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2010年1月28日

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「排除の空気に唾を吐け」雨宮処凛

▼book10-03:雇用崩壊の行く末に。

4062879832排除の空気に唾を吐け (講談社現代新書)
講談社 2009-03-19

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雨宮処凛さんの本、迫力がありました。ぐいぐい読ませるルポルタージュです。喩えるなら、戦場の最前線に踏み込んで銃弾の飛び交うなかで、実況中継するような印象でしょうか。

これは比喩でも何でもないのかもしれません。というのは、不安を抱えて派遣村に集まる人々、仕事に就けないシングルマザー、子供たちの餓死、生活すべてに行き詰った末に感情を爆発させて無差別に人を殺める通り魔事件など、貧困から派生した日本の問題を、さまざまな現場から報告する本だからです。

著者の引用によると、警察庁の発表では、07年の1年間の自殺者は3万3,092人。16分にひとりが命を絶っている計算になり、そのうちの57%が無職だそうです。年齢別では50代がもっとも多く、原因でもっとも多いのは「健康問題」。健康問題のトップはうつ病です。

無職、高齢者、うつ病の多さなどから、貧困や働くことができなくなったときのセーフティネットの欠如という問題が浮き彫りになります。生活困窮者を支援しているNPO「自立生活サポートセンター・もやい」の湯浅誠さんは、「五重の排除」という概念を提示しているそうです。以下のような5つの排除から、ひとびとは貧困に陥ると解説されています(P.40)。

1.教育課程からの排除
2.企業福祉からの排除
3.家族福祉からの排除
4.公的福祉からの排除
5.自分自身からの排除

痛切に感じたのは、5番目「自分自身からの排除」。

もちろん企業福祉や公的福祉は大事です。家族も含めて、まず社会が最低限の生活を支援する状態になければ、厳しい現状から立ち直るきっかけがつかめない。しかし、自分自身の存在を社会から排除してしまうと、もはやどんな救いも無力であり、役に立ちません。

記憶から遠ざかりつつあったのですが、秋葉原の無差別殺人事件が取り上げられていて、あの報道を視聴したときのやるせない気持ちを思い出しました。本日、初公判が行われ、今後の結果が気になるところです。

製造業の派遣労働者全体に厳しい波が押し寄せるなかで、圧力の歪みから弾き出されるようにして発生した事件でした。無差別殺人自体は、許されることではありません。しかし、雨宮処凛さんの指摘するマスコミの「正論」のふりをした「暴力」には深く頷きました(P.44)。

秋葉原の無差別殺人事件を受けて、読売新聞は以下のように述べた。
「世の中が嫌になったのであれば自分ひとりが世を去ればいいものを、『容疑者』という型通りの一語を添える気にもならない」(読売新聞「編集手帳」〇八年六月一〇日)
この言葉は、私の周りの自殺志願者たちに大きな衝撃を与えた。「やっぱり私のような人間は黙って死ぬべきなんですね」。ある人は寂しそうに呟いた。別に読売新聞のコラムだけじゃない。こういった「正論」のふりをした「暴力」が、この国には溢れている。
「お前の努力が足りないからだ」
「能力がないから悪いんだ」
「同じ境遇でも歯を食いしばって頑張っている人がいるじゃないか」
「それなのにお前は」
どれもある意味「正しい」言い分だ。その「正しさ」がわかるからこそ、人は黙り込んでしまう。そしてそんな言葉を、常に一〇〇倍ぐらいにして自分に投げかけているは他ならぬ自分だったりする。しかし、その「正しさ」には圧倒的に何かが欠けている。

マスコミから放たれて社会に蔓延したバッシングの「空気」によって、弱者たちが傷付けられることがあります。このとき弱者とは、狂気の行動に至る一歩手前で立ち止まり、良心によってバランスを取っているひとたちです。「空気」の圧力を敏感に感じ取り、良心の呵責から彼等は、犯罪ではなく「自分自身からの排除」の方向に自分を追い詰めていきます。

一方で、成功や夢を語ることは大事だけれど、明るさや頑強さだけで追い詰められてしまう繊細な弱者もいます。前向き思考は大事とはいえ"いけいけどんどん"という大昔の標語を唱えて、単純な頑張りで業績が上を向く時代ではなくなりました。そんな時代の変化に気付かない鈍感なシニアも多い。その鈍感さが、無意識のうちに若い人材や弱者を生き難さのなかへ追い込む。

元気を出せ、頑張れ、のような体育会系のエールや熱血だけで社会や景気が活性化するのであれば、これほど気楽な社会はありません。けれども、いま景気は長期的に停滞し、社会状況は複雑です。頑張っても右肩上がりの成長は望めません。そんなこと言われても・・・という戸惑いがあります。

人を殺すぐらいなら自分で勝手に死ねということばには、他者に対する寛容さの喪失、感性の鈍りが感じられました。シンプルでわかりやすいけれど、思考停止しているのではないか(P.47)。

もちろん、殺人や犯罪を擁護するわけでもなんでもない。ただ、「死にたいなら一人で死ね」ということは、一種の思考停止だし丸投げだ。この社会に生きる人間として、確実に何かを「放棄」してしまっている。

このあと著者が語るように、この十数年で生きることのハードルは一気に上がりました。格差や競争は激化して、負けたやつは去れ、戦えないやつは使い捨てだ、と一蹴される(P.51)。

多くの人が傷つき、疲れ果てている。そんな中、ギリギリの状態でこの社会にしがみついている。一度「弱者」と見なされてしまえば、社会から徹底的に排除されるからだ。一度のうつ病、病気、怪我、或いは非正規雇用、高齢という理由で、人はあっという間に社会からずり落ちてしまう。

社会にポジションを確保するためには、弱みはみせられません。ネットがしばしの癒しの場であったのも、そんな状況があったからでしょうか(P.68)。

企業は不況の中、「即戦力」だけを欲しがり、社会の空気からどんどん余裕がなくなっていった。学校でも職場でも、競争はどんどん激しくなり、一度そこから脱落してしまうと「ダメ」の烙印を押され、二度と這い上がることはできないと脅された。九〇年代は、他人に少しでも弱みを見せるとたちまち自らが引き摺り下ろされるという恐怖から、この社会から急速に「優しさ」が失われていく過程でもあった。だからこそ、リアルの世界で疲れ果てた者たちは、ネットの世界で弱い自分を曝け出し、束の間傷を舐めあった。そうすることが、必要だった。

「他人に少しでも弱みを見せるとたちまち自らが引き摺り下ろされるという恐怖」という言葉には、ぞっとするような共感がありました。だから強がってしまう。オーバーフローなのに、ひきつった笑顔で、まだまだ大丈夫、と言う。身体や精神にはっきりとわかるような影響として歪みが現れたときには、すべてがぼろぼろになっています。

