自分を究める。
年末に向けて慌しくなってきました。膨大な書類に判子を押したり仕事をしたりプライベートでいろいろ考えたり。ブログの更新が滞っていますが、もしかすると過去に遡って更新することがあるかもしれません。でも、できれば慌しい毎日のなかで、リアルタイムでエントリを書き殴ってみたいと考えています。書きたいことも少しずつ増えてきているし、すぐに忘れてしまうので(苦笑)。
コメントでぽろりさんからご紹介いただいたのですが、本日、次の本を読了しました(ぽろりさん、ありがとうね)。
欲望としての他者救済 (NHKブックス 1121) 金 泰明 日本放送出版協会 2008-09-24 by G-Tools |
久し振りに時間が空いて早めに帰宅できた途中、喫茶店でビールなど飲みながら、昨日のハードな仕事の疲れでうとうとしながら読み終えました。
面白かった。実は、購入してすぐに帰りの電車のなかで読みはじめたのですが、冒頭部分では思わず涙しそうになって困りました。作者である金泰明さんの息子さんの不登校の話に打たれてしまった。しかし、中盤部分の政治に関するエピソードは、ぼくには退屈だったかな。そんな中だるみを経由して、終盤の第4章「欲望としての他者救済」で、ぼくはいろいろと考えることが多くありました。ぱっと目からうろこな感じでした。
この本では、「なぜ、人は困っている他人を見たら手を差しのべてしまうのか」ということを、カントやヘーゲル、ホッブスなどの哲学者、アマルティア・センなどの書物を引きつつ、ご自身の在日韓国人政治犯の救済活動に触れながら深く考察していきます。
ぼくもブログを書くことによって、同じような問題を抱えて悩んでいる誰かを救うことができれば、と考えていました。あるいは、いま自殺しようとしている誰かの手を、言葉によって止めることができるか、ということを考えたこともありました。しかし、その発想は、どこか偽善的な大義、あるいは義務としての他者救済のようなものに絡め取られてしまう印象があります。大きな正義のもとに、何かよそよそしさを感じてしまう。
髄膜炎になった息子のことや家族のあれこれなど、個人的な体験を基盤として考えているつもりなのですが、それは単なるプライベートな自分語りであって、他者のために語られているかというとそうではない。他者を救うために・・・と言ってしまうと、なんだかとんでもない欺瞞があるような気がする。自分が偽善者になったようです。
ブログで他者を救いたい、というような24時間テレビのような発言をしたとき、どこかすっきりしませんでした。そうじゃないのにな、と思いつつ、発言した途端にどこかきれいごとになってしまう言葉に、苛立ちを感じていました。
しかし、この本を読んで腑に落ちたのは、それが自分の欲望に根ざした他者救済である、ということでした。孟子の「惻隠の心」、つまり「困っている他人を見たら、損得を考慮せずに、自分のためではなく自分が得するわけではなくても、自然に体が動いてしまう」という考え方を指摘されて、なるほど、と思うとともに、ヘーゲルの「精神現象学」から引用された次の考え方に、はっと気付かされることがありました。ぼくも引用してみます(P.192)。
自分のために配慮をめぐらせればめぐらすほど、他人に役立つ可能性が大きくなるだけでなく、そもそも個人の現実とは、他人とともにあり、他人とともに生きることでしかない。個人の満足は、本質的に、他人のために自分を犠牲にし、他人が満足するように手助けする、という意味を持つ(ヘーゲル『精神現象学』)。
これだな、と思いました。しんどい状況にありながらぼくがブログを書きつづける原動力も、こんなところにあるのかもしれません。よりよく自分を生きること、自分の考えを深めることによって、それが他者のためにもなる。最初から、他者のために何か・・・と思うのではありません。まず、自分を救済する。自分さえ救済できないひとが他者を救済できるわけがない。
他者を救いたい、という大義から発想すると、どこかステレオタイプな借り物の言葉になります。けれども弱い自分や、自分のなかに存在する闇に徹底的に向き合い、どう生きていくか、どう課題を解決していくか、ということを考えつづけたなら、それが他者にとっても何よりも有用なアドバイスになる。
そもそも他人を変えたい、救済したい、というのは、とんでもない傲慢な考えですよね。あなたは神か?と思う。他人には他人の信条があり、いままで培ってきた生活があり、親族や会社や仲間など複雑に絡み合った文脈がある。そこにいきなり、あんた間違ってるよ、こうしなさい、救われるから、というのは、余計なお世話にすぎない。あなたのことを考えてアドバイスしているのだ、と言えば言うほど、押し付けがましくなる。
