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2009年1月31日

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自分を再構築する。

恒例の人間ドックに行ってきました。昨年もブログに書いたけれどドッグではなくてドック。どこかしら人面犬を思わせますが、人間ドッグじゃないですよ。年末に予約して都合によりキャンセルしたところ、スケジュールが合わなくて1月に延期となりました。日記を読み直すと、去年もそんなことを書いています。進歩がないわたくし(困惑)。

パソコンも定期的にメンテナンスが必要なように、ぼくらの健康もときどきチェックが必要です。病院に1泊して、血を抜かれたり、心電図のケーブルをつながれたり、超音波で腹をぐりぐりされたり(くすぐったい)、白くてまずいバリウムを飲まされて、胃の検査のために俎板のような機材の上をゴロゴロ転がったりしてチェックしてきました。胃の検査に関していえば、ほんとうは胃カメラのほうがピロリ菌なども検出できるようですが、いまだにぼくは怖くてカメラが飲めません。

泊りがけで人間ドックを受けるひとたちは、白髪のおじさんを通り越して、おじーさんばかりです。枯れた年配の方が多く、茶髪のちゃらちゃらした似非おにーさんはぼくぐらいでした。そろそろシニアの仲間入りなのだなあ、ということを実感。しかし、最初は戸惑ったのですが、年を重ねるにしたがって、おじさまたちにすっかり馴染むようになってきています。いいのかどうか。

090131_dock.jpg病室内では携帯電話は使ってはいけないのですが、ちょっとだけ病院内の自分をスナップ。寒いのでガウン着ています。リッチな感じもなきにしもあらず。しかし、ガウンの下は検査着です。

近所の学校から子供たちの声を聞きながら、ベッドの上でうとうとする時間が贅沢なのですが、今年は大雨のため、窓の外はごうごうという風と雨粒の音ばかり。毎年、ぼくがドックに入る日は晴れの日が多く、日差しの差し込む部屋で少しだけ人の世を離れた楽園気分にもなれるのですが、雨の日の病院はなんとはなしに憂鬱です。気持ちが塞ぎます。入院している患者さんは大変ですよね。

とはいえ、糖尿病の診断のために、甘い炭酸水を飲まされて1時間ごとに3回採血をされるのですが、かわいい女性の看護師さんに2回抜いていただいて、それがせめてもの救いでした(「抜いていただいて」という表現がいかがなものか、とも思うけれど)。ちなみに最後の1回はベテランのおばーちゃん看護師さんでした。はやかった。すぐ抜けた。手際よすぎる。

診察と診察の空き時間、消灯後の夜。ぼくは静かにいろんなことを考えました。人生のあれこれとか、自分についてとか。自分と向き合って思索に耽り、さらに集中して本を読むことができました。合計で400ページぐらい読んだでしょうか。2冊の本を読んだのですが、面白くてアドレナリンが出た。血圧が上がってしまうとまずいので、控えようと思ったぐらいです。診察に行ったんだか、読書に行ったんだか、よくわかりません(苦笑)。

まず1冊目は、ビジネス書で「戦略のパラドックス」。「イノベーションの解」のクレイトン・クリステンと共著者であるマイケル・E・レイナーの本です。こちらは第3章89ページまで読み進めました。

4798115088戦略のパラドックス
高橋 淳一 松下 芳生 櫻井 祐子
翔泳社 2008-01-18

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正しい戦略が必ずしも成功を導くとは限らない。正攻法で緻密に練られた戦略であるがゆえに失敗になることもある、という指摘が鋭いと思いました。時代は変化していくものであり、不確実性要因によって、完璧な計画をも狂わせてしまう。つまり動く的を自分自身も動きながら狙うようなものあって、結果が予測できない。戦略的に完璧なものではなく、不完全なものが成功することもある。

「成功の反対は失敗ではなく、凡庸である」という言葉にも頷きました。

中立的な戦略をとろうとすると、あっちもこっちも取り入れて、まあ折衷案で・・・というように、ありふれた凡庸なプランになっていきます。しかし凡庸な戦略は成果を生まない。リスクを回避することによって成功からも遠ざかるわけです。ハイリスクであっても、先鋭化された戦略(純粋戦略)のほうがよいとされる。もちろん、その成功の影には無数の失敗があるわけだけれど。

余談ですが、成功の反対は凡庸であると同じような言葉として、「対立物の類似性」というコラムで次のような見解が取り上げられていました。とても奥が深いものでした(P.3)。

対立物には、思ったほどの違いがないことが多い。たとえばノーベル賞受賞者エリー・ヴィーゼルが指摘するように、愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。だれを愛したり憎んだりするということは、その人に対して少なくとも強烈な感情を持つということだからだ。

愛の反対は憎しみではなく無関心、といったのは、マザー・テレサだと思っていたのですが、エリー・ヴィーゼルも述べていたのでしょうか。

相反するふたつの感情は似ているということは、とてもよくわかる。単純に相手のことを考える時間だけを抽出しても、それだけの労力を割いていることになります。愛情がほんとうに終わるのは、"あなたには関心がなくなった"というときなのかもしれません。確かに辛いな、それを言われると。憎い、といわれたほうがましかもしれません。

2冊目は、かなり前に購入しておきながら遅々として読み進めていなかったポール・オースターの「ミスター・ヴァーティゴ」。

4102451099ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)
Paul Auster 柴田 元幸
新潮社 2006-12

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4分の1ぐらいしか読んでいなくて、300ページほど残っていたのですが一気に読了。面白かった。ぐいぐい読み進めて、2度ほど病院のベットでぼろぼろ泣きました。いまのところ、オースターの作品のなかではいちばんです。

しかし、個人的な評価です。人間ドックで人生について考えていたぼくには、時期的に、ぴったりとはまったのかもしれません。作品とめぐりあう適切な時間というものがあって、最適な時期にめぐりあうと、作品以上の効果を読者のなかに生むと、ぼくは考えています。作品は作品単体で存在しているのではなく、時代や個人のさまざまな文脈が交差する場に生まれるものとしてとらえています。ちょうど「ミスター・ヴァーティゴ」という作品にめぐりあう時期だったのでしょう。そんな時期に読み終えたことがぼくにはとてもうれしい。

読むまで知らなかったのだけれど、実は内容もBirdWingというハンドルを使うぼくには無関係とはいえませんでした。というのは、この小説は、ひとりの少年が「ウォルト・ザ・ワンダーボーイ」として、修行をして空を飛べるようになり、その後年老いるまでの物語だからです。鳥男(バードマン)などという言葉も出てくるのだけれど、空にまつわるおとぎばなしです(柴田元幸さんの訳者あとがきを参考にしました)。そして、物語中に何度も少年が映画を観に行くのですが、とても映画的なストーリーです。映画にしてほしいなあ。