東京に居るとわからないのですが、地方によっても困窮の状況に温度差があるように感じました。

2007年7月に、北九州市で起きた52歳の男性の餓死事件の詳細はショッキングでした。生活保護を打ち切られて10日間何も食べずに、「オニギリ食いたい」と書き残して死んでいった元タクシーの運転手。北九州市では、05年に68歳の男性、06年5月に56歳の男性が餓死しているそうで、餓死や自殺が多発する背景には「ヤミの北九州方式」という、一日の生活保護の申請件数を制限するような独特のシステムがあったようです。

「数値目標」で職員が生活保護の申し出を管理し、上限を超えたら切り捨てていく方針は、どう考えても人間を人間としてみていません。そんな北九州市のやり方を国は「モデル福祉事務所」として高く評価していたそうです。目標数値の達成しかみていなかったのでしょう。

餓死に関しては、シングルマザーが子供を置き去りにする事件も徹底的に取材されていました。

本書でも取り上げられていましたが、是枝裕和監督の「誰も知らない」という映画はぼくも観たことがあります。男と出て行った母親のために置き去りにされた子供たちが、ぐちゃぐちゃな部屋のなかで必死で生きていく姿に凄惨さを感じました。この作品は実際にあった1988年の「巣鴨子ども置き去り事件」をもとに作られたようです。

誰も知らない [DVD]

この問題においても、育児放棄した母親をバッシングすることは簡単です。しかし、モラルの劣化だけでは片付けられない側面もあるようです。睡眠薬で子供を眠らせたあとで夜の仕事に行く、という別のシングルマザーのエピソードには、何ともいえない後味の悪さを感じました。

豊かな国であるはずだったのに、その片隅で、老人やシングルマザー、子供たちのような弱いものが餓死しつつある。働きたくても働けないひとたちが排除されていく。

どうしてこんな日本になってしまったのだろう。
日本はどうすれば変わるのだろう。

最終的にぼくが感じたのは、「唾を吐け」という批判、もしくは自暴自棄の行動は刹那的な意識改革を生んだとしても何も変えないだろう、ということです。病の本質をとらえ、的確な行政や法による治療手段を確立しなければ、社会は健全にならないのではないか。

「労働組合」の枠を超えた「労働/生存運動」として、インディーズ系労組が誕生し、自分たちの権利を勝ち取ったという実績は明るいものといえます(P.56)。

しかし、この本で紹介されていた、熊本KY[くまもと よわいもの]メーデーのような盛り上がり方は、いかがなものでしょう。メンへラー(うつ病や自傷などの精神的な病を患っているひとたち)が「前代未聞」の「ばか騒ぎ」をしたのはどうかな、と正直なところ首を傾げました(P.65)。

その宣言文通り、熊本KYメーデーは前代未聞のばか騒ぎデモとなった。私は行けなかったのだが、当日の動画を見ると、マクドナルド前で「時給を二〇〇〇円にしろ!」と叫ぶわ、「練炭を買う金がないぞ!」なんてシュプレヒコールを上げるわ、プラカードには「引きこもりも社会人だ」と堂々と書いてあるわ、ほぼ全員がコスプレでアニソン(アニメソング)で踊りまくり、商店街や線路の上で寝転がるわと、今までたまりにたまった憤懣を爆発させるような革命的デモとなったのだった。そうして「絶望の他は失うものを持たない」彼らは、「メンへラー」が「逆ギレ」した時の底力を、まざまざとこの社会に対して見せつけたのだった。

優等生を気取るつもりはありません。メンへラーはメンへラーらしくおとなしくしていろ、というつもりもありません。けれども、うつ病で休職しているような人間が、デモには積極的に参加して、ばか騒ぎに注力するのは何かが歪んでいる気がします。社会に訴え、啓蒙し、「よわいもの」の存在を主張する活動の一環であっても、そのチカラの使い方はどこか間違っていないでしょうか。幼稚に感じるのは、ぼくだけでしょうか。

チカラの使い方が間違っているというのは、その後、最終章「民営化された戦争」で、民間軍事会社が傭兵を含む「派遣社員」によって、戦争を機会に雇用を活性化させていた、ということを読んだからです。

ネットカフェ難民にも自衛隊への勧誘が多いとか。行き詰った先に路上の通行人を無差別に殺戮することとは規模が違うのですが、雇用活性化という大義のもとに、戦争という機会を作り出す、あるいは戦争に派遣社員を送り込むというような事態になれば、日本の未来がほんとうに不安です。「ばか騒ぎ」は、衝動的にそんな社会の(悪いほうへの)変化を肯定しかねないものだと感じています。

ということからふと思い出したことがあります。

先日「G.I.ジョー」という映画を観ました。VFXによる最先端の兵器にかっこいいなあと感動したのですが、もしかすると洗脳的に戦争のプロモーションの一端を担っている映画かもしれない。兵隊はかっこいいぞー、男は戦うべきだぜー、というような。たぶん考えすぎでしょう。

多くの大量虐殺型のゲームもまた、戦争に対するモラルを劣化させる一端となっているのではないでしょうか。暴力的ゲームが有害かどうかという議論は昔からあって、殺し合うゲームが子供の暴力性を促進させるものではない、という心理学の調査結果のレポートも読んだ覚えがあります。

しかし、社会の状況(文脈=コンテクスト)によって、映画やゲームなどの意味付けも変わります。

経済的に困窮し、精神的にも追い詰められ、想像力が劣化し、殺し合う相手の痛みを理解する感性が失われた社会では、「戦争で兵隊?働けるなら、それもいいじゃん。寝る場所も食べ物も用意してくれるんでしょ。最高でしょ!」となりかねないのではないか。実際に、食事もできず寝る場所もない状況で、留置所に泊まれることを動機として、通り魔の犯罪を起こしたという女性の話も雨宮処凛さんの本には書かれていました。

大袈裟かもしれないのだけれど、こんな時代だからこそ、大量虐殺型の映画やゲームのコンテンツは、作る側も楽しむ側も矜持を正す必要があるのではないか、と考えます。エンターテイメントだからいいじゃん、楽しければいいじゃん、という単純な理由による肯定的な勢いに疑問を提示したい。

排除型社会に対する批判を諦めるのは残念ですが、逆に、暴動を起こしたり、破壊的な活動を機会として刹那的な経済的需要を求めても、かえって社会は荒廃するばかりのようにおもわれます。

