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2007年11月 5日

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テキストに溺れて。

ここ1ヶ月ばかり大量のテキストの海に溺れておりました。

関係ないのですが、溺れるといえば川上弘美さんに「溺レる」という短編集があります。この短編集、非常に好みです。個人的な印象ですが、文学的な雰囲気に浸ることができる。息苦しい何かを感じる。官能的、といってもいいのでしょうか。耽美的といってもよいのかもしれませんが。

4167631024溺レる (文春文庫)
川上 弘美
文藝春秋 2002-09

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狂ったように川上弘美さんの本を読みまくっていた時期があり、作品どころか作家まで溺愛したこともあったのですが、いまは少し熱が引いた感じです。かつては電車の中吊り広告で川上弘美さんの写真をみると、引きちぎって帰りたい衝動に駆られたものの、いまでは遠くから昔の恋人を眺めるような気分な淡い気持ちでしょうか。スイッチ入っちゃうと熱くなってしまうからなあ、ぼくは。困ったものだ(困惑)。

と、いきなり出会い頭にいきなりぷいと脇道にそれた感じのエントリーですが(苦笑)、話を元に戻しましょう。

最近、メールやら何やら目を通すテキスト、そして返信するテキストの量が半端ではない生活を送ってきました。仕事では、ML(メーリングリスト)で細かな確認や指示を飛ばすのですが、これが長文になりつつあり、しかも一日に何通もテキストの応酬状態で、もちろんフラグを付けて管理などしているのですが、えーと、あれどうなってたっけ?というときにはGoogle Desktopを活用しまくりです。デスクトップに放り込んでおいたものをとにかく検索できることと、タイムラインで履歴を把握できるのがうれしい。

しかし、黙々とお仕事しているばかりではなく、電話はもちろん、お会いしてお話するミーティングの時間もあります。斜め後ろの席のひとには(もう彼はいなくなっちゃいましたが)

「馬鹿笑いしているけど、何の仕事してんの?」

と訝しがられるぐらいに楽しい(笑)。状況としては結構スケジュール厳しかったり難易度が高かったりするのですが、とにかくいまは仕事が楽しいですね。自分のやりたかった仕事だということもあるし、あらゆる仕事を自分で企画、管理することができるからかもしれません。

結局ですね、人生楽しんだものが勝ちかもしれない。主体的に。

しかめっつらして嫌々仕事やったりやらされたり、ここまやればいいだろうと割り切っても、よい仕事はできないのではないか。楽しんで仕事をしていると楽観的な考えも生まれます。リラックスすると脳内アドレナリン放出状態なので、とんでもない素敵なアイディアも出てくるものです。ビジネスなので、冷静に設計する必要もありますけどね。

で、そんなフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションも交えながら、移動中といえばTwitterだったりgmailだったりして、家に帰れば家族が寝静まったあとはテキストコミュニケーション全開だったりする。まあ、全壊だったりすることもありますが(苦笑)。

こうしてテキストの海に溺れながら、ふと気づいたのですが。

そういえば、最近、ブログあんまり書いてない・・・

基本的に、はてなでブログを書いていた時代からハイパーグラフィアなわたくし(親しくさせていただいている方に真似されちゃったのですが、さらにその真似ということで。笑)ですが、コミュニケーション系のテキストに溺れるとブログ書く力もなくなっちゃうのでしょうか。

といっても、やはりブログにはコミュニケーションとは別の醍醐味があり、なんでしょう、瞬間的に消えていく言葉をとらえて、思考をカタチにしていく楽しさといえるかもしれません。どこか彫刻的な作業でもある。つまり、カタチのない塊を削ってカタチにしていく、というか。

ただし、記録系の短文ブログであればともかく、熟考しなければならないブログの場合、時間が必要になります。1時間か、2時間ぐらいは確保しなければならない。細切れの時間にメモを書きとめたりしているのですが、そのメモを料理するためには、まとまった時間が必要です。その時間がどうしても深夜になっていくのですが・・・。

と、なかなかの長文で書いてしまいましたが、ほんとうにいま書きたいことはもう少し壮大な何かだったりします。

日々の生活のなかで消えてしまいそうになるのだけれど、どこかで書きとめておきたい。その一方で、書かずにおこうと決めた想いもあります。どういうことかというと、書いてしまうと逆に陳腐になる。言葉にすることで削ぎ落としてしまう、欠落することが多いような何かです。書かずに何度も脳内で反芻したほうが深まっていく何か、というか。

