08.private visionカテゴリーに投稿されたすべての記事です。

2007年8月 4日

a000004

情という情報の記号化、構造化。

アタマが悪いので、どうすりゃアタマがよくなるんだ、ということに悩みつづけてきた(そしていまも悩みつづけつつある)のですが、いまさらながらですが、アタマがよくなるコツをひとつ掴んだ気がしています。どういうことかというと、

構造化すること

ではないかと思っています。ちょっと難しい言葉ですね。これだけではどういうことなのかわかりにくいかもしれません。あるいは当たり前だというべきか。

そこで、もう少し補足してみます。池谷裕二さんやアフォーダンス理論の佐々木正人さんの本を読んで重要だと思ったのは、人間はパターンによって世界を認識している、ということでした。以前にも書いたのですが、3つの点があるとその3つを結んで、そこにはない三角形を見出すような意識で、いちど三角形を結んでしまうと、次からはあらゆる3つの点が三角形にみえてしまう。

たとえばメールなどに使う顔文字。これは複雑な人間の感情をテキストで伝えるにあたって、パターン化したよい例でしょう。

(≧∇≦)とあれば、笑っている顔だな、と思う。ぼくはあまり顔文字を使わないひとなのですが、女性が使っているのをみるのは結構好きだったりします。かわいいですもんね。勝手なことですが、男性が使っているのをみると同性だからかもしれないのだけれども、気持ちわりい、と思ってしまう(苦笑)。でも、女性なら許せる。

この象徴的な顔文字では、右目の目尻に三本皺が寄っている、とか、ちょっと八重歯が唇からのぞいた、とか、そんなリアルな情報は削ぎ落とされていて、目と口の記号だけで笑いという感情を表現しています。顔文字の情報に個別の感情の情報を付加しようとすると、ものすごい情報量になってしまう。ところが記号の組み合わせから成る顔文字であれば、情報量は少なくて、かつ文章を補足する「情」としての情報を付加できる。

面白いことに、英文にも顔文字はあります。SmileyやEmoticons(Emotional icons:感情を表すアイコンの略)と呼ばれているらしい。

ただ、日本の文化と違うのは、90度左に傾けた顔になっていて、どちらかといえば目よりも口元を重視したものが多いということでしょうか。したがって、日本の顔文字は英語圏のひとには理解できないし、逆にあまり英文メールを使う経験のない日本人には英語圏の顔文字は理解できないものでしょう。文脈(コンテキスト)の違いが文化の違いになって、理解できない壁を作っている。

検索してみたところ、All Aboutの「メール英会話ヒント集[顔文字編]Vol.1 世界の"顔文字"大全集! 」に英文の顔文字が掲載されていました。このページを参考にグローバルな喜怒哀楽を表現してみると、次のような感じ。

喜 :-)
怒 >:-<
哀 :-<
楽 8->

うーむ。あんまり感情表現が豊かではないような気がする(苦笑)。

漢字という象形文字を使う文化があるせいか、ビジュアル的な記号表現は日本のほうが優れている気がします。日本のほうが顔文字による感情表現は豊かであるし、バリエーションも多い。あるいは、それだけ日本という閉鎖された国のなかでは、コミュニケーションにおいて他人の感情を損ねない配慮が重視されるからかもしれません。

考えてみると顔文字は、複雑な感情をシンプルに情報化する技術もしくは文化であり、この間引きした構造化のセンスによってアタマのよいひと、アタマの悪いひとが決まってくるのかもしれません。

糸井重里さんが池谷裕二さんとの対談である「海馬」という本で述べていたことですが、アタマのよいひとというのは、自分のことを理解してくれる、あるいは自分をよい気持ちにさせてくれるひとである、という観点がありました。ミもフタもない気がしつつ、そりゃそうだよなと思う。ある意味、顔文字を気持ちよく使うことができるひとは、感情という厄介な情報を右脳的にうまく処理できるアタマのよいひとかもしれない。

4255001545海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)
池谷 裕二
朝日出版社 2002-07-10

by G-Tools

顔文字という記号を中心に、視覚的・空間的な構造について考察しているのですが、時間的な構造もあると思います。構造化という観点については、CSSを学んでいるときにも重要性を感じたことです。継続してもう少し思考を深めてみたいので、このことについてはいずれまた。

投稿者: birdwing 日時: 23:26 | | トラックバック (0)

2007年8月 2日

a000002

トライアル、トライアル?