映画ではネタばれなのでエンディングは言うべきではないのですが、この小説でぼくが打ちのめされて、めまい(Vertigo)まで感じたのは最後の部分でした。まずは次の部分(P.410)。

ようやく初めて宙に浮いたとき、それはべつに師匠に教わったことのおかげじゃなかった。冷たい台所の床で、俺は一人でやってのけたのだ。長いあいだしくしく泣いて、絶望に浸っていた末に、魂が体の外に飛び出ていき、もう自分が誰なのかの意識もなくしていたとき、初めて床から浮かび上がったのだ。ひょっとすると、唯一本当に必要だったのは、絶望だったのかもしれない。

ウォルトは「三十三段階」の厳しい修行をします。地面に生き埋めにされたり、小指を切り取られたりする。その上にやっと掴んだ飛ぶ技術なのですが、高揚した楽しい気分が自分を宙に浮かせるのではなく、飛ばせるためのエネルギーは重く沈みこむような「絶望」だ、というのがいい。そして最後の終わり方(P.411)。

胸の奥底で、俺は信じている。地面から身を浮かせて宙に漂うのに、何も特別な才能は要らないと。人はみな、男も女も子供も、その力を内に持っているのだ。こつこつ根つめて頑張っていれば、いずれは誰でも、俺がウォルト・ザ・ワンダーボーイとして成しとげたことを成しとげられるはずだ。まずは自分を捨てる、それを学ばなければならない。それが第一歩であって、あとのことはすべてそこから出てくる。自分を霧散させなくてはいけない。筋肉の力を抜いて、魂が自分の外に流れ出るのが感じられるまで呼吸をつづけ、それから目を閉じる。そうやるのだ。体のなかの空虚が、周りの空気より軽くなる。少しずつ少しずつ、体の重さがゼロ以下になっていく。目を閉じる。両腕を拡げる。自分を霧散させる。そうやって、少しずつ、地面から浮き上がっていく。
そう、そんな感じ。

物語を読んでいないとそれほど感動はないかもしれませんが、この部分は凄い。途方もない人生の物語を経由して、ウォルトが尊敬する師匠の「楽しかった日々を忘れるなよ(P.312)」という言葉やいっしょに過ごしてきた日々がありながら、長い時間と人々のつながりの蓄積を、すべて飛ぶ瞬間において無に変えてしまう結末。詩的でさえあります。

飛ぶためには、「自分を捨てる」ことが必要であるということ。自分という重みが地面に繋ぎとめているのであって、気球が重い砂袋を捨てて空に上がるように、何かの犠牲なくしては高みに行けない。「そう、そんな感じ。」という終わり方も秀逸です。この部分は大好きですね。原文で読みたい。

読書以外に考えたことについても書こうと思ったのですが、エンドレスな長文になりそうなので、見送ることにしました。

「自分を大切に」というアドバイスをいただいたことがあり、そのことをずっと考えていました。自分を究める、というテーマとも重なりそうです。しかしエゴではなく、自分を大切にすることで同時に誰かを大切にするような、関係性の連鎖のなかで考えようとしています。

自分や内なるものを出発点として考えているのですが、最終的な到達点は、「ミスター・ヴァーティゴ」のウォルトのように、絶望のなかで自分を捨てて重力から解放される方法がゴールなのかもしれません。

人間ドックを契機として、自分を再構築中です。ちなみに、簡単な検査の結果が出たのですが、再検査になりそうなのは血液中の鉄分です。一般に80~140なのですが、前々回112 → 前回47 → 今回29と激減しています。鉄が減りすぎ。なぜだ。ああ、そういえば、去年は再検査の連絡を受けたのだけれど行かなかったんだった。今年はきちんと行きます。

投稿者: birdwing 日時: 18:10 | | トラックバック (0)

2009年1月14日

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場の記憶、あるいは飛べない何か。

そうだ、空港に行こう、と思い立ちました。理由はないのですが、なんとなく。

空港に関していえば、旅行の経験が著しく少ないぼくには、いまでも空港は特別な場所です。特別というのにはもうひとつの理由があって、電車の駅であれば線路つづきでつながっていて、自動車であれば道路、船であれば海が介在している。しかし、飛行機は離陸すれば地上に残されたひととのつながりを絶ってしまう。地上におけるあれこれと接点を切る場として、ぼくは空港に特別な意味を求めていたように思います。

風景や場が記憶を覚醒することがあります。卒業した大学のキャンパスに戻ると、ありありと学生の頃を思い出すとか、旅行した土地に再び訪れたときに過去の時間がよみがえるとか。

ぼくのなかにある空港の記憶は、緊張が入り混じりながらも楽しいものばかりでした。空の写真を撮りつづけているぼくにとっては、ゲートを潜れば空に近づくことができる場所であり、それだけでもこころが逸る。

とかなんとか。

テツガク的な戯言はともかく、仕事をはやめに終わらせて電車に乗りました。

地下鉄で新橋まで出て、その後はJRに乗り換えて浜松町へ。帰宅時間のせいか、おじさんたちに囲まれて困惑。おじさんは新橋をめざす(のか?)。久し振りにモノレールに乗りました。

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時間帯のせいか、モノレールの席はがらがらでした。どこかの体育館でバレーをやっている姿や、和服で扇子を回しながら踊っている姿がみえました。煌々と灯りの付いているオフィスも多い。お疲れさまです。すっかり夜なので景色は全然みえません。でも、街の灯りが遠く後方に追いやられていくのを、ぼんやりと眺めていました。飛行機から眺めるときれいなんですけどね。ちなみに、ぼくは天空橋という駅名が好きです。なんだか詩的な感じがする。宮崎監督のラピュタを連想するというか。

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空港に到着。出発ロビーです。目の前で、がらがらのキャスター付き荷物を引っ張りながら女性がこけてた(苦笑)。その後、エスカレーターでもこけてる女性がいました。気をつけましょう。焦らずにね。

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見送るひと、到着するひと。チケットを持っていないのが残念です。これでは飛べない小鳥だ。どこかへ飛んで行きたいものだなあ。しかし、どうしてチケットがないのに空港にいるのでしょうか、わたくしは(苦笑)。まあいいか。帰国する国が紛争のために足止めされて、空港で働きながら出発の日を待つ「ターミナル」という映画もありました。トム・ハンクスが主演でしたっけ。

