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2007年9月20日

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ムラ、ムラ、ムッシュー。

ムッシュ、ムラムラーなんて言葉がありますが、いつの時代ですかそれは・・・という感じなので却下(苦笑)。ムッシューという言葉に覚醒されたのかどうかわかりませんが、ジャン=フィリップ・トゥーサン(Jean=Philippe Toussaint)というベルギー生まれの作家を思い出しました。ジャンルとしては仏文学でしょうか。映画監督もやっているのですが、彼には「ムッシュー」という小説があります。

4087731251ムッシュー
野崎 歓
集英社 1990-12

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とーさんはトゥーサンが好きだな、とくだらないことを言っていますが、実際にぼくはトゥーサンのファンです。彼の飄々とした文体に惹かれています。会話文をカギカッコ内に入れずに地の文に溶け込ませる手法(なんて言ったっけかな)も好みで、先日、「half moon」というDTMのオリジナル曲を作ると同時に掌編小説を書いてみたりしたのですが、多少彼の影響があるような気がします。ほんとうに多少ですけどね。

その彼が描くムッシューは、ムラムラな気分から遠く離れたとても淡い感じの人物像なのですが、ころころと虫の声も騒がしくなりつつある秋、どーいうわけかムラムラな気分の到来に困惑中です。といっても、エッチがしたいっ、というあからさまな欲望はあまりなく、ぼくも年齢を重ねたせいか、すっかり枯れた気分でございます。エッチはしなくていいけど、ちゅーはしたいというか、手をつなぎたいというか。欲望の枯れたおじさんはロマンティストになって困ります(苦笑)。

ところで、芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋などなど、さまざまな秋がありますが、その根本にあるのはムラムラ=欲望ではないかと思いました。

芸術というと非常にクレバーでドライな感じがしますが、実は芸術家を突き動かしているのは、どろどろとした欲望のような気がします。画家を描いた映画などもいくつか観た記憶がありますが、純粋に芸術を信奉して描いているのではなく、あいつには負けたくない、という非常に政治的な狭い意地で作品を生み出していたりする。

フェルメールを描いた映画「真珠の耳飾りの少女」にも、嫉妬などの欲望が渦巻くなかで作品を生み出す画家の泥沼のような現実と、結晶のような芸術の世界の両方をみつめる姿が描かれていたような気がします。

B0001X9BLK真珠の耳飾りの少女 通常版
オリビア・ヘトリード
メディアファクトリー 2005-01-25

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そう、ぼくが感じているムラムラは、エッチな気分に似ているけれども、そうではない気がする。たとえばですね、音楽なんてまったく知らないのに、会社の帰りにブルースハープ(要するに渋い大人のハモニカ)などをついつい買ってしまう感じ、でしょうか。あるいは夏が終わったのに、いきなりプールで泳ぎ始めちゃう感じとか? 天文学の分厚い専門書をうんしょうんしょ買って帰るのも近い。女性がおシャレで高価な下着を衝動買いしてしまうのも似ているような気がします(笑)。男性の場合は、それが身体や精神を磨く方向に行ってしまうわけで。

出会うであろう誰かを想定して、自分を磨き始めるってことでしょうか。出会うであろう誰かのためには、完璧な身体を持ちたいし、完璧な知性を備えていたい。そして素敵でありたい。シャドーボクシング的な誰かのために、身体的にも精神的にも自分を鍛えていたい。素敵な誰かにとって、ふさわしい人物でありたい(なんだか、RedioheadのCreepとか聴こえてきそうだ)。そんなムラムラ=欲望はとても大事ではないか、とぼくは思います。よいことです。

無欲が大事、欲望から解き放たれた生活が理想、などということを言われることもありますが、どうでしょう。ぼくはですね、いくつになってもムラムラしていることって大事なような気がします。ぎとぎと、とか、ぎらぎら、しているのはどうかと思いますが(なんか抑制とか恥じらいを失った中年っぽい)、ムラムラしているひとは魅力的ではないでしょうか。

