08.private visionカテゴリーに投稿されたすべての記事です。

2006年3月30日

a000598

思いこんだら。

「思いこんだら」で連想するものといえば、「試練の道を」とつづくアニメ「巨人の星」のテーマソングです。テレビ番組か何かで聞いたような気がするのですが、この歌詞を「重いコンダラ」と勘違いされていた方もいたようでした。つまり、なんだかよくわからないのだけど、とてつもなく重い「コンダラ」という何かがある。で、そのコンダラをずりずりと引っ張っているので、試練の道を、とつづくわけです。兎跳びやタイヤかローラーを引っ張るような場面が歌の背景に流れていたような気がするので、そのイメージもあって勘違いされたのでしょう。

ちなみに、ローラーといえば、ぼくは中学時代にローラーに轢かれた哀しい経験があります。当時、ぼくは軟式庭球部に所属していたのですが、アサレン(朝の練習)のまえには、コートにコンダラ(じゃなくてローラー)をかける。おっもっい〜こんだ〜ら、のような感じでコンダラ(だからローラーですが)をごろごろと転がしていたのですが、隅っこのほうで方向転換するときに、ちょっと手元が狂ってぼくの行き場がなくなってしまった。ありゃーと思っていると、ぼくの右足の上をコンダラ(いやローラー)がごろごろと転がっていったのでした。そのときにはまったく痛みを感じなかったのですが、靴を脱いでみたところ・・・。その後、ぼくの親指がどうなったか書くことはできるのですが、そもそもぼくは痛み関連に弱く書きながら卒倒するかもしれないのでやめておきます。

と、ちょっと関係ない話に逸れましたが、コンダラコンダラと言いつづけていると、なんとなくあの重くてごろごろ転がるものがコンダラに思えてくるから不思議なものです。

なぜこんなことを書いているかというと、先日読了した「書きたがる脳」という本のなかで、暗喩(メタファー)についての記述があり、その文章にヒントを得て思索をした結果、思い込みは怖い、という結論に達したからです。と、いきなり結論から書いても、風が吹くと桶屋が儲かる、のように脈略を欠いた感じがするので、もう少しその考えに至った経緯を書いてみることにしましょう。

「書きたがる脳」のなかでは「病としての暗喩」として、「私はイエスのように苦しい」が「私はイエスだ」のように変化したときの危うさについて書かれていました。そもそも「病としての暗喩」はスーザン・ソンタグという作家の著書名であり、その著作を読まないときちんと論じることができないような気もします。とはいえ、上っ面かもしれませんが、その言葉からインスピレーションを得て考えたことを書いてみます。

以前、暗喩(メタファ)について考察したのですが、そのときに「酒は人生の薬だ」という例文を考えました。再度、その例文を考察してみます。

いま空想力に欠けるものすごく頭の硬い人間がいるとします。逆にいえば夢想的なことを拒否する現実的な(オトナの)人間かもしれません。「ネバーランド」という映画に出てくるピーターという少年のような人間です。そんな彼が「酒は人生の薬だ」という一文を読んだら、きっと次のように思うのではないでしょうか。

「酒は嗜好品であり、薬は医薬品である。したがってカテゴリーが違うのだから、酒は薬ではない。この文章っておかしいんじゃないの?」

三谷幸喜さんの「笑の大学」の登場人物である向坂という検閲者のような人物も、きっとそんなことを言うに違いない。

確かに、酒イコール薬ではありません。けれども、ぼくらの頭のなかはデジタル処理をするパソコンとは違って、意味の曖昧さや空白を自ら補おうとする。だからまったく違うものを結びつけることもできる。曖昧なつながり方こそがブンガク的であり、表現として豊かである、と認識するわけです。

しかしながら、これが過激になってしまうと、ほんとうにぜんぜん関係ないものであっても暗喩というコードによって強引に結合させてしまう。詩人の思考はそういうところがあります。どれだけ突飛な言葉と言葉をつなげられるか、というひらめきが詩人のセンスであったりもする。

詩人に限らずたとえば、ユダヤ人は悪だ、のようなことを言ったときのことを考えてみます。語と語は、もともとゆるい関係にあったはずでした。つまり、ユダヤ人は勤勉だ、のような別の語とのつながりもできた。どんな語ともつながる自由と広がりがあったはずです。ところが、そのつながりを排除して特定の語と圧力的につなげてしまうことがある。ここに暗喩的な病があると思います。

