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2006年3月 2日

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構想力の必要性。

「経営の構想力」という本を昨日購入して読みはじめました。どうやらぼくは読書に浮気傾向があるようで、一冊の本だけなく同時進行的に複数の本を読んでしまう。「書きたがる脳」も継続して読んでいます。さらに、ちょっとビジネス書に傾倒しすぎた感じがするので、今月からは文学系も読み進めたいと思っています。栄養と同じように、読書にもバランスが大事という気がします。

その「経営の構想力」の冒頭で、いろいろなキーワードから考えが広がりました。いま60ページあたりを読書中ですが、とてもわかりやすく示唆に富んでいます。すぐ読み終わりそうで、もの足りなさを感じたりもするのですが。

たとえば、構想力とは、リアルな現場をわかりつつ全体を見渡すことができる力、と書かれています。部分を大切にしながら、その細部のこだわりに終始するのではなく、全体を俯瞰する力ということです。そして「見えないものを見る力」であり、見るだけでなく「行動」し現実化する力である。その意味で、「着想」「発想」「空想」「妄想」とは異なる、と書かれています。

部分と全体ということで考えたのですが、先日、はあちゅうさんときっこさんのブログを引用しました。その内容をとらえるにあたって、瑣末な部分ばかりに注目しがちじゃないか、と。批判に対する批判であったり肯定が是か否かというのは、ほんとうに揚げ足取りに近い「部分」のような気がします。ほんとうはもっと全体を見渡して言及すべきことがあるんじゃないか、ということです。構想に欠けているわけです。

ぼくらは「だれが」「どうした」という主語+述語的な言説に関して、「主語」の部分に注目しがちです。「あいつが」あんなこと言ってる、「あいつが」あんなことやった、という風にです。これは「経営の構想力」のなかでも触れられているように、日本の社会が同質化を重視して、出る杭を叩きたがる文化に根ざしているから、という印象もあります。短絡的ではあるけれど、そういう感情がある。けれども、「主語」も大事だけれど、その部分だけにこだわりすぎるのはゴシップ的な表層に終始するような気がしました。全体をみていません。むしろ「述語」の部分を「主語」とは切り離して考えるべきかもしれない。

ほんとうは書き込まれたコメントをひとつひとつ考える必要があるとは思うのですが、はあちゅうさんに関して誰が何を言ったか、ということをきっちり調べるほど時間もありません。そこでぼくだったら、はあちゅうさんの何を議論したか、ということを試しに考えてみます。

はあちゅうさんの発言全体のなかから、よいと思ったのは以下の部分です。

もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。

自分が母となる未来を「構想」しているということと、その「覚悟」がある。そして個人の感情から出発して、最後には全体的な教育について言及します。

教育を徹底改革して、子供には常識を叩き込むべきだと思う。

茂木健一郎さんの言葉を使うと、この部分で「大文字」の言葉を使っているのが若干気になりますね。また常識を叩き込むのは、教育機関だけではなくて家庭という場が重要かもしれない。

言及していることを今度はぼくのなかに照射して、自分は何を考えるか、というと、政治的な教育改革も必要だけれど、父親として母親としてできることがあるんじゃないのか、ということです。「もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。」という基本感覚があるかどうか。恥を恥として感じない緩みが自分にもあるんじゃないか。

「勉強をしなさい」と子供に言います。ちょっと教えたりもする。けれどもほんとうに大事なのは、勉強よりも「知恵」なのかもしれない。「宿題やっちゃったよ」「あと赤ペン先生、何ページやればいい?」と息子は言います。でも、ほんとうに大事なのは、やったかどうかよりも、そこで何をみつけたか知恵になったか、ということかもしれません。足し算の解き方よりも、父親としての知恵を彼に教えた方がいいんじゃないか。教育の専門家ではないので、ほんとうに上っ面なことしか言えずに恥ずかしいのですが、教育改革も形式より内容が重要だと思う。社会全体が形式ばかり重視して内容はどうでもいい傾向にあるような気がします。

