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2006年7月12日

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闇に聴こえる音。

プラネタリウムに行ってみたいと思いました。というのは、とても唐突なのですが、会社の帰りに自宅の近くにあるCDショップに立ち寄り、レイ・ハラカミ feat. 原田郁子の「暗やみの色」というCDを購入したからです。これは日本科学未来館のプラネタリウムのために、レイ・ハラカミさんが書き下ろした曲のようです。
暗やみの色
レイ・ハラカミ feat.原田郁子
暗やみの色
曲名リスト
1. intro
2. sequence_01
3. sequence_02
4. sequence_03
5. sequence_04
6. "yami wa hikari no haha"
7. outro

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透明なケースだけのCDなのですが、限定プレス盤ということで、16ページのガイドブックが付属しています*1。なんだか得した気分です。

このガイドブックには、「見える」ということはどういうことかについて、科学的な解説が書かれています。これから読むのですが、なんとなくわくわくします。そして何よりも、谷川俊太郎さんの詩「闇は光の母」が掲載されていて、さらにクラムボンの原田郁子さんとの対談があるのもうれしい。ちなみにCDのなかには、詩の朗読も入っています。

対談のなかで次のような言葉がよいと思いました。朗読についての対話です。


原田◆ナレーションを録るときに、天から降ってくるみたいな、ありがたい感じにはしたくないって話していて。耳元で喋りかけてるような方が、きっと入ってくると思ったんです。
谷川◇絶対そう。詩はすばらしいものだって思い込んで、普段の自分と全然違う声で読む人がいるけど、不思議なことに、そうすると詩は死ぬのね。祝詞みたいに、神様の前で読むんだったらそういうのもいいかもしれないけど、人間に聞かせているわけだから。現実生活のリアリティみたいなものがちゃんとないと、面白くないっていう気がしますね。

谷川俊太郎さん、やっぱり素敵です。

レイ・ハラカミさんの曲は、ものすごく映像的です。ぼくはぼーっとコーヒーなどを飲んだりするときに、レイ・ハラカミさん曲を聴きたくなります。集中して聴くのではなく、BGMでもなく、ちょっとメディテーションのような感じで自分の内側に広がる風景をぱらぱらめくりながら考えごとをするようなときに、ぴったりの曲です。逆に通勤電車のなかでiPodで聴いたときには、これは合わないと思った。閉鎖的な空間で(プラネタリウムもそうだけれど)、ゆったりとくつろぎながら瞑想するときに合う曲です。シンセサイザーなんだけれど妙にアコースティックで、ギターなのかピアノなのか分からないような音色のアルペジオがあって、ディレイによって広がった音の空間のなかに妙にリアルなドラムの音が聴こえたりする。独特の世界を追求していて、好きなアーティストのひとりです。

さて、「こころの格差社会」という本を読み終えました。格差社会というのは流行りなのか、いろいろなところで目にします。しかしながら、ただ煽るだけのキーワードにもなりつつあり、ほんとうに社会の問題を直視して、どう変えていけばよいのかということまで踏み込んだ議論は少ないような気もしています。

*1:いま気づいたのですが、今日発売だったんですね。このCD。

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■日本科学未来館のページ。プラネタリウムの館長さんはあの毛利さんでしたか。

http://www.miraikan.jst.go.jp/index.html

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▼Books051:自分らしさ、をあらためて考える。

こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)
海原 純子
こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)
曲名リスト
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「自分らしさ」という言葉を嫌い、その言葉にアレルギーを起こすようなひとがいることを海原さんは指摘します。そういうひとは男性社会的な思考にどっぷりと浸かっていて、過程よりも結果を重視し、内側よりも外側の評価を得ることにやっきになっていて、医学的にはタイプA(A型気質)というアグレッシブな傾向にあるひとが多いそうです。この背景には、「自己実現」という言葉ばかりが先行した、表層的な人材育成ブームによる洗脳(というかイメージづくり)の弊害があったからかもしれません。

