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2008年11月26日

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自分を究める。

年末に向けて慌しくなってきました。膨大な書類に判子を押したり仕事をしたりプライベートでいろいろ考えたり。ブログの更新が滞っていますが、もしかすると過去に遡って更新することがあるかもしれません。でも、できれば慌しい毎日のなかで、リアルタイムでエントリを書き殴ってみたいと考えています。書きたいことも少しずつ増えてきているし、すぐに忘れてしまうので(苦笑)。

コメントでぽろりさんからご紹介いただいたのですが、本日、次の本を読了しました(ぽろりさん、ありがとうね)。

4140911212欲望としての他者救済 (NHKブックス 1121)
金 泰明
日本放送出版協会 2008-09-24

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久し振りに時間が空いて早めに帰宅できた途中、喫茶店でビールなど飲みながら、昨日のハードな仕事の疲れでうとうとしながら読み終えました。

面白かった。実は、購入してすぐに帰りの電車のなかで読みはじめたのですが、冒頭部分では思わず涙しそうになって困りました。作者である金泰明さんの息子さんの不登校の話に打たれてしまった。しかし、中盤部分の政治に関するエピソードは、ぼくには退屈だったかな。そんな中だるみを経由して、終盤の第4章「欲望としての他者救済」で、ぼくはいろいろと考えることが多くありました。ぱっと目からうろこな感じでした。

この本では、「なぜ、人は困っている他人を見たら手を差しのべてしまうのか」ということを、カントやヘーゲル、ホッブスなどの哲学者、アマルティア・センなどの書物を引きつつ、ご自身の在日韓国人政治犯の救済活動に触れながら深く考察していきます。

ぼくもブログを書くことによって、同じような問題を抱えて悩んでいる誰かを救うことができれば、と考えていました。あるいは、いま自殺しようとしている誰かの手を、言葉によって止めることができるか、ということを考えたこともありました。しかし、その発想は、どこか偽善的な大義、あるいは義務としての他者救済のようなものに絡め取られてしまう印象があります。大きな正義のもとに、何かよそよそしさを感じてしまう。

髄膜炎になった息子のことや家族のあれこれなど、個人的な体験を基盤として考えているつもりなのですが、それは単なるプライベートな自分語りであって、他者のために語られているかというとそうではない。他者を救うために・・・と言ってしまうと、なんだかとんでもない欺瞞があるような気がする。自分が偽善者になったようです。

ブログで他者を救いたい、というような24時間テレビのような発言をしたとき、どこかすっきりしませんでした。そうじゃないのにな、と思いつつ、発言した途端にどこかきれいごとになってしまう言葉に、苛立ちを感じていました。

しかし、この本を読んで腑に落ちたのは、それが自分の欲望に根ざした他者救済である、ということでした。孟子の「惻隠の心」、つまり「困っている他人を見たら、損得を考慮せずに、自分のためではなく自分が得するわけではなくても、自然に体が動いてしまう」という考え方を指摘されて、なるほど、と思うとともに、ヘーゲルの「精神現象学」から引用された次の考え方に、はっと気付かされることがありました。ぼくも引用してみます(P.192)。

自分のために配慮をめぐらせればめぐらすほど、他人に役立つ可能性が大きくなるだけでなく、そもそも個人の現実とは、他人とともにあり、他人とともに生きることでしかない。個人の満足は、本質的に、他人のために自分を犠牲にし、他人が満足するように手助けする、という意味を持つ(ヘーゲル『精神現象学』)。

これだな、と思いました。しんどい状況にありながらぼくがブログを書きつづける原動力も、こんなところにあるのかもしれません。よりよく自分を生きること、自分の考えを深めることによって、それが他者のためにもなる。最初から、他者のために何か・・・と思うのではありません。まず、自分を救済する。自分さえ救済できないひとが他者を救済できるわけがない。

他者を救いたい、という大義から発想すると、どこかステレオタイプな借り物の言葉になります。けれども弱い自分や、自分のなかに存在する闇に徹底的に向き合い、どう生きていくか、どう課題を解決していくか、ということを考えつづけたなら、それが他者にとっても何よりも有用なアドバイスになる。

そもそも他人を変えたい、救済したい、というのは、とんでもない傲慢な考えですよね。あなたは神か?と思う。他人には他人の信条があり、いままで培ってきた生活があり、親族や会社や仲間など複雑に絡み合った文脈がある。そこにいきなり、あんた間違ってるよ、こうしなさい、救われるから、というのは、余計なお世話にすぎない。あなたのことを考えてアドバイスしているのだ、と言えば言うほど、押し付けがましくなる。

他者は変えられない、むしろ尊重すべきものだと思います。けれども、自分は変えられる。そして、変わっていく自分を誰かにみせることで誰かが変わるとすれば、それが他者を救済したことになるのではないか。つまり、触媒として他者に機能させることが「私」の限界であり、他者が変わるとすれば、自分で自分を変えるしかない。他者である「私」は、ひとつの参考(モデル)として、あるいは他者を変えるための触媒として、少し距離を置いた場所から変わっていく他者を見守ること。それが他者を尊重し、ほんとうに変わりゆく他者のためにもなることだと思います。

自分を究める(探すではありません)と、そのことを通じて他者を理解できるようになるのではないでしょうか。自閉的に、あるいはナルシストとして自愛に閉じこもることではなく、徹底的に自分に向き合う。その突き抜けた向こう側には、自分だけでなく他者も見出せるはずです。そのときに、ひとは自律できると思うし、かつ他者とも共存可能な自分を発見できるような気がします。

