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2007年2月 9日

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シンプルという豊かさ。

夜、会社からの帰り、電車に乗っているうちに雨が降ってきたようでした。昼間は晴れだったかと思うのですが天候も変わる。けれども傘を差さずに濡れながらの最寄り駅から自宅までの帰り道、気分はなんとなく爽やかでした。冷たい雨が心地よい。肉体労働気味な1週間でしたが、そんな疲れを癒してくれるような雨でした。こんな雨もいいものです。

今夜はそんな雨でしたが、趣味のDTMで青空の曲を作っています。仮タイトルは「Edge of the blue(青の周縁)」。水曜日頃だったでしょうか、明け方に夢見心地の頭のなかに音が鳴っていて、あーもう眠いから静かにしてくれ、と思っていたのですが、いつまでも鳴りやまず、仕方ないのでごそごそと起き上がってPCを立ち上げて、DTMで打ち込みしてみました。といっても、打ち込んでみると夢のなかの音とはギャップが生じる。こんなんじゃなかったんだけどなあ、と後頭部を掻くような感じです。

ぼくは色彩のある夢をみるタイプですが、テキストだけの夢、音楽だけの夢というものもあります。夢のなかで蛇がぐるぐる回って自分のしっぽを噛むようなイメージから大発見をしたのは誰でしたっけ。そんな風に人類の歴史を変えるような大発見の夢をみることができれば、それはもうしめたものですが、ぼくがみるのは大抵、起き上がってから頭を抱え込むような(寝起きが悪くなってしまうような)不可解な夢ばかりです。残念。

「Edge of the blue(青の周縁:仮)」は、同じ和音の進行を延々と繰り返すような曲です。喩えるならば、パッヘルベルのカノンでしょうかね。カノンはうちの奥さんが好きな音楽で、結婚式のときにも使ったし、なにしろ長男は生まれてくるまで「カノンちゃん」と呼ばれていました(苦笑)。たぶん胎教としてこの曲をずいぶん聴かせた気がします。すっかり女の子のつもりでいたのに、生まれてきたのは男の子で焦りましたが。

とはいえ新しいDTMの曲は、さっそく行き詰まりも感じていて、もしかしたら正式な発表には辿り着けないかもしれません。まあ、そんな曲もあります(というか、そんな曲ばかりがいっぱいある)。音を重ねるにしたがって、どうも違うな、という感じになるのが問題です。もちろん夢のなかで鳴っている音を正確に表現できること自体が困難だとは思うのですが。最初のシンプルなコードのほうが、あれこれ手を加えた音よりも数倍いいこともある。

そんなことを考えつつ、思索をめぐらせてみました。

豊かさというのは通常、多様でいろいろなものがたくさんあることを想像しますよね。お金があったり、たくさんのひとがブログにアクセスしてくれたり、名刺交換した人脈がいっぱいあったり。それが豊かさだと思う。でも、ひょっとしたら、豊かさというのはシンプルなものなのではないか。余計なものを排除すること、これだというチョイスだけを大切にすること。それが豊かさではないか

選択することって、贅沢じゃないですか。選ばずにあれもこれもよしとすることは、かえって貧困な感じがする。たくさんある多様性を容認しつつ、ぼくはこれに決めた!と、ひとつを選択すること。それはたまらなく贅沢で、豊かなことのように思います。選択することは、選ばれなかった多数を排除することでもあります。地と図を切り分けることでもある。切り分けずに優柔不断に不特定多数を許容することは、はたして豊かなことなのか。むしろ、シンプルなほうが豊かになれるのではないか。

自分の選んだことに覚悟を決めること。選ばれなかった何かを考えるのではなく、自分の選択を大切にすること。これが大事だと思いました。

複雑なテンションによる和音ではなく、ただ一音だけをぽーんと弾くこと。その一音が響き渡る空間を大切にすること。それはたまらなく豊かなことではないでしょうか。言葉も同様です。大量の言葉で説明したり、深く知りもしない科学の知識を振りかざしたり、哲学的なフレームワークを引用するのではなく、ひとことだけれど一生を変えるような重みのある言葉を投げること。それが重要ではないか。そのことでちょっと思い出したのは、重松清さんの小説「その日のまえに」で、病気で亡くなった妻が主人公に残した遺書の言葉でした。

4163242104その日のまえに
重松 清
文藝春秋 2005-08-05

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これは泣けた。短い一文なのだけれど、だからこそ効いた。

静かな水面に小石を投げ込む。投げ込まれた小石はちいさいけれど、次第に大きな波紋を描いていく。そんな言葉を使えるようになりたいものです。意図的ではなく、誠実な気持ちから。誰か他者をその言葉によって追い詰めるために使うのではなく、また自分自信の見栄のために使うのではなく、他者を生かすためにささやかな小石のような言葉を静かな水面に投げ込めるようなひと。そんな人物になりたいものです。

