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2009年2月27日

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何かがおかしい、教育のいま。

教育の場にいるわけではない自分が批判するのはおこがましい気がするのですが、朝日新聞の「小学校に「学級委員長」不在の鳥取県、20年ぶり復活へ」という記事を読んで、びっくりしました。鳥取県の学校では人権を尊重する意味から、「他の児童を差別することにつながる」という理由で、学級委員長を20年ものあいだ置かなかったとのこと。ひええ。ほんとうなのか、それ。

自分の幼少の頃を思い出してみても、学級委員長という役割は、たしかに必要かどうかびみょうな存在でした。給食係や飼育係は必要だけれど(配膳は大事だし、いきものが死んでしまったらかなしい)、学級委員長はなくてもいいんじゃないのかなという、そもそも論は感じていました。

政治的な縮図を学校に持ち込んで社会の仕組みを学ばせる意図があったのかもしれません。だからといって学級委員長はクラスの政治を自由に采配できるわけではなく、すこしも偉くない。学級会の司会などを務めるだけで、別に交代でやってもいいよね、と思う。

選ばれたからこそ辛いことだってあります。少年の頃、ぼくも何度か学級委員長をやった経験があるのですが、おまえが選ばれたのは先生に贔屓されているからだろうとか、いわれのないいちゃもんを付けられて、友達から村八分にされたこともありました。

贔屓のことを「花(文字を分解するとカタカナでヒイキになる)」という隠語で言っていたことを覚えています。おまえは花だ、と宣告されて仲間外れにされた。そのトラウマは、いまでも根深く残っているような気がしています。

という自分の過去の闇はともかく、教育の場では、必要ないからやめちゃえ、という判断は間違っていると思う。さらに「落選したひとがかわいそうだから廃止すべきだ」、すべての児童を平等にするために特権階級のような学級委員長は廃止すべきだ、という考え方は何かがおかしい。

地域性の問題があるのだろうか。鳥取県の事情に詳しくないのでよくわからないのですが、そこまでフラットにしなければならない地域に根付いた何かがあるのかもしれません。あるいは地域性だけではなく、いま全国でそうした兆候があるのかどうか。断言はできないけれど、かすかに同じような空気は感じられます。

人権を過剰に守るあまりに非現実的なバイアスをかけて、個々人の特性を奪い去ってフラットにしたところで、真の意味で子供たちによいことなのかどうか疑問です。現実社会への適応力を失くしてしまうだけではないか。過ごしやすい平等な学校生活は維持できるかもしれませんが、厳しさに対する耐久力がなくなりそうだ。つまるところ過保護だと思います。

子供のためという大儀から、逆にかれらを育てることを放棄している印象もあります。そこまでフラットな社会は、現実の大人の社会には、どこにもないですよね。どこにもない理想郷で育てられた子供たちが大人になって社会という無法地帯のジャングルに出たとき、はたして強く生きることができるのか。

いろいろな考え方があるとは思うのだけれど、小学校の教育を、社会とは隔離された夢の王国にすることはないと思う。むしろ現実社会の練習問題として、あるいは社会のシミュレーションとして、もっともっと小学校や中学校で社会に出るための予行練習をやったほうがいいと思っています。ゆとり教育などという甘いことばが崩壊した現在、子供たちの未来を考えた上で、現実的に教育を最適化すべきではないか。

競争も必要だと思うし、討論することも必要。しかし闘うばかりではなくて協調するための忍耐力、相手の生命に思いを馳せるやさしさを学ぶことも大切です。政治家が迷走する現在、リーダーシップの育成はぜったいになくてはならないものだと思うし、だからこそ学級委員は、きちんと公約をプレゼンテーションして選挙によって選別すべきだと思います(ぼくらの子供の頃には当たり前だったけれど、いまではそんな光景もみられないのだろうか)。情報のリテラシーを学ぶことも大切。想像や創造の力、考える力をつけることはさらに大切です。

たとえば、実際に息子が学校の授業で面白がっていたのは、商売のシミュレーションのような「お店屋さん」ごっこでした。ビジネスゲームかもしれないのですが、粘土などで寿司や商品を作って、値段をつけて売る。どうしたら売れるようになるかを考えて、値段を下げたりおまけを付けたり工夫もする。協力して役割分担していくうちに、経営の基本のようなものを意識するようになる。