というわけで、ますますテキストに溺れていくのですが、こんな生活も悪くない、と思っている自分はどうなのか(苦笑)。まあいいか。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年10月26日

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つながりと切断。

トウキョウのぼくが住む辺りでは、最近ばたばたと頭上をヘリコプターが通過していきます。何事だろう?風邪でぼんやりしているせいか世情に疎いせいか、その理由がよくわかりません。

空を切り裂くヘリの轟音に得体の知れない不安だけを募らせています。知らないうちに世のなかにとんでもないこと(ゴジラが東京湾にあらわれたり、侵略者の宇宙船が不時着していたり・・・)が起こっていたりすると困る。ただの警備か何かならいいんだけど。

今日も、前後にふたつのプロペラを回転させた自衛隊らしきヘリが10機ほど編隊を組んで飛んでいきました。1機であればまだしも編隊飛行をしていると迫力がある。南に向かっていて、ちょっと細めのヘリがその後を追いかけていきました。携帯電話のカメラを構えようとしたら既に上空を飛び去ったあとで、写真を撮るのは断念。とはいえ、その異様な存在は網膜に残っているのですが。

村上春樹さん翻訳ライブラリーから「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」を帰宅後、キッチンで遅い夕飯を食べながら読み終わりました。


4124034970月曜日は最悪だとみんなは言うけれど (村上春樹翻訳ライブラリー)
村上 春樹
中央公論新社 2006-03

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短編小説を中心としたアンソロジーですが、ティム・オブライエンの作品も収録されています。彼が描いたベトナム戦争のイメージが重なったりして、なんとなく肌の上をぞっとするものが走りました。非日常的なものを感じてしまう。大丈夫なのだろうか?

自分の身近で起こっていることであれば把握ができるのだけれど、大きな何かに巻き込まれてしまったら、きっとぼくらには何も抵抗はできないと思います。戦争のような愚かな行為はもちろん、環境破壊も同様です。むしろ、じわじわと迫ってきて気付いたときには手遅れになっている環境破壊のほうが怖いかもしれない。ゆっくりとだけれども着実に何か変化しつつあるような気もします。

などと、大きな不安にさいなまれながら、地上のちっぽけなぼくはといえば、風邪をひいちゃって体調不調です。ごほごほ。まいった。

おじいさんのようですが、年々、風邪に対する抵抗力が弱ってきている気がします。風邪をこじらせて亡くなるお年寄りの話を聞いても実感がなかったのですが、何だかわかる気がしてきた(苦笑)。なんというかですね、辛さに抗うよりも何もぱっと手を離しちゃいそうな気がするんですよね、抵抗することを。やれやれ。風邪はひきたくないものです。

そんな体調の弱っているときには心も弱りがちです。寝込んでつらいときには考える余裕もないのだけれど、ちょっと快復してくると、時間もできるのでいろんなことを考えてしまう。これがよくない。

何がよくないかというと、たかが風邪をひいただけなのに、健康管理ができていない→日頃の不摂生がよくない→おまえ(自分)が悪い・・・のように、自虐的な無限ループにはまってしまうんですよね。これがまずい(苦笑)。

別にね、一生風邪ひいているわけじゃないでしょう。いまは風邪だけれど、いずれは治る(と、いいつつ、こじらせて随分長びいているんですが。ストレスのせいでしょうか)ものじゃないですか。それを全人格的なものに転換してしまうと性質が悪い。

メタファー的な思考で考えると、シネクドキ(提喩 synecdoche)的な思考でしょうか。難しい言葉を使ってしまいましたが、要するに部分と全体をすりかえて表現するような思考です。たとえば、「飲みに行こう」というときに、「酒を飲む」という部分は「飲む」という行為全体の言葉にすりかえられています。「飲みに行こう」と言ったときに、牛乳を飲むひとはいないですよね。けれども厳密に言えば、飲む(全体)=酒を飲む(部分)ではないのに、その表現が成立している。そんなレトリックです。

