08.private visionカテゴリーに投稿されたすべての記事です。

2010年12月26日

a001278

「どれだけ」ではなく「何が」。電子書籍考。

――――――――――――――――――――・・・
▼Perspective-01:
「どれだけ」ではなく「何が」。ニーズから捉える電子書籍考。

――――――――――――――――――――・・・


どれだけの書籍数を確保できるか、ということが電子書籍のサービス開始時には重視されるようだ。10万冊を用意すると宣言しておきながら蓋を開けてみると1万冊しかなかった、ということが指摘されたりもする。

KDDIが「ビブリオ・リーフSP02」で電子端末の販売開始と同時に配信サービスもスタートさせた。開始時は2万点、2011年度には10万点を目指すという。スタート時の配本数は現実的ではある。しかし、目標値に関しては、出版社をはじめとする調整が難航するであろうということは予想に難くない。

なぜ最初から完全な品揃えを目指そうとするのだろうか。私見だが、新しいデバイスかつ流通形態である電子書籍端末で、最初から完璧に流通している書籍を網羅しなくてもよいのではないか、と考える。

「品揃えがない」というのはリアル店舗の発想であり、名著と呼ばれる文学書やベストセラーがラインアップされていなくても、電子書籍ならではの読み応えのある本があればそれでいいのではないか。

司馬遼太郎の本が読みたければ書店で「紙の」本を手に入れればよい。あらゆる文学書や実用書を電子化する必要はない。どうしても電子化されたものが欲しいのであれば、「自炊(自分で本をばらしてスキャンしてPDFなどにすること)」すればいい、ともいえる。

一方で、どうしても紙で読んでおきたい本もある。電子ペーパーで画面が擬似的に紙に近付いても、電子書籍ではどうも居心地が悪いという本。電子と紙の過渡期の時代だからこそいえることかもしれないが、漱石などの近代文学は、作品=本の重さを感じながら、フリックではなく指先で紙の手触りを楽しみながら読みたい。装丁が美しい本も紙で読みたい。

本を読むこと=情報をインプットすること、と解釈するのであれば、物質的な紙の質、活字のインクの匂い、重さなどは不要だろう。しかし、(電子書籍ではなく紙の)本を読む体験は、文字情報をインプットする行為にとどまらない。たとえばカフェという場所で、読書しながら飲むコーヒーやタバコの匂いなど、五感を通じた周辺の「体験」と紙の感覚は密接に結びついている。古本を購入するとかすかにタバコのにおいが染み付いていたり、知人から本を借りると本を開いたときにそのひとの書斎の匂いがふわっと立ち昇ることがある。あれもいいものだ。

ビジネス書は紙でなくても構わないとおもう。特に鮮度が重要となるようなIT関連の本は電子媒体がいい。半年後には状況が大きく変わるようなテーの場合は、アップデートされた情報を入手できるようにしたほうが有益だ。しかし、技術の遷移を俯瞰的に眺めたり、ビジネスモデルや社会の構造、論理などを解説した本は、まとまった書籍として紙で出版されてもいい。本としての持続性が高いからだ。速報性が重視される情報主体ではなく、メタレベルの論考が中心となった本は、紙であっても構わない。

資格取得のための教科書、自己啓発書など、ポータビリティ(持ち運び)が求められる本も、紙より電子書籍のほうが便利だ。もちろん端末が軽いことと通信状況が整っていることが前提になる。

かつて自分は、分厚い資格の教科書を章ごとに分けて再製本して通勤時に読んでいたことがあった。数百ページの本を数千冊ファイルとして保存できるのであれば、電子書籍のほうが重宝されるだろう。また、英語など語学系の教科書は、音声で確認できるため電子書籍がいい。

すべてを電子書籍に、紙の本の生き残りを、というのではなく、「何が」電子書籍に適しているのかということを考慮する必要がある。

紙の本の生き残り、ということで連想するのは「ザ・ウォーカー」という映画だ。戦争で崩壊した世界、たった一冊残った本をイーライ(デンゼル・ワシントン)は西へ運ぶ。西に何があるのかわからない。ただ、西に運べというお告げにしたがって彼は旅をする。

