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2010年4月24日

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「一勝九敗」柳井正

▼book10-08:スマートな経営論から学ぶ思考と実行の軌跡。

4101284512一勝九敗 (新潮文庫)
新潮社 2006-03

by G-Tools


ユニクロのウェブプロモーションが好きです。洗練されていて、おシャレで、クオリティが高い。映像はもちろん音楽もいい。

2007年6月から展開されているUNIQLOKは、時報に合わせてユニクロの服を着たモデルさんが踊る時計のコンテンツです。ブログパーツとしての利用も可能で、かつて「カンヌ国際広告祭」をはじめとして、世界の3大広告祭すべてのインターネット部門でグランプリに輝いたそうです。その後リニューアルを繰り返して、現在もUNIQLOK6として継続されています。

その他、ユニクロの一連のウェブプロモーションは、ユニクロのサイトの「プロジェクト詳細」のページに掲載されています。それぞれが色とりどりで楽しい。低価格でありながら高品質という製品の特長をきちんと表現しています。


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最近、面白かったコンテンツはUTweet!でしょうか。


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UTはユニクロのTシャツ専門店で、企業コラボも含めてさまざまなキャラクターによる商品が揃っています。そのTシャツの「T」とTwitterのTweetを絡めて、トップページでツイッターのアカウントもしくはキーワードを入力すると、Tシャツのプリント絵柄のような画像で、投稿されたつぶやきが音楽に合わせてリズミカルに画面に表示されます。


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ツイッターのアカウントを持っていなくても、キーワードの入力で楽しめるところがいいですね。自由にキーワードを入力すると、そのワードを含むつぶやきを抽出してムービーでみせてくれます。

ウェブプロモーションひとつをみても、ユニクロらしさ、つまりユニクロのブランド価値観が示されています。そこには一貫性があり、高い品質が維持されている。小売・流通の業界、あるいはアパレル業界には詳しくないのですが、ユニクロのブランドは確固としたポジションにあると感じられます。ファーストリテイリング元社長の柳井正さんも、さまざまなメディアで取り上げられていて、カリスマ経営者という印象を受けました。

「一生九敗」は、柳井正さんの視点からユニクロの歴史が書かれた本です。

父の経営する「メンズショップ小郡商事」を出発点として、製造小売というビジネスモデルで店舗数を拡大し、一部上場から世界展開へと事業を発展させていく歴史を柳井さんが自叙伝的に書き記されています。単行本が発行されたのは2003年だそうですが、時代の古さを感じさせません。

柳井さんの経営に対する考え方、事業展開はとても"スマート"であると感じました。しかし、見かけだけのスマートではありません。思考と実行が直結したスマートさです。

広告クリエイティブに対する姿勢も実直です。ひとことで言ってしまうと"徹底した顧客志向"なのですが、ワイデン社のジョン・ジェイ氏が主張する「日本のテレビCFは「大きい音を出したり、おもしろおかしくやったりして奇をてらいすぎである」という批判に耳を傾け、「視聴者に対する敬意」を重視します。その結果、ユニクロは広告を次のように考えます(P.93)。

ユニクロの広告は視聴者に敬意を表して、見ている皆さんのインテレクチュアルな部分に頼るものにしたい。一方的に伝えるのではなく結果的にきちんと「伝わる」ようにしよう。そういう広告を作ろうということになった。広告の本質を知っている彼はすごいと思った。
日本中にあふれている雑誌の類も、読む人にまったく敬意を表していないのではないか。編集者側に表面的な商業精神が蔓延していて、読み手に対する敬意を持った雑誌が少ないと感じる。刹那的に人目をひくのではなく、書き手や誌面のクオリティを高めるのが発信者側の責任だと思う。

視聴者に対して敬意を表す姿勢が、ウェブのプロモーションにも中核に据えられていると感じました。

広告の受け手、視聴者は馬鹿ではないのです。クリエイターが高い場所から視聴者を見下していれば、そのような姿勢や思考は見透かされます。クリエイター自身が楽しんで作ることは構わないとおもうのですが、視聴者なんてこの程度でしょう、という驕りが感じられる広告。それは視聴者に敬意を表していません。

ホンモノの広告はきちんと丁寧に作り込まれているし、表層ではなく、広告主の考え方がきちんと伝わります。では、どうすればそういう広告ができるのか。次のように語られています(P.121)。

日本の広告代理店の力はよくわかっているつもりだ。しかし丸ごと任せてもわれわれが思っているようなCFはできない。広告は広告主がやるもので、クリエイターや広告代理店がやるものではない。広告主が自分たちで企画して作り、一つの機能としてクリエイターや広告宣伝会社を使うという方式でないとうまくいかない。

小売だけでなく、製造(工場)も自分たちで管理しようと考えた柳井さんらしい姿勢です。

この考え方の延長線上に"自分でやる"という実行力と責任を重視する企業哲学があります。どんなによいアイディアでも、思考段階で終わってしまったら絵に描いた餅でしかありません。本書のなかでは、実行する、変革することの重要性が何度も繰り返されます。机上の空論で終わらせずに、難題に挑戦し、実現する覚悟を求めています(P.213)。

しかし、ひとつだけ注意しておきたいのは、挑戦と実行を支える「覚悟」があるかどうか、ということだ。当社の社員たちは頭で勉強している人が多いので、ビジネスモデルや戦略計画という部分ではまったく問題ない。しかし、それだけでは机上の空論に終わってしまう危険性がある。実際に泥にまみれて「現実」というステージの上でやっていけるかどうか。これが最終的には問われることになる。

本書のタイトルにも通じる次の箇所は、本書のなかでも重要な部分ではないでしょうか(P.236)。

一直線に成功ということはほとんどありえないと思う。成功の陰には必ず失敗がある。当社のある程度の成功も、一直線に、それも短期間に成功したように思っている人が多いのだが、実態はたぶん一勝九敗程度である。十回やれば九回失敗している。この失敗に蓋をするのではなく、財産ととらえて次に生かすのである。致命的な失敗はしていない。つぶれなかったから今があるのだ。
もうひとつ大事なことは、計画したら必ず実行するということ。実行するから次が見えてくるのではないだろうか。経営者本人が主体者として実行しない限り、商売も経営もない。頭のいいと言われる人に限って、計画や勉強ばかり熱心で、結局何も実行しない。商売や経営で本当に成功しようと思えば、失敗しても実行する。また、めげずに実行する。これ以外にない。
極端に言えば、あらゆる計画は机上の空論だ、とぼくはいつも思っている。いかに努力して計画しても、現実にブチ当たってみるまでわからないことが多い。逆に、自分で計画しないと机上の空論さえもできず、実行することもできない。

あるいは次のようにも説かれています(P.137)。

「頭だけで考えて経営することの危険性」ということをもう少し説明しよう。
極論すると、商売というのは実践である。経営も実践。頭だけで考える、あるいは知識先行で考える人は、課題や問題点を全部整理して、優先順位をつけて、「これはこういうことです」という現状分析だけで停止してしまい、実践までたどり着かない。実践できたとしても、実践しながら今度は考えなければいけない。実践しながら考えるというのは、「身体を使う」ということであり、場合によっては単純なことを繰り返してやらないといけないこともある。当然、時間もかかるし、思ったようにはいかないことが多い。実践がともなわず頭だけで考えると、すべて机上の空論に終わってしまう恐れがある。もちろん、実践にこだわるあまり、改革を考えられなくなることの愚は言うまでもない。

"実践しながら考える"ということ。

この箇所は表層的にことばだけ読んでしまうと非常にスマートなのですが、現実的には、「泥にまみれて」「身体を使う」ことによって事業を拡大してきた柳井さんの実績があります。さっと読み進めたあとで再度読み直すと、ユニクロという事業を軌道にのせて拡大させた経営の重みを感じます。

経営論のようなカタチに昇華し、考え方の枠組みだけ抽出しているためにスマートに感じられるのだけれど、数値目標との闘い、人材育成などに関する汗みどろの取り組みがあったのでしょう。

思考と実行を併走させる考え方で想起するのは、アメリカのIT関連ベンチャー企業です。アップルコンピュータやグーグルにしても、試行錯誤をして失敗から学びながら成長してきました。実際に柳井さんは、そうした企業のモデルに関心を持たれているようです(P.131)。

ぼくは、アメリカのハイテクベンチャーなど最先端企業の急成長に、つねに興味を持ってきた。彼らは自分たちの夢を実現し、社会を変えていった。逆に言えば、社会を変えたいという信念をもっていたために実現できたともいえる。そう意識しない限り、急成長できなかったし、高収益もありえなかったと思う。

現場ばかりを見据えていると、目先のことに追われて夢や志を失いがちです。業績低迷の危機感からオール・ベター・チェンジ(ABC)改革も実施されたようですが、夢や信念、志のような屋台骨があったからこそ、ユニクロは逆境を生き残ることができたのではないでしょうか。

ところで、そんなユニクロと柳井さんの考え方に触発されつつ、最近、自省して考えることがあります。それは3つの自戒です。言葉化することによって自分も変えていきたいとおもうので書き留めてみると、ひとつめは、

「そのことばは身体から出てきたか」

ということです。

きれいなことばを使うことは容易いし、耳にやさしいことばに惑わされることも多くあります。ものごとの上っ面だけを誤魔化すことばもあります。けれども、そうしたことばは軽く脆いものです。流行だから、誰かが言っているから、という空気に流されて発した形骸的なことばは消えてしまうのも早い。一方で孤独のうちに自分のなかでじっくりと思考し、身体の底から生まれたことばは重い。