若い頃には時間はいくらでもあるような気がして、ずいぶんと無駄な時間も過ごしてきました。夏休みの宿題は追い込まれないとやらない少年でしたが、人生という長い夏休みも追い込まれないと本気にならないのかもしれません。なんとかなるさ、では、どうにもならないこともあります。けれども、なんとかなってしまうこともある。どっちでしょう?わかりません(苦笑)。

21世紀のとばぐち、ブログによりネットが大きく変化した時期に、ぼくらは生きて毎日苦労しながらブログを綴っています。この時代に、人体実験としてネットを使ってさまざまなことをやってみる、ということを宣言した著名なひとがいました。彼のシリコンバレー仕込みのポジティブな考えを信奉するひとも多かったようです。しかしながら、ぼくは、どうかな?とうっすらとした疑問も感じていました。肯定的な全体の空気のなかで強く発言することはできなかったのだけれど。

確かに世界という幅広い視野を持っていれば、いまここで失敗したとしても、また別の場所でやり直せるかもしれません。けれども、日本というアジアの片隅で生きているぼくらは、それほどさばけているわけではない。狭い閉鎖的な社会では、失敗した人間は検索されてみつけられてしまう。そして、やり直せない十字架を背負い続けなければならないこともある。

インターネットの世界のなかにも、とても狭い地域(リージョン:region)があるような気がしています。物理的な地域性というよりも、心の地域性かもしれません。たとえば、あるアーティストを中心に、それに類したアーティストを好きなひとたちが集まる地域、というものがネットには確かにあります。その分野でしか通じない言語が、みえない壁を外部に向けて張り巡らせているものです。プロバイダやサーバーが違う、という物理的なものよりも、心の地域性のほうがぼくらにとっては影響大といえます。

ネットは開放的な理想郷ではない。閉ざされた世界であって、すべてが可能になる夢のような場所ではない。という当たり前のことを、8月の初旬、暑くて眠れない夜にCSSやらMovableTypeやらと格闘して迎えた明け方の風景に呟いています。ペシミスティックな感じもするけれども、そんなことはありません。まずは、根拠のない楽観主義よりも、地に足のついた見解の方が大事ではないか、と思うのです。

この狭いバーチャルな世界のなかでは、ハードウェアをリセットするようにやり直せないのも事実です。考えてみると、リアルな世界が一回性のものだから、これもまた当然といえば当然のことといえます。ぼくらは人生を巻き戻せない。“巻き戻す”という感覚自体が20世紀のビデオ技術の環境下の言葉であって、テープによる磁気媒体がなくなりつつある現在、巻き戻す感覚すらなくなりそうなのだけれども。

一回性の人生をいかに悔いなく生きることができるのか。

挑戦することは大事だけれど、その挑戦は本気なのか。トライアル(試み)だと思っているとしたら、では一体ホンバンはいつなのか、という突っ込みをしてみたい。一生、トライアルのまま、実験のフラスコのなかで生きるのか。覚悟は大事です。覚悟のない人生は、どこか安易な方角へ逃げを打ってしまう。

現在、とにかくひとつひとつ学習しながら立ち上げたブログですが、βバージョンに甘えていてはいけない、と思いました。βは完成のベクトルに向けた途上であって、一生βで過ごすのは大人になれない子供のようなものではないか、と厳しく自分に問うことにします。

というわけで挑戦する覚悟を持ちながら、ぼくは常にいまがホンバンだと思っていたい。だから、テストだといっても気が抜けないですね。

そんな真剣さを持ちながら、このブログを書いていくつもりです。それにしてもだ。うーむ、暑い。空が白みはじめました。

技術よりもコミュニティの力よりも、この暑い2007年の夏にとりあえずぼくは負けそうです(泣)。体力的にしんどくて、ついつい弱音が出てくる。とはいえ、負けたとしても諦めないつもりですが。負けを認めなければまだ負けていない、という(勝手な)考え方もありそうです。

投稿者: birdwing 日時: 04:56 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月 1日

a000001

ここから、どこかへ。

3歳頃の自分の写真を貼り付けた古いアルバムをぼくは持っています。○十年前のぼくのスナップを集めた、タイムカプセルのようなアルバムです。どこいったかな? 部屋のなかの手の届かないところへしまい込んでしまったようで、手元にはみつからないのですが。

