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2008年3月 8日

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「プロフェッショナルアイディア。」小沢正光

▼Book08-008:広告の思考、現場のノウハウ。

4844323679プロフェッショナルアイディア。欲しいときに、欲しい企画を生み出す方法。
小沢 正光
インプレスジャパン 2007-02-28

by G-Tools


アドマン(広告のクリエイター)が発想するときのバイブルとしてはジャック・フォスターやジェームズ・W・ヤングの本が古典的といえますが、「プロフェッショナルアイディア。」は博報堂執行役員エグゼクティブディレクターの小沢正光さんが長い現場で培ったノウハウをわかりやすく解説された、発想を仕事とする考えるひとのバイブルともいえる本です。日本版フォスターあるいはヤングという感じ。アイディア開発法について、さまざまな示唆を与えてもらうことができました。

さすがに広告の現場で活躍されてきた方の言葉だけあって、切れ味が鋭い。まず、各項目の見出しタイトルで唸らされます。たとえば、ぼくが注目したのは次のような言葉でした。

・プロのアイディアは思い付きではない。(P.4)
・コンスタントに結果を出す。(P.8)
・完全性より適時性。(P.44)
・「わかる」は「分ける」。(P.78)
・バックキャスティング。(P.104)
・律速要因。(P.160)
・進歩は階段状。(P.174)

ぼくはアイディアにおいてはキャッチコピーの重要性を感じています。一言で言うと・・・という部分で切れ味がなかったり、そうそう!わかるわかる!のような共感を生まないアイディアはいまひとつという気がする。延々と30分ぐらい説明しなければ理解できないコンセプトは、どこかひねくりすぎていて、実はたいしたことがない。すばらしいアイディアは一語に集約される気がします。その意味で、さすがプロフェッショナルだなあ、という印象を受けました。一語が研ぎ澄まされている。

上記のいくつかについて引用しつつ感想を書いてみることにします。まずプロフェッショナルの要諦としては、「プロのアイディアは思い付きではない」と「コンスタントに結果を出す」のふたつが重要だと思いました。

やはりぼくも仕事を通じてアイディアと企画は違うということを考えていたのですが、口頭ではいくらぽんぽんとアイディアを出せたとしても、営業的には強みになることがあったとしてもプランナーとしてはそれだけでは仕事になりません(というか、実現不可能な概念的なことや思いつきだけを口先で乱発する営業は信頼されないかもしれませんが・・・)。つまり、クライアントの要件をしっかりと吟味した上で、論理を構築していく地道な作業が必要になる。

また、感情や案件によって左右されるのではなく、常に結果を出せることは必須です。これは、企画にとどまらず経営者はもちろん、ミュージシャンでも同じだと思いますね。運よくヒットのアルバムを出せたとしても、一発屋で終わってしまうのでは実力がなかったということになる。プロゴルファーや野球の選手などもそうではないでしょうか。プロは何度同じことを挑戦しても、そのたびに同じ結果が出せるひとだと思います。一発でっかいヒットを飛ばすよりも、継続して長い期間に同じ結果を出すのがプロです。同じ結果を出すためには、才能はもちろん努力も必要になる。

とはいえ、結果を出す過程に多大な時間やコストが必要であれば、プロの仕事とはいえません。もちろん場合によってはあえて時間と費用を想定した以上に設定することもありますが、アーティストではないので、いつまでも納得ができるまで継続していたらビジネスにはならない。引用します(P.45)。

仕事の完璧さを優先すべきか、締め切りを優先すべきか。
とくにものづくりにかかわる人は、誰しもいちどはこの問題に頭を悩ませたことがあるに違いない。アイディア開発の場合は、どちらを優先すべきだろうか。
まちがいなく、締め切りだ。
アイディア開発には、ほかにも守るべき条件の優先順位がある。プライオリティの高いものから順に並べれば、「適時性」「先行性」「並行性」「完全性」だ。

ここで完全性よりも適時性を重視するということは、プロトタイピング(試作)などの方法論にもつながると思いました。不完全であったとしても、とりあえずデザインしてしまう。そしてβ版を試用させることによって、サービス自体の完成度をあげていく。

時間をかければよいものができるかというと、かければかけるほど泥沼に入り込むこともあります。組織全体においても、全体のスピードアップを図らなければ、スピードの遅いスタッフの速度に引き摺られてしまう。これが「律速要因」です。