ムラムラしているひとは、ちょっと目が潤んでいたりして、あやしい光がぽっと灯っていたりして、けれども決して自制心を失ったわけではない。紳士・淑女なわけです。あー、なんかやましい妄想を考えているなーという雰囲気がある。けれども、だからといって安易に欲望に身を投じるわけではない。安易には動かないのだけれど、一度傾くとどこまでも堕ちていく。

人間をほんとうに動かすのは、このムラムラ=欲望なのかもしれません。理性で説得しても、なんとなく冷めた感じがある。根源的な感情を揺さぶる言葉こそが人間を動かすのではないでしょうか。つまり説得力のある文章を書くのであれば、ムラムラ=欲望をスタティックな文章から発動させる必要がある。そんなダイナミックな文章を書くことが、ほんとうに精神だけでなく身体も揺さぶる文章家として、真の力を発揮するような気がします。アタマでっかちで説得してもね、ひとの心は打てない。

ムラムラーになろうと思いました(笑)。えーと、よくわからないと思いますが、ムラムラするひと=ムラムラーです。

ただ、そのムラムラが通りすがりの素敵な女性に向かってしまうと、とってもあぶないひとになってしまうので(苦笑)、ぼくの場合には創作活動に向けるべきでしょうか。美しい音楽を女性のように愛することができたり、美しい小説と密度の濃い時間を過ごすことができるのが、大事なことかもしれません。文章や音楽に恋をするのだ。とかなんとか、この詩的な表現自体が、どうしちゃったんだとーさん?!という感じなんですけどね。やれやれ。

秋はひとを狂わせる季節なのかもしれません。あるいは人を狂わせるのは月の満ち欠け、なのかもしれないのですが。

投稿者: birdwing 日時: 01:50 | | トラックバック (0)

2007年9月10日

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補う力、つなげる力。

人間には補う力があるそうです。以前にも書きましたが、3つの点があると線が引かれていなくても3つの点を結んで三角形をそこに描いてしまう。パターン認識にも通じることですが“つなげたがる力”といえるかもしれません。そんな力が人間にはあります。

どこかで見たなーと思っていたのですが、池谷裕二さんと糸井重里さんの「海馬」という本でした。カニッツアの三角形と呼ばれる錯視の図形です。パックマンが向い合うような図形の真ん中に三角形が見えるでしょ?これです。茂木健一郎さんの本でも読んだ気がします。

070910_kanizsa.JPG

このつなげたがる力が想像力=創造力の原点ではないかとぼくは思っていて、このことをずーっと最近は考えつづけています。えーと、考えたからといって、何もいいことはないんですけどね(苦笑)。考えるのが好きなので、なんとなく考えてしまうだけで。そこで、考えたことを、とりとめもなく書き綴ってみます。

たとえば過去と現在という点に線を引いて、その延長線上に未来を描いたり構想することも、つなげる力の応用力ではないかと考えます。未来はここにはありません。けれども過去と現在を線で結び、その延長線上に補助線を延ばしていくことで、人間は、ここにはない未来を描くことができる。

あるいは物語構成において、起・承・転・・・という流れがあると、その先に結を想像してしまうことってありますよね。推理小説では、知らず知らずのうちに残された痕跡から犯人を探している。痕跡をつないだ先に犯人がいるかどうか確かめられるからこそ推理小説は楽しいのであって、転・・・でおしまい、という犯人解明や種明かしのない推理小説があったら、なんだこりゃー(怒)になる。なんだかすっきりしません。

というふたつの例は時間軸に関する例ですが、空間の欠けている部分を補うこともあります。しっぽだけが見えて身体の隠れている動物を想像するような感じでしょうか。あるいは古代のひとたちは、山の向こう側に別の街があり、海の向こう側に別の国があることを想像しました。その想像力がなければ、ぼくらは地球という存在あるいはグローバルな概念を生み出せなかったかもしれません。