ところで本日、アップルからiPadの発表がありました。

テクノロジーとデザインが優れているのはもちろん、製品を取り巻く生活様式(ライフスタイル)そのものを変えてしまう可能性を感じました。

これからの産業で、ほんとうに革命を起こすのは、革新的な思考に裏付けられたテクノロジーとデザインではないか、と感じています。もしかすると新しいモノづくりの可能性もあるかもしれません。雇用状況を改善する突破口も、社会をよりよく変えていく糸口も、そこにあるのではないか、と考えているのですが。

投稿者: birdwing 日時: 20:32 | | コメント (6) | トラックバック (0)

2010年1月21日

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「なぜ日本人は劣化したのか」香山リカ

▼book10-02:日本の劣化に歯止めをかけるには。

4061498894なぜ日本人は劣化したか (講談社現代新書)
講談社 2007-04-19

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2000年以降、世界の経済情勢の変化はもちろん、日本において何かが大きく変わりつつあると感じていました。長引く不況だけが原因とは言いがたい。複雑に絡み合った不安が社会に蔓延し、ぼくらのこころの奥底に澱んでいた気がしています。それはいったい何だったのか。

2010年、過去の10年とこれからの10年を考えてみようと本を探して書店を彷徨っていたのですが、香山リカさんの著作「なぜ日本人は劣化したか」というタイトルを本棚でみつけて、わかりやすいキーワードにすこしだけ抵抗を感じつつ、ああそうか、日本人は劣化したという考え方もあるのか、とみょうに納得しました。2007年発行の本で若干古いけれど、現在でも頷ける部分があります。

雪印のような大企業の不祥事。衝動的な通り魔による殺人事件。派遣村、内定取り消しなどの雇用問題。迷走する政治。社会の歯車が噛みあわなくなった出来事に、日本はどうしちゃったんだろう、何かが緩んでしまったのではないか、と感じていました。

精神科医でもある香山リカさんは、そのような現象に、若年層の基礎体力、活字を読む力、他者のこころのうちを読み取る想像力の低下などを加えて、日本の病を「劣化」と診断し、多岐にわたって劣化の兆候を挙げています。

たとえば、電車やコンビ二の前で座り込む「ジベタリアン(死語でしょうか)」。彼ら、彼女らは、決して礼儀を失っているのではなく、そもそも「立っていられない」とのこと。おもわず失笑してしまったのですが、体力の低下が座り込む若者を輩出しているという解説に脱力しました。モラルの低下だけではないのです。

確かにそうかもしれません。耐性が衰えている。さらに驚いたのは、大学で「不可」をもらうことによって情緒不安定に陥ってしまう学生がいるということでした。学校の課外活動で先生に叱り付けられただけで、自傷にまで向かってしまう事態もあるそうです。そこまで日本人は打たれ弱くなっていたのか、と底知れない不安を感じました。あまりにも傷付きやすい。個人の甘えとしてバッシングされそうなことですが、社会的な病として原因がありそうです。

結局、生きる力自体が劣化しているのではないか、と香山リカさんは指摘します。この嘆きにも同意せざるを得ません(P.144)。

こうなるともはや、生物として生命を維持する力そのものが劣化しているのではないか、とさえ言いたくなる。ちょっとしたことで傷ついて、「もう死んだほうがいい」と考える若者が増えているのも、心が弱くなっているのではなくて、生物としての耐性が低くなっており、「死にたい」という発想がわくのは、彼らのとってはある意味で自然の反応なのではないか、とさえ思うことがある。

いくつか挙げられている劣化の現象において、ぼくがいちばん脅威に感じたのは、「排除型社会」と「寛容の劣化」でした。

米国を例に考えても、あらゆることを訴訟など法的手段に訴える社会は、徹底的に話し合い歩み寄ろうとする「寛容」の劣化だとも考えられます。その結果として、厳罰社会が待っているわけです。他者を監視し、制裁を加えることで解決を行う。あるいは銃弾で解決する。合理的な考え方の進化の結果なのかもしれませんが、思考停止の極みともいえなくない。

インターネットはもちろんあらゆるコミュニティにおいても、共感と同時に強烈な排除の意識が場を占めることがあります。空気(ルール)の読めない人間を排除していく。仲間うちだけで通じる隠語の使用もそうですが、異質なものの排除は、多様性に対する「寛容さ」の喪失ともいえます。

自由な発言の場であるはずのコミュニティが自由を縛り付ける。自由な考え方をしている人間は口を噤むことになり、もし口を開いたとすれば、総攻撃のバッシングが待っています。炎上という現象も、劣化の視点からみれば、寛容さの劣化といえる側面もあるかもしれません。

すこし話を戻すと、香山リカさんは犯罪学者でニューヨーク市立大学特別教授のジョック・ヤングが提示した「ゼロ・レトランス」という概念を引用しながら、包摂型社会から排除型社会への変化を解説しています。

ゼロ・レトランスとは、「市民道徳に反する行為を絶対に許さず、しつこい物乞いや押し売り、浮浪者、酔っ払い、娼婦を厳しく取り締まり、街中から逸脱者や無秩序を一掃すること」であり、次の6つの要素を挙げています(P.114)。

1.犯罪や逸脱にたいする寛容度の低下。
2.目的達成のために懲罰を利用し、過激な手段を用いることも辞さない。
3.礼儀や秩序、市民道徳の水準を、知られうるかぎりの過去まで戻す。
4.市民道徳に反する行為と犯罪が連続したものとみなされ、「生活の質」を維持するための規則を破ることは、重大な犯罪とつながっているとみなされる。
5.市民道徳に反する行為と犯罪は関係があり、市民道徳に反する行為を監視しておかなければ、さまざまな形で犯罪が増加すると信じられている。
6.そうした考え方を広げるために、同じテキストが何度も繰り返し言及される。それは、一九八二年に『アトランティック・マンスリー』誌に掲載され、もはや古典として知られるようになった、ウィルソンとケリングによる「割れ窓(Broken Window)」という論文である。

このゼロ・レトランスによる排除型社会の背景には、社会の衰退があるといいます。衰退の例として「失業者の増大、コミュニティの崩壊、伝統的な核家族の解体、他者への尊厳の念の喪失、社会病理の蔓延」をヤングは挙げていますが、「衰退」は「劣化」に置換できると香山リカさんは言及します。

最近、コンプライアンスも最重視されるようになりました。しかし個人的には、行き過ぎたコンプライアンスは監視社会や厳罰社会を生み、社会全体の勢いを失速させるような気がしています。法を守ることは大事です。しかし、近視眼的に目の前のことばかり注視して取り締まるのではなく、社会やビジネスの将来的な発展を考慮した上で、何を取り締まり、何を解放するかについて考える必要があるのではないでしょうか。

