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2010年9月12日

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「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」マイケル・サンデル

▼book10-12:自律的に、自由に生きるために。


4152091312これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル Michael J. Sandel 鬼澤 忍
早川書房 2010-05-22

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正面きって「これからの正義の話をしよう!」といわれると、ええっ?恥ずかしいよう・・・と面映い気持ちになりませんか。逆に、しようしよう!とみょうに乗り気になるのもいかがなものか。悪と闘う正義のヒーローはテレビの戦隊モノで十分。現実生活のなかで、正義は偽善的な響きさえあります。おおくのひとには敬遠されがちかもしれません。

しかし、この正義が見直されているようなのです。

残念ながらぼくはNHKで放映されていた番組を観ていないのですが、マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう」は、NHK教育テレビ「ハーバード白熱教室」の講義を書籍としてまとめたもののようです。ハーバード大学の学部科目「Justice(正義)」は、延べ14,000人を超える履修者を記録し、あまりの人気から講義を一般公開するようになったとか。書籍もベストセラーで、Amazonで1位(2010/5/14調べ。表紙カバーに書かれた紹介文を参考)。凄いですね。

さすがに人気講義だけあって、ぐいぐいと文章に惹き込まれました。面白い。

哲学に関していえば、哲学研究者には関心がありません。哲学するひとに関心があります。じゃあカントやヘーゲルやウィトゲンシュタインなどの本を直接読めば?といわれると腰が引けてしまう。王道的な哲学に嵌まったら、どんどん現実から遠ざかる気がするのです。したがって、ぼくが読む本は、中島義道さんや永井均さんなど比較的読みやすい哲学入門書、二次的な解説書になるわけですが、彼らは率直なところ哲学者として開き直っている感があります。どこかしら厭世的で、現実的な問題からは目を逸らせがち。

騒音を撒き散らすスピーカーを破壊するアナーキーな中島義道さんは、ご自身の哲学を実践されているとも考えられるのだけれど、その実践はどうかなあ、とおもう。永井均さんは、「今」「私」という純粋な哲学的問いに拘りすぎで、哲学的な引き篭もりな感じがする。猫が語りかける子供のために書かれた一連の哲学書は刺激的で、永井さんの哲学的な問いには共感します。しかし、どこか思考という砂場の「遊び」として感じられてしまう。純粋に哲学に没頭されているあまり、現実をみつめていない気がする。

個人的にぼくは哲学に興味を抱いていて、その一方で現実生活ではまったく「役に立たない」哲学という学問がもどかしく、なんとか現実との接点を見出せないものかと考えていました。

しかし、マイケル・サンデルは違う、とおもいました。

彼は政治哲学者の立場から、哲学を背景に、あくまでも現実の問題を次々に指摘していきます。具体的な事例を挙げて、ぼくらに問いを投げかけるのです。

ハリケーンの災害による便乗値上げが公正かどうかにはじまり、パープルハート勲章(名誉負傷勲章)にふさわしい人物は誰か、バブル崩壊して公的支援を受けた企業で役員が法外な報酬をもらっているのは妥当かどうか。さらに、徴兵制や傭兵の妥当性、代理母や臓器移植による生命の売買、大学入試に関するアフォーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)の是非、などなど。

現実問題を考える哲学的な基盤として、ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミル、イマヌエル・カント、ジョン・ロールズなどの哲学者の考え方にも触れています。サンデルによる解説は非常にわかりやすいものでした。カントの哲学は超難解だとおもうのですが、功利主義批判の観点から解説された箇所は目からウロコでした。

善か悪か、正か誤か、と、○×方式のような答えを出すことが哲学の目的ではないし、現実は簡単に割り切れるものではありません。永井均さんも著書のなかで述べられていたかとおもうのですが、哲学には問いだけがある。そして、『これからの「正義」の話をしよう』という本は、現実社会における多様な疑問符が掲げられた本という意味で真に哲学的ではないでしょうか。

多様な領域を扱う本だけに感想を書くのが難しいのですが、ここでは、マイケル・サンデルが掲げた問いのなかから2つの抽象的な考え方を選んで、自分なりに考えを深めてみたいとおもいます。「自由」と「アメリカの正義」についてです。


■■功利主義批判、そして自由とは

自由とは何か。自由であるとはどういうことか。その問いは、以前からぼくのなかにありました。籠のなかに閉じ込められた鳥のような思考ではなく、自由に羽ばたける思考を獲得したい、と。

たとえば正義は、道徳や倫理、常識という普遍化されたモノサシで測ります。したがって、一定の価値観や基準が必要になります。このとき既存の枠組みのなかで考えるのであれば、まったく自由ではありません。定型の価値観から生まれた正義は、借り物の正義だとおもいます。

誠実に正義について考えようとするのであれば、いったんすべての価値観を捨てて、世間一般にある定型の価値観を疑い、批判および再検証しつつ、独自の正義感を立ち上げる必要があるのではないか。ぼくはそう考えました。

独自の正義感を立ち上げるのは途方もなく面倒な過程であり、だからこそ多くのひとは既存の価値観に身をゆだねるものでしょう。しかし、それでいいのか。もしかすると世間一般の正義が「正しくない」場合もあるかもしれません。

マイケル・サンデルは「暴走する路面電車(P.32)」の例を挙げていますが、暴走する路面電車を止めるために、ひとりの作業員を殺すことによって5人の作業員を救うことが正しいかどうか。そんな正しさを判断しにくい問いもあります。この問いは難しいものです。ぼくは答えを出すことができませんでした。

「これからの「正義」の話をしよう」では、そんな具体的な問題とともに、哲学の変遷を辿りながら読者に思考のヒントを与えてくれます。最初に紹介されるのは、ベンサムの功利主義の考え方です(P.48)。

イギリスの道徳哲学者であり法制改革者でもあったベンサムは、功利主義の原理を確立した。その中心概念は簡潔で、直感に訴えかけてくる。それは、道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することだというものだ。

幸福の最大化がモノサシの基準、というわけですね。ひとりの人間のなかで苦痛から快楽への目盛りを最大化することはもちろん、多数決ではありませんが、社会全体においてより多くの人間が幸福を感じるときが道徳的に理想である、としているようです。

ベンサムによれば、正しい行いとは「効用」を最大にするあらゆるものだという。効用という言葉によって、ベンサムは快楽や幸福を生むすべてのもの、苦痛や苦難を防ぐすべてのものを表わしている。

とてもわかりやすい。1人を幸福にするより、10人を、100人を幸福にしたほうが「効用」がある。とすれば、暴走する路面電車の例では、1人の作業員を犠牲にして5人の作業員を救うことは功利主義的に正しいといえます。ベンサムは「われわれは快や苦の感覚に支配されている」として、このふたつの感覚はわれわれの「君主」だとします。

ただ、ぼくのなかでは何かが解せない感じがしました。ベンサムの功利主義に居心地の悪いものを感じてしまう。

サンデルはベンサムの功利主義に対する反論として、最大幸福原理は人間の尊厳と個人の権利を十分に尊重していないこと(「個人の権利」)、道徳的に重要なことをすべてのことを快楽と苦痛という単一の尺度に還元するのは誤りだ(「価値の共通硬貨」)と反論します。

では、こうしたベンサムの功利主義の欠陥を補うものはないのか。その答えとして、1859年の著作であるジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を引き合いに出して、次のように解説します(P.67)。

『自由論』の中心原理は、人間は他人に危害を及ぼさないかぎり、自分の望むいかなる行動をしようとも自由であるべきだというものだ。政府は、ある人を本人の愚考から守ろうとしたり、最善の生き方についての多数派の考えを押し付けようとしたりして、個人の自由に介入してはならない。人が社会に対して説明責任を負う唯一の行為は、ミルによれば、他人に影響を及ぼす行為だけだ。

人間の尊厳と個人を尊重し、単一の尺度から踏み出すために、「他人に危害さえ及ぼさないかぎり」という条件が提示されました。これでベンサムの功利主義の欠陥は埋められたかのようにみえます。

しかし、他人を傷付けない限り何をやってもいい、という考え方はわかるのだけれど、であれば代理母や臓器売買の問題は全面的に許容されるのではないでしょうか。自分が苦しんだり損なわれたりしたとしても、他人のためになるのだから、幸福の最大化に貢献していると考えられます。

また、政府が個人の自由に介入すべきではないという考え方は、リバタリアニズム(自由至上主義)に通じる、と位置づけます。格差の拡大が問題になっていますが、リバタリアンの主張は、貧困者を助けるために富裕者に課税するのは不公正とのこと(P.80)。