B003YAYBLMザ・ウォーカー [DVD]
角川映画 2010-11-02

by G-Tools

電子書籍化というデジタルの普及で紙の本が絶滅するのではなく、戦争という暴力で文化が崩壊するところが異なるのだけれど、レコードからCDへ、そしてダウンロードへと音楽が淘汰されていったほどには急速ではなかったとしても、電子書籍端末の急速な普及によって、紙の本が急速に絶滅していく可能性はないとはいえない。

「ザ・ウォーカー」で象徴的なのは、その本の力を確信し本によって権力を握ろうとするビリー・カーネギー(ゲイリー・オールドマン)によって本は奪われてしまうのだが、モノとしての本は奪われても、イーライに本は残っていた、ということだ。また、イーライの持っていた本も"通常の文字で書かれた"本ではなかった。

コンテンツの重要性を感じる。たった1冊の本でも世界を変えてしまう可能性のある本がある。そしてその本は、紙というカタチを取らなても文化として残りうるものなのである。

あらためて考えると、電子書籍といわれるものは多岐に渡る。テキストブックを基本として、雑誌のようにビジュアルや動画を埋め込んだもの、あるいはインタラクティブな操作を加えたアプリまで、その範囲は広い。

iPad登場時に「Alice for the iPad」が話題を集めた。あるいは幻冬舎では、深海に潜って生物を探索することが疑似体験できる「深海のとっても変わった生きもの」といったコンテンツをリリースしたが、マルチメディアを充実させたコンテンツは電子書籍というよりもアプリケーションだ。

ロングテールということばは使い古された用語になってしまったかもしれないが、絶版書のような本であれば、どんなに利用者が少なかったとしても、ニーズがあれば、膨大な量が電子化されていても構わない。が、すべての書籍が電子書籍元年と呼ばれる現時点でアーカイブもしくは配布されている必要はない。

電子化すべきもの、紙でよいものという判断は必要である。また、スタート時は少なかったとしても、これから新しい書籍を電子化して蓄積していけば、長期的な視座からは電子書籍の配布数は整備されるだろう。

オフィスのペーパーレス化が声高に叫ばれた時期があった。電子文書を推進している企業も多いが、いっこうに紙は減る傾向にない。紙で所有することは、一種の安心感があるのだろう。ペーパーレス化の障害のひとつとして、それまで溜め込まれた大量の書類をどうするか、ということがあった。過去の遺産が未来への足を引っ張る。

どこかで切り分けてしまう必要があるのかもしれない。過去の遺産は紙で(グーグルのよような余力のある企業は紙をスキャンしてアーカイブを整備し)、電子書籍元年を境にあらたに発行される本は電子書籍で、といったように。「どれだけ」ではなく「何が」電子化されるべきかを考える必要がありそうだ。

まつもとあつし氏の「生き残るメディア 死ぬメディア 出版・映像ビジネスのゆくえ」に、ボイジャー荻野正昭氏の次のようなコメントがある(P.63)。

荻野 「新しいメディアは古いメディアに擬して出てくるというマクルーハン(文学者・文明評論家の言葉があります。古いメディアは新しいメディアに乗っかろうとする、そこで自らの権利を拡張しようとするわけです。
でも、僕はそんな企てがうまくいくはずはないと思っています。新しいメディアでは新しいプレイヤーが活躍するのが自然です。
4048702297生き残るメディア 死ぬメディア 出版・映像ビジネスのゆくえ (アスキー新書)
まつもとあつし
アスキー・メディアワークス 2010-12-09

by G-Tools

「新しいメディアでは新しいプレイヤーが活躍する」という見解に同意する。新しいプレイヤーの活躍に、古いプレイヤーが介入して足を引っ張るようではいけない。また低価格化が求められる電子書籍に対して、「今後は徐々に高級品・嗜好品として紙の本は位置づけられるのではないだろうか」という見解も面白い。

あらゆるものを電子化するのではなく、何を電子化し、何が紙として残されるか。面倒な腑分けかもしれないが、その選別に知恵を働かせることが、電子書籍化を単なる技術革新で終わらせない文化的な意義のあるものとして位置づけるのではないか、と考える。その過程では、当然、電子化されずに淘汰される紙の書籍があることも否めないだろう。

投稿者: birdwing 日時: 12:10 | | トラックバック (0)

2010年1月 1日

a001227

2010のはじまりに。

2010という文字の配列をみていると、どこか未来的な何かを感じませんか。21世紀の21がふたつのゼロで挟まれているからかもしれません。2009までの一桁から二桁時代に移行したからかもしれません。