保守的な思考に陥ると、未来よりも過去のこと、「むかしはよかった。あの時代に戻るべきだ」という嘆息も出てくるもの。ヤングのことばで「衰退と欠乏が問題にされると、そこにはいつもノスタルジーが続く」という指摘が強調されています(P.118 )。

社会民主主義者から保守主義者までが「ほのぼのとした家族や職場、地域共同体の思い出に浸」り、"かつての価値"を復権させようと目論んでいる。狭量で不寛容な排除型社会の裏には、このノスタルジーというやっかいな怪物が潜んでいる可能性があることを、ヤングは鋭く指摘している。

確かに日本にも昭和懐古などの風潮はありましたね。

このことを考えると、衰退、劣化ということばとともに「老化」ではないか、ともいいたくなります。よい意味でとらえると成熟化ですが、成熟して豊かになったかというと、むしろ「先がない」。袋小路に追い詰められた印象が強い。追い詰められて行き場のない先で、消耗しつつあります。これは老化ではないか。

社会全体が老化したとしても、新しい世代のひとたちは困るばかりです。老化、劣化は食い止めなければならない。では、どうするか。

最後の第九章では、この劣化を防ぐためにどうするべきかを論じています。劣化によって人口が減少すれば「そこそこみんなが幸せ」という社会に軟着陸できるのではないかという、上野千鶴子さんの楽観的なのか捨て鉢なのかわからない見解などが引き合いに出されていました。それもいかがなものでしょう。

香山リカさんの書かれていることからぼくが重要だと感じたのは、自分たちは劣化しているという「病識」を持つということと、「無理と自制心」の必要性でした。

前者は精神科医らしい見解と感じました。後者は、企業の不祥事などの対策も含めて大事なことです。企業倫理の劣化が新聞を賑わす不祥事ほどに事が大きくなれば、企業側の危機感も募ります。しかし、ほんとうに大事なのは、もっとささやかな生活レベルやビジネスの現場で自制心を発動することではないか、とおもいました。

「えんぴつで奥の細道」のような漢字をなぞる本がベストセラーになったことに対して(幼稚園などの子供向けにそんな学習教材がありましたが、大人向けの本まであったんですね)、出版社や編集者が「いくら売れるからといって、こんな本を出すのは活字を扱う人間としてどうか」と自省すべきという主張には同感でした(P.158)。

最後の"売る側の矜持"は、「すべてを市場に委ねる」という新自由主義的な考え方とは相容れないものだ。新自由主義は、「売れるものは、市場で多くの人に選ばれたよいもの」という"魔法の大義"をものの作り手に与えてしまった。「売れたことは売れたが、作品としてのクォリティが低いから作り手としては満足できない」といった言い方は、いまや通用しなくなった。その逆の「売れなかったけれど、作品としてはよくできていた」も同様である。

ブームとなっている新書にも、ときどきひどい本があります。タイトルだけキャッチーだけれど内容はカスのような本だったり、ブログじゃないのに(笑)などと挿入されていたり。お金を出して購入しているのだから、真面目に作ってほしい。

日本人としての矜持を正すこと。
これがいちばん大切なことではないか、とぼくは考えます。

コンプライアンスであっても、ただ法を守るだけという形骸的な目的になってしまうと、刑罰しか目がいかなくなります。何のために法を守らなければならないか、あるいは行動規範そのものを見直して、日本人として誇りを持てることが重要だと感じました。劣化を止めようとしても個別の問題にかかずらわっていると、本質を見失う。それこそ「病識」をきちんと捉え、本質から変えていく必要があります。

音楽産業が衰退(=劣化)したのも、売れることを第一主義とした市場重視の姿勢にあったのではないでしょうか。小室哲哉さんの詐欺事件のようなスキャンダルも、市場重視的な姿勢から生じたと考えています。金儲けに目が眩み、金に追い回されるのではなく、クリエイターとしての矜持を正していれば、世間を騒がすような悪態を露呈せずに済んだはず。

劣化を食い止めるためには、体力も知力も必要になります。若者だけでなく、大人であるぼくらも体力・知力を鍛えなければ。そう感じました。

投稿者: birdwing 日時: 08:09 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年1月 7日

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「醜い日本の私」中島義道

▼book10-01:日本文化のきれいごと、醜さを見抜く。

4101467285醜い日本の私 (新潮文庫)
新潮社 2009-11-28

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けばけばしい商店街の装飾。エンドレステープによる店頭の呼び込み。まったく役に立っていない「放置自転車はやめましょう」の貼紙。マニュアルにしたがって機械的な挨拶を繰り返すファーストフードやコンビ二の店員。騒がしい防災放送・・・などなど。

一般人としてはスルーしてしまいそうな、生活に根ざした日本文化の「醜さ」について、闘う哲学者である中島義道さんが独自の感性で糾弾していきます。「うるさい日本の私」の続編的な本です。

以前は新潮選書でした。文庫化されたので購入したのだけれど、原色の造花の写真をコラージュとして掲載した表紙は、中島義道さんの本らしくない。というのも彼の本の大半は、どちらかといえばシンプルであったり、絵画調の装丁だったからです。内容に合わせて派手にしたのでしょうが、中島さんが嫌う原色の装飾のコラージュにしなくてもいいのでは。装丁としてはいまひとつ。

内容を読み進めて、なるほど、とおもったのは、日本の祭りにおける夜店のけばけばしさが、渋谷や新宿などのイルミネーションにつながり、べたべたと飾られた垂れ幕などにも継承されている、ということです。

そうか、繁華街というのは毎日がお祭り(ハレ)なのだな、と納得しました。

とはいえ、お祭り好きな自分としては、ごたごた感も悪くない、とおもいます。中島義道さんが独自の美的感性によってお祭り的な装飾を嫌うのもわかるのだけれど、しーんと静まって垂れ幕のひとつもない商店街は、どこか活気に欠けるのではないか。ハレの場だからお金もぱあっと使っちゃおう、と販売促進にも寄与するのではないでしょうか。

ごてごて感を下町文化と考え、あったかいものとして受け入れる感性もあります。人間と人間のふれあいを大切にした、懐かしい感覚が残っている気がする。

一方で現在の商店街の装飾について個人的な印象を述べると、品のない過剰な客寄せの垂れ幕(またはPOP)は、消費者に「媚び」た感じが気持ち悪い。

最近のDVDショップなどでは、カリスマバイヤーのおすすめ、だとか、消費者の感動の声、などを表示することも多くなりました。これらは媚び感が薄れている気もするのだけれど、戦略的(意図的)に媚び感を薄れさせているのだとすれば、もっと気持ち悪い悪質さを感じます。