と、ちょっと余談に話がそれましたが、脳というのは、つながらないAとBを無理やりつなげようとする傾向があるような気がします。だから、風邪をひいた自分の具合の悪さと、全人格的な性格の悪さはまったくつながらないものなのに、そのふたつを恣意的につなげてしまう。さらには永続的に普遍化するので、一過性の風邪という状態なだけなのに、一生おまえは具合が悪いのだ、はっはっはっ・・・というように高らかに宣言してしまう。

だいたいブログで炎上など問題になったりするのも、拡大解釈というか、部分的なほんの数ワードに脊髄反射的に反応して、ブロガーの全人格を否定する・・・そんな解釈の暴走にあったりしますよね。

こういうときに何がいちばんの処方箋かというと

「つながりの切断」

ではないでしょうか。物事の因果関係をもう一度ばらばらにする。

そもそも、ぼくらの世界にあるものは理屈でつなげることができるものであり、けれどもだからといって拘束力があるというわけではありません。すべてが、ゆるいつながりによって接合されています。家族の縁もそうですよね。絆といっても、ロープで結わいてあるわけではない。

言語学的な観点からは、目の前にあるパソコンはパーソナルコンピュータの略語ではあるのだけれど、ぴーとろ(意味がわかりません)と言ってもかまわない。ソシュールか誰かによって説かれていたことだと思うのですが「言語の恣意性」というような概念だったかと思います。実体としての「リンゴ」と言葉の「リンゴ」には、かならずしも「リンゴ(実体)」が「リンゴ(言葉)」でなきゃいけない理由はない。必ずリンゴと呼ばなきゃならないのであれば、appleという言葉は存在しないわけです。その自由度がまた人間にとっては都合がよい気もします。

と、何を言っているのかわからなくなってきましたが、ばらばらと上空を飛んでいくヘリコプターに不安を煽られるけれども、その存在が日常を脅かす前兆ととらえるべきか。風邪のつらさに自分の未来を憂うことはありますが、風邪なんて一過性のものであって明日には元気になってぴんぴんしているかもしれない。

妄想も重くなりすぎると現実を侵食しはじめます。過度に思い詰めないことが人生を楽しむための最適な処方箋かもしれません。万能薬はないけれど、心がひいた風邪に効く薬はあるような気がします。それはたとえば、がんじがらめになった意味やつながりの呪縛を解いてあげることだったりする。

ただ一方で、ほんとうにつなげなきゃいけないものをつなげる「センス」も大切です。インスピレーションのような科学では解明できていないセンスも含めて。

投稿者: birdwing 日時: 23:58 | | トラックバック (0)

2007年10月16日

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思考のデザイン、生活のデザイン。

昨日、取材に同行してある著名人のご自宅を訪問したのですが、インテリアデザイナーが手がけたような部屋のあまりのかっこよさに度肝を抜かれました。素敵すぎる。ドラマのセットみたいです。しかしながら、逆に自宅に戻ったところ、自分の部屋の雑然さに凹みました。ひどすぎる。納屋ですか、ここは(泣)。

とにかくモノが多すぎる。いや、多くてもいいんです広ければ。しかしながら狭い部屋であれば、モノを減らすしかないでしょう。捨てられない性格がいけないのかもしれませんが、いちばんの問題は本が多いことです。雪崩を起こしがちなので、なんとかしたい。ドラ○もんがいてくれたらスモールライトで収納してほしい。

と、本が多くて困っているのにも関わらず、本日、書店に立ち寄ってまた本を購入してしまいました(泣)。なんだかなあ。しかも、「整理」という言葉に惹かれて購入しているから、皮肉なものです。

購入した本は、アートディレクターである佐藤可士和さんの「佐藤可士和の超整理術」でした。

佐藤可士和の超整理術佐藤可士和の超整理術
佐藤 可士和


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デザイン系の方は、装丁が真っ白ですね。デザインの究極は白なのだろうか。

ぼくがこの本の何に惹かれたかというと、アートディレクターの視点から空間的にモノを整理する手法だけでなく、情報や思考を整理するノウハウが書かれている点です。さすがにハイクオリティな創造的仕事に携わっているだけあって、言葉のセンスもいい。