もう少し思考を飛躍させてみます。達人の文章の秘訣は「書かないこと」かもしれない、などということも頭に浮かびました。

書いた言葉と書いた言葉を結んで、その線上に書かなかった何かをリアルに浮かび上がらせること。それが文章の達人の技ではないか。禅問答のようですが、うまい文章を書くには、どれだけ書かないかという技術を学ぶのが近道かもしれません。つまりたくさんの粋な言葉を知っているよりも、読み手のなかにみずみずしい想像力を喚起させるか、ということの方が重要になる。たどたどしくても鮮やかなイメージを想起させる名文のほうが、使い古された明言よりも心を打つことがある。

この視点から文章上達のエクササイズを考えるとすると、たとえば「かなしい」という言葉をNGワードにして、どれだけかなしい文章を書けるか、という鍛錬など面白そうです。涙も使っちゃダメ。ぼくはめちゃめちゃ明るい文章なのにぼろぼろ涙が出てくるような小説を読みたいと思うのですが(どういうひねくれものだか)、そんな小説を書けるひとは高度な文章使いですね、きっと。

あるいは、思わせぶり、ということなのかもしれません。

ストレートに、好きだ、と告げるのは男らしいかもしれないけれど、あえて大事な言葉は言わない。はぐらかしておく。ぽつりとフレーズを置いて、別の場面でまたさらりと気になるフレーズをさりげなく呟いてみる。核心にはぜったいに触れない。そうして、いくつかの言葉をつないで、あらためて上空から眺めてみるとナスカの地上絵のようにひとつのメッセージになっている、みたいな言葉の使い方でしょうか。要するに、じらしのテクニックかもしれません。

・・・という上の段落のようなことを書くとですね。読んでいてなんとなく恋愛のイメージになってしまうと思いませんか?

なんとなくこの文章は彼女の攻略法のようです。ちょっとした恋愛指南っぽい。ところがぼくは上の段落で、ひとこともこれは男女間の話であるとは書いていない。書いていないんだけれど「好きだ」「告げる」「男らしい」という言葉が「恋愛」という文脈を引っ張ってきてしまう。

試しに次のように書き換えてみます。

ストレートに、アウトドアライフが好きだ、と告げるのは男らしいかもしれないけれど、あえて大事な言葉は使わない。シュラフの寝心地、ランタンで照らされた影、満点の星空などのフレーズを置いて、別の場所にも気になるアイテムを配置する。核心にはぜったいに触れない。そうして、いくつかの言葉をつないでいき、上空から眺めてみるとひとつのメッセージになっている。

ちょっと無理がありますが、恋愛のイメージは消えますよね。アウトドアコラムの書き方というか文章読本の抜粋のようなイメージになります。で、これを読んでしまった後で、再び最初の文章を読み直すと、もう恋愛のイメージは生まれない。

この現象は、池谷裕二さんの本のなかでは「脳の可塑性」というようなキーワードで語られていたような気がします。一度、イメージが決定されると、そのイメージの力によって全体の意味が変わってしまう。

補う力、つなげる力について考察したあとで、実はその力を無効にする考え方をいま構想しています。乱暴に言ってしまうと、勝手に補ってしまった想像は現実を歪めている。補ったり、つながったりしている言葉があったとしても、ちょっとしたキーワードさえあれば妄想の呪縛を斬ることができる。妄想的な想像力を排除して、補わない、つながらない真実の姿を取り戻せないか、という考え方です。洗脳的、盲目的な心の動きから自由になるための方法論かもしれません。

「不完全という完成形」というタイトルが浮かんでいるのですが、この話はいずれ気が向いたら書いてみることにします。

投稿者: birdwing 日時: 23:57 | | トラックバック (0)

2007年9月 4日

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発熱する身体と文体。

どうも調子が悪いな、と思って家に帰ってから熱を測ってみると38度あり、風邪をひいたようでした。おでこと脇に冷えピタ(子供用)を貼っておとなしく横になっていたのですが、落ち着かない。そんなわけで、ひえピタ(子供用)装着のまま、のこのこ起きて書いたのが昨日のブログです。ちなみになぜ脇に冷えピタ(子供用)を貼ったかというと、動脈などの部分を冷却すると熱が下がりやすいから、とのこと。ほんとか?