洋画の映画で日本のシーンになると、なぜか繁華街のごちゃごちゃした風景ばかりが映し出されて苦笑します。外国人がイメージする日本は、依然としてアジアの片隅の雑然とした国なのでしょうね。その雑然さのなかに感じるのは、構ってちょうだい、みていってちょうだい、というストリートガールのような猥雑な「媚び」です。その媚びが谷崎潤一郎文学的な官能と陰翳に表現されている場所もあります。うまく言い分けられないのですが、そういう文化的な澱みのような場所には、ぼくはあまり嫌悪感を抱かない。いいとおもいます。

視覚的なものから聴覚的なものに論点を移すと、肉声による客寄せの言葉とテープなど機械によるオートリピートの宣伝は、コミュニケーションの観点から考えると、まったくの別物と考えられます。

肉声であれば、「おばちゃん今日は白菜が安いよ」「あらどうしようかしら」などの双方向的なコミュニケーションが成立する。しかし機械的な宣伝は一方的であり、やりすぎると騒がしいだけです。ノイズとして、脳のなかでフィルタリングされてしまう。聞こえているのだけれど、聞こえない。

そういえば、うちの近くのスーパーで一時期、景気のいいオリジナルソングらしきものを店頭のラジカセで大音量で流していたことがありました。しかし、いつの間にか消えてしまった。道を歩いていて何気なく耳に入ってくるのだけれど、それだけでも気恥ずかしい。なんだこりゃ的な苦笑ものの歌詞だったので、消滅して当然でしょう。制作費は無駄に消えたに違いありません。もったいない。

中島義道さんは、電信柱と電線も嫌っています。

100107_densen.jpg空好きなぼくとしては、障害物のない場所で、だだっぴろい空を眺めることができるのはうれしい。しかし同時に、電信柱と電線のある風景も嫌いではありません。むしろ趣きがあると感じるときもあります。

また、いまから日本の電線をすべて地下に、といったところで、移行費にかかるコストを算出すると、とんでもない予算が必要になる。これだけ電線が張り巡らされてしまうと、身動きが取れません。日本の都市部は、縦横無尽に走る電線によって景観が縛り付けられている。こうなる前に計画的に日本の景観を考えるべきだったのではないでしょうか。

日本における自然という言葉の意義を次のように解説しています(P.69)。

私も以前、日本人にとって「自然」とは固有の領域ではなく「副詞的自然」つまり自然にという意味しかもたない、と論じたことがある(『日本人を<半分>降りる』ちくま文庫)。すなわち、わが国では自然は人工や人為の対極にある概念ではなく、むしろそれは微妙な仕方で人為と融合している。

商店街のけばけばしい装飾や電信柱の林立する風景は、「自然に」そうなっちゃった。そして、中島義道のようなひとではない限り、それを自然に容認する。異議をとなえない。「自然に」自分たち日本の景観として受け入れてしまう。

言葉の問題が出てきたので話題をかえて、言葉について論じている部分で注目した箇所をいくつか抜粋します。まずは、すこし長いのだけれど、彼が嫌悪する日本の言語観、コンテクスト(文脈)の機能について言及しているところ(P.131)。

日本人の言葉の使い方一般に対して、私は大いなる違和感と嫌悪感をもっている。それは、おいおい述べていくが、ひとことで言えば、言葉の文字通りの意味を尊重しないこと、よって(書かれたあるいは言われた)言葉に反することをしても平然としていること・・・・・・つまり言葉を「信じない」ことである。
この背景として、社会学者は「ハイ・コンテクスチュアル・カルチャー(high contextual culture)」という概念を提示している。言葉自体を状況=コンテクストから独立に尊重する文化は「ロウ・コンテクスチュアル・カルチャー(low contextual culture)」と呼ばれ、これを代表する文化は欧米文化(とくに来たヨーロッパやアメリカ文化)である。これとは異なり、言葉を常に状況との関連で理解しようとする態度が濃厚な文化を「ハイ・コンテクスチュアル・カルチャー」というわけだ。日本はこの典型であり、人々は言葉の文字通りの意味よりその「裏」を読もうとする。そう語った「真意」を探ろうとする。

確かに日々実感していることですが日本語は曖昧であり、どういう場面で語られているか文脈を理解しないと、まったく逆の意味に解釈してしまうことさえあります。また、曖昧だからこそ「裏」を読もうとする。

ぜったいに謝らない西欧人に比べて、日本人は簡単に謝ってしまうのだけれど、ほんとうに悪いと「言葉通りに」自省しているかというとそんなことはない場合もあります。形式的な謝罪も多い。言葉を重視していながら反面、言葉を信じていない、という二律背反の状況もよくわかります。したがって、形式的な謝辞や注意の喚起は「祝詞」である、という皮肉な指摘にも頷くことができます(P.140)。

言語哲学者の加賀野井秀一は、こういう日本人の言語観を「言霊思想」と呼んでいる(『日本語は進化する』NHKブックス、『日本語を叱る!』ちくま新書)。日本人の言語使用にあたっては、言葉はその意味伝達機能を無限に希薄化され、ただ「語っていること」が異様に前景に出てくる。加賀野井が言っているように、その典型例は「祝詞」であって、「交通安全」も、「駅前放置自転車クリーンキャンペーン」も祝詞なのである。

実際のコミュニケーション機能から表層の言葉だけが剥がれて形骸化すると、「嘘」になります。眼前の現実を無視した「きれいごと」にもなるわけです。オリンピック選手が「みなさんのおかげです」とコメントすることを、中島義道は自分の絶え間ない努力と能力によって勝ち得たという胸のうちを表明しない「悪質な嘘」といっています(P.156)。

ここには、自分の本心を徹底的に探ろうとしない怠惰さが世間から排斥されたくないという計算高さと融合している。だからこそ、じつは人を害する嘘より数段悪質な嘘なのである。

「みなさんのおかげです」は公共の場におけるステレオタイプの文句であり、選手個人が感じていることは他にもいくつかあるでしょう。しかし、一位の選手がドーピングしたおかげで、とか、すべて自分の努力と実力で、などとは言いにくいものです(P.156)。

こうして、われわれ日本人は、公共空間で発話しようとするやいなや、自分が「ほんとうに思っていること」と「思うべきこと」とが渾然一体になってしまい、いわば"will(語りたいこと)"と"should(語るべきこと)"との境界が消えてしまう。「語りたいこと」は「語るべきこと」に隅々まで管理され、チェックされ、こうして徹底的に濾過された無難な言葉だけが、公共空間に飛び散る。

自由な発言が許されるようにみえるインターネットも、公共空間である以上、語りたいことが語るべきことに管理されることがあります。ペルソナ(仮面)を被った書き手による演技といえなくもないでしょう(P.157)。