のぼったことがなかったのですが、6Fに展望デッキがあるということで行ってみました。名前はBIRD'S EYE(バードアイ)。おお、ブログのハンドルが鳥だけに親近感がわきます。

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しかし、外に出てみたらさみーのなんの(苦笑)。寒すぎ。風がびゅうびゅう吹いていて、オイルというかガスの臭いがきつい。そんなわけで、ほとんど数人しか人影なし。さ、さ、さ、寒すぎる。がたがたがた。しかし、どういうわけかカップルのほかは、単独の女性が数名。飛行機マニアでしょうか。それとも彼氏を見送っているのでしょうか。

鉄の柵には部分的に大きな穴があって、そこから撮影ができます。穴にデジカメを固定して飛行機をスナップ。暗いので、なかなかうまく撮れません。ぶれるぶれる。というか寒さでぶれる。

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夜の空港も、なかなかよいものです。すらりと流線型の機体が美しい。遠くに街の灯りが線のように並んでみえました。はああ、あの飛行機に乗ってやっぱり飛んでいきたい。

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レストランもありましたが、誰もいない。ゴーストだけが風に吹かれている。

すっかり冷え切ったので展望デッキを後にして内に入ると、次第に冷たい指先にもあたたかさが戻ってきました。書店をうろうろして体温が回復するのを待ったのですが、風で髪の毛がぼっさぼっさになっていた。その後、到着ロビーにあるプロントへ。お茶を飲もうと思ったのだけれど・・・。

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メニューを眺めながらいつの間にか頼んでいたのは、プレミアムモルツ(ビール)とパストラミビーフのサラダでした。ビールは足りなくて、その後プレミアムモルツクロのジョッキを追加してしまいました。苦味がうまい。向かいの席には誰もいないけれど、とりあえず乾杯。

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まったりとひとりで飲み食いしていると、隣の席にモデル風(あるいは水商売風)のきれいなおねえさんがふたりやってきて、ひとりは既婚らしいのですが、既婚ではないほうのおねえさんが、彼氏と元彼とフランス人の3つ巴のレンアイ関係について語りはじめました。

携帯電話の写真を友達に見せながら「これがフランス人、ちょーかっこいいでしょ?逆ナンしちゃったんだよね。逆ナンなんて、はじめてだったよ。で、ぶちゅーの写真。こっちもぶちゅー。でもね、このときは、もうひとりの彼が好きだったから、揺れてたのよねー」などと盛り上がりはじめたので、ぼくは退席。女性って気が多いよなあ。やれやれ。

帰りの電車が長かった(涙)。でも、下膨れの満月に近い月がとてもきれいでした。モノレールからは屋形船もみえました。家に帰りついたころにはすっかり酔いも冷めて、またビールをあけてしまった。なんだか小旅行をした気分です。なにやってんだか。でも、こういう無目的にどこかへふらりと行くのも悪くないですね。本格的に旅行をしたくなりました。どこかへ、ひとりで。

空港を離れた場所で考えたことを少しだけ。

日本語が亡びるとかブログは終わったとか、識者は終わりを宣言したがります。あるいは、おれの人生はもうおしまいだと、人生を諦めて自分を殺めてしまうひともいるかもしれません。安易に共感できる、よくわかるよ、とはいえませんが、終わらせなければならない辛さもきっとあるでしょう。煉獄のような苦しみから解き放たれるためには、どこかできっちり線を引かなければならない。負の連鎖を断ち切る勇気も、ときには必要です。

けれども・・・と、往生際の悪いぼくは考えます。

いずれは終わりたくなくても終わってしまう生なのだから、みずから終わらせる必要はないのではないかな。もう少しつづけてみませんか、と。あるいは、どうやったら継続できるか、維持できるか、ということを考えるときに新しい生き方も閃くのではないだろうか。関係性というものは生成変化していくものであり、一般論として正しいものが正解ではなく、状況下で自分が選択した答えが正しい。

淡い、とはいえない強い何かがぼくのなかにあり、終わらせることもできなければ、忘れ去ることも捨て去ることもできないまま、わだかまっています。いったいこれは何なのか。毎日のように考えつづけて考え抜いたところ、なんだかよくわからなくなりました(苦笑)。いっそのこと脳内のこの部分だけメモリをクリアできればしあわせなんだが、と思ったりするのですが、そうもいかない。しぶとく消えてくれないんだな、これが。

飛べない何か。夜の展望デッキで吹きさらしの風に凍えていたときは、そんな何かも吹き飛んでしまったのですが、どうやら根強くここに残っているようです。その何かを相棒として、うまくやっていこう。な?相棒。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年1月 9日

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国際的であること、日本語を使うこと。

水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」を読んだとき、ぼくのなかに批判的な思考が生まれるのを感じました。それはこの本を支持していたシリコンバレーの信奉者であるブロガーに対する批判とも重なりました。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

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茂木健一郎さんから明治時代の福沢諭吉のようだといわしめた梅田望夫さんにしても、オープンソースに詳しくギークとして鋭い切り口でブログを書かれていた小飼弾さんにしても、インターネットによる新しい技術や文化を日本に伝えてきた意味では、ぼくらのブログライフに大きな影響を与えてくれたひとたちです。その功績は認めたいし、彼等の書いたエントリにぼくは考えさせられることが多くありました。目標とすべきブロガーでした。

しかし、海外偏重の「外向き」な視点に対して、長いあいだぼくのなかに漠然とした違和感があったことも確かです。それはどういうことだったのか。少しきちんと考えてみようと思います。

市場規模として世界標準をめざすビジネスの重要性はわかります。そのためのツールとして、世界標準である英語を使いこなす必要があることは理解しているつもりであり、さらに自分の子供たちの世代になれば、いまよりも英語を使いこなす必要性が高くなるのは当然であると認識しています。技術面からいえば、シリコンバレーの最先端の技術と、技術を生み出した文化には学ぶことはたくさんある。日本にはないワークスタイルにも惹かれるところがありました。海外の動向は刺激的です。

しかしながら、外国にあるものがすべてよい、外国で生まれた技術や文化を妄信的に支持する価値観には疑問符を投げかけたいと思っています。海外への進出だけを尺度としていたずらに煽るような姿勢にも完全に頷けるわけではありません(もちろん肯定する部分もあります)。さらにそれが、日本語とその文化を捨てて<普遍語>として世界に通用する英語文化へ、という乱暴な論旨であれば話は別です。

