「排除の空気に唾を吐け」雨宮処凛
▼book10-03:雇用崩壊の行く末に。
排除の空気に唾を吐け (講談社現代新書) 講談社 2009-03-19 by G-Tools |
雨宮処凛さんの本、迫力がありました。ぐいぐい読ませるルポルタージュです。喩えるなら、戦場の最前線に踏み込んで銃弾の飛び交うなかで、実況中継するような印象でしょうか。
これは比喩でも何でもないのかもしれません。というのは、不安を抱えて派遣村に集まる人々、仕事に就けないシングルマザー、子供たちの餓死、生活すべてに行き詰った末に感情を爆発させて無差別に人を殺める通り魔事件など、貧困から派生した日本の問題を、さまざまな現場から報告する本だからです。
著者の引用によると、警察庁の発表では、07年の1年間の自殺者は3万3,092人。16分にひとりが命を絶っている計算になり、そのうちの57%が無職だそうです。年齢別では50代がもっとも多く、原因でもっとも多いのは「健康問題」。健康問題のトップはうつ病です。
無職、高齢者、うつ病の多さなどから、貧困や働くことができなくなったときのセーフティネットの欠如という問題が浮き彫りになります。生活困窮者を支援しているNPO「自立生活サポートセンター・もやい」の湯浅誠さんは、「五重の排除」という概念を提示しているそうです。以下のような5つの排除から、ひとびとは貧困に陥ると解説されています(P.40)。
1.教育課程からの排除
2.企業福祉からの排除
3.家族福祉からの排除
4.公的福祉からの排除
5.自分自身からの排除
痛切に感じたのは、5番目「自分自身からの排除」。
もちろん企業福祉や公的福祉は大事です。家族も含めて、まず社会が最低限の生活を支援する状態になければ、厳しい現状から立ち直るきっかけがつかめない。しかし、自分自身の存在を社会から排除してしまうと、もはやどんな救いも無力であり、役に立ちません。
記憶から遠ざかりつつあったのですが、秋葉原の無差別殺人事件が取り上げられていて、あの報道を視聴したときのやるせない気持ちを思い出しました。本日、初公判が行われ、今後の結果が気になるところです。
製造業の派遣労働者全体に厳しい波が押し寄せるなかで、圧力の歪みから弾き出されるようにして発生した事件でした。無差別殺人自体は、許されることではありません。しかし、雨宮処凛さんの指摘するマスコミの「正論」のふりをした「暴力」には深く頷きました(P.44)。
秋葉原の無差別殺人事件を受けて、読売新聞は以下のように述べた。
「世の中が嫌になったのであれば自分ひとりが世を去ればいいものを、『容疑者』という型通りの一語を添える気にもならない」(読売新聞「編集手帳」〇八年六月一〇日)
この言葉は、私の周りの自殺志願者たちに大きな衝撃を与えた。「やっぱり私のような人間は黙って死ぬべきなんですね」。ある人は寂しそうに呟いた。別に読売新聞のコラムだけじゃない。こういった「正論」のふりをした「暴力」が、この国には溢れている。
「お前の努力が足りないからだ」
「能力がないから悪いんだ」
「同じ境遇でも歯を食いしばって頑張っている人がいるじゃないか」
「それなのにお前は」
どれもある意味「正しい」言い分だ。その「正しさ」がわかるからこそ、人は黙り込んでしまう。そしてそんな言葉を、常に一〇〇倍ぐらいにして自分に投げかけているは他ならぬ自分だったりする。しかし、その「正しさ」には圧倒的に何かが欠けている。
マスコミから放たれて社会に蔓延したバッシングの「空気」によって、弱者たちが傷付けられることがあります。このとき弱者とは、狂気の行動に至る一歩手前で立ち止まり、良心によってバランスを取っているひとたちです。「空気」の圧力を敏感に感じ取り、良心の呵責から彼等は、犯罪ではなく「自分自身からの排除」の方向に自分を追い詰めていきます。
一方で、成功や夢を語ることは大事だけれど、明るさや頑強さだけで追い詰められてしまう繊細な弱者もいます。前向き思考は大事とはいえ"いけいけどんどん"という大昔の標語を唱えて、単純な頑張りで業績が上を向く時代ではなくなりました。そんな時代の変化に気付かない鈍感なシニアも多い。その鈍感さが、無意識のうちに若い人材や弱者を生き難さのなかへ追い込む。
元気を出せ、頑張れ、のような体育会系のエールや熱血だけで社会や景気が活性化するのであれば、これほど気楽な社会はありません。けれども、いま景気は長期的に停滞し、社会状況は複雑です。頑張っても右肩上がりの成長は望めません。そんなこと言われても・・・という戸惑いがあります。