自分の痛みがわかれば、他者の痛みもわかる。自分のよろこびがわかれば、他者のよろこびもわかる。使い古された社会通念や常識の枠組みの言葉ではなく、自己の体験や感覚に根ざした(ほんとうに個人的な)思考や感覚を見出せば、それはどんなものよりも説得力があるし、生々しい感覚を誰かに与えることができる。そのことによって誰かの心を動かすこともできるかもしれません。

まず、自分を生きろ、ということでしょうかね。と、なんだか難しくなってきましたが、詩人の語る言葉はもっとやさしくて心を打ちます。実は、読みかけの本が10冊ぐらいたまっているにも関わらず、本日、谷川俊太郎さんの「質問箱」という本を買ってしまいました。

4902516144谷川俊太郎質問箱
江田ななえ
東京糸井重里事務所 2007-08-08

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そのなかから、恋愛に関するふたつの質問と谷川さんの答えを引用します。他者との関わりを考えるときに、恋愛はわかりやすいですね。そしてここで谷川さんが語られていることも、実は自分に向き合うことの重要性ではないかと思います(P.24/P.58)。

質問七
どうして「この人がいちばん。いちばん好きだ!!」と
思う気持ちは終わってしまうんでしょうか?
なんで好きじゃなくなっちゃったんだろうー!!
自分でもわからーん!!
(gold 二十九歳)

谷川さんの答
「わからーん」と思う気持ちが大切です。
どうして、どうしてと自問し続けることが、
たとえ答えはなくとも
新しい恋を
豊かなものにしていくのではないでしょうか。
衣食住どれをとっても
人はひとりでは生きていけません。
人間は群棲動物ですから、
性を離れても他人を必要とします。
その対象が異性であれ同性であれ、
他人を好きになることのうちに
人間社会の基本構造があると思います。
恋のうちには友情も同志愛も含まれているもんね。
質問二十一
世界でいちばん大事でいちばん好きで
愛してるダンナ様がいるのに
職場で素敵な男性に出会ってしまうと、
すぐ恋をしてしまいます。
・・・・・・といっても、いつも誰にも言わないし言えない、
密かな片思いです。
その人とたまに出会って話すだけで十分満足なんですけど
いつか自分が暴走しちゃうんじゃないかって
妄想して心配したり、
そんな心配をする自分が不潔な気がして落ち込んだり、
いい大人なのに、なんだかぐるぐるして
アホみたいなのです。

「人は死ぬまで恋をする」って
聞いたことがありますけど、
こんなに恋ばかりしてたら
いつまで経ってもどこか落ち着かない
ふわふわした大人のまま
おばあさんになってしまいそうで心配です。

どうしたら、恋しやすい心をおさめることができますか?
どうしたら、ダンナ様だけを見つめて
暮らすことができますか?
(ゆん 三十八歳)

谷川さんの答
一人が一人を愛し続けるというのが
愛の理想だとは思いますが、
一人が二人を(あるいはもっと多くを)
それぞれのしかたで愛し続けるということも、
人間には不可能ではないと思います。
ただそれには
いまの社会が建前として合意している価値観
(たとえば「ダンナ様だけを見つめて暮らす」というような)
を超える価値観を、
他人に頼らずに自分で我がものとしなければなりません。
一夫一婦制の外に生まれた愛を
浮気とか不倫とかいう決まり文句で捉えていては
何も始まらない。
「不潔」「暴走」「妄想」という言葉で分かりますが
あなたはきっとまだ本当に恋なんかしていないし、
本当にダンナ様を愛してるのかどうかも疑わしいね。
誰かが誰かを好きになるということは、
生きていく上でいちばん大切なことだから、
自分の気持ちを恥じずに、もっと深く突きつめて
新しい自分を発見してください。

詩人の言葉は弾けていますね。しかしこのぶっ壊し方がなければ、詩というものも生まれないのでしょう。

自分を突きつめること。社会通念にとらわれないモノサシと、考え方を持つこと。なかなか難しいことではあり、社会のなかで揺らぐことではあるのですが、恋に限らず、そんな自分を究めた人間は、ほんとうに他人を変えるぐらいの生き様ができるのではないでしょうか。

究めてみたいです、自分を。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年11月13日

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賢者は何を選ぶか。

ほとぼりが冷めた頃に考察するのですが、梅田望夫さんがご自身のブログ「My Life Between Silicon Valley and Japan」で水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」という本について書評を書かれています(梅田さんのエントリーはこちら)。ぼくも、この本は読んでみたいなと思いました。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

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しかしながら、はてなブックマーク(以下、はてブ)で、梅田さんのエントリをあざ笑うかのような懐疑的なコメントがつづいたようです。ありがちなことだなあ(苦笑)と思いました。

ネガティブなコメントにうんざりした梅田さんがTwitterで、はてブのコメントにはバカなものが多いと批判したことにより、ついにブログが炎上。J-CASTニュース「梅田望夫、はてブ「バカ多い」 賛否両論殺到してブログ炎上」で読んで、久し振りにネットの在り方について考えさせられました。

梅田望夫さんのTwitterにおけるつぶやきを引用します。

「はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ」

うーむ、同感。その通りだと思います。

中学生の頃に本を読まずに読書感想文を書いて、しかもその感想文が先生に絶賛されて後ろめたい気分になったぼくは、少年時代をはるかに遠く過ぎ去ったいま、不誠実な自分を反省してきちんと本を読んでブログで感想を書こうと思っているところです。だからこそ痛切に感じるのだけれど、読んでから書け、というのは、まさにその通り。誠実じゃないよな、読まずに書くのは。作者にも、本にも、そして感想を読むひとにも失礼です。

