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2005年12月 7日

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波にのるまで。

波があるとします。概念的な波なんですが(なんでしょうそれは)、わかりにくいので海の波を想像してください。

波に対して、常に固定した位置にあると、波が高くなったときには低い位置になり、波が低くなったときには自分は高い位置になります。したがって浮き沈みの変動が大きい。ところが波の上に浮いていれば、波が高いときには自分も高く、低いときには自分も低くなります。波に対して浮き沈みの変動は小さい。

数学的に説明したいのだけど、お恥ずかしいのですが、数学の知識がないので無理です。そこで文学的な解説を加えると、夏目漱石の「草枕」の冒頭で、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とありますが、住みにくいよのなかを住みやすくするには、うまく「波にのる」ことではないかと考えました。変化に対してしなやかに身を任せることが大事である、と。ある論文で触れられていますが、草枕に登場する女性が「那美さん」であることも、ある符号かもしれません。

IT業界としても、個人的にも、大きな変化の時代にあります。この変化に適応していくのは結構しんどいものですが、波を受けながらも、どこか心の片隅で波に持っていかれることを拒んだり恐れているから疲れるのかもしれません。あるいはちいさな波を拡大解釈して、おおきなアクションを起こす。けれども大きな波ではないから苛立つ。まだ乗るべき波ではなければ見過ごすのもひとつの手です。かといって、もう二度と来ないような波であれば、失ったチャンスは大きい。

絶対的なものさしがあれば、その波の大きさを測ることができそうですが、実は個々によってものさしの目盛りが違う。したがってぼくにとって大きな波であっても、誰かほかのひとには静かな波かもしれない。逆にぼくが見過ごしそうなところで、大きな波がまさに崩れそうになっているかもしれない。だから波にのるのはとても難しい。かつてインターネットでさまざまなサイトを見て歩くことを、ネットサーフィンと呼んでいたことがありましたが(遠い昔のようです)、さらにうまく波にのる技術が求められている気がします。

ところで、波、サーフィンといえば、ビーチボーイズを思い出します。暦で大雪を過ぎた時期にサーフィンの話題というのも思いっきり季節はずれですが、ビーチボーイズのメロディメイカーでありベーシストであったブライアン・ウィルソンは、実はサーフィンなんて大嫌いで、ベットルームに砂を持ち込んで砂遊びをしていた、ちょっと心が病んでいた、というようなエピソードも聞いた覚えがあります。自叙伝を読んで衝撃を受けたのはかなり前のことであり、うろ覚えなので正確ではありませんが、しかしそんな彼だからこそ、繊細なポップスを書くことができる。痛みを知っているからこそ透明で明るい曲を書ける。ビーチボーイズといえば「ペット・サウンズ」とタイムカプセルのようなアルバム「スマイル」が有名ですが、ぼくとしては1988年に発表されたブライアン・ウィルソンのソロアルバムに入っている「Melt Away」が名曲だと思います。世界に取り残された感じ、波に乗れなかった気持ちを痛いほどに感じさせてくれるガラスのようなポップスです。

さて、ぼくはといえば、もう少し波をみているつもりです。突堤の先端に腰掛けながら。

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■「草枕」とブライアン・ウィルソンのソロアルバム。ものすごーく個人的な印象ですが、こりすぎていて全部を読む(聞く)のはしんどい、一部だけならすごくいい表現があるんだけど、という点で似ている気がします。

4101010099草枕 (新潮文庫)
新潮社 1968-03

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B00004WH69Brian Wilson
Brian Wilson
Warner Bros. 2000-09-11

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2005年11月15日

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コンペイトウ理論。

先日、ドーナッツ理論として「中心にある言葉を書かない方がおいしい」という、なんちゃって理論を書いたのだけれど、今回はコンペイトウ(金平糖)理論です。といっても、食べ物やお菓子にはぜんぜん関係がなくて、やっぱり言葉と意識に関する抽象論なのですが。

コンペイトウというのは、砂糖で作った1センチぐらいのとげとげのある菓子で、ポルトガル語で砂糖菓子を表す「confeito(コンフェイト)」が訛ってコンペイトウになったらしい。そのとげとげから発想したのだけど、言葉と意識(感情)は、コンペイトウのような形をしているんじゃないか、と、ふと考えたことがありました。ただ、固くはないから、コンペイトウの形をしたグミ、のようなものかもしれない。そんなものがあるかどうかわからないけど(ないでしょうね、きっと)。