社会学の専門用語を使えば、演技には「表層演技(surface acting)」と「深層演技(deep acting)」がある。前者はいわゆる演技として見透かされるような演技であるが、後者は、まったく面識のない人の葬式に言っても自然に涙が流れるとか、どんなつまらないものを贈られても、飛び上がらんばかりに喜んでしまう・・・・・・というように、その人の性格にまで、あるいは体質にまでなっているほどの演技である。つまり、社会的に期待されていることを、ごく自然にできてしまう演技である。

この深層演技の達人に対して、中島義道は不愉快をあらわにします。

なぜなら、演技するということは、自ら考えることを放棄して自分の内面を隠して、他者に「期待されている自分」をあたかも自分自身の考えのように振る舞うからです。

ここまで考えを進めて、商店街の垂れ幕や電信柱や防災放送の騒音など、中島義道が嫌悪するものを振り返ってみると、彼が批判している醜さとは、

「思考停止した日本の文化」

であることがわかりました。「お年寄りを大事にしましょう」「放置自転車を追放しましょう」など、とりえあえずカタチを整えました、言っておけばいいか、という姿勢によるスローガン(=祝詞)。一方的にがなりたてて注意を促せばよしとする防災放送。いつしかこんな景観に「自然に」なってしまった絡み合うような電線の空。公共空間の設計は無計画であり、その場所を飛び交う言葉は徹底的に濾過され、きれいに磨かれた表現です。けれどもだからこそ嘘っぽい。きれいごとに聞こえる。

社交辞令や定型的なスローガンは社会を円滑にするために必要な言葉だったとしても、無意識のように「演技」できるようになってしまうと、本心と言葉が乖離します。自分が何を言っているのか認識し、それは現実と違う、あるいは自分はそうは考えない、という感性は錆びさせるべきではありません。

中島義道さんのように意固地にならなくても、ああ、自分はいまお決まりの演技をしているな、期待されている言葉や行動をしている、しかし本心は別のところにある、という自省は大切です。言葉と本心のギャップに後悔したとしても、罪悪感なしにスルーするより、後悔できる繊細な感性をもっているほうがいい。

しかしながら、ここで著者である中島義道さんについて冷静に考えてみます。

文庫に挟みこまれていた新刊案内に彼の写真があったのですが、かっこよかったなあ。それはともかく(笑)。

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哲学者としての問題提議は興味深いのだけれど、現実的かつ合理的に考えると、問題提議の「その後」が重要になる。

改善策を考えずに感性として醜い醜いだけ言及しているだけなら、クレームだけを騒いでいる偏屈じいさんでしかあり得ません。言いたいことを言ってのける面白いひとですが、騒音問題や商店街の美化、電線の醜さを訴える彼は、どこかただの「困ったじいさん」にもみえる。だから哲学者は困りものだ、という気持ちも率直なところあります。

クレームだけでは何の解決にもなりません。じゃあどうする、ということをビジネスあるいは行政による改革の施策として考えなければ。

問題提議をするひとは大切で、ああ、そういう感性もあるのだな、という新たな視点を提示してもらえる点では興味深いのだけれど、いつまでたっても「祝詞」で終わってしまうのであれば、彼の発言もまた、形骸化された演技のひとつではないでしょうか(騒がしい店外放送をやめさせるなど、行動によっていくつかの成果はあったようですけれどね)。

とはいえ、あえて問題提議する「醜い」自分を曝け出す中島義道さんの強さには、毎度のことながら、彼の著作を読むたびに、がつんと打たれます。

何かがおかしいとおもっていたとしても、ぼくらには行政にクレームをぶつける勇気や気力さえない。腑抜けて、まあいいか、と黙り込む。さわらぬ神に祟りなしと問題から目を背けることが多い。余計な波風を立てない。

空気を乱さない沈黙を善とする日本の社会において、中島義道的な強靭な存在は特異です。だからこそ魅力的なのだなあ、ぼくにとっては。

投稿者: birdwing 日時: 19:45 | | トラックバック (0)

2009年6月 6日

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「多読術」松岡正剛

▼book09-16:読書について多角的に考えたくなる知の織物。

4480688072多読術 (ちくまプリマー新書)
松岡正剛
筑摩書房 2009-04-08

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「千夜千冊」という膨大な読書のアーカイヴに触れたときから松岡正剛さんは凄いひとだな、と感じていたのですが、そんな多読家であるセイゴウさんが彼の読書術についてインタビュー形式で語っていく本です。さすが編集のプロ。メタファ(暗喩)や、あらゆるジャンルから引用した書物を俯瞰して、読むことを多角的に再構成していくチカラには圧倒されました。ひとつひとつの視点が切れ味よくて、はっとさせられる。見事です。

読書は量か質か問われることがあります。しかし、どちらを取るかというものではなく、量と質が相乗的に関わってくることもある。

たくさんの本を読むことによって良書(自分にとっての)にめぐり合う可能性も高まるし、本どうしがつながり合って面としての知識、そして空間としての知識のようなものを構成することもあります。モノ的にいうと陽だまりにほこりがスローモーションのように浮遊する静かな図書館なのだけれど、実は置かれた本たちのあいだは無数の網目でつながっていて、活発に情報をやりとりしているイメージ。静と動が同居するような印象です。

情報はひとりではいられない、というようなことばに頷いたのは、遠いむかしに読んだ松岡正剛さんの編集工学の本だった気がするのですが、つまり、一冊ごとは別々の本だったとしても、本は時間と空間を超えてさまざまな別の本とつながっている。書架は静まりかえっていたとしても、本と本のあいだを飛び交いつながりあう情報の激しい運動がみえるような気がします。

ふと手にした本が、まったく違うジャンルの本を"呼び寄せる"こと。ぼくも何度かそんな体験があります。かなりスリリングな体験です。ひとりの作家に興味を抱いて、彼または彼女が書いた著作にもっとたくさん触れたくて、書店の棚をめぐり歩くことも多い。ぼくが読書を愉しいと感じるのはそんなときかな。

ちなみに余談だけれど、最近、どういうわけか中島義道さんの本に嵌まってしまって、2週間あまりで5冊を読了してしまいました(まだ読んでいないけれど購入した本が2冊あり)。

彼はラディカルな、というか偏屈で厭世的なじいさんですが、感受性が研ぎ澄まされて、その文章はひりひりするほどエッジが効いている。どこか坂口安吾的な無頼なイメージと突き抜けた表現のきらめきがあり、気になるひとです。ただ、正常なおとなの感受性を持たれた方は読まないほうがいいかもしれませんね。精神に異常をきたします(苦笑)。

中島義道さんの本といっしょに真面目なビジネス書も読んでいます。この落差が凄い。ギャップにくらくらする。ぼくは同時進行的に複数の本を読むことにしていますが、まったくジャンルが違う本に向き合うと差異が浮き彫りにされる。けれども、意外な本が意外な本とつながったりもしていきます。