抽象的でしょうか(苦笑)。雨が降ると、ぼくはどうやら観念的なことを考えはじめてしまうようです。そして、やはりちょっと疲れているのかもしれない。疲れた心と身体に、いまTHE DRUTTI CORUMNの「KEEP BREATHING」の音楽が静かに染み渡っていきます。コクトー・ツィンズとこのアルバムのレビューは、明日以降にゆっくりと書くことにしましょう。

B000DXSD12Keep Breathing
The Durutti Column
Artful 2006-03-07

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ぼくはいま、ぼくの人生も捨てたものではないな
と、思ったりしています。ひとりごと、ですが。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年12月26日

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私的ウェブ人間論-2:自分を探さない。

ウェブ人間とは何か?ということを考えているわけですが、ウェブ人間は大量の情報を摂取する生き物ではないでしょうか。梅田望夫さんのように300〜400のブログを閲覧するというところまではいきませんが、それでもぼくもRSSリーダーに登録するブログは増えていくばかりです。調べ物があってGoogleなどで検索すれば、ヒットした下位のサイトもリンクを辿って読みたくなるし、ブログにリンクされている情報からさらに別のサイトを読んでしまったりする。なろうと思わなくても、自然と訪問するサイトが増えていってしまうものです。

その情報をひとつひとつアーカイブしていたら自分がパンクするので、ブックマークする、インデックス化する、そして読んで忘れる。情報化社会の大量な情報に立ち向かいながらフットワークを軽くするためには、情報を抱え込まないことが大事かもしれません。当たり前といえば当たり前のことですが、まずはそこからスタートしてみます。

▼情報を切り替える、横断する、つながる。

かつてザッピングというテレビを視聴するスタイルがありました。これはリモコンでがちゃがちゃとチャンネルを変えながら、複数の番組を視聴するスタイルだったかと思います。たいていCMになると切り替えるのかもしれませんが、多様な番組を選択する楽しさがあります。インターネットも同様に、大量の情報を並行して切り替えながら、あるときには深く、あるときには広く浅く、チャンネルを切り替えていく。

そんなネットのスタイルがリアルライフにも影響を与えつつあるのではないかと思うのですが、というのも最近ぼくは鞄のなかに最低3冊の本が入っていて、それらを切り替えながら読んでいます。すると引用されている別の本が気になったりして、途中で本屋に立ち寄ってまた買ってしまったりする。関連性がないと思って購入した本が、実は同じようなテーマだったりすることもあります。

昨日、渡辺千賀さんの「ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない)」を読み始めたのですが、同時に読み始めた本に「ドラッカーの遺言」があります。

4022731222ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない) (朝日新書)
朝日新聞社 2006-12-08

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4062820005ドラッカーの遺言 (講談社BIZ)
窪田 恭子
講談社 2006-01-20

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ドラッカーの本は、先日ブログにもコメントをいただいたCacaoさんのブログで知りました。ドラッカーについてはきちんと読んでおきたいと思っていたので、タイムリーでした。読み始めたところ、とてもやさしい言葉で語られながら、ものすごく先見性に溢れている。時折挿入される個人的なエピソードがあたたかい。よい本です(ドラッカーの言葉とは関係のないイメージ写真もたくさん挿入されているのですが、これは要らないんじゃないのかなとも思いますが)。

で、この「ヒューマン2.0」と「ドラッカーの遺言」がどういうわけか自分のなかでつながっていってしまうんですよ。というのも「ドラッカーの遺言」でインド人の優秀さについて書かれているのですが、これはプログラマーの面からも「ヒューマン2.0」につながっていく。変化の時代の新しい働き方について渡辺さんは現場から伝えようとしているのですが、その現実はドラッカーの先見に裏付けられているような気がします。

ドラッカーは、いま日本は苦しい時代にある、というようなことを書いています。なぜ苦しいかというと、変化の時代だからです。変化の時代だからこそ、みんな迷う。迷って自分を見失う。

そんなわけで自分を探すためにブログを、という発想も生まれますが・・・。

▼自分を探さない。

自分探しのためのブログってどうでしょう。ぼくもそう考えていた時期があるのですが、最近はどうかな?と思っています。そもそも探さなくても自分はここにいるものであり、またどこかにまったく別の自分(分身?)がいるのではないかと探してみたところ、しょうもない自分しかみつからなかったら失望しませんか?