ほとんどあまり佐藤可士和さんのことを知らずに購入したのですが(不勉強ですみません)、デザインの世界では超人気なひとのようでした。キリンの極生とかSmapとか、そんなデザインをされているらしい。糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」のデザイン論や、R25のインタビューアップルのページに掲載されたインタビューなどを読んだのですが、どうやらデザインという領域を超えてデザインを考えているひとなのではないか、という印象を持ちました。

一方で、そんなクリエイターさんなので、ブログで酷評されていたりもする(苦笑)。結局のところデザインは感性による価値判断なので千差万別だと思うし、その一方でほんとうにいいデザインは万人が頷くのではないかとも考えます。ぼくデザインよくわかりませんから、というのが本音です。

ただ、ぼくが思うのは、デザイナーって執着しはじめると、どんどんダメになっていくような気がするんですよね。狭い経験値から述べる偏見かもしれないのですが、融通がきかなくなる。周囲の誰もダメ出しできないようなデザイナーっているじゃないですか。まあ、自然と仕事も頼みづらくなるのですが。

頑固な職人気質なひとが多いからか、一般的にそれってどう?と思うデザインを頑なに主張したりする。実は手抜きじゃないか?と思うようなものであっても指摘すると、とうとうとその意味を理屈で語ったり、修正をお願いすると逆切れされたりする。

そのこだわりは大事なのかもしれませんが斬新なものだけがクリエイティブではなく、一般的な常識を持ちながら新しいものを創造できるデザイナーっていないのかね、とも思う。逆にぼくはマネジメントを学んでからデザインへ移行するような人材のほうが、イノベーションを生むのではないかとも思っています。既に海外などでは、そんな動きがあるようですが。

とはいえ、デザイナーさんたちのやわらかい思考がぼくは好きで、そうした考え方にふれるために、深澤直人さんとか、原研哉さんなどの本を読み、非常に感銘を受けました。佐藤可士和さんの本はこれから読むのですが、アップルのページのインタビューで「コミュニケーションをデザインする」として、語っている次の言葉は考えさせられます。

デザインって結局、形をいじることではなくて、ビジョンとか企業や商品の“考え方を形にする”ことが仕事。言語外言語というか、空間であったり、映像であったり、グラフィックや音楽、Webなど、メディアは何でもいいんだと思います。形をいじる仕事だと思っていると先に進めないんですよ。もちろん、それぞれのビジュアルはとても重要なんです。なぜなら、それがインターフェイスになるから。ビジュアルを通して、人と人がコミュニケーションするから、そこの精度が高くないと伝わらない。だから、すごく重要なんですけど、その奥にあるものを考えるようにしないといけない。それを考えるのがぼくの本当の仕事だと思っています。

考えがカタチになっていること。つまり、思考の痕跡がきちんと具体的なクリエイティブに落ちているような仕事がぼくは好きで、趣味のDTMで音楽を作りながら、あるいは小説やブログを書きながら方法論について語るのは、やはり考え方に裏づけられた創作をしたいと思うからです。しかも、その考えを構築した上で考えに囚われない境地が理想なのですが。

こだわりつつ、囚われない。これって、なかなか難しいですよね。時間をかけて練りに練った作品をダメだと捨てることって、できないじゃないですか。でも、ダメなものは捨てるという割り切り方、整理の仕方が創造的ともいえます。創造力を養うためには考えるだけではなく、一流のよいもの、よいデザインに触れることも大事かもしれませんね。アタマだけじゃダメだ、身体も動かさないと。

ぼくは昨日の体験から、やはり自分が恥ずかしいと思えるような人間に出会って、恥をかくことが必要だと思いました。それはひょっとしたらお金持ちであるとか表層的な部分で判断するものではないかもしれません。人間的に、ああ、このひとにはかなわない、という器の大きなひとがいるもので、そんな人間に会ったり会うきっかけを作るのが重要かもしれないと思いました。

できれば20代に、でっかい人間に会えること。それが大事かもしれません。あるいはその偶然の出会いを企てること。

いま読んでいる別の本には、米スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授による「プランド・ハプンスタンス・セオリー(計画的偶発性理論)」というものが紹介されていて、これは自分から何かを仕掛けて予期せぬ出来事を作り出していこうという意思のようです。好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心の5つが必要らしい。

