「彗星の住人 無限カノン1」島田雅彦
▼book008:世代を超えて繰り返される恋の変奏曲。
彗星の住人―無限カノン〈1〉 (新潮文庫) 島田 雅彦 新潮社 2006-12 by G-Tools |
かなわぬ恋に夢中になるのはなぜだろう。
ひとはなぜ、求めても手に入らないものを求めずにはいられないのだろうか。
簡単に手に入る幸福では満足できずに、手の届かない場所にある幸福を追い求めること。想ってはいけないひとなのに、想わずにいられない苦しみ。それは行き場のない痛みです。けれども、誰も自分から苦しみのなかに身を投げようとは思わない。偶然に出会ったひとが、手の届かない場所にいるひとだったのではないでしょうか。運命に翻弄されているだけなのかもしれません。だとすれば運命はかなしすぎる。
「彗星の住人」は、4世代を遡って描く、恋の系譜の物語です。
読み終わるのが残念でゆっくり読んでいたのですが、既に続編2冊も文庫になっていました。物語のつづきが読めると思うとしあわせです。物語の筋も魅力的なのですが、はっとするような表現がいくつかあります。この絢爛豪華な文体は、三島由紀夫的であるともいえる。家柄や才能に恵まれながらも、かなわない恋に落ちていく様子は、さながら「豊饒の海」の「春の雪」といったところか。
物語は「君」と呼ばれる椿文緒という若い女性が、父カヲルの墓を訪ねた後、血のつながらない姉で盲目となったアンジュの家を訪問するところからはじまります。アンジュの話から、父カヲルの父(祖父)である短命な音楽家の野田蔵人、さらにその父であるJB(ベンジャミン・ピンカートン・ジュニア)、そしてまたさらにその親として蝶々婦人の愛人であるベンジャミン・ピンカートンまで歴史を遡っていく。それぞれが不遇の生涯のなかで、かなわない恋に落ちる。歴史を越えた恋の物語が描かれていきます。一方で、友人である蔵人の死後、彼の妻を愛して彼女を失い、息子カヲルを養子に迎えるシゲルの物語もある。
小説には「無限カノン」という副題がついているのですが、カノンから想像するのは、パッヘルベルのカノンです。そもそもカノンとは"規則"を意味するギリシャ語とのこと。音楽用語については詳しくないけれど、対位法のような技巧が使われて、同じ進行のなかで少しずつ変奏していくのがカノンではないか。この物語においても、世代を超えて、かなわぬ恋の物語が繰り返し変奏されていきます。
あとがきには、「自分にしか書けない恋」の物語を書こうとした島田雅彦さんの決意と覚悟が書かれていて、小説と同じぐらいの感動したのですが、この想いは通俗的なコンセプトを超越していると思いました。それこそ小説に「恋」をするひたむきな作家の姿がある。
次の部分を引用します(P.495 )。
忘れられた恋がひとつ、またひとつ、盲目の語り部によって、物語られる。歴史は恋の墓場なんだろうか? それとも、恋はなかったことにするために、歴史はしるされるのだろうか? しかし、戦争も政治も陰謀も全て、恋と結びついている。
この言葉は小説中の次の言葉と呼応します
アンジュはひとつの物語を終えると、必ず君に念を押す。
――戦争も政治も陰謀も全て、恋と結びついているのです。でも、歴史は恋を嫌う。本当は恋と無縁の歴史なんてありはしないのに。
恋は、なかったことにはできない。生まれてしまった恋は、人生にとって戦争と同等の歴史のひとつのページを記載するほどの意義があるものです。この小説のなかで語られる恋は、プライベートな物語であると同時に歴史につながっている。茂木健一郎さんは解説のなかでは、「巨(おお)きな物語」に接続された「私秘的(プライベート)な愛」が指摘されていて、非常に興味深いものがありました(P.501)。
恋に欠かせないものは他者である。国家もまた、他者という鏡を通して自分を認識する。
国家間における戦争という憎しみも、他者(他国)に対する嫉妬や恋から生まれた、国家レベルの感情の闘争なのではないでしょうか。世界は、どのようなレベルであれ、人間によって営まれているものである以上、ちいさな(プライベートの)物語も、巨きな(パブリックな)物語も、同じ人間の情念という根源に接続される。恋の発生から消滅までの過程は、人間の歴史と等しい。だから恋の年代記(クロニクル)を説くことは、歴史を説くのとそう遠くないところにあるのではないか。
小説の中では、マッカーサー元帥の愛人として、彼の日本に対する狂気をおさめるための人柱として人生を投げ打った女優の松原妙子が象徴的です。若い蔵人は、その松原妙子に恋をする。そして彼女をいちどきり奪ってしまう。それは恋ではありながら、テロリズムのような危険も伴う。ただし、その恋は一度だけの成就を得て、終わってしまう。
理屈っぽくなってしまったのですが、恋は理屈ではありません。情動に動かされている。けれども作家である島田雅彦さんは情動をクールに制御して、狂気と冷静の狭間で言葉を綴っている。そのあやういバランスが心を揺さぶります。たとえば、こんな言葉(P.48)。
――許されない恋ってどんな恋ですか?