年が明けました。あけましておめでとうございます。

年賀状は別に作ったのですが、ブログ用に数十分で書いた手書きのシートでご挨拶です。ラフな描画ですみません。

toratora2.jpg

いきなり年頭に脱力したことを書きますが、年が変わったからといって自分は何も変わりません。正月であることをいいことに焼酎(かんのこ)で飲んだくれて、正体を失ってふにゃふにゃになっています。年頭の決意を、と拳に力を込めてみようとするのだけれど、どうも腑抜けて力が入りません。そこで、今年は

向上心より恒常心

でいこうとおもいます。寅年だからといって、うがーっと、のどちんこを全開にして咆哮したくない。決して怠惰に手を抜いたりしないけれど、頑張りすぎたりもしない。勉強のために苦しみながら本を読むよりも、楽しんで読書したい。疲れたら本なんて読まないでいい。趣味なのだから、夕鶴のように自分の羽を抜いて音楽を作らなくてもいい。作りたいときに音楽が降りてきたら、それをかたちにすればいい。

グッド・タイムスそしてバッド・タイムス。よいこともあるでしょう。きっと悪いことも。

よいときには決して奢らず、悪いときには過剰に落ち込まず、ひたすら平静なこころを恒に保っていたい。こころが乱されるのも結構。それもまた自分の人生です。変わらずにいようとおもっても変わってしまうのがぼくらの人生だから、変わってしまうようなことがあれば、恒常心には執着しない。

恒常ということばで連想するのはホメオスタシスです。Wikipediaの解説から引用します。

恒常性、ホメオスタシス(ホメオステイシスとも)は生物のもつ重要な性質のひとつで生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず生体の状態が一定に保たれるという性質、あるいはその状態を指す。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重要な要素でもある。生体恒常性とも言われる。

もともと生物には、環境に適応する力が備わっていました。けれども生物学的な見地はもちろん、情報化社会における現在を社会的に見渡すと、環境に過剰適応したり、環境に適応できずに身体とこころのバランスを崩したり、恒常ならぬ状態に追い込まれています。だから「健康」ではない。内部や外部の環境因子にしたがって、ぐらぐら揺れながら生き難い日々をすごしています。

ぼくがぼくであること。ぼくの人生をきちんと生きること。

そんな基本に立ち返ることができるといいのですが。実はそれがいちばん簡単そうにみえて難しいことです。すくなくとも環境の変化に乱されている自分に気付き、身体とこころの平衡を取り戻せるようになりたい。

そんなわけで今年もゆるゆるとブログも書きつづけていきますね。よろしくお願いいたします。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月25日

a001107

香り、ほのかに。

5月の終わりごろでしたが、夜中に帰宅するときに草いきれのむっとした匂いに包まれて、おお、季節が変わりつつあるのだな、と感じたことを覚えています。雨には雨の、夏には夏の匂いがあります。

季節のうつろうこの時期。思考力を鍛えるだけでなく感覚も研ぎ澄ましていたい。慌しい毎日のなかではこころが磨耗することも多いのだけれど、感性を豊かに、五感を大事にすることによって、目にみえるものだけでなく、みえないものの変化を感じていたいとおもいます。

嗅覚をテーマにした作品としては、「パフューム」という映画をおもい浮かべました。匂いに関するこだわりはどこか官能的なイメージにつながります。フェロモンなどの動物的な嗅覚の要素があるからかもしれません。

B000R59N4Cパフューム スタンダード・エディション [DVD]
ベン・ウィショー.レイチェル・ハード=ウッド.アラン・リックマン.ダスティン・ホフマン, トム・ティクヴァ
ギャガ・コミュニケーションズ 2007-09-07

by G-Tools

ちょっと変わったところでは、原田宗典さんに「スメル男」という小説があったかな。ものすごーく臭い人間になってしまう主人公の話でした。

4061851764スメル男 (講談社文庫)
原田 宗典
講談社 1992-06

by G-Tools

その臭さといえば数キロ先からでも嗅げるという。テーマとしてはSFっぽいのですが、彼の書く小説はどこかあたたかい(まあ、ちょっと軽すぎたりお調子ものっぽいところもある)。「優しくって少し ばか」という処女作品が一時期とても好きで、影響を受けました。ぼくの文体の数パーセントには原田宗典さんの成分が含まれているような気がします。

