスピレーションを得たのですが、日本語の乱れは表面的にみると悪しき傾向かもしれないけれど、その傾向によって救われているひとたちもいるわけです。あるいは、インターネットや携帯電話やゲームなどの機器は確かに次の世代の子供たちに悪影響を及ぼしているかもしれないけれど、ではその悪を取り除けば社会はよくなるかというと、必ずしもそうではない。その悪しきものによって救われたり、ライフスタイルを進化させたりしているひともいるわけです。

当たり前といえば当たり前なのだけれど、社会にはさまざまな恒常性(的な何か)が複雑に絡み合って、微妙なバランスを取っているものかもしれません。その平衡感覚を維持しながら、破滅しないぎりぎりのところまで精神を危険に晒せるひとが、美しい何か・・・・・・切ない旋律であったり、透明な音であったり、ラジカルな文章であったり、激しく心を揺さぶる色であったり、そんなものを生み出せるのではないか。

といっても微妙ですね。タガを外したときに及ぼされる力が強くて制御の力が弱いと、あっちの世界に行っちゃいますからね(苦笑)。

ただ、やはり自分自身を危険に晒す覚悟がなければ、何事も成せないような気もします。危険は変化と置き換えてもいいと思うのですが(というのは自分が変わるということは、怖い=危機的な状況なので)、とんでもない変化に晒されるときに大きな創造のチャンスが得られるのではないか、と思っています。特に芸術家であればなおさらのこと。

考えてみると、さまざまな危機が地球上の生物を進化させてきたのではないでしょうか。いまぼくらが直面しているのは、地球環境の問題や情報過多による危機かもしれないけれど、その危機をきちんと受け止めることが大事ではないかと、あらためて考えました。ほんと怖いし、憂鬱なことが多い。でも、怯えるのではなく、逃げるのでもなくて、ただありのままに受け止める。

危機から生まれるのはアートだけでなくビジネスかもしれません。ただ、その危機感が大きければ大きいほど、振幅を揺り戻すようにして何かとんでもないものが創造できるのではないか、という期待もあります。

危機を楽しんでいるようで不謹慎かもしれません。あるいは楽観主義すぎる気はするのだけれど、安定した平凡な生活から生まれるものって、どこかやっぱりエッジがぼけてしまうんですよね。別に好き好んで不幸になることはないと思うのだけれど、創造の場において危機感(言い換えると緊張感。よい意味でのストレス)は重要ではないかと考えました。

投稿者: birdwing 日時: 23:39 | | トラックバック (0)

2008年1月20日

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表現するひとのために。

「新風舎出てるよ」と奥さんに呼ばれたのでテレビのところに行ってみると、ちょうどニュースで自費出版大手の新風舎が倒産したという記者会見が行われているところでした。

新風舎

久し振りにみた松崎くんは引き締った顔をしていて(そりゃ当然だろう)、ぼくにはどこか凛としてみえた。以前よりも痩せたのではないだろうか。健康そうだからちょっと安心したけれど。

と、なれなれしく呼んで大変失礼かと思うのだけれど、実はぼくは高校のときに新風舎の社長である松崎義行くんと知り合い、まだ会社ではなく同人誌で運営されていた新風舎に参加していた時期もあったのでした。それほど仲がよかったわけではなかったけれど、彼がマガジンハウスの「鳩よ!」という雑誌で連載を持っていたこととか、あるいはビジネス系雑誌で取り上げられていたことなどを遠くから眺めて、眩しく思っていた時期があります。

と、ここでおじさんはまた過去に思いを飛ばすのですが・・・(最近ノスタルジーばかり)。

研数学館に通う予備校生として上京後、まともに受験勉強していたのも束の間、勉強もせずに余計なことばかり考えていたようなわたくし(苦笑)は、松崎くんの家に泊まって、詩とか映画がどうあるべきかの話をしたこともありました(全部話した内容は忘れたけど)。大林宣彦監督の映画を教えてもらったのも彼からだったし、「ベルリン天使の歌」などの映画も観にいった気がする。ねじめ正一さんがU2のレコードをバックに詩を朗読する、という困惑するような新風舎のイベントに参加したこともあったし、TILLという同人誌に参加していたこともあります。新風舎の倒産報道を視聴しながら、そんな過去のさまざまなことを思い出したんですよね。