例えば、ある感情があるとすると、そこからいくつものとげとげが出ている。そのとげとげの先端にあるのが言葉であり、ひとつの感情を核として、その感情から派生する言葉はいくつもあるわけです。「さびしい」を核とするコンペイトウであれば、「ひとり」「夕暮れ」「青空」などの言葉がとげになっている。「青空」はさびしい、とはいえないかもしれない。ひょっとすると「楽しい」コンペイトウのとげとげのひとつという気もする。そんな風に、ちょっと核とは遠いようなとげとげもあったりする。

そして、あるとげとげを引っ張ると、そのとげとげの核となっている意識(感情)がずるずると引き出されてくる。引き出される途中で、ぷつんと切れてしまうとげとげもあるわけです。その言葉の広がりはそこまで。ところが、とげとげのなかのひとつには、その意識の総体を引きずり出すような、言葉のツボ、というか、とげとげの王者、がある。そいつを引っ張ると、コンペイトウ型の感情全体を引き出すことができるんじゃないか、と。

谷川俊太郎さんの「コカ・コーラレッスン」という詩に出てくる少年は、そんな意識の総体を引き出すような言葉の「突起」をつかんだのかもしれません。詩のなかに出てくる「突堤の先端に腰掛けて」という言葉が、符合のようにも思えてくる(考えすぎか)。上空からみたら、彼は海に面した地上の「とげ」の先端にいたわけです。

ところで、書いている本人にそういう意識はなかったとしても、ある意識をずるずると引き出してしまうような言葉もあります。言葉というのは記号にすぎないから、言葉という「とげ」から逆にそこにはない意識を再生することもできる。書き手はひとりであっても、読み手は複数だから、そこにさまざまなコンペイトウが生まれる。そうして生まれたコンペイトウのなかには、鋭い刃物のようなとげで誰かを傷つけるものもあるかもしれない。だから、何かを書くこと、というのは難しいし、何かを伝えること、というのも、ものすごく難しいことだと思っています。

ぼくらはどんな言葉でも自由に書くことができる。徹底的にひとを追い込んで糾弾することもできるし、元気づけて明日への活力を与えることもできる。ぼくの場合には、癒すこと、なごませること、ほわほわな気持ちを生成するような言葉を使うことができないか、と、ずっと考え続けています。できれば言葉を武器として使いたくない。使いたくなる感情を理性でコントロールしていたい。ほわほわな気持ちを生成するコンペイトウの突起はどこにあるんだろうと探しているのですが、なかなかみつからないものです。

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■フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の金平糖。写真がかわいい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3%E7%B3%96

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2005年11月 8日

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生の対極にあるのではなく。

本田美奈子(実はいま知ったのですが、本田美奈子.と、名前の最後にピリオドをつけるのが正式なんですね。asahi.comの記事では「歌手本田美奈子.(ほんだみなこどっと)さん」と書かれている。姓名判断から付けられたそうです)さんが亡くなった。11月6日、急性骨髄性白血病。まだ38歳だったとのこと。若すぎる死だと思います。残念です。

ぼくがそれを知ったのは、コンビニの店頭で売られているスポーツ新聞の見出しだったのだけれど、一瞬、え?と立ち止まった。名前は知っていて、きれいなひとだな、とは思っていたのだけれど、それほど好きなアイドルというわけではなかったし、歌だってあまり覚えがない(すみません)。そんなぼくがこんなことを書くのは失礼な気がするけれど、やはり驚きがあったし、そのことでショックを感じていたひとも周囲には多かったようです。

ひとの死、という意味では、どのひとのいのちの重みもみんな同じものです。幼くして事故でなくなってしまった子供も、かっとなった息子に刺し殺されてしまった母親も、100年という長寿をまっとうしたお年よりも。厚生労働省の人口動態調査によると、2004年には1,110,721人のひとが日本で生まれて、1,028,602人の人が亡くなっている。平均して31秒にひとりが日本のどこかで亡くなっているようです。そのひとりひとりの命が大切なものですよね。

しかしながら、そのすべての死を同等に受け取って悲しむことはできません。そんなことをしていたらぼくは壊れてしまう。それでも、日本のどこかでいまも亡くなっていくひとがいる、ということを、あらためて認識しました。本田美奈子さんが、そのことを気づかせてくれたわけです。

「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ。」と書いたのは村上春樹さんの「ノルウェイの森 上」だったかと思うのだけれど、平凡な毎日の生活のなかで、死のことについてはっと気づかされるときがあります。永遠に続くものはない。あるとすれば記憶のなかで生きつづけること、ぐらいでしょうか。

