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2007年5月 4日

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「欲望解剖」茂木健一郎、田中洋、電通ニューロマーケティング研究会

▼book07-014:マーケティングを脳科学と哲学で解剖する試み。

4344012631欲望解剖
電通ニューロマーケティング研究会
幻冬舎 2006-12

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人間の消費行動のメカニズムなどを心理学などによって解明する試みは従来からありましたが、この本ではさらに突っ込んで脳科学や哲学などから市場のメカニズムの解釈を試みられています。

そもそも「解剖」という言葉自体が、医学の用語です。「欲望」という意識を対象とする言葉ではありません。フィジカルなものを腑分けしようとする言葉なのですが、それがカタチのない欲望を解剖するとして使われていて、ジャンルを横断する発想が面白い。たぶんレオナルド・ダ・ヴィンチ的な発想もあるのでしょうね。ダビンチは画家であると同時に、科学者としても人体の解剖図などを描いていたので。

あればいいなあ、と思っていた本だけに、以前から気になっていました。しかしながら逆に仕事に近いということもあって、いまひとつ手にとることができなかった印象です。やはり脳科学や哲学は純粋に読書として楽しみたいという気持ちがあるからかもしれません。仕事系の本はどうしても実践のための勉強として読むようになってしまうので、なんとなく手放しで楽しめないものがあります。

脳科学者である茂木健一郎さんとマーケッターである田中洋さんは、それぞれ専門の知識から、非常にわかりやすく欲望について解説されていて、あっという間に読むことができました(その割にはレビューに時間が経ってしまいましたが・・・)。それぞれの解説があり、最後は対談というセッションで終わるという本の構成も楽しめます。できればリアルでこんな講演があったらうれしいですね。講演×2+パネルディスカッションのような。

茂木健一郎さんの解説では、従来から述べられている茂木さん的なキーワードが網羅されていて、まとめ本としてありがたいと思いました。茂木さんのキーワードを再確認する意味でも参考になります。さまざまな視点を提示されているのですが、ぼくが特に面白いと思ったのは夢の効用について書かれていた部分でした。

「夢の中で記憶の編集が行われる」として、現実の時空間におけるつながりを一旦ほぐして、再構成するのが夢である、と解説されています。つまりインプットされていても、つながっていない情報があって、それが夢という時間を経由することによって新たな文脈でつながる。意識化では分断されていたものが、夢のなかで統合されるわけです。

ネットワーク構造についても述べられているのですが、意味や欲望はネットワーク構造とは無関係につながる、という部分は、なるほどと思いました。効果的なマーケティングとは、ひょっとすると逆説的に、仕掛けてはいけないのかもしれません。さまざまな可能性を提示するだけにとどめておいて、あとは偶有性のつながり(セレンディピティ)に期待する。SNSなども、意図しないところで盛り上がったりするものです。

通常、マーケティングというとAIDMAの最後のAction(行動)が重視されるのですが、Actionのためのトリガーをあえて仕掛けない。消費者の選択に任せるようなマーケティングが、特にネットのブログやSNSを活用したマーケティングでは重要になるのではないか。そんな風に考えました。

一方で、田中洋さんの解説でまずびっくりしたのは、ちょうど読んでいたドゥルーズ+ガタリの「アンチ・オイディプス」が出てきたこと。引用してあるからこの本を選んだわけではないのですが、関心があったときだけにタイムリーでした(びっくりした)。さっぱりわからずに遅々として読み終われない「アンチ・オイディプス」ですが、田中さんが「器官なき身体」などをさらりと解説されるとわかったような気分になる。

田中さんのキーワードで最も注目したのが「ポスト・カルテジアン消費」です。まず次の部分を引用してみます(P.84)。


つい最近、カナダ・ヨーク大学のマーカス・ギースラー助教授が非常に面白いことを話していました。iPodはウォークマンとは根本的に違う、革命的な商品なのだというのです。ギースラー助教授の言うことに従えば、iPodの使用においては自分の身体とiPodの機能とが一体化する、というわけです。この見方にはなにか新しい考えがヒントとして含まれているように思われます。