リバタリアンは、経済効率の名において、経済効率の名においてではなく人間の自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。リバタリアンの中心的主張は、どの人間も自由への基本的権利――他人が同じことをする権利に尊重するかぎり、みずからが所有するものを使って、みずからが望むいかなることも行うことが許される権利――を有すると言う。

時代背景は先送りされますが、リバタリアンについての補足です(P.82)。

一九八〇年代には、ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーによる自由市場支持、政府規制反対の過激な発言のなかに、リバタリアン的な考え方が見出された。知的原理としてのリバタリア二ズムは、福祉国家反対論としてずっと早くから登場していた。オーストリア生まれの経済哲学者フリードリッヒ・A・ハイエク(一八九九・一九九二年)は、『自由の条件』(一九六〇年)において、経済的平等を強めるようないかなる企ても必ず強制と自由社会の破壊につながると主張した。アメリカの経済学者ミルトン・フリードマン(一九一二・二〇〇六年)は、『資本主義と自由』(一九六二年)で、多くの広く受け入れられている国家活動は個人の自由を不法に侵害するものだと論じた。

ハイエクが出てきましたね。気になる経済哲学者のひとりです。

これらを踏まえた上で、功利主義に対する批判として、マイケル・サンデルはイマヌエル・カントを登場させます。

正義へのアプローチとして、1)幸福を最大化する功利主義、2)完全な自由市場によるリバタリアン、3)美徳に報い、美徳を促すという3つを挙げて、カントは「幸福の最大化」と「美徳の奨励」を認めず、2つ目のアプローチを勧めている、とします。しかし、カントの「自由」は厳格です(P.143)。

カントの考える自由な行動とは、自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。
カントの言う自律的な行動を理解する一つの方法は、それを自律の対極にあるものと比較してみることだ。自律の対極にあるものを表わすために、カントは新しい言葉をつくった。「他律」だ。他律的な行動とは、自分以外のものが下した決定に従って行動することだ。

この部分を読んで、カントの考え方に共鳴しました。

幸福の最大化を考える他律的な功利主義よりも、自分の法にしたがう自律的な自由のほうがいい。しかし、現実は違います。特に弱者ほど、自律的な自由よりも権威主義のような他律的な自由を求めたがります。このことをエーリッヒ・フロムは、自由「からの」逃走として指摘しました。ニーチェ的な用語では「畜群」の思考でしょうか。日本では「空気をよむ」ということがよく言われますが、長いものに巻かれたほうがラクといえばラクなのかもしれない。けれども、それではいけないのではないか。

みんながそう言ってるから従う、多数決(最大多数の幸福)が正しい、というのではなく、ほんとうにそれでいいのかな?と疑うこと。一般的な定型の思考に身体をゆだねず、自分自身の感性やモノサシを大事にすること。自分の胸に聞いてみなというように、自律的な価値観をもつこと。

いまぼくらに求められているのは、
自分の法を確立することによって外部から解き放たれる自由
ではないか、とおもうのです。

すくなくともぼくにとっては、外部からの揺さぶりに対して強度のある崩壊しない自己の中心、核となる思考を獲得したいですね。その核があれば、他者や環境からの脅威に対して動じないとおもうので。


■■国家の解体、そしてアメリカの正義とは

ところで、マイケル・サンデルの本を読了したのは7月29日でした。ベストセラーで非常に面白かったとはいえ、どのようにまとめたものか方向性がみえず、しばらく感想を書かずに放置していました。しかし、寝かせておいたおかげで、それ以降に読んだ本の内容がサンデル本につながっていく感覚がありました。

難解なことばでかっこよく言ってしまえば、インターテクスチュアリティ(間テクスト性)というジュリア・クリステヴァの用語になるかもしれないのだけど、書物はみえない文脈という糸でつながっています。また、ぼくら読者には、まったく関係のないものをつなげてしまう解釈というチカラがあります。

ツイッターでご紹介いただいたことがきっかけで読んだ、吉本隆明さんの「超「20世紀論」」がサンデル本とつながりました。現在、絶版で、Amazonを通じて古本を買い求めてやっと読むことができた本です。

超「20世紀論」〈上巻〉 超「20世紀論」〈下巻〉

マイケル・サンデルの本の感想を書きながら別の著者の本を絶賛するのもいかがなものか、とおもうのですが、「超「20世紀論」」はサンデル本に匹敵します(すくなくともぼくのなかでは)。なにしろ、臓器移植や学校崩壊、インターネットなど、多様な時代の事例が取り上げられている。大きな違いといえば、吉本隆明さんの本は、べらんめえ調で自論による結果を出してしまっているところでしょうか。そこがまた、絶妙なのですが。

発行日は2000年9月下巻に次のような箇所があります(P.136)。インタビュー形式で書かれた本であり、取材者は田近伸和さんです。

――「国家の終わりは、先進国の課題として見えてきつつあります。今は、国家が解体する一歩手前なんです」と先程述べられましたが、アメリカを例にとれば、国家の解体どころか、たとえばイラクのフセインを叩くために、いまだに国家権力を発動させ、国家権力を誇示しています。
吉本 アメリカは、とんでもないことをやっているんです。アメリカは、自分たちは世界の警察であり、自分たちがやっていることは正義だみたいに思っているわけですが、イラクの国情や民衆が置かれた状態は、アメリカのそれとは、まるで次元と歴史的段階が違います。

この部分を読んで、はっと気付きました。カラクリがみえました。なぜ、マイケル・サンデルが正義について語らなければならなかったか。なぜ、ハーバード大学でこの授業がこんなにも熱狂的に支持されているのか。

つまりそれは、
アメリカという国家が解体し、アメリカの正義が揺らいでいる
からではないでしょうか。

アメリカの正義とは、自国を正当化するための正義だったという印象があります。湾岸戦争にしても、9・11のブッシュ大統領の発言にしても、メディアを通して敵のイメージを仮想的に練り上げて、いつでもアメリカは悪を征伐する正義として振る舞おうとしたのではなかったでしょうか。

もちろんアメリカだけを責めるわけにはいきません。日本も、戦争という過ちを犯してきました。そのことを誠実に認めるべきです。「これからの「正義」の話をしよう」の第9章は、次のような文章からはじまります(P.270)。

「申し訳ありません」と言うのが簡単なためしはない。とりわけ、公の場で国の代表として言うのは、至難の業ともなる。この数十年間に、歴史的不正に対する公的謝罪をめぐって、苦悩に満ちた議論が数多く繰り広げられてきた。

最初の部分では、ドイツのホロコーストの問題に続いて、日本における慰安婦の問題が批判されます(P.271)。枢軸国に対して、連合国であるアメリカとしては当然の批判でしょう。

日本は、戦争中の残虐行為への謝罪にはもっと及び腰だった。一九三〇年代および四〇年代に、韓国・朝鮮をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された。一九九〇年代には、民間の基金によって被害者への支払いがなされ、日本の指導者たちもある程度の謝罪を行ってきた。しかし、二〇〇七年になってから、当時の安倍晋三首相が、慰安婦の強制連行の責任は日本軍にはないと強弁した。それに対してアメリカの連邦議会は、慰安婦の奴隷化への日本軍の関与について日本政府が正式に認め、謝罪することを求める決議をした。

「謝罪することを求める決議をした」というのは非常に正義的な表現です。アメリカが世界の警察であり、リーダーである、アメリカの見解が世界の見解である、という視点から書かれている気がします。しかし、そう言うアメリカは?という意識が拭えません。

第9章ではその後に「アメリカでも、この数十年で、公的謝罪と補償をめぐる論争が盛んになってきている(P.272)」とつづきます。けれども、どうしても正義の使者の印象が否めない。自国の正義として振る舞いつつ隠してきた部分を隠蔽している。自省がないのです。

たとえば、戦争について考えてみます。アメリカは、広島に、長崎に、原子爆弾を投下しました。広島の死者は約14万人、そして長崎の死者は7万3884人。これは大量虐殺です。

眩暈がしたのは、戦争は終結に向かいつつあり、広島と長崎に原子爆弾を落とさなくても戦争は終わっていただろう、という事実でした。しかし、原子爆弾の開発には、アメリカの莫大な国家予算が投入されていた。その「成果」を出さなければならなかった。成果を出すために広島と長崎が実験台にされた、ということです。酷くありませんか?(参考:ボイジャーから発行されている電子書籍の「極端に短いインターネットの歴史」浜野保樹より)

不勉強なだけかもしれませんが、ぼくが知る限り、広島と長崎に対するアメリカの公的謝罪は見かけたことがありません。リメンバー・パールハーバー、真珠湾攻撃が卑怯であることは声高に叫ぶけれど、戦争を終結させた正義という名のもとに、日本に対する大量虐殺には目をつぶっている。