ふたつめは、

「その思考は世界を視野に入れているか」

ということ。

NHKの「龍馬伝」で坂本龍馬が脱藩し勝海舟に会いに行き、藩も幕府もない「日本人」になる、と熱く語る場面がありました。自分の周囲3メートルぐらいの範囲で生きているぼくは、自分のことだけでもせいいっぱいです。できれば、他者のこと、他者がつながる広い世界のことに目を向けたい。グローバルという観点ではなく、ゲイジュツにおける世界観という意味でもよいのですが。

みっつめは、

「その約束は実行できるか」

ということです。

ユニクロの柳井さんの本から、実行することの大切さを感じました。影響を受けました。どんなにすぐれた計画であっても、実行しなければ机上の空論にすぎません。まずは自分に対して約束ごとを決めたい。大袈裟なものではなくてもいいでしょう。朝は早起きをして「おはよう」を必ず言うこと、程度で構わない。けれども一度決めたら、愚直に約束を守り通したい。

これはプライベートレベルの理念のようなものですが、「一勝九敗」を読んで、企業において頑強な倫理観を確立する重要性も感じました。本書の後ろにはユニクロの経営理念の詳細な解説があり、ひとつひとつが納得できるものでした。経営理念とは別に「起業家十戒」と「経営者十戒」が掲載されていたので、最後に引用します(P.231)。

起業家十戒
  1. ハードワーク、一日二十四時間仕事に集中する。
  2. 唯一絶対の評価者は、市場と顧客である。
  3. 長期ビジョン、計画、夢を失わない。
  4. 現実を知る。その上で理想と目標を失わない。
  5. 自分の未来は、自分で切り開く。他人ではなく、自分で自分の運命をコントロールする。
  6. 時代や社会の変化に積極的に対応する。
  7. 日常業務を最重視する。
  8. 自分の商売に、誰よりも高い目標と基準を持つ。
  9. 社員とのパートナーシップとチームワーク精神を持つ。
  10. つぶれない会社にする。一勝九敗でよいが、再起不能の失敗をしない。キャッシュが尽きればすべてが終わり。
経営者十戒
  1. 経営者は、何が何でも結果を出せ。
  2. 経営者は明確な方針を示し、首尾一貫せよ。
  3. 経営者は高い理想を持ち、現実を直視せよ。
  4. 経営者は常識に囚われず、柔軟に対処せよ。
  5. 経営者は誰よりも熱心に、自分の仕事をせよ。
  6. 経営者は鬼にも仏にもなり、部下を徹底的に鍛え勇気づけよ。
  7. 経営者はハエタタキにならず、本質的な問題解決をせよ。
  8. 経営者はリスクを読みきり、果敢に挑戦をせよ。
  9. 経営者はビジョンを示し、将来をつかみ取れ。
  10. 経営者は素直な気持ちで、即実行せよ。

投稿者: birdwing 日時: 20:57 | | トラックバック (0)

2010年4月12日

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「ツイッターノミクス」タラ・ハント

▼book10-07:ウッフィーが流通するギフト経済への期待。

4163724001ツイッターノミクス TwitterNomics
村井 章子
文藝春秋 2010-03-11

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今年に入ってからツイッター(Twitter)が流行っています。

ツイッターは140文字で「いま何をしている?」を投稿するミニブログです。PCやケータイから、生活のナマのことばをリアルタイムで発信できます。気のあう誰かとゆるくつながって、チャットのようなコミュニケーションも利用可能。自由度の高い機能が好評のようです。

たぶん週刊ダイヤモンドの1/23号「2010年ツイッターの旅」という特集がひとつの起爆剤になったと感じていますが、テレビなどニュースでも取り上げられ、多くの著名人や企業も使いはじめるようになりました。ブログ黎明期もそうだったように、最初のツイッター利用者は一部のIT関連中心のユーザーでした。ところがキャズム(普及の溝)を超えたのか、ぶわーっと一般のひとにも使われるようになりました。

タラ・ハントの「ツイッターノミクス」は、ツイッターという名前がタイトルにありますが、実際に書かれている内容はツイッターだけではありません。

SNSやWikiなどWeb2.0と呼ばれるツール群を使って、ぼくらの生活はどのように楽しいものに変わるか、という事例と指針をまとめた本です。著者自身の体験談が多く引用され、ひとりの利用者としての成功事例が魅力的です。

どちらかというと、ツイッターの初心者向けというよりも、ある程度コミュニケーションができていて、さらにフレンドリンクを活かして仕事を発展させたり、もっと楽しいことをしよう、というひと向けでしょうか。あるいはフリーランスの個人事業主向けともいえます。クリス・アンダーソンの「フリー」は、どちらかというと社会全体の構造やビジネスモデルを主眼においた本という印象ですが、タラ・ハントの視点は比較的、等身大といえます。

この本のなかで何度も使われるキーワードに「ウッフィー」があります。

おもわず、ミュージシャンの広瀬香美さんが「Twitter」を間違えて「ヒウィヒヒー」と読んでしまい、歌まで作ってしまった経緯をおもい浮かべますが、彼女のようなおふざけのことばではありません。コリイ・ドクトロウというSF作家の小説「マジック・キングダムで落ちぶれて」に書かれていることばのようです。

4150115265マジック・キングダムで落ちぶれて (ハヤカワ文庫SF)
川副 智子
早川書房 2005-08-09

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ドクトロウが予見する未来では貨幣が存在せず、その代わりに「ウッフィー」が使われます。マーケット・キャピタルではなく「ソーシャル・キャピタル」において流通する通貨のようなものであり、ネット社会における評判や信頼といったところでしょうか。ドクトロウは、ウッフィーを増加させる3つの方法として、好かれること、つながること、一目置かれることを挙げています。

タラ・ハントは、市場経済に対してギフト経済ということばで説明していますが、ウッフィーの流通は個人だけでなくビジネスにも当てはまるといいます。顧客とのつながりがあり、信頼を得て評価の高い企業ほど、ギフト経済において企業価値が高まる。確かにその通りかもしれません。

と、いっても正直なところ、まだ全面的に肯定できません。個人はともかく、ほんとうにビジネスにおいてツイッターが有効なのか、半信半疑のところがあります。しかし、ツイッターが爆発的に利用者を拡大してから、社会的な変化が目に見えるようになったと感じるようになりました。いずれは企業における影響力も、はっきりとわかるようになるかもしれません。

「ツイッターノミクス」では、クリス・アンダーソンの「フリー」のように社会やビジネスモデルの構造を図解して、チャートで解説するような分析はされていません。しかし、体験や事例をもとにポイントを箇条書きにして、原則や注意すべきことを整理しています。これがわかりやすい。

たとえば、どうすればウッフィーを増やすことができるのか。ウッフィーをリッチにさせるために、タラ・ハントは5つの原則を教えてくれます(P.57)。

  1. 大声でわめくのはやめ、まず聞くことから始める。
  2. コミュニティの一員になり、顧客と信頼関係を築く。
  3. わくわくするような体験を創造し、注目を集める。
  4. 無秩序もよしとし、計画や管理にこだわらない。
  5. 高い目標を見つける。

一方で、オバマ大統領の選挙活動の成功から学ぶべき7つの教訓を挙げています。こちらは、コンサルタントのウマイア・ハックがハーバード・ビジネス・レビューのウェブサイトに掲載された教訓のようですが、彼女自身のウッフィーを増やす5つの原則と合致すると述べられています。以下の7つです(P.60)。

  1. 自己組織的な運動を設計する。
  2. 一貫性をもって、しかし臨機応変に行動する。
  3. 計画は控えめにする。
  4. 人の和を拡げる。
  5. 親密度を高める。
  6. 真の革命を起こせるのは理想である。

上記から、ぼくが注目したのは3点。大声で叫ばないこと、無秩序を認めて計画性にこだわらないこと、そしてわくわくするような体験の創造です。

自己組織化やコミュニティとして個々のつながりを重視する点は、Web2.0と呼ばれた時流の傾向として当然であると感じました。しかし、大声で叫ばないこと、無秩序を容認することの2点は、著者自信も書いているように広告やマーケティングとの対比で重要です。

広告は大声で叫びがちです。キャッチコピーを大文字で雑誌や新聞で掲載し、ラジオやテレビのメディアを通じて何度も連呼します。一方、ツイッターなどのサービスでは「つぶやき」といわれるように、まず個々人によるちいさな発信です。発信した情報の届く範囲もCtoCであるため、基本的には個人から個人へのダイレクトなネットワークを経由して全体に拡散していきます。広告が最初から大声のメッセージを不特定多数の全体に向けて轟かせることに対して、ツイッターなどによる情報の伝播は、ちいさなささやきが波紋のように拡がっていくイメージでしょうか。

また、マーケティングでは、全体戦略からトップダウンによって、認知拡大、理解促進、導入促進というような段階の細部が設計され、費用対効果も徹底的に管理されます。ところが、ツイッターなどでは情報の広がりを管理できません。むしろ制御されることを嫌います。思いもよらないアイディアが爆発的に注目されたり、意図したコンセプトとは異なった側面から商品が支持されることもあります。

これらの広告やマーケティングにない原動力が、「わくわくするような体験」です。もちろん、広告やマーケティングも動機付けや期待感を「仕掛ける」ことはできます。しかし、企業やクリエーターによって仕掛けられたことであり、顧客自らが体験を望んでいるとは限りません。場合によっては押し付けがましい体験にもなりかねない。そういう意味で無秩序のなかから顧客がつくりだす体験は刺激的です。