これは「自分の身体と情報が結合された状態」だそうです。そして次のようにつづきます。

カルテジアンとはデカルト、人間の心と身体は別だという二元論を唱えた哲学者と、その理論の謂いですが、「ポスト・カルテジアン」という言葉は、二元論の止揚された形という意味です。これまで我々は機械を「使う」とか、情報機器を「操作する」という認識を持っていたわけですが、これからは情報消費をベースとして、モノ(機械)と自分自身=アイデンティティとが一体になるような状況が生まれてくる。これは我々にとってヒントとなる考え方ではないかと思うのです。

この考えに共感します。精神か肉体か、感情か理論か、というような二元論で展開される何かというよりも、理論的でありかつ直感に訴えるものであるとか、肉体のなかに精神を見出すとか、企業内にいながらフリーエージェント的に働くとか、対立項を選択するのではなく、複雑な絡み合った多様な世界を多様なままに考える重要性を感じています。二元論の止揚といっていいのかどうかわからないのですが。

したがって機器や情報に身体性を見出すのも面白い視点だと思いました。考えてみると、携帯電話なども自己の身体の延長という印象があります。だからこそカスタマイズ(着せ替えにしたり、メニューを変更したり、ストラップに凝ったりする)わけで。

ぼく自身が、文体=身体というコンセプトをずっと考えつづけていたのですが、テキストの文体はネットではさまざまな情報としてとらえることもでき、そのテキストの身体性によってぼくらはブロゴスフィアに存在している。たとえ文章にすぎないといっても、そこで語られることは脳内だけではなくて、ときには身体を激しく揺さぶるものです。

距離を置いて安全な場所から書いている場合には、テキスト/自己という分断された状態にあるのだけれど、のめり込むとテキスト=自己という仮想的な一体感のようなものが生まれる。だからブログを批判されると精神だけでなく身体的なダメージも受ける。逆に好意的なコメントをいただくと、好意に近い感情が生まれることもあり、リアルな身体を健やかにしてくれることもあります。

ただし仮想をリアルに接近させすぎることは危険でもあり、分身としての身体があったとしても、どこかで仮想とリアルを切断する必要があります。個人的な感覚でいうと、ハイパーグラフィア(書きたがる病)的に中毒な状態になると、かなり切断が難しくなると思いますね。情報との一体感はよいことももたらすけれども、悪影響もある。その悪影響については、ぼくもきちんと考えていきたいと思っています。

と、長文で論考しつつ何かいまひとつ核心に踏み込めていない気がするのですが、夢の効用と同様に、ここで感じたこと少し寝かせておくと、またいつか知らないうちに言葉と言葉がつながって新しい意味を生成するようになるかもしれません。4月18日読了。

※年間本50冊プロジェクト(14/50冊)

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2007年3月31日

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「歳月」茨木のり子

▼book07‐011:身体を失っても持続する愛情のかたち。

詩集を買うのは、貧乏な読書家にとっては、このうえない贅沢ではないでしょうか。というのはまず物理的に考えて、詩集には活字が少ない。活字が少ないのに本自体は値段が高い。コスト・パー・ワードのようなものを考えてしまうと、ものすごくコストが高いわけで、びっしりと文字で埋め尽くされた古典の文庫を買ったほうがよい。楽しめる時間が長いし、内容も濃い。

そんなわけで効率を追求するビジネスマンは、ふつうは詩集なんて買いません。そんなものを読むぐらいだったら、ジムで身体を鍛えたり健康管理に費やしたほうがよほどいい。

けれどもぼくは最近、プライベートでは効率的ではないものを追求しようと思っているので、ちょっとだけ贅沢な自分の時間のために茨木のり子さんの「歳月」を購入しました。

「歳月」は、茨木のり子さんが夫の死後に夫を慕いつつ書いた詩篇を、彼女の死後にまとめたものとのこと。トビラに夫婦の写真が掲載されているのですが、医師であったという旦那さんはかっこいいですね。きりっとしていて、大人の雰囲気です。寄り添う茨木さんも微笑ましいものがあり、仲の良いご夫婦であるという雰囲気がモノクロの写真からも感じられました。

詩人のみずみずしい文章は、細かな雨のようにぼくらの乾いた(というか、乾いてるのはぼくだけかー)心に染み込みます。女性らしい愛情が溢れています。官能的でもあり、その解説は難しいのですが、あえて挑戦してみましょうか。たとえば「夢」。以下、全文を引用します(P.14 )。