4062035154ノルウェイの森〈上〉
村上 春樹
講談社 1987-09

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4062035162ノルウェイの森〈下〉
村上 春樹
講談社 1987-09

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断片的にいろんなテーマにフラッシュバックするのですが、パトリス・ルコントに「橋の上の娘」という映画がありました。ある方の日記でこの映画のことを思い出して「ナイフ投げの男と的になる女性の話ですよね」と書いたら「自殺する女性とそれを救う男性の話」という風に訂正していただいた。ぼくとしてはすっかり意識が抜け落ちていたのだけれど、この作品もやはり死が重要なテーマだった気がします。ナイフ投げの男の指先がちょっとでも狂えば、彼女は死ぬことになる。でも、そもそも自殺しようと思って、生きることを投げていた女性です。だからこそ、的として冷静でもいられる。死を覚悟しているから。

B0002L4COW橋の上の娘
ヴァネッサ・パラディ, ダニエル・オートゥイユ, パトリス・ルコント
ショウゲート 2004-09-10

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秋から冬へ季節が変わりつつあり、休日は雨模様だったけれど昨日は青空が広がりました。今日もいい天気です。少しづつ寒さも感じられるのですが、そんな冬へと張り詰めていく空気のなかで、少しだけ死について考えてみました。

そういえば、今月は父の命日の月だということを思い出しました。父が亡くなったとき、ぼくはあらためて父の大きさを知った。そして、ぼくがこれからどうするべきか、を深く考えたものです。

本田美奈子さんのご冥福をお祈りいたします。

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本田美奈子さんはAVE MARIAというアルバムでクラシックにも挑戦していたんですね。聴いてみたい。元気な写真を見ていると、ほんとうに亡くなられたことが信じられません。

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2005年11月 7日

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ドーナッツ理論。

最近、ドーナッツを食べる機会が多くなりました。家に帰ると、動物のキャラクターの箱が、ぽんとキッチンのテーブルに置かれている。ライオンやエリマキトカゲのたてがみがドーナッツになっている、というあれです(どこのドーナッツか、すぐにわかりますね)。おやつには最適かもしれませんが、ビールを飲んだあとでドーナッツを食べないようにしてください。気持ち悪くなります。そんな食べ方をするのは僕だけかもしれませんが。いや、ほんとうに気持ち悪くなったので、ご注意を。

ドーナッツといえば、村上春樹さんの小説、「ツインピークス」のクーパー捜査官などなど、ぼくの知人たちはブログでいろいろな連想を広げていました。そんなわけでぼくの頭のなかにも、ドーナッツが居残りつづけたのですが、今日書こうと思っているのは、食べ物のドーナッツの話ではありません。

どちらかというと、コピー論にも近いのかもしれない。とはいえ、ぼくはコピーライターではないので、あくまでもなんちゃってコピー論というか、ブンガク論というか、ビールを飲んだあとにドーナッツを食べたおろかもののたわごとというか、そんな感じです。ひとことで言うと

「中心を書かない方が、おいしい」

ということです。

と、そんなことを書くと、インテリな方は、ポスト構造主義あたりで使われた中心と周縁などの思想をぽっと思い浮かべたりするかもしれませんが、僕の考えることはそんなに難しいことではなくて、魅力のある言葉って中心よりちょっとずれている方がいいんじゃないか、ということです。

インテルのCMだったかと思うのですが、電話をかけている男の子がいて、どうしても告げたい言葉があるのだけど、言えなくてもじもじしている。そのとき窓辺のサボテンがぴゅっと針を飛ばして、あいてーっと叫ぶ。すると、電話の向こうの彼女が「あたしも。あたしも会いたい」という。

このときに、「好きだー」という直接的な言葉、つまりダーツで中心を射抜くようなストレートな表現よりも、「会いたい」という風にちょっとずれたところにある言葉の方が、広がりや趣きがあっていいんじゃないか、と思うわけです。

例えば、こんなポップスの歌詞があるとします。

君に会いたい。
呼吸ができない。
君のいない部屋は酸素が足りない。

この3行が何を表しているか、分析してみると以下のようになります。

君に会いたい。=感情
呼吸ができない。=身体的な状況
君のいない部屋は酸素が足りない。=環境

それぞれの中心にある感情をあらわす言葉を引っ張り出すと、

(君に会いたい)好きだ。=感情
(呼吸ができないぐらいに)苦しい。=感情
(君のいない部屋は酸素が足りないと感じられるほど)寂しい。=感情

これはもう感情の羅列で、べたべたすぎる。

アイドルの歌謡曲であれば、そういう風に感情ばかりの直球ストレートな歌詞の方がよいかもしれませんが、奥行きがないですよね。なんか、砂糖と油でべとべとしたドーナッツみたいな印象がある。この、もちもち感が好き、という方もいるかもしれませんが、ぼくはあっさりのシナモンタイプなので、ちょっとひいてしまう。