このとき現実を歪めてしまうというか、言葉が世界を閉ざしてしまう感じがあります。一方で、直喩に関してはそのビョーキ度がまだ弱い。「酒は薬のようだ」と言ったときに「酒は薬じゃないんだけど、飲むとこんなに楽しくなる、かなしいことを忘れさせてくれるから、ちょっと薬みたいだよね」という、やわらかさがある。現実を閉ざしてしまうのではなくて、まだきちんと現実を現実として直視している感じもします。ところが「酒は薬だ」と言ってしまうと、妄想的な歪め方がある。言葉のつながりを妄信的に信じた場合には、その言葉の世界以外の現実をシャットアウトする気がしました。

書いたもの、メールやブログが誤解を生むときというのは、特定の語を暗喩的に解釈したときに生まれるんじゃないか、と考えました。ほんとうはもっと別の意味があったのに、悪い意味だけにとってしまう。こいつのブログの発言はウィルスだ、と言ったとします。と、そう意味付けられたときにその発言からすべての意味が削ぎ落とされて悪者になる。書いた本人には悪意がなかったとしても、こんな劣悪な文章は削除すべきだ、ウィルスは駆除だ、という結論に導かれてしまう。こんなもん消しちまえ、そうだそうだ、という形で盛り上がってしまうこともあるかもしれません。どんなに発言がまずいものであったとしても、権力的な圧力による暴走につながる。言語統制のようなものに近くなるのではないでしょうか。そこにきちんとした論争や、理解のためのコミュニケーションがあれば問題はないのですが。

汚いものしかみることができない心の状態というものがあります。ぼくは汚いものしかみれないひとがいる、とは言いたくない。どんなひとにも美しいものを求める心はあると思うし、そう信じていたいものです。けれども、いろんなことに疲れちゃったり不信感が生まれたりすると、汚いものしかみれなくなることもある。その狭められた視野の外には、ちいさな花が咲いていたり青空が広がっていたりするものです。けれども、汚いものしかみれない心の状態のときには、視野の外に広がる世界をみる余裕もありません。

ただそういう状態は一時的なもので、その一時的な状態だけを揚げ足とってこいつはどうしようもないやつだ、こいつはだめだ、と言ってしまうようなことがないようにぼくは心がけたい。それこそ個人を暗喩的な圧力のもとに、ひとつの意味に閉じ込めようとしてしまうものです。そのひとが持っているはずのよい世界を全部切り捨ててしまうことになる。

一方で、美しいものしかみることができない心の状態というものもあります。それはそれでしあわせなのですが、実はその視野の外には汚いものもある。社会人になってはじめての新人教育で、ぼくは「美点凝視」という言葉を教えていただき、いまでも覚えています。美点凝視とはいっしょに働くひとたちのマイナス面ではなく、よいところだけをみていきましょう、という教えでした。確かに大事なことだとは思います。ポジティブに考えることはとても大切です。けれどもストレートに言ってしまうと、現実の世のなかはきれいなことばかりではない。無防備な状態で美しいものばかりをみていて汚いものに直撃すると、ものすごいショックを受ける。汚いものに染まる必要はないけれど、正義感をふりまわして怒るのではなく、そういうものもあるよね、ぐらいに認識しておく必要があります。

ぼくは(何度も書いているように)AかBか優れているほうを選択するような「ORの抑圧」を展開するつもりはありません。人間は汚いものばかりをみてしまう心の状態もあれば、美しいものを求める心もある。相反する心の状態が同時に存在するのが人間です。だから、たとえいまはマイナス面ばかりで汚いものしかみれなかったとしても、自分を卑下することはないと思う。そういう自分も自分のなかの状態のひとつです。「ANDの才能」によって、よいことも悪いことも(バイアスをかけて増幅してみるのではなく)ありのままにみることが大事ではないかと思っています。