アルバムのなかの一枚の写真が印象に残っているのですが、その写真のなかで、ちいさな子供用の椅子を机にして、ちょこんと座りながら眉間に皺を寄せて、ぼくは何かを書いていました。

何を書いていたのでしょう。手に握っているのは緑色のトンボ製の鉛筆だったような気がするのですが、なんというか縮小版の芥川龍之介というか太宰治というか、そんな人生を憂うような顔で、3歳のぼくは何かを一生懸命書いている。3歳児の頭のなかには、そんな高尚な悩みなんてないはずなのに。

写真のなかのぼくが夢中になっていたのは絵かもしれないのですが、幼い頃から、ぼくは何かを書くことが好きな子供でした。高校教師だった父が持ち帰ったプリントのヤレ紙(失敗した紙)の裏側を使って、いつも何かを書いていた記憶があります。

そんな父はといえば、写真を撮ったりドライブのために頻繁にクルマを買い替えたり、いまにして思うとかなりの多趣味でした。その写真はたぶん大事にしていた一眼レフのカメラで撮影されたのでしょう。ちいさなぼくはギブスを嵌めていて(足が悪かった)、気むずかしい顔をしたぼくの前には、ブリキ製の玩具のロボットが置かれていました。意図的に玩具を置いたその構図はなかなかのもので、はじめての子供を前にした初々しい父のよろこびが感じられて、なんだかほほえましい。

そういえば、ぼくも息子(次男。まだ1歳頃)のお座りする姿を写真に撮ったことがありました。彼の後ろ姿がくまのプーさんに似ていて、ちょうど着ていた黄色い服もそっくりで、人形と並べて写真を撮ったことがあったっけ。かわいいというよりも、でっかい頭だなあ、という感動の方が強かったのですが(苦笑)。これです。

poo.JPG


うーむ、やっぱり頭でっかい(笑)。

3つ子の魂百までも、と言いますが、無意識だったとしても、幼い頃に自分が好きだったものは永遠に好きでありつづけるのかもしれないですね。自分探し、ということがよく言われますが、探さなくても自分はここにいるもので、気付いても気付かなくても、ここにいる自分こそが唯一無二の自分なのかもしれません。

というわけで、ぼくは3歳の頃の写真にあったように、何かを書きつづけるのではないか、と思っています。いまは亡き父が何気なく撮影した瞬間こそが、その後のぼくの運命を決めるシーンであって、鉛筆をキーボードに変えたとしても、ぼくは永遠に書きつづける。

書きつづけて、どこへ行くのでしょう。わかりません。でも、わかってしまったら、つまらないような気もしています。目的地がわからないまま、今日もぼくは日付変更線が変わるあたり、家族が寝静まった11時頃から日付変更線をまたいで次の日の1時頃まで、あれこれ思ったことを書きつづける。

かつては文章で世界を変えてやる、というような意気込みもあったのですが、最近ではそんな熱い気持ちもすっかりなくなっています。他人を変えられるほどの文章力なんて、おこがましい。けれどもぼくの書く文章が誰かのこころにわずかなあかりをぽっと灯したり、くたびれた毎日に少しだけ光を見出せるようなことがあれば、それがいちばんしあわせだと思っています。

アクセス数を上げようだとか、書いたものを出版しようだとか、そんな大きな目標はいまのところはありません。けれどもぼくの文章を読んでいただける僅かなひとのために、結晶のような文章を書きつづけたいと考えています。

ここから、どこかへ。もう何度目かのリスタートになりますが(苦笑)、まずはおそるおそる、けれども姿勢を正して胸を張って、第一歩を踏み出そうと思います。

Lifestyle Innovation。思考の翼をひろげて、より高みへと飛翔するために、ここから書き始めます。

投稿者: birdwing 日時: 00:10 | | トラックバック (0)

2007年7月 9日

a000232

理解のためのパースペクティブ。

趣味のDTMでは念願のボーカル入り曲「AME−FURU」を七夕の日に公開しました。

完成までのエピソードを覚えているうちに書いておこうと思ったのですが、かなりのハイテンションになってしまった。もう少し落ち着いて書こう、整理をしようと思って、翌日(10日)の早朝に修正をかけていたのですが、家族の具合が悪くなり慌しさのなかで間違えてエントリーを消去(泣)。

さいわいなことに下書きが残っていたので、気持ちをクールダウンさせてリライトしながら復活させることにします。

脳は疲れない?