体調によっては同じ38度でも関節が痛んで七転八倒することもあれば、平気なときもある。昨日は熱は身体の身体の動きが鈍いのだけれど、なんとなくいい感じの熱でした。熱出していい感じというのもいかがなものか(苦笑)と思うのだけれど、気持ちのテンションが張り詰めているからか、治そうという前向きな気持ちがありました。この前向きな気持ちが萎えてしまうときには、ほんと、たかが熱にも負けちゃいますね。寝込んでしまう。

熱を出したせいかわかりませんが、面白いなーと思ったのは、時間がものすごくゆっくりと進むこと。熱によって身体の時計がぐにゃりなのかびろ~んなのか伸びてしまったのかもしれないのだけれど、仕事をしていても、あれ?まだ1時間しか経っていないんだ、という感じでした。その時間に倍の仕事が進むかというと、そうではないのが熱の効果のかなしいところで、いつもと変わらない(苦笑)。いつもと変わらないんだけれど、時間がとてもゆったりと流れていくのを感じる。

なんでしょうね、これは。そして読み直してみて思ったのですが、熱を出した日の文章は、なんとなくやっぱりほんわりと微熱的な浮遊感がある。

「文体=身体」論という勝手な持論をぼくは卒論の頃から持っていて、これはどういうことかというと

ハルキは鼓動が高鳴るのを感じた。

と書くとき、主人公の鼓動が高鳴っているのはもちろん、作家の身体でも鼓動の高鳴りがあり、読者にもその身体状況が伝播する。このときの最適な文体は「高鳴っている」文体であることが理想ではないか、というような考え方です。

よくわからないですね(苦笑)。

要するに、ぼくは文体というスティル(英語の文体、あるいは静的)なものをリアルな動的なものにするにはどうすればいいか、ということを考えていて、誰かを突き動かす文章は、脳内よりも身体を揺さぶる文章でなければいけないのではないか、ということを考えてきたのでした。考えるよりも先に、身体で読む。

つまり「高鳴っている文章」には動悸の早まるリズムがあり、短いセンテンスで構成され、曖昧な抽象的な言葉であるよりも、具体的な先鋭的な言葉を選ぶ。そのことによって内容はもちろん、文体という身体がリアルを再現するために機能する。語の音も、「た」「か」などのように息を吐く音に近い音で構成され、その音が脳内で再現されることによって擬似的に高鳴っている状態を生む。

なんてことを考えながら文章を書くのは疲れるので、現実的ではないと思います(ははは)。ただ、それがぼくの構想している「文体=身体」論なのでした。

たかが文章とはいえ、ときに文章はぐさりとぼくらの胸に突き刺さる。使い方によっては凶器にもなります。凶器としての使い方を制限するモラルを考慮しつつ、ぼくは心を揺さぶる文章を書きたい。そのためにはどうすべきか、ということを考え続けていきたいと考えています。

そのひとつの理想が「文体=身体」論であり、熱を出したことをきっかけに、そんなことを思い出しました。

投稿者: birdwing 日時: 23:57 | | トラックバック (0)

2007年8月24日

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待つチカラ。

一般的に、仕事を取りに行くとか運命を自分で変えるとか、前向きなアクティブでポジティブな姿勢は高く評価されます。「チーズはどこへ消えた? 」という大人向けの寓話もありましたが、消えてしまったチーズを嘆いているばかりでは何も変わらない。新しい場所にあるチーズを探して一歩踏み出せばいい。

けれども一方で、果報は寝て待て、という諺もあります。ぐうたらな感じもするけれど、寝ているうちに果報がやってくるのであれば、それほど効率的なことはない。無駄なエネルギーを使わなくて済みます。

昨日のエントリーで、過去から現在に至る「満足度」と、現在から未来を見据えた「期待度」という考え方を書いたのですが、期待するためには、待つチカラが必要だと考えました。待つことは簡単なようで簡単ではありません。無駄なエネルギーを使わなくて済む、などということを考えましたが、実は動くことと同じぐらいに待つためのチカラも必要になるのかもしれません。あるいは待ちきれずに動き出して、時機をあやまって失敗することもあります。