人を殺すぐらいなら自分で勝手に死ねということばには、他者に対する寛容さの喪失、感性の鈍りが感じられました。シンプルでわかりやすいけれど、思考停止しているのではないか(P.47)。
もちろん、殺人や犯罪を擁護するわけでもなんでもない。ただ、「死にたいなら一人で死ね」ということは、一種の思考停止だし丸投げだ。この社会に生きる人間として、確実に何かを「放棄」してしまっている。
このあと著者が語るように、この十数年で生きることのハードルは一気に上がりました。格差や競争は激化して、負けたやつは去れ、戦えないやつは使い捨てだ、と一蹴される(P.51)。
多くの人が傷つき、疲れ果てている。そんな中、ギリギリの状態でこの社会にしがみついている。一度「弱者」と見なされてしまえば、社会から徹底的に排除されるからだ。一度のうつ病、病気、怪我、或いは非正規雇用、高齢という理由で、人はあっという間に社会からずり落ちてしまう。
社会にポジションを確保するためには、弱みはみせられません。ネットがしばしの癒しの場であったのも、そんな状況があったからでしょうか(P.68)。
企業は不況の中、「即戦力」だけを欲しがり、社会の空気からどんどん余裕がなくなっていった。学校でも職場でも、競争はどんどん激しくなり、一度そこから脱落してしまうと「ダメ」の烙印を押され、二度と這い上がることはできないと脅された。九〇年代は、他人に少しでも弱みを見せるとたちまち自らが引き摺り下ろされるという恐怖から、この社会から急速に「優しさ」が失われていく過程でもあった。だからこそ、リアルの世界で疲れ果てた者たちは、ネットの世界で弱い自分を曝け出し、束の間傷を舐めあった。そうすることが、必要だった。
「他人に少しでも弱みを見せるとたちまち自らが引き摺り下ろされるという恐怖」という言葉には、ぞっとするような共感がありました。だから強がってしまう。オーバーフローなのに、ひきつった笑顔で、まだまだ大丈夫、と言う。身体や精神にはっきりとわかるような影響として歪みが現れたときには、すべてがぼろぼろになっています。
東京に居るとわからないのですが、地方によっても困窮の状況に温度差があるように感じました。
2007年7月に、北九州市で起きた52歳の男性の餓死事件の詳細はショッキングでした。生活保護を打ち切られて10日間何も食べずに、「オニギリ食いたい」と書き残して死んでいった元タクシーの運転手。北九州市では、05年に68歳の男性、06年5月に56歳の男性が餓死しているそうで、餓死や自殺が多発する背景には「ヤミの北九州方式」という、一日の生活保護の申請件数を制限するような独特のシステムがあったようです。
「数値目標」で職員が生活保護の申し出を管理し、上限を超えたら切り捨てていく方針は、どう考えても人間を人間としてみていません。そんな北九州市のやり方を国は「モデル福祉事務所」として高く評価していたそうです。目標数値の達成しかみていなかったのでしょう。
餓死に関しては、シングルマザーが子供を置き去りにする事件も徹底的に取材されていました。
本書でも取り上げられていましたが、是枝裕和監督の「誰も知らない」という映画はぼくも観たことがあります。男と出て行った母親のために置き去りにされた子供たちが、ぐちゃぐちゃな部屋のなかで必死で生きていく姿に凄惨さを感じました。この作品は実際にあった1988年の「巣鴨子ども置き去り事件」をもとに作られたようです。
この問題においても、育児放棄した母親をバッシングすることは簡単です。しかし、モラルの劣化だけでは片付けられない側面もあるようです。睡眠薬で子供を眠らせたあとで夜の仕事に行く、という別のシングルマザーのエピソードには、何ともいえない後味の悪さを感じました。
豊かな国であるはずだったのに、その片隅で、老人やシングルマザー、子供たちのような弱いものが餓死しつつある。働きたくても働けないひとたちが排除されていく。
どうしてこんな日本になってしまったのだろう。
日本はどうすれば変わるのだろう。
最終的にぼくが感じたのは、「唾を吐け」という批判、もしくは自暴自棄の行動は刹那的な意識改革を生んだとしても何も変えないだろう、ということです。病の本質をとらえ、的確な行政や法による治療手段を確立しなければ、社会は健全にならないのではないか。
「労働組合」の枠を超えた「労働/生存運動」として、インディーズ系労組が誕生し、自分たちの権利を勝ち取ったという実績は明るいものといえます(P.56)。