無秩序については後半に章を設けて解説しています。ここでも6つの指標について書かれているので、ポイントだけ抜粋しておきます(P.207)。

  1. 固定観念にとらわれない
  2. オープンにする
  3. まちがいを認める
  4. 成功の定義を見直す
  5. 目標を設定する
  6. 達成度を測る指標を決める

ウッフィーによる顧客の信頼の獲得を基盤として、企業の成功事例に的を絞り、タラ・ハントは次のような「ウェブ上で顧客を増やす八つの秘訣」を掲げています(P.84)。

  1. 製品やサービスは、できるだけ幅広い層を対象に設計する。
  2. コメントには必ず返事をする。否定的な返事でもよい。
  3. 批判を個人攻撃と受け止めない。相手は、わざわざ時間を割いてカイゼンすべき点を指摘してくれたのである。
  4. 有益な指摘やアイデアには公に感謝する。本人にとってはうれしく、他のメンバーにとっては励みになる。
  5. 新機能や変更は必ず事前に報せ、フィードバックを求める。
  6. フィードバックを活かしてこまめに改善する。それによって、つねに顧客の声を聞く姿勢が伝わる。
  7. フィードバックを待つのではなく、こちらから探しに行く。コメントやメールが来なくても、顧客は一〇〇%満足しているのではない。
  8. どんなに愛されている会社や製品でも、あら探しをする人は必ずいると覚悟する。

いずれも重要な視点だとおもうのですが、ぼくが注目したのは6番目。「こまめに改善する」というところです。改善は日本人の得意とするところであり、機能が充実したり、使いやすくなるのはユーザーとしてはうれしいところ。しかし、なかには、開発者の自己満足によって何もアナウンスがなく、ある日突然、改善(改悪?)されることがあります。

ぼくがいまでも不愉快に記憶しているのは、はてなの一連の機能追加・変更でした。いまでは定着しましたが、はてなスターは、ほとんど何もアナウンスがなく、ある日突然に機能が追加されていました。しかも消すことができない。50%ルールなど、ある程度のベータ版で公開して、利用者の声を収集しながら機能を洗練させていくのはよい手法だとおもうのですが、何もアナウンスなしにいきなりの改善はユーザーをないがしろにしています。さらにそれが、複雑で使いにくいものであれば最悪です。

改善のヒントは、グーグルの開発哲学から学ぶことができます(P.104)。オッカムの剃刀はよく聞くことばです(Wikipediaの解説はこちら)。

グーグルのマリッサ・メイヤーは、二〇〇八年の年次開発者会議で、同社の開発哲学の一端を明かした。メイヤーは創設メンバーの一人で、現在は検索プロダクツとユーザー・エクスペリエンス担当の副社長を務めている。メイヤーによると、「最もシンプルなデザインが正しいデザインである」がグーグルの基本原則だという。これはいわゆる「オッカムの剃刀」の原理と相通ずるものがある。十四世紀英国の哲学者ウィリアム・オッカムは「ある現象を同じようにうまく説明できる仮説があるなら、単純な方を選ぶべきである」と言ったとされ、ここから、ムダを削ぎ落とすことをイメージして「オッカムの剃刀」という。

企業や技術(テクノロジー)にしても、結局はひとが関係しています。だから使いやすかったり、わくわくするような企業や技術に対しては信頼度が高くなる。つまり「ウッフィー」が増えます。一方で、信用を裏切られたり、不正があればウッフィーは減ります。ネットの世界では、個人にしても企業にしても、行動と考え方がガラス張りになっています。だから、特定の人間の意地悪だったりネガティブは、多くの人間に晒されている(P.154)。

たとえばあなたが誰かに意地悪をしたら、あなたに対する相手の評価は下がる。つまりあなたのウッフィーは減る。リアルの世界であればそこで終わりだが、オンラインでは大勢がそれを見ているので、大勢の人があなたのウッフィーを減らすことになる。逆にいいことをしてみんなの役に立てば、大勢の人があなたのウッフィーを増やす。企業にとって「いいこと」に当たるのは、多くの人の心を掴むようなすぐれた製品やサービスだ。そうした製品やサービスは注目され、大満足のエクスペリエンスの共有を通じてコミュニティが形成され、長く愛される。

あまりにも当然のことですが、コミュニティ先にありきではなく、「すぐれた製品やサービス」があり、そこに企業姿勢や開発哲学があるからこそ、ひとびとは期待したり、わくわくしたりします。製品やサービスの開発に注力せずに、コミュニティやツイッターなどの仕組みだけを使おうとしてもうまくいきません。

また、ツイッターがリアルタイムで「つぶやく」ことができるため、面白いもの、よいものがあっという間に口コミで拡がる一方で、不祥事や失敗もまたたくまに伝播します。新聞やテレビなどと違ってタイムラグがないので、その情報拡散のスピードにも留意する必要があります。

タラ・ハントは、ウッフィーによって企業が積極的に顧客から注目を集めるために、11のヒントを挙げて解説しています(P.155)。また、それぞれのヒントに代表的な企業事例を紹介されていますので、あわせて記述してみます。

  1. ディティールで差をつける。細部へのこだわりや気配りが特別な感じを演出し、満足感を高める。→モレスキン(P.155)
  2. ワンランク上をめざす。顧客の期待やベストプラクティスを超えるような満足感をめざす。→TED(P.159)
  3. 感情に訴える。製品やサービスへの愛着は、コミュニティを生み出す力になる。→ボージュ・オー・ショコラ(P.160)
  4. 楽しさの要素を盛り込む。思わず笑ってしまうような体験を創造する。→ヴァージン(P.163)
  5. あたりまえのものをファッショナブルにする。全然おしゃれでないものでも、クールにすることは可能だ。→日用品のメソッド(P.167)
  6. 「フロー体験」を設計する。みんながやみつきになるような仕掛けを用意する。→アップルコンピュータ(P.169)
  7. パーソナライゼーションの余地を残す。誰でも「自分だけの特別なもの」が大好きだ。→MOOカード(P.172)
  8. 実験精神で臨む。新しいことを試し、顧客を巻き込む。→スキニー(P.174)
  9. シンプルにする。使いやすいものほど愛される。→37シグナルズ(P.176)
  10. お客さまをまずハッピーにするビジネスモデルを構築する。顧客が自分の力を発揮できるようにすること、達成感を味わえるようにすること、人間関係をゆたかにすることを考える。→iPodとiTunes(P.178)
  11. 媒介役であるソーシャル・キャタリストをつくる。製品やサービスが生み出す体験を通じて人々を結びつける。

幅広い事例を収集するタラ・ハントの視点には凄いなと尊敬の念を抱きましたが、結局のところ、すべてにおいて注目できるのはアップルコンピュータという落としどころには若干のありきたりさを感じました。また、iPodとiTunesを事例として挙げている10番目、お客さまをハッピーにするという項目では、次のような幸福になる原因を引用しています(P.179)。

アメリカ心理学会は、幸福を構成する要素を調べるためにさまざまな文化圏で調査を行ったことがある。その結果、人が幸福を感じるのは、四つの要素のいずれかが成り立つときであるとの結果に達した。その四つとは、自らの力で状況を変えられること、問題の解決や願望の実現を通じて自分の能力を確信できること、家族や友人の結びつきを実感すること、自分を信頼し誇りを持つことである。

まず顧客を考えること。顧客がハッピーであるように設計すること。顧客満足度(CS:カスタマー・サティスファクション)重視のような姿勢は以前からあり、とりたてて新しい視点ではありません。新しい視点ではありませんが、成功している企業は×Web2.0という仕組みの活用がうまく実現できているようです。

成功要件の逆として、危険な徴候のチェックリストも掲載されています(P.230)。

  • 顧客をウェブサイトにできるだけ長時間引き止めるために、あれこれ小細工をする。
  • サイトのビジター数と閲覧時間数を重視する。
  • 動画、コメント、画像などを自動投稿するための専用ソフトを使っている。
  • 予算が厳しくなってくると、カスタマー・サービスやマーケティング関係の予算と人員をまず削減する。
  • オンライン・コミュニティで製品やサービスが話題になり、予想外の使い方などが広まるのを好まない。
  • カスタマー・サービスに関する規則がこまかく、規則外のことをするときはいちいち許可を得なければならない。
  • 顧客をライバル会社に紹介したら、上司が激怒した。
  • 製品の使い方を説明するDVDやマニュアルが大量に必要だ。
  • 影響力のある人物を口説き落とし、ブログやTwitterで自社製品を取り上げてもらおうとしている。
  • 会議やイベントに参加しても、売り込みに忙しく、会った人や話の内容を覚えていられない。
  • ライバル社のFaceboolのページをチェックしては、敵のファンの数に一喜一憂する。
  • 自社はダントツで、恐るるに足るライバルはいないと考えている。

前半は広告代理店、ウェブ制作会社のプランナーやコンサルタントには耳の痛いことばではないかとおもいます。

ドラッカーは「マーケティングの理想は、販売を不要にすることである」と述べました。顧客重視の姿勢に徹することがマーケティングの極意であり、顧客重視を徹底すると採算性を超えた社会貢献のような姿勢さえ重要になります。