もてはやされているサンデル本だけれど、公的謝罪について書かれた第9章については、わずかに不快を感じました。うまく編集構成されて、マイケル・サンデルはアメリカの罪を隠しているようでした。多くのひとが見逃してしまう些細な箇所かもしれません。しかし、ぼくはその部分に、かすかなアメリカの腐敗臭を嗅ぎ取りました。

なぜ「これからの正義の話をしよう」と声高に述べなければならなかったか。その背景には、正義を回復しなければならないアメリカの凋落と病理があるように、ぼくにはおもえます。これは穿った見方でしょうか。


■■自律と自由を獲得するために

情報が氾濫するいま、大量の情報を広く浅く処理する能力も必要かもしれませんが、より仔細に深く情報を掘り下げることも重要ではないでしょうか。そして、自分だけの価値基準を見極めることによって、情報に惑わされない自律と自由を獲得することが大切であると、ぼくは考えています。

うわべの耳にやさしいキーワードに踊らされるのではなく、内容のない空洞のような理論を拠り所にするのではなく、しっかりと足元を確かめて現実をみつめること。いま、ぼくらに必要なのはテツガクではないか、と真剣におもっています。ぼくら、という連帯感はともかく「ぼく」には哲学が必要です。

投稿者: birdwing 日時: 07:51 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年7月29日

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「脳はなにかと言い訳する」池谷裕二

▼book10-11:「言い訳」から得られる未来へのヒント。

4101329214脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)
池谷 裕二
新潮社 2010-05

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「です、ます」調と「だ、である」調を混在させた文体があり、言語学的にはコードスイッチ話法と呼ばれるようです。冷泉彰彦さんの「「関係の空気」「場の空気」」という本で知りました(関連記事はこちら)。80年代以降に使われるようになった用法だとか。実はぼくもブログで「です、ます」を基本としながら「だ、である」を混在させて使っています。無意識のうちにコードスイッチを行っているようです。

池谷裕二さんの「脳は何かと言い訳する」は、「VISA」誌の連載エッセイに加えて、補足内容を口頭で録音、録音テープから起こした文章で構成されています。「VISA」誌の連載は「です、ます」調、そして口述筆記による追加文章は「だ、である」調です。

「だ、である」調の「ストレートっぽさ、パーソナルな感じ」で書かれたエッセイの後に、「フォーマルな、そして厳かな宣言」の「です、ます」調の文章があり、読みながら自然に広がりとリズムが生まれます。この文体の構成は「編集部の提案」だったそうですが(「はじめに」P.7 )うまいなとおもいました。脳をリフレッシュさせて、次のテーマを読ませる動機付けになります。

タイトルにあるように、テーマは脳に関する多彩な見解です。科学的でありながら決して難解ではなく、ぼくらの生活に根ざした内容のエッセイです。

脳科学者がこのようなエッセイを書く「言い訳」について、第一に「科学上の事実」は「本当の事実」とは異なっていることがあるので危険性がともなうこと、第二に学術論文は極めて慎重な姿勢で書くためフラストレーションがたまること、そこで「非科学的幻想に満ちたアイデア」を"空想の集合体"として残したいと考えて書いた、と述べられています。

とてもよくわかるなあ、と感じました。池谷裕二さんとはレベルが違うかもしれませんが、ぼくらも毎日の生活でビジネス的な文章を書くだけではストレスが溜まってしまいます。だからブログなどで発散する。いいんじゃないでしょうか。むしろ、科学的根拠の曖昧な話をいかにも学術的な用語を散りばめて幻惑させるような疑似科学本よりも、きちんと"空想"であるというスタンスを明確にされている点で潔いとおもいました。好感がもてます。

この科学的エッセイは永遠に書きつづけられるものかもしれません(P.374)。

科学的な探求に「フラクタル性」がある限り、研究が完結するということはありません。つまり、すべての科学は"未完成"であると言えます。「現時点では」という意味ではなく、未来永劫にわたって科学は不完全であるといってよいでしょう。

科学的には未完だとしても、この本で語られている内容には、ぼくらの生活の一部と密接に関わるテーマが数多くありました。実践的ではないかもしれませんが、参考となるヒントをたくさんみつけました。いくつか拾って池谷さんの本を再編集してみましょう。

たとえばストレスについての考え方。

ストレスは副腎皮質で作られる「コルチコステロン」というホルモンが鍵を握っているそうですが(P.38)、最近の脳研究ではストレスから脳を守ることが可能だと言われているようです。そのポイントが「慣れ」とのこと。ストレスに慣れることは、一種の「記憶の作用」であり、記憶力が高ければストレスの脅威におびやかされることもない(P.43)。

当たり前のことを言っているようですが、これは重要です。つまり、「馴れ=記憶」なのです。馴れは、ストレッサーを感知しなくなること。つまり、感受性を修復し、それを記憶することが、いわゆるストレスの克服なのです。

ふむ。確かにそうですね。「慣れ」と「馴れ」のように使われている漢字表記の違いが若干気になりますが、それはさておき。新しいことに直面するとストレスを感じますが、「なあんだ、またこれか」とおもうようになればストレスにはならない。たとえば就活の面接も同様かもしれません。圧迫面接的な質問をされると最初は動転するけれど(いまは、そんな質問もないのでしょうか)、場数を踏むと冷静に対応できます。「記憶(経験)」が蓄積されたからです。

別の側面から考えてみます。「恒常性の維持」がストレス克服の強みかもしれないと考えました。(P.110 )。

議論好きな人は、本心から議論が好きというより、自分の意見がうまく変えられなくて、無駄をしてしまっていることが多いように感じます。これについてはフランスの思想家ジョゼフ・ジュベールの名言に譲りましょう。「自分の意見を引っ込めないものは、真理より自分自身を愛している」。
「言い訳」も根本を辿ると、「自己の維持」、「恒常性の維持」への本能ということになってくるのでしょう。人から聞いた情報や意見にすぐになびいてしまうのは、自己崩壊につながるわけです。

「言い訳」は卑怯であるという見解もありますが、哲学者の中島義道さんもオーストリアなど海外の生活体験から「言い訳」が大事であることを説いていました。海外では自論を曲げずに、子供から大人まで徹底的に言い訳をするそうです。なかには不条理な言い訳もある。

中島義道さんの指摘は文化的な差異かもしれません。しかし、強力な記憶を基盤とすれば、その記憶(経験)に支えられて自分が揺らぐことはない。安定した自分を維持し、ストレッサーを脅威として感じないでしょう。年の功というか年齢にしたがって落ち着きが増すことも「馴れ」のひとつに違いありません。

ところが逆説的ですが、ストレスへの対抗力である記憶力を高めるためには、危険に晒される必要があります。環境の馴れにどっぷりと漬かっていては、記憶力は高められないのです(P.266)。

大自然のなかで生活する動物たちは、常に生命の危険にさらされている。危険を効率よく回避するためには、敵に遭遇した状況や獲物にありつけない道をきちんと記憶しておく必要がある。人の脳にもこうした性質が残されているため、危機感を脳に呼び起こせば記憶力が高まる傾向がある。

具体的には危機とは「頭寒足熱」というように寒さ、そして空腹だそうです。ハングリー精神が記憶に関連する海馬を鍛えます。そして「不安こそが脳の栄養源」と述べられています。合図を出すとエサをもらえたりもらえなかったりするようなサルの研究で、快楽を生み出すドーパミンニューロンの活動は、エサをもらえる状態ともらえない状態が50%の確率のときに最大になったといいます。「どっちつかずの確率で報酬がもらえるときにもっとも快楽を感じた」。つまりこういうことです(P.291)。

「ドーパミンニューロン」は集中力ややる気を維持するのに重要な働きをしている。となれば、実験結果はとても重要なことを意味している。そう、「マンネリ化」は脳には「毒」なのだ。新鮮な気持ちを忘れてしまっては、もう脳は活性化しない。

特にゲイジュツの世界では、マンネリは敵です(P.160)。

ルールを破る面白さ、そこから生まれる躍動感、ダイナミクス、そういったものにゲイジュツの醍醐味があるように思います。

一方で、ストレス解消については、次のようにも書かれています(P.83)。

つまり、重要なことは、ストレスを解消するかどうかではなく、解消する方法を持っていると思っているかどうかです。そして、それ以上に重要なことは、「別にストレスを感じていてもいいんだ」と考えることだと思います。ストレスをあまりに怖がりすぎると、実際にストレスを受けたときに、必要以上に反応してしまうはずです。それよりも、「ストレスはどうせ避けられないものであって、ストレスを受けても、私はいつでも解消できるのだ」と信じていることが肝心なのです。