しかしながら、ぼくがあらためて目からウロコだったのは、マズローの言っている自己実現には別の意味があって、自分の好きなことを集中してやっていると、それが他人のためにもなる、ということらしいのです。たとえば、料理が好きな女性がいるとします。別に旦那さんを喜ばせるわけでもなく、よい妻を演じるためでもなく、あるいは料理コンテストでいちばんを取るためにやっているわけでもないのですが、料理が好きで好きでたまらない。好きだからその道を究めるのですが、究めたところ家族も喜ぶ。ブログに書いたレシピが絶賛されたりする。利己的であることを追求すると、最終的には利己的ではなくなってひとのためになるわけです。それがマズローの自己実現の究極形らしい(さらにそこを超越するらしいのですが)。

音楽もそうかもしれないし、文章だってそうかもしれない。お金を儲けるためではなく、本を出して名声を得るわけでもなく、とにかく書くことが大好きで書きつづけていたら、なんとなく「きみの書いた文章を読みたい」というひとが増えてくる。重要なことは結果よりもプロセスなわけです。しかしながら、勝ち組社会が重視するのは結果だったりする。そこが大きな歪みとなっているのかもしれません。

海原さんはさらに孔子を引用して「欲する所にしたがって、矩を超えず」ではなく、自分のやりたいこと、好きなことに夢中になることで、それが社会のためになることが自分らしさであり、自己実現のためには他の社会的な欲求であるとか所属の欲求が満たされている必要があり、どうしても40歳以上になるのではないか、そんな長い道のりを必要とする「自分(らしさ)」探しを10代や20代などで求めても無理だ、という風に書いています。また、自己を醸成するためには、外側にばかり意識を向けるのではなく、内側に向けるひとりの時間が重要であると指摘されています。

考えさせられる部分がたくさんありすぎてまとまらないのですが、最後にメモとして、マズローの言う自己実現人間の特徴を抜粋しておきます(一部省略。P.176)



現実を有効に知覚し、それと快適な関係を保っている
A自己、他者、自然に対する受容的態度
B自発的な行動
C自己中心的でなく、問題中心的である
D孤独、プライバシーを好み、欠乏や不運に対して超然としている
E文化や環境からの自律性
F人生の基本的に必要なことを繰り返し新鮮に、無邪気に、畏敬や喜びをもって味わうことができる
G<神秘経験>(W・ジェームズ)や<至高体験>をしている
H共同社会感情
I深い対人関係
J民主的性格構造
K手段と目的の区別
L哲学的で悪意のないユーモアのセンス
M創造性
N文化に組み込まれることに対する抵抗
O確固とした価値体系
P対立性・二分性の解決、欲望と理性のすばらしい調和状態

「ハイコンセプト」という本に書かれていたキーワードとも合致するものがあり、格差社会を生き抜くためのヒントのようなものを感じます。いつも本を読んでいる途中には、さまざまなヒントに気づくのですが、読み終えると忘れてしまいます。読んだ本をじっくりと考察したり、研究する時間があってもいいんじゃないかと思いました。7月12日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(51/100冊+41/100本)

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2006年7月10日

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共感と聴く力。

いま読み進めている海原純子さんの「こころの格差社会」という本は非常に示唆に富んでいて、深く考察すべきテーマがたくさんあります。

4047100439こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)
角川書店 2006-06

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あまり楽しいタイトルではないと思い、どちらかといえば読まないようにしていた類の本ですが、示唆を受けた部分について書いてみます。

まず、現在の社会の問題は、「勝ち組」が支配し、彼等がリーダーシップを取る社会であることが問題であると海原さんは指摘します。何が問題かというと、勝ち組には「聴く姿勢」や「共感」する心が欠けている。つまり、弱者のありのままの姿をみることができない。努力しても報われないひとたちの「無念」がわからない。勝ち組になれないのは努力が足りないからだろう、と考えるわけです。しかしながら、勝ち組であるひとたちには、実は自分の力で勝ち抜いてきたのではなく、「透明なあげ底」があるとします。