代替現実ゲーム(ARG)の例が興味深かったのですが、Cruel 2 B kindというゲームあるいはアコハという企業のplay-it-forwardは、現実世界で誰かに親切にすることでポイントを貯めていきます(P.241)。そんなゲームがあることをはじめて知りました。しかし、戦意高揚を意図した大量殺戮型ゲームに比べると、のどかで微笑ましい。このような発想がゲームの世界に生まれると、なんとなく幸福感も膨らむのですが。

クリス・アンダーソンが著書「フリー」のなかで述べた非貨幣市場について、タラ・ハントは「ギフト経済」という呼び名を使っています。似たようなことばであるけれど、ぼくは大きな違いを感じていて、藤井直敬さんの「ソーシャルブレイン入門」という本に書かれていたように、リスペクトは与えることはできても貰うことを強制できない。つまり、一方向だからこそ「ギフト」経済なのです。

繰り返すと、タラ・ハントは何も目新しいことは言っていないとおもいます。ひととひとのつながりを重視する、信頼や評価を大事にする、というようなことは、ネットが登場する前のアナログの世界から存在していたことでした。

田舎のような地域社会では近所づきあいによって、あったかいコミュニティを形成していました。隣りのおばちゃんが取れたての野菜を持ってきたり、おじいさんが子供たちにちょっとした声をかけることで、明言化したり可視化しなくても、無償による信頼の絆が生まれていました。特に日本という閉鎖的な地域社会では、逆にそうしたつながりは大切に育まれていたのではないでしょうか。

しかし、タラ・ハントが提示している現象は、そのような昔からあった社会と何が違うかというと、ネットの登場によってウッフィー(信頼・評価)が、定量化、可視化できるようになった、ということです。

ぼくは肯定すると同時に、タラ・ハントの提示する新しいギフト経済の社会に危惧も感じます。というのは、貨幣経済的な数の論理をギフト経済に持ち込むことによって、格差の構造や歪んだ価値観を生むことになるのではないか、とおもうからです。

サン・テグジュぺリの「星の王子さま」で、キツネが王子さまに言います。「かんじんなことは、目では見えないんだ」 と。5つ星による評価、フォロワーやつぶやきの数など、とかく数値的な可視化できるものに心を奪われがちですが、目にみえない徳を大切にしたい、と考えています。

+++++

タイムリーなことに、ちょうど本日12日の19:00から、Book1st新宿店でタラ・ハントと津田大介さんのトークイベントが行われていました。定員40人の会場は既に満席だったのですが、Ustreamで中継されていたので、ウェブでイベントの様子をみることができました。

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トークは基本的に通訳を交えながら、津田さんの質問にタラ・ハントが応える形式で進行。会場からの参加もあり、なかには話しながら感極まって泣いてしまう女性も。

UstreamのPOLLという機能を使って、視聴しているひとにアンケートを取ったり、立体的なイベントで感動しました。

視聴しながらパソコンで同時にメモした内容を簡単にまとめます。録音したわけではないので、聞き取ったままの記録を自分の解釈でリライトしています。太字の見出しは主として津田さんからの質問です。タラさんって「さん」付けで呼ぶとどこか変ですが(笑)。

■本を書こうとおもったきっかけは?

自分で本を書こうとおもいませんでした。3~4年ブログをやっていたのですが、出版エージェントから連絡があり、書くことになりました。

■ウッフィーとは?

コリイ・ドクトロウがSFのなかで書いたソーシャル・キャピタルです。その物語では、通貨は存在していません。ウッフィースコアで相手のプロフィールがわかります。スコアが高いと、信頼されている、たくさんのネットワークがあるということになります。

実際にオンラインのコミュニティにこのような通貨は流通していて、ウッフィーが貯まっているといろんな仕事をする機会に恵まれますよね。

■ウッフィーだけで生活ができるのでしょうか。

ウッフィーそのものは食べられません。それだけでは家賃も払えません。
でも、クレジットのようなかたちで貯めれば、最低限のお金しかなくても、あなたは信用されているから、ということで家賃を安くしてもらえる、食べ物がもらえるという風に生活ができる世界です。

■コミュニケーション能力、社交的ではないひとは?

ウッフィーはネットワークの規模に依存しません。社会に貢献すると貯まっていきます。したがって、社交的ではなくてブログやソーシャルネットワークに参加していなくても、オープンソースのさまざまなプロジェクトに参加したり、プログラムを書けば貢献できます。そして、ウッフィーが貯まります。

ウッフィーは他者に「気前よく与える」ことが大事なのです。

■オークションの評価制度もあったが、価値は捏造できるのでは。

ソーシャル・キャピタルは貨幣ではありません。相手によって価値が異なります。お金のように同じ尺度ではないため、偽造できません。

■匿名がいいのか実名がいいのか、どちらでしょう。

自分もニックネームを使っていますが、ニックネームと匿名はどちらもグーグルで検索できます。さまざまな議論がありますが、匿名は安全。

しかし、ツイッターは実名率が高いのも事実。長期的なウッフィーのためには実名のほうがよいでしょう。

(ここで視聴者にUst投票機能でアンケート。50%強が匿名)

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「共有」に関心を持っています。Facebook、ツイッターなどのサービスです。これらを実名で使っていると、個人的なレベルで嬉しいことがあります。たとえば、東京に行くと書き込むと、「ここへ行ったらいいですよ」などのアドバイスや情報をもらうことができました。

(津田さんより)
ツイッターノミクスを読んで、匿名から実名にしたひとがいることも共有のひとつでしょう。オンラインで何かをシェアすることによって楽しいことができ、盛り上がるようになりました。人気のある番組はユーザー数が増えています。去年なら200人集まればよかったのですが、今年は1000人規模で集まります。

■ツイッターで助けられた、助けた経験は?

(会場に質問)

A:アメリカの女の子で、アニメに興味があるひとがいました。歌詞を理解したかったのですが、漢字を翻訳できなかった。そこで訳してあげました。

B:ツイッターノミクスの本がいいと言っていたら、こういうイベントがあるよ、ということを教えてもらいました。いまイベントにも参加でき、本にサインをもらうこともできます。

C:私は癌の体験があります。同様に癌の宣告を受けて悩んでいるひとに病院や情報など教えてあげたところ、そのひとに癌の情報が集まりました。そのひとから「いま丸の内線で泣いているのはわたしです」という書き込みをもらい、感動しました。また、水道橋博士さんや東浩紀さんにリツイートーしてもらったところ、ブログのアクセスが3000PVにも上がりました。
報道関係の仕事をやっていたのですが、ちょうど仕事をやめようとおもっていたときなので、力付けられました。
(タラさん:立ち上がって「ありがとうございました」)

■「正直者が馬鹿をみない社会」は理想だけれど、皮肉や酷い書き込みもあります。どうすればいいでしょう?

2つ具体例を挙げます。

まず失敗した例。
数年前にブログに否定的なことを書いてきたひとがいました。コミュニティで影響力の強いひとで、守りを固めなければと闘いました。しかし、相手は何百も書いてきました。もうこういうことはしないほうがいいとおもいました。

次にうまくできた例。
がっちり守るのではなく、別の反応があるのではないかと気付きました。
相手に関心があるような返事を書くのです。「あんたの本なんて最低」と言われたら、馬鹿と返すのではなく「どういうところが?」とか「だからどうなの?」冗談をもって返します。個人攻撃をされたとおもわないほうがいいでしょう。ネットで書き込みをしていると、ときどき相手が感情のある人間だということがわからなくなりますが、相手にも感情があります。

(津田さんから)
アタマでは理解できますが、酔っ払ったり怒ったときは返すようにしていますね。炎上に対する対処法に正解はありません。感情的に怒るぼくの対応が好きなひともいることに気付きました。

ツイッターを続けていくと、自分をよくみられたい、とおもうようになります。正直に書こう、とおもっていても、最終的には自分の言いたいことをいえなきゃしょうがないなと考えるようにしています。

(タラから)
感情の発露には拍手を送りたいわ。どの程度、感情を出すかについては、文化によっても違います。特にネガティブな感情を直に出すのは、気をつけたほうがいいですね。

■会場からの質問

(日経Bizオンラインの方から)
ポスト広告マーケットでは、従来の広告ではできなかったコミュニティができます。しかし、ソーシャルメディアは、いまのところマスメディアです。ウッフィーを貯めるというモデルが、今後、広告でどう生かされるのでしょうか。

(タラさん)
どんな業界でも時間が経つと変わっていきます。たとえば音楽業界。レコードがなくなり、テープになり、mp3などのデジタルダウンロードが主流になってきています。ジャーナリズムでもオンラインの活用が増えていて、広告もひとつの例にすぎないのではないでしょうか。

北米では、たくさんの調査が行われていますが、ある調査では購買の意思決定において、78%が「自分の買うブランドと何らかのコミュニケーションをとりたい」と答えています。

ソーシャルメディアが生まれる前には、ブランドやメーカーとコミュニケーションをしたいとは考えませんでした。自分の買うブランドとコミュニケーションをとりたいということは、メーカーとの関係が深くなるということです。広告においても革命的なツールになることでしょう。

(津田さんから)
だれでも簡単にできるウッフィーの貯め方ってありますか?