ところで、暑くなってくると気になるのが汗の臭いです。今週のR25が面白かった。制汗剤の「AXE(アックス)」とタイアップの企画になっていました。

090625_1.jpg

中綴じの真ん中のページに、ビニールで綴じこまれた7種類のフレグランスのサンプルが付いています。

090625_2.jpg

ひとつひとつを取り出すと、スプレーの部分に香りの粒子が印刷されていて、こすると匂いが出る。エッセンスからアンリミテッドまで7種類の香りを体験できます。なんだか昔にこんな雑誌の付録があったような気がする。

090625_3.jpg

クイズ形式になっていて、この匂いが好きな女の子はこの子、という写真もついています。オトコの子はこういうのが好きなんだよね(笑)。

090625_4.jpg

ダークテンプテーションのちょっと甘い匂いもいいかな、でも、アンリミテッドのハーブっぽいものも捨てがたい・・・などと嗅いでいたらよくわからなくなりました。おまけに好みの女の子が好きな香りがいいなと思いこもうとしたり。ハイセンスな青文字系(?)の彼女が好きな香りが、どうやらぼくの好みの香りらしい。まあ、広告なので仕込みという雰囲気もしないではないですけれども。

この制汗剤は、先日ドラッグストアで気まぐれにテスターを試したことがあったなあ。しかし、個人的には一度失敗して懲りたのですが、制汗剤やアフターシェービングローションのようなものは無香料がいい。ホストっぽい、というとホストのお仕事の方に失礼ですが、無駄に香るひとになってしまうので。汗臭さは消えたとしても、別の意味で臭くなってしまう。無香料がいちばん。

そもそも家人によると、ぼくは「なんとなくトロピカルな匂い」がするらしいのです。どういう匂いだそれは?と疑問なのですが、自分の体臭は自分ではわからないのでなんともいえません。ちなみに、あまり香水の話などをするのは女々しい印象で気が引けるのですが、ぼくはジバンシイのウルトラマリンというコロンを使っています。青い色が好きです。ウルトラマリン ブルースカイという商品もあるらしく、空好きな自分としては気になります。

B000FP34SAジバンシイ ウルトラマリン オーデトワレスプレー 30ml H33
ジバンシイ

by G-Tools
B000WTHKWAジバンシイ ウルトラマリン ブルースカイ オーデトワレスプレー 50ml-J33
ジバンシイ

by G-Tools

この香水を使いはじめたのは実は偶然のなりゆきがあり、息子に「どの匂いがいい?」と訊いたところ、これを指差した。しかし、どうやら彼は「ウルトラマン」に似ているので、ついこれを選んでしまった気がします。そんな長男くんは匂いや味に敏感で、「小田急線の新宿駅の匂いが好き」とか「エビアンは他の天然水よりだんぜん美味しい」などと言う繊細な少年です。

匂いは、どちらかというとほのかに香るほうがよい。

身体だけでなく文体にも香りがあります。ぼくの文章は、自分らしい匂いを醸し出しているのかな。できることならば子供っぽい雰囲気は卒業して、セクシーな大人の男性らしい文章を書きたいのだけれど、なかなか難しいものです。ついでにいうと、加齢臭を漂わせないようにも気を付けつつ(苦笑)。

たまに周囲に悪臭をふりまく歩く公害のようなひとがいますが、ほのかによい香りを漂わせるような(実際に何か香水をつけているわけではなくてもね)、人間味のあるひとになりたいものです。

投稿者: birdwing 日時: 22:22 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月 5日

a001075

アーカイブとリアルによる10年。

ビデオカメラが壊れました。ぼくの使っているカメラは、SONYのHandyCam DCR-TRV10で、あまりよい機材ではなく、購入した当時は入門機として売られていたものだったと記憶しています。一般の家庭向けの普及機でした。

090305_trv10.jpg

この機材以前にはHi8のテープを使うカメラを使っていたのですが、壊れたのでこのカメラに買い換えました。10年ちょっと使ったでしょうか。成長に合わせて子供たちのイベントをずいぶん記録したし、社会人バンドをやっていた頃には、演奏をチェックするためにスタジオで撮ったこともありました。先日、次男の幼稚園で開かれたおひなまつり会を最後に、動かなくなりました。もう少しがんばってほしかったけれど、寿命をまっとうしたという感じでしょう。お疲れさまでした。