わかりやすい例を挙げると、たとえば医者になろうと考えたとき、どんな家の人間も医者になれるわけではない。なれるかもしれないけれど、現実問題として、まず金銭的に裕福でなければ、医者になるための教育を受けられないわけです。スタート時点から「あげ底」で差がついている。そのことに気づかずに、自分の力で医者になれたと勘違いする。無意識ではあるけれど、その格差があった時点で既に他者を理解しない権力的な心を生むというわけです。

ちょっと過激だなと思ったのですが、「勝ち組」が支配する社会は犯罪や問題が多くなるそうです。アメリカに犯罪が多いのも勝ち組が支配する格差社会だからかもしれません。パワーで支配するひとたちは弱者(負け組)の気持ちを理解しません。弱者は努力しないからそうなったんだ、と思っている。権力で支配しようとする勝ち組は一方的に話すばかりで、きちんと誰かの話を聞こうとしない。そこにコミュニケーション不全が生まれる。だから負け組は自分を主張できずに、抑圧された怒りが蓄積されやすい。それが爆発したときに、犯罪や暴力、テロにもなると指摘されています。

同時に「集団思考」の危険性も指摘されていて、「反対意見をじゃまにして、それを口にするものを排除したり出世できなくする」ような「一枚岩の組織」は、どんなに優秀な人物を集めたとしても失敗する(P.125)。権力で批判を封じ込める世界は不健全になっていく。勝ち組が一方的に権力をふるう世界は、みえない歪みを進展させるわけです。

いっそのこと政治家は「勝ち組」である一流大学出身者は禁止、という制度を作ったほうが世のなかはよくなるのではないか、ということも考えてしまったのですが、それは負け組の遠吠えかもしれません。

そんなことよりも個人的にぼくが注目したのは、ダニエル・ピンクさんの「ハイコンセプト」で語られていた、これからの時代に必要な能力である「共感」というキーワードや、ここ数日、個人的に関心のあったコーチングにおいて非常に重視される「聴く力」が、再びこの本のなかでも取り上げられていることでした。

勝手な思い込みかもしれませんが、現代社会の問題と、未来をよりよく変えていくための方策というのは、どうやらさまざまなひとの主張が重なりつつあるような気がします。多くのひとたちが現在問題になっていることの根幹をわかりはじめていて、その解決方法にも気づきはじめているように感じました。

ところで、話題を少し変えるのですが、どんな人間でも「勝ち組(=権力のパワーを駆使するもの)」になる場合があります。それは「親」として「子供」に接する場合です。

子供に何かを教えていると「どうしてそんなのもわからないんだ!」と苛立つことがあるのですが、わからない、できない弱者が子供です。身体的にも精神的にもでかい親が強者なのは当たり前で、子供を支配するのではなく、やろうとしてもできない「無念さ」を「共感」すべきです。自転車だって、大人になったいまでこそ簡単に乗ることができるから乗れない子供の気持ちがわからなくて、どうして乗れないんだっ!などと不条理にも叱ったりします。でも、コツをつかむまでは、たとえ頑張って努力したとしても、乗れないものは乗れない。ありのままに、その事実を認めることが必要です。

そんなことを反省しつつ、日曜日に長男の勉強をみてあげたのですが、さすがにコーチングを学ぶとなんとなく雰囲気が違ったような気がしました。もちろんぼくだけがそう感じていたのかもしれませんが、「彼のなかに答えがある」と信じていると、沈黙も苦になりません。たぶん力が抜けているからか、長男も安心していろんなことを話してくれる。やがて自分で答えをみつけていました。