お花見の季節なのに、今日はあまりにも寒い一日でした。

サクラは美しいけれども、心の状態によっては胸をざわざわさせるようなときもある。その気持ちがどこからやってくるのかわからないのですが、思い込みという眼鏡を外したりかけたりすることで、世界のみえ方もずいぶん変わってくるものかもしれません。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年3月26日

a000594

クライマックスについて。

映画も小説も同じですが、たぶんこのあとにクライマックスだな、と想像しながらストーリーを追うことがあります。ぼーっとスクリーンを眺めながらも、なんとなくいままで観た部分を整理したり、先読みをして主人公がこれからどうなるのか、などをあれこれ考えているものです。

たいてい起承転結型のパターンにあてはめて、その枠組みのなかで展開を考えている。そして、起承転結パターンの場合には、転・結という後半部分がヤマになる。しかしながら最後が、起承転結・結・結のように2回ぐらいどんでん返しをする映画もたまにあります。予想もしなかったエンディングが用意されていると、かなり感動するものです。シナリオの完成度が高いので、脚本家の勝利ともいえる。結末にひねりが効いた作品はネタばれになってしまうので、レビューなどでは結末を書かないことが暗黙のルールだったりもします。逆に思わせぶりな伏線をはっておきながら何も起きない映画には、肩すかしをくらわされたような感じがして不満も残る。

一方で、淡々としてヤマのない映画もあります。個人的にはそういう映画も好きなのですが、一般的にはあまり盛り上がりに欠けるような映画は好まれないのかもしれません。確かにエンターテイメント系の映画であれば特に、日常生活にはないスリルなどを求めているわけなので、あまりにも日常的な日々がスクリーンのなかで繰り返されると眠くなってしまう。別に観なくてもいいや、ということになる。

このクライマックスを求める気持ちはなんだろうか、ということを考えていました。それがひょっとすると物語に対する渇望のようなものかもしれない。一方で、何も起こらない淡々とした映像を好むのは、アンチ物語的というか、一種の詩的な広がりを好むことなのかもしれません。

小説でいうと、ぼくは保坂和志さんの小説に傾倒したことがあるのですが、保坂さんの書く小説はみごとに何も起こらない小説です。しかしそのまったりとした日常的な世界に漂っていると、妙に居心地がいいものがある。海外では、ジャン=フィリップ トゥーサンなども飄々としている文章なんだけど、クライマックスがあるようでないような小説だと思います。これもぼくが好きな作家で、「カメラ」「ムッシュー」などは文庫になっていた気がしました。紀伊国屋書店で購入した「愛しあう」はサイン本だったりします。来日したときのサイン本らしく、サイン会場に行きたかったなと後で思いました。

広告もそうですが、一般的に世のなかというものは物語的に生きることを提案していることが多い。知らず知らずのうちに誰かの提案している物語に絡め取られてしまっていることがあります。ここでいう物語というのは、スタイルという言葉に近いでしょう。ぼくらは社会人の物語(スタイル)であったり、子供を持つ父親の物語(スタイル)というひな形を借りて日常生活を送るのですが、自分のオリジナルストーリーだと思っていることが、ステレオタイプのありきたりな常識の物語だったりもします。常識でかまわないけれども、常識の物語はスクウェアなので肩が凝る。

ところで、自分のなかにある展開パターンというのはかなりがっちりとしたもので、その枠を壊すのはなかなか難しいものです。若い頃には融通も利くかもしれないけれど、パターンをわざわざ壊すのは面倒だし力も必要なので、古いパターンでまあいいか、ということになってきます。

久し振りに趣味のDTMに没頭して、3月の初旬頃から中断していた曲を作ってみたのですが、サビの展開を考えようとしたら、どうしても前に作ったことがあるなというサビが出てくる。サビの部分だけ何回も作り直してみるのだけれど、どれも斬新な何かに欠けていて納得ができません。困ったなあ、という感じです。

そのときにいろいろと考えたところ、そもそもサビって必要なのか、ということが頭に浮かんだ。サビというのは曲のクライマックス的な部分ですが、別にクライマックスなんてなくてもいいじゃんと思ったわけです。限りなくアンビエントな方向に向うのかもしれませんが、そういうのもありです。しかしながらぼくは、ポップスを志向したいので、ポップスの場合は覚えやすいメロディで盛り上がる部分というのは必要ではないか、などと考えて、やっぱりサビは必要か、という結論に落ち着いたのですが。