それから某アルファなブログで、せっかくブロガーがいいことを書いているのに、訪問者がエントリとは関係のないくだらない自説を延々とコメントで展開している様相をみたことがあり、あまりのコメント欄の愚かさに脱力したことがありました。だから梅田さんの憤りはわかる。

最近、茂木健一郎さんとか梅田望夫さんの書物には新しさや惹かれるものがないので遠ざかっていたのですが、この発言における梅田さんの男気というかストレートな物言いにぼくは好感を持ちました。いいこというじゃん。

ただ、考察すべきポイントが多々あります。この梅田さんの発言はOKだとしても、OKではない発言があると思いました。たとえば次の3通りの発言について考えてみます。

a. はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。
b. はてぶには、バカなコメントは書き込まないでほしい。
c. はてぶのコメントから、バカな発言は削除すべきだ。

a.については○だとしても、ぼくはb.とc.については×だと思うんですよね。というのはネットにおける発言の自由を奪うのではないか、と考えるからです。

YouTubeに関しても、問題コンテンツを掲載するgoogleを批判した似たような指摘のニュースがあったように記憶しているのですが、ブログにしてもソーシャルブックマークのコメントにしても、ネットのサービスは入れ物を提供するだけであって、(個人のブログを土足で踏みにじるようなコメントは別として)一般に開かれているサービスには、基本的に何を書き込もうと自由ではないでしょうか。書き込むな、削除しろ、とはいえない。

しかしながら、いまぼくは性善説的なスタンスから理想論を述べています。常識的なモラルがあれば、あまりにも酷い発言はしないだろうという楽観主義から語っているわけで、誹謗中傷、差別、ひとを殺める予告などは当然いけません。法で取り締まるべきでしょう。

最近、仕事や人間関係のイライラという個人的な欲求不満から、どうせみつからないだろうと軽く考えて掲示板などにとんでもない発言を書き込んで逮捕されるひとも増えていますが、言っていいことと悪いことがあります。子供にはわからないかもしれません。だから大人が指導しなければいけないとは思うのですが、成人したよい大人が分別もなく酷いことを書き込むのは大問題です。

そもそも一国の総理大臣や官僚が問題発言をするぐらいなので、国民の口がすべて緩んでいるような気もします。慎みましょう。さらに問題なのは、明らかな問題発言よりも、法律では取り締まることができないような言っていいことのようだけれど悪いこと、なんですけどね(このびみょうなニュアンスが伝えにくい)。

一方でぼくは、入れ物(器)としてのはてなブックマークについて、機能的な愚かさもきちんと考えるべきではないかな、と思いました。というのは、設計思想に問題がある。

ブックマークしたついでに覚え書きとしてメモをする。そんな個人的な用途のためにコメントが書き込めるような機能が追加されたのではないかと思います。であればコメントを公開して共有する必要はないんじゃないか。いや、あれは集合知なのだ、たくさんのユーザーの感想があるからいいんだ、他者のコメントを参考にできるのがいい、という考え方もあるでしょう。

しかし何かを論じるとき、1行程度の限られたスペースできちんとした批判を論じられると考えること自体がおかしいですよね。あの狭いコメント欄に何か書こうとすると必然的に思考の一部を切り取ることになるわけで、思考の過程や背景を排除した極論になる。

脊髄反射的な思いつきばかりが書き込まれ、したがって感情論になりやすい。だいたいきちんと何かを述べようとするならば、自分のブログで論理的に自説を展開してトラックバックすればいい。すべての利用者がそうだとは思いませんが、トラックバックする勇気もなく、ひょっとすると自分のブログさえ持っていない、ブログも書けないようなひとが匿名で無責任なまま、はてブを利用している。プログラマーであれば終わらない開発作業のストレスを解消するために、仕事の合間に酷いことを書いて溜飲を下げている。愚痴を吐き出すには格好の場所です。集合知というより、ストレス発散の場所となっている。愚かなコメントが増えるのは当然でしょう。

あの場所に賢さを求める梅田さんがおかしい、というのも正論。そんなチープなサービスが梅田さんが理想とするような知になるかどうかもあやしい。せいぜいラクガキ程度の知になればよいほうで、文化の一部にはなるかもしれませんが王道にはなり得ない。ただの一行コメントに、過大な夢を抱いちゃいけません。

はてなは、あのサービスを設計するときに、ブックマークにコメント欄つけちゃったら便利だろう?ぐらいの安易な発想しかなかったのではないかな。グランドデザインのないままに作ってしまった思想のない技術とサービスが魑魅魍魎としたコメントを呼んでいるわけで、作ってしまったはてなにも責任がある。何やら新しいはてブもリリースしたようですが、結局のところ小手先でいじりまわしているような印象が否めませんでした。「お気に入られ」という機能にも首を傾げました。あってもいいけど、どうでもいいような気がする。というよりもぼくは、正直なところ、はてブに何も価値を感じていないんですけどね。

賢者を気取るつもりはありませんが、愚かではありたくないと思っています。そして、きれいなものだけで構成されているのが世界ではなく、邪悪なものも、汚れたものも世界には存在する。そのことは理解しておきたい。

リアルな都市においても同じでしょう。たとえば新宿には整然としたオフィス街もあれば、けばけばしいネオンに彩られた欲望の坩堝もあるわけで、ネットも同様、正しき場所もあれば悪しき場所もある。人間の作り出すものは、そういうものです。ぼくは悪しき場所が悪いとは思いません。清さも濁りも世界の一部であると受け止めていたい。濁りを排除して清さだけを求めるのも愚かであると思うし、逆に濁りのなかで安穏として清さに唾を吐くのもどうかと思う。