<普遍語>という絶対多数として力を持つものがマイノリティを駆逐する、英語中心の文化が日本の文化を滅びさせるという、「日本語が亡びるとき」に書かれたような思考に対しては、どうしてもあらがう気持ちがありました。西洋かぶれ、といってしまうと乱暴かもしれませんが、外向きにばかり目を向けていると、ほんとうに身辺にある素敵なものに気づかないのではないか。

「あなたの国のすばらしさは何ですか?」と外国人に聞かれたとき、日本語です、とぼくは答えたい。マイノリティな言語でもいい。複雑だけれど豊かな表現、そして書き継がれてきた作品たちの伝統と美しさを胸を張って誇りたい。たとえ若い世代が乱れた日本語を使うようになったとしても、変わってしまった日本語を見放さずに、ぼくは生涯その変容を受け止めていたい。日本語がどれだけ素敵であるかについて、老いても力説できる人間でありたい。

日本語なんて滅びちゃうものですよ(ふっ)と、わかったような傍観者の顔で憂うのは「日本人として」最低ではないですか。そんな主張をする日本の作家の文学など、誰が読みたいと思うだろうか。あなたが滅びさせるような日本語であれば、むしろぼくは擁護したい。

しかし、一方でまた水村美苗さんをも擁護するのだけれど、梅田望夫さんや小飼弾さんの思惑とは別に、水村美苗さんがほんとうに伝えたかったことは、英語に支配されつつある世界のなかで、日本語に対する再評価をして、この複雑だけれどユニークな言語を守りたい、存続させていきたい気持ちではなかったのか、とも考えています。しかし、キャッチーな「日本語が亡びる」という言葉によって、その真意を梅田望夫さんや小飼弾さんたちブロガーが曲げてしまった。

逆説的ではありますが、国際化社会において、ほんとうに世界的な視野で評価される日本人とは、「日本人として日本のよさをきちんと理解し、説明できるひと」ではないか、と考えています。

国際人というのは、決して諸外国の技術動向に詳しかったり、世界に視野が開けていればよいというものではない。世界を見据えた俯瞰的な視点を持ちながら、「内向き」にも目を向けられることが重要ではないでしょうか。

外国人のなかにこそ日本のよさをきちんと理解しているひとが多い、というのも皮肉なことです。「シルク」や「ラストサムライ」のような映画を観て、あらためて日本の奥ゆかしい文化について気付かされました。日本人でありながら、あまりにも日本に対する理解が貧困な自分が恥ずかしくなりました。ああ、この映画で描かれているような、慎みがあり成熟した思考のある日本人になりたいな、と。海外からの視点を経由した日本のすばらしさは、少しだけフィルタリングされた日本かもしれません。しかし、他者としての視点を受け止めて、日本らしさを追求しても構わないとぼくは思います。

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一方で、外向きということを意識せずに、こつこつとよい仕事をしてきた職人さんたちが日本にはいます。結果として仕事に誇りを持って取り組むことで、世界にも通用する産業が生まれてきました。岡野工業のように、ちいさな会社であっても国防総省やNASAからも発注のある技術を生み出したような会社もあります。岡野工業については村上龍さんが司会をつとめる「カンブリア宮殿」で知ったのだけれど。

当然、最初から世界に照準をあてて成功した企業もありますが、カラオケやアニメ、ウォークマン以外にも、日本発による独自の文化や技術が生まれてきてもよいのではないか。そのためには、海外からの影響や雑念を一度シャットアウトして、内なるものに耳を澄ます必要があるのかもしれません。眠っているもののなかに、あるいは忘れ去られた歴史のなかに、いまの時代に通用する何かがきっとあるはず。

地域性、ローカルなもの、マイノリティだけれどあたたかいもの。

ぼくは(あくまでも個人的に、ぼくは、なのですが)そういうものを大切にしたいとも思っています。もともと音楽の趣味に関してはメジャーではなくインディーズ志向だったせいもあるのですが、絶対多数の価値判断から零れ落ちてしまうものを受け止めていたい。ブログに賛同したのも、ロングテールというマスの評価から零れ落ちてしまう何かにもきちんと居場所がある、という群集の知を尊重する場に期待したからでした(結局のところ、アクセス数やブックマークの数を競うマスのモノサシに絡め取られてしまいましたが)。

たとえば、日本語における「方言」について考えてみます。

テレビなどマスメディアの影響もあり、東京で使われる標準語が浸透した結果、いま方言は日本という狭い場所のなかでさらに「滅びつつある言葉」といえます。エンターテイメントの分野で圧倒的に勢いのある大阪弁はともかく、地方に行っても東京と同じように標準語で話すひとたちがいる。金太郎飴のように東京で流行っている服装を着て、同じような流行り言葉を使っている。

しかし、少なくなってきたからこそ、ぼくには方言はとてもあたたかい言葉に聞こえます。そのあたたかい言葉を大切にしたい。狭い日本という国のなかで考えたときにも、東京の言葉と地方の言葉を使い分ける「二重言語者」こそが、文化に豊かさを与えてきたのではないか、とぼくは考えました。

東京に住むひとたちは純粋に東京生まれというわけではなく、大学や短大への入学、あるいは就職を契機として、地方から上京してきた人々が多数ではないかと思います。年末年始や夏休みには帰省する学生や社会人たちのすべてがそう感じているかどうかはわかりませんが、彼等には、情報にあふれて最先端の流行が集まる東京の利便性がわかっている一方で、田舎に流れるゆったりとした時間の大切さもわかっている。おせっかいだけれどあたたかい言葉をかけてくれる田舎の家族との交流もわかっています。ふたつの地域性と言語を内に持ちながら生活しているといえます。

上京して間もない頃には、田舎に帰れば東京の言葉が気恥ずかしくもあり(その反面、誇らしくもあり)、一方、東京では地方の言葉が出ないように気を張り詰めていました。いまでこそ東京で過ごした年月のほうが長くなりましたが、ぼくもまた地方で東京に憧れて上京した地方人のひとりです。東京と地方で揺れ動くあやうい均衡を抱えながら、長い時間を過ごしてきました。とはいえ、地方と東京の言語的な差異がなくなり、標準語に駆逐されてしまったら、そんな意識もなくなってしまうのかもしれませんね。

自分の内面に地方出身者のどんくさい何かを感じながら(ぼくの場合は静岡県人としての温厚で、のほほーんとした性格を意識しながら)東京で暮らしています。けれどもそれは少しも悪いことではなくて、地方人を内包した東京人であることが、ぼくのパーソナリティーを豊かに形成している。自分のなかにある内なる地方性は捨てられません。実際に田舎に帰ると面倒なことばかりだけれど、東京に住む地方出身者という感覚は大切であると感じています。たとえ、もう戻れないふるさとだとしても。