20代の頃、ぼくは正直なところ結婚なんてしたくないしぜったいに子供もいらない、と思っていました。そして子供ができて、父親としてどうすべきかわからずにおろおろしつつ、なんとか父親らしくもなってきた。なってきたけれども、ほんとうに父親として満点か、というと大いに疑問があります。父親にも完成形はなく、常に学びつつ成長し、進化させていくものだと思う。

教育は国だけの問題ではない、というのはスタートにすぎません。じゃあどうするか。個人的な経験と大きな見えない全体の両方を考えるとき、構想が生まれるのではないでしょうか。

はあちゅうさんの発言が誰か大人に吹き込まれたものだろう、というのもどうでもいいことです。というのは自分の発言だって、きっと誰かが言っていることに影響されている。もしほんとうにオリジナルな言語を喋るようなひとがいたら、その言葉は誰にも理解されないと思います。

何度も書いているのですが、ぼくは批判的なもの、ネガティブな感情、ゴシップ的なものを否定するわけではありません。ぼくだってそういう部分があるし、人間には清い部分ではなく濁りの部分もある。泥沼のような現実に這いつくばって、きれいな青空を見上げているようなものです。

あくまでもぼくがどちらを向いていたいか。誰にも押し付けるつもりもないのですが、青空を見ていたいものだなあ、と思うだけのことです。

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2006年2月18日

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永遠の学生ホール。

人生にはさまざまな岐路があります。そのときは岐路であると感じなくても、あとで振り返ってみると岐路だった、とわかることもある。逆に、これは大きな岐路だと思い込んでいても、実はまったく以前と変わらない堂々巡りの一部分だったこともある。神様ではないので未来を予測することはできません。

ぼくは大学時代のゼミで、小森陽一先生から近代国文学を教えていただきました。小森先生は、現在は東京大学の教授です。ポスト構造主義や記号論、具体的にはミハイル・バフチンやロラン・バルトなどを知ったのは、先生のおかげでした。先生から教えていただいた文学理論は、とにかくぼくには新しい何かを感じさせるものがあった。ああ、これが大学で求めていたものだ、と思いました。そして、そのときに教えていただいたことが、いまでもぼくの基盤になっています。お酒を飲んで「おまえはそれでいいのか?」とセンセイに詰問されて泣き出す人間が続出、というへんてこなゼミだったのですが、時々ゼミのことを思い出します。文学と人生をごちゃまぜにしたような感じでしたが、いいゼミでした。

ほんとうに一度だけですが、小森先生から「大学院、残らない?」と声をかけていただいたことがありました。いまにして思えば恥ずかしいのですが、学内の懸賞論文に応募したこともあり、そんな流れから先生としては、なんとなく言ったひとことだと思います。たぶん5回ぐらい声をかけていただけば、じゃあ行きます、という決心もついたかと思うのですが、その1回きりだったので結局のところ就職活動に向かってしまった。けれどもそのひとことで、若い日のぼくはずいぶん悩んだ気がします。

というのは学生の頃からぼくは、書くこと、考えることが好きでした。このままキャンパスに残ってあれこれ考えたり論文を書いて過ごすのは魅力的だった。一方で、頑固な教師だった父のことも考慮すると、世のなかというものをきちんと知っておいた方がいい、ぼくみたいなやつは机にかじりついているよりも社会で痛い目をみた方が勉強になる、サラリーマンがどういうものかわかっておいた方がいい、という考えもあった。もし、ほんとうに学問に対する思いが強ければ、どんなに遠回りしてもいつか学問に戻るだろう。漱石だって教師や新聞記者を経験した後に小説を書いている。運試しに遠回りしてみようじゃないか。戻れなかったら信念の強さや運や才能がなかっただけだ、と思ったわけです。

思えば、ずいぶん遠回りをしています。そして、この遠回りのまま人生が終わりそうな気もします。けれども、いまは大学にはいないのですが、こうしてブログを書きながら小森先生のゼミがまだつづいているような感じがしています。学生ホールで缶コーヒーを買って、自動販売機のぶーんとうなる音を聴きながら、論文のコピーをひっくり返している自分がいるような気がする。もちろん先生はいないし、深夜隣の部屋では奥さんと子供たちが寝ているのだけど。

