思いこんだら。
「思いこんだら」で連想するものといえば、「試練の道を」とつづくアニメ「巨人の星」のテーマソングです。テレビ番組か何かで聞いたような気がするのですが、この歌詞を「重いコンダラ」と勘違いされていた方もいたようでした。つまり、なんだかよくわからないのだけど、とてつもなく重い「コンダラ」という何かがある。で、そのコンダラをずりずりと引っ張っているので、試練の道を、とつづくわけです。兎跳びやタイヤかローラーを引っ張るような場面が歌の背景に流れていたような気がするので、そのイメージもあって勘違いされたのでしょう。
ちなみに、ローラーといえば、ぼくは中学時代にローラーに轢かれた哀しい経験があります。当時、ぼくは軟式庭球部に所属していたのですが、アサレン(朝の練習)のまえには、コートにコンダラ(じゃなくてローラー)をかける。おっもっい〜こんだ〜ら、のような感じでコンダラ(だからローラーですが)をごろごろと転がしていたのですが、隅っこのほうで方向転換するときに、ちょっと手元が狂ってぼくの行き場がなくなってしまった。ありゃーと思っていると、ぼくの右足の上をコンダラ(いやローラー)がごろごろと転がっていったのでした。そのときにはまったく痛みを感じなかったのですが、靴を脱いでみたところ・・・。その後、ぼくの親指がどうなったか書くことはできるのですが、そもそもぼくは痛み関連に弱く書きながら卒倒するかもしれないのでやめておきます。
と、ちょっと関係ない話に逸れましたが、コンダラコンダラと言いつづけていると、なんとなくあの重くてごろごろ転がるものがコンダラに思えてくるから不思議なものです。
なぜこんなことを書いているかというと、先日読了した「書きたがる脳」という本のなかで、暗喩(メタファー)についての記述があり、その文章にヒントを得て思索をした結果、思い込みは怖い、という結論に達したからです。と、いきなり結論から書いても、風が吹くと桶屋が儲かる、のように脈略を欠いた感じがするので、もう少しその考えに至った経緯を書いてみることにしましょう。
「書きたがる脳」のなかでは「病としての暗喩」として、「私はイエスのように苦しい」が「私はイエスだ」のように変化したときの危うさについて書かれていました。そもそも「病としての暗喩」はスーザン・ソンタグという作家の著書名であり、その著作を読まないときちんと論じることができないような気もします。とはいえ、上っ面かもしれませんが、その言葉からインスピレーションを得て考えたことを書いてみます。
以前、暗喩(メタファ)について考察したのですが、そのときに「酒は人生の薬だ」という例文を考えました。再度、その例文を考察してみます。
いま空想力に欠けるものすごく頭の硬い人間がいるとします。逆にいえば夢想的なことを拒否する現実的な(オトナの)人間かもしれません。「ネバーランド」という映画に出てくるピーターという少年のような人間です。そんな彼が「酒は人生の薬だ」という一文を読んだら、きっと次のように思うのではないでしょうか。
「酒は嗜好品であり、薬は医薬品である。したがってカテゴリーが違うのだから、酒は薬ではない。この文章っておかしいんじゃないの?」
三谷幸喜さんの「笑の大学」の登場人物である向坂という検閲者のような人物も、きっとそんなことを言うに違いない。
確かに、酒イコール薬ではありません。けれども、ぼくらの頭のなかはデジタル処理をするパソコンとは違って、意味の曖昧さや空白を自ら補おうとする。だからまったく違うものを結びつけることもできる。曖昧なつながり方こそがブンガク的であり、表現として豊かである、と認識するわけです。
しかしながら、これが過激になってしまうと、ほんとうにぜんぜん関係ないものであっても暗喩というコードによって強引に結合させてしまう。詩人の思考はそういうところがあります。どれだけ突飛な言葉と言葉をつなげられるか、というひらめきが詩人のセンスであったりもする。
詩人に限らずたとえば、ユダヤ人は悪だ、のようなことを言ったときのことを考えてみます。語と語は、もともとゆるい関係にあったはずでした。つまり、ユダヤ人は勤勉だ、のような別の語とのつながりもできた。どんな語ともつながる自由と広がりがあったはずです。ところが、そのつながりを排除して特定の語と圧力的につなげてしまうことがある。ここに暗喩的な病があると思います。