この考え方をもう少し拡げると、英語に対するローカルな言葉としての日本語という位置づけも明確になるのではないでしょうか。英語が日本語を滅ぼす(標準語が方言を駆逐する)という事実はわかります。しかしだからこそ、地域性を守るべきである、とぼくは考えたい。

これもまた乱暴に喩えると、水村美苗さんは東京の標準語に憧れて地方の言葉なんてダサい、といって方言を捨てようとしているローカルな女子高生にしかみえない。だから水村美苗さんの主張は稚拙だと思うし、つまらない。

文化というものは、同質のものではなく、異質なものが出会うときに生まれるものだと思います。

妄想で話しますが、東京にいて、自分とは郷里が異なる地方の彼女と遠距離恋愛をしていたとしましょう。深夜の電話でコイビトが地方の言葉をぽろっと零してしまったとしたら、たまらなくいとしくなると思う。自分に合わせて標準語を話してくれていたのだけれど、思わず素が出てしまった瞬間。それは彼女が一枚服を脱いでくれたような、数ミリ距離が縮まった感覚があるはずです。そんな標準的ではない飾らない表現に出会えたとき、自分に対する想いもわかるし、相手に対する理解も深まっていく気がしています。外向きの言葉だけでは出会えない、言葉の奥行きを感じる瞬間ともいえるでしょう。

フランス語にはフランス語の趣きが、スペイン語にはスペイン語の情熱があるのではないでしょうか。そして、多様な言語を意図して使い分けることができるのは、とても豊かな恵まれたことだと思います。あるいは、異なる文化を理解しようという原動力は、多様な言語があるからこそ生まれるものである、と言い換えることもできるでしょう。わからないことにこそ好奇心は発動するものであり、そうやってぼくらは文化を紡いできました。利便性や数の圧力のもとに効率化することが、必ずしもよいこととは思えない。

言語が一本化されたとしたら確かに効率的であり、コミュニケーションは円滑かもしれませんが、伝わらない「楽しさ」が失われます。ディスコミュニケーションという無駄が、実は文化の幅を拡げる大切なものだとも考えています。統一された言語は地域独自のびみょうなニュアンスを削ぎ落としてしまうわけで、ファシズムのように言語が統制されてしまったら、つまらない世界になる。

繰り返しますが、せっかく多様な言語があり、その言語によって培われた多様な文化があるのに、その豊かさを標準化という圧力のもとに単一に収束させていく思考に、ぼくは抵抗を感じますね。英語が標準だ、そのほかの言語は滅びゆくものだ、というのはとんでもない傲慢で権力的な思考として受け止めました。だからこそ異議を申し立てたい。

願わくばインターネットで検索してぼくのブログを訪れたどこかの外国人が、こいつは何を言ってるんだ?という疑問を持ち、他言語に翻訳したくなるようなブログを(日本語で)書こうと思います。

最初から英語でかけばいい、という見解もあります。でも、それじゃあつまらない。検索エンジンでふらりと訪れた外国人が「あなたの文章は何を言ってるかわかりまセーン。でも、なんだかクールデス。英語に翻訳したいデース」などとあらわれてくれると嬉しい。音楽は国籍には関係がない共通の言語であると思います。音楽を作っているうちに、なんとなくウマが合う海外の音楽好きも出てくるかもしれない。あいにく、いまのところ海外からは、コメントスパムかトラックバックスパムしか来ないですけどね(苦笑)。逆にぼくが、この海外サイト面白そうだと思ったら、翻訳を試みるのも楽しそうです。

シガー・ロスのふるさとである北欧の言語に翻訳されたりしたら、文化的な刺激がありそうです。英語と日本語で書き分けることも大事なことかもしれませんが、異なった文化の誰かとコラボできることはぜったいに楽しい。このブログで論争や喧嘩はしたくありませんが、創造的な対話であれば、異国のひとであってもウェルカムな姿勢でいたいものです。

日本語の乱れを憂うひともいますが、乱れや揺らぎも時代や文化のなかで変わりつつある姿です。完璧な理想系を保持できるほど、ぼくらの世界はスタティック(静的)なものではない。あるいは、理想とは何なのか、という問いもあります。

という理屈はともかく、ぼくは21世紀のとばぐちで日本語でブログを書いていることがしあわせであり、この言葉が大好きです。徹底的にこの国の言葉の美しさを追究すること、日本のよさを再発見すること。それもある意味で、国際的に意味のある姿勢ではないかと思っています。

ドラッカーは、日本語という文化の独自性が最終的には世界から日本を守る、ということを述べていたように記憶しています。日本人が生み出してきたものは、それがどんなにマイノリティだったとしても自信を持ってよいのではないかな。終身雇用という日本独自のシステムも見直すべき部分がたくさんあるはずです。西洋かぶれの成果主義を導入して破綻している企業も少なくはないでしょう。カイゼンが上手な日本人とはいえ、なんでもかんでも西洋のものを導入すればよいわけではありません。内なるものに目を向け、耳を澄ますべきです。

日本的なものを見直してみる。そんな内向きの思考にきちんと向き合うことによって、この厳しい不況を打開するヒントがみつかるかもしれませんね。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年1月 7日

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内向きとか外向きとか。

内田樹さんのブログを読んでいたところ、面白いな、と思ったのが「 「内向き」で何か問題でも? 」というエントリでした。

乱暴かもしれませんが、簡単にまとめます。

ノキアは岐阜県の人口に等しいフィンランドで成功しても採算が合わないので、世界市場をめざすしかなかった。しかし日本では、国内の市場で十分に食っていけるだけの規模のビジネスがある。だから、いたずらにグローバル化して世界をめざさなくても、国内で採算が取れるのならいいじゃないか。内向きで何が悪い・・・というような主張だと思います。簡略化しすぎかもしれませんが。

外需依存の結果として日本は成長してきたけれど、だからこそいま米国の金融危機に大きな影響を受けて経済が破綻しつつある、というアナリストの解説を読んだこともありました。もちろん国内と世界では市場規模が違います。世界標準を見据えた大きなビジネスは重要であり、マクロの視点では、それが日本経済を支える屋台骨になるともいえるでしょう。しかしですね、鎖国とまではいかなくても、自国内で完結するビジネスもあっていいのではないか、と考えました。

この内田樹さんのエントリには小飼弾さんのブログが突っ込みを入れ、さらにそのブログ経由で池田信夫さんが論じています。それぞれの考え方が興味深い。特に「規模の経済」が内向きの企業を駆逐していくという池田信夫さんの見解には説得力がありました。