ただ、賢者であるためには

あやしげな場所には近づかない

ということが大切ではないかと思っています。

ときには魑魅魍魎的な不健康さに身をゆだねてみたいと思うこともあるけれど、その不健康さに蝕まれたり過度に依存するようであれば、距離を置くような判断力ならびに抑制力をつけたい。自分が弱い人間であることをきちんと認識して、だからこそ自分を大事にする。破滅的な何かにとらわれないこと。弱いがゆえに、弱さに依存しないこと。

要するに、こころを乱されるようなものには近付かない、見にいかなければいい、ということです。ぼくも、一時期は流行に流されて、はてブを使っていたのですが、これって愚かだなあ・・・と気付いてからは利用をやめました。

だいたい、ブックマークの数を大喜びしているようなブロガーもとんでもない愚かだと思っています。というのは、実はブクマで嘲笑されていたり、大量のブクマを付けることだけに喜びを見出すようなひとが、内容を読まずになんとなく付けて忘れ去られているだけのことも多い。個別の内容を無視して、数だけで大喜びしているのは愚の骨頂だとぼくは思います。むしろ、たったひとりのひとに共感と支持をいただけるほうが、どれだけうれしいか。

さて、ぼくが賢さについて考えるようになったのは、次の本を読んでいるせいかもしれません。

4872578279賢く生きる智恵 (East Press Business)
Baltasar Gracian 野田 恭子
イーストプレス 2007-08

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十七世紀に書かれた内容のようです。正直なところ、こういう本には眉唾なものが多く、全面的に信じるのはどうかと思う。しかし、きれいごとだけではなく、ときには裏技であったり、手を抜いたり、悪の視点から処世術についても書かれています。いろいろと考えさせられることが多くありました。

類は友を呼ぶ、といいますが、愚かな発言をしていれば愚かな魑魅魍魎を呼んでしまうし、清らかな言葉を使っていれば、その言葉に共感する仲間が集まる。どちらがよいかというと・・・ぼくは後者ですかね、いまのところ。

投稿者: birdwing 日時: 06:02 | | トラックバック (0)

2008年11月11日

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時間のしっぽ、情報のしっぽ。

あぁ、見逃したと思いました。テレビ番組ではありません。時計です。

11月11日11時11分11秒。1が10個並ぶ時間を見逃した。もちろんアナログ時計では醍醐味がなく、デジタル時計でしか確認できません。だからどうだ、ということはあるかと思うのですが、1が10個ですよ?大晦日に零時の鐘とともにジャンプして、おれ今年のはじめには地上にいなかったもんね、と言うのと似ている気がしますが、なんとなくこういう瞬間風速的に意味のある時間に対して無駄に拘りたいのですがどうでしょう。どうでもいいですかそうですか・・・(泣)。

ジンクスに拘るほうではありませんが、ふと時計を眺めて時間が555であるとファイズだ(注:仮面ライダー555ファイズという番組がかつてありました)と思う。そんなちいさな楽しみがあります。一時期は夜中に目覚めて時間を確認すると、4:44ばかりのときがあり、そのときはユーウツでした。目が覚めてしまったけれどまさか・・・と思って時計をみると、必ず4が3つ並んでいる。寿命が縮みそうな気がして、布団のなかにもぐり込みました。そんなことないのだけれど。

逆に書店で本を購入して、777円だったりするとうれしいですね。税抜きで740円の商品は777円になります。お買い物上手のひとは試してみてはいかがでしょう。そのレシートを財布に入れておくと、お金が貯まるかもしれません(保障はできません)。

地下鉄の駅で配布しているフリーペーパー「metropolitana」に「時間のしっぽを追いかけて」という特集があり、興味深く読みました。時計職人であるとか、時間に関連する仕事とともに、時間についての考察が書かれています。公式サイトは以下になります(サムネイル画像は、最新号のもの)。

■metropolitana
http://www.metropolitana.jp/
081111_metropolitana.jpg

しかしながら、いまブログを書こうと思ったらどこかへこの雑誌を紛失してしまった。そんなわけで記憶を辿りながら内容に触れるのですが、時間というものは人間の外部の時間と内部の時間があり、内部の時間については長さが決まっていない、長くなれば短くもなるということが書かれていました。

つまり、時間の流れに集中すると長くなる。これは授業で終りまであと何分・・・と時計ばかり眺めていると、時間が長く感じるということだと思います。また、場所の広さと時間も関係があり、広い空間のなかにいると時間は長く感じるそうです。宮殿などでは、広い空間のせいでゆったりと時間の流れを感じるため、気持ちも優雅になるのでしょうか。

ところで、時間旅行(タイムトラベル)といえば、昔からSFやファンタジーでは取り上げられるテーマでした。

よく知られたところでは、スピルバーグ監督の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作かもしれませんが、日本では筒井康隆さんの原作による「時をかける少女」でしょうか。大林宣彦監督の映画のほか、テレビのシリーズやアニメーションにもなりました。ぼくはどちらかというとNHKの少年ドラマシリーズの「タイムトラベラー」の印象が強いのですが、ラベンダーの香りで誰もが過去にトリップするのであれば、富良野のひとはどうなるんだ?と、どうでもいい心配をしてしまう。

時間旅行の作品には、まだ何かあったな、なんとなく引っかかっているな・・・と記憶のなかを探りつづけて、思い出したのが「タイムトンネル」でした。幼少のときに観たのでストーリーも何もわからなかったのだけれど、白と黒のおどろおどろしいトンネルがあって、そのなかを潜ると時間を旅することができる。スタートレック(宇宙大戦争)と並んで、うちの親父がよく観ていたテレビ番組でした。