就活では、ビジネスを体験できるワークショップも多くなりました。説明選考会という名のもとに、ビジネスを疑似体験できるグループワークをさせる。インターンシップを経験すれば社会をもうすこし体感できるのかもしれませんが、社会人が学生にカイシャというシャカイを教える機会がもっとあっていい。それは大学に限らず、中学や小学校でやっても構わないと思います。

当然ですが、社会はゲームどころではない。単純なシミュレーションやロールプレイングで社会が学べるかというと甘い。教科書にはない難問や、どうでもいい落とし穴がたくさん用意されています。とはいえ、ほんとうに必要なものをまず学ぶべきであって、子供たちが学ばなければならないことは、ものすごく泥臭いことなのかもしれない。勉強の楽しさ、などのようなきれいごとではなくてね。

もちろん、これは考え方のひとつです。小学校にしても大学にしても、カリキュラムすべてがビジネス養成スクールのような編成になってしまったら、学校である必要がない。絵画とか音楽とか、あるいは文学の世界であるとか、はっきり言って無駄だけれども、こころのゆたかさを学ぶ教育も必要だと思う。教育はビジネスとしては割り切れない側面もあるのだから、効率だけ追求しても意味がない。勉強以外の分野のモノサシもきちんと用意されていて、勉強はめちゃめちゃだけど絵がうまい、という子供にも居場所があることが必要だと思います。

とかなんとか理想を書いていますが、正直なところ、ぼくは学校が大嫌いでした。できれば行きたくなかった。

ぼくが学校で学んだいちばん大切なことは何だったか。行きたくないところでも我慢して行かなきゃならないことが社会にはいっぱいある、ということだったかもしれません。その象徴として学校があった。

好きなことだけをやって生きてはいけないし、妥協したり我慢したり、ときには弱さを隠したり、笑いたくもないのに笑ったりして生きていかなければならないこともある。少年だからといって、ぼくの思考は決して拙いわけではなかった。わいわい楽しいだけのスクールライフではありませんでした。その年齢なりに真剣に人生を考えていたと思います。ちいさなアタマを熱くして、生き方について考えていました。それはいまの若いひともそうでしょう。若いからといって、稚拙なことはない。真剣に考える想いは大人に匹敵するはず。

生きにくさを感じたのは、大人になって社会に出てからではありませんでした。いまにして思えば、12歳のぼくは、大人に負けないぐらい十分なほど人生を悩み、未来を疎んじていた。なんで生まれてきちゃったんだろうな、生きていくのは面倒くさいな、ということを憂いて、眉間に皺を寄せていました。現実に流されて感覚の鈍ってしまった大人となったいまよりも、ずっと真剣に。ずっと純粋に。

いま、子供たちは何を感じているのでしょう。

時代は変わったのかもしれません。いや、確実に変わったのでしょう。いまの子供たちは、デジタルネイティブな子供です。つまり、生まれたときからインターネットがあり、遊びといえばゆたかなグラフィックによるゲームが中心で、ひとりひとりで遊ぶことがふつうになっている。かれらにはかれらなりの生きにくさもあるだろうし、直面している課題もあるはずです。予測のつかない常識もあるだろうし、一方でぼくらの世代となんら変わりのない側面もある。

しかし、運動会では負けた子供がかわいそうだからということで順位が付けられず、落選したひとがいたたまれないといって学級委員長は廃止され、何か問題が起きると親が学校に乗り込んでくる。そんな大人たちが加工した歪んだ環境も存在します。大人たちの余計な配慮で作られた人工的な環境で育った子供たちが社会に出たとき、いったい世界はどのように変容するのか・・・。

薄ら寒い恐さをぼくは感じています。

投稿者: birdwing 日時: 00:31 | | トラックバック (0)

2009年2月24日

a001071

バクダンを抱えつつ、生きる。

雨降りの寒い日がつづいています。春はどこへ行ってしまったのでしょう。身体の芯から冷たくなるような寒さで、きりりと引き締まる気がする。この、きりり感も悪くはないのですが、どこかびよ~んと弛緩して生きてゆきたいぼくには、ちょっときつい。なので、春を待っています。コートの襟を立てて顔を埋めながら、きびしい風をやり過ごそう。はやくあたたかくなるといいですね。