整理は必要だと思うのですが、体系化や構造化することを目的とするのではなく、そこからはみだしたものを楽しめるようになると、創造性が開発できそうな気がします。偶発性をデザインすることは難しそうですが、日常生活においても、決まりきった会話のなかで、ときに波長を乱す不協和音をあえて投じてみるとか、予想もつかない展開を楽しめるかどうかが人生を楽しむコツかもしれない。

えーと、何の話なんでしたっけ(苦笑)。デザインから大きく離れてしまったような気がするのですが、人生をデザイン(設計)するということで、単調な生活のリズムにはっとするようなフィルインを入れるとか、躍動感のあるアクセントを入れるとか、そんなことを考えてみたいものです。そんな流れを変える要素が成長のための「とっかかり」になるような気がしています。

投稿者: birdwing 日時: 23:48 | | トラックバック (0)

2007年10月15日

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プロデュース考。

自作DTMの「half moon」という曲にボーカルを付けようと思って歌詞を考えているのですが、なかなかうまい言葉がみつかりません。

BRUTUSなど読みながら詩の名文からも学ぼうと思っているのですが、ひらめきが来ない。そもそもこの曲にはメロディすらあるようでないので、メロディから考えなければならないのですが、よく考えてみると曲ってメロディから作るんじゃないでしたっけ?

趣味のDTMでは、コード進行あるいはビートからぼくは作ります。最近では、ひとつのコードで最初から最後まで引っ張る・・・という強引な曲作りなので、サビという概念がなくなりつつあります。エレクトロニカの楽曲にはそんな構成が多く、延々と同じフレーズを繰り返していたりする。そのスタイルが定着しているのですが、いいのでしょうか。まあいいか。

「half moon」は「AME-FURU」という曲を歌っていただいたSheepさんのボーカルを切り貼りして作っているわけですが、こちらもやはりSheepさんに歌っていただきたく打診しつつ情報交換したところ、いま気になっている音楽はPerfumeとのこと。

PerfumeはCapsuleというユニットで活動されている中田ヤスタカさんのプロジェクトですね。Sheepさんいわく、いまプロデューサーとしては中田ヤスタカさんがキテる、とのこと。

Capsuleは聴いたことがあったのですが、Perfumeはさすがに聴いたことがなく、あらためてYouTubeで検索して聴いてみました。うーむ。わかる気がする(笑)Lotusloungeの音楽に通じるものがあります。Perfumeについて語るのは恥ずかしい気もするので、まずはプロデュースという視点から、中田さんの仕事を考えてみたいと思います。

先日、音楽プロデューサーの小林武史さんのこともブログで書いたのですが、男性が女性のボーカルをプロデュースするプロジェクトなりユニットがヒットするのではないでしょうか。小室ファミリーしかり、かつてのモーニング娘。などもそうだったのですが。

なぜだろう?と考えてみると、男性の視点から女性に楽曲を提供するので、複合的な相乗効果を生み、創作にひろがりができるのではないでしょうか。・・・って、何いってるかよくわからないですね(苦笑)。言い換えてみると、男と女が出会って新しい生命が誕生するように、異質なるものの出会いが創作を別の次元にドライブするのではないか。ああ、余計によくわからなくなっちゃったか(泣)。

さらに言い換えてみます。同質のものが集まる世界というのは居心地がよいけれど、新しいものは生まれにくいし、緊張感もない。というのは、刺激がないからです。ところが、異質なものが出会うときに、そこには緊張感もあるけれども刺激的であり、その科学反応から爆発的に何かが生まれる。

男と女に関するものだけではないかもしれません。西洋と東洋が出会うとか、陰と陽が出会うとか、そんな融合もある。異質なものを求める気持ち。異質なものと一体化したいと願ったり想うことが、広義の「恋」であったり「愛」であったりするのかもしれません。一方で同質なものを求めるのは、友情でしょうか。

話がでかくなりそうなので少しクールダウンすることにして(苦笑)、YouTubeでPerfumeの曲をいろいろと視聴してみたのですが、音的(聴覚)にはもちろん視覚的にも、にやりでした。しかも名称は、Perfume(嗅覚)であって、五感に畳み込んでくる。五感訴求型アイドルかもしれません(と、疲れたアタマで考えたのですが、これはさすがに言いすぎでしょう。味覚とかどうするんだ、という。食べられません。笑)。