書くことがない、書けないということもよく言われるのですが(というか作文の宿題をしている息子によく言われるんですけど)、それはたぶん肩に力が入っているからではないでしょうか。さあ美文を綴ろうかと意気込むのではなく、好きなことって何?という、ほんとうにありふれた生活の感情的なことからはじめればいいと思うんですよね。

3歳の息子に「好きなものって何?」と訊いてみると、「カレーがすき。でも、なっとうはきらい」という言葉が返ってきました(納豆も美味しくいただきましよう。栄養だってあるし)。

ぼくはブログは基本的にこれでいいと思っています。自分が何が好きなのか、そのことをまず書く。次にどうして好きなのか、その理由を考える。さらに好きなものについて検索して、その背景などの知識を深めていく。カレーが好きであれば、起源とか種類とかおいしい店とか、ネットで調べてわかったことを公開してみる。次に自分でもお店に行ってみる。作ってみるのも楽しそうです。作ったらブログに書く。それでいいんじゃないの、と。

ただし、ここでちょっと留意点なのですが、好きなものを追求するのであればともかく、嫌いなもののほうを追求するのはおすすめしません。加速的にダークな世界に落ちていってしまうので(さらにダークなコメントを誘発することにもなります)、ぼくは気をつけたほうがよいと思います。さらに、ネガティブな発想は自分のなかにネガティブループを生むことにもなる。だからできれば、好きなことを追求するのがいい。

自分を探すことを人生の目的にするのはどこか寂しい気がします。なんだかそれは勉強するために、勉強のノウハウの本を読むようなところがある。好きなものを追いかけているうちに結果として自分がみつかる、ということがいいと思います。興味のあることを追求していった結果、ああ、自分ってこういう人間だったのか、と自分がみえてくる。それがいいのでは?

好きなものがないのであれば、仮にいまから5秒以内に出会ったもの(ひと)を好きになってみればいいのではないでしょうか。ぼくは映画をほとんど観なかったのですが、ぼくの父は映画が好きだったようです。父が亡くなったときに、彼が好きだった映画とはどういうものだろうと観はじめたのが映画に興味を抱いたはじまりであって、とはいえ、ぼくは怠惰な人間なので、放っておくと観なくてもいいや、と安易な方向に流れてしまう。そこで年間100本観てみようかと目標を立ててみました。その目標は8割ぐらいしか達成できていないのですが、量が質に転じるときがあるもので、最近では映画を観るのがほんとうに楽しみです。楽しみなんだけどやっぱり観る時間がなくて延滞料金まで払ってレンタル屋に返しに行くこともあるのですが。きっかけは何でもいいと思います。ぼくの場合には父の死が映画を観始めるきっかけだったのですが、そんなに大きなものでなくてもいい。ぴんときたものを追求してみればいい。ダメだったらやめればいいだけの話です。

自分を探すよりも、自分の外側にある何か好きなものを探したほうがいいと思います。

▼参照と選択とリンクが自己である、という考え方。

自分で曲を作る、文章を書く、絵を描くなど、そんな特別なことをしなくても、自分は表現できます。たとえば服を着るときに、その服は自分で作ったわけじゃないですよね(もちろん自分で作る器用な方もいるかとは思うのですが)。これから着ようとする服は自分で作ったものではないけれど、どんな服を着るのか、そのチョイスによって自分を表現できます。つまり選択することによって、間接的に自分を表現しているわけです。

ウェブ人間は、選択と参照によって自己を表現します。参照について考えてみると、自分でビデオを用意してエンコードしなくても、YouTubeに掲載された誰かのビデオを引用することで自分のコンテンツの一部に加えることができます。ぼくは昨日、押尾コータローさんのビデオを引用したのですが、ブログのテキストを書きながらYouTubeのアドレスと「watch?v=O9V7Q2a9FPI」というパラメーターと「movie」というはてな記法を記述するだけで、ブログに表示することができる。その手軽さ、コンテンツを所有するのではなく借りてくるというスタイルが、ウェブ人間的であるような気がしています。

音楽もそうだと思います。いくつかのエントリーで書いたのですが、たとえばモータウンっぽいとか(先日ブログで引用したAztec Cameraの「Somewhere In My Heart」は、かなりモータウンなどを意識していると思います)、過去の何かとリンクしている音楽、過去を基盤としてその上に積み上げられた音楽がぼくは好きだし、かっこいいと思う。自分のルーツ(根源)ときちんとつながっているという感じでしょうか。それは真似ではないと思うし、借り物でもないと思う。憧れみたいなものかもしれません。参照やリンクは、憧れの一形態だったりして。

自分という個体は、さまざまな関係性の全体のなかの一部として存在しています。親戚関係もそうだろうし、会社や学校という組織も同様です。地域社会というコミュニティにおける個人もあるだろうし、ネットというバーチャルな社会のなかの一員でもある。自分のなかにあるものだけが自分ではなくて、自分の外にある関係性もまた自分である、ということを忘れずにいたいものです