さて。先週、眼科で緑内障という診断をいただきました。

緑内障は眼の病気で、視神経がダメになって視野が失われていきます。通常でも視神経は年齢とともに減少していくようですが、眼圧の増加とともに急激に視神経がやられてしまう。レイ・チャールズも緑内障で失明したようですが、ひどくなると失明に至ります。最近、40代以上の世代に増加しているらしい。しかし、目薬の進化により、手術をしなくても症状の進行を食い止められるようになったとのこと。

そもそもずっと眼のちらつき感がありました。本がよく読めなくて、年とっちゃったかなあ、などと嘆いていた。そうしているうちに先日の人間ドックで発覚したのですが、その後、眼科でしっかり診察してもらうと、右目の上半分の視野はかなり損なわれてしまって、よくみえていないらしい。そんなことはない、と思うのだけれど、左目で補っているようです。息子が好きな怪獣ガンキュウみたいに、ひとつ目じゃなくてよかった。

あわてて複数の眼科に通いました。しかし、ひどくなるまで発覚しにくい病気で、症状が自覚できるまで進行した緑内障は、もはや治す術がない。あとは進行を止めるしかないようです。失明というバクダンを抱えたまま、毎朝、規則正しく目薬をさして、生活をあらためて穏やかに生きていくしかない。

暗くなりました。眼が見えにくいので、暗いことは比喩でもなんでもないのだけれど、落とし穴に嵌ったみたいに凹んだ。おじいさんではあるまいし、まさか自分がそんな病気になるとは思わなかったので。

正確にいうと、暗いというよりも、右目はハレーションを起こしたようなちらちらが始終みえていて、どちらかというと明るい。白い画面や文庫を読もうとすると、ちらつきがひどくなります。なので、電車のなかで文庫が読めない。読もうとすると、とても疲れてしまう。通勤・帰宅時間は楽しい読書タイムだったのに、目を瞑って眠るか、音を聴くしかない。残念なことです。

診察に関して触れておくと、眼科の視野を検査する機器は結構興味深いものでした。白いお椀型の容器に、眼を片方ずつガーゼでとめてもらって顔を突っ込む。中心の黒い点をみつめていると、お椀のあちこちに光が点滅します。光を感じたら、スイッチを押す。さながら、ちいさなパーソナルプラネタリウムのようでした。片方5分ぐらいの検査だったのですが、もう少しやっていてもいいですか?とピンクの仕事着の看護婦さんに言いたくなった。

と、楽しげに書いていますが、一時はかなり精神的にまいっていました。ただでさえ不況の昨今、失明したら仕事はどうするのだ、視野を失うのは世界を失うようなものではないか、と。しかし、周囲に緑内障を患っているひとも多く、そんなひとたちの話を聞いて、ちょっと安心しました。気をつける必要はあるけれど、心配しすぎることもないのではないか。だいたい、なっちゃったものはしょうがない。覚悟が肝心である。

ここしばらくブログのエントリで失明とか視野とか、そんな言及が多くなったのは緑内障ショックの背景があります。夜中にひとりでPCの画面に向かって、かたかたと文字を入力しているので、プライベートな感じがするけれど、ブログはパブリックなスペースです。そんな場所で病気を公言するのもどうかとは思うのですが、婉曲に書いているのもなんだかなあという感じがしてきたので、少し落ち着いた本日、あらためての告白です。

息子の髄膜炎のときにもそうでしたが、病気のときには、ネットで調べたことが参考になる。過剰にネガティブな情報を収集して、かえって心配になることもありますが、主体的に必要な情報を取捨選択すれば症例について有効な知識を得ることができます。すこしでも同じ緑内障のひとの参考になれば(というか、ならないか・・・)ということで、ぼくもこの現状をネットの海に投げてみます。とはいえ、個人によって症状も違うと思いますので、心配なひとは安易に自分で判断せず、医師の診断を仰いでくださいね。

