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2007年10月 3日

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言葉の力。

電車の中吊り広告でみかけて、ついつい購入してしまったBRUTUS 10/15号。表紙は9日が命日のジョン・レノンとオノ・ヨーコです。そして特集は「言葉の力」。これは買うしかないでしょう。

BRUTUS (ブルータス) 2007年 10/15号 [雑誌]BRUTUS (ブルータス) 2007年 10/15号 [雑誌]


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言葉を操るブロガーとして、言葉には敏感でありたいと思っています。また、力のある言葉を使えるようになりたい。言葉はやさしく力づけてくれるものにもなるし、言葉の暴力といわれるように武器にもなる。できればやさしい使い方をしていたいけれど、自衛の意味も含めて、鋭い刃となるような言葉も使えるようになりたい。もちろん使い方を間違えないようにしたいですけどね。

涼しさを増した9月。読書欲が高まりつつあり、ツンドク本もまだまだたくさんあるのに、次から次へと本を購入中。そもそも本屋でバイトしていたぐらい本が好きなので、困ったものです。

BRUTUSの特集を喫茶店でぺらぺらとめくりつつ、読んでいて思わず感動して涙出そうになった言葉がありました。それはやはりといえばやはりなのですが、谷川俊太郎さんが、糸井重里さんのウェブサイト「ほぼ日刊糸井新聞」に掲載した「質問箱」のなかの言葉でした。

実は「ほぼ日」の存在は知っていたのですが、あまり読んだことありませんでした。お恥ずかしい。雑誌に載っていた質問箱の6は下記のサイトになります。キャプチャーをクリックすると、そのページに飛べます。

縦書きですね。画像による縦書きですが、ネットで縦書きに遭遇するとなんとなく和みます。イラストもかわいい。ちなみに谷川俊太郎さんの質問箱のページはこちら。

http://www.1101.com/books/shitsumonbako/index.html

引用してみます。この「質問箱」は、一般からの質問に詩人である谷川俊太郎さんが答える形式になっています。まず質問から。

質問 六
どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
(こやまさえ 六歳)

(追伸:これは、娘が実際に
母親である私に向かってした質問です。
目をうるませながらの質問でした。
正直、答えに困りました~)

それに対する谷川さんの答えは以下です。

谷川俊太郎さんの答え
ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
そのあとで一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
ことばで問われた質問に、
いつもことばで答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

・・・あああ(号泣)。いいなあ。

やっぱり谷川俊太郎さん素敵だ。言葉の使い手でありながら、「いつもことばで答える必要はないの」と諭しているあたり、まいりました。ぼくも、ぎゅーっとしてあげてください、ぐらいの発想ならできる。しかし、そのあとの言葉で答える必要はない、という視点は思いつきそうで思いつかない。

言葉で問われたものに対しては、どうしても言葉で返答するじゃないですか。でも、音楽で答えてもいいんですよね。写真や絵画でもいい。そして五感で答えることもできる。ぬくもりという触感、あるいはおいしい食事の味覚や嗅覚で答えてあげることもできる。落ち込んでいたとしても、あったかいスープとか出されると、ちょっと気を取り直したりするものです。それもまたコミュニケーションである、という。

じっくりと読んでいるのですが、BRUTUSの特別付録には、WORDS OF MY HEART「心の詩」として安藤忠雄さん、浅野忠信さんなど30人がセレクトした詩のアンソロジーとなっています。英詩、日本の詩など織り交ぜて掲載されていて、縦書きあり、横書きあり、なかなか賑やかです。

そのなかでも泣けたのが、宮沢賢治さんの「眼にて言ふ」という詩。引用します。

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いているのですからな
ゆふべからねむらず
血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといい風でせう
もう清明が近いので
もみじの若芽と毛のような花に
秋草のような波を立て
あんなに青空から
もりあがつて湧くように
きれいな風がくるですな
おなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが
黒いフロツクコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば
これで死んでもまづ文句もありません
血がでているにもかかはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
ただどうも血のために
それを言へないのがひどいです
あなたの方から見たら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やつぱりきれいな青ぞらと
すきとほつた風ばかりです