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会社から帰宅する時間には、東京は土砂降りの雨でした。凄かったですね。けれども傘を叩く雨の音を聴いていて思い出したのは、alva noto+ ryuichi sakamotoの音楽でした。alva notoが多用するぶつぶつというノイズは、傘を叩く雨の音に似ていると思う。で、先日、そのDVDが出ていたので買っちゃっいました。限定版ということで売り切れてしまいそうだったので。

B000L213PSInsen Live [DVD] [Import]
Raster Music 2008-12-29

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よかった。いいですこれ。アコースティックな坂本龍一さんの音楽に電子的なカールステン・ニコライさんの音が重なっていって、背後には幾何学的な光が映し出される。このビジュアル、音楽的な視覚だと思いました。視覚の音楽だと思う。じーっと光に集中しているうちにひき込まれて、なんだかものすごく癒されてしまった。ぼーっと意識が遠のいていった。

なんとなくその幾何学的な世界は観終わったあとにも持続していて、仕事でレーダーチャートのグラフをみながら、alva notoのステージでMacが置かれていたテーブルを思い出してしまった。とても実験的な音楽であり、こういう音楽は自分にはできないな、と思うのだけれど、その音楽が創り出す時間というものが、途方もなく尊いものに思えたりする。

あ、いま外で雷が鳴っているのですが(0:16)、そんな自然の音の尊さにも通じるものがあるのではないでしょうか。雷の音もいい感じのノイズです。自然にはかなわないな。

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なんと、これもまたYouTubeにあった。Trioon Iもいいです。

■Berlin

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年11月27日

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新聞は、死なない。

父の墓参りに行ってきました。墓のなかの父と対話しつつ、あらためて思い出して考えたことがあります。

以前に勤めていた会社で、ぼくはある調査パブリシティ(独自調査をやってPRすること)を自主的に企画して実施したことがありました。ランキング調査の一種だったのですが、幸いなことにコネクションを総動員することによって、ちいさいけれども日経新聞で取り上げていただけた。それが嬉しくて帰省したときに父に報告したところ、晩酌の焼酎(お湯割り)を傾ける手を止めて、一瞬考えた後で、父はぼくをまっすぐにみつめて次のように言いました。

「おまえはそれを面白くてやったのか?それとも、そのことで何か世のためになると思ってやったのか?」

絶句でしたね。どちらかというと前者だったからです。

まだ若いぼくは、世のなかのためになるなんてことは考えもしなかった。まずは話題性のある面白い調査結果を提供することにより、マスコミを通じて自社をアピールすればよい、と考えていました。ところが父は、ランキングの下位の組織にとって調査結果が参考になるのかならないのか、ただ結果を面白おかしく提示することで上下関係(格差)を煽るだけの下衆な記事に過ぎないのではないか、ということを追及したかったようです。

高等学校の校長として、父は偏差値教育の弊害などに悩んでいた第一線の教育者だったので、意識するしないに関わらず、その厳しい批判はつい口から出てしまった言葉かもしれません。あるいは頼りない長男に対するいつもの厳しい指導だったのかもしれない。しかしながら、新聞に掲載された、というただそれだけで有頂天になっていたぼくは、親父の言葉にへこみました。ちっきしょーいつか世のためになる仕事をしてやる!と心に誓ったものでした。

いまぼくは世のためになる仕事をしているのか、というとまるっきり自信がありません。日々の経済的な雪かきに追われているだけのような気もします。最近、ブログも文学や映画やレンアイなどの軟弱な話ばかり書いているのですが、ふと冷静になってみると、自分を対象化できていないべたべたな内容で、そんな軟弱なテーマで好奇心によるアクセスを稼いでも仕方ないと思います。情けない。

志は高く持っていたいものです。ぼくは結局のところ、いまでも父を超えていないのですが(悔しいけど、まだまだ超えられないなあ)、あと10年後にみてろ、と野心も抱いています。そのためにはとにかく背筋を伸ばすこと、前を向くこと、紳士でありつつ日々謙虚にあらたな知識を吸収し、未来を構想し、正しいと思ったことを継続していきたい。まだ間に合うはず。というか間に合わせてみせましょう。

そんな熱い思いになったのは、外岡秀俊さんの「情報のさばき方」という本を読了したからです。この本はすばらしいと思いました。

外岡秀俊さんは朝日新聞東京本社の編集局長であり、30年近く現場で記者の仕事をされていたそうです。その後、GE(ゼネラル・エディター)という職で、紙面に対して全面的に責任を負うポジションになられた。朝の会議で30分で紙面構成を決めるという仕事ぶりにも驚いたのですが、徹底したプロの仕事ぶりと現場から得たナレッジの体系化にまいりました。ブログで社会的な文章やニュースを書きたいと思っている方、そうでなくても情報をさばく必要のあるビジネスマンの方には一読の価値がある本だと思います。