ところで、そもそも若かりし頃のぼくが詩に関心を持ったのは、非常に不純な動機だったと思います。要するに、小遣いがほしかった、という。

旺文社から出ていたVコースという雑誌に詩の投稿を募集しているコーナーがあり、そこで入選するといくらかの図書券がもらえることを知り、応募したのが詩を書き始めた最初でした。選者はかなり有名な詩人の方でした(誰だったか忘れた)。図書券もらえるならやってみるかー、ということで投稿をはじめたのだけれど、なかなか入選しない。ところが、毎回のように入選しているとんでもないひとがいる。それが松崎義行というひとでした。

こいつは何ものだ?と思っていたのですが、ある日、文通欄(苦笑)のようなところに、文芸の同人誌をやりませんか、のような松崎くんからの告知がありました。そこで早速手紙を出して、松崎くんとの交流がはじまったわけです。まだインターネットもない時代で、田舎もののぼくは東京の見ず知らずのひとに電話する勇気もなかったので(ついでに携帯電話もない時代だったので)、毎月文通のようなやりとりでした。

ちなみにVコースの詩のコーナーにはいつも掲載される常連が他にもいて、ぼくは上京してからもうひとりの常連さんと電話で話したことがあります。ものすごく硬派なブンガク系のひとで、「きみの詩はいい。きみは詩を書き続けるべきだ!」と激励されました。腰砕けなわたくしは「いやあ・・・もう詩はやめちゃおうと思うんですけど、だめですかー」のような脱力した回答をして、彼を黙らせてしまったような気がします。

ところで、高校のときには新風舎は同人誌なので会費を徴収して運営していたのですが、その方針あるいはスタイルが加速して、現在の新風舎の問題にもなっていったような気がします。自費出版のビジネスモデルで儲けるために、本を出したいひとを騙して、お金を毟り取る営業スタイルが問題になっていました。詐欺商法のようなことで訴えられていたりしたようです。「メディア・「新風舎」にだまされた 自費出版の巧妙手口」のような記事に詳しく書かれています。

訴えるひとたちの気持ちもわからないではないですね。というか、ぼくもかつては、同人誌はもちろん商業誌に自分の作品や名前が載ることで(あるいは載らないことで)一喜一憂したものでした。名前が載ったときには、妄想が膨らんで困ったものだ。少年の頃に限らず、数年前にも企画のコンテストに応募して連続入賞して、ちょっとした小遣いを荒稼ぎなどしていたのだから困ったものです。変わらんなー、10代の頃から(苦笑)。でも、自分の筆の力で金を稼ぐという、傭兵的な何かが結構気持ちよかったんですよね。フリーライターの方はみんなそうかもしれませんが。

そうして自分の名前が載ったり好きなことでお金を稼ぐだけではなく、できれば自分の本を出したいという想いはありました。本を作るだけでなく、書店に並べたい。ベストセラーになるといいなーと。先日、仕事でとあるベストセラー作家のインタビュー取材に同行したのですが、ものすごい豪邸でびっくりした。圧倒されたのだけれど、やはりかすかに羨望だけでなく嫉妬もある。そんな欲があるのは、ふつうじゃないですかね。

新風舎の詐欺問題に関していえば、知人もしくは友人だから擁護するわけではないのだけれど、自費出版に過剰に夢を抱きがちなアマチュアにも問題があるのではないか、とあえて言いたいと思います。というのは、ですね。もし本気で作家になりたいと思うのであれば、自費出版とかその程度で甘んじていてはいけない。自費出版は最後の手段でしょう。

本気で本を出したいのなら、次のようなことを考え、行動すべきではないか、と。

①メジャーな文学賞の傾向を研究し、挑戦し、入賞する。
②徹底的にコネクションを作って、出版社に個人で売り込みをかける。
③稼ぎまくって出版費用を貯めて、本の出し方がわかるひとに委託する。
④印刷から流通まで自力で学んで安価に発行して、自分で売りさばく。
⑤諦める。

つまりですね、自分では勉強もしない、調べもしないし努力もしないで、パッケージ化された他力本願による自費出版という安易な道を選びながら、夢を買うのが高いとか詐欺だとか叫ぶ表現者はどうかと思う。ぼくの私見では、そういうことだけに拘ったり熱くなるひとは、表現者としては三流ですね。そんなことを声高に叫んでいる暇があるのなら、一文でも書け、あるいは売り込みに出ろ、と言いたい。熱意の向けどころが違うんじゃないか。