このとき現実を歪めてしまうというか、言葉が世界を閉ざしてしまう感じがあります。一方で、直喩に関してはそのビョーキ度がまだ弱い。「酒は薬のようだ」と言ったときに「酒は薬じゃないんだけど、飲むとこんなに楽しくなる、かなしいことを忘れさせてくれるから、ちょっと薬みたいだよね」という、やわらかさがある。現実を閉ざしてしまうのではなくて、まだきちんと現実を現実として直視している感じもします。ところが「酒は薬だ」と言ってしまうと、妄想的な歪め方がある。言葉のつながりを妄信的に信じた場合には、その言葉の世界以外の現実をシャットアウトする気がしました。
書いたもの、メールやブログが誤解を生むときというのは、特定の語を暗喩的に解釈したときに生まれるんじゃないか、と考えました。ほんとうはもっと別の意味があったのに、悪い意味だけにとってしまう。こいつのブログの発言はウィルスだ、と言ったとします。と、そう意味付けられたときにその発言からすべての意味が削ぎ落とされて悪者になる。書いた本人には悪意がなかったとしても、こんな劣悪な文章は削除すべきだ、ウィルスは駆除だ、という結論に導かれてしまう。こんなもん消しちまえ、そうだそうだ、という形で盛り上がってしまうこともあるかもしれません。どんなに発言がまずいものであったとしても、権力的な圧力による暴走につながる。言語統制のようなものに近くなるのではないでしょうか。そこにきちんとした論争や、理解のためのコミュニケーションがあれば問題はないのですが。
汚いものしかみることができない心の状態というものがあります。ぼくは汚いものしかみれないひとがいる、とは言いたくない。どんなひとにも美しいものを求める心はあると思うし、そう信じていたいものです。けれども、いろんなことに疲れちゃったり不信感が生まれたりすると、汚いものしかみれなくなることもある。その狭められた視野の外には、ちいさな花が咲いていたり青空が広がっていたりするものです。けれども、汚いものしかみれない心の状態のときには、視野の外に広がる世界をみる余裕もありません。
ただそういう状態は一時的なもので、その一時的な状態だけを揚げ足とってこいつはどうしようもないやつだ、こいつはだめだ、と言ってしまうようなことがないようにぼくは心がけたい。それこそ個人を暗喩的な圧力のもとに、ひとつの意味に閉じ込めようとしてしまうものです。そのひとが持っているはずのよい世界を全部切り捨ててしまうことになる。
一方で、美しいものしかみることができない心の状態というものもあります。それはそれでしあわせなのですが、実はその視野の外には汚いものもある。社会人になってはじめての新人教育で、ぼくは「美点凝視」という言葉を教えていただき、いまでも覚えています。美点凝視とはいっしょに働くひとたちのマイナス面ではなく、よいところだけをみていきましょう、という教えでした。確かに大事なことだとは思います。ポジティブに考えることはとても大切です。けれどもストレートに言ってしまうと、現実の世のなかはきれいなことばかりではない。無防備な状態で美しいものばかりをみていて汚いものに直撃すると、ものすごいショックを受ける。汚いものに染まる必要はないけれど、正義感をふりまわして怒るのではなく、そういうものもあるよね、ぐらいに認識しておく必要があります。
ぼくは(何度も書いているように)AかBか優れているほうを選択するような「ORの抑圧」を展開するつもりはありません。人間は汚いものばかりをみてしまう心の状態もあれば、美しいものを求める心もある。相反する心の状態が同時に存在するのが人間です。だから、たとえいまはマイナス面ばかりで汚いものしかみれなかったとしても、自分を卑下することはないと思う。そういう自分も自分のなかの状態のひとつです。「ANDの才能」によって、よいことも悪いことも(バイアスをかけて増幅してみるのではなく)ありのままにみることが大事ではないかと思っています。
お花見の季節なのに、今日はあまりにも寒い一日でした。
サクラは美しいけれども、心の状態によっては胸をざわざわさせるようなときもある。その気持ちがどこからやってくるのかわからないのですが、思い込みという眼鏡を外したりかけたりすることで、世界のみえ方もずいぶん変わってくるものかもしれません。
投稿者: birdwing 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック (0)