子供のなかには未来の可能性が埋まっていて、それを取り出すことが親の役目だと思います。ちょうど、木のなかに埋まっている仏像を取り出す仏師のようなものです。

授業でもじもじして手を上げられなかったり、50メートル走で4番だった息子をみると、なんとなく親であるこちらまでしゅんとしてしまうのですが、世間的なモノサシで彼をみようとするから心が痛むのであって、いや、もっとよいところがうちの息子にはあるんだ、と信じていることが大事でしょう。そうすれば、きっと彼も変わるはずです。成長しなければならないのは、子供より親なのかもしれません。

海原純子さんの「こころの格差社会」という本は、引用されている寓話もすばらしい。イメージが広がります。また別の角度から引用しつつ何か書いてみたいと思っています。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年7月 8日

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持続する方法。

3歳の息子(次男)と散歩をすると、最近はクルマのナンバープレートに書いてあるひらがなをずーっと読みつづけています。それで、ひらがなとひらがなをつづけて、「つ・せ・ってなんだろう?」と聞いてくる。もともと意味のないナンバーなんだけれど、彼はそれをつないでしまうようです。なんだろうね、と答えてしばらくはその意味について考え込んでしまうのですが、言った本人はまったく気にしているようではなくて、ほかの風景に夢中になっている。

ナンバーを読みつづけながら散歩していたら、一台のアルファロメオのナンバーが777でした。おお、7が揃っている、となんとなくうれしかった*1。次男は最近数字も読めることは読めるのですが(よんじゅうしちが好きらしい)、7が揃っていていてもどうでもいいようで、あんまりうれしそうじゃなかった。「おすい」というマンホールの蓋に書かれた文字の方が気になっていたようです。

どの本に書かれていたのか、いま忘れてしまって思い出せないのだけど、777という数字が重なるような、日常の生活におけるちょっとした偶然を楽しむことが、人生をより豊かなものにしてくれる、というような記述があったような気がします。たぶん、アルファロメオのオーナーは狙ったのかもしれないけれど、レシートのなかの合計金額が777なんてこともあったりする。時計をちらっと見たら、数字が揃っていたなんてこともある。くだらないな、と思うことも多いのだけど、そんな生活に存在するちいさな偶然を楽しんでいたい。

というのも、いま海原純子さんの「格差社会」という本を読んでいるのだけど(P.66)、日本の社会では「満足」が得られにくい社会のようです。そもそも人間は獲得したものに慣れてしまう心理学上の特性があり、宝くじがあたったとしてもその幸福感を持続できない。1年間でふつうの心理状態に戻ってしまう。大きなかなしみのようなマイナス要因も同じで、こちらはよくわかる気がしました。たとえば親しい人を失ったときに、かなしみが数年も持続していたら、たまらない。大きなかなしみも、大きなよろこびも、数年経つとふつうの状態に戻ってしまうように人間の心はできているようです。だから一度しあわせを得てしまうと、もっとしあわせを求めたがる。どんなに周囲から恵まれているような状況であっても、本人は満足しないという状況も生じるようです。

アメリカンドリームというように、権力によるシステムが機能している社会では、「がんばれば報われる」という、夢をみることができます。ところがアフリカのような社会においては、システムが機能していないので、がんばっても報われない。そういう社会では、成功者に対しては、汚い手を使ってうまくやったんだろう、というやっかみでしかみられない。日本もアフリカ的ではないか、と海原さんは書いています。

鋭い視点だとぼくは感じたのですが、確かに日本では出る杭は打たれる環境があり、成果主義といってもがんばったものが必ずしも成功を得るようにはなっていない気がします。「ぬけがけと嫉妬の日本社会」という章のタイトルにも鋭い洞察を感じていて、だからこそ同質化を執拗に追求しようとする。調和こそ美しい、という大義を掲げて、その実は、異端なものを吊るし上げて追い出す文化があり、しかしどちらかというと追い出された人材の方が成功していたりするものです。グローバルな社会で成功するのは、むしろ個性をきちんと確立した異端者の方であり、そのクリエイティビティを発揮できないような社会になっている。