ふわりとした重み
からだのあちらこちらに
刻されるあなたのしるし
ゆっくりと
新婚の日々よりも焦らずに
おだかやに
執拗に
わたくしの全身を浸してくる
この世ならぬ充足感
のびのびとからだをひらいて
受け入れて
じぶんの声にふと目覚める

隣のべッドはからっぽなのに
あなたの気配はあまねく満ちて
音楽のようなものさえ鳴りいだす
余韻
夢ともうつつともしれず
からだに残ったものは
哀しいまでの清らかさ

やおら身を起こし
数えれば 四十九日が明日という夜
あなたらしい挨拶でした
千万の思いをこめて
無言で
どうして受けとめずにいられましょう
愛されていることを
これが別れなのか
始まりなのかも
わからずに

四十九日の前夜、「わたくし」は夢のなかで夫に抱かれます。そのおだやかなやさしい愛撫に「からだをひらいて」夫を受け入れようとする。けれどもそのときに思わず洩らした自分の悦びの声で、目が覚めてしまう。現実に引き戻されると、そこに夫はいない。しかし肉体の存在はないのだけれど、そこにいない「あなた」の気配で「わたくし」は満たされている。

言葉で織り成される世界はひそやかなのだけれど、そこには一種の閉塞感がある。女性にとっての官能とは、この窒息するような閉塞感ではないでしょうか。男性にとっては違う。男性の官能とは、衝動的に愛するひとを貫きたい、奪いたいというような攻撃的な欲望だと思う。

それは受け止める/満たされる女性の身体と、貫く/放出する男性の身体という、身体的な機能の差異から生まれる官能の違いかもしれません。身体の違いは必然的に思考にも、言葉にも表れます。その違いを認識すること、理解できないとしても理解しようとするときに解釈の力が生まれる。

生きている身体は精神とともにあるのですが、身体が失われると精神だけが残る。これは言葉と実体の対比にも重ねられるかもしれません。実体が失われても記号としての言葉が永遠に残るように、身体が失われたあとの精神も、言葉として刻めば永遠に残る。何気ない夫の記憶の断片から生活のなかの大切な言葉を浮き彫りにしつつ、しかも湿度が高くて重たい具体的な現実から切り離して、さらりと書いてしまう詩人の感性が素晴らしい。

肉体を失っても永遠に持続する愛が、この詩集のなかには書き連ねられています。時空を超えたこの感覚および綴られたしとやかな言葉は、男性には決して書けないものではないか。

「肉体を失って/あなたは一層 あなたになった/純粋の原酒になって/一層私を酔わしめる//恋に肉体は不要なのかもしれない/けれどいま 恋いわたるこのなつかしさは/肉体を通してしか/ついに得られなかったもの」という「恋唄」、「姿がかき消えたら/それで終り ピリオド!/とひとびとは思っているらしい/ああおかしい なんという鈍さ//みんなには見えないらしいのです/わたくしのかたわらに あなたがいて/前よりも 烈しく/占領されてしまっているのが」という「占領」など、その言葉はしなやかではあるけれども、強い。

死んでしまったら何も感じないでしょう(死んだことがないからわからないのですが)。肉体が消滅しても想いは残るかもしれない、という幻想はあるけれど、現実にはきっとそんなことはありません。死んでしまえば、おしまいです。しかし、現実にはありえないことだからこそ、詩人の言葉はぼくらに響くのではないか。男性であるならば、「歳月」に書かれた言葉のように一途に想われてみたいものですね。

言葉にすることは永遠に想いを結晶化して残すことかもしれません。茨木さんが亡くなった後、甥である宮崎治さんが遺稿を整理していると、この詩集のために作品はきれいに原稿整理されて「Y(夫である安信さんのイニシャル)」の箱に入れられていたとのこと。

ひそやかに書きとめられた詩人の言葉。生前には出版をためらった文芸でありながらプライベートかつ誠実な想い。この詩集は、泣けます。3月25日読了。

※年間本100冊プロジェクト(11/50冊)

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「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」茂木健一郎

▼book012:天才もひとりの人間、でこぼこな人生を容認すること。

4022599189天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣 (朝日選書 818) (朝日選書 818)
茂木 健一郎
朝日新聞社 2007-03-16