化学反応がいくつかのステップをへて進行する場合、その反応速度はもっとも遅いステップのものに支配される。つまり、ひとつのステップの速度が遅ければ、ほかの反応速度がいくら速くても、すべてがその速度に支配されてしまうのである。
この場合、もっとも反応速度が遅いステップは、全体の反応速度を律速しているという。

小沢さんはアイディア開発の律速要因として、人的なものと作業効率的なもののふたつを挙げています。なかなか前者については難しいナーバスな問題を含むのではないでしょうか。速度を落としている要因の解明は、問題の追求と該当するスタッフの吊るし上げになりかねない。けれども、適材適所のような観点から、速度のあった部分に担当を配置するような視点を提示されていて、なるほどと思いました。

その他、バックキャスティングはいわゆる仮説思考、「わかる」は「分ける」ということはMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhausti:漏れもなく重複もない)というコンサルティングの思考法に通じるものを感じました。進歩は階段状であるということは、マクドナルドの原田泳幸さんの本にも書かれていたことであり、クリエイティブに関わらず、仕事哲学や人生哲学にも応用できる言葉です。

読んだときには失礼ですが、どこかで聞いたことがあるような視点ばかりだな、たいしたことないかなという感想を抱いていた本ですが、しばらくしてじわりじわりと効いてくる。ただ読者であるぼくのなかで、もう少し構造化・体系化ができればいいのですが未消化な印象もあり、もどかしく感じています。

投稿者: birdwing 日時: 12:10 | | トラックバック (0)

2008年3月 1日

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「地頭力を鍛える」細谷功

▼Book08-007:答えを出すチカラ。

4492555986地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」
細谷 功
東洋経済新報社 2007-12-07

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アタマのいいひとはどんな人間でしょうか。異論はあるかと思うのですが、一言で表現すると「答えを出せるひと」ではないか、とぼくは考えます。

どんな難問であっても瞬時に回答できること。思考の回転の速さも求められますが、相手や状況が求めていることを読み取る能力も必要かもしれません。また、瑣末なことに拘ると答えは出ないものです。したがって大雑把に割り切って、瑣末なあれこれを切り捨てる大胆な勇気も求められます。

この本でも引用されていましたが、エレベーターテストは思考力を問う試験として聞いたことがありました。ちなみにエレベーターテストとは、以下のようなものです。引用します(P.207)。

例えば読者がどこかのクライアントにプロジェクトマネージャーとして駐在し、社長が最終報告先であるプロジェクトを実施しているものとする。ある時偶然エレベーターホールの前で社長とばったり会って「プロジェクトの状況はどう?」と聞かれたとしよう。多忙な社長に説明できるのは、エレベーターに乗って降りるまでの三〇秒だけである。こうした場合にいかに簡潔かつ要領を得た説明ができるか?これがエレベーターテストである。

就活の面接でも求められるチカラかもしれないですね。全体を見渡した上で、いちばん説得力のある答えを瞬時にまとめる。音楽に喩えると即興演奏のチカラに近い。才能もあるかもしれないけれど、アドリブのセンスというのは場数を踏むことで培われることもあります。瞬時にその場の空気を読んで、しかも自分を主張できることが重要になります。

ぼくは優柔不断なので、「えーと、いま考え中です・・・」と結論を保留にしてしまうこともあるのですが(苦笑)、そんなときに「それならば・・・ですね(きっぱり)」と歯切れよく言い切ってしまうひとは素敵です。回答が適切であればあるほど、アタマがいいなあ、と尊敬します。

面白かったのは、このエレベーターテストになぞらえて、「流れ星はなぜ願いを叶えてくれるか」ということを解説されていた部分でした。

人生の「仮説」としての願いごとを「非常に短時間」「いつ現われるのかわからない」星の流れる時間に三回も唱えるためには、常に答えを整理し、準備しておかなければならない。だから、その星が流れる間に唱えることができた時点で、その願いはもう叶うはずのものになっている。星に願うことを「神様のエレベーターテスト」と表現しているのが気に入りました。以下を引用しておきます(P.209)。

もうおわかりであろう。この「神様のエレベーターテスト」に合格するためには、片時も忘れずに願いごとを単純に凝縮した状態で強く心に思い続けることが必要なのだ。一つのことをそこまで強く継続して思い続ければ、叶わぬ願いなどないはずがないというのがこの話のメッセージである。スポーツの世界でも、夢を叶えた人たちというのは「神様のエレベーターテスト」に合格した人ばかりなのだ。これには普段から「結論から」「全体から」「単純に」考えることを追求しておく必要がある。

