ひかりの花束。
やみ を
おそれなくてもいいよ。
闇、病み、そして止み。
てらしてあげたい。
きみがあるく
その未来(さき)を。
とおいばしょで
くらす きみのために。
トウキョーから夜の
しじまをこえて。
ひかり
の、花束を。
Merry Christmas.
投稿者: birdwing 日時: 23:59 | パーマリンク | コメント (2) | トラックバック (0)
やみ を
おそれなくてもいいよ。
闇、病み、そして止み。
てらしてあげたい。
きみがあるく
その未来(さき)を。
とおいばしょで
くらす きみのために。
トウキョーから夜の
しじまをこえて。
ひかり
の、花束を。
Merry Christmas.
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センセイが走る師走も大詰めですが、公私ともにあまりにも忙しい。プライベートが忙しいのは楽しいから問題ないのですが、日曜日に会社で仕事したり午前中へたばって午後から深夜まで働いていたりするので、疲労も蓄積されつつあり、今日が何曜日かもわからない状態になってまいりました。走れません(泣)。
とはいえ、体力はないし身体は強いとはいえないけれど、基本的にぼくは頑丈に生まれてきたようで、あんまり大きな病気をしたり入院することはないようです。親父とおふくろに感謝。しかしながら、そう思っているといつか、すとん、と不調に見舞われそうで怖いですね。精神的にも、どちらかというとふらふら揺れ動いたり、繊細に傷付いてしまう性格なのですが(苦笑)、その実、倒れてもただでは起きないというか立ち直る雑草のような人間かもしれない。これもまた、まあいいか、と油断していると取り返しのないダメージを受けそうで怖いのですが。
思えば何度かブログを消滅させましたが、いまもこうして書き続けています。継続は力、というステレオタイプな言葉で括ってしまうとどうかとも思うのですが、ぼくのひとつの核となりそうな気がしています。
そこで考えたのですが、表面的にはまったく違うものになってしまっていても、長期的に続ける何かがあるといいかもしれませんね。どういうことかというと、例えば少年時には絵を書くのが好きだった、けれどもその絵が動くといいな、と思い始めて映像系の仕事に就いた、というようなことです。
絵を描く→映像制作は、クリエイティブという軸でつながっているのでわかりやすいけれど、小説を書くことが好きだった文学青年が時を経ていまは会社を起こしている、というのでもいい。つまり小説というドラマを創造することを、社会においてダイナミックに変化する会社というドラマを生み出すものに進化させている、ということです。「小説を書く」ということに拘ると小説家という職業しかみえないけれど、「表現する」とその意義の範囲を広めると可能性は広がります。
小説家の石田衣良さんも、広告代理店を経てフリーター時代に考えていたことは、会社を起こすか小説を書くか、ということだったようです。前者は長期的な目標で、後者は短期的な目標として自分のライフスタイルのなかにプロットしていたらしい。
先日、床屋でアタマを茶色くしながら読んでいた雑誌に、数々のヒットをとばしたドラマの原作者のインタビューが掲載されていたのですが(何という雑誌で誰だったのか忘れた)、その方は、とにかくマスコミに拘りマスコミ業界に就職するために留年して準備したそうです。そういう頑なな生き方もあり、だと思います。生涯をかけて本気で思い続ければ、きっと何かを成せるはず。
けれども、もう少しゆるく考えて、直面する運命をフレキシブルに吸収したり、リリース(手放す)したり、そんな生き方もありではないでしょうか。やわらかい生き方かもしれない。社会に合わせて適合し、進化する生き方というか。
恐竜が絶滅してしまったのは、あまりにも巨大になりすぎたせいでしょう。環境の変化に付いていけなかった。変化をキャッチし、フレキシブルに対応できるフットワークがあれば、大きな幸せはないかもしれないけれど、小さな幸せを積み重ねていくこともできる。瞬間風速として、でかい振幅の幸せはなくても、でっぱったり凹んだりの連続のなかで、結果としてちょっとだけプラスになっていれば、それが幸福なのかもしれません。株みたいですけどね。
忙しいときには見失いがちになるのですが、こういうときこそ、どういう生き方をすべきかということを考えておきたいものだ、と思っています。
就活を頑張ってる学生さんたちは自己分析をされているかと思うのだけれど、内定もらえば自己分析はおしまい、ということはなくて、会社(社会)のなかでも自己分析は必要になる。年齢に合わせて軌道修正も必要になります。さらに学校を卒業してからの勉強は結構大事ではないでしょうか。資格取得はもちろん、結婚生活や子供とのやりとりからも学ぶことが多いです。本に書かれていること、テストがあることだけが勉強ではない。学校というしばりのない学校が、社会なのかもしれない。
と、いうことを脈絡なく考えつつ、タボーな時期にへこたれないように、自分に喝を入れるための10か条を考えてみました。やってはいけないこと(タブー)も含まれているのですが、どちらかといえば前向きな能動態を多くしたつもりです。
01)楽観的であること!