不摂生の結果です。ストレスもあっただろうし、過酷に目を使いすぎた。めちゃめちゃな生活をしてきた報いかもしれません。しかしながら人間、年をとるといろんな支障が出てきます。だれでもわずかばかりのバクダンを抱えながら生きているもので、そもそも明日何があるかなどぼくらにはわかりません。どんなに健康な人間であっても、とんでもない事件に巻き込まれることだってある。

そんなことを考えているうちに、ざわざわと揺れていたこころは次第に静かになってきました。緑内障というバクダンを抱えつつ、美しいものも美しくないものも、視野が生きているあいだ、ずっと見続けていきたいと考えています。だからといって生き急ぐことはないですけどね。ゆっくりと見ることを楽しむ。ぼんやりと空を眺めるような時間を大切にする。というか、以前からそうだったか。あまり生活は変わらないかもしれない。

ぼくのブログを読んでコメントをいただけるひとは、とってもやさしいひとが多いのですが、慰めはいりませんよ。自業自得です。病気であることを知って、なんだか穏やかに前向きな気分になっています。逆にこのエントリを読んでいるひとに告げたいと思います。

いまを大事にしてくださいね。それが未来にきっとつながるはずです。

いまの自分を大切にしてください。あなたがそこにいて、ありふれた日常の世界を眺めているというただそれだけのことであっても、それは実は、ものすごく素敵なことだと思います。

あなたの目前にあるリアルを大事にしてください。ぼくもまた、そうやって生きていこうと思います。いつ爆発するかわからない、バクダンを眼孔に抱えながら。

投稿者: birdwing 日時: 22:51 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月23日

a001069

卵に宿る生命と、想像の力。

まだ卵について考えています。村上春樹さんのエルサレム賞のスピーチにおいて、比喩的に表現された「壁と卵」の表現についてです。

村上春樹さんが表現した「卵」とは、脆いぼくら個々の生命のこと。最初は表層的な比喩としてとらえていたのだけれど、とりとめもなく考えていくうちに思考が広がってきました。読み終えたばかりヘーゲルの入門書から得た着想も加えながら、卵について考えたことを書いてみます。

すこしばかり詩的な文章になるかもしれません。当初の村上春樹さんの意図からは、ものすごく遠い場所に逸脱してしまった気もしています。わかりにくいかもしれないのですが、ご容赦を。

では、卵(生命)についての考察です。

+++++

卵と卵。つまりぼくらの生命と生命は脆い殻で隔てられています。

だから、相手の殻のなかに存在する生命に、ぼくらは直接触れることはできません。どんなに近づこうとしても、殻に拒まれます。どんなに愛し合うふたりであっても、殻を壊して相手のあたたかな本質に触れることはできない。

結局のところ、卵たちはひとつになることができません。殻という薄っぺらなもので拒まれているから、ふたつの、あるいはたくさんの生命を融合することはできない。いびつな球体のかたちで個別に存在するだけです。孤独を破ることができずに、ころころと転がるばかり。殻のなかには、あたたかい生命がぎっしり詰め込まれているのだけれど、とろりと溢れて流れるような、そのひとの本質には近づけない。それが卵たちの現実です。

けれども、その卵は、想像することができる卵です。

自分と同じような生命が相手の殻のなかにも宿っているのだな、と想像することによって、そのあたたかさを想うことはできます。殻を壊さなくても、想像の力によって、ぼくらは卵のなかにある他者のあたたかさを感じられる。

想像の力は、殻によって隔てられた距離をわずかだけれど薄くすることができます。共感も同じでしょう。楽しさや嬉しさ、かなしみやよろこびを共有するとき、ぼくらはお互いが殻に隔てられた孤独な卵であることを忘れます。そうそう!わかるよね!と、透明なタンパク質のふるえをお互いに感じる。生命のふるえを共振することができます。

卵のなかに存在するあたたかい生命は、決して「記号」ではありません。どんなに黄身のかたちが似ていても、ひとつとして同じ生命は存在しない。生命は代替不可能であり、個々によって異なります。総括することもできなければ、省略もできない。

生命は流動的です。言葉という記号で固形化しようとしたとき、するりと零れていってしまう。殻のなかで透明な塊としてぷるぷる震えている生命は、常にかたちを変えている。むしろ殻が「記号」かもしれないですね。個人は記号としての殻+生命としての中身として、卵の総体をかたち作っているのかもしれない。