二人の恋がどんな顛末を迎えたのか知る由もない君は、そんな直球の質問を投げかけるしかなかった。
――普通、人はそれほど真剣に恋はしないものよ。恋に狂うなんて自殺行為だから。恋は遊戯だ、娯楽だって見切ることで、人は大人になってゆくのよ。大抵の人は許される恋しかしない。祝福されない恋というのはあっても、結局は許されて、認められるの。でもカヲルの恋は――
アンジュ伯母さんはそこでいい澱み、手探りで君の手を握ると、声を低めて、呟いた。
――カヲルの恋は無理やり引き裂かれたのよ。だから、カヲルは諦め切れないの。
恋という感情を持続させるものは、必ずしも前向きなものばかりではありません。フィジカルなものだけでもない。もう触れることができない肉体が逆に永遠の感情を想起させることもあります。身体的なものよりも観念的な恋のほうが手に負えないかもしれない。
カヲルの祖父JBは、子供を生んで死んでいった妻・那美を火葬にした後で、骨になった那美に次のように囁きます(P,269)。
私自身が君の墓になってやろう。君は死んだが、恋はまだ生きている。
この「死」に関する言葉は、次のような言葉にもつながっていきます。蔵人の育ての母である、ナオミがいまわの際に蔵人に伝える言葉です(P,305)。
――棺桶には一人しか入れない。でも嘆くことはない。死者は夢の中の人と同じ成分でできている。いつでも会いにおいで。
死は有限のためにあるものではなくて、「いつでも会いに」いける無限をつむぐためにある。
肉体というものは、いつかは終わりが訪れるものです。しかし、魂=恋に終わりはありません。しかしながら、許されない恋の相手を死者と同様に、あるいは夢の中の成分として永遠にその魂を存在させることは、狂気です。現実に存在する相手ではなく、観念的な誰か、あるいは言葉化された対象に恋することかもしれない。その恋には終わりがありません。なぜなら身体性を持たないからです。
大きく視点を展開させてみると、それは次のような部分とも関連するのではないか、とぼくは考えます(P.201)。音楽家であった蔵人の息子、カヲルは美しい声を持っていて、音楽に傾倒していた。けれども、アンジュの友人である不二子さんに恋をして、声変わりをした頃に、音楽から詩作に方向を変える。詩を作ったことが彼の人生を変えてしまったとアンジュは言います。
――そう、不二子さんが悪いのよ。
――悪いって何がですか? 詩を書くことが?
――そうよ。カヲルは両親の言う通り、音楽だけをやっていればよかった。そうすれば誰も傷つかずに済んだ。詩を書き出したとたんに、カヲルは危ない世界に飛び出してしまったんだから。カヲルは詩の犠牲になったようなものよ。
音楽は身体的なものです。何よりもビート(律動)は身体を揺らしたり、鼓膜を通じて振動を脳に伝えます。しかし、記号であるところの言葉は、心をふるわせるものであったとしても身体性を持ちません。音楽は、空間のなかで減衰していく。けれども、言葉という情報は損なわれることなく永遠に残る。
いま、ぼくが書き綴っている言葉も半永久的に残ります。ぼくの記憶や身体は失われたとしても、書かれた言葉は残っていく。明るい気持ちも残るけれど、行き場のない暗い想いも永遠に残る
ただ、残しておきたい想いがあります。カノンのように少しずつ変奏を繰り返しながら、時代を超えて語りつづけていく言葉もあるような気がしています。3月9日読了。
※年間本100冊プロジェクト(8/100冊)
投稿者: birdwing 日時: 00:00 | パーマリンク | コメント (2) | トラックバック (0)