蓋を開けるとカセットの挿入部分がうぃーんという感じで自動的に出てくるのですが、これが戻らなくなった。

090305_trv10_2.jpg

からからからから、という感じでテープを巻き戻すモーターも空回りしています。無理やりテープをかませて押し込むと、再生されずに記号(C:32:11)が表示されて、うんともすんともいわない。たぶん修理するよりも買い換えたほうがよいと思うので、新しいカメラを物色しています。

しかし、ここで困った。最新のビデオカメラはハードディスク内臓タイプがほとんどで、カセットは使わない。記録の主流はカセットからディクスに変わっています。CDからハードディスクに書き込むiPodなど音楽観賞と同様の傾向にあります。

80GBなどのディスクに記録して、容量がなくなったら外部メディアのDVDやブルーレイディスクに保存するスタイルです。メモリースティックなど記録メディアを利用する機種は小型化されて、さらにスタイリッシュになっています。画質もフルハイビジョンなので、店頭でデモをみて、おおお、こんなにちいさいのに映像がきれいじゃないですかー、と盛り上がりました。

でも、決定的に困るのが、いままで撮りためていたMiniDVのカセットがまったく使えなくなることです。実はHi8からMiniDVの機種に換えたときもそんなことがありました。過去に撮りためた映像がまったく観ることができなくなってしまったんですよね。大切な記録なのに。

以前、ソニーのプロモーションサイト「Come with me」についてエントリを書いたときに不安に思っていたことが、現実になったという感じです。過渡期なのでしょう、いまはきっと。けれどもせっかくの記録を観ることができなくなってしまうのは酷い。なんとかしてほしい。最新のビデオカメラを購入することは、過去にさんざん記録してきた資産をすべて葬り去ることになる。うーん。

カメラではなくてデッキでMiniDVを観ることができる機械がないか、と検索してみたのですが、既に生産中止になっている。しかも、75万円もするデッキだったりします。なんだこれは。

逆に通常の画質でよければ、3万円でMiniDVのカメラが買えます。このカメラから撮影機能を除けば、1万円ぐらいで再生専用デッキができそうな気がするのだけれど。個人的には、そんなデッキがあればめちゃめちゃ欲しい。ただ、メーカーとしては費用対コストが合わないのでしょう。

ところで、いま動画を撮影できるガジェットといえば、ビデオカメラだけではありません。デジタルカメラや、携帯電話でも映像を撮影して残すことができます。画質や時間にこだわらなければ、ちょっとした動画をメモすることができ、データの記録形式は違っていてもパソコンに取り込めば観ることができる。

こういうスタイルがいいな、と思いました。ハードや記録媒体に依存するのではなく、データに変換してしまえば汎用性も高い。もちろんコンバートする形式によって容量などの問題も生じるかもしれないのだけれど、特別なハードウェアがなければ観ることができない、聴くことができないリソースは不便です。

音楽も同様です。レコードプレイヤーがなければ(というよりも、レコード再生の場合は針が重要で、針がなければ)聴けないようなものは困る。カセットデッキすら最近はあまり見かけなくなりましたが、MDも同様。CDもいずれはなくなってしまうかもしれません。それでもmp3やWAVEなどの形式になっていれば、きっと聴くことができる。そうして原盤がなくなってしまったとしても、どこかの誰かが音源を残していてくれたなら、シェアすることで、懐かしい音を再現できる。

あらためて、21世紀っていい時代なのかもしれないな、と思いました。しかし、データ主導の情報化社会によって弊害があるかもしれません。記録された過去にいつでもアクセスできるため情報量はものすごい勢いで増えます。現在だけでなく、過去の記録のすべてを背負って生きなければならない。人生の重みを超えるほど過度な情報の重さがのしかかることになります。

たとえば子供たちのヒーロー番組をいっしょに観ていて思うことですが、過去の膨大な文脈を辿りながら番組が進行していきます。新しくはじまった「仮面ライダーディケイド」は、過去10年間のライダーがすべて登場します。