02)空元気でもいいから活力を!
03)他者(個人・所属する法人含む)を批判してストレス解消しない!
04)自己(個人・所属する法人含む)を過剰に自慢して発散しない!
05)ひとりの時間を作る、楽しむ
06)みんなと過ごせる時間を徹底的に楽しむ
07)過去よりも未来に目を向ける
08)よいもの(ひと、芸術、製品など)に触れる
09)不健全なものはちょこっとなら許せるが、依存しない!
10)何よりも身体が資本!
頑張ろうね、自分。そしてこのブログを読んでいただいているひとたち。背筋をしゃんと伸ばして生きてみますか。
投稿者: birdwing 日時: 12:37 | パーマリンク | コメント (4) | トラックバック (0)
書店を徘徊して、たまに特集が面白いと購入するBRUTUS。前回の映画特集は買いそびれてしまったのですが、今回は「ギター愛」というGuitar特集なので買ってしまいました。
BRUTUS (ブルータス) 2007年 12/15号 [雑誌] Amazonで詳しく見る by G-Tools |
しかしながら、よく考えてみるとぼくには特に贔屓なギタリストがいない。リッケン・バッカーのギターには憧れがあったのですが(とにかくかっこいいと思った)、ではビートルズのジョン・レノンやジョージ・ハリスンをギタリストとして羨望していたかというとそんなことはない。
ずいぶん後になって、ロディ・フレイムがTakamineのギター弾いているのをライブでみてかっこいいなあと思ったのですが、やっぱりギタリストじゃないし。そういえば、学生時代には癒し気分でゴンチチ聴いてたこともあったっけ。Takamineのギター購入してからは、押尾コータローさんなんかも聴いたりしました。
純粋にギターの音を聴いていいなあと思ったのはジャズのジム・ホールなんですが、それもビル・エヴァンスを聴いていくなかで、「アンダーカレント」というふたりで演奏したアルバムがあって、単音の響きに惹かれたからです。他のアルバムを聴いたんだけど、このアルバムほどのめり込めなかった。
アンダーカレント ビル・エヴァンス ジム・ホール EMIミュージック・ジャパン 2008-09-26 by G-Tools |
と、非常に困惑しつつ、さらにジミ・ヘンドリックスが露出しすぎな雰囲気にも馴染めないものを感じながら、この雑誌を購入したのですが、ふと気付いたのは、「ギター」愛であって「ギタリスト」愛ではないのだ、と。つまり楽器としてのギターに対する思い入れについての特集なんですね。ああ、なるほど、それならわかる、と思いました。
以前の言葉についての特集でも面白かったのですが、BRUTUSの特集でやっぱりいいなあと思うのは、いろんなひとのインタビューで構成されていることです。今回登場するのは次のようなひとたち。
・リリー・フランキー
・奥田民生
・エリック・クラプトン
・香椎由宇
・平野啓一郎
・岸田繁(くるり)
・トミー・ゲレロ
・高橋千佳子/杉崎美香
・レス・ポール
・藤原ヒロシ
・Char
・村治佳織
・高見沢俊彦
・箭内道彦 など
この節操のなさ・・・というとどうかと思いますが、多様な感じがいい。高橋千佳子さん、杉崎美香さんが公園でギターを抱えている写真の反対ページは、92歳で現役ギタリストでもあるレス・ポールおじいさんだったりする(笑)こんな感じ。
この朗らかに微笑むおじいさん、レス・ポールというギターを生み出したまさに伝説のひとですよ?