簡単ではないですね。脳を切り替えて、これからの新しい未来にわくわくしてほしい。そうすればきっとウッフィーも貯まるでしょう。

投稿者: birdwing 日時: 21:43 | | トラックバック (0)

2010年4月 4日

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「ソーシャルブレインズ入門―<社会脳>って何だろう 」藤井直敬

▼book10-06:リスペクトでつながる社会脳の時代に向けて。

4062880393ソーシャルブレインズ入門――<社会脳>って何だろう (講談社現代新書)
講談社 2010-02-19

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最近、社会的な身体、社会的な脳というキーワードに関心があります。

ネットワークの進化によって、数年前からクラウドソーシングという知的分業の方法が注目されるようになりました。ひとりで考えるのではなく、群集おのおのが知識を持ち合い、分散して考える手法です。具体的にはWikiなどのツールを使った協働(コラボレーション)をさしますが、個々人のつながりによって新たな知見を見出す創造手法は、とても魅力的にみえます。

その延長線上といえるのかもしれませんが、"思考はもちろん社会的に身体感覚を共有する"というテツガクでもありSFのようでもある妄想に、個人的な興味を抱いています。

シャルロット・ゲンズブールのIRM(脳内を診察するMRI)という曲が気になったり、映画「アバター」で大自然の意思と個人の思考がつながって交流するシーンに感動したり。脳派を測るECoG電極や、脳派でマウスを動かすインターフェースなど、ちょっとアヤシイものにも好奇心を動かしている今日この頃です。以下は、engadget日本版より、パーソナル脳波入力インタフェース Intendix。

さて、「ソーシャルブレインズ入門<社会脳って何だろう>」の本書ですが、社会という関係性のなかで複数の脳が機能する「ソーシャルブレイン」研究について考え方を整理、今後の方向性を模索した本といえるでしょう。

まず個々の脳における構造の話題から書かれています。大脳皮質には「カラム構造」と呼ばれる一定のボリュームを持った円柱状の機能単位が存在し、六層のネットワーク構造を持っているそうです。

脳の働きを拡張するためには、ふたつの方法があると解説されています。垂直方向の拡張:カラム単体の神経細胞を増やして処理性能を高めること(=脳の表面積を変えずに厚みを増やすこと)と、水平方向の拡張:カラムの数を増やすこと(=脳の表面積を増やすこと)です。どちらが有効かといえば「脳のしわ(表面積)を増やす」水平方向の拡張のほうに軍配が上がるのではないでしょうか。

個別の脳の構造だけでなく、社会的な活動においても同じことがいえます。個人の処理能力を高める方法には限界があります。そこで、ひとりの仕事量を増やすよりも、大勢で手分けして作業したほうがスムーズにことが運びます。垂直方向の増強より水平方向に拡張して処理を複数の個人に分散するほうが有効であり、作業の負荷も減少します。

パソコンも同様。PCの頭脳とも呼べるCPUは、シングルコアからデュアル(2)コアへ、そしてクアッド(4)コア、マルチコアのように、コア数を増やすことによって性能を上げてきました。水平分業は必然的な進化なのかもしれません。


■■認知コスト削減という脳の保守性

脳の機能は、部位によって処理機能がモジュール化されているようで、視覚を中心に扱う視覚野といったように、機能のまとまりによって区分けされた「脳地図」があるそうです。

人間と人間のコミュニケーションでは、ことば以外に顔の表情を読むこと、特に目の動きを読むことが重要になります(P.70)。しかし、他者の目の動きを読み取るような脳の部位が障害を受けると、途端にコミュニケーションがうまくいかなくなってしまう。いわゆる「空気が読めない」状態になるようです。

アスペルガー症候群など特定の病理について言及するのではない、と断られていますが、「他者と自分との間の関係性に応じて、自分の関係性を調整すること」ができない場合を想定し、思考実験として、著者はこの状態を「社会的ゾンビ」と呼んでいます。

周囲の空気を無視する社会的ゾンビは、ある意味で自由です。しかし、何も制限がないことによって、かえって周囲との軋轢も生じます。自由であることは思考のコストを生みます。この負荷を著者は「認知コスト」と呼んでいます(P.48)。

選択肢が制限され、社会的規範が決まっていたほうが、思考の労力を削減できます。たとえばブランドのような価値観があったほうが、新たな世界観を創出したり選択をしなくてもいい。ブランド品を購入するときは、品物はもちろん「評判」を買っています。ブランド品に金を支払うことで安易に評判が手に入ります。

自由であることは解放的ですが、自由であるからこそ、ぼくらは自分なりの価値観をゼロから立ち上げ、自分の意思で選択する労力が必要になります。一方で、個人的な価値観や思考を放棄して、既存の固定された思考の枠組みにしたがえば楽です。ルールに縛られたほうがコストがかからない(P.50)。

エネルギー効率という点で見れば、制約に従う生き方は脳のリソースをほとんど使わない最適な生き方だからです。社会的な制約は、ともすると人の創造性を奪う大きな問題のように見えますが、視点を変えれば、一人一人のエネルギーコストを下げることで、社会全体のオペレーションコストを下げるという利点があるのかもしれません。

著者は横溝正史のミステリから、閉鎖された村に訪れた外来者の例を挙げます。村のルール(掟)を知らないばかりに、外来者は無知な行動を起こす。昔から守られてきたルールを無視して問題を生じて、村民からのバッシングを受ける。既存の枠組みに無知であることは、社会的コストを増大させる悪しき存在なのです(P.126)。

そのような、多くのミステリに共通してみられる構造は何かと言えば、社会の構造を揺るがすものを排除し、これまでの安定を維持しようとする保守的な圧力と言ってもよいでしょう。別に、そのような圧力は、ミステリに限ったものではなく、わたしたちの日常で、わたしたちが日々実感していることでしょう。

確かにそうですね。出る杭は打たれる状況も同様であり、ネットのコミュニティにおいても「いちげんさん」はお断り、仲間どうしの隠語などによって外来者を排除する秘密クラブ的なSNSもあることでしょう。排除=社会的コストの削減なのだから、異質な部外者を排除する動きは、コミュニティを安定維持するためには当然ともいえます。

社会が保守的であることは、脳の構造からも裏付けられるそうです。ヒトとチンパンジーの脳を比較すると、重さはヒトのほうが4倍近く重いのだけれど、血流量は2倍にしかなっていない(P.129)。したがって、「脳自体が構造的に保守的」なので、ぼくらの思考は基本的にムダなコストはかけたくない保守的である、ということです。


■■ルールと権威に抑制される社会

著者はルールについて、「わたしたちの行動を抑制する環境条件」と定義します(P.136 )。しかし、環境条件に安易に身をゆだねることは思考停止であり、環境条件を意図的に操作すれば、世論をコントロールする洗脳にもつながります。社会の空気を支配し、圧力によって個々人の思考を奪う大規模なメディア操作として、9・11のときの実感が書かれていました(P.143)。

そんな人々のヒステリックな気持ちにうまく便乗することでブッシュ政権は戦争を開始しました。この時期のアメリカでは、アフガニスタン侵攻も、イラク侵攻ですら、その参戦に関して疑問を口にすることがはばかられました。

このあとに紹介されるいくつかの心理実験の例は、非常に興味深いものでした。まずは「ミルグラム実験」、別名「アイヒマン実験」について。ユダヤ人虐殺に関わったナチスのアドルフ・アイヒマンと部下たちの心理に注目し、自ら虐殺を行ったのか上層部の要請に応えただけなのかという問いを解明しようとしました。アイヒマンは、命令に服従しただけだとして、自らの罪を認めないコメントを残しています(P.145)。

結局、アイヒマンによって殺されたユダヤ人の数は、数百万人と言われますが、彼は裁判において、「虐殺については遺憾だが、私は命令に従っただけだ」と一貫して主張しました。また、「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字にすぎない」とも述べました。

「ミルグラム実験」では、アイヒマンの供述を参考にして、権威の与える影響について確かめることが目的でした。他者に苦痛を与えるとわかっていても、権威ある人間の命令に被験者はしたがわざるを得ない、という結果を得たようです。権威者が発した命令に責任転嫁することで自分の行為を正当化し、罪悪感や他者の苦痛について考えることを放棄する。そうしてストレスから逃れるわけです。次のことばに納得しました(P.151)。

この思考停止と呼ばれる状態は、言い換えると、認知コストの最適化に他なりません。アイヒマンにも虐殺の事実は分かっていたはずです。しかし、虐殺を止めさせたり、その倫理問題の解決方法を見つけたりすることは、彼の立場では不可能でした。なぜなら、ユダヤ人虐殺は、彼一人が何を言っても変えることができるものではなかったからです。すなわち、問題を考えることが脳内コスト的に無意味であるならば、ヒトは思考を停止してムダな脳内コストをかけることを止めるという説明になります。

権威は思考停止を生むだけでなく、「個人が権威の助けを借りることで超越的にふるまいはじめる」ような過激な状態をも生みます。ここで引用されているのが「スタンフォード監獄実験」です(P.152)。

実験の内容は、恣意的に選んだ被験者を囚人と監守に振り分けて監獄で生活させ、それを観察します。すると次第に囚人は囚人らしく、監守は監守らしくふるまうようになっていくそうです。囚人を辱める罰則などを与えた結果、監守側の囚人に対する暴力があまりにもエスカレートしたために、2週間の予定が6日間で中止されたとのこと。

「スタンフォード監獄実験」を題材にした「エス[es]」という映画を観たことがありました。監守と囚人という役割を決めただけで、監守側のふつうの人間はサディスティックに変わり、権威下におかれた囚人は無気力なまま服従するようになる。そんな経緯が描かれ、ショッキングな映画でした。

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しかし、このような状況は決して特別なものではなく、われわれの日常にいくらでもあるものだ、と著者はいいます(P.157)。