なるほど。すこし安心しました。ぼくは緑内障もちなのですが、この眼の病気は治らないため、薬で進行を止めながら、うまく付き合っていくしかありません。同様にストレスとも、うまい付き合い方が必要なのかもしれません。身体を動かすことも解消法のひとつ。芥川龍之介のことばも引用されていて納得しました(P.69)。

芥川龍之介が『侏儒の言葉 』の中で、「我々を恋愛(の苦痛)から救うものは、理性よりも多忙である」と言っています。これなどは、「考えていてもだめで、身体を動かして忘れよう」という"体主導型"の重要性を謳っているわけです。

さまざまなストレス解消方法がありますが、アルコールの摂取はよくないようです。池谷裕二さんの実験によると、ネズミを使った調査で電気ショックを与えて嫌な記憶を思い出させながらアルコールを与えると、記憶は消えるどころか逆に強まっていたとか。フラれたはらいせに自棄酒を呑むと、逆に彼女のことが強力に記憶に残ってしまうのかもしれません。会社や家族の愚痴をいいながら呑む酒は嫌な記憶を強化するから慎むべきでは、と書かれています。同感です。お酒は美味しくいただきたいものですよね。

このように現在のぼくらにとって参考になる読み物が満載されています。さらに面白いのは、最先端の脳波を計測する機器や未来の話です。要するに「こころが見えるか」という夢のような科学的な課題についての見解です。

引用されている数々の先端機器のうち、機能的磁気共鳴画像(fMRI)という装置については、個人的にはシャルロット・ゲンズブールのアルバムタイトルで知りました。フランス語ではひっくり返ってIRMというそうですが。


IRM


fMRIは脳の活動を詳細に記録できる装置で、ロンドン大学のターナー博士は「脳はウソをつかない」という言葉を残されているそうです。

コカコーラとペプシコーラを飲んで比較した場合、fMRIの記録ではブランドを明かしたとき海馬などの部位がコカコーラの方に対して大きく反応したとのこと。この装置を応用した「ニューロマーケティング」が注目を集めつつあり、また愛情診断にも使えそうだ、と書かれています(P.152)。

また、「ニューロフィードバック」という装置も面白い。アルファ波を感知して、アルファ波が出たらミニチュアの電車が環状線をぐるぐる回るという装置があったそうです。次のような提案がありました(P.248)。

極論を言えば、小学校で算数や国語を教えるのと同じように、義務教育のカリキュラムの一環として「アルファ波の出し方」を教えるのも、面白いかもしれません。科学的に「自制心」を持たせる訓練ができれば、未来の世界で、犯罪が減るのではないかなどと淡い期待もしています。

「アルファ波の出し方」授業、面白いですね。池谷さんも書かれていましたが、アルファ波でボールを動かして、アルファ波サッカーなどというのも楽しそうです。

「ニューラル・プロステティクス(神経補綴学)」にも可能性を感じました。これは、脳から直接信号を拾って身体能力を補うこと、能力を高めることをめざす分野のようです。事故で全身不随となった25歳の男性の脳に96本のちいさな電極を埋め込み、ロボットの手を操作できるようになったそうです。すごい。

そういえば「潜水服は蝶の夢を見る」という映画を観たことがありました。


潜水服は蝶の夢を見る 特別版【初回限定生産】 [DVD]


この映画は、ELLEの編集長であるジャン=ドミニク・ボビー(マチュー・アマルリック)が42歳のときに突然、脳梗塞で倒れてロックイン・シンドローム(閉じ込め症候群)という病のために全身が麻痺して運動機能を失った、という実話をもとに描かれていました(感想はこちら)。

映画の主人公ジャン=ドミニク・ボビーは、ひとつだけ使うことができる左目の瞼の瞬きによって、看護婦に言葉を伝えて本を書き上げます。ニューラル・プロステティクスが本格的に実用化されたなら、彼のような不自由を抱えた人々にも自由がもたらされるのではないでしょうか。

池谷裕二さんは、生物と人工物を融合させるハイブリッド生命工学に興味があると書かれています(P.359)。いいなあ、素敵だなあ、とおもいました。

最先端の科学者を尊敬します。憧れます。そして、この本を読んで、科学者が想像する未来をすこしでも垣間みることができて、うれしく感じました。

読後にさわやかな風が吹いたような本でした。

投稿者: birdwing 日時: 21:10 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年6月23日

a001265

「女は男の指を見る」竹内久美子

▼book10-10:繁殖戦略の観点からみれば。

4106103583女は男の指を見る (新潮新書)
竹内 久美子
新潮社 2010-04

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男性の指にこだわる女性は魅力的である。個人的な印象ですが、指フェチの女性には素敵な方が多いのではないかという直感を以前から抱いていました。根拠はありません。ただ、なんとなく。

しかし、竹内久美子さんの「女は男の指を見る」という本のタイトルをみつけて、はっとおもうと同時に、ページをめくって「女性が気になる男性のパーツ」というAll Aboutの2006年アンケート1位が「手(指含む)」であることを知りました(3位は「腕、二の腕」)。多くの女性が男性の指に関心があったのですね。

また、「はじめに」に掲載されていた記事で、敏腕トレーダーは薬指が長く、年収差は7,800万円にもなるということを読んでショックを受けました。これは侮れない。できる男の指は長いらしい。女性は優秀な子孫を残すという生殖本能から男の指を評価していたのでしょうか。

この本を読み進んでいくと、まったくその通りらしいのです。指フェチをみずから表明しているいないにかかわらず意識的であっても無意識であっても、男性の指は生物学的に「できる男(=生殖能力的に強い男)」としての評価基準とのこと。そうだったのか! 石川啄木ではないのですが、じっと手をみてしまいました。ちょっとさびしげに(苦笑)。

ちなみにぼくは、指コンプレックスがあります。親父は、ごつごつとした男らしい長い指だったのですが(弟も同じ)、母親は短い寸胴の指で、残念ながらぼくは母親のほうの遺伝子を継承したらしいのです。かっこ悪いとおもうだけでなく、実際にベースなどの楽器を弾くときにもフレットが押さえにくくて苦労しました。恥を忍んで晒してみます。こんな指です。

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薬指の長さは、人差し指に対する相対的な長さ(指比)を問題にするようです。竹内久美子さんは、男性ホルモンの代表であるテストステロンのレヴェルに密接に関連していると解説されています。

また、薬指は「飾りの指」であるとのこと。「うぃっしゅ」のポーズ(中指と薬指を折る)ときなどに人差し指や中指に比べて薬指が動かしにくいということから、薬指にはものをつかむ役割はあまりなく、薬指が長いことは、男性が生殖機能にすぐれていることを誇示している「飾り」というわけです。

結婚指輪を薬指に嵌めるのも、素敵な男性の薬指に結婚した女からの警告を示すためとのこと。そうだったのか。そういえば薬指に関しておもい出したのですが、小川洋子さんに「薬指の標本」という著書があったっけ。映画も観ました。

薬指の標本 (新潮文庫)

薬指の標本 SPECIAL EDITION [DVD]

強烈に納得したのは、遺伝子による裏づけです。Hox遺伝子という遺伝子があるそうですが、遺伝子の並んでいる順は、ほぼ身体の各部位に対応するそうです。つまり次のようなことです(P.63)。

ということは、だ。胴体の末端である生殖器や泌尿器と、腕や脚の末端である指とは、共通のHox遺伝子によって作られていることになる。工事の担当者が同じなら、その「出来上がり具合」も同じレヴェルになっているはずだ。
女が男の指についてあれこれ品定めする。それは、まさにその男の生殖器とその質のほどを評価していることになるのではないでしょうか。指がセクシーに感じられるのは、こういう事情があるからに違いないと思ったからです。

したがって、次のような推測が導かれます(P.73)。

女は男の指を見て彼の生殖器の出来具合、生殖能力のほどを見抜いています。
さらにスポーツマンやミュージシャンはモテますが、それは彼らがテストステロン・レヴェルが高くて生殖能力が高いから。それがスポーツや音楽の才能を通じて表れている。女は直接指を見なくても、それらの能力を手がかりに生殖能力の高い男を選んでいるということになります。指にはまた、その動かぬ証拠が表れていて、マニングらの研究によれば指比の低い男は、精子の数が多く、質もよいことがわかっています。

Hox遺伝子の研究者であるマニングは「二本指の法則」という本を書いているようですが、ここには指と生殖器の大きさに関する研究が登場するそうです。52人の若者の人差し指を測定し「痛くない程度に、きわめてゆっくり伸ばしたペニスの長さ」(これってびみょう。苦笑)のほか身体の各部位の長さも記録すると、人差し指の長さとペニスの長さに大きな相関がみられたとのこと。