この構成、編集の妙という感じがします。やはり、BRUTUSの編集しているひとはセンスがいい。その後、ギター工房の職人さんのお話や、ギターのカタログが続きます。ミュージシャンが弾いたギターがいくらか、などというトリビア的な内容や、ヴィンテージギター検定という26問のテストがあったりします。うげ、エリック・クラプトンの使ったギブソンES‐335 TDC(1964)は、92,208,000円とな!
いつも楽しみに思っているブック・イン・ブック的な中綴じの特集では、27人のギタリストがCD&DVDのベスト50のほか、全部で150本の名盤を紹介しています。27人のなかには野村義男さんという懐かしい名前のほか、キリンジの堀込高樹さんなど多彩です。堀込高樹さんが第1位に推薦しているのは、スティーリー・ダンの「幻想の摩天楼」。うーむ、なんか非常にわかる気がした。複雑なひねりの効いたちょっとジャズ的なコード進行などは、ドナルド・フェイゲンあたりのソングライティングからきているんでしょうか。
このCD&DVDカタログもそうなのですが、ぼくはカタログ的なものに弱い。500本から厳選したレアヴィンテージのページのように、きれいに情報が整理されているページに惹かれます。
手の届かないギターだけではなくて、後半にはエレキ・アコギの購入ガイドもあるのがうれしいですね。
ところで先日、大学時代の先輩の結婚式の後、2次会までの時間を潰すためにお茶の水の楽器店をぐるぐる回ったのですが、3万円で買えるギターがあってびっくりしました。デジタル楽器だけでなく、ギターのような楽器にも価格破壊が起きている。
けれどもやっぱり、手の届かないガラスケースのなかにあるようなギターは風格が違う。そして、美しい音を出す楽器は、やはり美しい容姿をしているものではないか、と思います。女性もそうかもしれません(などと、フェミニストっぽいことを書くと照れる)。美しさのトータリティのようなものがあり、内面の美しさが外見を磨くようなところもあるのではないか。
自慢じゃないけれど、ぼくは楽器を弾くのがほんとうに下手で(苦笑)、かといって上手くなるための練習を努力するわけでもいのですが、楽器のある風景もしくは部屋というのが好きで、ギターでもピアノでも、部屋にあるだけでいいなあ・・・と和んでしまいます。インテリアじゃないので、弾いてあげなきゃかわいそうだ、とは思うのですが。
購入する意図もなく、かといって試奏するわけでもないのだけれど、ときどきいまでも会社の帰りに、ぶらりと楽器店に立ち寄ることがあります。それだけでもう、しあわせだったりする。安上がりなものです(苦笑)。
投稿者: birdwing 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック (0)
というタイトルのレイモンド・カーヴァーの短編がありました。村上春樹さんが翻訳されています。まだ読んでいなかったと思うのですが気になります。キャッチコピー的でもある。「ノルウェイの森」のラストを想像させる言葉かもしれません。
携帯電話が普及して、当たり前のように誰もが電話を持つ時代になりました。当たり前のように連絡できる時代になった。そこでどうなったかというと・・・。いろいろな変化があると思うのですが、まず思い付くのは待ち合わせに遅れるということ(苦笑)。「いま、すぐ近くにいるのであと10分待ってください」という連絡を簡単に入れることができる。
一方で、好きな異性ができた若者たちにとってはものすごく便利じゃないか、とそんな話をちょっと前におじさんたちで話しました。
つまりですね、携帯電話がなかった遠い昔、彼女の家に電話をかけるということはものすごーく勇気がいることだったのです。とにかく、男性諸君にとっては、親父が出たらどうしよう?という難関があった。声の似ているおねーさんかおかあさんに馴れ馴れしく話しちゃったらどうしよう?という素朴な戸惑いもあった。この大きな第一関門を通過しなければ、しあわせな会話は成立しなかったわけです。けれどもひとり一台携帯電話を持つことで、好きな彼女とダイレクトにつながってお話ができる。