■仮面ライダーディケイド
http://www.tv-asahi.co.jp/decade/
090305_dicade.jpg

ディケイド、なんだかスイカみたいな顔ですけどね。夢のないビジネス視点で解説すれば、キャラクター商品の販売促進も視野に入れた、おとうさん世代を巻き込んだ展開だと思う。あざといといえばあざとい。ただ、過去のアーカイブが現在の物語を多様に膨らませています。10年培ってきた仮面ライダーというキャラクターの資産は、やはり大きい。

うちの息子たちは(特に長男)、過去10年のライダー作品をDVDであらためて借りて観ています。ウルトラマンでもそうでした。ぼくらが子供の時代には、テレビの映像は消えていくものであり、番組をリアルタイムで一生懸命観て、あとは次回を楽しみにしていたものです。ビデオという記録装置がなかったから、時間軸を遡って過去の別のストーリーを体験することはあまりありませんでした。

正しいかどうか判断はできないけれど、リアル+アーカイブによって、現在進行形以外の過去の付加情報が増えつつある時代になっているのではないでしょうか。時間は複線的になっている。決して、現在のリニアな時間だけではなく、寄り添うようにアーカイブされた過去の時間がある。

たとえば、メールなども過去ログを読み直すことによって、過去に感じたあれこれを現在に再生したり、忘れることなく持続できます。ネガティブな感情であれ、楽しかったやりとりであれ、過去が現在と同じぐらいのリアリティで立ち昇ってくるような環境があります。

ブログのエントリも、最新のエントリよりも過去のエントリのほうがむしろよく読まれるようです。書いているブロガーとしては、過ぎ去った時間の遺物だと思っていても、訪問して読むひとにとっては、現在進行形のテーマとして捉えることもあるかもしれません。だから誤解も生まれる。書いている自分にとっては解決している問題が、読み手にとっては現在の問題として捉えられるわけなので。

ところで、新しいビデオカメラなのですが、候補としてはソニーのHDR-HC9を考えています。MiniDVDの資産を生かしながら、フルハイビジョン対応です。

090305_hc9.jpg

別にソニーではないくてもいいのですが(キヤノンやパナソニックも結構よさそう)、なぜか子供の頃からの憧れでソニー製品を選んでしまう。新しい電化製品を買うのは、選ぶ時間も含めて楽しいものです。選ぶ時間のほうが楽しかったりもする。わくわく。

願わくば、これから10年、つまるところ2019年まで使える機材であってほしいのですが。

投稿者: birdwing 日時: 23:23 | | トラックバック (0)

2009年3月 3日

a001074

ゾロめな日。

今日はひなまつり。googleのトップページも、おひなさまの画像で飾られていました。いつもは控え目なロゴですが、かなり派手だったような気がします。金屏風が背景にあったりして。

090303_g_hina.jpg

ぼくには娘がいるわけではありません。だから、ひなまつりは季節のイベントとしては盛り上がりに欠けます。むしろゾロめに敏感なぼくとしては、おひなまつりより3月3日という3並びの数字にぐっときました。夜更かしができれば、深夜3月3日3時33分33秒を確認したいところでしたが、ぐっすり眠っていたので残念。確認したからどうだ、というのはありますけどね。

しかしながら、数字がいくつも並ぶ瞬間は、なんとなく魅力的なものがありませんか? ぼくだけなのかな、この感覚。

もちろん、パチンコでは数字が並ぶことによって利益が生まれます。だからパブロフの犬的に数字の並びはうれしいのだけれど、そうではなくても数字が規則的に並ぶ現象が、ぼくには楽しい。とてもささやかな楽しさなのだけれど。

時間のマジックというか、刹那の完成系という感じでしょうか。同じ数字の列がつながり、時間の結晶となって一瞬だけ完成されたあとで、すぐにばらばらと崩れていく。その儚い美しさがいい。というより、ぼくの意識がマジックを成立させているだけであって、別にどうってことない日常なのかもしれません。

そんなゾロめ好きなぼくが、今日ニュースを読んで、偶然とはいえこれだけ3が並ぶのも凄いな、と思ったのは、asahi.comの「3月3日、三つ子3歳誕生日 白石の一家」という記事でした。