これらの結果をまとめるならば、わたしたちは、本質的にきわめて脆弱な倫理観と、無意味に保守的な傾向を持った生き物なのだと言えるでしょう。このことは、わたしたちの日常生活でも、日々実感されることです。強いストレス環境下では、脳が後天的に獲得した倫理観や行動規範はすっかりはげ落ち、環境状況が求めるままのふるまいに無責任に落ち込む危険性を持っているのです。

これらの心理実験は実験室で行われている特殊な状況ではなく、いじめや派閥争いなど、社会におけるさまざまな場所で実際に存在している、と著者は指摘しています。


■■リスペクトと非貨幣経済(ギフト経済)

ソーシャルブレインはそもそもどこにあるのか。その問いに対して、著者は「関係性」をキーワードとして提示し、関係性とは「ある点と点がつながるつながり方の様式」と定義しています。要するにネットワークです。

経済的には恵まれていても、社会的に破綻したり、しあわせになれないのが現実。そこで「個人の喜びや幸せは、個人の中にあるのではなく、むしろ他者との関係性の中にあるのではないか」と推測します(P.198)。

個人と個人が多層的かつ複雑なネットワークによってつながり、関係性の網目を張り巡らせているのが現代社会ですが、人間における関係の根幹であり最も基本的なコミュニケーション単位は「母子関係」とのこと。確かにそうかもしれない、とおもいました。母親の胎内から生まれ出たとき、最初の他者はたぶん母親ですから。時代の変化に関わらず、これは事実です。

母子コミュニケーションの断絶した状態では発達が遅れること、死亡率も高まる実験結果が挙げられています。では、母親との関係性のなかで重要なポイントは何か。次のように述べています(P.206)。

それでは、母親の与えてくれる関係とは何でしょうか。それは、存在そのものを無条件で認めるという態度です。

そして、次のようにつづけます(P.208)。

僕はこの、「人が人に与える、母子関係に源を持つような無条件な存在肯定」をリスペクトと呼んでいますが、リスペクトの流れを考えることが、社会の中での個人の幸せの根幹にあるのではないかと思うのです。

リスペクトの性質として特筆されていることは、一方通行であることです。「自分に向かうリスペクトは自分自身で作ることはできず、他人に強制することもできない」と考察されています(P.209)。母親は自分にリスペクトを注いでくれますが、母親以外の他者はリスペクトを注いでくれるかどうか保証されていません。この緊張感がリスクを生みます。しかしこのリスクを軽減して、「リスペクトを敷衍(P.213)」させることで認知コストを軽減し、ひとはしあわせになれるのではないか、と著者は考察しています。

この構造は非常に興味深いものでした。というのは、読了したばかりのクリス・アンダーソン「フリー〈無料〉からお金を生みだす新戦略」、タラ・ハント「ツイッターノミクス」で取り上げられていた、非貨幣市場(ギフト)経済につながるところがあると感じたからです。

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略 ツイッターノミクス TwitterNomics

タラ・ハントは、コリイ・ドクトロウのSF小説から「ウッフィー」ということばを使います。「ウッフィー」とは、ソーシャルネットワークにおける評価や信頼の「通貨」であり、リスペクトと言い換えることもできるでしょう。そして彼女が「ギフト経済」と呼ぶように「与える‐受け取る」という一方通行の特長も合致します。

一方、クリス・アンダーソンは、フリーのビジネスモデルとして「直接的内部相互補助」「三者間市場」「フリーミアム」「非貨幣市場」の4つを挙げていますが、三者間市場におけるマスメディアの「権威」は急速に低下しつつあり、オープンソースによるソフトウェア開発など、無償で貢献して精神的な豊かさを求める経済の拡大を予測しています。

ところが、ぼく自身も疑問を感じているのですが、貨幣経済のルールほど、実際には非貨幣経済は広まっていないように感じます。藤井直敬さんは次のように分析しています(P.213)。

それは、おそらくリスペクトを前提としない経済優先型の行動戦略がもたらす利益が、認知コストの削減から来るメリットと比較して大きなものであるからでしょう。つまり、他者とのコミュニケーションにおいて、リスペクトという利益に直結しない態度より、戦略的に効率を重視した態度でふるまう方が、短期的には経済的利益が得やすい構造があるからです。

非常にわかりやすいとおもいました。しかしながら「リスペクトの欠如はボディブローのようにきいてくる」という指摘も頷けるものでした。

まったく新しい概念ではなく、従来の社会から存在することだとおもうのですが、「ひととひとの関係性(つながり)を尊重し、他者に対する信頼やリスペクトのなかにしあわせがある」という鍵は、ウェブで加速するデジタルのネットワークにおいて、今後ますます重みを増していくように感じました。

ぼくは科学者ではありません。しかし藤井直敬さんの本を読んで、脳研究はまだ最初の入り口に辿り着いたばかりだ、という印象を受けました。社会全体がしあわせになる方法を解く鍵のひとつとして、ソーシャルブレインズ研究のような脳科学が今後さらに発展することを願っています。

投稿者: birdwing 日時: 16:12 | | トラックバック (0)

2010年2月28日

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「フリー <無料>からお金を生み出す新戦略」クリス・アンダーソン

▼book10-05:フリーという新しい価値の彼方へ。

4140814047フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略
小林弘人
日本放送出版協会 2009-11-21

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ひとことで「フリー(無料)」といっても、さまざまなサービスやパターンがあります。Webではフリーであることは当たり前ともいえるでしょう。たとえば、グーグルの事業範囲は多岐に渡りますが、その多くは無料で提供されています。検索エンジンをはじめとして、メール、チャット、動画配信、地図、ワードプロセッサやスプレッドシートのオフィスソフトの提供、あるいは携帯端末用のオープンソースのOS(アンドロイド)の開発など。

高機能のサービスを、グーグルはなぜ無料で提供できるのか。
長いあいだ自分には疑問でした。

そりゃ広告収益で運営されているからだろ、という安易な解答は当然わかっています。しかし、ダイナミックに次々と新機軸を生み出す巨大なグーグルの事業構造は、単純な広告によるビジネスモデルとは異なる何かがあるのではないか、という印象を抱きました。神話化するつもりはありませんが、他の企業とはやはりどこかが違う。社会や技術動向の波に乗り、フリー(無料)のサービスを提供しながら収益化していく秘訣があるはず。

一方で、OSのリナックス(Linux)など、オープンソースのプロジェクトの構造は個人的に納得できるものです。自分たちの力でサービスを作り上げるという信念と誇りが求心力になり、開発者が無償で関わって規模を拡大してきた、と認識しています。同様にWikipediaについても、基金で運営されながらクラウドソーシングのようなかたちで、ネットを通じた一般のひとたちの参加によってコンテンツの精度を上げている成功事例としてとらえてきました。

デジタルの世界から離れると、フリー(無料)はわかりやすくなります。化粧品などの試供品(サンプリング)は、販売促進のツールに過ぎません。試しに使っていただいて、気に入ったら購入する。多くのひとに、とりあえず使ってもらう。無料であることの意図はシンプルです。

さらにわかりやすいのは、日本では地下鉄の駅で配布しているmetro min.(メトロミニッツ)、コンビ二で配布されていたR25のようなフリーペーパーでしょうか。これは完全な広告モデルです。誌面に掲載する広告から収益をあげて、読者には無料で提供する仕組みです。最近ではすこし勢いがなくなって残念なのですが、ぼくはフリーペーパーのファンです。市販されている雑誌よりも内容の濃い特集があり、レイアウトも凝っている冊子が多いので。

携帯電話では消滅したけれど、100円パソコンのようにハードウェアを無償に近い価格で提供して、月々の通信費用で回収していくモデルもわかりやすい。ローン返済の変形のようにとらえています。しかし、携帯電話端末の価格がどーんと上がったのには閉口しました。


■■フリーの心理的な本質とは

有名な「ロングテール」の著者であるクリス・アンダーソンは、価格競争やサービスの競争が行き着く先は「無料(フリー)」になるといいます。

「フリー <無料>からお金を生み出す新戦略」は、フリーが生まれた歴史的背景や用語の解説、ビジネスモデルのパターン化、デジタル世界におけるフリーの現状、経済的な効果など、あらゆる視点からフリーについてまとめた本です。

フリーとは何かという入門編から経済的な視点と論点を広げていく構成、「どうして○○がタダになるのか」というコラム、巻末資料として掲載された50のビジネスモデルなど、最新事情も取り入れた至れり尽くせりの内容で、非常に興味深く読み進めました。

期間限定とはいえ、この本自体がそっくりそのままフリーダウンロードできたそうです。にもかかわらず、印刷された書籍もベストセラー。本書で解説されたフリーによる収益モデルを、本書自体で実践したといえるでしょう。

率直な印象を書いてしまうと、AmazonのKindleやAppleのiPadなどの登場により電子書籍の隆盛が期待されていますが、PDFにしてもまだまだ画面上でまるごと本一冊を読むのは厳しいと感じています。だからダウンロードしたとしても、印刷物の本を購入したひとも多いのではないでしょうか。つまり印刷された書籍とフリーダウンロード版が同一内容であったとしても、読みにくいがゆえに書籍を購入したくなる。

なぜフリー(無料)がこれほどまでに、もてはやされるのでしょう。さらりと書かれていて読み飛ばしそうですが、ぼくは第2章「「フリー」入門」のフリーという用語の語源に鍵があるのではないかと感じました。自由と無料という両義性について解説している部分です(P.27)。