これは夢の夢なので、ほんとうのところは書かずにないしょにしておきたいのですが、できれば50歳のぼくは、インターネットを使った自己表現方法、クリエイティブ理論についてキャンパスで講義ができるような人間になっていたい。もちろん仕事はつづけていたとしても、休日はそういうことに費やしたい。成長した息子を含めて若い世代の人間たちに、自分が何に苦しんできたのか、どんな素晴らしいことがあったのか、どうすれば情報に翻弄されずに自分を表現できるのか、技術と人間はどこへ向うのか、そんなことを熱く語れるようになっていたい。それこそかつての小森先生のように、次の世代のぼくのような人間のために。

場所はどこだっていいんです。規模だってちいさくてかまわない。7人ぐらいの聴講者の社会人教育で十分です。いちばん可能性の高いオプションとしては、ふたりの息子たちが聴講生であればいいと思います。聞いてくれないかもしれませんが。

そのためには、ぼくは経験が足りません。知識も少なすぎる。まだまだいろんな本で研究を重ねる必要があるし、技術についても学ぶ必要がある。さまざまなサービスを試してみることも大事です。人間的にも成長したい。

はるか遠い学生時代、学生ホール、あるいは図書館で論文を書いているとき、仮想であったとしてもぼくの頭のなかには未来が広がっていたはずです。いまその未来はもうみえないけれど、また新しい未来を創ればいいと思っています。

学生ホールは、いまでもぼくの頭のなかにあります。

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2006年2月 9日

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リアルの到達点。

少し前のブログになりますが、渡辺千賀さんのOn Off and Beyondで「作るは困難・使うは簡単-リアルタイム・エンタープライズ」という記事がありました。リアルタイム・エンタープライズという言葉自体は、ERP関連のカンファレンスで耳にしたことがあり、実際に大手メーカーにおける開発事例などの解説を聞いたことがあったのですが、まずは冒頭の一文がよいと思いました。IPOセンサー2006年1月号に掲載したコラムの原稿とのことです。引用します。

シリコンバレーでソフトウェア産業に携わる人たちを見て感心するのは、「地に足の着いたこまごまとした開発」と、「個別の開発を思い切り抽象化した包括的ビジョンの構築」との間を、自在に行ったり来たりする能力だ。アプリケーションの開発は、コードをがりがりと書く仕事。一方で、アーキテクチャをしっかりと作り上げるには、個別の開発から何段階も次元を上げ、高いところから俯瞰する哲学的思考が求められる。そしてその両方を行き来することで技術が進歩する。「現実の泥沼をかき分けて進む力」と、「体系化する力」の両方が求められる、知的力仕事だ。

やっぱりそうなんだなあ、という感じです。

ぼくもまったく同じことを考えていました。ぼくの携わっている仕事はソフトウェアの開発ではないけれども、やはり日々の仕事に埋没すると「高いところから俯瞰する哲学的思考」に欠けます。レンガを延々と運びつづけるようなことになる。かといって、仙人のように形而上的な高みにいても、現場からは浮いてしまう。「現実の泥沼」にはいつくばって進まなければならないのが仕事というものです。

茂木健一郎さんが著作のなかで書いていましたが、結晶化された形而上的な世界と猥雑な現実のふたつの世界を引き受けなければならない、という言葉にも合致しそうですね。彼は「世界知」と「生活知」の2つの視点を提示していますが、どちらか、ではなく、その両方を獲得するところに意味があるはず。もう何度も同じことを繰り返して書いているのですが、それが情報化社会というリアルの生き抜く方法であり、到達すべき生き方ではないでしょうか。