音楽だってそうじゃないですか。プロとしてデビューするためには、音楽が大好き!という気持ちだけでは通用しない。運もあるだろうし、努力も必要です。才能は大事だし、政治的な力だって求められる。最終的には自分の力だろ、という気もします。こんなにお金をかけたのにうまくいかなかった、詐欺だ、というひとに対しては、お金をかけなきゃいいじゃん、とシンプルに思う。夢にかけた費用に唾を吐く人間は、夢を追う資格がないんじゃないですか。もちろんその夢につけこむ詐欺も問題だと思いますけど。

純粋に表現したいのであれば、いまの世のなか、ブログがあるじゃないですか。印刷物に、本に拘る理由はいったい何でしょう。金儲けをしたいのであれば夢で儲けなくても仕事を探せばいいと思うし、名声がほしいのであれば自費出版なんかやってるんじゃないと言いたい。自費出版で名声が得られるわけがないでしょうが。本を作っちゃいましたと知り合いに自慢したい欲求を満たすことはできても、その本を買うかどうかは読者の問題です。流通したかどうかの問題ではないような気がする。

ぼくは利用者・消費者も、もっと賢くなるべきだと思います。ネットに関するあれこれにも言えるのかもしれないけれど、たとえばセキュリティにおいても自衛のスキルが必要になるのではないか。プロバイダが、ソフトメーカーが不備だったと責めるのも妥当ですが、自分自身も防御の力をつける必要がある。

一方で別の視点からは、自費出版が低迷しはじめたのは、やはりブログなどの個メディアによって、ネットで簡単に表現ができるようになったこともある。本を出すことが偉いという信奉者は多いのだけれど、そうではない表現者も増えてきているのではないでしょうか。いまだにアクセス数や発行部数に拘るひとが大多数だと思いますが、ぼくなんかは最近、そうした呪縛から離れつつあります。そして、離れてみると、ものすごく幸せだったりします。

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16日に、茨木のり子さんの「倚りかからず」という詩集を読み終えました。

4480423230倚りかからず (ちくま文庫 い 32-2)
茨木 のり子
筑摩書房 2007-04

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詩集は、他の本とは読んでいる時間の密度が違う気がしました。文字が少ないからすぐに読み終えるのだけれど、そんな速読が通用しないのが詩集ではないか、と。ゆっくり読むのがふさわしい。ご飯をよく噛んで食べるように、詩集は言葉の味を愉しみながら読むものでしょう。

それにしても、見栄とか体裁とか、勝ちとか負けとか、名声とか数字とか。そんなものに「椅りかからず」に生きていきたいものですね。

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数年前、外苑前の洋食屋さんで松崎くんと昼ごはんを食べたことがありました。ものすごい久し振りに会った彼は、「社長よりも詩人でいたい。表現者でいたい」というようなことをぽつんと言っていたことを思い出しました。きっと会社が大きくなるにつれて、いろんなひとが集まり、いろんな思惑に動かされ、自分のやりたいことが見えなくなったのかもしれない。

谷川俊太郎さんとも交流があった彼は、「ワッハワッハハイのぼうけん」という本を新風舎で復刻させたのだけれど、8歳のときにこの本を読んで出版社を作ろうと思った、というような松崎くんのメッセージのハガキがこの本には挿入されていたような気がします。熱風書房(新風舎の直営書店)で購入して、ぼくは長男くんに読ませたところ、すごい気に入ってくれた。長男くんの描くへたっぴな絵は、この本の和田誠さんの挿絵にちょっと似ている。

4797477423ワッハワッハハイのぼうけん
谷川 俊太郎
新風舎 2005-08

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新風舎に騙された、詐欺にあった、と訴えるのもいいでしょう。しかし、憤って新風舎を吊るしあげる表現者たちは、いったい他人にどれだけの影響を与えたのか。誰かの人生を変えるほどの衝撃を与えたことがあったのか。

ぼくは松崎くんには書き続けてほしいと思います。失敗は、失敗だと思うから失敗であって、成功への途上であると考えれば失敗ではない、と誰かが書いていました。というよりも、会社以外のところに、松崎くんのやりたかったことがあったのではないか。だから会社を失ったとしても、彼のやりたいことはまだ残っているんじゃないか、と思っています。

頑張ってね、松崎くん。
いまは逆風かもしれないけれども、新しい風が吹きますように。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2008年1月 8日

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持続すること、そして停滞の意義。

感情の起伏というのは誰にでもあるものだけれど、ぼくも時々テンション高くなったり逆にむっとしてみたり、話をしている途中で機嫌を損ねたり拗ねてみたくなったりすることがあります。