AME−FURUは、ストレージサービス経由でボーカルトラックをSheepさんからいただいたのが日曜日(1日)の夜で、そこからわずか1週間で完成させたことになります。いただいたボーカルに合わせてアレンジも修正したので、仕事を終えた深夜の帰宅後、PCに向かうテンションには凄いものがありました。自分で言うのも何ですが、なんというか、めらめら炎が出てる感じ?

「アップするのは土曜日でなくても日曜日でもいいではないですか(笑) とにかくあまり無理をしてほしくないなぁというのが本心です。体を壊したら何にもならないんですよ?」とSheepさんからあたたかい(半分あきれていた?)メッセージもいただいていたのですが、止まんなかったですね、もはや。

しかしながら「ボーカルに若干フラット気味なところがあるので音声ファイルを微調整しています・・・」というようなメッセージをSheepさんにお送りしたところ、完璧なものを作りたいから取りなおします、妥協したくないんです、という返信を即効でいただき、急患の対応(Sheepさんは看護婦さん)で超多忙だった日に録音し直して送っていただきました。妥協を許さないこだわりに、プロのプライドを感じました。

先週1週間のハイテンションな入魂作業によって、ちょっとぼくも壊れ気味ですが(苦笑)、「海馬」という本で池谷裕二さんが書かれていたことによると「脳は疲れない」そうです。

ほんとうはしばらくブログをお休みにしようと思っていたのですが、感覚が研ぎ澄まされている雰囲気もあり、若干セーブも必要なのだけれど、歌詞を作りながら考えたことを書き留めておこうと思います。自分の作った曲に対して、いろいろと分析したり過剰に理屈っぽく解説するのが悪い癖なのですけどね。

ヒットを生み出す構造

ところで、日本でヒットするアイドルの曲は男性の作詞家やプロデューサーが絡んでいることが多いですよね。秋元康さんにしても、つんく♂さんにしても男性が女性の歌詞を作る。もちろん吉元由美さんのような作詞家もいらっしゃいますが、男性が多い。これがなぜか、ということがよくわかりました。つまり、

女性に言ってほしい言葉を、男性がクリエイトし、女性に歌わせているから

ということでしょう。だから、ヒットする。当たり前といえば当たり前ですが、ここで重要なのは男性思考×女性思考という、タスキがけのようなパースペクティブ(視点、見方)が生まれていることです。男性の気持ちを女性のなかに投影して歌わせる、というか。

この複雑さがあるから、歌詞の世界も広がります。女性が女性の気持ちを、あるいは男性が男性の気持ちをそのままストレートに歌った曲は同性には共感を得られるかもしれませんが、そこまでのような気がします。逆に女性が男性の気持ちを汲んで歌ったり、男性が女性の気持ちを汲んで歌うと、そこに複雑さと広がりが生まれる。

仮想的な他者を、歌詞の世界のなかに存在させることかもしれませんが、その入れ子構造というか、他者内自己のような設定が心を打つシーズ(種)になるのかもしれません。

そもそもAME−FURUという曲を作るにあたっても、ぼくはクリエイターとしてやりたい主張をSheepさんに押し付けることもできた。けれども、そうではなくて、もしSheepさんが歌うのであればこういう歌だろう、ということを想定して作りました。だからこの曲はSheepさんが歌わなければ歌うひとは他には有り得なかったし(ボツです)、最初にお送りしたとき(ブログでデモを発表する以前)に、その意図を汲んでいただいたことが嬉しかったです。

ポリフォニック/同時並列的な女性脳

話は変わりますが、このブログのなかでも何度か取り上げましたが、記憶に関するテーマは非常に興味深いものがあります。最近、アルツハイマーをテーマにした小説や映画も多くなりました。また、重松清さんの小説「その日のまえに」では、病気で亡くなった妻が残した遺書で、妻が自分で伝えたい気持ちではなく受け取る夫の気持ちを汲んで残した「忘れること」に関する一文が非常に感動的でした。

さすがに重松清さんのような言葉を紡ぐことはできませんが、ぼくがAME-FRUの歌詞で記憶に関するテーマをワンフレーズに込めた部分があります。それは「あなたを忘れられなくて」です。