なんとなく3人ということもあって21世紀のキャンディーズ(年齢が。苦笑)という気もするのですが、PVを観てこれはすごいな、と思いました。何がすごいかというと、曲を完全にビジュアライズしている。というのはですね、曲+歌詞というのが一般的な音楽の表現だと思うのですが、3人のローテーション(とは言わないか)を含めて踊りが単なる振り付けではなく「言葉」になっている気がします。その動きというパフォーマンスによって生まれる言葉ではない言葉が、音楽+歌詞と連動する。

しかし、よーく考えてみるとピンクレディーとかWinkなんかも(さらに年齢が。苦笑)、独特の振り付けが受けていたわけで、ノンバーバルなコミュニケーションまで含めてアイドルは生産・・・という言葉はどうかと思うのですが、プロデュースされている。しぐさという情報は、実は言葉よりも多くを語る気がしていて、その情報を駆使すると、かなり音楽や歌詞を補完するのではないか。

中田さんの仕事に注目してみると、Capsuleは実験的な試みとか、ちょっとお洒落なボサノヴァらしき曲もあったりして、テクノとハウスを基盤としていても複雑かつ洗練さを追求している。一方で、Perfumeの場合には、そのエッセンスを取り出して、一般ウケ(というよりも特定の視聴者向け?)するように研ぎ澄まされているので、わかりやすい。しかし、わかりやすい音楽にビジュアルが加わることで、より複雑になっているともいえる。

どれが先にできたんだ?と作り手の立場で考えてしまうのですが、やはり中田ヤスタカさんのプロデュースする曲は、すべてが計算されて全体で設計(デザイン)されているということがすごい。

と理屈っぽく語っていても仕方ないので、YouTubeから。ベスト版が夏に出たようで(CDショップをうろうろしていて見た記憶があります)、そのなかに収録されている曲なので、そんなに新しくないのでは。

■Perfume,Computer City(PV)

つづいて、スタジオライブのような映像。ファンというわけでもないので詳しくないのですが、何かの番組ですか?これ、振り付けがすごいと思いました。冒頭から、道を歩く、空を見上げる、太陽とすべて振りになっている。ファンにとっては当たり前のことかもしれないけれど、楽曲とビジュアルの完成度が高い気がします。どうやって考え付くんだろう?振り付けは後、だとは思うのだけれど。

■Perfume Electoro World ~studio live~

そんなわけで、中田ヤスタカさんってどんなひと?という興味が沸いてきたのですが、以下のスペシャルインタビューが個人的には面白かった。

■パワーレック・中田ヤスタカ氏スペシャル・インタビュー
http://www.ikebe-gakki.com/web-ikebe/pr-nakata-intvw/index.html

まず機材に惹かれた、というところが共感したんですけど。しかしながら、プロデューサーって何なんですかね、もう少し考えてみたいと思っています。

投稿者: birdwing 日時: 23:01 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年10月11日

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リアルな言葉を聞きたい。

自称フリーペーパーマニアなのですが、会社近くのコンビニで配布されていたR25がL25(女性向けのR25)に切り替えられてしまいました。OLさんが多いからでしょうか。

L25.gif

仕方ないのでL25を持ち帰っているのですが、表紙の色が可愛すぎる。内容はといえば、「わかるけどムカつく!男の一言徹底検証」などという特集がされていて、びくびくしながら読みました。うーびくびく(苦笑)。ひっじょーに居心地が悪いですなあ、こういう女性向けの記事を読むのは。でも、なるほどと思った。

具体的に引用すると冷や汗かきそうなのでやめますが、やさしいつもりで発した言葉が女性にとっては不甲斐なくとらえられてしまうことが多いようで、男は自信を持て! 立て!(いや無用に立たなくてもいいからまあお座りなさい)ということではないでしょうか。過剰に自信持ちすぎな男も困ると思うのだが。

一方で、トップの紺野まひるさんのインタビューを撮影しているカメラマンが大橋仁さんという方で、おお、この方はそういえばBRUTUSで宮沢賢治の詩を紹介していたひとではないか、と妙な符号があったりもしました。

そのBRUTUSの最新号の特集「言葉の力」については、以前にエントリーで触れたのですが、なかなか読みごたえがあります。筋力トレーニングするほどの元気はないけれども、脳の筋力、言葉力を鍛えたいぼくにとっては、最良の一冊といえますね。