一般の方の見解も少し眺めてみたのですが、どうも二極論になりがちなことが気になります。すべてのビジネスで内向きに、ということを内田樹さんは書いているのではないと思います。内向きにビジネスを展開する企業はどちらかというと肩身が狭いのですが、それでも自信を持っていいんだよ、と言っているのではないか。そうぼくは解釈しました。弱者に対する配慮かもしれません。

トビラを開いて外国からの風を入れることが景気を活性化させることもありますが、強風によって、かえって被害をこうむることだってあるかもしれない。現実問題として、中堅、中小企業は体力がないから厳しい。

モバイルのキャリアに関していえば日本独自の閉鎖性には問題もありますが、では国際的なローミングサービスのようなものが必要かというと、正直なところぼくにはあまり関係ありません。だから国内で携帯電話を使うことができれば、それでいい。むしろ余計なオプションがごちゃごちゃ付属しているよりも、シンプルなほうが使いやすい。

また、みんながみんな外向きになる必要はないのに、右といえば全員が右を向かせるのは日本的な「空気」の圧力を感じます。だから、内向きで何が悪い、という内田樹さんの主張には気持ちよさを感じました。

ところで、内田樹さん、小飼弾さん、池田信夫さんのエントリを眺めながら思い出したのは、梅田望夫さんが絶賛していた水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」という本のことです。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

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「普遍語」という外向きの強大な言語である英語のもとに、日本語は滅びていくという見解が示されていて、ブログの界隈ではちょっとした話題になりました。

この本については、梅田望夫さん、小飼弾さんは絶賛されていました。しかしながら、池田信夫さんは奥さんの感想も含めて、「つまらない」というひとことで終えています(「日本語はすでに滅びている」という12/4のエントリ)。

実はぼくも購入したのですが、中盤170ページあたりから読む気力が失われて現在に至ります。個人的見解を述べると、つまらない本です。お金を払って読むには値しない内容でした。

それでも、冒頭の一章「アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々」はよかったですね。世界の作家がアイオワ大学に集まってIWPというワークショップを行う話については、"エッセイとして"十分に楽しめました。多国籍の作家が集うようすが鮮やかに描かれていて、それぞれの作家についての描写もうまい。個々のエピソードにもお国の違いがあらわれていて、映画のように脳裏にイメージが浮かぶ文章でした。

しかし、そのあとにつづく根拠のない自分勝手な日本語論などは酷いと思います。最低です。

帰国子女の感傷に浸って根拠のあやしい日本語論が展開されます。私小説作家の憂鬱なポーズを気取った憂国論には、正直なところ、うんざりしました。べたべたした暗い思考をだらだら語っていて歯切れが悪い。学問的には曖昧なのに、作家としてのプライドなのか文学をやっているというポーズなのか、知的にみせかけようとしている。そんなに日本語を憂うのであれば、うじうじ書いてないで、いっそのことすぱっと割り切って英語で小説を書けば?というのが率直な感想です(世界で通用するという奢りがあるのなら、ですが)。

梅田望夫さんは、この「日本語が亡びるとき」を絶賛するエントリをブログに書いたあと、読まずにコメントするはてブ利用者をTwitterで批判。その発言によって炎上状態になりました。しかもそれだけにとどまらず、その後、水村美苗さんと対談することを発表したため、「日本語が亡びるとき」をめぐる騒動は対談を前提としたプロモーションだったのか、話題集めだったか・・・と勘繰られて、ネットでヒンシュクをかってしまったようです。

梅田さんは作家でもなければ特に日本語や文章を書くことにこだわりがあるひとではないし(1冊だけ本が出せればそれでいい、という発言を読んだことがあります)、よくいえば計算高いひとだろうなとぼくは思っていたので憤りもありませんでしたが、思うに、シリコンバレー信奉者である梅田望夫さん、小飼弾さんにとっては、「日本語が亡びるとき」という本は、アジテーションをかつぐだけの意味で絶賛したのではないでしょうか。

「日本語が亡びるとき」というキャッチーなフレーズは、シリコンバレー信奉者系ブロガーにとっては、かっこうのキーワードだったと思います。だから絶賛したのであって、内容はどうでもよかった。というのは、この酷い本を絶賛する感性が理解できない。梅田さんや小飼さんのほうこそ、ほんとうにきちんと読まずに語っているのではないかと疑ってしまう。レビューを書くブロガーとして考えても、絶賛ばかりして酷い面を言及しない姿勢は信用できません。

内田樹さんの「内向きで何が悪い」という言葉に対しても、小飼弾さんは脊髄反射しただけにすぎない、というのがぼくの見解です。ブログで書かれている主張には目新しさや鋭さを感じませんでした。

そもそも小飼弾さんのブログは、アルファブロガー全盛期には、辛口の切れ味のいい文章に小気味のよさを感じたこともありましたが、目が肥えてくると、はたしてそれほどのカリスマ性がある内容なのか?と疑問です。失礼ながら端的に断言すると、思考が乱雑であって文章もあまり上手ではない。

内田樹さんのエントリの引用に際しても、小飼弾さんは乱暴に「大商い」と「小商い」という表現によって二元論的な枠組みのなかでねじふせようとしている印象がありました。以下の最後の部分についても、二元論的な思考で「内向き」に対する「外向き」のスタンスで語っているように読み取れるのですが、その安易な構図もいかがなものだろうと思う。

「内向き」でいられるのは、外に向かって体を張っている人たちあってのこと。
大きな国ほど、それがわかっていない人が多いというのは確かなようだ。

言っていることは納得できます。外向きに頑張っているひとたちあってこその経済だと思うし、その恩恵に感謝すべきでしょう。しかし、外向きのひとたちの「おこぼれに預かっている」ことは、いけないことなのでしょうか。彼の文章からは批判的に読み取れるのですが、そうだろうか。

素人の見解で述べますが、ぼくは企業や経済は個々で成立しているのではないと思います。

思考の枠組みとして導入したいのは、生態系(エコシステム)ではないか、と考えました。世界規模で循環する社会や経済のシステムもあれば、ちいさな規模の循環もあります。大きな規模の循環によって、ちいさな規模の循環を生かしていることもあれば、ちいさな規模の循環が実は集まって大きな世界全体を支えていることもある。

助け合ってバランスを取って生存しているのが世界ではないでしょうか。甘ったるい理想論かもしれないけれど、ぼくは「大商い」「小商い」「外向き」「内向き」は二元論のもとに対比するものでなく、お互いの関係性のなかで調和させることも可能ではないかと考えました。