他者は変えられない、むしろ尊重すべきものだと思います。けれども、自分は変えられる。そして、変わっていく自分を誰かにみせることで誰かが変わるとすれば、それが他者を救済したことになるのではないか。つまり、触媒として他者に機能させることが「私」の限界であり、他者が変わるとすれば、自分で自分を変えるしかない。他者である「私」は、ひとつの参考(モデル)として、あるいは他者を変えるための触媒として、少し距離を置いた場所から変わっていく他者を見守ること。それが他者を尊重し、ほんとうに変わりゆく他者のためにもなることだと思います。
自分を究める(探すではありません)と、そのことを通じて他者を理解できるようになるのではないでしょうか。自閉的に、あるいはナルシストとして自愛に閉じこもることではなく、徹底的に自分に向き合う。その突き抜けた向こう側には、自分だけでなく他者も見出せるはずです。そのときに、ひとは自律できると思うし、かつ他者とも共存可能な自分を発見できるような気がします。
自分の痛みがわかれば、他者の痛みもわかる。自分のよろこびがわかれば、他者のよろこびもわかる。使い古された社会通念や常識の枠組みの言葉ではなく、自己の体験や感覚に根ざした(ほんとうに個人的な)思考や感覚を見出せば、それはどんなものよりも説得力があるし、生々しい感覚を誰かに与えることができる。そのことによって誰かの心を動かすこともできるかもしれません。
まず、自分を生きろ、ということでしょうかね。と、なんだか難しくなってきましたが、詩人の語る言葉はもっとやさしくて心を打ちます。実は、読みかけの本が10冊ぐらいたまっているにも関わらず、本日、谷川俊太郎さんの「質問箱」という本を買ってしまいました。
谷川俊太郎質問箱 江田ななえ 東京糸井重里事務所 2007-08-08 by G-Tools |
そのなかから、恋愛に関するふたつの質問と谷川さんの答えを引用します。他者との関わりを考えるときに、恋愛はわかりやすいですね。そしてここで谷川さんが語られていることも、実は自分に向き合うことの重要性ではないかと思います(P.24/P.58)。
質問七
どうして「この人がいちばん。いちばん好きだ!!」と
思う気持ちは終わってしまうんでしょうか?
なんで好きじゃなくなっちゃったんだろうー!!
自分でもわからーん!!
(gold 二十九歳)
谷川さんの答
「わからーん」と思う気持ちが大切です。
どうして、どうしてと自問し続けることが、
たとえ答えはなくとも
新しい恋を
豊かなものにしていくのではないでしょうか。
衣食住どれをとっても
人はひとりでは生きていけません。
人間は群棲動物ですから、
性を離れても他人を必要とします。
その対象が異性であれ同性であれ、
他人を好きになることのうちに
人間社会の基本構造があると思います。
恋のうちには友情も同志愛も含まれているもんね。
質問二十一
世界でいちばん大事でいちばん好きで
愛してるダンナ様がいるのに
職場で素敵な男性に出会ってしまうと、
すぐ恋をしてしまいます。
・・・・・・といっても、いつも誰にも言わないし言えない、
密かな片思いです。
その人とたまに出会って話すだけで十分満足なんですけど
いつか自分が暴走しちゃうんじゃないかって
妄想して心配したり、
そんな心配をする自分が不潔な気がして落ち込んだり、
いい大人なのに、なんだかぐるぐるして
アホみたいなのです。
「人は死ぬまで恋をする」って
聞いたことがありますけど、
こんなに恋ばかりしてたら
いつまで経ってもどこか落ち着かない
ふわふわした大人のまま
おばあさんになってしまいそうで心配です。
どうしたら、恋しやすい心をおさめることができますか?
どうしたら、ダンナ様だけを見つめて
暮らすことができますか?
(ゆん 三十八歳)
谷川さんの答
一人が一人を愛し続けるというのが
愛の理想だとは思いますが、
一人が二人を(あるいはもっと多くを)
それぞれのしかたで愛し続けるということも、
人間には不可能ではないと思います。
ただそれには
いまの社会が建前として合意している価値観
(たとえば「ダンナ様だけを見つめて暮らす」というような)
を超える価値観を、
他人に頼らずに自分で我がものとしなければなりません。
一夫一婦制の外に生まれた愛を
浮気とか不倫とかいう決まり文句で捉えていては
何も始まらない。
「不潔」「暴走」「妄想」という言葉で分かりますが
あなたはきっとまだ本当に恋なんかしていないし、
本当にダンナ様を愛してるのかどうかも疑わしいね。
誰かが誰かを好きになるということは、
生きていく上でいちばん大切なことだから、
自分の気持ちを恥じずに、もっと深く突きつめて
新しい自分を発見してください。
詩人の言葉は弾けていますね。しかしこのぶっ壊し方がなければ、詩というものも生まれないのでしょう。
自分を突きつめること。社会通念にとらわれないモノサシと、考え方を持つこと。なかなか難しいことではあり、社会のなかで揺らぐことではあるのですが、恋に限らず、そんな自分を究めた人間は、ほんとうに他人を変えるぐらいの生き様ができるのではないでしょうか。
究めてみたいです、自分を。
投稿者: birdwing 日時: 23:59 | パーマリンク | コメント (2) | トラックバック (0)