ここだけ抽出すると、何の変哲もないありふれた言葉です。作っていても、ちょっとベタかな、と思いました。しかしながら、実際にSheepさんに歌ってもらうと透明感に溢れる印象になった。文字にするとありがちであったとしても、声質や音程などが加わるとまったく別のものになりますね。だから詩の朗読なども、テキストとはまったく別の空間を創造する表現方法といえるかもしれません。

たいてい、あなたであろうが過去であろうが忘れちゃうものじゃないですか。屈折した見解かもしれませんが、人間の記憶力に対する諦観というか、そんな思い込みがありました。ただし、だからこそ「忘れない」という言葉が重みを持つのかもしれません。

黒川伊保子さんの本を読んで関心があったのは、女性脳はむしろ永遠に記憶を維持することができ、忘れるのではなく「複数の記憶を同時並列的に処理できる。つまり覚えているんだけどワン・オブ・ゼムになる」ことのような気がします。同時並列的に思考が成立するので、彼のことを考えつつ、元彼がどうしているだろうなんて考えられるのが女性脳であって、ポリフォニックな思考なわけです。思考の軸がひとつではないので、思考が安定する。

逆に男性脳はどうかというと、モノフォニックな思考なので、同時並列的に存在することが難しい。忘れられないということは、ほんとうに現在も想いつづけているということで、忘れない限り新しい恋愛もできないのではないか(ぼくだけか?そういう認識は)。複数の女性と付き合うことがあったとしても、Aさんと会っているときにBさんのことは考えられないことがふつうで、考えようとするとぼーっとしちゃうので、Aさんに「いま別のオンナのこと考えていたでしょ(怒)」と見破られてしまう。確かに、たいていそういうときには別のオンナのことを考えている。男は馬鹿だし、わかりやすいですね。

さて、少し前になりますが、コンビ二から持ち帰ったのが、東京電力のフリーペーパー「GraphTEPCO」no.641でした。特集が「男の脳 女の脳」で、黒川伊保子さんも登場されていました。黒川さんの言葉を引用します。

「例えば、仕事をしている最中に雨が降ってきたら、女性は子供に傘を持たせなかったことを心配し、今日履いてきたパンプスが高級品だったことを思い出して悔やむ、といった具合に一瞬のうちにいろいろなことを考えます。ところが同じ状況で、男性のなかで『けさ、シーツを干していたな。雨に降られちゃってかわいそうに』なんて妻を思いやる人はあまりいません。だから女性は仕事の合間のちょっとした時間に、夫や子供に電話をしたりメールを打つのも苦にならない。けれども、そうはいかないのが男性脳なんです」

女性脳は脳梁という、右脳と左脳をつなぐ部分が太いため情報の処理量が多いそうです。だから同時並列処理ができる。脳のなかみのことなので、いまから脳梁を太くするようなことはできないでしょう(できるのかな? 池谷裕二さんの本によると、海馬は大きくすることができるようでした)。ただし、脳の構造が違うのだからそんなの無理だと投げてしまうのではなく、お互いを理解しようとする姿勢は必要かもしれません。

パースペクティブを物語化する

「GraphTEPCO」の特集はわずか8ページなのですが、要点がうまくまとまっていて参考になりました。この小冊子を読みながら、まず女性らしい小場面とは何か、そのケーススタディ(事例)を考えて、AME-FURUの歌詞に落とし込んでいきました。考えているときには文章化していたわけではないのですが、ぼくが思いついたストーリーあるいはシナリオは次のような場面でした。


■CaseStudy-1:


雨降りの午後、待ち合わせた彼女がなぜか不機嫌な顔をしている。楽しませようとするのだけれど、のってきてくれない。どうしたの?と理由を聞くと彼女がひとこと。「傘が重いのよ」「あ、ごめん。僕の傘に入れば?それ、持ってあげる」「そうじゃなくて、傘が重いってことをわかってほしかったの」余計に怒らせた。
僕はどうすれば・・・。途方に暮れるばかり。
→作った歌詞


"あめ ふる そら きらい"
"かさ さす てが おもい"


■CaseStudy-2:
会社で仕事をしていると、突然に携帯電話が鳴った。彼女だ。「もしもし?あたし。いますぐちょっと来れない」「来れないって、いま会社なんだけど」「なんなの。わたしと仕事とどっちが大事なの」「そんなこと急に言われても」「いいわよ、来れなくても。でも来れない理由を聞かせて」「理由か。理由、理由、と」仕事なんだけど。

