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2006年11月28日

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「コンスエラ―七つの愛の狂気」ダン・ローズ

▼book06-083:残酷かつ切ない愛を描いた寓話として、この短編集は凄すぎる!

4122047390コンスエラ―七つの愛の狂気 (中公文庫)
Dan Rhodes
中央公論新社 2006-09

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まいった。この短編集には正直まいりました。愛情も閾値を超えると狂気になり、オーヴァードライブさせた感情は憎悪も愛情も変わらないのかもしれないなあ、などと考えました。

寓話のような大人のファンタジーのような七つの物語が収録されているのですが、そもそも文庫を手に取ったきっかけは一作目の「カロリング朝時代」でした。

この短編には、なんと挿絵ではなくて楽譜が挿入されている。建築学の教授が、美しい女性の学生を前に個人指導をするのだけれど、歌いながら建築について教えていくわけで、その教授の歌が楽譜になっている。洒落ているな、と思いつつ読み進めたところ、すぐに物語に引き込まれました。個人指導をしながら、老教授は次第に目の前の女子学生に惹かれていく。女子学生も教授の声を心地よく感じて、歌の内容がわかったときには喜んだりしている。やがて女子学生も美しい声で旋律を奏でて、ふたりは一瞬、音楽と建築の知識を介して愛を交し合う。ようにみえるのだけれど、実は・・・。うーむ、残酷です(泣)。

このあまりにもメロディアスな切ない物語を読んで、美しい文章と軽快なテンポにめまいを感じたのですが、さらに次の「ヴィオロン・チェロ」には泣けた。

これは図書館の階段で自己流のチェロを弾くゴックという綺麗な女性に惚れるテュアンという青年の話なのですが、どれだけ誘っても彼女からいい返事がもらえない。そっけなくふられてしまう。そこでついに彼女といっしょにいるために、テュアンはあやしい中国人の老人に頼んでチェロになろうとするわけです。自分の命を捨てて魂だけを残して、美しいチェロになってしまう。ところが、彼女は・・・。くー、そうきましたか(泣)。


だいたい、愛情というものは、奪うよりも与えるほうが切ないものかもしれません。さらに、どんなに与えても、それが相手にとってピントが外れていたり、きちんと心に届かないのがいちばん辛い。また、追いかけているときには夢中だけれど、追いかけられると醒めてしまうものかもしれません。ぼろぼろになりながらも夢中な恋愛もあって、ある意味当事者は幸せともいえるのですが、冷静に傍からみると滑稽だったりもする。もちろん、そんなぼろぼろな恋愛はしたことがないひともいるかもしれませんが、したことがあるひとには、この短編集は痛い。そして、研ぎ澄まされた心象を寓話的な形でまとめてしまうダン・ローズという作家の力量にまいりました。

ぼくが好きな作品は「ヴィオロン・チェロ」とともに「ごみ埋め立て地」なのですが、この作品は、ごみ埋立地で出会う美しい女性マリアの話で、彼女はごみ埋立地が大好きで、そこで働きたいと思っていて、埋立地の上に菜園やレジャー施設を作るという壮大な夢を持っている。その彼女に惚れてしまう男が主人公なのですが、こいつがほんとうに哀れで、ごみ埋立地なんて好きじゃないのに彼女に合わせてみたり、じらされたかと思うといきなり至福なときが訪れたり、自分の美しさをわかっているマリアに翻弄される。心を込めて作った贈り物をゴミ扱いされたりもする(苦笑)。やがて念願がかなってゴミ埋立地のエリートとして迎えられたマリアは、保安上の理由から通電フェンスで彼をシャットアウトしてしまうのですが、惚れた男の弱みと言うか、彼はマリアのことが諦められない。自分の手紙や贈り物を「ゴミ」として捨てる。捨てることで、埋立地のなかにいる彼女に届くと思っているわけです。はぁ。切ないです。

誰かにとって大切な思いを込めたプレゼントも、なんとも思わないひとにはゴミにすぎない、という救いどころのない隠喩、というか痛烈な皮肉に心底やられました。でも、これはある意味、とてつもない真理だと思う。誰かを好きになるということは盲目になることであり、その盲目な気持ちの箍がはずれてしまうと好きな相手さえ見えなくなってしまう。相手が何を考えているかさえ、どうでもよくなってしまう。そうなるともはや自分の気持ちしかみえません。これは狂気的であり、とてつもなく滑稽かつ哀れでもある。