・・・あああ(号泣)。この透明感。

いまわの際に青空を眺め、風を感じているこの感覚。坂口安吾が小林秀雄論のなかでこの詩をすすめているのを、大橋仁さんという写真家が雑誌のなかですすめているのですが、途方もなくいい。そして、坂口安吾がこの詩をすすめるのもわかる気がする。彼の小説のなかには、まさにこの詩の(死の)風景が息吹いている気がします。

偶然にも、谷川俊太郎さん、宮沢賢治さんいずれも「死」という極限をテーマとした言葉になってしまったのですが、ぼくはまだなんとなく吹っ切れないものがあって、こういうすぱーんと研ぎ澄まされた言葉が使えない。

なんとなく甘酸っぱいものを感じさせるような、透明な切なさを表現しようと思っているのですが、技巧ではないですね、これは。どう生きるか、という身体的な思考(うまくいえないけれども、未分化の思考)がないと、こういう言葉は出てきません。それこそアタマで考えていちゃダメだ。

言葉の修行はまだ続きます。

投稿者: birdwing 日時: 23:20 | | トラックバック (0)

2007年9月30日

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[掌編小説] 青い鳥のおはなし。

Twitterというミニブログを併用しているのですが、そちらでは文字制限(140バイト:2バイトの日本語の場合、70文字)があって長文は入力できません。長文を入力すると画面で怒られてしまいます。

そもそもTwitterは、What are you doing? というサブタイトルにある通り「いま何してる?」という言葉でつながるというコンセプトでサービス展開されたブログでした。つながることもできるので、SNS的でもあります。そんなもの何に使うんだ?という批判もあったのですが、かしこまって書かなくてもいいので、メモ代わりとチャット風のプチコミュニケーションに何かと利用しています。

ところで、妄想過多なぼくは、ぼーっとしているあいだに曲を考えたり、物語を考えることがよくあります。

土曜日に仕事の待ち時間を利用して15分ばかりでささやかな物語を書き上げたのですが、それをTwitterにアップしてみました。「ついったー掌編小説」という試みだったのですが、Twitterはアップしたものから下に送られていくため読みにくいので、ここで全体を再掲載してみます。


+++++++++++++++++++++
青い鳥のおはなし
+++++++++++++++++++++
作:BirdWing

空が大好きな少年がいました。
とてもきれいな青空のある日、
「ぼくはこの青空を、これから10年のあいだ好きでいるんだ!」
と、少年は空を見上げて誓いました。

ところが空は、少年に冷たい雨を降らせました。
空に悪気があったわけではありません。
雨は生き物にとっては、とても大切な恵みなのです。
けれども、その冷たい仕打ちを勝手に勘違いした少年は、
むっかー!こうしてやるっ!
と、空に向かって石を投げつけました。

重力の法則にしたがって、投げた石は少年の頭に。
ぽこん。きゅう。
少年は意識を失いました。

***

目覚めてみると、少年は
一羽の青い鳥になっていました。

どうしたんだこれは。でも、ぼくは飛べるぞ!
彼は空の高みに向けて飛び立ちました。
これで大好きな空に近づくことができる!
ところが、どこまでいっても空に近づくことはできません。

青い鳥は空のために歌を歌いました。
けれども、その歌は空には届きませんでした。
青い鳥は羽を抜いてペンにして想いを書き綴りました。
けれども、その文字は空には届きませんでした。
いたたまれなくなった彼は、空に向かって飛び立ちました。

***

どれぐらい飛んだことでしょう。
凍えるような寒さに、ふと見上げると
頭上には、きらきらと輝くオーロラが。
その光の帯はまるで夢のようでした。

きれいだなあ。
そして青い鳥は思いました。
空に届かなくてもいいや。
こうして、きれいな空を見守ることができれば。

星が降り注ぎ、月がなんども満ちたり欠けたりするあいだ
彼は空を見守り続けました。

そうしていつか、静かに、
青い鳥は疲れた羽を閉じて、深い眠りに落ちたのでした。
とてもしあわせそうな顔で。
青空を見上げていた、少年のときの顔つきで。

<了>

+++++++++++++++++++++

Twitterでは上記の物語を1行ごと投稿していったのですが、リアルタイムでコメントをいただいてものすごくうれしかったです。書いた直後に感想をいただけるなどということは、印刷の出版ではあり得ないことですよね。すごい時代になったものです。