ちなみに曲は80%完成したのですが、3月中に公開できればいいなと思っていますが、気がつくとあと1週間で3月は終わりだったりします。はやいものです。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年3月22日

a000590

質より量のアーカイブ。

時間軸に沿ってコンテンツや作品が生成するとき、生成のスピードが止まって成熟すると、時間軸という縦の方向のベクトルから今度は空間的な横の方向へ並列して俯瞰するようになる、というアイディアを昨日考えてみました。と、書いてしまうと理屈っぽいのですが、息子のウルトラマンの楽しみ方からヒントを得たアイディアです。その考えをさらにすすめてみたのですが、情報というのは鮮度やクオリティも重要だけれど、圧倒的な量も重要になるのではないでしょうか。つまりひとつのキラーコンテンツより、高レベルや低レベルを含めて雑多だけれど大量のアーカイブのほうが優れている、という仮説です。

かなり前になりますが、あるWeb系のセミナーで、コンテンツの構造は三角形のツリー構造よりも逆三角形の構造として考えた方がいい、というようなことが提示されていました。通常は、トップページから必要なページを辿るような構造になっているけれど、SEOが進むと、検索エンジンによってダイレクトに検索結果に表示されたページをクリックするようになる。したがって、コンテンツの下位に存在する個々のページが、訪問者が最初に訪れるページになるということです。つまり企業のサイトであれば、企業名や全体像をあらわしたコンテンツよりも、製品やキーワード解説などのページをダイレクトにみることもある。業界用語集やFAQなどを備えたサイトも多くありますが、それも多様な網を投げておくという意味ではよいのではないでしょうか。

ブログに関してもそうですが、引用元(リファラー)をみると、必ずしも最新のページのキーワードから訪問しているわけではないようです。過去に書いた記事のキーワードからページにやってきているひとも多い。ぼくのブログでも、本文で展開しているテーマとは関係なく、年間本100冊+映画100本というパーソナルプロジェクトを進行中で、そのレビューをコラム的に挿入しているのですが、そちらをみていただいて、あらためて本文に関心をもっていただくような方も多いようです。そんな風にして、引き出しが多いことが訪問者を増やすきっかけづくりには効果的かもしれません。ただし、あまりにも関係のない引き出しを作ってしまうと、そのサイトの文脈とはかけ離れた趣向のひとが集まってしまう。キーワードの区切り方にも影響するかもしれませんが、たとえば「プロモーション」の「プロ」のところで検索してやってくる専門的な知識を求めている方もいるわけです。それはそれで偶然の出会いがあって面白いのですが。

この偶然の出会いというのが、茂木健一郎さんの著作にもよく出てくるセレンディピティと呼ばれるものでしょう。コンテンツの量を増やせば、セレンディピティも増える。きっかけとしてやってくるひとは点としてのページを閲覧する訪問者であっても、その訪問先に満足したり関心を持てば、別のコンテンツを読むようになります。ということは、量を増やせといっても実は次のページを読ませるためのクオリティの充実も求められるわけで、ひとつひとつのコンテンツについて手を抜くことはできない。とはいえ、情報発信者が設計や意図をしなかった偶然が生まれることが、インターネットの面白さでもあります(設計や意図しなかった問題が生まれることもありますけれど)。

企業のサイトに関していうと、量を増やそうといってもなかなか難しいこともあります。しかし、歴史のある会社であれば、過去に蓄積してきた経緯というのは十分にコンテンツになり得る気がします。一般に略歴のようなかたちで年表化してしまうことが多いようですが、それぞれの時代にやってきたことを個別のコンテンツとして成立させると、それだけで量は充実する。新しいものばかりに目がいきがちですが、古い情報のアーカイブもひょっとすると新しい情報以上に重宝されるかもしれません。

企業や個人のどちらにおいても、つらかった時代、失敗した時代があるものです。そのときの情報を掲載しておくことによって弱みにつけこまれるような場合もあり、あえて掲載しない判断もあるかもしれません。しかし、そのマイナス面から逆に共感を得られることもあります。BtoBのコミュニケーションについてはまた別途考察したいと思っているのですが、法人と個人は異なる部分もあり、一概にすべて掲載すればよいわけではありません。といっても、よい情報だけでなくあまりよくない情報も網羅すること、構造的に完璧なものではなくて遊びの部分が残っていること、つまり量が豊富といっても画一的な内容ではなく多様性に富んでいることが重要ではないか、と考えました。