先日もとあるひとと話をしているうちに、なんとなく機嫌が悪くなった。かちーんとくることがあって、今日は話をしたくないな、と思った。けれどもそのときに相手が「やめないで話をしましょう」と言ってくれたので、しぶしぶ話をしているうちに少しずつこわばりが和らいでいきました。そして最後には心を覆っていたもやもやが消えていました。すっきり。

後で考えてみたのですが、非常にありがたいことだったな、と。やめないで話を継続してくれたひとに感謝したい、と思いました。気に入らないときに、さよなら!と断絶してしまえば、確かに気分的にはそれ以上悪くなることはないでしょう。けれども逆に、もう少し付き合っていればもっとわかりあえるはずだった関係さえも捨ててしまいます。悪くはならないが、突き抜けたよい状態にもならない。

持続させること。もし自分にとって価値のあることであれば、停滞する時期があっても長期的な視野のもとに地道に努力を続けること。やめないこと。これは大事ではないか。

ということを考えていたら、いま読んでいる原田永幸さんの「とことんやれば、必ずできる」という本にも似たようなことが書いてありました。

4761262435とことんやれば必ずできる
原田 永幸
かんき出版 2005-04-23

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原田永幸さんは、アップルコンピュータの社長からマクドナルドの社長へ、という経歴を持たれていて、要するにマックからマックへという転身が面白いのですが、非常にやわらかい言葉で真理を突くようなことを語られています。

これもまた先日読み終えた、ダイエーからマイクロソフトの社長となった樋口泰行さんにも通じるのだけれど、やはり異なった業種であっても力を発揮できるリーダーというのは、思考がやわらかく、さらに熱い。専門性を究めていると同時に、どんな領域においても原動力となるパワーを秘めている。

特に、原田永幸さんは趣味で音楽をやられている。この部分がぼくにも、おお!と共感する何かがありました。なんとドラムを叩かれていて、「最高齢のミュージシャンデビュー」の記録を作ることを夢とされているとか。いいなあ。引用してみます(P.16)。

つい最近も、新しいルーディメント(基本技術)を一つ、マスターしました。初めてトライしたときは、ろくすっぽドラムを叩くスティックを動かすこともできませんでした。動くまで練習すると、今度は、
「グルーヴ感(高揚感)がいまひとつだなぁ」
となり、さらに練習を続けます。それをずっと繰り返しているうちに、ようやくかっこいいリズムになります。一つのルーディメントをマスターするのに三日でできるものもあれば、二年かかるものもあります。しかもまだマスターしていないテクニックは山ほどあるし、すべてをマスターしたとしても、演奏中に無意識にいいタイミングでポンと出せるようになるまでには、高いハードルが待ち受けています。

けれども、この練習を持続することが、力になるんですよね。で、趣味とはいえども、とことんやる。ここまででいいか、という限界を作らない。そうすることによって成長するのではないか。

成長は直線ではなく階段状に伸びるということも書かれています。「停滞期があるからこそ急成長もある(P.80)から引用します。

「成長する」「力を伸ばす」「能力を向上させる」などという表現を使うと、その成長度合いをグラフ化した場合、直線になるようなイメージを受けます。
しかし、能力や実力といった「力」は、決して直線上には伸びません。どこかに伸び悩む停滞期があって、その後に鋭角に上昇する、つまり階段状に伸びていくのがふつうです。

したがって、停滞期にも意義がある、と説かれています(P.81)。

停滞期に必死で努力することは、大きく飛躍するためにジャンピングボードを用意しているようなもの。力が伸び悩んでいるように見えて実は、ジャンプに必要な力が着実に蓄えられていると言っていいでしょう。

つまり、そこでやめてしまうということは、着実にチャージされている力を捨ててしまうことになる。そう考えると短気は損気ですね。辛いな、しんどいな、と思うときにこそ、もう少しだけその辛さに耐えてみる。すると急速にぱぁっと視界が開けることもある。

そのためには目の前にあるものだけではなく、長期的な視野が必要になるのではないかと思うのですが、まずは夢を諦めないことが大事なのかもしれません。

もちろんずるずると続いていて何も得られるもののない何かは、さくっと捨ててしまう潔さも必要です。しかし、ほんとうに価値を見出したもの、自分がこれだけは守りたいと考えたものについては、諦めずに続けていれば、どんなカタチであれ叶わない夢はないような気もします。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)