リアルタイム・エンタープライズの最終的な到達点は、企業活動の変化がその起業と関わるあらゆるひとに即時的に伝わる、ということかもしれません。渡辺千賀さんは「10分後の空席状況まで「リアルタイム」にわかる」OpenTableというレストラン予約サイトのサービスを例に挙げていますが、ぼくがカンファレンスなどで聞いたことは経営者が時々刻々と変わっていく経営情報を把握する、というようなテーマだったかと思います。変化の激しい社会だけに、リアルタイムでチャンスをつかむことが大事なのでしょう。しかし、それだけ情報も増えるということであり、ちょっとへとへとになりそうな気もします。

「概念は難しいがアプリケーションは使いやすい」という視点もOn Off and Beyondのなかでは論じられていますが、サービスが実用化されるためにはシンプルであることも重要です。たとえば、CMS(Contents Management System)という概念のまま進んでいたら、ブログはこれほど爆発的に広がっていなかったかもしれません。HTMLを知らなくても書きたいことを簡単にWebサイトで公開できちゃうんだ、という使いやすさがあったからこそ普及したのだと思います。技術や創造的なことが広がるためには、包括的ビジョンだけでは難しい。

ところで、別の観点からのリアルですが、趣味のDTMのお話です。昨年末に購入したRealGuitarが1.5から2.0にアップグレードしたというメールをいただきました。英文でした。お知らせとレジストレーション・キーが添付されているメールと、いきなり何の予告もなく2通の英文メールがぼくのところに届いたので、あわててクリプトン・フューチャー・メディアのサイトを探したのですが、残念ながらリアルタイムでアップデートの告知はされていなかったようです。告知されていたのかもしれませんが、ぼくは探すことができませんでした。

とはいえそんなに難解なメールではなかったし、むしろ英文の方がわかりやすい気がしました。テクニカルな文章は英語の方がわかりやすい。まずはデモンストレーションのビデオを観たのですが、これがすごいことになっていた。そこで、さっそくアップデータをダウンロードして、2.0にバージョンアップしてみました。

技術の進化というのは、すごいなあと思いました。どこまでリアルになっていくのでしょうか、Real Guitar。これはほんとうにびっくりします。先日「新しい日々。」という曲でこつこつアップストロークやダウンストロークなどを打ち込んでいたのですが、パターンという機能も付加されることによって、プリセットで、じゃんじゃかだったり、つくちゃかだったり、弾き方を簡単に変えられるようになっていました。とはいえ、使いこなしにはますます時間がかかりそうです。技術の進歩にクリエイティブな力がついていけません。

+++++

■Real Guitar2.0のビデオによるデモを観ることができるサイト(英文)。 ビデオを観るためにはDivX(5.2.1以上)が必要のようです。イーグルス、クラプトンの名曲を思わせるデモ曲が聴けてニヤリです。映像なしで聴いてもリアルなギターと遜色ありません。
http://www.musiclab.com/downloads/listen/

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2006年2月 6日

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次世代コンタクトセンター。

ブログを書いていると、どこまで書いていいのか、という境界が曖昧になってきます。特にネタに困ったときが問題です。ついついキーボードが滑ってプライベートな部分までカミングアウトしてしまうのですが、あー書くんじゃなかったと凹むことも少なくありません。読者として他の方のブログを読むときには素のままの文章の方が面白いものですが、書き手としてはあまり露出するとしんどい。精神力が要求されることになります。あまりタフではないぼくは、そんなわけでほどほどにしておこうと思っています。

ちょっと話がそれますが、インターネットを通じて、ものすごく面白い日記を書くある方と親しくなったことがありました。書き方に独自のユーモアがある。替え歌を作ったりフィギュアを写真撮影して物語を作ったり、ブログの趣向の凝らし方も徹底的で、夜中に吹き出して大笑いするほど面白い日記です。けれども時折みせる真摯な姿勢に惹かれていました。お会いしたことはないのですが、メッセージなどのやり取りで親しくなってから、その方が書いた自叙伝のようなものをみせていただいたのですが、これがもうぼろぼろ泣けた。「東京タワー」どころじゃありません。厳しい過去があったからこそ、自分の生活を笑いとばす強さがあった。人間って書かれたものだけじゃわからないなあ、としみじみと思いました。