ぼくらはときとして、殻に向けて言葉という記号の石つぶてをぶつけることがあります。殻があるから大丈夫だろう、これぐらいのものを投げても平気だろうと、容赦なしに硬い言葉を投げかけることがある。

しかし、ぼくらの生命を守る殻は、実はとても脆くて壊れやすいものです。殻は個々人を守る「壁」のようにみえますが、システムのように堅牢ではない。だから殻は壊れる。壊れた卵は、二度と元には戻りません。

生きていながら破壊される殻、壊れる生命もあります。内田樹さんのエントリで紹介されていましたが、戦争後、とにかく日々祈るしかなかった村上春樹さんのお父さんのエピソードは、ぼくには壊れた卵を想像させました。生命のぬくもりを失いかけている。身体的な負傷はなかったとしても、戦争によって卵の殻のどこかにひびが入って、そこから中身が抜け出てしまったのでしょう。

生命のあるものとして、自分の、あるいは他者の殻を壊さないようにするにはどうすればいいのか。

殻を鍛えることもあるだろうし、壊れやすい場所には近づかないこともあります。しかし、ぼくが思ったのは、破壊しようとするひとが、殻のなかにある他者の生命について少しだけ、あるいは深く想像を働かせることが重要ではないか、ということでした。

戦争を抑止するのも、不毛な諍いを止めるのも、あっけなく他者や自分を殺めたり傷付ける手を止めるのも、小説をリアリティをもって活かすのも、この想像の力ではないでしょうか。子供たちが本を読まないことが問題ではなく、想像の力が弱まりつつあるのが、社会にとってはいちばんの問題なのかもしれません。

逆に、そこにはないシステムを、あたかもあるように見せるのも想像の力です。何かの影を化け物のような恐怖で装飾するのも想像力。

国家間であっても、個人どうしであっても、憎しみや恨みを暴走させるのもまた、コントロールを失った想像の力ではないでしょうか。想像は所詮は現実ではないのだから、時間のなかで減衰していくはずです。なのに、いつまでもリアリティのある強固な想像が持続されてしまうと、過剰な想像が現実を侵食していく。想像は永遠には続かない。失われて夕暮れのように減衰していくからこそ、ぼくらはこころの平穏を取り戻すこともできる。現実を生きられる。永遠なるものは、ぼくには非現実的に思えます。

リアルに照準をあてて、自分のなかで過剰に膨らんだ想像を軌道修正できること。想像を矯正したり、抑制したりできること。自分の想像をひとまず放棄して、他者の想像(つまり、考えていること)を仮想のなかに描けること。他者の想像もまた、どんなに自分とは異なっていてもリスペクトできること。

思いやり、という言葉はどこか独善的な感じがしました。だからぼくは想像力だと考えました。情報化社会に生きるぼくらにとっては、想像力こそが重要な力ではないでしょうか。テキストからリアルを立ち上げ、またテキストにない行間からみずみずしい現実世界も描けること。一方で、目前に広がる世界の実像と照らし合わせて、想像をリメイクできること。過剰な大きさの想像をリサイズしたり、不要な部分をトリミングできること。そんな想像の編集技術。

そうして、想像力を鍛えるためには、物語、つまり文学が必要なのではないのかな、と思うのです。

投稿者: birdwing 日時: 23:38 | | トラックバック (0)

2009年2月20日

a001068

目を瞑ると、みえてくる風景。

通勤途中、乗り換えのために通過する新宿の駅で、毎朝、若い女性が白い杖をついて通っているのを見かけました。ふつうに歩いているように見えるのだけれど、視力に障害のあるひとのようでした。

ぼくとは違う路線の方角に向けて、ひとごみをクロスするように歩いていく。最近一本はやめの電車に乗るようにしたので、彼女に出会うことはなくなってしまったのだけれど、ときどき、あのひとは大丈夫かな?と雑踏のなかですれ違うだけの彼女のことを想い出します。知り合いではないんですけどね。すれ違うだけのひとなのだけれど。

彼女には彼女なりのしあわせな生活があるのかもしれません。ぼくの想いは眼の見える人間の驕りかもしれず、視力のあるぼくよりも、よほど強くしなやかに生きているかもしれない。どんなひとか知らずに憐れむのは、押し付けがましい同情かな、と少しだけ思う。