いろいろと探していて、みつけました。英語サイトですが、これだ。

■The Time Tunnel
http://www.iann.net/timetunnel/
081111_timetunnel.jpg

うーん懐かしい。ひょっとしたら記憶の間違いかな、とも思っていたのですが、目的のものを探し出すことができてみょうな達成感があります。すっきりした。時間について考えているうちに、記憶の古い地層に眠っていたテレビ番組を掘り起こしてしまいました。

ぼくは忘れっぽいので、過去のあれこれを明確に覚えていません。記憶が明解であればモノシリとして尊敬もされたりするかもしれないのだけれど、ほんとうに過去のディティールに弱い。その忘れっぽさは弱点でもあるのですが、ときには忘れっぽいがゆえにしあわせでもある。ただ、何かをきっかけとして鮮明にそのときの風景が蘇ることがあります。ラベンダーの香り、というわけではなく、ある種の言葉であったりするのですが、封印された記憶をずるずると引っ張り出すきっかけとなる何かがあるようです。

記憶に関していうと、インターネットですべての情報を管理できる現在では、雲(クラウド、つまりネット)の向こう側へ記録を放り込んでしまえば、個人はきちんと覚えている必要がありません。インデックスとして、情報のしっぽさえ握っておけば、「ええと、去年の11月11日にはどうしていたっけ?」ということもデータのアーカイブから引っ張りだすことができる。脳内に貯め込んでおく必要はなくて、記憶の領域だけ、外部のブレインであるネットを活用できる。

ブログの次にくるのはライフストリーミング、ということが言われたこともありましたが、ライフストリーミングはあらゆる生活の断片を記録していく試みです。写真・動画やブログやネットからクリッピングした情報などを、時系列に沿ってどんどん投稿していく。日記の進化系のようなスタイルでしょうか。TwitterやFlickrなどのコンテンツを統合して、ユーザーが生活のなかでキャッチしたものを記録し、SNSのようにコメントなどでつながっていきます。

日本では、ソニーからライフストリーミングサービスの「Life-x」が本日、正式に公開されました。

■Life-x
http://www2.life-x.jp/
081111_Life-x.jpg

こちらはYouTubeからコンセプトのビデオ。

膨大な自分史という感じもしますが、今日の昼ご飯や服装を記録しても面白いかもしれません。数日でおしまい、という三日坊主であれば物足りないけれど、10年ぐらいつづけば、社会や文化の記録としても価値がある。個人的な法則性もみつかるかも。

時系列のシークエンスについては何度かブログにも書いたのですが、音楽も時間に沿って流れるものであり、言葉も基本的には時間軸に沿って読まれていくものです。さまざまなことに追い回されて時間がないのですが、時間とは何かについて思いを巡らせてみました。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2008年11月 8日

a001026

音の謎に迫る。

ビートルズのA Hard Day's Nightといえば、冒頭のジャーンという音が衝撃的です。長いあいだギター少年を悩ませてきたのは、どうすればこの音が出るんだろうか?ということだったのではないでしょうか。ぜったいにひとりでは出せない。しかし、バンドで、せーの!で弾いたとしても何かが違う。もどかしい。

なかなかよい映像とサウンドがなかったのですが、YouTubeからライブの映像を引用します。

A Hard Day's Night

数万円出せばデジタルの多重録音機材が買えてしまう現在では、あとから何か音を重ねたのではないか、ということを考えるのですが、当時は4トラックのマシンを使っていたようです。だから、それほど簡単に音を重ねられない。とはいえ録音されたものである以上、音の構成が解明できれば、あのじゃーんが再現できるはずです。

いま手元に「ビートルズ・レコーディング・セッション」という本があります。

081108_beatles.JPG

ちなみに背景にあるのは、ぼくのへフナーのバイオリンベース(本物。でも弦を張ってない。苦笑)です。ビートルズのポール・マッカートニーに憧れてつい衝動買いしてしまった一品でした。社会人バンドをやっていた時期ですが、当時勤めていた会社で、業績がよくて手渡しで貰った特別賞与で買いました。

その本の1964年4月16日の記録には次のように書かれています。ちょっと長いのですが、引用します(P.47)。

"A Hard Day's Night"というフレーズの生みの親はリンゴだった。ある日彼は、長い一日を終え、誰かに"It's been a hard day(忙しい一日だった)"と言いかけて、もうとっくに夜になっているのに気付き、そのあとに"'s Night"をくっつけたのである。このころ、ビートルズの映画はほとんどできあがっていたが、まだタイトルが決まっていなかった。そんなときにリンゴがふと口にしたこの言葉が、映画の雰囲気にぴったりだったので、正式なタイトルとして採用され、4月13日にプレス陣に公表された。これによってレノンとマッカートニーは、今までになかった類の難問を抱え込む。つまり、すでにタイトルが決まっている曲を書かねばならなかったのだ。しかし彼らは、例によってこれを軽くクリアし、数日で曲を書きあげた。そして4月16日、ビートルズはこの曲のレコーディングのためアビィ・ロードを訪れる。

まずはタイトルの由来とレコーディングの進行ですが、ドラムスのリンゴが何気なく口にした言葉がタイトルになってしまったんですね。映画を観ると、最初からそのタイトルと曲があったような印象ですが、レノン・マッカートニーはタイトルから曲を作ったとのこと。それであの曲ができてしまうのは驚きです。