そんなことを書いていて思い出したのですが、ソフィア・コッポラ監督の「ヴァージン・スーサイズ」という映画で、ティーンの女の子と男の子が電話をする場面があります。このとき厳しい親をごまかすために、それぞれがお気に入りのレコードをかけながら、その歌詞でコミュニケーションする。直接、好きだよ、と語らずにレコードのなかのアーティストに気持ちを代弁させるわけです。あのシーンはいいなあ、と思いました。
ヴァージン・スーサイズ ジェームズ・ウッズ キャスリーン・ターナー キルステン・ダンスト Amazonで詳しく見る by G-Tools |
うちの小学五年生の息子も携帯電話を持っています。といっても、彼の場合は、カメラ機能で弟のへんな顔を撮ることに使っていて、電話がかかってくると取り方がわからないのであたふたしてしまうようです。GPS機能も付いているので防犯という意味も含めて持たせているのですが、彼女としあわせな会話をするために使えるようになってほしいものだな。というか、きみは好きな女の子にかける勇気があるのかなあ?
とかいっていますが、実は彼の父であるところのぼくは電話が苦手な青年でして、学生時代の前半はアパートに電話のないひとでした。そのことで友達周辺には多大なメイワクをおかけいたしました。音信不通になるので「あいつ、生きてるのか?」ということになる。休講とか、課題の連絡もつかない。いま考えると、どういう閉鎖的なコミュニケーションの人間だったのでしょう(苦笑)。
そんなぼくにも好きな女の子ができて、よく電話ボックスから電話をしたものでした。ぼくは大学2年の最初までは予備校時代からの下宿に住んでいたのですが、家賃1万3000円、風呂なしの4畳半のアパートに住んでいました。貧乏だけどしあわせな夢見る青年だったなあ(遠い目)。
えー、どうでもいいことですが、ちょっと回想の寄り道を。
ぼくの下宿にはちいさな台所しかないので、風呂といえば銭湯に通っていました。当時はだいたいタバコ代と銭湯代が同じぐらいで、今日はお風呂やめといて流しでお湯沸かしてアタマ洗って、タバコにしとくかー・・・みたいな選択もしたものです。
ところが、ぼくが通っていた銭湯なのですが、困ったことに番台にはときどき銭湯屋の娘の若くてきれいなおねーさんが座っている。これがまいった。19歳のわたくしはパンツ脱ぐのに戸惑ったものです。恥ずかしさもあるのですが、もちょっとこの困惑は複雑でして・・・えーと、つまり。
男性は不便ですよね、形状が変化しちゃうので。銭湯で戦闘体勢になってもいかがなものかと思うのですが(苦笑)、19歳のほぼ童貞(?)の純情な青年にとっては、きれいなおねーさんに見られているというだけで、もうバクハツしそうな勢いでした。
鎮まれーと思うのですが、若さゆえ鎮まり難い。コントロールを失った暴れん坊はどうしようもない。半分緩和された状態でタオルで押さえて欲情を隠して浴場へダッシュするなど、苦労したものです。まあ、番台におじさんが座っているときには穏やかなものでしたけど。そんな日は、ほっとしたり残念だったり(笑)。
と、脇道が長くなりましたが、そんな貧乏だが部分的に元気な青年(苦笑)は、彼女に電話するために硬貨を貯めるわけです。携帯世代の若いひとたちにはわからないかもしれないのですが、テレフォンカードになる以前、公衆電話というものが街角にあり(いまでもあるか)、10円玉とか100円玉を入れて電話をかけていたのです。
コンビ二でカップラーメンなどを買って、ジュースの空き瓶にお釣りの10円玉を入れる。貯まってきたところでズボンのポケットを硬貨で膨らませて(硬貨じゃないもので膨らんじゃったりもしますが。えーと、彼女に電話できるという期待ですよ?笑)、電話ボックスへ行く。人通りの少ない静かなお気に入りの電話ボックスというのがあったのですが、たまに人が入っていたりすると、ぐるりと深夜の街をお散歩してまた電話ボックスに戻る。長電話が続いていると、早く次のひとに譲るようにそーっと覗き込んでささやかな威嚇をしたりして(笑)。