まったく「地頭力」の内容の中核から外れたところばかりから引用しましたが(苦笑)、上記で触れられている「結論から」「全体から」「単純に」ということが地頭力を鍛えるための中核となる思考法です。そしてこのことについて、フェルミ推定というツールを紹介しながら解説されています。

フェルミ推定とは次のように定義されています(P.40)。

「東京都内に信号機は何基あるか?」「世界中にサッカーボールはいくつあるか?」といった把握することが難しく、ある意味荒唐無稽とも思える数量について何らかの推定ロジックによって短時間で概数を求める方法をフェルミ推定という。
「原子力の父」として知られるノーベル賞物理学者エンリコ・フェルミ(1901-1954)が、自身こうした物理量の推定に長けていたとともに教鞭を取ったシカゴ大学の講義で学生にこのような課題を与えたことから、彼の名前を取ってフェルミ推定と呼ばれる。

都内の信号機の数の出し方などの思考のフレームワークを取り上げて詳細に解説されているのですが、ぼくが重要だと感じたのは、いま手元にある情報からとりあえず答えを出すこと、だと思いました。

たいていそんな場面に置かれたとき、手元にある情報が正しいかどうか検証をはじめてしまうものです。そして、いつまでも確証が得られないと、永遠に答えがでないことになる。けれども求められているのは、アバウトでいいから答えを出すことだったりします。デジタル思考で1か0かを考えると、どんなに緻密に仕事をしたとしても答えの出ない仕事は0、つまり何もやっていなかったことに等しい。

と、同時にインターネットなどを使って手元の情報の精度を上げる技術を学べば、さらに正確かつ短い時間で答えを出すことが可能になります。コンピューターや他人に任せられる部分はどんどん任せてしまって、答えを出すことに集中すれば、情報化社会のなかで有能な人材として重宝されそうです。

「地頭力を鍛える」の「地頭力」は、ぼくは聞きなれない言葉だったのですが、人材採用やコンサルティングの業界では頻繁に使われる言葉だとか。

まず地頭力とは何か、ということから細谷功さんは定義されているのですが、知力について構造化して分析していく思考力にまず唸りました。悔しいので、そのあとの部分を読み進めながら「いや、これはこういう反論ができるのではないか」などとあえて揚げ足を取るような読み方をしていったのですが、最後まで読み進むとぼくが感じていた反論がすべて列記されている。まいりました。たぶん想定される反論を推測した上で考察されながら書き進めていかれたのでしょう。

読んでいる途中には、ひらめきが明滅しまくっていたのですが、読み終わったらすべて考えていたことがどこかへさーっと流れてしまった(苦笑)。引用してブログで語りたい部分が多すぎたせいもあるのですが、そんなわけで手付かずのまま1ヶ月半もの間この本の感想は置き去りにしてしまいました。気付いたときにめくって思考の栄養にしたいと思っています。1月26日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:32 | | トラックバック (0)

2008年2月15日

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「ことばに感じる女たち」黒川伊保子

▼Book08-006:言葉のサブリミナル・インプレッションと身体感覚。

4584392544ことばに感じる女たち (ワニ文庫)
黒川 伊保子
ベストセラーズ 2007-12-18

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タイトルはいかがなものでしょう(苦笑)。ちょっと恥ずかしいものがありますね。インパクトのある表紙に惹かれて書店で手にとってしまい、「あっこれ黒川伊保子さんの本じゃないですか」と後付けで作者に気付きました。ところが欲しいと思ったのだけれどタイトルに圧倒されて躊躇。結局、別の本で隠してレジに持っていくことに(照)。個人的には"レジに持っていきにくい本ランキング"の第2位です(ちなみに第1位はアダム徳永さんの「スローセックス」)。

黒川伊保子さんはAIの研究者であり、言葉のクオリアなど語感のサブリミナル・インプレッション(ことばの音が持つ、潜在的な印象)を追究されています。「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」「恋愛脳」の二冊を読んで、ぼくは黒川さんのファンになりました。さすがに言葉および「情」の研究家だけあって、言葉に対する感度が高い。そして思考がやわらかい。