えー、ここからは物語の書き手の立場から理屈っぽいことをメモするので、純粋に物語だけを楽しみたい方は読まないほうがよいでしょう(苦笑)。

構造主義の流れで、昔話を機能から構造化したのはウラジミール・プロップだったかと記憶しています。Wikipediaのウラジミール・プロップのページに「昔話の形態学 (Morphology of the Folktale)」として昔話の構造31の機能分類があったので引用します。

01.「留守もしくは閉じ込め」
02.「禁止」
03.「違反」
04.「捜索」
05.「密告」
06.「謀略」
07.「黙認」
08.「加害または欠如」
09.「調停」
10.「主人公の同意」
11.「主人公の出発」
12.「魔法の授与者に試される主人公(贈与者の第一機能)」
13.「主人公の反応」
14.「魔法の手段の提供・獲得」
15.「主人公の移動」
16.「主人公と敵対者の闘争もしくは難題」
17.「狙われる主人公」
18.「敵対者に対する勝利」
19.「発端の不幸または欠如の解消」
20.「主人公の帰還」
21.「追跡される主人公」
22.「主人公の救出」
23.「主人公が身分を隠して家に戻る」
24.「偽主人公の主張」
25.「主人公に難題が出される」
26.「難題の実行」
27.「主人公が再確認される」
28.「にせ主人公または敵対者の仮面がはがれる」
29.「主人公の新たな変身」
30.「敵対者の処罰」
31.「結婚(もしくは即位のみ)」

ぼくが書いたのは昔話ではありませんが、プロップの機能から考えてみると、次のような機能を組み合わせて作っているのではないかと思います。

「加害または欠如」 →石を投げる
「主人公の新たな変身」 →青い鳥になる
「主人公と敵対者の闘争もしくは難題」 →歌を作る、文章を書く
「主人公の出発」 →飛び立つ
「主人公の移動」 →オーロラの見える場所へ移動
「発端の不幸または欠如の解消」 →しあわせに眠る

物語を考える上では、このような機能や構造が重要ではないか、と考えています。いま本棚のどこにあるかわからずに探し出せないのですが、映画のシナリオ(脚本)作法の「ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101」 にも同様のことが書かれていました。

484590117Xハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101
ニール・D・ヒックス
フィルムアート社 2001-03

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長男くんが大好きなドラゴンクエストなどのRPGも基本的には伝承されてきた昔話などの機能を組み合わせて作られていることが多く、新しいようで実は古い。

そして実はこのフレームワークを認識することが、世のなかという「物語」を読み解く上では重要になってくるのではないでしょうか。もちろんフレームワークに固執すると、たとえば「起承転結」的な呪縛にとらわれて動きがとれなくなりますが、そこで意識的に「結」を別の機能に置き換えてみるとか、そんな発想がイノベーションを生むのではないか。

物語をデザイン(=設計)するという観点から、そんなことを考えてみました。

投稿者: birdwing 日時: 16:34 | | トラックバック (0)

2007年9月28日

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磨かなければ光るはずもなく。

かっこよさ、について考えています。どうすれば年齢を重ねつつ、かっこいいオトコになれるか。男性のかっこよさとは一体何なのか。

やはり、オトコとして生まれてきた以上、いくつになってもかっこいいオトコでありたいじゃないですか。ナルシズムで勘違いしたかっこよさではなく、雑誌のトレンドの真似をするのではなく、それぞれが独創性を持ってかっこよさを追求し、シニアのかっこいいおじさんが増えると世のなかに活力が生まれる気がする。

外見についてはある意味、仕方ない部分もありますが(苦笑)、個々人が何を考えているかということは顕著に顔に出るのではないでしょうか。

自分の顔に責任を持ちなさい、などということも言われるように、姑息なことをいつも考えていれば姑息な顔になるし、夢見がちであれば夢見がちな顔になる。ネガティブなことを考えていれば視線は俯きがちになるし、未来や理想に焦点をあてていればきりりと引き締まる。