このような社会でしあわせであるためには、ぼくは社会的な評価、マスの価値、統計的な指標という常識を疑って、より個の在り方を考えた方がいいのではないかと思いました。それは、777というナンバープレートを発見して、ちょっと楽しかった、というようなよりプライベートな価値の発掘という方向かもしれません。

そのいちばんよい方法が、ブログでちょっとした個人的なしあわせを書くこと、ではないでしょうか。いま、企業の記事をブログで書けば小遣いがもらえるようなサービスもあるようですが、なんとなくネットワークビジネス的な不自然さも感じています。急に、化粧品や健康食品などの記事を書きはじめたブロガーもいますが、あまりに宣伝的であると、なんとなくひいてしまう。ぼくはやはりどんなにちいさなことであっても、そのひとの個人的な生活や考え方がみえるブログに惹かれます。真摯に、誠実に生きているひとたちの言葉を読みたい。

しあわせを持続する方法は、ちいさなしあわせに対する感度を高めて、日々を一度きりのものとして有難く思うことなのかもしれません。

*1:9日の夜10:52にこのページにアクセスしたら、カウンターが67777でした。1個7が増えた。ちょっとうれしい。

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2006年6月14日

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地と図、両側面からみること。

何かを選択するということは、一方で何かを排除することであり、実はひとつの行為のなかにふたつの側面が共存しています。「見る」という行為においては、たぶんセンサーとして視神経的にはすべての情報がインプットされている。しかしながら、脳内の意識というフィルターが「図(選択したもの)」として浮かびあがるものと、「地(選択しなかったもの)」として背後に追いやるものを選択・排除しているわけです。

先日のワールドカップにおいて、ぼくは選手たちというよりも芝生に目がいってしまった。本来は一生懸命にボールを追いかけている選手たちをみなければならないのに、その背後にある「地」である芝生をみてしまったことになります。「地」と「図」が反転している。なぜそうだったのか、ということを考えてみると、ぼくはふがいのない日本選手たちのさえないプレーや負けをみたくなかったからかもしれない。だから芝生ばかりみてしまったのではないか。

ということを考えていて思い出したのは、何度も繰り返していて、さらに今後も繰り返すだろうと思うのですが、脳梗塞で父が入院していたときのエピソードでした。シャントという管を脳のなかにいれて、脳に溜まった水や血を排出する処置をしたのだけど、その説明を一生懸命に聞いていたにも関わらず、ぼくはそのときのことをほとんど覚えていません。丁寧に時間をかけて、脳の写真などをみせてもらいながら説明を受けたのに、まったく記憶にない。つまりぼくは、半身不随もしくは植物人間になろうとしている父を認めたくなかったんだろうと思います。

第1感」という本に書かれていたのですが、自閉症の患者の視線を分析すると、本来であればみるべき人間の表情の上に視線は動かないで、まったく関係のない壁の絵画などの上をさまよっているそうです。つまり、ワールドカップで芝生をみているぼくの意識も、医師から父の現状を聞かされながら何も心に残っていないぼくの状態も、どこか自閉症的といえる。けれどもそんな自分を理解しつつ、あらためて現実を直視しなければならない。潜在意識のなかでフィルターがかかってみえなかった世界を、ぼくは取り戻す必要があります。それは弱さを認めることでもあります。しかしながら、弱さをきちんと認めないことには、次の発展もない。きちんと弱い心に立ち向かわなければならない。

盲目的になることがあります。夢中になって何かに熱中しているときであればまだよいのですが、盲目的にひとを好きになったとき、盲目的に誰かを憎んだときは厄介なものです。そういうときには、心がある意味で自閉症的になっている。あるべき世界をきちんとみていません。激情に偏向した一元的な思考になっているともいえます。気をつけなければならないのはそういうときで、冷静な判断を見失っている。世界は決して「白か黒か」のようなデジタルなものではありません。「白も黒も」存在することがある。さらに「灰色」なときもある。けれども、激情に支配されているときには、そうした「地」的なものが意識の外に追いやられている。