松岡正剛さんも、ロラン・バルトの弟子であるジュリア・クリステヴァによる「インターテクスチュアリティ」つまり「間テキスト性」という考え方をとらえて「複合読書法」について解説されています(P. 151)。

本来、書物や知は人類が書物をつくったときから、ずっとつながっている。書物やテキストは別々に書かれているけれど、それらはさまざまな連結と間断と関係性をもって、つながっている。つまりテキストは完全には自立していないんじゃないか、それらの光景をうんと上から見れば、網目のようにいろんなテキストが互いに入り交じって網目や模様をつくっているんじゃないかというんです。

本がつないでいく情報の網目は巨大なものです。セイゴウさんは仕事場に5、6万冊、自宅にも2万冊の本があるそうです。書架の写真をみて圧倒されました。でも、こんな書斎は理想だなあ。

読んだ本の冊数を競うのは馬鹿らしい行為ですが、引越しに際してぼくは家にある書物の3分の2をブックオフに売り払い、あるいは捨てて処分したのですが、いまだに床にまで積まれています。でも、誰から何を言われようと、本に囲まれているとしあわせです。学生時代には週6日、本屋でアルバイトをしていて毎日本に囲まれていたし、いまでも1日に1度は書店に足を運ばないとなんだか落ち着かない。しかし、上には上がいるな、と思いました。敗北感あり。セイゴウさんの書架には憧れます。

そんなセイゴウさんも、多読に関してはっとさせられた体験を綴っていて、印象的です(P.141)。

あるとき、逗子の下村寅太郎さんのところに伺ったことがありました。日本を代表する科学哲学者です。そのとき七十歳をこえておられて、ぼくはレオナルド・ダ・ヴィンチについての原稿を依頼しに行ったのですが、自宅の書斎や応接間にあまりに本が多いので、「いつ、これだけ本を読まれるんですか」とうっかり尋ねたんですね。そうしたら、下村さんはちょっと間をおいて、「君はいつ食事をしているかね」と言われた。これでハッとした。いえ、しまったと思った。もう、その先を尋ねる必要はないと思いましたね。

ファッションをするように本を読む、というような読書法も提示されていますが、ほんとうに本が好きなひとは、読書をするぞと身構えるのではなく、食事をするように生活の一部としてページをめくるのかもしれませんね。

生活と読書の融合という意味を延長してみると、面白いと感じたのは、第4章における「言葉と文字とカラダの連動」という部分でした。

人類の読書の歴史は、「音読」から「黙読」に変わってきたとのこと。人間が黙読できるようになったのは「おそらく十四世紀か十六世紀以降」だそうです。音読をしていたときには声に出すことによって、読書は身体性と関連していました。しかし、黙読によって読書は身体性と切り離され、かわりに「意識」が生まれた。マーシャル・マクルーハンの仮説を紹介されているのですが興味深い箇所でした。

それは、人類の歴史は音読を忘れて黙読するようになってから、脳のなかに「無意識」を発生させてしまったのではないかというんです。言葉と意識はそれまでは身体的につながっていたのに、それが分かれた。それは黙読するようになったからで、そのため言葉と身体のあいだのどこかに、今日の用語でいう無意識のような「変な意識」が介在するようになったというんです。かなり特異な仮説ですね。

特異とはいえ、ぼくには魅力的でした。同時に思い浮かべたのは、黒川伊保子さんの「日本語はなぜ美しいのか」という本に書かれていたことでした。ことばの発音体感というものは確かにあり、身体性とは切り離せません。「あさ」ということばのア行による爽やかさは、理屈なしに感じ取れる。科学者の視点から感覚を切り分けようとするけれど、本来、読むことも書くことも話すことも見ることも考えることも、ひとつのカタマリのような感覚として存在しているのではないか。

松岡正剛さんは、ひとは書くと同時に読んでいる、作家は自分のなかに読者を内包しているというような複合的なコミュニケーションについても解説されていますが、まさに村上春樹さんが柴田元幸さん責任編集の「モンキービジネス」の対談で同様のことを語っていました。「ゲームのプログラマーとプレイヤーを自分で同時にできる」ということからお話されています。以下、引用してみます(モンキービジネス P.65)。

自分が一人で将棋を指すのと同じで、こっち指しているときは向こうのことがわからないし、向こうを指してると、こっちのことを忘れちゃうんですよ。普通は忘れられないものじゃないですか、でも小説だと、それを意図的に忘れることができるんですよね。だから右の手でプログラムしながら、左手でそれを攻略するということが、小説をやっているときにはある程度できている気がします。日常生活ではまったくないんですけど、机に向かってものを書いているときにはそれができている。そうなると、自分で書いてて、自分で面白がっているという――ぼく自身が面白い小説を、ページ繰るのが待ちきれないような感じでぼくが書くという形ができあがるんですよね。

村上春樹さんの新刊「1Q84」は売り切れの書店が多いですね。ぼくは発売翌日に購入して、いま大事にゆっくりと読み進めています。

読書論からすこし離れてしまうかもしれないのですが、作家は自分の作品の第一の読者でもあるわけです。自分を省みると、ブログを書いているときにもぼくが読みたい記事を書いている。読むことと書くことは分離できないことなのかもしれません。

あれ読めこれ読め、そんなもん読んでちゃダメだろ、その読み方はいけない邪道だと、自分の価値観を押し付ける読書論もあるかもしれませんが、ホンモノの多読家であるセイゴウさんは、どんな読み方をしてもいいんだよ、と寛容です。けれども、こんな読み方もある、とさらりとまったく新鮮な読書法を言ってのける。さりげなく教えてくれた読書法に深い洞察と驚きがある。あらためて凄いひとだ・・・とおもいました。と、同時に何か安心できる本でもあります。5月24日読了。

投稿者: birdwing 日時: 11:06 | | トラックバック (0)

2009年5月21日

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「武士道」新渡戸稲造

▼book09-15:世界に誇ることができる強靭な日本の精神力。

4837917003武士道―サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか?
奈良本 辰也
三笠書房 1997-07

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先日、カイシャの同僚が北海道に出張に行きました。その彼から「新渡戸稲造のファンなんですよ。武士道を読んで感動しました。だから、北大に行って銅像をみて帰ります」という話を聞いて、かっちょいいなあ、その「武士道」って本を読んでみるか、と思い購入した本です。

偶然ですが、読み進めていて半分を過ぎたところで食傷気味になっていた村上陽一郎さんの「あらためて教養とは」という文庫にも、次のように「武士道」が引用されていました(P.21)。