こんなことを言うのはどうかと思うけれど、雑踏ですれ違うたくさんのひとたちと同様に、彼女もまた、ぼくには日々の風景の一部でしかありませんでした。しかし、風景の一部である彼女も、確かな人生を生きている。そしてぼくもまた、誰かにとっては風景の一部であるけれど、かけがえのない現実を生きています。

交わることはなかったとしても、同時並行的に複数存在するひとびとの現実の網目によって、ぼくらの世界は幾重にも織り成されている。重なり、交わり、あるいはまったく遠く離れながら。

ときどき、交わることのない誰かについて想いを馳せることがあります。白い杖で歩くそのひとを想うように、眼が見えなくなるというのはどういうことだろう、という風に。交わることのない誰かが眺めている風景を想う。

思い立って、電車のなかで眼を瞑ってみました。気持ちよく眠ってしまわないように気をつけながら。眼を閉じると聴力が際立ちます。連結器の軋む音。線路を伝わって後方へ抜けていく金属的な振動。mixiに書くとか書かないとか学生たちの他愛のない会話。次の駅を知らせるアナウンス。

世界は音で溢れているんですね。眼を開けているときよりも音の定位が気になりました。音が聞こえる方角を耳で追ってしまう。けれどもどれだけ音で埋め尽くされていたとしても、情報は半減どころかまったく少なくなります。視覚に頼って生きていたということ、視覚の大切さについて、あらためて気づかされました。眼を瞑った途端に減少する情報量の少なさは、正直なところ怖かった。

過剰な情報にすがって、ぼくらは生きているのかもしれません。情報に溺れることで、依存することで、自分の脆くちっぽけな存在を保っている。眼が見えなくなるというそれだけで、情報を削ぎ落とされた殺伐とした世界に突き落とされたような気がして、戦慄しました。

もし、眼が見えなくなったら。というよりも、眼が見えなくなるとしたら、暗闇のなかに取り残される前に、ぼくは何を見ておきたいだろう。

きれいなもの、美しいものを見ておきたいとまず考えました。ブログで取り上げることの多い青空もそうですが、雲であるとか、イルミネーションであるとか、ひとびとの笑顔であるとか。絵画であるとか、映像であるとか、だだっ広い草原の風景だとか。見上げていると宇宙に落っこちてしまいそうな気持ちになるたくさんの星空とか、そんなもの。

けれども、その後、いや、そうではないものも見ておきたいと考えをあらためました。路上にぶちまけられた嘔吐であるとか、書き殴られた落書きであるとか、だらしなく座り込む浮浪者だとか、暴力的なできごとだとか。見ることができても、眼を逸らしている現実があります。けれども、見えなくなるのであれば、そうしたものも含めて、世界をありのままに見ておきたい。

見ることが重要な職業には、画家や映画監督などがあります。仕事で映像の撮影に同行して感心したのは、光を作り出す照明さんの仕事でした。専門用語ではバウンスというようですが、間接的に壁に光を当てたり、布で覆ったりして、文字通り光を創っていきます。光の創り方によって、得られる風景が変わる。絵画などもそうでしょう。

光を描いた画家といえばと連想してフェルメールを思い出しました。

写実主義の画家であるフェルメールは、カメラ・オブスキュラという器具を使って風景をとらえようとしました。いわゆるピンホールカメラのようなものだったと思います。大きな箱に針で穴をあけると、そこから入った光が逆さまになって風景を投影する。彼は科学的なアプローチも使いながら光に忠実に絵画を描き、「光の点綴画法」(ポワンティエ)という手法で独特の表現をつくり上げていった(松岡正剛さんの記事を興味深く読みました)。

しかし、絵画として切り取られた世界は、やはり美しい。瞬間や風景を切り取り方として、画家の視点も働いています。描かれた絵画もまた現実ですが、画家が創り上げた現実です。

人間の眼はカメラではありません。漱石風の言説を使うならば、投影された風景は風景のままではなく、焦点化された風景+付随する感情で成り立つ。

クールな科学者の視点だけではなく、感情によって見える風景が変わってきます。こころの在り方によって風景も変わる。人間はどんなときも客観的にみることができるかというと、そんなことはない。主観的に見ることしかできない。そもそも客観性とは何か、ということを考えてしまう。意識の外側で、客観的に世界を捉えることはできるのか。