さて、通勤電車のなかでぼんやりと考えていると、ビジネス的なアイディアが浮かんでくることがあります。ぼくは目標として、社外であっても企業内起業であっても、事業のプランを立てることができるようになりたいと考えています。プランナーの最終到達点として、そこを目指すつもりです。しかしながら、まだまだその器ではない。人間的にも技術的にも修行と成長の必要性を感じています。IT系ベンチャーには若くして会社を経営している方も多いのですが、やはり運という不確実な部分も含めて、それだけ器量が大きかったのだと思います。ぼくは、まだまだです。けれども、限りなく上昇志向の「まだまだ」でありたい。

と、ここまでが長い(長すぎです)前置きなのですが、ビジネス的なアイディアは抱え込んでいても仕方がないと思うので、企業秘密的に自分のなかにしまい込んでおかないで、全部ここで書いてみようと思いました。何かのヒントになれば、と思います。共同で何か事業を展開してみたいという方がいらっしゃれば、お互いに情報交換などしたいですね。ただ、それほどのものではないか、という気もします。思いつきは企画じゃないですね。あくまでも考える練習として書いてみることにしましょう。


他の書籍に気持ちが移ってしまって、いまだに半分も読み終えていないのですが「ブログ 世界を変える個人メディア」を読んでいるときに、フィル・ゴメスという広報専門家のエピソードが印象に残りました。彼はブロガーのコメントをチェックして、担当であるプログラム製品について書かれたブログを見つけると、丁寧に返事やコメントなどを書き込む。彼が返事やコメントなどを書き込むと、ブロガーたちはメーカーの担当者からコメントをもらったということを嬉しく思い、さらに記事を書いてくれるようです。

いきなり跳躍するかもしれないのですが、ぼくはこの文章から次世代のコンタクトセンターのあり方を感じました。アイディアを企画に落とし込むには、さまざまな面からの検証などが必要になるかと思います。基本的に思いつきなのですが、ぼくが考えたのはこういうことです。

例えば自社がPC周辺機器のメーカーでプリンタを扱っているとすると、コンタクトセンターのスタッフは、まずブログを検索して自社のプリンタについて書かれているブログをチェックするわけです。ネガティブなクレームであれば、「厳しい言葉をありがとうございます。真摯に受け止め、改善に励んでまいります」のようなコメントを残す。よい記事であれば、「ありがとうございます。今後もよりよい製品づくりに励んでまいりますので、お気づきの点などございましたら、ぜひご連絡ください」のようにコメントする。やりすぎるとコメントスパムになるような気もしますが、基本的な文面と、個別のブロガーが書いていることに対する感謝などを組み合わせると、ブロガーにとっても嬉しいものであると思いました。広報的な活用もできそうです。

そもそもコンタクトセンターというほどではありませんが、ぼくも事務局の仕事をちょっとかじったことがありました。ちなみにコンタクトセンターはメールによるコミュニケーションを主体としています。一方で従来コールセンターと呼ばれていたものは、お客様対応の電話によるアプローチで、大きく分けてインバウンド(問い合わせ対応)と、アウトバウンド(テレマーケティングとして営業的ないわゆる売込みの電話)の2種類があります。スクリプト(電話の対応のシナリオ)なども作ったことがあるのですが、自然な流れであること、ひとつでも多くの情報を引き出すためのテクニックなどが必要になります。ブログコンタクトセンター(仮)においては、話術よりも文章力が重要です。どのようにコメントすべきかという高度なコミュニケーションのノウハウ、しゃべるノウハウに代わる(斉藤誠さん的ではありますが)コメント力が必要かもしれません。間違えると、ブロガーに逆襲されることもある。怒りに火をつけて、クレーマーに発展させてしまう可能性もあります。その部分が問題といえば問題なのですが。

もしかすると、既にサービスを展開している企業があるかもしれませんね。最近テレビCMも放映している、トランスコスモスさんなどでは、もしかすると実際にサービスを実施しているような気もしました。