表題作となる「コンスエラ」に至っては、あまりに凄すぎて語る言葉もありません。これは、「ひとが誰かを愛するとき、いったい何を愛しているのか」という究極の命題を深く追求してしまう作品であり、結婚というものの本質を突いているともいえます。牧歌的にはじまるのですが、最後のおどろおどろしさは筆舌しがたいものがあります。

恋愛って何だ?愛情って何だ?と考えたいひとには、ぜひおすすめしたい一冊です。でも、失恋したひと(特に男性)は読まないようにね。ものすごく辛くなると思う。この小説に出てくるような小悪魔的な女性にはまってしまうタイプのオトコもいるような気がする。純粋であることは、ときに滑稽であり、途方もなくかっこ悪いものかもしれません。ダン・ローズの別の作品「ティモレオン」も読んでみようかと思ったのですが、どうしますか。11月26日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(83/100冊+74/100本)

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2006年11月27日

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「エミリー」嶽本野ばら

▼book06‐082:多様化を認めることが、いじめ現象を飽和させるのでは。

4087745740エミリー
集英社 2002-04

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最近、新聞やテレビで盛んに取り上げられる「苛め」ですが、いまに始まった話ではなくて、たとえば黒人やユダヤ人に対する人種差別は国際的な意味で「苛め」だったのではないでしょうか。つまり戦争の歴史は、巨大な苛めの物語でもあった。では、なぜ苛めが起きるのかというと、マイノリティーの存在があるからだと思います。あまりにも当然といえば当然ですが、少数派に対して差別の目が向けられるわけです。さらに付け加えるとすると、「マイノリティーだが魅力的な人物、あるいはそのマイノリティーを楽しむような人物」に対して、人間は苛めたくなるのではないでしょうか。

この心理は何かというと、嫉妬だと思います。あいつ、おとなしいままでいりゃいいのに、ちょっと目立ちやがって、というような嫉妬があると苛めたくなる。逆に考えてみると、苛めるような人間は個性がなくて、あまりにも一般的・標準的な人間かもしれません。要するに、特長のないつまらない人間だからこそ、愚痴を言ったり誰かを苛めたりする。つまらない人間は自分を主張できないので(主張できる個性というものがないので)、誰かを攻撃して自分を満足させようとするのでしょう。誰かを貶めることによって、自分が優位であるかのように錯覚するわけです。さびしい人間だけど、まあそれも人間だ。そんなつまらない人間もいるのが、世のなかというものです。

この短編集には3つの物語が収録されているのですが、タイトル作でもある「エミリー」では、バレエとバレーを間違えてバレー部に入部してしまった主人公の少女の悲劇が展開されます。けれども彼女は、放課後にEmily Temple cuteの服を着てラフォーレ原宿の前でしゃがみ込むことによって、そのときだけ自分であることを実感する。ところが、その姿を写真に撮られてファッション雑誌に掲載されてしまった出来事を発端として、他の同級生をはじめとした学校全体に知られてしまって、ひどい苛めを受けるようになるわけです。

苛められている彼女は、ラフォーレ原宿という自分だけの場所で、絵が好きな少年に出会います。彼は苛められてはいないものの、学校では自分の存在を消している。というのも彼はホモで、陸上部の男性の先輩を好きになっている。この彼もまたマイノリティーで、結局はその先輩からひどい仕打ちを受けることになります。

彼らのオタク的な趣向性と設定に、ちょっとぼくはうっと眉をひそめて引いてしまったのですが(申し訳ない)、ふたりは個性的といえなくもない。その個性を認めるか認めないかによって、苛めも生まれたり生まれなかったりするのではないでしょうか。しかしながら少年期にはマイノリティーが認められにくいものです。他人と同一であることが重要な時期であり、だからこそふつーではないような、みんなと異なった人間は差別される。

けれどもですね、ぼくは標準的あるいは平均的な少年・少女というか、絵に描いたようなふつーの人間はいないんじゃないか?と思っています。どんな人間だって、ある部分ではマイノリティーな影の部分を持っているものです。アンドロイドではないから画一であるわけがない。