ちなみにもっとぶっ飛んだ研究をしている学者もいるようで、ベイカーとベリスの「サクション・ピストン仮説」は、ほーとおもうと同時に困惑しました。なぜペニスが太く、あんなカタチ(先に返しがある)かについて考察しているのですが、複数の男性と交わる乱婚的な精子競争において「前に射精した男の精子を掻き出す」必要があって進化したのではないかという仮説です(P.26)。

女の生殖器から先に入った精子を掻き出すわけだから、膣によりぴったりとフィットしなければならない。そういうことに優れている男ほど、他の男の精子をよく掻き出し、自分の精子で置き換え、卵を自分の精子でよく受精させる。つまりは自分の遺伝子をよく残すわけだから、そういう形質も次代にはよく伝わる。そしてまたそれよりも、もっと太く長く、返しもよくついたペニスが、遺伝子に突然変異が起きることで現れ・・・・・・という過程が繰り返され、男のペニスは今日、あのような立派な形にまで進化したのだというのです。

快楽(?)のために、でかければいいというわけではなく、強い遺伝子を残すための進化、免疫力の強さを示しているのでしょう。

次のような一節もありました(P.44)。

人間に限らず、動物が繁殖する際の一番の課題は何だと思われますか? お金や地位は、他の動物でいえば、まあ縄張りの質の高さや、集団内の順位などといった点と対応しなくもありませんが、違います。意外なことにそれは、バクテリア、ウィルス、寄生虫といった寄生者、つまりパラサイトに強いかどうか。免疫力の問題なのです。

免疫力に強い身体上の特長として、竹内久美子さんは、指のほかに「ハゲ」と「シンメトリー(身体の左右対称)」を挙げます。

「ハゲに胃ガンなし」という言い伝えがあるそうですが(はじめて聞いた)、実際に福岡県久留米市の脇坂外科に入院した1001人(男663人、女338人)のうち、胃ガンなしのグループでは四〇代でハゲが8.6%、五〇代では14.3%と、胃ガンありのグループに対して比率が高かったとのこと。

女性ホルモンのいくつかの総称であるエストロゲンに発ガン性があるらしく、男の胃ガン患者はテストロゲン・レヴェルが低く、エストロゲン・レヴェルが高いために発症率が高まったようです。ほかにも結核に強かったり、気管支ガン、肺気腫になりにくいとか。

テストステロンは男性を男性らしくすると同時に、ハゲさせてしまうという弊害(?)も、もたらすようです。さらに、中年以降、テストステロンの減少によって腹が出るようになる(P.99)。

男は普通、中年以降はテストステロン・レヴェルが下がってくる。ところが、そのテストステロンには脂肪を燃やす働きがあるのでお腹まわりを中心に残酷な状況がもたらされるわけです。

うーむ。中年のハゲとデブは、テストステロン・レヴェルの低下という部分で関連しているわけですね。男性ホルモンおそるべし。というか、コントロールしにくいから困ったものです。次のようにも書かれていました(P.100)。

アメリカの空軍の士官を対象にした研究によると、テストステロン・レヴェルは結婚すると下がり、離婚した場合には元のレヴェルに戻る。そもそも、テストステロンは攻撃や争い、特に女を巡って他の男と争うという行動に関係しています。だから女を手に入れたなら下がるのであり、また「争いの場」に出るとなれば戻るのです。

シンメトリー(左右対称)の男は「環境からのストレスを受けていない、あるいは受けていてもそれによく抵抗する力を持っていると考えられる」ので、免疫力の客観的なモノサシになるそうです。次のようにも書かれています(P.120)。

さらに人間の男では、シンメトリーな男は、精子の質がよく、数も多いということがわかっていて、そうしてみるなら先の三すくみは生殖能力と精子競争力も含めた問題になります。シンメトリーな男はまた、童貞を失うのが早い、浮気相手として人妻からよくオファーがかかる、女を効果的にイカせるなどの傾向があります(詳しくは『シンメトリーな男』文春文庫参照)。

ほんとかなあ。

ここで「三すくみ」というのは、テストステロン・レヴェル、男の魅力、シンメトリー(免疫力)という3つの要素のことです。

しかし、ストレスを感じると身体のバランスが崩れるということに関しては、経験的に異論がありません。もともと顔面は左右非対称なものですが、強いストレス下においては左右がアンバランスになって驚いたことがあったので。

ほかにも(個人的には)衝撃的な生物学的な見解がいくつも示されていました。たとえば竹内久美子さんは、HLA(Human Leukocyte Antigen:人白血球抗原)という遺伝子から、「自分となるべくかけ離れている相手ほどいい匂いだと感じることができるよう進化している」と解説します。つまり、性格や相性の問題だけでなく、レンアイの相手選びには免疫の弱点を補う相手を「いい匂い」であると遺伝子的に嗅ぎ分けているかもしれない、というわけです。ううむ。この分析、もうすこし知りたい。

人間の男の匂いとして第一に考えられるものはアンドステノールという物質(いわゆるジャコウ臭、ムスクの正体)で、これはテストステロンなどの男性ホルモンに構造がよく似ているそうです。シンメトリーな男はバクテリアの増殖を押さえるので臭くない。一方で免疫力の弱い男は、バクテリアを増長させるので臭いと考えられると書かれています。

遺伝子的な生殖競争について書かれていますが、その延長として過激にも浮気を擁護するような発言もあります(P.142)。

――浮気。
この浮気こそが人間を人間たらしめた原動力だと私は思うのです。
そもそも人間は男が女に求愛する際に、「口説く」。他のどんな動物もとりえない求愛方法を用います。もちろん初期の頃は言葉とは言えないような音声だったかもしれないが、よりうまく「口説い」た男がより多くの遺伝子のコピーを残す。そういう過程を経ることで言葉がより洗練されてきたはずです。

鳥の世界にも言及されていて、浮気がまったく見られない鳥(アメリカカケス、アカオカケス、クロコンドルなど)は外見の美しさにほとんど差がないのだけれど、「寝取られ率」の高い鳥ほどオスが色鮮やかだったり声が美しかったりするそうです(P.151)。

さらにオスとメスで外見に差がないが、寝取られ率が高い鳥もいます。ミヤマシトド(寝取られ率三六・〇%)がその例ですが、この鳥は歌がうまいことで有名で、外見ではなく、歌がオスの魅力になっている。彼等の場合にはこう議論できるでしょう。浮気をするほど歌がうまい。そう進化する、と。

これは納得。倫理的な観点を除外して語るならば、日本にも古代から異性に対する想いを歌にしたためた慣習があり、遺伝子や免疫性という絶対的な優位を乗り越えるためにも、オトコは身体を鍛えたり、楽器を上手く演奏できるように練習したり、ときには異性を口説くだけでなく、他の同性を論破するまでにことばを先鋭化させたりします。金やモノに対象を変えることもあるけれど、誤解を恐れずにいえば、根本的には狙った異性を手に入れるための努力です。結婚が、倫理観が、というのは、竹内久美子さんの言うように負け犬の論理に過ぎず、すべてが「繁殖戦略(P.165)」のひとつなのかもしれません。

さて、ここで最初のぼくの直感に戻ってみます。

黒川伊保子さんの音声と感性についての本や、竹内久美子さんの遺伝子からレンアイを解明する本など、個人的には非常に興味をそそられます。が、正直なところ、科学的な根拠についてまったく疑問がないとはいえません。やや首を傾げる箇所もあります。

が、しかし。竹内久美子さんが書かれている通り、男性の指にこだわる女性は、免疫力が高く良質の生殖機能をもった男性を品定めし、大勢の女性のなかから自分に関心を向かせる、ゲットする意識が高いと考えます。となると、いいオトコに注目されるために、女性も外見なり内面なりを磨かざるを得ません。ファッションやスタイルを洗練させることはもちろん、多様な知性を求めたり、向上心が高かったり、音楽や美術などゲイジュツに対する感性を追求するようになる。結果としてそういう女性は、いいオンナなのでは、と。

と、自分勝手に腑に落ちたのですが、いかがでしょう。女性側の意見も訊いてみたいところです。

投稿者: birdwing 日時: 20:41 | | コメント (6) | トラックバック (0)

2010年6月14日

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「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義」ティナ・シーリグ

▼book10-09:次世代のビジネスを担うひとの実践的な教育書として。

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Tina Seelig
阪急コミュニケーションズ 2010-03-10

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ぼくの父は教師でした。後継としてぼくも教師にしたかったようです。しかし、父の望みに反して教育とは遠い場所で働くようになって現在に至ります。はたしてそれがよかったことなのかどうか、いまでもわかりません。

子供の目から観察した親父の仕事は魅力的でした。実際に教壇に立つ父をみたことは一度もないのですが、夜遅くまで鉄筆でガリ版の試験問題を作る姿とか(当時の先生は業者のテストをそのまま使うなんてことはなかったのでは)、国語の教師だったので書斎に置かれた文学全集から調べものをする姿とか、裏方としての教師である父親の存在が幼い自分にとっては誇りでした。