プロは制限のなかで最大の仕事をするものだと、ぼくは思っています。たとえば、コピーライターであれば、指定された文字数の最後まできっちり書くとか、あと5分でコピー20本、という時間内で最高のものを提出する。そういう意味では、レノン・マッカートニーはアーティストであると同時に、当然のことながらプロのクリエイターでした。だからこそ商業的にも成功した。

ビジネスではちいさな約束をきちんとこなしていくことが重要ですが、そういう意味ではビジネスとしての基本ができています。今週は某大物音楽プロデューサーが詐欺によって逮捕されてセンセーショナルを呼びましたが、できないことをできるといっちゃいけないですね(苦笑)。作曲の面ではできたとしたとしても、仕事では堅実さや誠実さはとても大切です。

レコーディングの詳細についても引用します。

さして、困難な仕事ではなかった。5つの完全ヴァージョンのうち最後のもの、第9テイクが"ベスト"となる。4トラック・マシンを有効に使い、トラック1にはベーシック・リズム、トラック2にはジョンのファースト・ヴォーカル、トラック3には彼のセカンド・ヴォーカルとポールのバック・ボーカル、ボンゴ、ドラムス、アコースティックギター、トラック4にはエンディングのギターとジョージ・マーティンのピアノを入れた。
この曲の特徴あるオープニングについて、マーティンは言う。「映画とサウンドトラックの両方の冒頭を飾る曲だから、ことさら印象の強いオープニングにしたかった。あの不協和音のギター・コードは文句なしの幕開けだったよ」

アマチュアの安い機材でも8トラックぐらいは簡単に使える(しかもデジタルで)現代では、考えられない時代です。ヴォーカルとドラムスを同じトラックに録音しているのは、なんだかひどい(笑)。しかし、4つのトラックを有効に使うために、どのトラックに何を録音するか、ものすごく検討したのではないでしょうか。制限された状況で、あのじゃーんという音が作られたかと思うと、なんだか熱くなる。

えー余談ですが、この本は現在絶版になっているようで、Amazonで価格を調べたところ14,769円~ 20,000円になっていました。購入したときの定価は3,000円で、それでも当時のぼくには高い買い物だな、どうしようかな、と思ったことを覚えています。けれども、この本は買っておかねば、と鼻息を荒くして購入したものです。初版は90年の7月で、ぼくの持っているのは94年の第4版なのですが、価値が出たものだなあ。

4401612973ビートルズレコーディングセッション
内田 久美子
シンコーミュージック 1998-12-10

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さて、前置きが長すぎたのですが、A Hard Day's Nightの謎のじゃーんの秘密を数学者が解明した、という記事がWIRED VISIONに掲載されていて、へーっと感心して読みました。11月6日の「ビートルズ名曲冒頭の音の謎」を数学者が解明という記事です。「英ダルハウジー大学[数学・統計学部]のJason Brown教授が、半年という時間と、高度な数理解析技術を費やしてついに解明した。」とのこと。まず以下を引用します。

Brown教授は、フーリエ変換を使って標本化(サンプリング)された音の振幅を分解し、原音の周波数を求めることでこれを突き止めた。[リンク先の記事は、和音の個々の音を解析し、自由に編集できるプログラム『Direct Note Access』の紹介。音声編集ソフト『Melodyne』で知られる独Celemony社の技術]

うーむ。音声の解析ですね。すごい。論文のPDFのファイルは英語だったのでなんとなく敷居が高かったのですが、以下の解析データになんとなくすごいなーと感じました。データに弱いわたくし(困惑)。

和訳されたWIRED VISIONから引用するのですが、Brown教授は以下のように推測していきます。

「では、他の3つのD3音はどうだろうか?[レポートによると、D3が4つ聞こえた後にF3が3つ聞こえるが、4つのD3のうち、ひときわ大きい1音はポール・マッカートニーのベースと考えられ、残り3音が謎とされている]

ジョージ[・ハリスン]の12弦ギターでは1つの音しか出せず、ジョン[・レノン]が6弦ギターで別のD3音を出していたとしても、まだ1つ残る。(中略)ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンは、この楽曲でジョージ・ハリスンのソロの上にピアノの音を重ねていたことが知られている。では、『問題のコード』の一部はピアノの音なのだろうか?」

[さらに、F3が3つ聞こえる謎については以下のように説明している。]「[この周波数帯域では、]、ピアノのハンマーは、3本の弦を同時に叩いて1つの音を出している。これで、F3の音が3つ聞こえる問題については説明がつく。すべて、ピアノが出しているF3音の可能性が考えられる」

つまり、この周波数帯域では、ピアノ内部のハンマーが、平行に張られた3本の弦を叩くことで、3つの音が出されているのだ[ピアノの弦は、高・中音部では1鍵について3本、低音部では2本または1本を叩く]

ここであらためてレコーディングセッションの記事に戻るのですが、「トラック4にはエンディングのギターとジョージ・マーティンのピアノを入れた。」とあります。つまりトラック4に冒頭のギターに重ねるピアノを入れた可能性も高い。

081108_cord2.jpg解析された音の構成は、右の楽譜のようです(出典は、PDFファイル)。

音楽をそんな科学者的に聴くことがどうなのか、ということもありますが、アートとテクノロジーが交差するところにぼくは惹かれる。アナログレコーディングの時代に、偶然にも似た試行錯誤から生まれた音に対して半年もの時間をかけて分析した数学者の頭脳に拍手を送りたいと思います。

そういえば、ドラッカーもビジネスにおける予期せぬ成功を分析しなさい、ということを書いていたように思いました。偶然を偶然としてブラックボックスのなかに入れて満足してしまうか、偶然がどうやって生まれたのか解明するか、そのスタンスだけでもずいぶん違う。