苛め問題を飽和・解消させる手段が何かないだろうかと考えつづけているのですが、この本を読んで、苛めている人間の影の部分を徹底的に明るみに出すことがいいのではないか、と思ったりもしました。運動は得意で明るい(いじめ)少年だけれど、実は妹とテレビでプリキュアをいっしょにみているとか(笑)そんな、ちょっとした影の部分を徹底的に炙り出す。誰かを苛めることで結束しているけれども、おまえもほんとうにふつーの人間なのか、優位に立てるような人間なのか、実は変じゃないのか?ということを追求していく。いじめている人間の各個人のマイノリティーを相互に認めさせたときに、苛める結束も崩壊するのでは。

そうやって最後には多様性(ダイバーシティ)の混沌のなかに個々をばら撒いてしまえば、誰かを苛めようと思う気持ちもなくなってしまうのではないだろうか?などと考えたりしました。みんながそれぞれマイノリティーであれば、結束して誰かを吊るし上げるのも馬鹿馬鹿しいものです。みんな勝手に生きりゃいいじゃん、という気持ちにもなる。けれども、そのなかで「へーきみってそういう価値観なんだ。ぼくはこうなんだけどね」という理解、というよりも相互認識ができそうな気がします。あくまでも私見ですが。

世のなかには、おかしな人間がたくさんいます。おかしな人間も人間として認められるようになると、少しだけ大人になれるものです。ただ、迷惑な人間という範疇においては、その限りではないかもしれません。ひとには迷惑をかけないようにしたいものです。でも、そう言いつつ迷惑をかけちゃうのが、これまた人間の悲しいところなんですけどね。11月23日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(82/100冊+74/100本)

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2006年11月 5日

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「その日のまえに」重松清

▼book06-075:読了できなかった理由は・・・。

4163242104その日のまえに
文藝春秋 2005-08-05

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購入したのは半年ぐらい前だと思うのですが、読了したのは先日です。もちろんぼくは小説を読むスピードが遅いということもあるのですが、それにしても遅すぎる。実はそのスローリーディングには理由があって、3ページ読んでは涙ぐんでしまうからなのでした。

そんな過剰に反応する感情的なひとはたぶんぼくぐらいだろうと思うのですが、ちょうど剥き出しの傷口に刺さってくるような言葉で、ひたすら痛い。多少センサーの感度を落として読めばいいと思うのですが、フルオープンで読んでしまったので、それはもう痛いのなんの。何度か電車に持ち込んだのですが、電車のなかでうるうるしている気持ちの悪いおやじになってしまうので、ぼくの前に立つひとから怪訝な顔でみられてしまい、やめました。

「その日のまえに」は余命数ヶ月と宣告されたひとたちを中心に、どうしようもない運命に翻弄される人間模様の短編集です。最後の「その日のまえに」「その日」「そのあとで」という三部作に、その他の作品の主人公も関連していきます。考えてみると、ぼくが観ている映画にはこのテーマのものが多い。「死ぬまでにしたい10のこと」「ぼくを葬る」「いつか読書する日」など。死について考える傾向が高まっているのでしょうか。

「その日のあとで」で、ガンで妻を亡くした主人公が、彼女が死んでから三ヶ月後に妻の手紙を読む場面があります。長い手紙を何度も書き直したあとで、最終的に妻が主人公に残した言葉にまいった。これ、ひとことなんだもん。ふつう遺書というと長い手紙を思い浮かべるじゃないですか。とても長い文章を想像していたぼくは、電車で読んでいて、すとんと落とされたような気がして、まずいと思って即行で本を伏せました。そして家に帰って深夜に読んで号泣しました。シンプルな一行の言葉なのですが、この言葉はずるいなあ。この一行だけで三日は泣けます。ぼくは長文タイプなのですが、こういう言葉を使えるようになりたい。

しかしながら、あえてドライな批判をすると、泣けるのですが文学的な広がりはないと思います。泣かせるというそれだけの目的のために文章を研ぎ澄ませた究極のエンターテイメント作品であって、だからこそ言葉の広がりはあまりありません。直球勝負で余分なものが削がれた文章は、やはり重松さんのライターとしての経験がなせるわざだと思うのですが、文学的な深みがあるかというと、どうかなと疑問もある。

ちなみに奥さんに「これ読んでみる?泣けるぞ」とすすめてみたのですが、「だから意図的に泣かそうとする小説は嫌いなんだってば」と突き返されました。突き返されただけでなく、逆に宮部みゆきを薦められた。うーん、宮部みゆきねえ。それはちょっとどうだろう。でも読んでみますかね。困惑中。