かつて、ブログは新聞などのジャーナリズムを抹殺するのではないか、という議論もありました。しかしながら、この外岡秀俊さんの本を読んで、それはありえないのではないか、と痛感しました。まず書き手=記者としての志の高さがぜんぜん違う。報道する(=情報発信する)基本姿勢がアマチュアのブロガーとはまったく異なります。そして、伝統ある組織力としての先輩たちの指導と、培われた実績やノウハウ、現場の厳しさがまったく違う。

情報のウラを取る徹底したチェック体制もすばらしくて、語られている要諦にいちいち背筋が伸びる思いです。仮説思考にも通じる記事の検証方法もあって、これは文章だけでなく企業の戦略立案にも使うことができる。考えどころ満載なので、今週はこの本から示唆を受けたことを中心に書いてみたいと思っています。

この本のなかでは情報をさばくノウハウが惜しげもなく公開されているのですが、ノウハウを全面的に公開しているところも朝日新聞の余裕という気がしました。というのは、ノウハウだけわかっても実際にできないような高度なテクニックもある。相当実力がなければ実践できないのではないか、と思う。

今日はとりあえず、外岡秀俊さんが体系化された「情報力」を高めるための基本原則を引用しておきます。

  • 基本原則一:情報力の基本はインデックス情報である。
  • 基本原則二:次に重要な情報力の基本は位置情報である。
  • 基本原則三:膨大な情報を管理するコツは、情報管理の方法をできるだけ簡単にすることである。
  • 基本原則四:情報は現場や現物にあたり、判断にあたっては常に現場におろして考える。
  • 基本原則五:情報発信者の意図やメディアのからくりを知り、偏り(バイアス)を取り除く。

これだけ読むと当たり前のような感じもするのですが、実際の記事を例に挙げて「情報の入手、分析・加工、発信」の順序で解説されていて、ひとつひとつに説得力があります。そして、さらに「仲間と共有」するために体系化されていて、わかりやすいキーワードにまとめられているので、すっと入ってくる。

このなかで特に面白いと感じたのは、基本原則の二で、情報力の基本は「位置情報」という部分でした。ニュースならではと思うのですが、空間的にまず自分の周辺の情報から把握するわけです。地域性(ローカル)ということにも通じるかと思うのですが、漠然と全体をとらえた情報ではなく、身辺の情報を把握する。ローカルな情報というのは自分の直感的な把握や具体的な印象につながるもので、その「一次情報」に意味があります。一次情報であれば、伝聞などの偏り(バイアス)も入り込みません。そうして周辺の断片的な情報を積み重ねることによって、中枢の大事な情報に迫っていく。

位置情報に関しては次のように書かれています。引用します(P.36)。

ここに出てくる「位置情報」というのは、自分が立っている「いま、ここ」という位置に関する情報をいいます。「いま、ここ」に自分がいることは当たり前ですし、それが重要とは思えないでしょう。しかし、たとえば自分がまったく入ったことのない町、経験したことのない場面に遭遇したとき、あなたにとってもっとも重要な情報とは何かを想像してみてください。それが「いま、ここ」という情報です。

この部分では震災時の取材について書かれているのですが、そのときでしか書けない文章というものがあります。それは時間と空間という縦糸と横糸の交わった時間/場所で書く文章のようなことかもしれません。コンテクスト(文脈)的でもあります。

大切なことは、情報を得る人が、全体の文脈のなかで、自分がいま、どのような場所にいるのかを明確に認識しておくことです。これは、自分が得た情報の正確さや意味、客観性を測るうえで、欠かせない情報です。

ライブな情報といえるかもしれませんね。というよりも、ライブな情報の位置的なインデックスといえるような気もします。

ぼくは日々ブログを綴るために悩み、苦しみ、不安を覚えているので(もちろんその向こう側に楽しみがあるのですが)、この本に書かれているヒントはことごとく頷けるものでした。いま場当たり的に書き散らかしているのですが、思考を体系化して、この本のような仕事をしてみたいものです。鉄は熱いうちに・・・というわけで備忘録として書きとめておきます*1。

さて、昨日は「情報のさばき方―新聞記者の実戦ヒント」と「コンスエラ―七つの愛の狂気」、そして本日は「広告マーケティング21の原則」という本を読了したのですが、「エミリー」のレビュー(?)が長くなったので後日にします。レビューというか、いじめ論なのですが。