ところで、魅力的な言葉について考えてみると、内容はもちろん内容以外の効果も十分にあることに気付きます。たとえば視覚的な効果。デザインの発想かもしれませんが、活字に組んだとき字面がきれいな言葉がある。あるいは音。詩の朗読や歌では、音のなめらかさや声を出すときの気持ちよさが印象的なことも多いですね。

そもそも文章を読むという行為は、脳内に生じる内なる音として言葉を「聴く」ことかもしれません。五感とまではいかないかと思いますが、感覚を総動員してぼくらは言葉を感じ取っているのかもしれない。

と、ここまでは自分なりに考えていたことなのですが、この本の第1章の「ことばは音であって音ではない」の冒頭を読んで衝撃を受けました。目を閉じてイライラした状況を思い浮かべたとき浮かんでくる仕草は何でしょう、と黒川さんは問われています。「チッ」という舌打ちをぼくも思い浮かべたのですが、この舌打ちが何であるかについて、次のように解説されています(P.17)。

舌打ちを物理的に考えてみるとわかるはずです。
舌打ちとは、舌で前歯の裏を「打つ」という行為、そして唾液を「弾く」という行為を、一瞬にして行う作業のことなのです。
そう、舌打ちの真の目的とは、チッという「音」ではありません。
むしろ「打つ」だの「弾く」だのといった、プリミティブな身体制動の結果として、あの音が出ていることになります。
手足を痛めることもなく、誰かを怪我させたり、物を壊したりすることもなく、しかも一瞬にしてストレスを発散させられる行為。
こうやって考えてみると、舌打ちが魔法のようなストレス発散法であることが理解できるでしょう。

発話自体が「発声時の身体感覚」をともなっているわけです。当然といえば当然なのだけれど、舌打ちが身体的にもストレスを解消する行為になっているとは思いもつきませんでした。

つまり舌打ちは、言葉であると同時に、モノを蹴っ飛ばしたり殴ったりする行為と同じなんですね。しかも蹴っ飛ばすモノがなくてもできる(自分の口内を舌で蹴っ飛ばす)のでお手軽です。ただ、黒川さんも指摘されているように、聞いているひとに不快感を与えるので注意です。

「語感」は脳内の快感や不快感につながるだけでなく、身体感覚を伴っている。この発想が新鮮です。言葉でイライラを解消したり、気持ちよくなったりできる。この部分は「あとがき」に書かれた次の部分とつながります(P.204)。

街で、あえて美しくない語感のことばを連発する女の子を見かけると、なんだか、彼女を抱きしめたくなります。彼女は、その語感でしか解消できないストレスを抱えています。あ~、この子の脳、苦しいんだ、と思って、せつなくなるのです。けどまぁ、吐き出すような音を好んで並べる女の子たちは、同情や抱擁が何よりキライですからね、実際には手は出しません。
このところ「日本語の乱れ」を嘆く大人によく出会います。でもね、美しくないことばを使う女の子を責めても始まりません。だって、その言葉が彼女を救っているんですもの。

この発想には、黒川さんのやさしさを感じました。ぼくは言葉遣いが悪いひとたちをそんな視点でみたことはなかったなあ。

言葉は時代によって変わっていきます。もし日本語が乱れているのであれば、乱れを誘発するプレッシャーやストレスがあるわけで、その解決がなければ根本的な解決にならない。

大人たちは、日本語の乱れを嘆く前に、若い女の子たちの脳ストレスに同情すべきだと思うのです。「日本語の乱れ」を何かしたいのなら、その語感で解消するしかないストレスのほうにこそ目を向けるべきです。

痛感しますね。問題解決(ソリューション)は表面だけみていてもダメで、根っこから取り組まなければいけない。日本語の乱れを憂うことは大事だけれど、若者たちの言葉を抑圧した場合、その語感によって解消されていたストレスは他に向かうことになるのかもしれません。女性らしい言葉を使いなさいといっても、厳しい社会に生きているのだからストレスも溜まる。

映画「バベル」で菊池凛子さんが演じるチエコをちょっとイメージしました。彼女が演じるチエコの場合には、言葉を聞けない/話せない障害もあるので、さらに辛い。

ちなみに映画「バベル」は言葉の物語でもあります。Wikipediaから次を引用しておきます。

原題のバベルとは『旧約聖書』の「創世記第11章」にある町の名。町の人々は天まで届くバベルの塔を建てようとしたが神はそれを快く思わず、人々に別々の言葉を話させるようにした。その結果人々は統制がとれずばらばらになり、全世界に散っていった。映画ではこれを背景として、「言葉が通じない」「心が通じない」世界における人間をストーリーの行間から浮き上がらせていく。