どんなに外見を繕っても、内面の弱さは必ずどこかの側面で露出します。だから思考が大事であり、内面から磨かなければ、(ほんとうの)かっこいいオトコにはなれない。

たとえば、オレにはこんなにガールフレンドがいるんだぜ、というあからさまな表明はかっこ悪いと思うな、ぼくは。自慢したいのはわかるのだが、だから?という気がする。むしろ少数の女性をひそやかに、けれども深く愛するほうが、オトコとしては格段にかっこいいのではないか。モテなくてもいい。相手を想う気持ちが強かったりするほうが、かっこいい(もちろんストーカー的に、ではなくてね)。

えーと、ここで「少数」というのが、さりげなくポイントだったりします。一途に、ひとり、でなくてもいいわけですね(笑)。かっこいいオトコはきちんとした節度のもとに、複数の誰か(何か)を愛することができるのではないか。欲張りでいい。

もう少し視点を広げてみると、不特定多数の他者からの評価を期待するのではなく、オレに何ができるのか、ということを追求する姿勢かもしれません。愛されなくてもいい、愛することが大事である、という。他者に何かを求めるのではなく、自分にできることを重視する。

愛されることばかりを期待して、愛することのできないオトコはかっこわるいですね。精神的な乳離れができていない気がします。仕事に置き換えてみると、評価ばかりを期待して実力がともなわない人間でしょうか。あるいは表層的な社内政治には長けているが、理想や信念のないオトコかもしれません。会社の利益にぶらさがっていて貢献していない。テイクばかりしていて、ギブしない姿勢です。奪うばかりで与えることがない。

まず、

どれだけのものを与えることができるか、

ということが重要だと思います。その幅が、オトコの器量となる。

器量の幅は、お金かもしれないし、美味しい店を知っているという知識や経験かもしれない。あるいは、大切なひとのために割く時間かもしれないし、やさしい言葉をかけられることかもしれない。ナロウなぼくは、どれもすっからかんで、あるいは頑張ろうとしてもいっぱいいっぱいだったりします。強いて可能であるとすれば、「やさしい言葉をかけられる」という最後のことぐらいでしかないのですね、ぼくにできることは(苦笑)。

かっこいいオトコにはテツガクがある、と思います。かっこよさが思考や信念に裏づけされているから、不動のものとなっている。表出されている外見と内面に、ブレもなければズレもない。行動規範があり、なぜそのファッションなのか、なぜその音楽や映画を鑑賞するのか、なぜその場所へ訪れるのか、という理由がある。理屈ではなくて(苦笑)

そしてオトコはある時期までは、競争や過酷な環境のなかで生きるべきかもしれない。常に四面楚歌というか、周囲は敵ばかりの環境下に置かれると、顔も引き締まざるを得ません。閑散とした職場でぼけーっと新聞を読んでいるよりも、ハードな状況下でばりばり仕事をこなしたほうが、ストレスもあるでしょうが、顔つきが変わる。

死にものぐるいの恋を経験したほうが、オーラが出る。勝ち目のない敵に牙を剥いたり、勝算のないゲームにあえて自分を投じてみたり、リスキーな仕事に自ら手を挙げてみたり。そんな挑む姿勢がオトコを磨くのではないか。そりゃ、しんどいですが、最初から穏やかな老後のような人生を送ってどうする。

年取っちゃったから、という言い訳をしたときに、すべての努力を放棄しがちですよね。おじさんはその切り札を安易に使いたがる。

最新技術が苦手で本を読まないのも年取っちゃったから(活字がちいさくて読めない、という)、流行に疎いのも年取っちゃったから、お腹がぽこぽこ出てきたのも年取っちゃったから、恋愛なんて照れくさくて知るかーというのも年取っちゃったから、ファッションはどうでもいいと思うのも年取っちゃったから。あらゆるものにこの言い訳は適応できます。万能だ。

しかしながら磨かなければ光るはずもなく、あなたがそんなおじさんになっちゃったのは、他でもない、あなた自身のせいだ、と思うのです(と、自分に言ってみる)。そして、その万能な言い訳をとりあえず封印してみるだけでも、少し背筋が伸びて、かっこよくなれるのではないか。

そんなお手本となるかっこいいオトコがロバート・ハリスさんなのですが・・・うわああっ、彼の本から示唆を得たことについて書こうと思いつつ、また書けないっ(泣)どれだけ、ひっぱるのでしょーか。