それでは、どうして英語では「Free」というひとつの単語になったのだろうか。驚くことに、その古い英語のルーツは「friend(友人)」と同じだという。

語源学者のダグラス・ハーパーによると、「free」の古い語が意味するところは、自由のきかない奴隷に対して同じ種族の自由な一員、だったようです。

個人的な推測ですが、リナックスのコミュニティが盛り上がったのも仲間の"協働意識"があったからではないでしょうか。自由にソフトウェア開発に関与できる仲間意識がコミュニティを支えていた。貨幣で売買されるものは、売り手/買い手という関係性のなかに閉じられます。しかし、無料で「ほら、これあげるよ」という感覚があるとき、たとえネットを通じた他者であっても、友人的な"つながり"が生まれる。OKwaveのようなQ&Aサイトも同様です。知識や情報を無償で提供したとき、受け手は教えてくれたひとに親近感を抱く。

無料ではなくても、「無視できるほど充分に安ければ」心理的な防御を緩めることになるのかもしれません。パチッとスイッチを入れるように(P.119)。

ミードが理解していたのは、ものの価値がゼロに向かうと心理的スイッチがパチッと入ることだった。完全に無料にはならないかもしれないが、価格がゼロに近付くと、まるでそれがタダであるかのように扱われるという強みを持つ。ストラウスの言った、安すぎて気にならないではなく、安くて問題にならない、である。

それは言い換えれば、無料という「価値」が有料の価値を凌駕するからです。本書のなかでは、ダン・アリエリーの実験が引用されていて、リンツの高級チョコであるトリュフとハーシーのキスチョコの実験が紹介されています。リンツ:15セント(卸売価格の約半分)とハーシー:1セントの場合には、73%がリンツ、27%がハーシーを選んだとのこと。しかし、リンツ:14セントとハーシー:無料の場合には逆転し、69%がハーシーを選んだそうです。

ここでアリエリーは次のように説明しています。

たいていの商取引にはよい面と悪い面があるが、何かが無料!になると、わたしたちは悪い面を忘れ去り、無料!であることに感動して、提供されているものを実際よりずっと価値あるものと思ってしまう。なぜだろう。それは人間が失うことを本質的に恐れるからではないかと思う。無料!のほんとうの魅力は、恐れと結びついている。

確かに貨幣を損失することに対する恐れが価値を決めているという指摘は鋭いとおもいました。しかし、ぼくは無料にすることによって、貨幣的な交換条件が崩れ、共同体の仲間として無償でシェアする「friend(友人)」的な精神が発動するからではないか、と考えました。


■■フリーの4つのモデルと新たな価値観

第2章ではフリーを4つのモデルに分けています。本書では各ページごとにまとめられているのですが、4つ全部を俯瞰したかったことと自分の思考の整理のために、ポイントをワンシートにまとめてみました。

PowerPointでさくっと作ったチャートをFlashPaperで公開します。全画面表示が可能なので、上部のコントロールバーで印刷アイコンの右隣にあるアイコンを押して拡大してご覧ください。



「直接的内部相互補助」「三者間市場」「フリーミアム」「非貨幣市場」の4つがあり、最初の2つは従来からあるモデルです。テレビ、ラジオなどのいわゆるマスメディアは、広告による「三者間市場」です。雑誌、新聞の場合は、「三者間市場」なのですが、製造者が消費者(読者)からも費用を徴収するモデルと考えられるでしょう。

ここで従来にない新しいモデルが「フリーミアム」と「非貨幣市場」です。

フリーミアム(Freemium)はベンチャー・キャピタリストのフレッド・ウィルソンの造語であり、基本版は無料、追加機能などを拡充させたプレミアム版は有料というモデルです。注目したのは、オンラインサイトの場合は「5パーセント・ルール」というものがあり、5パーセントの有料ユーザーが他の無料ユーザーを支えている、ということでした。

ただし、巻末付録では次のようにも補足しています(P.330)。

フリーミアムを収益モデルとして利用することを考えているウェブ2.0企業に対する私のアドバイスは、ユーザー全体に対する有料ユーザーの割合は五パーセントを損益分岐点にすることだが、望ましい割合は一〇パーセントだ。それ以上の有料ユーザーがいる場合は、無料版の性能を絞りこみすぎていて最大数の潜在顧客をつかまえていない可能性がある。一方、割合が一〇パーセント未満のときは、無料ユーザーを支えるコストが高すぎて利益をあげられない恐れがある。

税計算ソフトのインテュイット社は、連邦税計算ソフトは無料で提供し、州税計算ソフトは有料で提供することによって、70パーセントのユーザーが有料版を買うという高い移行比率をあげているそうです(特殊なケースではあるようですが)。

このモデルを理解して、グーグルがなぜ収益をあげられるかについて納得しました。潤沢な利用者を有しているグーグルでは、わずかな会員数であったとしても、有料ユーザーによる収益が無料ユーザーを支えているのでしょう。

フリーミアムはデジタルの分野だけではありません。2007年7月にプリンスがニューアルバム「プラネット・アース」をデイリーメイル紙280万部に景品として付けたこと、ブラジルではテクノ・ブレーガと呼ばれるCDが無料で配られていることなどが挙げられていました。これらの音楽業界では、コンサートのイベント収益によって(つまり来場者が費用を負担することで)CDの無料配布が実現できたようです。日本ではまだ実例はないとおもうのですが、大物のアーティストがどかんとやってくれると風穴があきそうですね。

いちばん信じられないのが4つめ「非貨幣市場」なのですが、まずジョセフ・ベルトランという数学者の「ベルトラン競争」について次のように書かれています(P.227)。

競争市場においては、価格は限界費用まで下落する。

そこで、もしベルトラン競争の法則が適用されるのであれば「無料はたんなる選択肢のひとつではなく、必然的に行き着くところ」と述べています。この推測のキモとなる部分は「競争市場において」という部分で、例としてウィンドウズのOSを挙げ、なぜウィンドウズが無料にならないかといえば、ネットワーク効果により(つまり誰もが使っているということから)独占状態にあるからだ、とします。

また、「フリーライダー(ただ乗り問題)」も憂慮すべきではないと述べています。というのも、例えばWikipediaでは編纂に参加することにより、強い喜びが与えられるからです。一般的によく使われるマズローの欲求五段階説を使った理想論であり、若干疑問を感じつつ、次を引用します(P.251)。

要するに、私たちが報酬なしでも喜んですることは、給料のための仕事以上に私たちを幸せにしてくれる。私たちは食べていかなければならないが、マズローの言うとおりで、生きるとはそれだけではない。創造的かつ評価される方法で貢献する機会は、マズローがすべての願望の中で最上位に置いた自己実現にほかならず、それが仕事でかなえられることは少ない。ウェブの急成長は、疑いなく無償労働によってもたらされた。人々は創造的になり、何かに貢献をし、影響力を持ち、何かの達人であると認められ、そのことで幸せを感じる。こうした非貨幣的な生産経済が生まれる可能性は数世紀前から社会に存在していて、社会システムとツールによって完全に実現される日を待っていた。ウェブがそれらのツールを提供すると、突然に無料で交換される市場が生まれたのである。

確かに自分を省みても、非貨幣的な生産として、こんなに長文のブログを書き、ものすごい時間をかけて趣味のDTMで作った曲をアップロードし、Twitterで毎日つぶやきを残しています。このパワーはいったいどこから来るのか。

価値観が変わりつつある・・・という予感のようなものを感じました。

もちろん貨幣経済のなかにあり、日々最低限の生活をしていくためにはお金が必要です。その基盤は今後も変わらないことは確かでしょう。しかし、フリー(無料・自由)という非貨幣市場の登場により、別の価値観、別のモノサシによって、ゆたかに生きていくスタイルが模索されつつある。願わくば、その新しい価値観が閉塞された日本の経済を打破し、貧困や格差の社会的な問題を解決する糸口になればよいのですが。

しかしその一方で、限界費用まで下落していく市場において、競争が熾烈化することも必須といえます。楽観論だけでなく、競争に耐えうる叡智がなければ、フリーという潮流に翻弄されて生き残れないのではないか、という危機感もあります。企業の問題だけでなく、個人の問題としても。

+++++

余談なのですが、クリス・アンダーソンは「ワイアード」誌の編集長です。ワイアード日本語版、好きな雑誌のひとつだったんですよね。最終号(1998年11月号)、いまだに持っています。その他の号も持っていたりして。

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投稿者: birdwing 日時: 16:54 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月12日

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「私・今・そして神 ― 開闢の哲学」永井均

▼book10-04:真摯に哲学する、とはどういうことなのか。

4061497456私、今、そして神 (講談社現代新書)
講談社 2004-10-19

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「○○の時代はもう終わった」とか「ここから本当の○○がはじまる」というキャッチフレーズが、あまり好きではありません。聞こえのいいステレオタイプなことばであり、大袈裟だから注目を集めるのだけれど、根拠は「なんとなく終わった/はじまる」ことが多い。実は中身が何もありません。

どうしてひとは、はじまったとか終わったとか宣言したがるのでしょう。その発言によって、時代の預言者的な羨望を集めたいからでしょうか。しかし、いままでは何だったんだ、というかすかな疑問を感じます。勝手に終わらせないでほしいし、はじめないでほしい。

終わりとはじまりは密接に関連している場合があります。ほんとうにはじめるのであれば過去を破壊するぐらいの覚悟(=終わりの力)が必要であり、終わったのであれば、廃墟のなかに新しいものを構築する強い生命力の予見(=はじまりの力)を期待したい。