*1:実は中盤以降はネットカフェで更新。しかしながら時間制限のなかで書いたので、ものすごい誤字脱字でした。やっぱり自分には、自宅で日付変更線が変わる時間帯にじっくりと書いたり、早朝の出勤前に見直すスタイルが合っているようです。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年10月20日

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酩酊しつつ、世界の雑音を聴く。

深夜に書くせいもあるのだけれど、たいていぼくがブログを書くときには酔っ払っています。昨夜は渋谷で飲み、とてもいい気持ちの飲みだったので、しあわせな感じでお酒が回りました。終電近い電車で帰ってきて、3時ごろまでブログを書くなどしていたような気がします。おかげで今日はとっても眠い一日でした。

飲んでいい気持ちになっているときには、自動操縦モードにチェンジされるせいか、どうやって家に帰ってきたのか記憶がありません。なんとなく断片的に覚えてはいるのだけど、帰宅途中の確かな記憶がない。時々、時空を超越してしまったのか、あるいは何か帰宅途中にとんでもないことをしでかしてしまったのではないか、と不安になることがあります。とんでもないこととは何か、と考えると怖くなるので、考えないようにしていますが、覚醒しつつ記憶にない時間というのは怖い。なぜ記憶にないのでしょうね。脳科学的に何か説明できるとは思うのですが。

酔っ払ってもある程度きちんと何かを書くことができるのがぼくの特技だと思っていて、その特技に安心もしていたのですが、昨日はとんでもないメールを送っていたことが発覚。かなりへこみました。何がどのようにとんでもなかったか詳細は書けませんが、お酒は精神を解放するので、気が緩んでしまったのかもしれません。お酒を飲んでいたこともあって、とお許しをいただけたようですが、飲んだら書くな、書くなら飲むな、ということもいえるかもしれません。といいつつ、今日も酩酊状態で、まったくぼくは懲りないひとです。

飲酒運転による事故が問題になっています。自動車に乗る場合には、ちょっとぐらいいいだろう、という甘さは許されない。お酒に弱いひとは、きっと乗らないだろうと思います。自分の弱さを自覚しているので。けれども逆に、お酒に強いひとは、おれは強いんだ、これぐらいの酒なら大丈夫、と過信して乗ってしまうのではないでしょうか。強さは盲目(ブラインド)の状態を引き起こします。お酒にかかわらずあらゆることで同様で、たとえばおれは知識がたくさんある、と思う人間は盲目になるものです。そして、知識のない人間を見下そうとする。体力的に強い人間も盲目になる。力のない人間を、鍛錬が足りないと、こき下ろすでしょう。弱さを自覚している人間のほうが謙虚です。自分の弱さを自覚している人間は、ひとに対してやさしくなれる。

弱いものであっても、さらに弱いものを見下せばそれは強いものと同様なので、盲目になる。ところが、弱さを弱さとして自覚していれば、過信に陥ることはありません。しかしながら逆に自信喪失に陥ることがデメリットかもしれないのですが、過信も自信喪失も同じ心の動きで(ただベクトルはプラスかマイナスか違いますが)、結局のところ心にブラインドが落ちている状態だと思う。その状態では、判断が正確ではなくなります。過信もせずに、自信喪失もせずに、ありのままに自分を観るということはなかなか難しいのですが、そんな安定した自己を確立できれば、どんなことにも動じないで明確な判断ができそうです。

自分の弱さを認めることは負けではないと思います。むしろ弱さを認めないことが(あえて言うと)負けであって、弱さを認めない人間は変わることがない。変わろうとするためには、自分の無知、愚かさ、弱さを認める必要がある。

ところで、情報に対してブラインドが落ちると、主観によってゴミと宝を選別するようになります。もちろん、そのような主観(もしくは直感)が情報選別のために重要な能力となることもありますが、主観のフィルターをかけることで、ほんとうは宝であってもゴミにしかみえなくなることもある。

たとえば世の中はさまざまな音で溢れています。鳥の声、クルマが走る音、工事現場の騒音、電車の音、サイレン、話し声、靴音などなど。

ソニーからノイズキャンセル機能搭載のウォークマンが登場するらしいのですが、これはマイクで周囲の雑音を拾って逆相の音を再生し、そのことによってノイズを低減するとのこと。ぼくは少年の頃に購入した、ソニー製のボーカルキャンセラーの機械を思わず想像してしまったのですが(あの機械は、センターの音の逆相を生成することで、通常はセンターに定位しているボーカルの音を消して、カラオケにする)、この技術自体は面白いと思うし、それを低価格で実現するソニーもすばらしい。

でもちょっと思ったのは、電車の騒音だけでなくひとの声なども消してしまうんだろうな、ということです。自分にとっては快適な空間ができるかもしれないけど、騒音を消してしまうことでブラインドも落ちる。「あのー、ちょっと座らせていただけないでしょうか」というようなおばあさんの声も消してしまうのではないか。そこには自分の快適なリスニング空間ができあがるけれど、雑音としての世界を抹殺する。とはいえ、人間の声だけは聞き取りやすくキープする機能もあるのかもしれません。