こつん、こつん、と硬貨が落ちていく音を聞きながら、夜の電話ボックスで彼女と話す時間は、なんとなく癒される穏やかな時間でした。けれども、話をしているうちに喧嘩になるときもあって、そういうときに限って硬貨がなくなっちゃったりする。慌ててお札を崩してきて再び電話ボックスに戻るのですが、もう誰かに使われていることもある。苛立ちのあまりに、その辺の看板を蹴っ飛ばして、空いているボックスを探したものです。
でも、制限があるから、コミュニケーションできる時間も貴重になるのかもしれませんね。
うまくいかなかったり障害があるから愛情が深まるように、忙しい時間のなかで、わずかだけれどつながる時間を大切に思う気持ちが大事かもしれません。
考えてみると、現在だって電波の状況が悪いなどという障害はある。さらに機器が壊れてしまえばつながるものもつながらなくなる。いつの間にかインターネットや携帯電話がライフラインのように重要になっていますが、当然だと思っている便利さについて、もう一度見直してみようと思いました。
なんとなく淡い学生時代のことなど回想しつつ、いまの便利な状況も数年後にはもっと便利な状況に変わってしまうのだろうか、と遠い未来に想いを馳せてみています。
+++++
写真は1枚目(上)が現在使用中のP902i。反射しちゃっていますが、ストラップの茶色い部分は金属です。そして2枚目(下)が、手元にあるだけの過去使ってきた携帯電話、SO502i/SH505i/SH901iSです。2つ折りがあまり好きじゃないので、SO502iとか気に入っていたんですけどね。
投稿者: birdwing 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック (0)
基本的に文章を書きたくてブログを書いているわけですが、文章はコミュニケーションの手段でもあり、王様の耳はロバの耳!のように暗闇に吐き捨てるようなものではない場合には、誰かに伝わることを前提として書いているわけです。読まれるために書いている。
テキストは伝わらない、メールは怖い、だから会って話すのがいちばん。
そんな原始時代的な考え方のひとはずいぶん少なくなったのではないでしょうか。もし、いまでもそう思っているようであれば、時代遅れ?とちょっと自分を省みたほうがいいかもしれないですね。21世紀。SF映画に登場するようなボディスーツは着ていないけれど、ぼくらの時代は静かに変わりつつあります。
年配の方であっても携帯電話のメールを使いこなすし、ブログもがんがん書いたりする。いいんじゃないですか。たぶんグラハム・ベルの発明によって電話が登場し、世のなかに爆発的に普及していったときにも、電話なんか顔の見えないものを使って横着しないできちんと訪問しろ!のような議論があったはず。古いものに拘る気持ちもわかるのだけれど、時代は変わっていきます。コミュニケーションの手段が増えることは、新しもの好きな自分的には大歓迎ですね。
ところで、チャットにしろメールにしろ、テキストのコミュニケーションではないですか。テキストというのは、書いた瞬間に削ぎ落とした何かがたくさんあり、だから想像力や推測で補う必要がある。
したがって、テキストのコミュニケーションを究めていくと、ものすごく想像力や推測する力、相手の気持ちを読む力、コミュニティであれば空気を読む力が鍛えられる。それは受信者の立場だけれど、発信者の場合には、なんというか相手のツボを押すような的確な言葉を瞬時に繰り出せるようになる。
先日、「パフューム ある人殺しの物語」という映画を観て思ったのだけれど、この物語では、香りというカタチのないものを永遠に持続させようとする狂気にも似た感情が主人公を殺人に駆り立てます。ただ、その力を究めることによって、ひとふりのハンカチに落とした香水によって、群集の怒りをやわらげて愛情で溢れさせたりすることができる。これはすごい。ぼくは言葉でこれができるといいと思いました。言葉の調香師になれたらいいと思った。