しかし、このキャッチフレーズが使われるとき、多くの場合では傍観者として「終わった/はじまった」というイメージを騒いでいるだけです。浮わついた騒々しさが逆に空しく響きます。

さて、永井均さんの「私・今・そして神」の帯に書かれたことばは、

「ここから本当の哲学が始まる!」。

やれやれ、とおもいました。脱力しました。

最後まで読了し、本来であればカントやライプニッツを下敷きにした哲学的な考察や、時間についての論考、私的言語の必然性についてなど、「本当の哲学が始まる」内容に焦点をあてて感想を書くべきではないかとおもいます。

しかし、ぼくは永井均という哲学者の、新書というメディアに接する姿勢に首を傾げました。要するに、読者をなめて文章を書いていませんか、ということです。不誠実である、と。

それは瑣末なこだわりであり、揚げ足取りにすぎないかもしれません。しかし、ぼくは職業ライターではないし、ブログは雑誌の書評ではないのだから、そんな偏った意見もありではないか。そこで内容とは離れたところで、若干、辛辣な批判をします。

そもそも本書の原稿のもとは、講談社の情報誌「本」の24回分の連載です。

講談社の「本」は情報誌という体裁をとっていますが、内容は書籍の販促目的だと考えています。要するに、有料のPR誌です。したがって、連載という記事を装っているけれど、永井均さんの著作(もしくは他の書籍)を認知・販売促進するための広告といえるでしょう。だから文中にも、他の著作を読むように推薦する文章がみられます。たとえば次のような。

■P.74

(前略・・・そういう問題はこの本では扱わないので、興味があれば、最近書いた『倫理とは何か』を読んでください、産業図書、二二〇〇円)。
で、冗談や宣伝はともかく、『悪脳の懐疑』は成り立つのだろうか。

■P.170

ただし、十年後のように私が過去や未来の私と出会う場合には、その時どちらが現に私であるか、という哲学的問題が生じる。これは、『マンガは哲学する』の中心テーマだったので、興味があれば読んでください。

前者は産業図書の本ですが、後者は講談社です。

読書好きにむけた「本」というPR誌である以上、リファレンスとして他の本を参照し、関連性を「親切」に紹介したものかもしれません。インターテクスチュアリティということばもあるように、本と本は文脈(コンテクスト)によって知の織物のような関連性の網目をつくっています。しかし、これは現代思想的な概念のきれいごとであって、参照による「冗談や宣伝」を読むために、ぼくらは新書を購入したわけではない。脚注で控えめに紹介すればよいことです。

ということを気にしはじめると、他の文章も気になります。読者に対して甘ったれているのではないか、と読める。たとえば次のような部分(P.81)。

(ところで、いまそこを読み返してみると、64ページの最後の段落は「だがしかし」で始まっているのだが、これがなぜ「だがしかし」なのかは、はるかに七段落を越えて、最後の段落までたどり着かないとわからない構成になっている。大変な悪文である。)

悪文とわかっているのなら、わかりやすくリライト(書き直し)してくださいよ、きちんとした文章に(怒)!。

そんな風に腹立たしくなりませんか。悪文だ、ということを読者に投げかけるのは、いかがなものか。講談社の編集者の方もおかしいとおもわなかったのでしょうか。永井均さんの言いなりだったのでしょうか。

うふふ、自虐的に自分の文章を悪文って言っちゃうぼくっておちゃめ?という、老教授のナルシスティックな一面がみえると同時に、内輪ウケで編集者も笑いながらスルーしている印象です。いい加減な新書制作の舞台裏がみえて気持ち悪い。気持ち悪いといえば、以下も若い学生におもねるような印象があり、困惑するものでした(P.93)。

ここで内容(中身)というのは、(私についてなら)永井均であるとか、千葉大学の教員であるとか、そういったことであり、(今についてなら)二〇〇四年十月二十日であるとか、その永井という人が広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」を聞いているときであるとか、そういったことであり、(現実についてなら)一九四五年八月六日に広島に原爆が投下されたとか、地球が太陽のまわりをまわっているとか、そういうことです。

広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」・・・ですか(苦笑)。モータウンのリズムを踏襲した、いいポップスだとはおもいますけどね。

いや、広末涼子ファンであることを公言するのは自由であり、あえてリアリティを持たせるために具体例を挙げたのかもしれません。けれどもこの言説には、学生にウケを狙った媚を感じます。こういう媚は不要です。興ざめする。

たぶん千葉大学の講義でも、要所要所でこんな風に笑いを取ろうとしているのでしょうね。学生の質が劣化したと嘆く前に、教授の質も劣化しているのでは、と皮肉を言いたくなりました。おふざけが悪いとはいいません。けれども、この永井均的姿勢が生理的にダメなのです。ぼくには。

どういうことだろう。もうすこし考えてみます。そもそも冒頭には、次のように書かれています(P.18)。

自分が理想とする作品にはほど遠いことを知りながら、それでも毎日、作品を作り続けている似非芸術家のように、私は毎日毎日、哲学的妄想を作り続けている。以前は、よくノートや紙の切れ端に書き留めていたが、いまはもう、ただ考えるだけだ。きのう考えたことは、きょうはもう忘れている。それでかまわない。つまり、一日中ただたれ流すだけの哲学。

そこで、さっと頭をよぎった記憶があります。茂木健一郎さんの「思考の補助線」を読んだときの印象でした。

「思考の補助線」もまた、「ちくま」という筑摩書房のPR誌に連載された原稿をまとめたものです。率直なところ酷い本でした。あの本で茂木健一郎さんは、思索の行く末がどこに辿り着くかわからないが書いていくというような、一種の即興的な知の冒険を示唆するスタイルを宣言されていました。けれども実際は、明確な目的をもって原稿を書いていない言い訳に過ぎないと感じました。ただの思考の「たれ流し」です。

「思考の補助線」は、読んでいて意味がわかりませんでした。思考のガラクタという感じ。わからないのはおまえの教養が足りないからだ、という反論もあるでしょう。しかし、茂木健一郎さんご自身も自分が何を書いているのかわかっていなかったんじゃないか、と想像しています。つまり、PRのためにネームバリューのある茂木健一郎という名前を出版社(雑誌)に提供し、とりあえず原稿用紙の升目を埋めることができれば、あとはどうでもよかったのではないか、と。

文章の「たれ流し」には、著者の誠意が感じられません。加えて、出版社の編集の姿勢にも、新書ブームにのった悪書の大量生産の企図を感じます。

あらためて哲学者としての永井均的な姿勢に決定的な違和感を感じたものは何か考えてみると、第1章冒頭に掲げられた、このことばでした(P.16)。

哲学が好きだ。五十を過ぎればさすがに少しは飽きるかと思ったが、ぜんぜん飽きない。

一見して、このことばは前向きで、枯れた哲学者の悟りをおもわせます。ぼくも第一印象では、共感をもって受け止めました。好きなことを仕事にできるっていいな、自由だな、と。けれども最後まで読み進むうちに、このことばに生理的な嫌悪を感じました。きれいごとじゃないですか。軽薄すぎる。

中島義道さんの著書を読んだ影響が大きいのかもしれません。ぼくは去年、徹底的に中島義道さんの著作を読み、(合わない部分もあるけれど)彼の哲学に惚れています。心酔しました。その観点から考えると、哲学は「好きだ」と軽薄にいっちゃえるようなものではない。

哲学研究者であればともかく、ほんとうに哲学をすることは、苦痛や自省や孤独のうちにおいて行われるものであり、簡単に「好きだ」などと公言できるものではない。脂汗を流しながらもしんどい思考を停止させずに積み重ねていくことが哲学です。だから、はじまりもなければ終わりもない。永井均さんの、哲学好きなんだよね、などとさわやかに言ってのける姿勢が、嫌だ。

本書のなかでも中島義道さんの名前を出して、文体を真似したところや、ライバル視しているような表現もありました。しかし、おなじ五十を過ぎた哲学者といっても、このふたりは対象的です。

中島義道さんの哲学は、身体から発したことばで語られているように感じています。本来ならば恵まれているはずの環境に抗い、もうすぐ死んでしまう自分の存在に徹底的にこだわり、周囲のひとびとを不幸に落としこみながら思考の血を流して至った境地の重みがあります。

しかし、永井均さんの哲学は、何の不自由もなく生きてきて暇をもてあまして考えてみました、という印象です。あくまでも個人的な印象であり、偏見かもしれません。けれども洗練されていますが、深みも重みもない。そんな風にぼくには感じられます。

自分に関していえば、昨年、しんどい時期を経由して、軽々しい「知」というカッコでくくられるような哲学には満足できなくなりました。哲学に対する思い入れがあるからこそ過剰に哲学に期待し、偏った思考も生まれてくるのかもしれません。

カントが、ライプニッツが、という先駆者の哲学をなぞった「お勉強」だけでは、充たされないものを感じています。「妄想」との戯れ、つまり身体的にファルスの機能を失った老体による思考のマスターベーションは、哲学ではない。斬れば血(知ではなくて)が出るような、なまなましい身体から生まれた"ことば"を哲学として読みたい。そして自分の身体に哲学を浸透させたい。

「<子ども>のための哲学」(講談社現代新書)には、新しい発見と、本全体を貫く真摯な姿勢を感じました。しかし、「私・今・そして神」は哲学に向かう姿勢という観点から、ダメだとおもいます。取り上げたテーマはともかくとして。

投稿者: birdwing 日時: 20:35 | | コメント (2) | トラックバック (0)