それにしても、「その日のまえに」では背中に痛みを感じてガンを宣告されるストーリーが多いのですが、ちょっと心配になってきました。ぼくも背中がものすごく痛むことがあって、結石だといわれながらも原因不明です。今度の人間ドックでしっかり調べていただきましょう。そんな自分の身に降りかかってきそうなリアリティも、重松清さんの小説の醍醐味です。だから泣ける。

gadomamaさんのおすすめでしたが、よい本でした。11月2日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(75/100冊+70/100本)

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2006年11月 1日

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「薬指の標本」小川洋子

▼book06-074:水の思考、女性の身体感覚。

4101215219薬指の標本 (新潮文庫)
新潮社 1997-12

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女性作家の小説にはときどき眩暈のようなものを感じるのですが、男性のぼくには絶対に書けない匂いのようなものを感じることがあります。女性特有の思考パターンといってもいい。川上弘美さんの作品にも通じることですが、ぼくはこの匂い、あるいは文章に流れる思考の傾向を「水の思考」としてとらえてみました。女性の身体感覚で書かれている小説群に共通する液体のような思考の流れであり、あるいは強い波動であって、文体の瑞々しさを含めて流動的なもので、一方で息が詰まるような閉塞感もある。それはちょうど溺れて酸素を奪われたような息苦しさともいえる。しかしながら、この閉塞感が官能的でもある。オルガスムスの悦びと苦しさが一体化したものといえるのかな。男性のぼくにはわからないけれど。

水の思考の特長は、割り切れない、ということにあるのかもしれません。水の中に手を浸すと、水は手に沿ってまとわりついてきます。官能的に身体にまとわりつく。そうして、しなやかに形を変える。でも、手を水から引き出してしまうと、水は揺らぎながらも静かな水面に戻る。固体はどうでしょう。しっかりとした手ごたえがあって、手の中に重みを残します。ばきっと割ると割ったままになる。つまり固体的な思考は分解(=分析)できるのですが、水の思考は論理化して分解できない。何度すくっても指の隙間から零れて、水滴は、ぽちゃんともとの水面へと戻っていってしまう。つかみどころがない。水は月の満ち欠けにしたがって、満ちたり干いたりするものです。合理的ではない、みえない力に操られていたりもする。

この小説の危険なところは、固形的ともいえる正常な論理感覚が通用しないところにあります。液体的な論理で流れていく。

物語の冒頭には、主人公の二十一歳の女性がサイダー工場で薬指の一部を切り落としてしまうシーンがあります。けれどもそこには叫びや痛みはなくて、ただ切り落とされた肉片がサイダーの泡(液体)のなかに沈んでいく鮮やかなイメージだけがある。悲しみや怒りの感情すらなくて、彼女は静かに流れる液体のように職場を去る。ぼくはもうこのシーンだけで気持ちがざわざわしてしまった。ここで深読みをすると、切り取られてサイダーのなかに沈む薬指の肉片は、彼女が孕んだ子供のメタファ(羊水のなかに浮かぶ赤子)といえなくもない。つまりほんとうは彼女の指は欠けてなんかいなくて、ただ死産した(もしくは子供をおろした)経験が指を欠いたという現実にすりかえられているわけです。という思いつきだけをここに記しておきますが。

次に標本室というわけの分からない職場に勤めたかと思うと、標本技師である弟子丸氏から靴を送られ、その靴だけ履いた姿で彼と抱き合う。かと思うと、活字を床にばらまいてしまって、弟子丸氏が一晩中見守っている部屋で(彼はなにも手伝わない)、床に這いつくばって一晩中活字を拾い集める。濃厚な表現に、なにかとてもいけない気持ちになります。

基本的にこの小説に、物語の筋のようなものはありません。耽美なめくるめく視覚的イメージが延々と展開されます。

弟子丸氏が送った靴を履き、ふたりが愛しあう場所は、かつての浴場(水のあった場所)なのですが現在は使われていません。その水のない場所で履く靴は、どこか液体的に主人公の足を包み込む。やわらかくフィットするわけです。この表現が、妙になまめかしい。やがて靴は彼女と一体化していく。それは液体と液体の融合を感じさせました。