同じ日本語を喋っているのに通じない。心がみえない。せつないですね。ただ語感の研究も含めて、みえない/わからない/聴こえない何かを解明しようとする試みは、非常に大切なことであると感じました。それが人間を進化させそうな気もする。

ストレスの根源となっている社会の歪みを変えることができれば、自然と言葉は美しくなるものかもしれません。「美しい国、日本」などというマニフェストもありましたが、社会の美しさを何で測るかというと、流通する言葉が美しくなったとき、その社会は成熟した美しいものなのではないでしょうか。もちろんその一方で、隠語のようなものをベースとしてラップが生まれるようなアンダーグラウンドな文化もありますけどね。

ちょっと大きな話になってしまいました。話を戻します。

感情を癒す言葉が何かというと、さすがにAIと語感の研究家である黒川さんだけあって、詳細に語られています。男性・女性別に好まれる語感を年代順に解説されていて、ひとつひとつが興味深い。詳しく検証していくと長くなるので、ざっくりと要点を整理してみます。年代と性別による好む語感です。

▼12~30歳の女性
好む語感
・口内で風を起こすS音、SH音の爽やかさ。 例)シュンスケ
・滞りを解消するブレイクスルー系の清音(K、T、P) 例)キティ
嫌いな語感
・喉壁や下を振動させる濁音(B、G、D、Z)
初潮を迎え、エストロゲン(卵胞ホルモン)過多な女性は「かったるく、おっくうな」身体意識を抱えているため、それを解消する音が好まれる。

▼12~25歳の男性
好む語感
・ブレイクスルー系の溜めて出す音(B、G、D、Z) 例)ガンダム、ゴジラ、ガメラ
男性ホルモンであるテストステロンが分泌される時期。精子をつくったり陰茎を勃起させるなどの性的な能力にも深く関係があり、出世欲、支配力、暴力性などにもこのホルモンが関与するとされる。

▼30~45歳の女性:マジョリティ層
好む語感
・鼻腔内で響かせて出す鼻音系(M、N)
・Y音、J音、D音
女性ホルモンが最も潤滑に分泌される時期で、丸く、やわらかく、満ち足りた感覚に素直に惹かれていく。

▼30~45歳の女性:セレクティブ層
好む語感
・若い女性と同じS、SH、K、T音。
・対象をがっちりつかむG音
子供を持たず男性社会の中で仕事に追われている女性は、なかなかホルモンバランスが安定しない。睡眠・覚醒の生活リズムを作るメラトニンの分泌バランスが崩れる。

▼30~45歳の男性
好む語感
・ブレイクスルー系の清音(K、T、P)
・癒し系のN音。M音は微妙(家庭がストレスの場合、ママの音は微妙)
社会的なストレスが最高潮に達している年代なので、20代よりも強い刺激は求めない。

▼45~65歳の男女
好む語感
・風の音であるS、SH音
・滞った感じを打破してくれるブレイクスルー系のT音
・しっとりしたN音、M音、H音(男性)
・どっしりとしたD音(男性)
・ふっくらと膨張するW音(男性)
・摩擦を感じさせるJ音(男性)
嫌いな語感
・ドライなK音(肌に潤いがなくなってきているので)
・スピード感のあるS音、T音

面白かったのが、なぜぺ・ヨン・ジュンがおばさまに好まれるか、という考察。彼の名前自体が「二度も抱きしめる」名前であるとか。ヨンについては次のように分析されています(P.157)。

まず、「ヨン」ということばは、優しい抱擁の体感をつれてきます。
Yは、口腔全体をやわらかく使って出す、和らぎの子音です。先頭子音で口腔内を和らげたそのYの後に、包み込む大きな空間を想起させる母音O、そして舌を上あご全体にやわらかく押し付けるN音「ン」が続きます。つまり、「ヨンさま」と呼ぶと、自分の口が知らないうちに「大切なものをやわらかく受け入れ、抱きしめる」物理現象をつくっているわけです。