「地」と「図」を選びながら、けれども選ばれなかった「地」があることを認めることが大事でしょう。両方をみることができたとき、はじめて世界をありのままに感じ取れる。人間には、きれいな部分もあれば汚い部分もある。はじまりがあるものには、必ず終わりがある。日の当たる場所には影ができる。ここではないどこか、いま自分の意識が切り取っている部分だけでなく、切り絵のように、ポジに対してネガの部分があることを感じ取れるようにしておきたいものです。90%は満足、という統計的なデータがあったときにも、10%は不満だったわけで、どちらに注目するかによって結果も変わってくる。もちろん満足と不満が共存していることもあります。人間の心はロボットと違って、二進法で組み立てられているわけではない。

「パレートの法則」というものがあります。80:20の法則と言われていますが、たとえば売上の80%は20%の優良顧客で占められる、というものです。アリのなかで働くのは20%であり、その20%を排除すると怠けていた80%のアリのうちの20%がまた働くようになる、という事例もあったような気がします。Web2.0などでよく使われるのは「ロングテールの法則」ですが、これもパレートの法則に似ています。20%ではないものの、少数のヒット商品が大きな売り上げを上げていて、残りの80%はわずかな売上ではあるけれど数だけは大量にあり、恐竜のしっぽのように長く広がっている。

唐突に話を変えますが、人間の70%は水である、ということを以前書きました。水ではない30%が、80%の人生を悩んでいたり苦しんでいたりするのかもしれない。地球の80%ぐらいは海だったような気がします(きちんと調べていませんが)。海ではない20%の大地で、ぼくらはささやかな文明を営んでいる。いまいる世界のことにせいいっぱいで、ここではないどこかのことに気づかずに、ぼくらは暮らしています。「気づき」と言ってしまうと何か胡散臭いものを感じますが、「潜在意識の闇に葬られている真実にあらためて光を当てること」が大事かもしれません。

昨日読み終えた「出現する未来」にも書かれていたのですが、この80:20のような法則は、決して偶然ではないのかもしれません。つまり、地球、人間の身体、経営組織の効率、アリなどの生物の営み、という規模の違う分野において、なにかものすごい世界の秩序が働いていて、成立する法則があるのかもしれない。それは認知科学、哲学、文学、経営学を横断して成立する法則(というよりもパターン)を見出すのと、どこか似ています。もちろん、その考えに固執すると危険なので、その考えから一歩引いてみて、そうではない論点も考察する必要はあるのですが。とはいえ、いまロングテールのさきっぽにある書物が注目されたり、CGMとして個々のブログや情報発信に注目が集まるのも、実は同じ大きな秩序のもとにあり、技術はもちろん技術以外の何かが働いているのかもしれません。ちょっと怖いですね。

9.11のテロがあったとき、世界中の乱数発生器が異常な結果を出したそうです。つまり人間の邪悪な行いだけでなく、人間を含む全体を覆う力が働いたのかもしれない、と「出現する未来」には書かれていました(これも微妙ですね。あまり踏み込まないようにします)。どんなにちいさな物事にも意義と目的がある。日常のささいな出来事は、決して刹那という分断された断片ではない。生活という刹那(部分)のなかに人生の重要な全体が内包されているのかもしれない。ホロンという思想もありましたが、部分と全体は切り離して考えるべきものではないかもしれません。

グーグルという企業にその考え方を適用して考えてみると、中国で検索エンジンを展開したときに、有害サイトが検索されない情報操作がされていたことが問題になっていました。つい最近誤りを認めるような発言がされていたようですが、もちろん誤りを認めることは大事だけれど、それは瑣末な部分に過ぎないような気がします。"Don't be Evil"という社是の言葉から、"evil(邪悪)"であるかどうかばかり注目されているのですが、善人と悪人の一元論で片付けてもしようがない。企業は利益を追求する以上、"evil"であろうと思わなくてもなってしまうことがある。人間に明るい部分もあれば闇の部分もあるわけで、その全体を偏見ではない目でみるべきだと、ぼくは考えます。もちろんぼくの私見ですが、闇の部分だけを見て批判するのはどうかと思う。ただ、もちろん闇の部分が全体に及ぼす影響は、考えなければいけないけれど。