待つということについてあれこれ考えていたところ、浮かんできた思い出がありました。遠い記憶の映像を脳内から手探りで検索するのですが、小学校6年生のときのことです。

当時、ぼくは生徒会長をやっていました。ちいさい頃の神童は年齢を経るにしたがって凡人になってしまうもので(苦笑)、現在ぼくはただのくたびれた大人に成り下がってしまいましたが、これでも当時はファンクラブまであった一種のアイドルでした。自分でも信じられませんけどね。

といっても全校的に人気があったわけではなく、ひとつ年下の5年生のクラスの一部だけが異様に盛り上がっていました。下駄箱からグラウンドに出ると、わーっと窓のところに女の子が集まってくる。それこそ熱病的に人気が出てしまったようで、どうやら思春期の一歩手前にはそんな時期があるようです。バスケットボール部のシムラ君というアイドルもいたので、バスケ派と会長派で人気を二分していたのでしょう。競合があると人気も過熱もするものです。

ところで、会長派のひとりに、とても真面目そうな勉強のできる女の子がいました。髪をきれいに肩のあたりで切り揃えた利発そうな痩せた女の子で、レイコさんと言ったな確か。漢字で書くと玲子。

レイコさんはいつも校庭のブランコに乗って、ぼくの帰る時間を待っていました。

会長職にはさまざまな会議があり(何の会議だったか忘れた。雨が降った日に運動場をぐちゃぐちゃにしないためにはどうすればいいか、みたいな議題が多かった気がする)、会議を終えて窓から外を眺めると、グランドのずっと向こう側、校門の近くのブランコにレイコさんの姿がみえる。

なぜそれがレイコさんだとわかるかというと、かっこ悪いからみんな被るのをやめてしまう黄色いヘルメットを、5年生にもなってまだ被っているからでした。

真面目な子でした。ぼくのファンであることを明言して、会長婦人と言われて友達にからかわれていたんですが、確かにちいさな貴婦人的な雰囲気がありました。凛とした空気をしたがえている感じ。色白で、とても美しい女の子でした。そしてピアノが上手かった。

送別会のようなときに体育館で彼女が弾いた「グリーン・グリーン」の伴奏をいまでも覚えています。その歌をぼくは知らなかったのだけれど、あわてて調べた記憶があります。あの素敵な歌はなんだったんだろう、と。

レイコさんは、会議が終ってぼくが帰りの支度をして校門に近づくと、ブランコからぽんと降りる。そして、いつもぼくの5メートルほど後を着いて来るのでした。ぼくが立ち止まると、彼女も立ち止まる。そして歩き出して振り返ると、彼女もこちらを見て笑う。

同じ通学路だったのですがぼくの家の方が学校から近く、通りを曲がるとぼくの家がある。角を折れて家に入ろうとフェイントをかけて振り返ってみると、角のあたりからひょっこり首を出してレイコさんもこちらを見ていたりして、なんとなく手を振ってみると、彼女もぎこちなく手を振り返してくれたりする。

コイだのスキだの、そんな言葉をまだ知らなかったぼくは、変な子だな、と思っていたのですが、いまはるかな時を経て大人になったぼくは、

彼女がぼくを待っていたときの気持ちになれないだろうか、

と考えています。待つのはひとではなくてもいい。素晴らしい幸運でもかまわないし、青空が広がる天気のいい日でもいい。子供たちと過ごす楽しいイベントでもいいだろうし、美味しいビールを飲める瞬間でもいい。現実を嘆いているばかりでは待つこともできなくなります。たとえ叶わない望みでも、待っている時間が楽しければ、その時間は無駄ではなく、しあわせな時間といえるのではないか。

何かを待っているとき、ぼくらのこころに辛さはないでしょう。時間的な感覚もなくて、待っている時間さえ楽しいかもしれません。手を握ることも話をすることもできなくても、レイコさんにとっては5メートルの距離を隔てて歩く時間が尊かったのではないか。そうあってほしいですね。時間的には30分だったとしても、永遠のように長い時間をそのとき過ごすことができたのだ、と。