言葉力というと詩とかコピーが重視されがちですが、BRUTUSの特集では、かなり広範囲に言葉をとらえていて、ビジネスや政治の場におけるカリスマのリーダーについて書かれている記事が面白いと思いました。

「一流のリーダーの言葉は詩である。」

というキャッチコピーもうまい、と思ったのですが、言葉はブンガクという日常と隔離された安全な場所で使われるだけでなく、リアルな社会に置いても影響力を持つものです。失言などで謝罪や地位を失うリーダーも多く、パブリックな場におけるモラルも求められているかもしれません。

このページで取り上げられている人物は、ジョン・F・ケネディ、キング牧師、チェ・ゲバラ、スティーブ・ジョブス。

ジョブスのプレゼンは有名ですが、芸術とまで言われているようで、何万人もがストリーミングで視聴している。リーダーについて「暗い夜を照らす松明のような存在」と書かれているのですが、闇夜のように先の見えない日本の社会においても、先陣を切る人間を批判するのではなく、自らが先陣を切って他のひとたちを導くようなリーダーが必要だと思います。

ジョン・F・ケネディの次の言葉も、あらためて響きました。

あなたの国があなたのために何をしてくれるかではなく、
あなたが国のために何ができるか、
それを問いたい。

国という言葉は、「会社」にも「家族」にも変えて使うことができそうです。

というように、書かれた言葉ではなく話された言葉に注目して、インタビューなどを探していたのですが、R25のサイトに過去のバックナンバーのインタビューが収録されていることを発見。このページ好きだったんですよね。俳優さんから文化人まで、ずらりとポートレートが並ぶインデックスのページもよいです。

どうしても小林武史さんのような音楽関係や、その隣りの岩井俊二さんや北野武さんのような映像系を読んでしまう。

R25_longinterview.JPG


えー、どうでもいいことですが、小林武史さんって一青窈さんと不倫してakkoさんと離婚しそうなんですか?したんですか?どーなんですか?し、知らなかった(芸能ネタ疎すぎるので)。MY LITTLE LOVERの「Man & Woman」の音作りに非常に衝撃を受けた記憶があり(そのあとの彼等の活動はよくわからん)、というのもボーカルのakkoさんが好みであったということもあるのですが(照)、自分の美しい奥さんをボーカルとしてプロデュースしている小林武史さんの姿勢に意味もなく眩暈を感じたものでした。小林武史さんは、岩井俊二さんの映画音楽を監修されていたりしますね。

YouTubeにあったので「Man & Woman」。ホーンのアレンジとか好みです。J-POPを引用して掲載するのはどうかと思うのですが、別に気取ったブログじゃないからいいや。

■My Little Lover - Man & Woman

知らなかったのですが、小林武史さんにはソロアルバムもあるらしい。しかし、あえてプロデューサーの道を選んだ背景には、サザンの桑田佳祐さんの次のひとことがあったようです。

ある日、桑田が言った。

「君はこれからもソロアルバムを出せるけど、あえて出さないっていう選択肢もある」。

このひと言で「昔から抱えていた何かに、ピリオドが打てた。自分はプロデューサーとして、ものを作る方が向いていると確信した」と小林は語る。

これは先日書いた、職業の「好きと相性」という問題と重なるかもしれません。

さらに、ぼくは拡大して連携してしまったのですが、いま(他の本があるのにまた購入して読み始めてしまった)村上春樹翻訳ライブラリーに収録されていたレイモンド・カーヴァーと編集者、そして彼の奥さんをめぐる問題を描いた短編にもつながる気がします。カーヴァーの小説は、編集者であるリッシュによって、ざくざく削除されて別物のような小説にされてしまったらしい。また、奥さんも小説家だったらしく、書きたいことを横取りされて夫婦の仲が冷えたとか。

創作をバックアップする縁の下の力持ち的な仕事も存在するもので、しかしながら、そうした裏方がオモテに出てしまうといろいろと支障も生じる。けれどもその力関係のなかに、封印された言葉があったりもします。

そんな言葉をぼくは読みたい。というわけで、経営者はもちろん職人さんだとか、いろんなひとのインタビュー記事にいま感心があったりします。

投稿者: birdwing 日時: 23:49 | | トラックバック (0)