後半に続く(のか?)。ハードな仕事と緊張によるハイテンションの連続で、ちょっとおかしくなっています。壊れかけていて困ったものですが、そんな不安定な状態もまた自分である、ということで、書きながら安定した文章へ、そして安定した自分へ、リアルな部分も含めてコンディションを整えていこうと思います。

投稿者: birdwing 日時: 07:25 | | トラックバック (0)

2007年9月25日

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知的渦巻き始動。

今年の夏はブログの引越しとMovable TypeおよびCSSをいじるのに忙しくて、いまひとついろいろなことをインプット/アウトプットできませんでした。

けれども最近、MT&CSS熱も少しばかり落ち着いてきたようです。まだまだやりたいことはあるのだけれども、ブロガーとしてはイレモノを作るよりも中身を作りたいと思うわけで、とりあえずは文章を書きながらMTやらCSSやら勉強していくことにします。

久し振りに趣味のDTMに没頭して、2週間で2曲ほど作ってみたのですが、作っているときには感性の働きをフル稼働させています。あまり余計なことは考えない。けれども、完成した曲を何度も聴きながら推敲・・・推敲は文章か・・・修正のためにチェックしているとき、今度は論理的にいろんなことを考えます。創作の過程に関することであったり、全然関係のないプチ哲学的な何かだったりするのですが、そこでブログのヒントを得たりもします。

ここ2週間、超多忙な仕事の合間をぬって曲作りに没頭しながらいろんなことを考えてきたのですが、そうしているうちに、つむじ風のように知的欲求が高まってまいりました。最初はちいさな渦巻きなのですが、回転していくうちにぐるぐるさまざまなものを巻き込んでいく感じ?うーむ、ぐるぐる。

そんなわけで本日。トウキョウの日差しはまだまだ暑いのですが、お腹がすいてしょーがない秋の昼下がり。ぺペロンチーノ+タマゴサンドというダブルな注文をぺろりと平らげて、今度は知的なハングリーさを解消しましょうと、ほんとうに久し振りに書店に立ち寄って「Think! Summer 2007 No.22」と「一橋ビジネスレビュー AUT.2007」を購入。おおっ、ほんとうに久し振りだ本屋さん。

4492830235Think! No.22(2007 SUMMER) (22)
東洋経済新報社 2007-07

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4492820310一橋ビジネスレビュー 55巻2号(2007年AUT.) (55)
一橋大学イノベーション研究センター
東洋経済新報社 2007-09

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どちらもビジネスにおけるデザインが特集テーマです。と思ったら、出版社はどちらも東洋経済新報社なのか。「Think!」に関しては季刊の夏号なので、ちょっと遅すぎですね。来月の22日には次の号が出るようで、次回の特集は「ビジネスプロフェッショナルの編集力」。こちらも面白そうです。

それにしても、これらのビジネス雑誌は値段が高い(泣)。「Think!」1800円、「一橋ビジネスレビュー」2000円だもんなあ。合わせて4000円弱ではないですか。音楽に投資すべきか迷うところではありますが、買っちゃったからしょうがない。もったいないので隅々まで読み尽くして、脳内の栄養にしようと思います(でも、次からは図書館で読むかも)。ついでに何回か、ブログも書けそう。

さらに、ビジネス系の雑誌2冊とともに購入したのは、ロバート・ハリスさんの「ワイルド・アット・ハート」でした。小遣いが(泣)。

4492042830ワイルド・アット・ハート 眠ってしまった冒険者たちへ
ロバート・ハリス
東洋経済新報社 2007-07-20

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「ワイルド・アット・ハート」といって思い出すのは、ニコラス・ケイジが出てくるデイヴィッド・リンチ監督の映画で、なんとなく「ラヴ・ミー・テンダー」が聴こえてきそうな感じなのですが、この本は、J-WAVEでDJをされているロバート・ハリスさんの人生指南という感じです(Wikipediaにもロバート・ハリスさんの解説があります)。

別に宿題として読み終えたい池谷裕二さんの「進化しすぎた脳」もあり(ああっ、ぜんぜん進まないんですけど。泣)、感想を書きたい購入したCDも数枚溜まっていて、しかも息子たちの運動会を控えていたり・・・などなど盛りだくさんな秋なのですが、渦巻きの力を借りてぶんぶん飛ばしていこうと思います。