しかし、この本で紹介されていた、熊本KY[くまもと よわいもの]メーデーのような盛り上がり方は、いかがなものでしょう。メンへラー(うつ病や自傷などの精神的な病を患っているひとたち)が「前代未聞」の「ばか騒ぎ」をしたのはどうかな、と正直なところ首を傾げました(P.65)。
その宣言文通り、熊本KYメーデーは前代未聞のばか騒ぎデモとなった。私は行けなかったのだが、当日の動画を見ると、マクドナルド前で「時給を二〇〇〇円にしろ!」と叫ぶわ、「練炭を買う金がないぞ!」なんてシュプレヒコールを上げるわ、プラカードには「引きこもりも社会人だ」と堂々と書いてあるわ、ほぼ全員がコスプレでアニソン(アニメソング)で踊りまくり、商店街や線路の上で寝転がるわと、今までたまりにたまった憤懣を爆発させるような革命的デモとなったのだった。そうして「絶望の他は失うものを持たない」彼らは、「メンへラー」が「逆ギレ」した時の底力を、まざまざとこの社会に対して見せつけたのだった。
優等生を気取るつもりはありません。メンへラーはメンへラーらしくおとなしくしていろ、というつもりもありません。けれども、うつ病で休職しているような人間が、デモには積極的に参加して、ばか騒ぎに注力するのは何かが歪んでいる気がします。社会に訴え、啓蒙し、「よわいもの」の存在を主張する活動の一環であっても、そのチカラの使い方はどこか間違っていないでしょうか。幼稚に感じるのは、ぼくだけでしょうか。
チカラの使い方が間違っているというのは、その後、最終章「民営化された戦争」で、民間軍事会社が傭兵を含む「派遣社員」によって、戦争を機会に雇用を活性化させていた、ということを読んだからです。
ネットカフェ難民にも自衛隊への勧誘が多いとか。行き詰った先に路上の通行人を無差別に殺戮することとは規模が違うのですが、雇用活性化という大義のもとに、戦争という機会を作り出す、あるいは戦争に派遣社員を送り込むというような事態になれば、日本の未来がほんとうに不安です。「ばか騒ぎ」は、衝動的にそんな社会の(悪いほうへの)変化を肯定しかねないものだと感じています。
ということからふと思い出したことがあります。
先日「G.I.ジョー」という映画を観ました。VFXによる最先端の兵器にかっこいいなあと感動したのですが、もしかすると洗脳的に戦争のプロモーションの一端を担っている映画かもしれない。兵隊はかっこいいぞー、男は戦うべきだぜー、というような。たぶん考えすぎでしょう。
多くの大量虐殺型のゲームもまた、戦争に対するモラルを劣化させる一端となっているのではないでしょうか。暴力的ゲームが有害かどうかという議論は昔からあって、殺し合うゲームが子供の暴力性を促進させるものではない、という心理学の調査結果のレポートも読んだ覚えがあります。
しかし、社会の状況(文脈=コンテクスト)によって、映画やゲームなどの意味付けも変わります。
経済的に困窮し、精神的にも追い詰められ、想像力が劣化し、殺し合う相手の痛みを理解する感性が失われた社会では、「戦争で兵隊?働けるなら、それもいいじゃん。寝る場所も食べ物も用意してくれるんでしょ。最高でしょ!」となりかねないのではないか。実際に、食事もできず寝る場所もない状況で、留置所に泊まれることを動機として、通り魔の犯罪を起こしたという女性の話も雨宮処凛さんの本には書かれていました。
大袈裟かもしれないのだけれど、こんな時代だからこそ、大量虐殺型の映画やゲームのコンテンツは、作る側も楽しむ側も矜持を正す必要があるのではないか、と考えます。エンターテイメントだからいいじゃん、楽しければいいじゃん、という単純な理由による肯定的な勢いに疑問を提示したい。
排除型社会に対する批判を諦めるのは残念ですが、逆に、暴動を起こしたり、破壊的な活動を機会として刹那的な経済的需要を求めても、かえって社会は荒廃するばかりのようにおもわれます。
ところで本日、アップルからiPadの発表がありました。
テクノロジーとデザインが優れているのはもちろん、製品を取り巻く生活様式(ライフスタイル)そのものを変えてしまう可能性を感じました。
これからの産業で、ほんとうに革命を起こすのは、革新的な思考に裏付けられたテクノロジーとデザインではないか、と感じています。もしかすると新しいモノづくりの可能性もあるかもしれません。雇用状況を改善する突破口も、社会をよりよく変えていく糸口も、そこにあるのではないか、と考えているのですが。
投稿者: birdwing 日時: 20:32 | パーマリンク | コメント (6) | トラックバック (0)