むしろ考えなければならないのは、技術発展に重きをおくばかりに世界や自然や人間を見失っていないか、というところであると感じました。競争社会だけれど、そんなにあせらなくてもいいだろうし、グーグルは長期的な視野で世界を変えることができる企業であると思っています。そして技術は何のためにあるかというと、人類を含めて地球をしあわせにするためにあるのだと思う。いろんな対立が表面化しているようですが、図書館をはじめとして、さまざまな企業などと対立までしてサービスを推し進める必要はないのでは。発展を「保留」してみてもよいのではないでしょうか。

地球に優しいのはどっち?マイクロソフト対グーグル」という記事で部分的に気に入っている箇所があるのですが、たとえば以下のような文章です。

オフィスというよりは、大学のキャンパスのようにみえるGoogleの社屋の周辺では、自転車や電気スクーターをよく見かける。従業員はこれを使って青々とした芝生や公共の通路を動き回る。「自転車のお医者さん」が四半期に一度、1日間無料で自転車のメンテナンスをしてくれる。Googleはまた、従業員がプリウスやホンダシビックのハイブリッドカーの新車を購入する際には5000ドルを支払っている。

技術と人間、そして地球環境との在り方をバランスよく考えること。それがロハス的なものにもつながると思うし、これからの社会に必要なことのようにも思えます。Web2.0なんかより、ずっとそっちの方が大切じゃないかと思う。ただ、ぼくがCNETの記事で気に入らないのは冒頭の一文です。これは全体を通した作為的な書き方にも通じるのですが。

インターネット利用者の心をつかもうと、GoogleとMicrosoftとの間の競争が過熱している。そんななか、どちらの企業が地球を救うことに長けているかが注目を集めつつある。

こうやってメディアが煽るから、大切なものを見失うのではないか。CNETのジャーナリズムとしての姿勢に疑問を感じました。バトルじゃないだろう、これは。バトルで環境に対する優しさを競っていても、何もよくならない気がします。対立や戦争からはきっと何も生まれません。協調が必要ではないのでしょうか。目を覚ましてほしいものです。メディアも、そしてこれからのIT企業も。

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■Googleの理念のページ。
http://www.google.co.jp/intl/ja/corporate/tenthings.html

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2006年5月24日

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雨降りのひらめき。

まるくなりたい、まるくなりたい、と思っていた時期があるのですが、年を取ると自然にまるくなってくるものです。もちろん精神的にですが、精神的ではないところも(つまり身体的に)まるくなることもあるので、それは困る。しかしながら身体的にまるくなると、精神的にもまるくなるような気もします。心も身体の一部ということでしょうか。

年を取ってもまるくならないひともいます。布団をばんばん叩きながら暴言を吐くようなひとにはならずにいたいと思うのですが、ちょっと間違うと世のなか全般に不満を吐き出す360度クレイマーになりかねない危うさもあり、うまくバランスを取って、身体的にはまるくならずに精神的にまあるくなりたい。穏やかなひとでありたいものです。

しかしながら、体力が衰えてくると穏やかにならざるを得ないものがあり、つまり放っておけば自然にまるくなっていくものなので、あえてまるくなろうとする必要はないともいえます。むしろ逆に、年を取っても思考が尖っていること、偏見ではない深い考察、あるいは未来に対する洞察があると、それはそれでかっこいい。