そ、そうなのか。つづいてジュンについて(P.160)。

Jは、舌を膨らまし、その舌にこもるような振動で出す子音です。舌が口腔内いっぱいになる感じがするので、ベースとして肉体的な親密感があるのです。中でもJuの発生に伴う物理効果は、唾液を集めて舌の中心に持ってきます。これに舌を上あごにやわらかく押し付けるンが続くと、まさに「しっとり濡れたやわ肌が密着する」のです。

・・・なるほど。つまりこういうことらしいのです。

それにしても、ヨンジュンという名前はすごい。「ヨン」は服を着た抱擁だけど、「ジュン」は濡れた素肌の抱擁です。一回名前を呼ぶだけで、二度抱きしめられる。あるいは、もっと直接的な「包み込んで、濡れて、密着する」行為につながる人もいるかもしれません。

なんだかエッチですね(照)。ただ、おばさんにはこの濃厚な名前自体がうけるのだけれど、ホルモンのバランスが悪く滞った感じを抱えて暮らしている若い女性には、その語感からして、しつこく、うっとうしいものらしい。それにしても、ブームや時代のトレンドを語感から分析している手法がすごい。名前を付けるときには気をつけなきゃ、と思いました。というか、既にふたりの子供がいるぼくには遅すぎなんですけど。

さて、男性もこの本は読むべきではないかと思っています。

女性の心理を理解する上では黒川伊保子さんの本に学ぶことが多いと思います。たとえば恋愛の場面で明日からでもすぐに使えるTIPS(技)は次です。これはメモしておくといいと思います(P.152)。

あいたかった、あえてよかった、ありがとう、あとで○○しようね、あしたね、いいね、うん、おはよう・・・・・・彼女との心の距離を縮めたかったら、母音はじまりの言葉を上手に使いましょう。

うーむ。これは男性のぼくとしても、言われたらかなり嬉しい言葉の数々ではないか、と。あいしてる、も母音ですね。いっしょにいたいね、うれしいよ、なども母音。あいうえおで語れば彼女とうまくいくのかもしれない、という仮説です。ただ、このこともしっかり裏付けされています(P.151)。

母音は、声帯の振動だけで出す音声です。
子音のように、息を遮って破裂させたり、息を擦ったり、舌を弾いたり、そんな効果を一切加えずに出す、ありのままの音が母音です。このため、母音を聴くと、その人の素に触れたような気がして、あったかくなります。自分が母音を発音すると、リラックスして、ずっとそうしていたくなるのです。

恐るべし母音。

一方、黒川さん的に「日本語の使い方が上手」な男性は、政治学者の姜尚中さんだそうです。「情」を研究する女性の視点から、「理」で俯瞰する彼の言葉の使い方を褒め称えています。ちょっと妬ける(笑)。というのは、かなり熱烈に絶賛されているので。

姜尚中さんの言葉の何が美しいか、ということも分析されていて、「てにをは」の歯切れのよさと指摘されています。「あなたはぁこのことをぉどうとらえているんですかぁ」のように間伸びさせて喋るひとがいますが、頭よさそうにはみえない。「てにをは」の切れ味がいいのは「話す言葉をあらかじめ構造化しているから」と述べられているのですが、確かにそうだと思いました。以下は、男性が仕事で明日から使えるTIPS(技)です。これもメモ。

感情に流されやすい人、なぜか部下から尊敬されない人は、切れのよい、クールな「てにをは」を心がけるようにしましょう。やがて、ごく自然に、自らの発言が考えの垂れ流しではなく、考えを「部品(語句)の構成で完成する全体」と見立てて発言するようになります。

プライベートでは「あいうえお」で愛を語り、仕事のミーティングでは切れ味のいい「てにをは」で発言。

言葉を変えただけでは仕方ないのかもしれませんが、言葉を変えることによって思考と身体感覚に変化を与え、自分を変えることもできそうな気がしています。ちょっとした言葉の使い方の変化で、かっこいい男になれるのではないでしょうか。頑張りますか。

投稿者: birdwing 日時: 23:46 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年2月 2日

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「春、バーニーズで」吉田修一

▼Book08-005:日常のなかに潜む、ささやかな非日常。

4167665042春、バーニーズで (文春文庫 よ 19-4)
吉田 修一
文藝春秋 2007-12-06

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まずは自分のささやかなエピソードから。携帯電話でインターネット接続サービスがはじまったばかりの頃、間違いメールがぼくの携帯電話に届いたことがありました。OLと思われる送り主からのメールは、待ち合わせに関する伝言でした。遅れるとか、時間の確認とか、そんな内容だったように記憶しています。