ただ、アーティストはそんな科学者たちの分析を超えるような何かを生み出してほしいですね。

なんとなく名探偵コナンと怪盗KIDの関係を思わせるようなところもありますが(マンガがわからないと意味不明ですよね。苦笑)、アートを生み出すものとクリエイティブの謎を推理するものという、創造と解明の戦いは続けてほしいと思います。

投稿者: birdwing 日時: 23:12 | | トラックバック (0)

2008年11月 3日

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共感覚、表現の可能性について。

頭のなかにあるイメージを文章・絵画・音楽などで表現するとき、創造の枠組みとして既存の作品をベースにする場合もありますが、もやもやっと感じている原初的な"何か"が元となる場合もあります。

"何か"とは、ことばでもありビジュアルでもあり音でもある"何か"です。たとえば冷たさ、鮮やかさ、騒々しさであり、あるいは怒りやよろこびの感情であり、しかもそれらの複合体であるような。

この"何か"を素材と考えると、素材の加工によって文章にも絵画にも音楽にもなるのではないか。つまり加工の手法は異なっていたとしても、文章も絵画も音楽も表現の根幹となる素材は同じなのかもしれない、というような確かめようのない仮説というか妄想をぼくはずっと抱いていました。

ぼくらは、作家/画家/音楽家という分化された"職業"から芸術を考えがちですが、もしかするとそれは社会の制度という枠組みに囚われているだけであって、もともとはアーティストという大きな表現者だけがあるのかもしれない。進化の過程で単細胞の生物がさまざまな種を経てトリやサカナに分化していったように、表現者の進化論のようなものもあるんじゃないのかな、と。

もちろん、根幹はひとつだといっても、ジャンルを横断させた表現ができるかといえば、なかなか難しいものです。

たとえば文章を書き、絵画から音楽まですべてひとりで表現できるようなマルチな才能を持つアーティストがいるかというと、そう多くは存在しません。強いてあげるとレオナルド・ダ・ヴィンチのような人物かもしれませんが、それぞれの道を究めるのは大変なことだし、簡単に他に応用できるものではない。だからこそスペシャリストとして、作家がいて、画家がいて、音楽家がいるのだと思います。

しかしながら、音を編み出すときに映像的な何かが刺激を与えることもあるし、絵画のようなイメージが小説に影響を与えることもあります。

ぼくは趣味のDTMで日記を書くように音楽を作る、というコンセプトで制作しているのですが、意識的に視覚のイメージを曲に"翻訳"するように心がけています。休日の雲であるとか、星空だとか、窓に映る木々の影であるとか。そんなビジュアルをアタマに描きながら、曲というカタチにしていく。といっても、これはとても個人的な心象風景なので伝わらないことも多い。むしろ伝わったとき、共感していただいたときのほうがぼくも驚きます。

ところで、以前にNHKの番組を観て興味を持ったのですが(エントリーはこちら)、数字を色として認識してしまうような特異な能力を持つひとたちがいるようです。この知覚現象は「共感覚」と呼ばれるとのこと。

Wikipediaの「共感覚」の解説は非常に興味深いのですが、特に音楽についての解説が面白いと思いました。音を色として感じる場合は「色聴」というらしい。以下、引用します。

共感覚の中でも、音楽や音を聞いて色を感じる知覚は「色聴」といわれる。絶対音感を持つ人の中には、色聴の人がいる割合が高い。日本人には色聴が多いと言われることがあり、少なからずヤマハ音楽教室が階名教育の際に使用している色(赤=ドなど)等の過去の経験が影響していると言われたが[要出典]、それと一致しない場合が多く、実際にはほとんどの音楽家・作曲家にとっては無関係である。

ヤマハ音楽教室のせいで「色聴」が多いというのはすごいですね。

ぼくは日本人に「色聴」が多いのは、漢字という言語を使う文化のせいかもしれないと考えました。象形文字は、音とビジュアルがひとつのことばのなかにセットで表現されています。もちろん言語に音階はあまり関係ないのかもしれませんが、音とビジュアルをセットにした文字を日常的に使っている日本人は、逆に音から視覚的なイメージを容易に引っ張り出すのではないか。

それにしても多くの日本人がド=赤という認識を持っているとすれば、面白い。赤の札をあげるだけで、ドの音をイメージするなんてこともあるのでしょうか。

共感覚については、10月24日に日経BPネットの斉藤孝さんのコラム「齋藤孝の「3分間」アカデミー」にも取り上げられています。「人間の身体はすごかった!「情動」の驚異~感応バージョンその2」を興味深く読みました。

冒頭では「共感覚者の驚くべき日常」という本から、2000ヘルツの音を聞かせると「ピンクがかった赤い花火みたいに見える。細長い色が、ざらざらと不快な感じで、味も悪い。塩辛いピクルスに似ている。(中略)触ると手が痛くなりそうだ」という視覚的なイメージとしてとらえる男性の話を引用されています。

4794211279共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人
Richard E. Cytowic 山下 篤子
草思社 2002-04

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これは特殊な例ですが、その後で、どんなひとであっても会ったことのない誰かとはじめて電話で会話するときには、そのひとの骨格、つまり姿かたちをを想像している、という例を挙げています。以下、引用します。

私たちは会ったことのない相手と話すとき、その受話器の声から、無意識のうちに相手の骨格まで想像しているはずだ。野太い声なら武骨な体躯を、か細い声ならやせ型の体型を、といった具合である。ついでにある種の期待を込めて、美形かどうかも勝手にイメージしてしまうものだろう。