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東京国立博物館でダ・ヴィンチの「受胎告知」が公開されていますね。観に行きたいのですが、うちの家族はこういうことに対して異様にノリが悪い。パパはひとりで行っちゃうもんね、と拗ねてみたくなります。子連れで行くようなものでもないかもしれないし。

既に何度もブログのなかで文章を引用させていただいたのですが、茂木健一郎さんの「天才論」は、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を茂木さんの視点から再構築しつつ、創造性について、あるいはぼくらが創造的に生きるためのヒントを示してくれる本です。前半部分のダ・ヴィンチの仕事について解説されている部分は、なるほどなと思うもののそれほど深い知的な刺激はなかったように思うのですが、後半からの待ってました!という感じの茂木さん真骨頂的な言説には考えさせられるものが多くありました。

総合力の重要性を説きながら、「でこぼこ」のある人間であることを肯定するところが茂木さんらしい。すべての力を平均的に持っていることが大切ではなくて、知的好奇心の網を多方面に広げながらも、いびつな個性を発揮する。そんな不器用な生き方をあたたかくみつめる視点がやさしくて、読んでいてほっとします。

天才というのは天から与えられた才能だから、なりたくてなれるものではないし、そもそもダ・ヴィンチにはなれません。けれども天才もまたひとりの人間であるということを理解するとき、才能や作品の意味が変わる気がしました。

ダ・ヴィンチは遠い過去の手が届かない存在ではなくて、同じ人間として、ぼくらのように仕事もしながら、いろんな悩みや変わった癖(ダ・ヴィンチのようにホモセクシャルな趣味はありませんけどね)なども抱えつつ生きてきたわけです。作品は凄いけれど、人間として考えるならば、ぼくらとそれほど変わっているわけではない。そういえば、ダ・ヴィンチ的なひとはどこにでもいます。プチ・ダ・ヴィンチになら、なれそうな気もする。いや、なれないかー。

正確な解剖図を描くことができた彼は、実は人間を(愛情の外で)機械的に見ることしかできなかった、というダ・ヴィンチの特異な感覚について触れられている部分には、興味深いものがありました。

ここで茂木さんは、彼は人間を機械的にとらえる目と文学(芸術)的にとらえるふたつの目を持っていたことを指摘されています。文学的な視点からは、たとえば愛するひとの身体はロマンティックな感情でみつめる。ところが、科学的な視点からはそのメカニズムに注目することになり、性愛の行為もひとつの生殖活動にすぎなくなる。確かに文学的な視点と科学的な視点という「ふたつの目」を獲得し、共存させることは難しいものです。難しいけれども「ふたつの目」があるからこそ世界の見え方は面白くなると思うし、ふたつの目があるにもかかわらず、結局は偏った生き方しかできない人間にぼくは魅力を感じます。

バランスなんて崩しちゃってもいいじゃないですか。ときには常識なんてひっくり返してしまってもいい。けれども、子供たちの世界に関していえば、バランスを崩した存在は異端ではあり、だからこそバッシングを受けたりいじめにもあったりする。いつでも平均的な人間が求められるし、常識があることがいちばんだと思われているものです。だからみんな同じスタイルになる。

常識や効率と創造性は、まったく違った価値観のもとにあるものかもしれませんね。ただし、究極の理想は、常識や効率を追求しながら創造的であるという折衷案かもしれない。

大人たちが考えるべきことは、バランスを崩した「でこぼこ」な子供たちを守ってあげることでしょうか。でこぼこな能力のなかに未来を変える天才の芽がある、ということをきちんと理解することであって、でこぼこを一生懸命に潰して均してしまうことが教育ではない。でこぼこを生かすような環境を整えておくことだと思います。決して、社会からはみ出した存在にするのではなくて。

自分のなかにある「でこぼこ」がいとおしく思えること。でこぼこの自分のままでいいと安心できること。天才にはなれないけれども、できれば自分の子供たちは準・天才的に育っていってほしいものですよね。そのためには無理矢理に常識を押し付けるのではなく、何時間やっても飽きないぐらいに興味を持った何かを支援してあげることも必要でしょう。そして、でこぼこのままでいいんだよ、と言ってあげることが大切かもしれません。3月26日読了。