その考え方のフレームワークを借りて、別の社会現象を論じてみます。

派遣村の問題をはじめ、派遣という雇用形態が問題になっていますが、これもまた正社員/派遣社員という対立で考えていても不毛です。派遣社員の存在があるからこそ正社員は煩雑さから解放されることもあるし、また、派遣社員にとっては正社員の頑張りがあるから、責任の範囲を限定して自由なワークスタイルが守られる。内勤で事務を支えてくれる派遣社員があるからこそ、正社員は「外向きに」営業もかけられる。

家庭も同様。外で働くおとーさんの頑張りがあるから家族は安心して生活できるのであり、けれどもきっちりと内向きの家庭を守ってくれる女房の働きがあるからこそ、旦那は外で活躍できるというものです。

といっても男は外で女は家で、という古い体制に縛り付けるつもりはまったくありません。実際はもっと複雑であり多様でしょう。主夫として育児休暇をきちんと取得して子供を育てて家庭を守る男性と、外でばりばり働く女性もあっていい。多様だとしても、それぞれの夫婦なりに折り合いのつけたお互いに助けあう関係があることで、家庭という社会や経済もうまく循環されていくのではないか。

論旨の焦点がぼけてきました(苦笑)。

内田樹さんの見解には甘いところもあるかもしれないけれど、ぼくは多様性を擁護する考え方として内田樹さんのエントリを読みました。だからこそ、「内向き」で何か問題でも?というタイトルなのだ、と。

もう少し別の視点から補足すると、高度成長期の時代であればともかく、成長が鈍化した現代において、いたずらにでっかい外向きの夢を描くのもどうかと思いました。むしろ身の程サイズの願望で耐え、守るべきときには堅実に守り、体力をつけた上で新たなイノベーションの機会をねらっていく・・・そんな戦略がよいと思います。この不況のときに内側に力をためて逆風に耐えた企業にこそ、次の春に芽を出せる機会が訪れる。

最後に「内向き」に戻って言及すると、ほんとうに内向きになれる企業なり人間というのは勇気が必要だと思います。というのは、グローバルだ、外に向かうべきだ、という主張が大半を占める状況下で、内省的であれ独自の内向き路線であれ、あえてその方向性をチョイスするには強い信念が必要になるからです。外側に向けるよりも強い信念がなければできないことかもしれません。

自分を究めることを重視しようと昨年末に考えたのですが、内を固めた人間が外に向かったとき、ほんとうに敵なしになるのではないでしょうか。内なる敵がいちばんの強敵です。弱さに打ち克つことができた企業や人間は強い。

そんなわけで、実は、ぼくも内向き派です(苦笑)。内向きでいいや。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年1月 3日

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歳月とコメントの力。

年末に引っ越したのですが、ほとんどの部屋の片付けは終わったというのに、自分の部屋をまだ片付けつづけています。本に関しては3分の2を廃棄したり売り払ってきたつもりなのだけれど、依然として本多すぎです。それから無用な書類も多い。むきー、こんなものこうしてやるー、とぐちゃぐちゃにしたくなる気分を抑えて、快晴がつづく正月、いまだに年末気分で大掃除の延長戦です。

モノを捨てられない性格のせいでしょうか。大学時代の講義ノートや、浪人時代に住んでいたアパートの家賃の明細(小岩で1万3000円だった。もちろん風呂なし4畳半)、昔の彼女からの古い手紙のほにゃららとか(そんなものまだ隠し持っていていいのか?)、さまざまな過去を発掘して赤面したり懐かしんだりするので余計に時間がかかっています。

この重い箱はなんだっけかな、と開封したところレコードが70枚あまり出てきました。捨てたと思っていたのでびっくりしたのですが、さらに菊地桃子とかどうでもいいようなアルバムばかりで脱力しています。しいてよかったと思えるのは、輸入版を含めてビル・エヴァンスが何枚かあったことでしょうか。

最近、レコードプレイヤーも人気が再発してレコードからCDにデータを焼けるような機種やUSB端子を備えた機種も発売されているようですが、いまぼくはこれをどうやって聴けばいいんだろう(困惑)。ついでにCDと比較してあらためて盤のでかさに驚きました。無用の長物だ。時代を感じます。

そんな風に、20年あまりに遡って過去の残留物を整理しているわけだから、そりゃ時間がかかります。人生の節目かもしれない、自分を省みて整理する時期にあるのだろうと思って、観念して腰を据えて過去を点検することに決めました。しかし、そうして丁寧にみていくうちに、過去の遺物から元気づけられたこと、感動したことがふたつほどありました。

ひとつは、中学1年の頃に教育実習の先生からもらったと思われる色紙です。

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ショートカットでスレンダーで、きれいな女性の先生でした。13歳の多感な少年であったぼくは、目上なのに失礼なことですが、あがってとちってばかりのセンセイをかわいいと思いつつ、オトナの雰囲気にやられて淡い恋心を抱いていたのでした(照)。

たぶんぼくはクラスをまとめるような役をやっていたと記憶しています。愛情を伝える術もなく、実習の最後の日に突然お別れ会をやることで婉曲に、先生想ってます・・・というような表現をして、先生を泣かせてしまったことがあったような。記憶力の悪いぼくは残念ながら詳細を覚えていないのですが、先生の面影だけはおぼろげながらイメージできます。なにしろ好きだったので。

クラスメイトがお別れの色紙にちゃかしたような楽しいメッセージをいただいていたので、ぼくもちょっと期待していたところ、思いのほか「孤独に耐えられる強いリーダーになって下さい」という真面目な言葉をいただいてショックを受けました(ちょっと残念だった)。でも「○○ちゃんへ(○○はぼくの名前の部分)」という呼びかけをいただいただけで、純真な少年は、完璧にノックアウトされました。名前を呼びかけられる妄想をして、何度も色紙を眺めながら溜息をついたものです。

しかし当時、この言葉はずしーんと響きました。10代のぼくは、ずっと行き場のない孤独というか寂寥感に悩まされていたような気がします。教育実習生とはいえ先生おそるべし。ぼくの内面を見抜いていたのかもしれません。というか、ぼくはわかりやすいひとなので、少年BirdWingは強がりながらも、さびしさを全身から発散していたのかもしれないですね。

先生のコメントを何度も読み返しているうちに、やがて恋心は尊敬に変わり、先生の叱咤激励をはっしと受け止め、よしっ!強いリーダーになってやる!あなたのために頑張ります、センセイ!・・・といたずらに夕陽に向かって鼻息を荒くしたような気がします。ま、それほど教育実習の先生は何か深いことを考えていたわけではないかもしれませんけれども(苦笑)。