つまりですね、一瞬で相手を刺激し(トップノート)、広がりのある感情を喚起し(ミドルノート)、いつまでもぼくのことを覚えていてくれるような(ベースノート)言葉を発せないか。
えー、妻子のある身としてはこんな妄想をするのはいけないことであり(苦笑)、そんな機会も残念ながらもいまのところないのですが、圧倒的な力を持つ言葉をですね、もし大好きな女の子に使えるようになったら・・・彼女を言葉で官能的に悦ばせることができるのではないか、と(笑)。女性を感じさせるのは男性にとっても至高の喜びではないですか。感じている女性をみるのは嬉しいですよねえ、男性のみなさま。
あーしかし、いかん、いかん。言葉の使い手であるブロガーとしては、自分の言葉の力をヨコシマな欲望に使っちゃだめですね。モラルは大事です。自制。
とはいえ、万人に当てはまることではないけれど、波長の合うひとというのはいるものです。エンドレスでお話していたいひとがいる。テキストのコミュニケーションであっても、びしばし伝わることがある。その力を強化していくと、脳内でダイレクトにつながっている気持ちになります。たかが言葉なのに、まるで仮想の世界で抱擁されているような、あったかい気持ちになる。
これはもはや・・・えー、誤解やヒンシュクを恐れずに言うと、脳内セックスではないか、と。
相手の気持ちのいい部分を言葉で探り、愛撫する。そして自分の感じる部分に言葉で触れてもらう。もちろん信頼関係ができていなければ、言葉を裸にすることはできません。どうしても拒絶とか嫌悪の気持ちが、言葉をシャットアウトしてしまう。おざなりな社交辞令になる。それでも一度解放してしまうと、言葉だけで気持ちよくなれる。言葉で交接することができる。
物理的というか身体的に、男性でいえば射精という終わりがないから、基本的には言葉の交接はエンドレスです。しかしながら、気分は移り変わり、減衰し、維持できないものなので、常に不安や安定させようとする努力が必要になります。それに人間は欲張りなので、常に新しい刺激を求める。新しい刺激を言葉で作り出す=創造するクリエイティビティがなければ、確かにそこあったはずの世界=信頼関係が急に消滅するような脆いものでもあります。
わかりやすいので男女の恋愛に喩えてみたのですが、ひょっとするとメーカーと消費者の“恋愛”についてもいえることかもしれません。物理的に機能の改善も必要だけれど、デザインとかコンセプトとか、カタチのない何かでつながっていれば、永続的に信頼関係は築くことができる。このメーカーと消費者の“恋愛”こそが、ブランディングなのかもしれませんが。
と、非常に実感がともなわないので抽象的なことを述べましたが、テキストで愛し合うのは性別や年齢や地域などを限定しません。インターネットさえあれば世界中の誰とでも愛し合うことができる。
さらに、テキストで交わるようになると、必然的にリアルな性欲は減少する気もします(かえって、会いたくなって、リアルな身体に触れたいと思うこともあるかもしれないですけどね)。つまり、生殖機能としてのセックスが抑制されるわけで、それは人類の過剰な増加を抑制することになるかもしれない。
多分にSF的ではあるのですが、インターネットの登場は、脳内セックスを増加させて生殖活動を減退させる、というマクロな効果があるとしたら、地球規模の歴史的に意義があるのではないか、と思ったりして。
とかいう概念的なことを書いていないで、PCの電源をオフにして外へ出なさい、ということかもしれないとも思うのですが(苦笑)。
勤労感謝の日、トウキョウはとてもいい天気です。
今朝、夢のなかで、亡くなった父から酒を飲まされるシーンをみました。父がどこかで仕事に疲れたぼくを労わってくれているのでしょう。その夢は現実ではないけれども、いまこうして書くことによって、現実の一部にカタチを残す・・・。
言葉の力について、ぼくは考え続けていたいと思っています。
投稿者: birdwing 日時: 13:07 | パーマリンク | トラックバック (0)