※年間本100冊プロジェクト(12/50冊)

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2007年3月22日

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「恋愛脳」黒川伊保子

▼book07-010:脳の構造を超えた理解のために。

4101279519恋愛脳―男心と女心は、なぜこうもすれ違うのか (新潮文庫)
黒川 伊保子
新潮社 2006-02

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妄想の話なのですが、ぼくは現実に出会わなくてよかったと思う女性作家がふたりいます(そもそも出会うわけがないのだけれど)。

ひとりは川上弘美さん、そしてもうひとりは黒川伊保子さんです。黒川さんに関しては、作家と呼ぶのがふさわしいかどうかわからないのですが、このふたりに共通するのは、男性のぼくからみて女性として魅力的な文章を書くということです。

もちろん文章=作家ではないだろうし、実際にお会いしたことがないので、あくまでも文章から想像する作家像でしかありません。それでもぼくはおふたりが書く文章を読んでいると、なんだかいたたまれなくなる。たぶん、こんな雰囲気を醸し出す女性に現実世界で出会ってしまったら、ぼろぼろな恋愛に堕ちてしまう気がします。ぼくは安易に惚れやすいタイプではないのだけれど、川上弘美さん的もしくは黒川伊保子さん的女性に会ってしまったら、気持ちを自制する自信がありません。きっとバランスを崩してしまう。

妄想の話は置いておいて(苦笑)、「恋愛脳」はとても魅力的な本でした。そして知的な刺激があります。この情緒と知性が共存している感じがたまりません。

そもそも男性脳と女性脳の違いは、脳梁の太さにあります。脳梁の細い男性脳は、左右の違いを立体的に把握できる脳であり、一方で脳梁の太い女性脳は平面的な把握にすぐれている。これは必ずしも男性=男性脳、女性=女性脳というわけではないのですが、脳の構造の違いがさまざまなすれ違いを生むそうです。

黒川さんはAI(人工知能)の技術者だったそうですが、仕事が忙しいとき、地下鉄の銀座線の車内で息子におっぱいをあげたという大胆なことまで書いてありました。読んでいてくらくらしたのですが、この大胆さは母性本能はもちろんのこと、女性脳の特長に負うところが大きいのではないでしょうか。つまり平面的な認識によって、いま目の前にいる子供以外には見えなくなるから、そんな大胆なこともできる。逆にいえば男性脳の機能である立体的な視点によって車内の様子をキャッチできていない。

ちなみに自分のエピソードですが、まだ次男が2歳ぐらいの頃、家族4人で公園にお花見に行ったことがありました。ところが途中で次男がむずむずし始めた。そこで奥さんは服をめくりあげようとしたのですが、(ちょ、ちょっと待った、こんなところで出すなって)(だって、泣くからしょうがないでしょっ)(いや、でも、みんな見てるでしょうが)(見ちゃいないわよ)と口論になり、結局頭にきたぼくは「もう帰るぞっ」と、もぐもぐ静かにお団子を食べている長男を立たせて、お花見中止にして帰ったことがありました。

泣いてるからしょうがないでしょ、体裁ばっかり気にしてなんだろうねこのひとは、という冷たい目で見られてしまったのですが、夫として弁明すると、多数の男たちがいる公園という公共の場では勘弁してほしかった。もちろんそんな説明はできないので黙っていたのですが、考えてみると男性脳と女性脳の違いかもしれません。

どんなときも空間的な把握をしてしまう男性脳としては、右35度にいる学生の集団とか、左48度にいるおじさんとか、そうしたものを把握してしまう。みてないわよ、と言われたらそれまでなのですが、家であればともかく、この公共の空間でぽろりんはないだろう、社会的な常識を考えてほしい(泣)というのが(一般の正常な)男性脳をもつぼくの見解なのです。違いますかね?ぼくだけなのかな。

・・・話が脇道に逸れました。黒川さんは完璧な女性脳の持ち主であると思う。そこで、どうやら80%ぐらいの男性脳であるぼくが読んでいると、その女性脳的な視点に読んでいてはっと気付かされることが多い。情緒の専門家であるとご自身についても語られているのですが、その言葉は感情を揺さぶります。