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2006年2月 1日

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風が吹いた。

趣味でDTMをやっているのですが、実は行き詰まり気味でした。ブログも行き詰まり気味なので、人生すべて袋小路に入り込んだ感もありますが、そんなときもあるものでしょう。閉塞感にあえぐ今日この頃、納得できないまま仕方なく公開してブログにも書いた「新しい日々。」という曲ですが、自分のなかではオルタナティブなものを感じつつ、だめだこりゃ的な絶望感もあり、悶々とする日々でした。

けれども昨日、muzieのサイトで別のアマチュアの方の音楽を聴いていて、新しい風が吹いたような気持ちになりました。ぼくは音楽には勝ち負けはないと思うし(やられたーというのはある)、そもそも趣味なのでプロになるつもりも当然ながらなく(というか、このレベルでなれるはずもなく)、ダウンロードは多いと嬉しいけれども少なくても聴いていただける方がいただけでしあわせだろうと思うし、ただし自分の感性に触れるものだけを大切にしたいと思っているのですが、同じmuzieでInstrumental/POPSのジャンルで公開している「Monkey & 36 Maniacs」さんの曲を聴いて、これはいいな、と思いました。

ぼくはよいものはたとえ少数派であってもよいと言いたいし、悪いものは・・・はっきり言うのはともかく、これはどうかな?ぐらいの感じで(あくまでも控えめに)言ってみたいと思っています。というのも、なんでもすばらしいと言うのは信用できないと思うんですよね。ずばり広告的です。作為的ともいえる。世のなか全部が否定的であってもよいものはよいと言いたいし、逆に大絶賛だったとしても、なんかいまひとつ・・・と感じたなら、その正直な気持ちを大事にしたい。その正直な印象を発言できるのがブログであり、だからこそ広告よりもブログの信頼性が高くなるのではないのでしょうか。CGMのよいところはそういうところという気がしています。広告に対して脅威となるのも、そんな正直感、作られたものではない真実の評価が重要です。

ところで、「Monkey & 36 Maniacs」さんは1/30から突如公開しはじめたようで、とはいえたぶんずーっと曲をためてきたんでしょう。既に11曲を公開している。それぞれが完成度が高いと思いました。まず、影響を受けたアーティストに、BRIAN WILSON、STEREOLAB、BEATLES、小山田圭吾の名前を挙げている時点で、既にぼくはにやりという感じなのですが、楽曲を聴いてもやはりにやりというフレーズなどがあり、よいです。

といっても、当然のことながら、まったく「Monkey & 36 Maniacs」さんの素性は何も知りません。というのは、ポップスのジャンルでたまたま同じ日に曲を公開したアーティストさんというだけのことだからです。つまりぼくの曲の前後にずらーっと並んでいたので、これはどんな曲なのかな、という感じで聴いてみたところよかった。それだけのことに過ぎません。一般に出回っているアーティストならともかく、まったく何も知らないアマチュアの方の(しかも現在ダウンロード数5ぐらいの)楽曲を絶賛しているぼくはいったいなんだろう、という気持ちにもなるのですが、いいんです。世間一般はどうであれ、行き詰っていたぼくに光を与えてくれました。だからこんな風にレビューしているわけで。

自己紹介を引用させていただきますが、「「少しばかりの毒」「くだらないユーモア」「切なさ」を心掛けてる者です」というのもいいですね。饒舌じゃないところ、最後に切なさとくるところ。

どこのどなたかは存知ませんが、「Monkey & 36 Maniacs」さん。これからもよい曲を聴かせてください。ぼくもまあ頑張ることにします。ぼちぼちと。読んでいるかどうかわかりませんが(というか読んでいないと思うのですが)、頑張りましょう。

■muzieの「Monkey & 36 Maniacs」さんのページ。Vocaloid MEIKOを使っていますね。ぼくの作ったものと比較するとMEIKOの音声が明瞭だし、アレンジもしっかりしている。やられた感があります。でも、心地よいです。

http://www.muzie.co.jp/cgi-bin/artist.cgi?id=a039087

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