確かに技術の進化は大切ですが、こういう進化の方向が果たして正しいのだろうか。主観的に電車の音をノイズと決め付けて、不要なノイズ、ゴミを消しさることは、どこか自分本位の権力的な思考がないか。

ぼくはソニーのファンなのだけれど、VAIOを修理に出したときに、コールセンターの対応から非常に不快な気持ちになったことがありました。それは他人の状況を考えずに携帯に電話をかけてきて、一方的に要件を告げるようなものだった。さらにそのとき告げられた要件とは、ぼくには非常に不利な問題があることだった。ちょうど昼食を取っていたのですが、こんなところでそんなことを一方的に告げられても困る、と思った(メモだって取れないし)。

このとき、ソニーは確かにすばらしい製品を作っているかもしれないけれど、人間的な何かを見失っているんじゃないか、と直感的に感じました。コールセンターだけの問題かもしれないけれど、その配慮のなさの背後には、きっと企業としての誠実な姿勢を失いつつある何かがあるような気がする。いいもの作っているからいいじゃん、というような思いあがりをそのオペレーターの口調から感じました。その感覚が、誤りであることを祈っているのですが。なぜなら、ほんとうに少年時代からソニーのファンなので。

話題がそれましたが、ノイズキャンセルについては、多くの携帯プレイヤーがノイズキャンセル機能を搭載しています。開発競争が進んでいて、ノイズキャンセル機能がない機種は、店頭でアピールできないのかもしれません。あって当然という空気が市場を支配している。したがって、ソニーだけの問題ではないともいえます。

面倒なことやノイズにも溢れているのが、ぼくらの現実です。うるさいから消しちゃえ、という一方的な発想はどうなんでしょうか。電車の音やテレビの砂の嵐などのノイズは、子供にとって母親の胎内で聞く音にも似ているといいます。そのせいか、ベビーカーに乗っていた頃の息子たちが電車に乗ると、すぐに眠っちゃったものです。

ときには雑音に耳を傾けてみる。目的思考であると、そんな音に耳を傾ける時間はムダと考えてしまうかもしれません。けれども、ぼくはムダも豊かさのひとつだと思うので。

■ノイズキャンセル機能つきのウォークマンのニュース。
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0610/12/news070.html

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年10月19日

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非線形思考でいこう。

息子(長男)が低学年の頃、小学校の参観日に出席したぼくは、算数の教え方に新鮮な驚きを覚えました。簡単な足し算なのですが、通常、ぼくが小学生の頃には、

7+3=□

として、□のなかに入る答えを求めていたような気がします。ところが、息子たちの教室で教えていた方法は、
□+■=10

という式でした。つまり□と■を埋める答えを求めるわけです。

となると、7+3も正解だし、4+6も正解。正解が複数ある。このときに重要なことは、□と■に入る数字という「要素」を問題としているのではなく、□+■という文脈(コンテクスト)全体を重視している点です。

稚拙かもしれませんが文学的に解釈すると、「□さんと■さんが出会ったとき、そこに10というものが生まれた。さて□さんと■さんとは何だろう」という存在意義を問題としているともいえる。□の「7」という豊かなものと■の「3」という貧しいものの出会いかもしれないし、□の「2」という小さいものと、■は「8」という大きなものの出会いかもしれない。あるいはいずれも「5」という対等な双子だったりもする。□と■は可変的な関係性にあるのですが、ふたりが相補的に協力すると10になる。コラボレーティブな関係です。

そして、それらの式は、10という結末に向けて「範列(paradigme)」的に存在します。どの式も正解であって、間違いではない。しかしここで問題となるのは、複数ある正解のうち「(情報の受信者である)あなたが」どれを選ぶか、ということです。

正解が複数あること、その正解を評価するものは絶対的なモノサシではなく主体となる情報の受信者にあること(100人が選択しなくても、あなたが選択すればその答えは正しい)、受信者のチョイスによって文脈が完成すること。これが、ぼくはこれからの情報化社会においては重要な視点ではないかと思います。だからこそ、情報の受信者によって選択された結果が変化していくAjaxという技術はイケているのです。

いま、大前研一さんの「考える技術」という本を読み進めています(現在、P.254。読了まであとわずか)。ぼくが考えていたことの多くは、この本のなかに書かれていて、ああ、やっぱり大前研一さんにはかなわないや、ということを感じました。

4062124920考える技術
講談社 2004-11-05

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このなかで「線形思考では通用しない」として、以下のように書かれています(P.148 )。