ちょっとメモ的にこれから書いてみたいことを整理。書かないかもしれん。

■「Think!」から
・経営的な視座からのデザイン
・デザイン思考のリズム(奥出直人さん)
・Advocasy Marketing:徹底的に顧客側に立つ信頼ベースのマーケティング手法
・擦り合わせ型(インテグラル)と組み合わせ型(モジュラー)
・空間認識、時間認識、幽体離脱

■「一橋ビジネスレビュー」から
・デザイン・イノベーション
・アーキテクチャのイノベーション
・知財戦略とデザイン
・「Without thought」(深澤直人さん)
・「build to think」(奥出直人さん)

えーと、今日は書こうと思うだけで終了することにします(苦笑)。宣言することで自分を追い込んでみます。

投稿者: birdwing 日時: 23:01 | | トラックバック (0)

2007年9月24日

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すべての現象には。

土曜日から日曜日にかけて趣味のDTMで「Crator」という曲を作って、昨日ブログで公開しました。最初にこの曲に着手したときには、だめだこりゃ(泣)と思ったんですよね。なんとなくありきたりで、曲の展開もダサい。洗練されていませんでした。

いまでもそう感じる部分もありますが(苦笑)、最初に作ったプロトタイプより少しはよくなった気がします。創作の過程には行き止まりの混沌状態があって、けれどもそこで投げ出してしまうと完成しない。これは・・・と思った曲に対しては、我慢してしばらく取り組んでいると光がみえてくる(こともある)。仕事も同様のことがあるし、人間関係もそういうところがありますね。パートナーシップを長続きさせるコツかもしれません。嫌だと思っても、とりあえず現状維持してみること。

いろんなことを考えながら作っていくうちに、「Crator」には思い入れが強くなりました。自分以外のひとにどう聴こえるかわからないのですが、風変わりな印象があるのではないでしょうか。ふつーの曲ではない。音楽というよりもノイズのコラージュっぽい。どこがサビかもわからないし、唐突に終わってる(苦笑)。でも、ぼくにとっては、この曲は重要な1曲になりそうです(かなり)。

というのも、ぼくは商業的なミュージシャンではなく、趣味なので大勢に受ける曲を作らなくてもよいと思っていて、曲作りはあくまでもブログを書くことと並列に考えています。「日記のように曲を書く」というコンセプトで毎週のように曲を作っていた時期があるのですが、日々の生活で感じた音をコード化して曲にしているようなところもあり、アウトプットが文字(=ブログ)なのか音(=DTM)なのか、という違いでしかありません。

したがって、他人には意味不明な音のカタマリだったとしても、ぼくが聴くと、作成したときの気持ちを再現できる曲だったりもするわけです。

「Crator」には封印していた、とても個人的な気持ちを込めました。ただ長い時間を経て(年月を経たワインのように醸成もされていたため)、自分でも驚くほどまったく違う何かになっていましたが。

人間にはさまざまな二面性があります。穏やかな部分と攻撃的な部分を同時にもっていることもある。たとえばひとを好きになったとすると、やさしい気持ちと同時に相手をひとり占めしたいというか暴力的に奪いたい気持ちもあるのではないでしょうか。特に男性はそうかもしれないですね。

ふたつの、あるいはそれ以上の複雑な感情は、同時に存在しています。ふたつに限定した場合、表裏一体という感じでしょうか。週を前後して作った穏やかな「half moon」と攻撃的な「Crator」は同じルーツから表現が派生したものであって、ぼくのなかでは表裏一体な曲としてとらえています。

しかしながら、表現者として考えてみると、光の当たる場所は問題ないのですが、影の部分、ダークサイドというのはちょっと厄介です。ブログを書くにあたっても、ダークサイドを露出してしまうと思わぬことが起きたりもする(苦笑)。

かつてブログで非常に攻撃的なことを書いたことが(何度か。苦笑)あったのですが、「そういうことは書くべきではない」というお叱りをいただいたこともありました。指摘をいただくことは非常に有り難いのですが、なんとなく漠然とした違和感もあった。フィルターを通したきれいなものだけを書いているのは、何か嘘っぽくないか、と。人間はきれいな部分ばかりじゃないでしょう、と。