こういう表現を受け付けない男性もいるのではないでしょうか。たぶんそんな男性はものすごく健全で、冒険小説のような筋がびしっと通ったストーリーを好むのではないかと思います。しかしながら、こういう割り切れないものにセンサーを働かせてしまうような男性もいて、そういうやつはあぶないかもしれない(えーと、ぼくもそうなのですが)。ぼくは男性ではあるのですが、どうも自分のなかに、この水の思考があるような気がします。論理的に書いているようで実はぼくの論理は破綻していることも多く、感覚的に書いたもののほうがいきいきとしていることもある。

要するに、男性/女性というのはステレオタイプな分類に過ぎなくて、男性のなかに内包されている女性もいる。女性のなかに内包されている男性もいる。そんな複雑なものがぼくらの性なのかもしれません。問題は、そうした自己のなかの異性が覚醒しているかどうか、です。しなやかでありたいと考えるぼくは、内包された異性的な何かの封印を解いてしまっているらしく、そのセンサーが作品のなかにある水の波紋を同期させるので、だからぼくは、小川洋子さんのこの小説を読んで、ものすごく揺らぐのかもしれません。

身体の80%以上は水である、ということもどこかで読んだ記憶があります(正確ではありません)。もちろん脳のなかにも水が溢れている。女性の身体感覚で物語を(読むのではなくて)感じるということは、この身体という水を共振させる行為なのかもしれません。その水は決して澄んだ青い水ばかりではない。汚れて澱んだ水もある。

本のなかに収録されているもうひとつの短編「六角形の小部屋」もかなりアブナイ。その危険な感じは川上弘美さんの「夜の公園」に通じると思うのですが、いまぼくがそのことを詳細に分析しようとすると壊れそうなので、やめておきます。

「薬指の標本」はフランス映画(ディアーヌ・ベルトラン監督)として映画化されているようで、ひとりで観に行こうと思っているのですが、壊れそうでとても不安です。小説を読んだだけで、かなり危うかった。危うさのために文章が決まらずに、このレビューは何度も書き直していますが、これもまた水のように流れてとどまることを知りません。困った。11月1日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(74/100冊+68/100本

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2006年9月10日

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「旅の極意、人生の極意」大前研一

▼book06-066:スケールが違いすぎ、でも視野を変えてくれる一冊。

406212968X旅の極意、人生の極意
講談社 2006-07-07

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まず、お恥ずかしいことなのですが、ぼくは大前研一さんの本はこれで三冊目です。そんなわけで、もっと優れた本があるかもしれません。ただこの本を読んで、「大前さんはスケールが違いすぎる」とため息が出ました。仕事に対する取り組み方も、人生の楽しみ方も、人間の器が大きすぎる。コンサルタントって難しいことを言っているけど実際はどうなの?という表層的なことは今後、ぼくは語れません。

添乗員時代の大前さんの経験を踏まえつつ、海外15ヶ所の大前添乗員おすすめのプレミアムツアーを紹介していただける本です。クラリネットを買うために早稲田の学生時代に史上最年少で通訳案内史の資格を取り、外国人を相手に英語で日本の名所を紹介していくなかで、国際社会に通じるコミュニケーションを身につけると同時に、日本のよいところも見つめなおしていかれたとのこと。すごいのは、言葉を補うために、自分でフリップの資料を作り、それが非常に受けたようです。そんな大前添乗員には、旅行者が帰国してからも感謝の手紙がたくさん届いたそうで、つまりどんな相手にとっても最高の仕事をしていたわけです。

これこそがプロフェッショナルだ、と思いました。フリップで説明することは、上から言われてやったことではないでしょう。けれども自発的に自分を高めていったのだと思います。そんな大前さんがお客様である旅行者に評価されないわけがないし、一方で自分のためにもなっているわけです。

とにかくパラオにしてもドバイにしても、最高級の旅が紹介されていて、大前研一さんのテンションも他の本とぜんぜん違います。文章が熱っぽいし、きらきらしている。ほんとうに旅行が好きで、その旅行が仕事はもちろん人生も豊かにしているんだなあと感じました。大前研一さんにはぜったいになれませんが、この本には旅行の知識はもちろん、タイトルにもあるように「人生の極意」のエッセンスが詰まっています。より豊かに生きるためのヒントがあります。

写真も美しい。ああ、世界にはこんなに美しい場所があるんだ、願わくばこのうちのどれか一ヶ所に行ってから往生したいと思います。そのすべての場所を経験済みの大前さんには、頭がくらくらするほど脱帽なのですが。9月8日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(66/100冊+52/100本)

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