明治期に新渡戸稲造が『武士道』という本を書きました。あの『武士道』という本はなぜ書かれたか。最初英語で書かれ、いま日本語版として岩波文庫で流通しているのは矢内原忠雄の翻訳だと思いますが(改版、岩波書店、2007年)、この本は、若い人たちにも、成人にも、読んでない方にはぜひ読んでほしいと思って、数年前に大学の授業でもテクストとして取り上げたことがあるのですが、このところ大変なブームになったのだそうですね。先だっても、書店のレジのそばに平積みになっていました。映画『ラスト サムライ』の影響だという説もあるようですが。

なんだ、ブームだったのか。でも、世のなかの大きな流れの契機となるものには、すくなからず何かひとのこころを打つものがあるはず。乗れるブームなら乗ってしまいましょう(過去だけれど)ということで岩波書店の本を探したのですが、なかなかみつかりませんでした。諦めかけていたところ、近所の書店でぽーんと置かれていたのが三笠書房版のこの本です。いずれ文庫になるのかもしれませんね。でも読みたかったので衝動で買ってしまった。

村上陽一郎さんも書かれていますが、新渡戸稲造さん(さんってなんだかくすぐったい)がこの本を書こうとした動機は、ベルギーの法学者ラブレー氏の家で歓待を受けたとき、散策をしながら会話が宗教をめぐる話題に及んで、次のような会話がされたそうです。それが武士道について考える契機になったそうです。

「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。
そのとき、私はその質問にがく然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことにようやく思いあたった。
この小著の直接の発端は、私の妻がどうしてこれこれの考え方が日本でいきわたっているのか、という質問をひんぱんにあびせたからである。

余談ですが、引用していてあらためて重要だと感じたのは、「私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ」という部分でした。

つまり、むかしは家庭の親たちも、しっかりと教育の一端を担っていた。というよりも、家庭の道徳教育が基盤となって、人間として恥ずかしくないように襟を正すようにして生きていくことができた。あるいは社会全体に、そうした規範が行き渡っていた。

いまはどうでしょう。ぼくもまた親のひとりとして反省することが多いのだけれど、教育は学校にまかせっきりのような気がします。そして家では、甘えたい子供たちに甘い菓子を与え、思う存分ゲームをやらせ、食事作法の基本さえ楽しく食べられればいいか・・・ということで手を抜いてしまいがちです。何度言ってもうちの息子たちはテーブルに肘をついて食べる。ぼくはものすごく怒られた気がするのだけれど。いかんなあ。

かつては両親はもちろん、じーちゃん、ばーちゃんも厳しく孫たちを教育しました。ごはん粒を残しただけで張り倒されることもあったはずです。いまは、じーちゃん、ばーちゃんが自分の楽しみのために、孫を玩具にしていることさえある。パンの耳は固いからイヤ、と言われたら、いいよいいよ残しなさい、と相好を崩して許してあげる。これはうちだけかもしれませんね。

ぼくが子供の頃には、近所のパン工場からサンドイッチを作るために切り落とした不要なパンの耳の部分だけ安く売ってもらって、揚げてもらったりして、おやつに食べたものだけれどなあ。

もちろんすべての大人たちがそうではないでしょう。また、ひたすら厳しく締め上げればいいものではない。けれども、どこか締めるべきところが緩みがちなことも多い。子供が親に依存するとともに、親も子離れできないのかもしれません。共依存関係にある甘えた絆が、長期的な視点からは子供たちにとっていいことなのかどうなのか。疑問ですね。

と、話は大きく逸れましたが、新渡戸稲造さんのすごいところは、27歳つまり十年前に質問されたラブレー氏の疑問を考え続け、教育「制度」として確立していなかった武士道に名をつけたことにあります。

そして、なぜなぜどーしてどーいうことなのっ!?という妻の問いに、あーうざいんだよお前は、どうでもいいじゃん、寝ろ!などと足蹴にせずに延々と対話を続けたのちに、37歳にして答えを用意したことです。しかも英文で書き上げ、世界に問うた。その結果、日本に武士道あり、という日本の評価を高めることになりました。おそるべし、その執念。

英語圏の文化を日本語に翻訳して伝えることも大事ですが、日本の伝統としてカタチになっていないものを文章化して世界に伝えた。その功績はすばらしい。できれば英語で読んでみたいですね、この書物は。

すこし難しいことを書いてしまうと、「暗黙知」を「形式知」に変えた、といえるかもしれません。もやもやーっとした知恵を文章化することによって、異文化の誰かも納得できるようにナレッジを体系化した。ひとむかし前に流行ったビジネス用語でいえば、日本の倫理観を「みえる化」したわけです。

しかも彼はニーチェやソクラテスなどの西洋の哲学者、孔子や孟子などの東洋の思想家、政治家、作家、詩人などあらゆるひとたちの言葉を織って、この本を構成していきます。この一冊から派生して知をひもとくことができるインデックスにもなっている。

日本は偉い、あるいは、西欧は凄い、という単眼的な思考であれば、この本はそれほど評価されなかったでしょう。西洋という「他者」の思考をきちんと理解したうえで、日本という「自己」の独自性を確立していく姿勢の公正さに打たれます。そして、英語で書かれたせいか、翻訳された日本語の文章を読んでいてもロジックの確かさに信頼感があります。曖昧に思考を誤魔化していない。

その武士道とは・・・うわー、余計なことを書きすぎて触れる余力がなくなってしまった(泣)。

ひとつ感じたことは、実際はともかく、武士は高飛車に存在していたわけではなかったということです。商人や農民などの支えがあり、金儲けや地を這うような生活から切り離された独自の特権階級であったからこそ、高貴な意識や文化を形成できた。しかし、その特権に甘んじていたわけではありません。いざとなれば「切腹」というカタチで責任を取る覚悟もありました。5歳の弟に切腹の作法を教えて腹を掻っ切ったふたりの兄の話には、涙が出ました。

かつての日本人は、たとえ世界に知られていなかったとしても、崇高な品格を保ち、世界に誇ることができる「武士道」という文化を有していました。それがいま・・・どうなのだろう。英語という言語の勢力にゆらゆら揺らいでマイノリティを恥じたり、失言に突っ込みを入れることだけにやっきになったり。ネットの界隈では、感情を垂れ流す無責任な匿名の文章に甘んじていて、凛とした姿勢の正しささえ失っているかのようにみえることもあります。

いいのかな。それが時代なのかな。時代は変わってしまったのかな。グローバル化の名のもとに日本は変わってしまうのかな。

この書物に書かれていたことは、いつかまた触れることがあるかもしれません。けれども触れるときには過去の遺物として、まったく時代にそぐわないものになっているような気がしてならないのです。5月17日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:55 | | トラックバック (0)