一方で教師は閉鎖的でもあると感じました。子供ごころの思い上がった視点かもしれません。あるいはただ頑固な父を教師全体の象徴として偏見でみていたのかもしれません。そうして父の思惑通りにはならないという子供っぽい反抗心と、もっと別の職業を体験してみたいという好奇心が、自分を教師ではない道に進ませました。

教師の子供だから、というわけでもないとおもうのですが、教育に関する議論には、いまでも関心があります。教育の現場にいるわけでもなく部外者なのだけれど、ひとこと言いたくなる。

教師の遺伝子あるいは血が疼くのでしょうか。しかし、教師という職業ではなかったとしても、ぼくらの周りには教育的な課題がいくつも転がっています。学生や社会人は後輩の指導、親であれば自分の子供の教育、そして自分自身の生涯教育。それらの課題のいくつかは「おれは教師じゃないから」と避けて通ることができません。

ティナ・シーリグの「20歳のときに知っておきたかったこと」は、起業家精神に焦点を当てた実践的なビジネス書です。しかし、ぼくは教育書としてこの本を読みました。教育はどうあるべきかについて考えさせてくれた本でした。

著者のティナ・シーリグは、スタンフォード大学で工学部に属するSTVP(スタンフォード・テクノロジーズ・ベンチャーズ・プログラム)の責任者を10年間務め、科学者や技術者に起業家精神を教え、起業家精神を発揮するためのツールを授けることに尽力されています。スタンフォード大学のSTVPで標榜する人材像については、次のように解説されています(P.19)。

目指しているのは「T字型の人材」の育成です。T字型の人材とは、少なくとも一つの専門分野で深い知識をもつと同時に、イノベーションと起業家精神に関する幅広い知識をもっていて、異分野の人たちとも積極的に連携して、アイディアを実現できる人たちです。

人材教育関連の本で「T字型人間」の解説は読んだことがありました。専門性を軸足に幅広い総合力を持った人材と認識しています。専門に偏りすぎるか、広く浅い知識にとどまるか、どちらかになりがちで、「T字型人間」は理想としては美しいのですが、なかなか実現できないと感じています。

ところで、ぼくは大学で文学を学びました。出席日数はぎりぎりで成績は最悪。ひどい不真面目な学生だったに関わらず、刺激的な先生や先輩、仲間たちに恵まれ、大学に行ってよかったとおもっています。

しかし、もっときちんと学んでおけばよかったと後悔していることは、ティナ・シーリグの述べているような、社会に出て組織のなかで創造性を発揮できる能力を鍛錬すればよかった、ということです。文学を軸足としたT字型のスキルというのは、いまひとつ即戦力に欠ける気もするのですが。

大学時代には、ミニコミ制作やテニス、音楽などのサークル活動や(節操がありませんでした)、書店におけるアルバイト(週に7日)などを通じて、学ぶことはたくさんありましたが、「異分野の人たちとも積極的に連携して、アイディアを実現できる」ような講義があれば、ぜったいに受けておきたかった。といっても考え方次第で、学ぶ側の意識を変えたなら、どんな講義も実践的な講義に変えることができたのかもしれません。

文学や哲学などアカデミックな研究に没頭できることは、大学に行くもっとも有意義な動機でしょう。デザインや音楽などのゲイジュツも同様です。

とはいえ、社会に出てからクリエイターやデザイナーなど直接には創造的な仕事に携わらなかったとしても、大学時代に柔軟な創造力を育成し、その創造力を基盤として、卒業後の生活をゆたかに変えていく力を得られる講義があれば、学生たちのスキルアップ向上はもちろん、なにより大学を開かれた魅力的な場に変えるのではないでしょうか。

ティナ・シーリグが演習で学生たちに出す課題は実践的です。クラスを14チームに分け、元手として5ドルの入った封筒を渡して、2時間以内にできるだけお金を増やすことが課題です。水曜日の午後から日曜日の夕方まで制限時間が与えられていますが、いったん封を開けたら、効率的に5ドルの「資産」を増やさなければなりません。

結果として最高で6000ドル以上を稼ぎ出したチームもあるとのこと。具体的に学生たちが企画したことは、レストランの行列待ちの代行、自転車のタイヤの空気圧を調べる、雨の日に傘を貸し出すなど、さまざまだったようです。その後は、封筒に入れる「資産」を5ドルではなく、クリップやポストイットなどに変えて(それらの文具を価値に変えることは難しそう)何度も思考力を鍛錬する演習を展開したそうです。面白いな、と感じつつ、もし自分が企画することを想像すると冷や汗が出ます。

すべての学部に同様の演習が必要であるとはおもいません。最近の大学の講義や演習がどうなっているのか知らないので、ひょっとしたら類似した演習を課している大学もあるかもしれません。けれども個人的な印象ですが、社会人を想定した大学の演習というと、どうしてもビジネス英語とかパソコンのプログラミングとか、ダブルスクールでも学べるような専門学校的な演習を想定してしまう。ティナ・シーリグのような実践的、創造的な演習は画期的にみえます。

ティナ・シーリグの演習は、さまざまな分野で応用が利くものであり、本書では、演習を通じて得たイノベーションのコツ、発想のノウハウが、惜しげもなく解説されていて、わくわくしました。創造性を養う、などと紋切型の教育目標はもっともらしく聞こえますが、「どのようにして」という実践事例にはあまり触れることができません。本書に書かれた具体例やエピソードは参考になります。

と、同時に、iPhoneやiPadによるアップルの快進撃などを眺めて、さらに若い世代に向けてこのような実践的なビジネス教育が徹底されているのであれば、次のアップルやグーグルが登場する可能性は多いにあります。日本ものんびりしていられないぞ、と痛感しました。

イノベーション、発想のノウハウのひとつとして、たとえばルールを破るということが解説されています。グーグルの共同創業者のラリー・ペイジは「できないことなどない、と呑んでかかることで、決まりきった枠からはみ出よう」と講演のなかで言っているそうです(P.47)。

また、開発途上国の起業家を支援するための「エンデバー」を立ち上げたリンダ・ロッテンバーグがアドバイザーから聞かされた教訓が引用されていて、なるほどとおもいました(P.64)。

戦闘機のパイロットの訓練生ふたりが、互いに教官から受けた指示を披露し合いました。ひとりが、「飛行の際のルールを一〇〇〇個習った」というのに対して、もうひとりは、「私が教えられたのは三つだけだ」と答えました。一〇〇〇個のパイロットは、自分の方が選択肢が多いのだと内心喜んだのですが、三個の方はこう言いました。「してはいけないことを三つ教えられたんだ。あとは自分次第だそうだ」。この逸話の要点は、すべきことをあれこれ挙げていくよりも、絶対にしてはいけないことを知っておく方がいい、ということです。そして、ルールと助言の大きな違いも教えてくれています。助言を吹き飛ばしてしまえば、ルールははるかに少なくなります。

詰め込み式の受験教育を連想しました。たくさんの知識を増やすことは、自分の引き出しを増やすという意味でも大事なことです。しかし、やってはいけないこと3つを完全に教え込んであとは自由・・・という教え方は、限りなく自由です。どちらが創造的かといえば、迷わず後者でしょう。

知識が増えると既存の知識に縛られることもあります。知っているからこそ動けなくなる。しかし、禁じられたこと、やっても無駄なこと以外は何をやってもよければ行動の範囲が広がります。失敗したら失敗から学べばいい。

ティナ・シーリグは、演習のなかで「失敗のレジュメ」を書くことを義務付けているそうです(P.88)。確かに失敗から学べることは多いし、失敗は挑戦した証ともいえます。リスクばかりを注視することによって行動を狭めてしまう。日本発の世界的ベンチャー企業が生まれにくい要因として、リスク(失敗)に対する評価が厳しいということもよく聞きます。

失敗を見極めることもポイントであると感じました。組織行動の専門家ロバート・サットンの文章の引用を引用します(P.96)。

何かを決める際には、過去にどれだけコストをかけたかを考えに入れるべきではない――たいていの人は、この原則を知っている。だが「投資しすぎて、引くに引けない症候群」はかなり強力だ。何年にもわたって努力や苦労を重ねてくると、つい正当化したくなり、自分自身にも周りにも「これはなにか価値や意味があるはずだ」とか「だからここまで賭けたのだ」と言ってしまう。

引き際は重要です。ティナ・シーリグの演習のなかでは、たとえば5ドルを2時間で増やすための演習で、自分たちの企画が想定通りにいかなかったり、失敗じゃないかと見通しができたとき、中止すべきか再挑戦を試みるべきか、チームのなかで学んでいくのでしょう。