確かにそうですね。電話で会ったことがないひとと話しながら声の印象から、宇多田ヒカルみたいなひとかな?などと考える。携帯電話の音声は高音がカットされるので、実際に会ってみるとまったくイメージが違うこともありますが、この試みは、ことばや話し方のトーンという情報の断片からリアルという像を結ぶための練習になります。

なんとなくぼくが考えたのは、コミュニケーションを補足する上で、共感覚というのは人間に備わっている原初的な機能なのではないか、ということでした。その感覚が研ぎ澄まされると特異な感覚となりますが、うまく利用するとスムースに考えを伝達できるための補助となる。そして、できる限り他者を理解したり共感ができるように、ぼくら人間には共感覚という能力があらかじめ備わっているのではないか。簡易版のテレパシー受信機のようなものとして。

テレパシーというとSFまがいの発想ですが、潜在的な共感覚を呼び起こすためのツボをちょっと突いてやること、そのことによってより強い共感が生まれるのであれば、これはもはや現実的なテレパシーの技術と考えることもできそうです。

ツボをつかむだけでコミュニケーションロスが少なくなり、ああ!あれか、とすぐに共感できる。クオリアと呼ばれるものが個人のなかにある個別の感覚であれば伝わらないかもしれませんが、共感覚がクオリアをつなぐ触媒となるのかもしれません。スタンドアローンのパソコンがネットワークによって他のパソコンとつながる、そんなイメージを想像しました。

わかりやすさ、伝わりやすさの技術という面では、斉藤孝さんは「スポーツオノマトペ」という本から、跳び箱を教えるときのコツについて書かれた部分を参考にしつつ解説されています。

4093877998スポーツオノマトペ―なぜ一流選手は「声」を出すのか
藤野 良孝
小学館 2008-07

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「助走をつけて踏切板でジャンプし、両足を広げると同時に両手をまっすぐに伸ばして跳び箱の上に突き、向こう側に着地する」という説明をするよりも、「サーと走ってタンと跳び、パッと手を突いてトンと着地する」と教えたほうが跳べるひとが増えるらしい。確かに、理屈で解説されるよりも、オノマトペ(擬音)で表現したほうが身体に響く。リズムをつかみやすい。

そして次の言葉に頷きました。

だとすれば、私たちは自分の発する言葉をもっと大事にしたほうがいい。同時に、人の発する言葉に感応する身体も必要だ。特に大人の場合、子どもに比べて感覚が素直ではないので、思い込みや理性を優先しがちだ。しかしそれでは、相手の重要なメッセージを見落としてしまうことになりかねない。

前衛芸術家の表現がどこかぼくらの現実から遠くなって居心地の悪さを感じさせるのは、アタマで考えすぎなところがあり、つまり身体感覚から遠いところで表現しているせいではないでしょうか。しかし、どんなに前衛的であっても身体に訴えかけてくるものは、思考することなしにそのよさが"わかる"。理屈の裏づけがなくても、すーっと表現が思考あるいは身体に入り込んでくる。

ぼくはキーボードを打つのがもどかしくて(といってもブラインドタッチですが)、脳内からダイレクトにパソコンにジャックインしてブログを綴れるといいのに、と思うことがあるのですが、さらに痛みや動悸、発熱や高揚感などを含めて身体的な感覚を文章に翻訳できたらいいのに、とも思いました。もしそんなことが可能であれば、冷めた2バイトのフォントであっても、熱を持ち、奔放に語りはじめるのではないか。

黒川伊保子さんは、「恋するコンピュータ」という本のなかで、息の区切れである文節が思考の区切れでもあり、コンピュータが感情を持つためには息継ぎをすることが必要、というようなことを書かれていました。

448042458X恋するコンピュータ (ちくま文庫 く 23-1)
黒川 伊保子
筑摩書房 2008-08-06

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コンピュータではありませんが、表現する頭脳というCPUをもつ人間として、黒川さんの主張にぼくは共感しました。そして、共感を呼ぶための文体を獲得するためには、書く内容も大事だけれど身体的な息や"気"の流れのようなものを創造する必要があるのではないか、と考えています。

理論ばかりで構築すると文章は冷めてしまい、読み手のこころの温度と合わない。適度のぬくもりが必要であり、リアルな息吹きが必要ではないか。読んでいて、そのひとのまなざしであるとか、語り口を思い出させるような"ぬくもりのある"文体が理想です。できれば、微笑んで佇むそのひとの記憶を脳内に再現するような、そんな文体であってほしい。

あまりスピリチュアルな方面にのめり込むと危険ではないかとも感じていますが、言葉を理解させるのではなく、"感じさせる"ためには、そのひとの息遣いを再現するような文章が究極といえるのではないか、と考えました。

文章であったとしても、理解を超えた五感を総動員した力強さで説得できる表現があるような気がします。それはフォントという無機質なものを超越した熱い身体的な文体であり、実体のない意味をフィジカルな質量に変えるぐらいの力をもって、ダイナミックにこころを揺さぶるような表現かもしれません。

そんな文章を書くことができれば、きっと読み手の五感に訴え、リアルに近い再現性をもって共感させ、広告用語でいえばシズル感のある(みずみずしい)表現になるでしょうね。といっても、これは究極の表現についてひたすら追及するぼくの夢想でしかありません。

あらためて考えると、ぼくの大学時代の卒論は、文体と身体の関係性がテーマでした。いまごろ浮上してきた卒論のテーマに困惑しつつ、共感覚についてもう少し調べるとともに、認知科学のような側面からも、表現の可能性について考えていきたいと思います。

投稿者: birdwing 日時: 23:01 | | トラックバック (0)