いまでもぼくはレイコさんの涼しい横顔を思い出すことがあります。彼女の面影を思い出すとき、なんとなく夏の風が吹いたような、さわやかな気持ちになります。ほんのかすかに、ですけどね。

投稿者: birdwing 日時: 21:11 | | トラックバック (0)

2007年8月23日

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満足という距離。

いろいろな仕事が錯綜しているのですが、いま担当している仕事のひとつにCS調査関連の企画設計と調査票作成があります。CSというのは、スカパー!などのCS(Communications Satellite)じゃなくて、Customer Satisfaction(顧客満足)です。

そこで満足について考えることが多いのですが、満足には限界がないのかもしれないと思いました。

ある満足の水準が日常的あるいは標準になってしまうと、もっと高い満足を求めたがるものです。人間は贅沢な生き物かもしれません。満足や欲求には、ここまででいいやという限界点がない。もちろん謙虚に日々のちいさな満足を大切に生きているひともいるかもしれないですけどね。

そもそも満足って何?という基本的な問いがあるのですが、仮に

理想と現実の距離=満足

と設定してみましょうか。理想と現実の距離が接近していれば満足して、離れていると不満足になる。求めているものと手に入れられたものの差異が満足である、と。

このとき、ぼくが注意しようと思うのは、あまりにも高い理想を掲げすぎるとそれだけ現実とのギャップも大きくなる、ということです。実現可能な範囲のギャップを超えてしまうと、そもそも挑戦しようとする意欲が消失します。戦う前から戦意喪失してしまう。

たとえば、30センチ高く跳びなさいと言われたら、なんとなく跳び上がりそうですよね。でも、30メートル高く跳びなさいと言われたら、そりゃ冗談じゃないよムリだ(苦笑)と思う。立ち上がろうという気にもなりません。

適正な理想を掲げていればいいのですが、不適正な理想を追い求めると現在がどんどんつまらなく見えてくることがあります。理想を追い求める前向きな姿勢によって、いまここに存在する自分が不幸せに思えてくる。であれば、高すぎる理想なんか掲げないほうがよっぽどいいのかもしれない。

相手(相方)に対する想いもそうですね。他者に対する期待や欲求が高まれば高まるほど、現実との乖離が生まれる。だから、これもしてくれない、あれも足りない、という、ないないづくしで不幸になっていきます。

理想と現実のギャップは、あらかじめそういうものがあると考えてしまいそうですが、よく考えてみると絶対的なものではありません。現実は実際に存在するかもしれませんが、理想の数値というものは眼前にない。こうならなきゃいけないよ、と力説されると、そうか、と考えもせずに納得してしまうものですが、そんな理想なんて実は確かなものではない。いくらでも勝手にでっちあげることができる。

この「理想」といい関係づくりをしていないと、よい満足が得られないのかもしれませんね。

ところで、満足度とは「過去~現在」までの期間の評価です。一方で、「現在~未来」に向けた満足度が何かないかなと探していたのですが「期待度」のようなものでしょうか。期待もまた、膨らみすぎるとがっかりする度合いが大きくなるような気がしています。

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さて、このブログの月別アーカイブをちょっといじって、カテゴリーをメニュー化しました。こんな感じ。

月別アーカイブ0823

以下のページを参考にさせていただきました。

http://desperadoes.biz/style/ul.php

とはいえ、サンプルコードをいただいて、あれこれいじっているうちにできちゃうものだな、と感動。ちなみに、コンテンツをスクロール表示にもしてみましたが、これはいかがなものか。本屋でCSS関連の本を立ち読みしたのですが、うおおっこんなこともできるのか、という驚きがありました。Ajaxにも手を広げたいところですが、これもあまり理想を高くしすぎると凹むので、ぼちぼちいきます。

投稿者: birdwing 日時: 21:23 | | トラックバック (0)