個人的に趣味でmuzieでDTMによって制作した音楽を公開しているのですが、コンテンツが一定量を超えたときに、過去の作品についてのダウンロードも増えてきました。あっちはいいけどこっちはいまいちだな、のように比較できることが、訪問者の楽しみを増やすのではないでしょうか。よく言われることですが、価格.comなどの比較サイトも情報に辿り付くまでの楽しみを提供しています。そのためには、やはり比較対象が大量である必要があり、その大量の情報からみつけだすことが重要です。これは息子のトレーディングカードをみていても感じられることです。レアカードも大事だけれど、それ一枚を持っているより、たくさんの種類を組み合わせたりして遊ぶほうが楽しそうです。

ダイバーシティ(多様性)という言葉を取り上げて、組織のなかの多様性の容認について以前書いてみたことがありますが、自分のなかの多様性というのはなかなか難しいものです。アイデンティティというように、統合されていることがよいと思われているのですが、キラーコンテンツ的な売りがなかったとしても、なんだかとりとめもないけど面白そう、という方向性も十分に個性になる気がしました。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年3月17日

a000585

隔たれた溝の向こう側へ。

昨日、ストリートミュージシャンとして、スタジオではなく路上を表現の場として活動しているひとたちについて書いたのですが、そもそも街頭演説などの歴史を考えると、路上で演奏するスタイルは特に新しいものではないかもしれません。けれどもその境界のなさが、逆にぼくにはあらためてインターネット的な在り方を思わせました。つまり本来であれば音楽はライブハウスで演奏するものであり、路上は通行するものです。その閉ざされた空間と開かれた空間が交錯している。

雑誌などでもよく言われることですが、電車のなかで化粧をしている女性については、個人のスペースと公共のスペースの境界がなくなっているということもよく言われることです。そのことについて、最近読んだ山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」にも書かれていました。はるみさんという方からの「都市にひとがいなくなる」というメールを引用しつつ考察を加えているのですが、電車のなかで化粧をする女性は、他人から見られているという意識がない。つまり、他者の存在を消してしまっている。コミュニケーションする相手を見ない、聞かない、と外部をシャットアウトするわけです。あるいはサヴァイヴァル的な観点から、「見たいモノだけを見る」という「セレクティブ・ビジョン」という考え方も引用されていました。一方で、他者だけでなく自分も消してしまうことも多い。そのことを「一人称がいない」と表現されています。

表現か、自己満足か、という境界は、自分はもちろん他者をきちんと存在させることができるかどうか、という点にポイントがあるような気がしました。引用や抽象的な言葉、専門用語は自分の存在を消し去るのには優れています。しかしながらそういうものを散りばめすぎると、そのひとがみえてこない。

書いたものが力を持つためには、もちろん一般的や抽象的な考えばかりではなくて、そのひと個人の何かを発動させる必要があるのではないか、とぼくは考えてきました。個人のなかでもいちばんわかりやすのが情動的な部分です。感情にまかせて書いた文章がいちばん力がある。あるいはプライベートなできごとを綴ったときにリアリティが生まれる。しかしながら、たとえばネガティブな感情が特定個人や団体に向った場合には、誹謗中傷としてのキケンを孕むことになります。何でも書けるのだけれど、抑制すべきポイントはいくつかあります。

他人の書いたものを読む状態から自分で書く状態に移行するというのは、実は大きな溝があって、そこを乗り越えるのがまず困難です。そして、その溝を乗り越えてしまうと、書くことの地平はものすごく広がる。社会について、自分の好きなことについて、何でも書くことができる。広がるのだけれど、実はその先にはまた大きな溝があります。

路上で声を張り上げてみても、多くのひとは立ち止まってくれない。けれども、立ち止まって思わず聞いてしまう声もあります。次に声を聞いたときにじっくり聞いてみようと思うこともあるものです。ブログも同じで、流行に合ったキーワードや辛辣な批判で一時的に足を止めることはできるけれど、そうしたうわべの言葉だけでは大きな溝の向こう側には行くことができません。とても難しいのですが、最終的には人間性に辿りつくような気もしました。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年3月15日

a000583

みること、対象をずらす手法。

写真を掲載しているブログをいくつか拝見することがあるのですが、うまいなあと思うのは、写真としての風景の切り取り方です。先日、範列(パラディググム)という記号論の言葉を思い出してメモを書いてみたのですが、複数の写真が掲載されているのであれば、読んでいるぼくらとしては、どうしても切り取られた写真と写真をつないで物語を構成したくなる。ぼくらの頭脳は、情報をつなげたがる傾向にあるようです。