どうしよう、ほっとけばいいか、と思ったのですが、せっかく待ち合わせの場所にやってきたぼくのアドレスに似た誰か(彼氏?)がすれ違ったらかわいそうだと思い、送り主に「アドレス間違っていませんか、このメールは届いていませんよ」と返信してあげました。ありがとうございます、のようなメールが返ってきたような気がします。

その後しばらくして、こちらでは雪が降っていますよ、のようなメールが届いた。こっちはあまり降らないですね、寒いけれど、のような返信をしたような覚えがある。このやりとりから何か始まればまるでドラマですが、2~3回短い言葉をやりとりしたあとで自然に消滅しました。

そもそもぼくは携帯電話のメールが苦手です。まめでもないし。とはいっても、正直なところ、ちょっと妄想はしました。どこか遠い雪の降る街から見ず知らずのぼくにメールをくれたひとは、どんなひとだろう。もし、この会話の延長線上で親しくなって会ってしまったら、どうだったのだろうか、と。

吉田修一さんの「春、バーニーズで」は5つの短編とモノクロの写真から成る小説集です。バツイチかつ子持ちの女性と結婚した主人公の筒井を中心に、その内面とあやうい日常が緻密に描かれていく。決して何かが起こるわけではありません。けれども何かが"起こりそうな"ざわざわとした気持ちを読後に残してくれます。

「パパが電車をおりるころ」という短編のなかでは、筒井は息子とマクドナルドに入ります。ハンバーガーを食べているとき、隣りに座った女性と何気ない話を交わすのですが、息子が携帯電話を使って絵文字を送りたい、とむじゃきに言ったことを発端として彼女とメールを交換してしまう。

そんな物語の一場面を読んでいて思い出したのが、冒頭に書いた間違いメールの記憶でした(前置き長すぎ。苦笑)。感想にもなっていない個人的なエピソードを延々と書くのもどうかと思ったのですが、忘れていた記憶をこの物語が掘り起こしてくれたので書いてみました。

もちろん吉田修一さんの書いた物語とは整合性がないけれど、個人的な記憶が同期したこともあって、この本の読後に懐かしくも切ない気持ちになりました。これが小説のうまいところではないでしょうか。追体験するわけではなくても、生活のなかで直面するいくつかの感情を、この短編群はうまく代弁しているような気がします。

「パパが電車をおりるころ」の物語は、通勤電車のなかでさまざまな回想をする場面で終わっています。筒井の携帯電話のなかには彼女のアドレスが残っている。そのままにしておけば、新しいメールに押し流されて、そのアドレスは消えてしまう。衝撃的な出会いでもなく、日常に埋もれて消えてしまうちっぽけなエピソードです。その後どうなったのかは語られません。すべてを語らずに、起こりそうで何も起こらない日常のなかの非日常を提示したまま短編は終わっている。

押し流されてしまうメールアドレスは、まさに日常そのもの、日常のメタファなのかもしれません。そして、押し流されてしまうかもしれないけれど、ふとした瞬間に人生を分かつ運命的な分岐点にもなる。

出勤時にクルマを運転しながら、衝動的にハンドルを左に切って日光へ向かってしまう「パーキングエリア」という作品では、ほんの気まぐれから筒井は別の日常に入り込んでしまいます。高速道路を疾走しながら失踪する気持ち、なんとなくわかるなあ・・・。非日常的な何かは日常のなかに潜んでいて、ありふれた日常のなかで、ふっと力が抜けたときに表面化するものです。失踪するぞ、と意気込んで失踪することはないような気がします。でも、何気なくハンドルを左に切ってしまうんだよね。

息子を預けて知人の結婚式に出席した後、ホテルで酔っ払った妻と嘘を付き合う遊びをはじめる「夫婦の悪戯」も、淡いぎりぎり感がありました。お互いに嘘を付き合って「強い衝撃を与えたほうが勝ち」というゲームに興じるのですが、妻は、若い頃に一度おじさんにカラダを売ったことがある、という話をします。筒井はといえば、オカマバーのママと同棲して食わせてもらっていた、ということを語ります。