現実は自分の外側だけでなく、自分の内側にもあります。どんなに解釈が間違っていたとしても、こころのなかに存在した風景は現実の一部ではないでしょうか。誤解や、間違った解釈もまた現実。

眼を瞑ったときにみえる風景もあります。それは夢と似ています。けれども夢ではない。怒りや憎しみによって歪められたり、楽しさや愛情によって過剰に輝いていたり、期待や理想によって膨らまされていたりするけれど、その風景は紛れもない現実です。個人の意識でフィルタリングされていたとしても、自分が想うときに世界は成立し、現実として存在する。

最近、雲はこんなにきれいだったのか、とか、新宿のイルミネーションって意外にきれいじゃないか、とか、どうでもいい日常の風景に感動ばかりしています。できれば、この感動を永遠に持続させるために、言葉や音楽に翻訳したいのだけれど、なかなかうまくいかない。ベートーヴェンやレイ・チャールズ、スティービー・ワンダーのように盲目のアーティストもいますが、彼らにはいったい何が見えていたのだろう。

目を瞑ると、みえてくるひとつの風景がぼくにはあります。

既に失われてしまったのだけれど、あたたかくて、とてもやさしい。もちろん荒涼とした風景もありますが、できれば生涯みつめていたい。視力を失うようなことがあったとしても、みつめていたい風景が、ぼくには、あります。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年2月 5日

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ドラクロワ、そして文学論へ。

いまぼくは、あらゆる情報に触れながら一度それらをシャットアウトして、自分のなかにある好奇心であるとか、センサーがキャッチした何かに耳を澄まそうと考えています。楽しいことばかりではありません。かなしみや辛い感情もあります。汚い部分もある。どろどろとした欲望もあります。そうしたものに向き合うこと。しんどいのだけれど、こいつを片付けたい。

NLP(Neuro-Linguistic Programing:神経言語プログラミング)の本を読んで、これはやっぱり違うな、と考えたのは、辛いストレスの感情を楽しかった何かで置き換えて、こころを軽くしようとする表層的な手段であることでした。先日は引用してしまったけれど、この本、あまり使えません。なので感想を書く気になれない。

4478007462一瞬で新しい自分になる30の方法―24時間ストレスフリーでいられるNLPテクニック
北岡 泰典
ダイヤモンド社 2008-11-29

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手段で解消しても、結局のところ状況は少しもよくならないのではないか。誤魔化しである、と。もちろん、この辛い世のなかでは負荷を軽減する手法が誰かを救うこともあるでしょう。しかし手段で救済することが、ほんとうの救済といえるのか。もっと酷い状況に貶めることにならないか。

マニュアル世代という形容もありますが、NLPもひとつのマニュアルだと思いました。欠けているのは、で、どうするの?ということ。

「額縁の置き換え」というテクニック(まさにこのテクニックということばがマニュアルだ)があり、これはプレッシャーの経験とリラックスした経験を相互に想起できるようにして、プレッシャーの強い状況下でリラックスした感覚を思い出させようとするような技術だそうです。

アンカーリングというテクニックもありました。たとえば拳を握ることによってパブロフの犬的に楽しいことを思い出させる。ただ、やっぱりこれは逃げだと思う。感覚のすり替えをつづけていると、ほんとうに危機的な状況において、きちんと危機を認識できないようになってしまう気がする。いまあらためて思うと、80年代のバブルにそうやって生きてきた人間はとても脆い。スタイル重視なんですよね、内容ではなくて。

スタイルから入る世代の人間たちは、ときとして本質を見失います。

家を買うこと、クルマを持つこと、肩書きを手に入れること、他人に誇れる資格を取ること、格差のなかで勝ち組になることばかりを追及します。あるいは、アルファなブログで紹介されている本、名盤や名著と言われてリストアップされているものを考えもせずに購入すること(まあ、ぼくもそうだ)、流行の店にはとりあえず行っておくこと、みんながやっているなら違和感があったとしても口を閉ざすこと、そんな風に空気の流れを読んで、空気を乱さないようにする。