ビジネスにおいては交渉が決裂するときもあります。このとき重要なことは、目前の問題だけでなく、いくつかの選択肢を考慮するということです。次のように書かれています(P.175)。

席を立つべきかどうかを決めるには、ほかの選択肢を知ることです。そうすれば目の前の取引とくらべることができます。交渉学ではこれを、BATNA(不調時対策案)といいます。交渉を始めるときには、BATNAを持っているべきです。

失敗を認めること、他の選択肢を考慮することは、簡単なようで簡単にはできません。本書で書かれている事柄は、社会のなかで実践できる「知恵」として提示されています。大学という狭い領域のなかだけで重宝され、実社会では利用されないアカデミックな「知識」ではありません。学生時代にこんな交渉論やコミュニケーション論を実践的に学びたかったなあ。

コミュニケーション論といえば、人間関係における著者の考え方にも、さりげないのですが、こころに染みるものがありました。「正しく行動することと、自分にとってベストの判断を正当化することには、大きな隔たりがあるということ」と前打って、彼女独自の人間関係の要諦を次のように書いています(P.182)。

あなたの行為は、あなたに対する周りの評価に影響します。そして、何度も言うように、いつかどこかでおなじ人に出会う可能性は高いのです。ほかのことはともかく、相手があなたの振舞いを覚えているのは確実です。

20代の頃、特に学生時代には刹那的になりがちです。都合が悪くなればリセットすればいいや、と安易に考えることもあり、一方的に交渉を決裂させたり、相手を破滅させるまで攻撃することもあるでしょう。いまの若い世代はどうかわかりませんが、ぼくはそうでした。

失敗をリセットしてやり直せることが若さの特権でもあります。柔軟性や再生能力があるので、破壊のなかから新しいものを作り出すことができます。しかし、「人生は続く」ということを、学生時代を遠く離れたいま、ぼくは痛感するようになりました。喧嘩した相手と決裂したとしても相手は消えてしまうわけではない。不快な思いをさせた相手と、またどこかでめぐり会う可能性はないとはいえない。社会は狭いのです。

さて、遠回りして再び教育についての考え方、そして教師であった父の印象に戻ると、ぼくは20歳の頃に、ビジネスの成功法則とともに、人生のよりよい生き方をオトナたちや父親から学びたかった、学んでおくべきでした。

20歳以前の年齢から、数学であれ文学であれ、教師は数式の解き方を教えたり文学の歴史を教えるだけではなく、学問の実践を通して生き方を習得させることが重要ではないでしょうか。子供は「未熟なオトナ」ではありません。オトナの可能性と未来を内包した存在です。その意味では、子供に内包された可能性や未来と向き合う必要があります。いや、個人的にぼくは、亡き父親にそんな自分と向き合ってほしかった。

子供の人生にまで(まして他人であればなおさら)関わっていられるか、そんなところまで責任取れないよ、という実感があるかもしれません。が、教師だけが担わされる役目ではなく、オトナたち全員が考えるべきでしょう。

英語のEducatoinには「引き出す」という意味の語源があることを、かつてどこかで読みました。親や教師などのオトナたちには、過去の知識を伝授するのではなく、若い世代における個人の生きる推進力を引き出し、社会に飛び出すための滑走路のような役目が求められるのではないか、とぼくは考えます。

もっとも不誠実なオトナは、若さや可能性に対する妬みや僻みによって若い世代の芽を潰してしまうひとびとです。もちろん老いたひとたちも生き残るために、次世代の新しい勢力との競争や衝突は避けられません。しかし、シニアだけが眼前のゆたかさを貪り、後継者たちを排除する社会は、いずれ活力を失って破綻することは目にみえています。

ティナ・シーリグは、彼女の授業で、パワーポイントの最後のスライドを次のように締めくくるようです(P.188)。

「光り輝くチャンスを逃すな」

20歳の頃には気付かなかったのですが、生きるということは、一瞬一瞬がチャンスの連続です。そして、チャンスは自分から掴みにいかなければ掴むことができません。同時に、オトナたちであるぼくらには、若い世代のチャンスをどれだけ作ることができるか、という役割が求められているのではないか、と考えます。

投稿者: birdwing 日時: 21:02 | | トラックバック (0)

2010年5月15日

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「格差の壁をぶっ壊す!」堀江貴文

▼book10-09:破壊すべきなのは社会的な幻想。

4796676503格差の壁をぶっ壊す! (宝島社新書 311)
宝島社 2010-04-10

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人間は不完全だから、うまくいかないときや不条理な現実に直面したとき、悪態をついたり、愚痴がこぼれてしまう。これは仕方がありません。しかし、ネガティブな状況を変えようとせずに、社会が悪いとか政治家の責任だと声高に叫ぶばかりでは進展がないでしょう。過剰な批判はもちろん、無気力に口を噤んで諦めてしまうことにも納得できません。格差についても同様です。

堀江貴文さんは「格差の壁をぶっ壊す!」の冒頭において、格差の根本にあるのは「ねたみ」や「ひがみ」の感情であるとして、「比べることは新しい自分への第一歩である」と語ります。ぼくはこの考え方に共感しました(P.19)。

突き詰めていけば、およそほとんどの格差問題というものは、格差の上に行けるよう努力するか、格差を気にしないで「俺ルール」の中で生きていくかという、2つの方法で解決できるものと言えるんじゃないだろうか。
そのきっかけとして、まずは自分と他人とを比べてみるということは、大いに有効である。なぜなら、自分と人とは違うと認識することで、自分を変えようとするきっかけになるからだ。繰り返しになるが、他人と自分を比べるということ、そしてそこに差が存在することをはっきりと認識するということは、ごく自然なことであるし、何ら悪いことではない。

格差を肯定するのであれば、ぐちゃぐちゃ言わないでそのルールのなかで覚悟を決めて生きていく。そうでなければ、たとえ大多数から孤立したとしても、自分自身のモノサシで生きる。究極としてはその2つの選択肢しかありません。愚痴や批判を述べる状態は選択を放棄しています。潔い生き方ではない。むしろ堀江さんのような考え方に潔さを感じます。

堀江さんは他人との差異によって自分を再確認することを述べています。この考え方にも同意しました。

しかしながら、冷静に他者と自己の差異を客観視するためには、こころの余裕が必要になります。堀江さんは、自分の生き方を確立できているひとだからこそ、メディアに持ち上げられてもバッシングされても動じずに、自分の信念を貫いてきて現在に至るのでしょう。けれども、堀江さんのように強く生きられないひともいます。周囲に迎合し、あるいは過剰に周囲と自分を比較して「ねたみ」や「ひがみ」の感情を生んでしまうわけで、だからこそ格差社会が大きく浮上する。日本のように和を重視する社会であれば特に。

ぼくは堀江さんの考え方が昔から好きでした。社会的に問題視されていたこともあり、行動は型破りだけれど、彼のことばに耳を傾けていると元気が出ます。同様の印象を感じられるひとに、小室哲哉さんがいます。小室さんは犯した罪を償わなければならないとおもうけれど、ぼくはふたりの人間性に惹かれます。というのは、一種の純粋さを感じるからです。

「格差の壁をぶっ壊す!」では「あとがき」として次のようなことばが記されています(P.190)。

だから私はこの本で、格差を気にする「心」を、執拗なぐらい批判した。そこから抜け出さない限り、いくらカネを稼いでも、いくら勉強ができるようになっても、いくらモテても、虚しいだけだからだ。そういう心が少しでも払拭できたのだとしたら、本書の試みはとりあえず成功だったと言えるだろう。

モテることに関しては次のような記述もありました(P.156)。

往々にして非モテの男性は、いわゆるイケメンのルックスや、自分よりカネを持っている人間に対して嫉妬してしまいがちだ。しかし本当は、その自信のなさが、自分の魅力を格下げしてしまっているということに早く気付くべきだ。

社会の問題に転嫁するのは容易いのですが、自分のこころの問題として省みると、格差への過剰な拘りはコンプレックスとおもえなくもない。格差を叫べば叫ぶほど、「自信のなさ」を露呈し「自分の魅力を格下げ」しているわけです。

こころの問題をクリアした上で、格差社会を実際にどう変えていくのか、というのは難題です。一筋縄ではいきません。ただ衝動的に「ぶっ壊す!」のであれば、戦争でも革命でも勃発させて破壊すればいい。しかし、(消極的といえなくもないのですが)固定観念を破壊することによって、わずかであっても新しい視点を獲得することが可能です。ぼくらは、みずからの"幻想"によって自分を縛り付けていることもあるのです。この自己呪縛からの解放が破壊の糸口になる(P.37)。