「札幌市白石区の氷室信康さんの三つ子の子どもたちが3日に誕生日を迎え、そろって3歳になる」とのこと。さらに、夫妻も今年で33歳らしい。「3日午前3時33分には、信康さんが3人の寝顔を記念撮影する予定」とあり、やられた・・・と思いました。何にやられたのかよくわかりませんが、ここまで徹底して3が並ぶ運命にある家族もあるものだなあ。すこし感動。

ちなみに、5月5日は子供の日、7月7日は七夕と、ゾロ目の記念日もあります。こじつけも含めて、そのほかに面白いゾロめの日はないかなと探してみたところ、Wikipediaでいろいろと発見しました。Wikipediaには、365日について、その日に生まれたひとや行事が記されているため、自分と同じ誕生日の有名人や誕生日に縁のある行事を探すのにも便利です。

いろいろな記念日が作られているのですが、個人的に面白いと思ったものをピックアップしてみます。あまり、よろしくない記念日としてはこれ。

■2月2日

頭痛の日
「2(ず)」「2(つう)」の語呂あわせから、頭痛の存在と理解の輪を広げるためジョンソン・エンド・ジョンソンが2001年に制定。

苦し紛れというか、無理があるような気もする。タイレノールの製品といっしょに頭痛の日を紹介するコンテンツがあってもいいんじゃないか、と思ったのですが、いろいろとサイトを検索して調べてみると、頭痛の日は一年で廃止されてしまったようです。一過性の頭痛だったか。では、8月2日は「8(よう)2(つう)」の日か、と思ったら、そんな日はなさそうでした。残念。

音楽に関連する並びの記念日には、次のようなものがあるようです。

■4月4日

ピアノ調律の日(日本)
4月の英語表記が April、調律に使うAの音の周波数が440Hzという所から。

■6月6日

楽器の日

6月6日がなぜ楽器の日なのでしょう。よくわからなかったのですが、ヤマハのサイト「おんがく日めくり」に説明がありました。このサイトは既に更新が終了している古いコンテンツのようですが、なかなか面白いコラムが掲載されています。以下、引用します。

では、6月6日がどうして楽器の日に選ばれたのでしょうか。それは古くから言われている「芸事の稽古はじめは、6歳の6月6日にする」というならわしに由来しています。なぜ子どもの稽古はじめが「6」づくしなのか、定説はありませんが、一説によれば日本式に数を指で数えると、5までは指を曲げるけれども、6になると逆に小指から指を立てる、そこから「子が立つのは6」と縁起をかつぎ、6歳の6月6日となった、とも言われています。

楽器でなくてもいいですね、これは。芸事の稽古はじめなのだから、舞踊の日であってもかまわない。こじつけ臭がぷんぷんにおいます。ただ、このわけのわからなさが記念日としては面白い。

ところで、日々の繰り返しのなかにいると、昨日と同じ今日、今日と同じ明日のように、毎日が金太郎飴のような連続になってしまう感覚に囚われます。しかし、意識によって連続を断つことにより、新しい時間の流れを生むことができないか。そんなことを考えました。

思い立ったが記念日というか、ゾロめという規則的に数字が並んだ日や時間でもかまわないのですが、何か非日常的な節目を勝手に設定して、そのとき自分にリセットをかける。時間や空間には境目というものがありませんが、数値化された何かによって、意識的に境界を作るわけです。

緑内障という視力の障害を病院で告げられて、逆にものすごく鮮やかにみえてきた風景がありました。

たとえば自宅までの帰り道。商店街の遠くまでつづく街灯が、最近、ぼくにはとてつもなく美しい光の連鎖にみえます。いままでにも、その風景はあったはずです。世界は何も変わっていないのに、意識が変わったことによって、みえ方がぜんぜん違う。いままでみえていなかった風景がみえるようになる。ちょっとしたきっかけで、世界は昨日とは変わってしまう。

大袈裟なことではなく、生活のなかに潜んでいる瑣末な契機でかまわないと思います。けれども、そいつを掴んでしまうと、世界がいままでとは変わってみえる。そんな生活を変える些細なTIPSのようなものがあるのかもしれない。

東京では、しんしんと雪が降っています。季節はずれの雪だけれど、今夜は積もるのかな。雪もまた現実世界を一夜にして変えてくれますね。明日の朝が楽しみです。まったく積もっていなければ、それはそれでよかった、ということで。

さて、あったまって眠りますか。

投稿者: birdwing 日時: 23:57 | | トラックバック (0)