実は嘘を付くという前提のもとに、ふたりとも本当の秘密を話してしまっているのですが(筒井に関しては事実で、妻の話は事実かどうかわからない。でも物語内において事実であるという確信がある)、ゲームは引き分け、ということでそれ以上詮索はしない。あやういバランスのもとに非日常という脇道に逸れずに済むわけですが、とても危なっかしい。

ぼくは吉田修一さんの小説では「最後の息子」「熱帯魚」「パークライフ」と読んでいて、「パークライフ」の冷たい二面性のようなものに打たれつつも辛いものを感じて遠ざかっていたのですが、この「春、バーニーズで」は冷たい日常に潜む非日常を感じさせながら、ぼんやりとしたあったかさも感じさせる小説でした。1月26日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:05 | | トラックバック (0)

2008年2月 1日

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「倚りかからず」茨木のり子

▼Book08-004:凛とした強がり、そして女性らしいかわいらしさ。

4480423230倚りかからず (ちくま文庫 い 32-2)
茨木 のり子
筑摩書房 2007-04

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女性らしさとは何だろう、と考えたのですが、ぼくは「強さ」なのではないかな、と思いました。繊細さや優しさという視点もあるだろうけれど、男性にとって逞しさがあまりにもステレオタイプな観点であるのと同様に、女性らしさをあまりにも世間に氾濫している枠組みで捉えるのはどうか、と。また、子育てしている女性をみると、ほんとに強い(笑)。想像を絶する痛みを経験したということもあるかもしれませんが、この強さの前には男性はかなわないのではないでしょうか。

一方で女性の詩人や作家の言葉には、男性のぼくにはとうてい書けない感覚的な特質があり、そんなところに癒されたり惹かれたり、感心したりしています。男性作家の書くものも面白いのだけれど、論理的に説得される面白さです。一方で、女性作家の面白さは理解不能なところにあると思います。その言語感覚は真似しようにも真似できない。ちょっと悔しいんですけどね。

茨木のり子さんの詩集は「自分の感受性ぐらい」「歳月」を読んで、これが確か3冊目だと記憶しています。率直な感想を言ってしまうと、以前読んだ2冊に比べると、いまひとつ。詩の力が弱い気がします。どちらかというと論理的な側面が強調されていて、ほんわりとした感覚になれない。社会的な内容が多いせいかもしれません。

ただ、その背筋の伸びた感じというか、貴婦人というか、それでいてあんまり頑張ってもいない力の抜け方がいい。やはり本のタイトルにもなっている「倚りかからず」に、その感覚は凝縮されているような気がします(P.62)。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

思想/宗教/学問/権威とカタチのないものに依存することを拒絶して、最後には「椅子の背もたれ」に「倚りかかる」という身体感覚に落とし込む。このロジカルな流れを全部無にしてしまう身体への飛躍が、ぼくには非常に女性的な発想であると感じました。

つまり遠い思想や社会的なところから、急に生活レベルの視点にズームアップする。得体の知れない抽象的な世界から、ふいに台所の椅子という具体的な現実に焦点が合うわけです。そもそも考えてみると、思想/宗教/学問/権威に「倚りかかる」という表現自体が比喩的なわけで、どこか無理がある。「倚りかかる」のは椅子の背もたれだけでいい、というのはシンプルでありながら、ぐちゃぐちゃとさまざまなものに依存したり誤魔化したりしている現代の人々を痛烈に批判しています。

この清々しさが、茨木のり子さんの詩のよいところかもしれませんね。それは喩えると、「母親の叱責」のようなものかもしれません。何やってんのよ、しっかりしなさい、という。ぴしりと叱責しながら、どこか微笑んでいたりする。「自分の感受性ぐらい」という詩集の読後にも思ったのですが、そんなあたたかな眼差しを感じます。

と、あたたかさや女性らしいかわいらしさを感じるのは、ひらがなの使い方にもあるかもしれません。「じぶん」が漢字であるかひらがなであるかという違いだけで、この詩の重さは随分変わってくる。「鶴」という詩の最後の部分も同様に感じました。引用します(P.19)。

わたしのなかにわずかに残る
澄んだものが
はげしく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむれば
まなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき

しなやかですね。でも、言葉の輝きが感じられる。論理的な思考を強化することも大切ですが、美しい言葉に触れることができる感受性も大事です。ちょっと恥ずかしいものもあるのですが、ときには詩集も紐解きたい。そんな心の余裕を持っていたいものです。1月16日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:29 | | トラックバック (0)