とはいえ、ダークサイドを表現することは、とてもリスキーです。攻撃の毒で自分も傷付けることにもなり、一般に公開しているブログであれば、当然のことながら血に飢えたハイエナのようなコメンテーターを集めることにもなる。要注意です。よほど精神的にタフでなければ書かないほうがいい。ダメージの後遺症はかなり後をひくので、リアルライフにも影響を及ぼします。心して書かないと、ネットの闇に堕ちてしまう。あるいは二度とブログなんか書かない、と筆を折ってしまうことになる。

かつてぼくは失敗したら何度でもリセットすればいいじゃないの?と安易に考えていた時期があるのですが、いまあらためて思うのは

人生はリセットできない

ということです。ブログは消去できたとしても、書きながら感じてきた「想い」を消去することはできない。暗い気持ちであったとしても書くことによって、一種「実体化」されます。だから残る。

言葉化しなければ意識から忘却されたはずのものも、言葉化することによって脳の編成そのものが変わるような気がします。脳の可塑性というんでしたっけ。一度、言葉化して世界の見え方を変えてしまうと、その見え方ですべてを見るようになる。だから考えてしまったことは、もう頭から消去できない。考えなかった前に戻ることはできない。

けれども、ここであらためてまたぼくが考えるのは

リセットできないからこそ意味がある

ということです。ぱぁっと目の前に光が広がるような感動も、どよーんと闇のなかに突き落とされたような失望も、意味があるからこそ存在している。おまえに会わなきゃよかったよ、という存在も、あなたのような素晴らしいひとに出会えてよかった、という存在も、同等に意味がある。考えてしまったことは消去できないからこそ意味がある。

けれども、そこでぼくがさらに考えを深めようとしていることは

失望は次の幸運のためにあるわけではない

というようなことです。不幸な出会いがあればその後に幸福な出会いがあるのではない。このことを「未完成という完成形」というテーマとして現在も考え続けていて、まとまらない思考なのだけれど、人間の脳って補う力があるじゃないですか。結ばれていない図形から三角形を見出す「カニッツアの三角形」についてエントリーで書いたこともあるのだけれど、起・承・転・・・ときたら、物語の「結」を補ってしまう。でも、実は、「起承転」という完成形もあるのではないか。

つまり、あらゆるものがつながっているわけではない。そのつながりは幻想や妄想だったりすることもあるわけです。つなげることが現実を歪めることもある。だから単体としてある「いま」という現象が完成形であると思わないと、いつまでも不完全なわけです。

もちろん不完全であることが原動力となって何かを生み出すこともあるけれども、ひとつひとつの「いま」が完成形であることを認識すると、少し気持ちも楽になるのではないでしょうか。わかりやすいので恋愛に喩えてみると、片思いは両思いになるための途上ではなく片思いという完成形である、というようなことです。うーむ、この場合は認識しても、楽にならないか(苦笑)。

以前の自分と比較するから「こんなに変わっちゃって」などと悲嘆することもあるかもしれませんが、変わっちゃったいまの自分が完成形だと考えること。そして完成にこだわらずに、どんどん変わってしまえーと思うこと。刹那(瞬間)ごとの自分をそれでよしとすれば、激怒した自分も、みっともない自分も許せます。というのは、別の完成形もたくさんあるのだから。

すべての現象には、その現象の意味がある。ただ、辛い経験は未来のよいことのためにあるわけではなく、単体の辛い経験として意味があるのではないか。失敗は成功のためにあるわけではなくて、失敗は失敗だ、と。ただ、その無数の点をつなぐとみえない何かが星座のように浮かんできて、それが自分かもしれません。さらに点の延長線上に、みえないけれども存在するはずの自分もいる。

あるがままに日常を生きるためには、いまある世界をそのまま受け止めるフラットな感覚が必要なのかな、などと考えました。成功は成功として受け止め、失敗は失敗として受け止める。かなしみはかなしみとして受け止め、よろこびはよろこびとして受け止める。そんなプレーンな認識こそが、難しいのかもしれませんが。

禅問答みたいですけどね。そんなことを考え続けています。

投稿者: birdwing 日時: 18:21 | | トラックバック (0)