ニュートン力学や線形思考では、原因が同じなら結果も同じことになるが、複雑系の世界ではそうはいかない。線形思考とは、方程式に当てはめれば必ず正解が得られるという直線的な方法だ。一方、非線形または複雑系の世界では、初期条件がほんのちょっとでも違えば結果は予測不可能になる。

ここでぼくが思うことは、分解された要素を組み合わせれば結果が出るというのは、7+3=□という直線的な思考です。しかしながら、この方程式は自己完結してしまい、空間的な(範列の)広がりがない。結果を出すための要素が複数考えられる□+■=10の場合には、ある規則性および関係性にしたがって(ここでは足すと10)、さまざまな変奏が可能になり、自由度が増して、多様な文脈が生まれる。表現として広がりができます。

たとえば「明日13:30に会いましょう」と言って会う場合には、必ず会うことができます。約束したのだから当然です。ところが、複数の日程というオプションがあり、さらに1日の24時間の広がりのなかで、もし偶然に会えたとしたらどうでしょう。ただ約束して会ったことの数十倍もの感動と嬉しさがあるのではないでしょうか。え?どうしてここにいるわけ?と思う。なんとなく夢のなかの時間というか、信じ難いものがあるわけです。会えてよかったー!!と感動する。茂木健一郎さんの著作に頻出する言葉ですが、これを「セレンディピティ」というそうです。偶然を楽しもうとする考え方です。

7+3=・・・という線形思考では、答えはひとつしかなく、そこに範列的な広がりはありません。しかし、□+■=10という非線形思考こそが多様化する現実をとらえたものであり、左から右へと流れる連辞(syntagme)で統合されつつ、範列(paradigme)の広がりもつくる。既に誰か記号論の学者が言っていることかもしれないのですが、残念ながらぼくには検証している時間がないので、自分の勝手なアイディアとして述べさせていただきます。

ぼくはさまざまな情報の構造を学習したいと思うのですが、完全な答えを求めようとしてはいけないと思っています。構造を確定してはいけない。あらゆることに通用する方程式なんてものはないだろうし、あったとしてもこれからの時代では、すぐに陳腐化して使いものにならなくなる。むしろ、ゆるかやな結びつきをいくつも想像する、範列的な思考(=それはメタファの思考かもしれない)が重要になるのではないか。

たとえば、あなたの指(要素)を切り取って「これはあなたですね?」と言ったとします。確かにそれはあなたの一部だけれど、もはや死んでしまっていて、あなたではない。指はあなたという全体のなかにあり、温かな血が流れていてこそ、あなたの一部として存在する。科学的思考に観察者的なクールな視線(悪く言ってしまえば冷血さ)を感じるのは、切り取られた肉片としての指もあなただ、だってあなたの遺伝子があるじゃん、と神のように見下ろして説得するようなときです。

もちろん、そうではない要素の分析もあるかと思うのですが、Webなどの分析も同様で、数字の一部を切り取って、これがあなただ(企業の姿だ)と突きつける。しかし複雑で多様な社会においては、現象はそんなに単純なものではありません。あるいはブログの一部の文章を引用して、これがあなただ、と突きつけることもよくありますが、ひとことで他者をわかったようなつもりになることほど不遜なものはなく、確かにそれはわたしかもしれないが、わたしのすべてではない。7+3=10的な線形思考によるシンプルさの罠を駆使して臨在感的な空気を発動し、ひとを貶めようとするレトリックにこそ反論すべきではないか。多様性かつ複雑さに富んでいる、豊かな、わたしの可能性を削ぎ落とすのは、いい加減にしてほしい、と。

構造の正解を探そうとするよりも、ひとつの答えに集約しそうな思考を疑い、このバリエーションがもっと考えられないか、ということに注力することが大切ではないでしょうか。それは検索項目をひとつに絞り込むよりも、検索項目を果てしなく広げていく思考です。この点においても、天文学的に増加しつつあるブログやWebサイトは意味があるのではないか。

大前研一さんの本のなかでは学校の秀才である「アカデミックスマート」から現場で実践を通して成功する「ストリートスマート」へ、ということも書かれていました。それは答えのない世界を答えがないというままに受け入れることであり、反マニュアル的な考え方です。次のように書かれています(P.167)。

学校に行ったアカデミックスマートは、やはり答えを求めてしまう。「答えはない」と言っているのに、「答えはなんですか?」と聞く。学校秀才に限らず、日本の学校に通っている子供は皆同じだ。

答えを自分で選ぶ時代ではないでしょうか。世間的にどんなに間違っていても、あなたが正しいと思えば、その答えは正しい。自分の選んだ答えに誇りを持っていい。ぼくもまた、そうありたいと考えています。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)