しかし、そうやって流されていて、ほんとうにいいのか。

ひとのことは言えないけれど、ぼくは日本の政治の舵取りをすべき麻生さんがほんとうに問題なのは、漢字の読みを間違うことではなく、自分の考え、信念がないことのように思えます。だから政治の方向性が定まらない。その場その場を切り抜けるだけで、反省もしなければ未来に対する思いもない。しかし彼を取り巻く社会も社会で、漢字が読めないことばかりをマスコミで騒ぐから、それがきっかけとなって漢字ブームを生んだりします。なんなんだか。

気が付くとぼくもまた、ブログブームにのっかって惰性でブログを書いている。一日を進歩もないまま、まあいいか、で終えている。

まあよくない(苦笑)。

そんなときに、コールドプレイ、そしてアラン・ロブ=グリエが監督した映画で出会ったウジェーヌ・ドラクロワという画家なのですが、これはぼくにとって意味があると思いました。Wikipediaのページで絵画を鑑賞しているのですが、彼が描く暗いトーンになぜか惹かれています。

とりわけ、キオス島の虐殺(絵画はこちら)に注目しています。以下、Wikipediaの解説を引用します。

1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品する。この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こした。グロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなった。

きちんと調べていないため、絵画の歴史的な背景には疎いのですが、芸術はかくあるべき、美しさは現世を超越するものだ、というようなサロンの権威に、ドラクロワは暗い現実を突きつけたのではないか。

きれいなものだけじゃないよ、現実の姿をありのままに描写するのも芸術だよ、と。しかし、ドラクロワはやってのけた。なぜなら信念があったからでしょう。だからこそ、次の解説も興味深い。

苗字を分解するとde la croixで、「信仰(信条)に生きる者」を意味する。

飛躍するのだけれど、その感覚がぼくには漱石の「文学論」を読み直す、という動機につながろうとしています。ぼくは全集で持っているのだけれど、岩波で文庫にもなっているんですね。

4003600142文学論〈上〉 (岩波文庫)
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文学論〈下〉 (岩波文庫)
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漱石は(F+f)という式で、文学的な世界の認識について考えようとしていました。それは世界を世界として正しく認識するための考え方にほかならない。つまり、きちんと「見る」ということ。眼前にひろがる現実から目を背けずに、フォーカス(F)させ、その結果生じるこころの動き(f)をきちんと捉えること。

まだ表層に過ぎません。けれどもこの表層を出発点として、ぼくは世界をとらえ直していきたい。

<あなた>のことをきちんと見ていたのか。<あなた>ではない誰かを、現実の<あなた>とすりかえていたのではなかったか。いたずらに先へ歩みを進めなくてもよいと思っています。ぼくは過去に遡り、もう一度、他者として<あなた>に向き合う。理解できなかったことのひとつひとつをきちんとわかるまで理解する。焦点化あるいは焦点を挿げ替えていた何かを見つけ出して、そのことによって生まれる感情も再現する。そうして自分の汚い部分にも向き合っていきましょう。

終わりはないかもしれません。しかし、死んでしまえば人生はおしまいなのだから、それまでには十分に時間はある。まだ間に合う。

ぼくには学生の頃から片付けていなかった課題がたくさん残っている気がしました。だから、一枚抜けているテスト用紙の夢などをみるのだろうね。

忘れてしまった、置き忘れていた何かが、どこかにある。ぼくの生き方は間違っていなかったと思うし、だからといって正当化するつもりもない。また正しいものが何かについて安易にジャッジできるようなものではないだろうし、蔑まれるものでもない。直面していながら見過ごしてしまった(あるいは目をそらしていた)何かにきちんと向き合いたい。ちいさな課題からひとつずつ片付けていきたい。ゆっくり時間をかけて。

その過程は、ここではないどこかで、あるいはぼくの内側で進展させていくことになるでしょう。課題がある程度片付いたときに、きちんとすべてを赦したり、謝罪できるのかもしれないですね。

そんなことを早朝に考えています。ドラクロワの絵を眺めながら、ぼくのこころに浮かんでくる感情を微細に確かめながら。

投稿者: birdwing 日時: 06:39 | | トラックバック (0)