僕はどうすれば・・・。途方に暮れるばかり。


→作った歌詞
"あめ ふる ごご ひとり"
"いま すぐ きて ほしい"

主人公は途方に暮れるばかりですね。困ったものです。

CaseStudy-1のポイントは、女性は「共感」を重視する、ということでしょうか。もちろん解決策も大事なのだけれど、どちらかというと解決策よりも話を聞いてくれた、ということが重要である場合が多い。CaseStudy-2は、「言語能力」といったところ。こちらも結果を出すのではなく、理由についてあれこれ考えあうコミュニケーションの過程が大事なのかもしれません。男性脳としては、早急に結果と解決策を提示したがるのですが、女性脳はそうではないようです。

たぶん、このCaseStudyは女性にはわからないかもしれません(笑)。というのは、無意識のうちにやっていることだと思うんですよね。ただ、似たようなケースで女性に困った経験を持つ男性であれば、あーわかる・・・(苦笑)ではないでしょうか。

その物語のフレームを組み立てた上で、一度ばらして、歌詞化する。そしてSheepさんに歌っていただく。結果として「男性の共感を女性の歌にマイクロカプセルのように埋め込む。歌を聴いた男性の脳内に共感を生む」ことができるのではないか、という試みです。

もちろんAME-FURUでこの試みがうまくいったとは思いません。しかし、たとえば広告の企画におけるコンセプトとメッセージの展開のようなものを趣味の創作の世界に応用すると、こんなアプローチになるのではないかと思いました。趣味のDTMと言ってしまえばおしまいですが、いわば表現のプロトタイプとして、あらゆる表現に使えるフレームワークを内在しているようにも思えます。

ちなみに、上記の事例は正確な自分の経験ではありませんが、CaseStudy-2に関していえば、学生時代、卒論提出の前夜に彼女(現在の奥さん)から「わたしと卒論とどっちが大事なの?」という電話をいただき、3時間ほど日付変更線をまたいで電話で説得したすばらしい思い出があります。電話を切った後、空白の3時間を取り戻すために徹夜かつフルスピードで卒論を書いたことは言うまでもありません。

本来であれば自分の経験に勝るリアリティはないわけで、仕事において女性マーケットにおける市場を考える、というようなときに、このような物語=シナリオ思考が重要になるとも考えます。

とはいえ、恋愛について語るのは、ものすごく苦手です。何度も書き直しつつ言葉を選んでいます。ロボットとか技術について書いていたほうが楽ですね。その苦手な部分に挑戦するときに自分の守備範囲も広がるわけですが。

他者を理解するための方法

英語を学ぶことにしても、企業で顧客満足度を高めることにしても、そして恋愛にしても(と併記すると、非常に違和感があるのだけれど)、結局のところ「他者を理解する」試みではないかと思います。他者には、自分とまったく違った文化のなかで生きていて、考え方や文脈がある。他者を完全に支配することはできないし、伝えたいことがうまく伝わらないギャップが存在する。うまくいかないこと自体が普通です。理解されることのほうが特別かもしれない。

究極のことを言ってしまえば、超能力者でテレパシーを使えるのではなければ、他者の考えていることなんてわかりません。わからないけれども、どこまで歩み寄ることができるのか。他国語を理解しようとするとき、企業が消費者の求めているものを探ろうとするとき、そして恋人と喧嘩してお互いの考えていることをぶちまけているとき、それらはすべて他者を理解するためのささやかな一歩なのかもしれません。

他者を理解するための方法として、自分の視点(Point of View)は大事だけれども、そのPointをいくつも組み合わせて、場合によってはあちら側(=他者)から想像力を働かせて見ることによって生まれるパースペクティブも大切です。そして、そのパースペクティブをよりリアルに感じ取るためには、静的な風景ではなくて動きのある物語に変えることが重要であるとも考えます。

仕事ばっかりやっていても仕事はできるようにはならなくて、ときにはとんでもない失敗をしたり失恋したりとか、馬鹿なことに没頭してみるとか、外国に旅に出るとか、そんな経験をすることで新たな「パースペクティブ+物語」を獲得できそうな気もしています。ネットにしがみついているだけではダメですかね。そうだろうなあ、たぶん。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年6月23日

a000216

ハカイオー。

本格的に東京は夏ですね。暑い1日でした。このまま梅雨はワープして季節は夏突入という感じでしょうか。とはいえ、気持ちがすかっと晴れていい気分です。うーんと外で伸びをしたら、昼間の空に半月がみえた。肉眼では結構でかくみえたのですが、デジカメで写真を撮ったら月なのか雲なのかわからない。残念。