ここで打破すべきキーワードは「無難さ」。自らの周りにある無難さをぶち壊していくことが、格差幻想打開への第一歩だ。

いつの間にか思考が保守的になっている。行動が守りに入っている。だから不幸せな「共同幻想」に巻き込まれ、イノベーションが生まれなくなります。この本を読んで、格差という呪縛から抜け出さなくてはと感じたぼくにとっては、堀江さんがこの本で成し遂げようとした思惑は成功したといえるのかもしれません。

本書では、以下の格差について述べられています。

  • 所得格差
  • 世代間格差
  • 職業格差
  • 教育格差
  • 情報格差
  • 地域間格差
  • 福祉格差
  • 男女格差
  • 恋愛格差
  • 結婚格差
  • 見た目格差
  • 印象格差

統計資料を引用している部分もあり、社会の状況を把握した上で堀江さんなりの考察をされています。元気が出るのだけれど、やや楽観的な印象も否めません。たとえば、雨宮処凛さんの本を読むと(ぼくのエントリはこちら)、次のような箇所はどう考えるべきかな?と困惑もありました(P.29)。

少なくとも、現在の日本において、「お金がないから飢え死にした」という状況は非常に考えにくいものになっている。また、リストラなどで収入のない状況に陥ったとしても、生活保護や親族に頼れば、何とか食べていくことはできる。食うに困らない社会システムが既にできあがっているのだ。戦後の混乱期ならいざ知らず、現代の日本で「収入が少ないから食っていけない」というのは明らかな言いすぎである。

ぼくの読んだ限りでは、雨宮処凛さんは「排除の空気に唾を吐け」で、2007年7月に北九州市で起きた52歳の男性の餓死事件やシングルマザーの餓死問題を取り上げ、福祉制度や日本の社会に警鐘を鳴らしています。しかし、それは社会全体から眺めればレアケースで"そうはいっても"日本は豊かなのかもしれません。次のような指摘も、もっともであると感じました(P.42)。

半面、今、人に「助けてくれ」とうまく伝えられない人が多いように感じる。特に「能力的にたいしたことないなぁ」と思うような人に限って、「何かを守らなければならない」というプライドが強く働いているように見えるのだ。

おまえが助けてくれって言わないから自業自得だろ、のような個人の責任追及は避けたいのですが、HELP!という信号を出しにくい空気があることは確かです。社会的な問題はもちろん、個人が勝手に思考の枠組みを固めて、プライドをかなぐり捨てれば何とかなるはずなのに、みょうに自分を守ってしまう場合も考えられます。頑なに幻想にしがみついている印象です。次のようにも書かれています(P.63)。

そして、「ずっと正社員でいられる」という考え方自体も、もはや幻想だ。利益を生み出すためのスキルというものを身につけない限り、会社にとっては必要のない存在とされるからだ。ただ単純労働ができるようになったり資格を取ったりしても、それをスキルアップとは言わない。あくまでも「稼げるスキル」じゃないと意味がないのだ。

本質を突いているとおもいます。自分探しや資格取得も一種の幻想であり、現実的に考えると稼げるかどうかがポイントになります。幻想にかかずらわっている場合ではありません(P.72)。

置かれた立場や待遇に不満を持ち、「職場による格差だ」と腐ってしまっている人はとても多いように感じる。だが、そんなことに悩んでいるのは、完全に時間のムダ。「手に職をつける」努力はいつ、どんな立場からだって始められるし、また、稼げる仕事を見抜ければ効率的に稼ぐことだってできる。自分の頭で考え、自力で這い上がっていかなければ、いつまで経っても腐ったままなのだ。

自らが努力することも重要ですが、未来の人材のためには教育も重要になります(P.69)。

私としては、簿記なんかと一緒にさまざまな「商売の仕組み」を、学校教育の段階で教えておくべきだと思う。こうしたリテラシーがないから、仕事に就いても稼ぐことができない。つまり、騙されてしまうのだ。

ふと気付いて本棚を漁ったのですが、ぼくが以前購入した堀江さんの本は「100億稼ぐ仕事術」というタイトルでした(笑)。


4797325402100億稼ぐ仕事術 (ビジスタBOOK)
ソフトバンククリエイティブ 2003-11-15

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稼ぐことに執着するのは、はしたないように感じるひとも多いかもしれませんが、そんなことはないとおもいます。稼ぐ能力=生きる力であって、その力を強化することが生活を「豊か」にする近道のひとつでもある。もちろん個人がそういう生き方を選択した場合です。

具体的な解としては、最近読了したティナ・シーリグの「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学 集中講義」のなかに見出しました。


448410101720歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
Tina Seelig
阪急コミュニケーションズ 2010-03-10

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スタンフォード大学では演習のひとつとして、5ドルを渡して2時間以内にできるだけ増やせ、という課題を出すとのこと。これはまさに「稼ぐ」能力開発といえます。クラスを14チームに分けて競わせ、最後にはプレゼンさせるわけです。もしかすると日本にも同様の演習を行うような大学があるかもしれませんが、米国でこんな教育を実践されているのだとしたら、甘ったるい日本の教育では国際間の競争には勝てないと感じました。言いすぎかもしれないけれど。

日本の教育は、格差に敏感になるあまりに、子供たちの牙を抜いて去勢した教育、競争を排除した教育になりつつあるように感じます。過保護で横並びのロボットを作るような教育です。それよりもっと個々の実践的な力を重視したほうがよいのではないでしょうか(P.86)。

高校生の中には受験をしない生徒もいる。先生はそういう生徒も一緒に教えなければならない。だから、一方で勉強したい生徒は予備校に行かなくてはならなくなるわけだ。色々な意味で硬直化している。こう考えると、全員一緒でなければならないという、一見平等のようにみえる教育が、実は才能をスポイルし、それぞれの能力に対して不利益を与えているのではないか。

次のようにも述べられています(P.89)。

すべての子どもたちが、同じ教室で同じ教育を受けなければならず、その上自分の能力を伸ばせというのは、大人たちの身勝手と言ってもいい。それが「理想的」であるとして、世の中が認めてしまっていることが大問題なのだ。あまりにも「理想的」という幻想に凝り固まっていると思われてならない。

この理想論に「凝り固まっている」教育の実情を壊す提言として、次のようなものがみられます(P.82)。

教師は、教師になることを自ら選択しているわけだから、学校のことしか知らなくても危機感を持つことはない。そういう教師で果たしていいのだろうか。
そう考えると、教師は専業である必要はないのかもしれない。月に1回授業をする会社経営者や弁護士や、サラリーマンがいても良いのではないか。

大学では、インターンシップや学外からの講師を招くことで、このような教育は実践されつつあるように感じます。しかし、もっと早い時期から「稼ぐ力」を教育のなかに取り込んでいってもよいのでは。もちろん、段階的な導入が必要でしょう。とはいえ、暗記中心の机上の押し込み教育より、思考力と実行力を具えた社会における実践的な人材=稼ぐことができる人材=強く生きられる人材の育成のほうがよいのではないか、と考えます。もちろんそれとは別に、アカデミックな知をのびのびと育む場所も確保しつつ。

個人的なことを語ると、ぼくの父親は教師でした。ぼくは教師である父を尊敬しています。しかし一方で、狭い社会のなかに閉じ篭もっている感じがどうしても払拭できずに、教師ではない一般的なサラリーマンの道を選びました。

率直なところ、教師の息子としてサラリーマンの自分を省みると、まったく別世界であると感じます。教師である父には教えてもらえなかった「社会的能力」の必要性を強く認識しています。そういう世界を子供の頃に知ることができれば。あるいはもうすこし悩まずに、苦労せずに生きられたかもしれません。父の庇護が大きく、ぼくはそれに甘えて、世間の厳しさを知らずに、成人になってからでさえ純粋培養されて成長してきました。

と、いろんな考えが錯綜したのですが、最後に、こころ強く感じたのは堀江さんの次のようなことばでした。

私はライブドアでの企業活動を通じて、民間が社会システムを変えることができるという確信を持つことができた。「ソーシャルハッキング」とも呼べる活動が、一民間企業でも可能だということだ。

ソーシャルハッキング。堀江さんも書かれているように、ハッキングとはコンピュータへの不正侵入(クラッキング)ではなく、「耕す」こと、つまり「専門知識を用いてシステムの改変を行うこと」だそうです。

一民間企業に可能なことの縮小版が一個人にも可能でしょうか。

ぼくにはまだわかりません。しかし、そのためには格差という「幻想」を逃げ道にしないこと、要するに、格差社会だからしょうがないという思考停止を乗り越えて、現実に生きていく(稼ぐ)力の獲得に鍵があると考えています。

投稿者: birdwing 日時: 21:03 | | トラックバック (0)