恋は盲目です。大好きな誰かにアドバイスされたら、まっすぐに自分を変えようと思ってしまう。若さゆえの実直さですが、そんな愚直ともいえる素直さは失いたくないものです。あれからセンセイはどうしているのでしょう。もう、いいおばあちゃんになってしまわれたのだろうなあ(遠い目)。

さて、ふたつめの感動したことは、社会人になった20代の頃の残留物でした。

090103_kensyu1.JPG

入社3年目の社員研修だったかと思うのですが、グループになって、それぞれ別のひとのよいところを発見して渡すというワークショップがありました。そこで、5人の同僚がぼくのよい部分を2つずつ書いてくれたメモです。そういえばとても嬉しかったので取っておいたのだっけ。

自画自賛ではあるのですが、自分のために、ちょっと列記してみます(読んでいる方には白けることだと思います。すみません)。いずれもぼくに対する評価、印象です。

090103_kensyu2.JPGAさん
・やさしい。
・つねに表情がなごやかなので
 周囲を幸せにする。
 
 
 
 
 

090103_kensyu3.JPGBさん
・人をまとめるのがじょうずだと思います。
・自分の意見を素直に言える人だと思います。
 
 
 
 
 


090103_kensyu4.JPGCさん
・文章がうまい(入社案内第一弾を読んで感心!)
・スピーチも面白いです。
 
 
 
 

090103_kensyu5.JPGDさん
・何事にも動じない落ち着き
・いつでも絶やさない笑顔が場を
 やさしい雰囲気にすること
 
 
 

090103_kensyu6.JPGEさん
・要点をはっきりつたえる
・話しやすい人
 
 
 

 

なんだかこういうのを晒すのは悪趣味な気もしますが、でも、いいやつじゃないですか、20代の自分(泣)。というか、これはほんとうに自分なのだろうか。自信ないんですけど。

当然、相手のよいところを書きなさいというワークショップなので、悪いことは書いてありません。それにしても他者による自分のプラス評価が(たとえ数十年前のものだったとしても)、これほどまでにも自分を勇気付けるものとは思いませんでした。

ちなみにCさんの「入社案内第一弾を読んで感心!」というのは、当時勤めた会社で新人が入社案内を制作するプロジェクトがあったのですが、ぼくがコピーライティングを担当しました。社員の方からヒアリングしたことをベースに入社してほしい社員像を描いたのですが、なかなか熱いメッセージでもあり、体裁としては原田宗典さん風の面白い表現をしたことを覚えています。部分的に活字がゴシック+大きくなっているような文章です。

はあ・・・しかし、若くリーダーシップに溢れ、ほがらかでやさしい雰囲気のBirdWing青年が、数十年後のいまは、すっかりしょぼくれて自信のないおじさんになってしまったものだなあ。

いやいや。そんな風に悲観的になってはいけません。僅かではあるかもしれないけれど、いまでもあの頃の自分のよい部分は残っているのだ(と信じよう・・・)。そのうちのひとつとして、場をやさしい雰囲気に変えられることに注目しました。昔から、ぼくの大きな特長のひとつかもしれません。短気のあまりに、かーっと怒って場をぐちゃぐちゃにしてしまうことも多々あるのですが、できればやさしい雰囲気を忘れずにいましょう。背筋を伸ばしましょう。

というわけで前向きになろうと決意したぼくは、となり駅の書店を訪れて、次の二冊の本を買いました。

4478007462一瞬で新しい自分になる30の方法―24時間ストレスフリーでいられるNLPテクニック
北岡 泰典
ダイヤモンド社 2008-11-29

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4534044496デューデリジェンスのプロが教える 企業分析力養成講座
山口 揚平
日本実業出版社 2008-10-09

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ほんとうは新年からドラッカーあたりのがつんと読み応えのある本を購入したかったのですが、まずはとっつきやすい本から入ることにします。

1冊目はNLP(Nuro‐Linguistic Programing:神経言語プログラミング)の本です。NLPについては、以前エントリーで否定的なコメントをしたこともありますが、きちんと学ぼうと思いました。

なぜこの分野に抵抗を感じたかというと、ネットで軽く調べたところ、表層的に利用して好奇心を煽るようなサイトも多いと思ったからでした。また、宗教にしても心理学にしても、ほんとうにそうなのか?という客観性なしにのめり込むことは、ぼくには危険であると感じています。つまり洗脳のように盲目的に信じてしまう。思考する対象と自分を切り分けて考えられる客観性と自分を守る強さがないと、影響を受けすぎる危険性があります。そんなわけで敬遠していました。

しかし、NLPで扱っているテーマとして、五感を研ぎ澄ますことで意識の配線を変えたり、イメージを変えることによってストレスを軽減させること、言語学・心理学・人間工学などを横断した知の方法論については、ぼくの関心のあるスポットにはまる内容でした。したがって、ゆっくり内容を吟味しつつ学んでいきたいと考えています。

ちなみにNLPには、自分のなかに観察者や当事者に対する部外者のような「他者」を存在させることにより、いま拘っている思考の枠を外し、客観的な判断やネガティブな思考から解放する方法もあるようです。数十年前に研修でぼくが受けたワークショップ(他人から自分のよい部分を指摘してもらう)を自己内で行うことと近いのではないか、という印象を受けました。

自己のなかに他者の視点を導入することで、思い込みの支配から解放される。多様な視点、立体的な思考を獲得したいとずっとぼくは考えていました。それは他者との関係性のなかで獲得できるものでもありますが、セルフコントロールの手法としても興味深いものがあります。

あらためて見直すと、埋もれた過去のなかにも現在を変えるヒントはたくさんあります。歳月を経て発掘した「自分」に元気付けられたぼくは、ゴミ箱に捨てる前にちょっと点検してみたい。そして、過去の上に年齢を重ねた分別のある現在の自分を築いていきたい。そんな気持ちをあらたにしました。

+++++

追記

実はまだネットの引っ越しができていません。なんだかものすごいややこしいことになっている。そんなわけでネットカフェ難民になりながら、自宅で書いた原稿をUSBのメディアに保存して持ち歩いて、時間に追われながらのブログ執筆です。漂泊のブロガーというのも悪くないのですが、落ち着いて書けないのが辛い。しばらくは書きためた原稿を一気にネットカフェで公開する形で書いていきます。やれやれ。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | コメント (4) | トラックバック (0)