感情は大事だと思うのですが、感情との距離のとり方が、曲の立体感を出すのに必要かもしれない。ぼくのこころのなかに居残ったドーナッツの幻影が、そんな考えを広げてくれました。だからといって、何かに使えるというわけじゃないんだけど。

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「酸素が足りない」という歌詞をVocaloidという歌うソフトウェアに歌わせた、へんてこな曲を聴きたい方は、こちらへ。

■Oxygen
http://www.muzie.co.jp/cgi-bin/artist.cgi?id=a024420

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2005年11月 6日

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立体的な思考のために。

少年の頃、世界はどこにあるのか、ということを考えたことがあります。

哲学なんて言葉をまだ知らない時期だったのですが、もしかするとぼくの見ている風景と友達の見ている風景はまったく別の風景かも、ということをふと考えたわけです。世界は自分の外側にあるのか、内側にあるのか、ぼくはどこにいるのか。石ころを蹴飛ばしながらの帰り道(蹴飛ばした石を自分の家まで持って帰れるか、ということに凝っていた)、そんなことを考えていると、一瞬、ぶわっとアイディアが広がって、もしかしたらこれはとんでもない発見だったりして、という気持ちになった。で、石ころどころではなくなって、大急ぎで家に帰って、母親にいま考えていたことを伝えようとしたのだけど、うまく伝わらない。少年のぼくにとって、そのアイディアは言葉にするには大きすぎたようです。しどろもどろになっているぼくをみて、母親は、この子はどうしちゃったんだろうねえ、頭がおかしくなっちゃったんだろうか、と怪訝な顔をしていました。

谷川俊太郎さんに「コカコーラ・レッスン」という詩があります。「その朝、少年は言葉を知った」という文からはじまる散文詩で、海辺の突堤に腰掛けて、少年が<海>と<ぼく>という言葉をぶつけているうちに、世界の成り立ち、のようなものを知る。すると、いっきに彼の頭のなかに言葉が溢れ出して、彼は怖くなる。落ち着こうとしてコカ・コーラを飲もうとするんだけど、そのコカ・コーラの缶をきっかけにして、その缶の背後にある言葉たちが彼を襲ってくる。彼は途方もない「言葉の総体」と戦った後、それらに打ち勝って、コカ・コーラの缶を踏み潰して帰る。そんな詩です。

ぼくはこの詩が好きなんだけど、どこか少年時代のぼくの経験に似ている気がします。そしていまでも、ひとつのことを集中して考えているうちに、「アイディアの総体」のようなものがぶわっと広がることがある。一時期、思考を横断する、とか、世界を俯瞰する(Overlook)瞬間という言葉で、その気持ちを置き換えていたんだけれど、なんとなく言い切れていない気がする。うーむ、もっとぴったりな言葉がないのだろうか、と、考えているうちに立体的な思考、あるいは遠近法(パースペクティブ)という言葉に辿り着きました。

そもそも遠近法というのは美術の手法であって、視覚を通じて立体的にみせる、視覚を騙すことにほかならないのだけど、ぶわっと広がったアイディアについて、遠くにある思考をちいさく(=地)、近くにある思考をおおきく(=図)していくことは、まさに遠近法で世界を描くことに近い。思考をデザインするといってもいい。

ブログの登場によって、ぼくはいろんなことを書きながら深く考えるようになりました。書いたものに対してコメントやトラックバックを返していただけることで、予期しない方向に展開したり、あらたな視点を発見したり、ブログというのほんとうに楽しい。はてなのブログでは、かつて技術的なニュースを複数取り上げて考える、という練習をしていたのだけれど、「考える」というテーマに戻って、また何か書き始めていこうと思います。あるときは技術に関する話題かもしれないし、音楽や映画や本などのことかもしれない。ものすごく抽象的なこともあるだろうし、個人的なこともある。とはいえ、ぼくの文体、ということを意識しながら、一定のテンションを維持しつつ、(ときには中断したり離れたりもしながら)書き続けていくつもりです。

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谷川俊太郎さんの「コカコーラ・レッスン」は、「朝のかたち」という文庫に収録されています。

404128502X朝のかたち―谷川俊太郎詩集 2 (角川文庫 (6071))
角川書店 1985-08

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