久し振りに子供の話を。うちにはふたりの息子がいるのですが、6つ違いとはいえ、とても仲のよい兄弟です。もちろん兄弟なので似ているところもあるのだけれど、それぞれ個性的で面白い。長男くんは慎重派+左脳タイプ+データ重視という感じなのですが、次男くんは逆にワイルド派+右脳タイプ+感性重視です。

この次男くん(4歳)は喘息持ちにもかかわらず、とにかく落ち着きがないというか、元気というか。

ただ赤ん坊の頃からその傾向はあり、幼稚園に入る前には、公園に連れて行くと地面に置くやいなや(置くという表現もどうかと思いますが。苦笑)ダッシュして30分ぐらいは休憩なしに走っているような子供でした。滑り台とか、ブランコとかで遊ばないの?と訊いても、ぶんぶん首を振ってただひたすら走っている。大丈夫か?こいつ、と思ったものです。

いっしょに話をしているときには、うれしくなるとぴょんぴょん飛び上がる。もっとうれしくなると部屋のなかでダッシュをはじめる。ADHD(多動性症候群)ではないか、とよくわからずに不安になったりもするのですが、子供ってそういうもんだろ、と思うことにしています。

さらに彼は、走るたびに何かにぶつかって破壊している(苦笑)。いちばん困るのは、自分を破壊して(自滅か?)泣いてしまうことですが、とにかく彼のことは「ハカイオー」と呼びたい。

彼の破壊した数々のなかからちょっと紹介してみると、とあるロボットの食玩があったのですが、箱を開いたときに「みせてみせて!」とやってきたので貸してあげると、5秒で腕を折ってくれました(泣)。あ”−っと叫んだら逃げていったのですが、大胆なわりに小心なようで、ちょっと凹んだようでした。

これが彼が破壊したロボットです。

さらに、先日は長男くんが充電していたニンテンドーDSを踏んでしまったらしく、これも画面が自由に動くように破壊(苦笑)。DSくん頑張れ、という家族の声援に応えて、酷い目にあってもしばらくは電源が入るようになっていたようですが、本日ついに昇天されたようです。

これが彼が破壊したDSです。

破壊されたDSは修理を断念し、本日あらためて新しいDS(ホワイト)購入となりました。大手家電量販手では売り切れだったのですが、家の近くのなんでもない店に新品が入荷していたので。

そんな彼だけに、次は何を破壊するのか、とびくびくしています。最近彼のお気に入りはアコギで、ぼくが練習や録音をしていると、アコギのところにやってきて「ぴっちゅは?」と訊きます(ぴっちゅはピック。ギターの弦を弾くときに使う逆三角形のアレです。彼はいまだにクがうまく発音できません。なのでクマは“ちゅま”になる)。どきどきしながら“ぴっちゅ”を貸すと、じゃかじゃか弾いて、ときに、がこん!とかスタンドから落として繊細な父を青くさせてくれます。やれやれ。

彼のパワーを外で発散させてあげればいいのかもしれない、ということで今日は夕方になってからハカイオーを連れて公園へ。水を得たサカナのようなハカイオーは、ものすごい勢いで走り回り、滑り台やブランコなどで遊び回り、追いかけるぼくのほうが参った。

これがあらゆるものを破壊しつつ、壊れることを知らないハカイオー(逃げていく後姿)です。

とはいえ、彼と手をつないでの帰り道、見上げると半月とともに手でちぎった和紙のような雲が輝いてきれいでした。どういうわけか最近、月が嫌いになってしまった彼は、なかなか夜の月を見ようとしないのですが、昼間の月なら大丈夫らしい。

ここ1ヶ月ばかり少し肉体的にも精神的にも疲れ気味でしたが、ハカイオーから元気をもらいつつ、パパであるぼくが壊れないように気をつけなければ(苦笑)。そんなわけでハカイオーと眺めた青空で締めることにしましょう。

ぼくの近所では、電線や建物などの障害がなく、青空をきれいに写すことができるポイントを探すのが難しい。明日も晴れでしょうか。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | コメント (6) | トラックバック (0)