かっこいいとはどういうことか、ということは、いくつになっても考えつづけていたいものです。ありきたりですが、かっこよくあるためには、自分のスタイル(あるいはモノサシ)を持っていること、熱中できる何かがあること、異性はもちろん他人のことについて考える余裕があると、そんな男はかっこいいかもしれない。まあ、かっこいいひとはこういうことを自分で言及しないもので、かっこよくないから理想についてくどくどと言えるんだけど、考えていないと精神や身体のボルトが緩んでいくばかりなので、考えてみました。実は結構、ブログに書くと背筋が伸びることも多い。前向きなことはもちろん、前向きじゃないことを書いてしまったあとにも、なんとなく背筋が伸びる。書くことは精神の安定につながるものかもしれません。セラピストさんが、そんなことを言いそうですが。

話は変わるのですが、小森陽一先生の「村上春樹論」において、いくつかの言葉が呑み込めないサカナの骨のように思考にひっかかっています。そのひとつは「海辺のカフカ」において佐伯さんが語る「私は必要以上に長く生き続けることによって、多くの人々やものごとを損なってきました」という一節であり、もうひとつは、「すべての躾は、「誰かを深く愛する」がゆえに、「その誰かを深く傷つける」こと」ということです。そこにさらにメタファー思考という言葉が3つ巴状態になって、すっきりしない感じで考えつづけています。

うまく書けないかもしれないのですが、考えたことをそのまま書いてみます。

人間の意識というのは、まず「補正」する機能があるのではないでしょうか。たとえば茂木健一郎さんの本に書いてあったのですが、パックマンが3つ向かい合っているような図形をみると、その真ん中に三角形がみえてくる。誰かが「空が青い」と言ったときに、「うん、きれいだね。そして雲がはやく流れている」と言いたくなる。コップをみるときに、そのなかにある液体を想像する。

異なったAとBをつなぐ行為というものが、乱暴に言ってしまうとメタファーだと思うのですが、「人生は青空だ」というときに、その意味を無理やりつないでいる。つながるはずのないふたつの言葉を、無理やり補正して「接合」してしまう力を人間は持っています。きっと、いまのコンピュータにはその力はない。

そして、ぼくは世のなかのものは「すべて相反する2つ以上の意味もしくは内容」をまとめて持っているものじゃないかと考えました。

光があるところには闇があります。健康のあるところには病がある。若さのあるところには老いがあり、男のいるところに女がいる。愛情のあるところに憎しみもあり、生のあるところに死もある。生と死はその両端ではなく、死は生のなかにある、というようなことを村上春樹さんの小説のなかにも書いてあったような気がします。語るひとのいるところに聞くひとがいて、痛みを感じている誰かに寄り添う痛みを癒すひとがいる。なぜ?という問いをする子供の前には、その理由は・・・と答える大人がいて、地球のどこかが昼間のときに大地の裏側では夜が訪れている。

一方で相反するふたつを結びつけてしまうのが、メタファーとしての人間の意識ではないか、と。だから人間の意識は、一元論を超えて立体的に広がることができる。しかし、どちらか片方になってしまったとき、世界は完全な「円(=縁)」ではない「いびつな」ものになります。つながりの円環がとぎれてしまう。

愛情のない憎しみ、憎しみ(厳しさ)のない愛情、他者としての誰かを必要としないひと、死という前提のない生、生であることを全うしない死、語るだけで聞こうとしないひと、傷付けるだけでいたわることのない気持ち、老いを無視した若さ、若さを認めようとしない老い、などなど。

もし人生において何かを損なうとしたら、ふつうは寄り添ってまあるく存在する世界の片方しか生きていない場合かもしれません。「海辺のカフカ」で佐伯さんは15歳の少女という生霊となって、カフカ君と交わります。佐伯さんにはカフカ君はみえていないし、カフカ君の声は佐伯さんに届かない。これでは損なわれて当然でしょう。

うーむ。まとまりません。まとまらないまま、この辺にしておきます。雨振りのなか、傘をさしながら歩いていたら何かがひらめいた気がした。しかしながら、ひらめいたのはカミナリでした。閃光がひらめくと、耳を澄まします。そして、目を凝らす。アイディアがひらめいたときにも同様に、耳を澄まして目を凝らすのですが、目の前にはいつもと同じPCの画面が広がっているばかりです。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)