また、人生のかなしみなどかなり突っ込んだテーマのハードな文章を書きつつ青空や海の写真を掲載しているひともいるのですが、テキストが表わそうとしている意味とビジュアルで表現されている意味が組み合わさると、ものすごく象徴的な世界が広がる。この異質なものの組み合わせ方も面白いと思いました。現実の風景を切り取ってその風景についてテキストを書く場合にはジャーナリスティックな広がりがあります。一方で、カット的に写真を利用する場合には、ブンガク的な広がりが生まれるものかもしれません。

夏目漱石に「文学論」という理論書があります。このなかに、ものをみるとはどういうことなのか、ひとが何か対象に視線をフォーカスするとはどういうことか、という考察があったような気がします。そして、この理論を実践したものとして「草枕」という小説があったのではないか。「草枕」の主人公は、画工です。つまり現実の対象をみるひとである。しかしながら、この画工は一枚として絵を完成させられません。絵としては完成できないけれども、いろんなものをみている。

ぼくの父親は国語の教師だったので、家の書斎は壁一面が文学全集で埋めつくされていました。そのなかには漱石全集もありました。やはり父の影響で、ぼくも社会人になったら全集を買おう、と思っていて、御茶ノ水の丸善に注文して漱石全集を購入。いま書斎(といえるかどうか)にあります。この漱石全集購入にあたっては勝手に注文して奥さんからひどく叱られたことを覚えているのですが、思い切って買っておいてよかったなと思います。そんなわけで「文学論」も手元にあり、もう一度読み直してみようとも考えたのですが、実は自分のなかでは漱石を分析するのは仕事をリタイアしてからの楽しみに取っておこう的な思惑もあります。そこで、なんとなく手が伸ばせずにいます。ちなみに、ぼくの父が亡くなる寸前には漱石の「硝子戸の中」を読んでいたようでした。この作品については何か論じるつもりです。

と、道草をしましたが、表現において対象と表現をずらすのはどういうことか、ということを考えたとき、暗喩(メタファー:metaphor)、換喩(メトニミー:metomyny)、提喩(シネクドク:synecdoche)なんてものがあったことを思い出しました。いわゆるレトリック、といわれるものです。きちんと調べていないのですが、ローマン・ヤコブソンあたりの言語学者が提唱していた考え方かもしれません。文学的な表現の模索に入り込んでしまいそうですが、ちょっと客観的にひいてみると、思考の訓練として発想法にも使えそうです。

たとえば酒をめぐる表現で、レトリックを考えてみると次のようになります。

暗喩(メタファー)というのは、「酒は人生の薬だ」というような表現です。これが、「酒は人生の薬のようである」と言ったときには直喩になります。これって人生みたいな?という語尾を上げる表現がかつてありましたが、直喩的な結びつきによって断言するのをやわらげていたような気もします。

換喩(メトニミー)は、時間や空間による隣接性で対象を置き換えることです。「ボトルを入れてくれ」といったとき、ボトルは酒の容器ですが、容器を酒と置き換えています。このとき空き瓶を入れるようなことはないでしょう。

提喩(シネクドク)は、全体を部分、もしくは部分を全体で表すことでしょうか。バーに入って「何か飲みものを」というとき、飲み物は酒なのですが、飲み物というカテゴリー全体によって酒を表しています。まさかそこでミルクが出てくるとは思わない。

と、考えていて気付いた当たり前のことではあるのですが、お笑いというのは高度なレトリックによる芸能です。つまり表現している対象を意図的にずらしてしまう。これらのレトリックは、現前にない抽象的な概念も含めて、どこに視線をもっていくか、という視線の位置づけが重要になるのではないでしょうか。直接言い切ってしまうのではなくて、ちょっとずらしてみる。このとき表現が豊かになるような気がしました。また、どんな表現があるか、時間的もしくは空間的に思考の幅を広げることでもあります。

レトリックを含めて表現方法については、中長期的に調べたり考えたりしていこうと思います。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)