息子に対する愛情に溢れた文章にも打たれました。まずぼくが"!"と思ったのは次の表現です(P.48)。


息子には言わなかったが、彼の男性脳は、今のところとても出来がいいと思う。いきなり「結」を語って、人をほのぼのとした気に包み込んでしまう。これは、とびきりいい男にしかできないことだ。たぶん、生まれつきの才だと思う。事業家に不可欠の要素でもある。

がーん。そうか。起承転結のように、論理的にくどくど語っていちゃダメなんですね。

いい男は「結」しか言わない。そういえば欧米型のプレゼンテーションも「結」から述べる気がします。つまり、空間をすぽんと飛ばしていきなり結論を述べる発想が男性脳的で、時系列の詳細を重視すると女性的になる。言い換えると、物語は女性的ということになります。黒川さんも書いているのですが、ぽーんと飛躍する男性脳的な言葉を刺繍のように織ってつないで、物語を紡ぐのが女性脳になる。男性のやんちゃな発想を物語として再構成できることが、いい女の条件になるそうです。

出来がいい男性脳を持つ息子さんが書いた「結」から切り込んでくる作文を添削するシーンでは、思わずじーんとしました(P.45)。


そこで、「ママがあなたの作文を添削というより添加してあげよう」と、くだんの作文を再び手に取った。ママは、どんなテーマでも、何十枚も作文が書けたんだからね、といばってみせる。
――ぼくはジャングルジムが好きです。何度、頭を打っても好きです。ぼくは、いつもボーっとしているので、ジャングルジムの一番上にすわっていると二十分休みがすぐにすぎていってしまいます。ぼくは、ジャングルジムにはいつまでものこっていてほしいです。
私は、もう一度大笑いしながら読んで、不覚にも泣いてしまった。


わかる。これはぼくにもわかる。子供の作文にはときとして、起承転結のような物語の軸を超えた力があります。それは理屈を超えた「愛着」のようなもので、これをいきなり「結」の部分から突きつけられると、もう何もいえなくなる。ぼくも息子の作文の宿題をみてあげるのですが、作文の苦手な彼であっても、黒川さんのように降参したくなる言葉に出会うことがあります。

ほかにも息子さんにべったりな愛情を注ぐ文章には惹かれましたが、一方で「私の大好きなひと」についての言及も多く、最初のうちはいったい誰なんだ?と心が揺らぐのですが、中盤あたりからそれが旦那さんだということがわかる。のろけ具合はかなりのレベルですが、どこか許せてしまう感じです。というよりも微笑ましいものがありました。

かと思えば、本音のレベルで具体的な理想の男性像を述べているところもあり、これは男性として参考になりました。そうか!と思った。男性諸君のために抜粋してみましょう。黒川さんによる理想の男性像はこんな感じです。


時空を貫くような一途さで女を愛し、基本的には女を自由にさせ、女の知性を敬愛し、女の母性を畏敬し、こちらが寂しいときには少女のように甘やかしてくれ、こちらに余裕があるときは少年のように慕ってくれて、日常の面倒は一切かけない、永遠に美しい、セックスの上手な恋人。

うーむ(苦笑)。そんなの無理だ!と思った男性が多いのでは。しかし、無理だと思うからこそ挑戦したいと思いませんか?この要求はかなりハードルが高いのですが、確かにこの姿勢を貫けば、いい男になりそうです。ちなみにこの究極の理想像として黒川さんが思い描いたのは、光源氏である、とのこと。

一方で、黒川さんはいい女の在り方についても書いています。歳を重ねてから「終始、穏やかな光が当たっている」ような存在になるためには、以下のような準備をすべきであると書かれています(P.182)

歳を重ねながら、準備することはある。 まずは、見たもの、感じたものすべてを、自分の心の鏡に映すようにすることだ。他人のそれじゃなく。誰かに認められたくて、誰かに羨ましがられたくて、誰かに褒められたくて、誰かに勝ちたくて、誰かに見捨てられないように、誰かに嫌われないように・・・・・・そういう価値観はいっさい捨てる。 自分が気持ちいい、自分が納得できる、自分が清々しい・・・・・・そういうものだけ傍らに置く。そして、その外側に「そうはいっても自分の大切なひとたちが不快でないこと」というフィルターを付ける。
この言葉は男性にとっても重要ではないでしょうか。加えて、経済的に気張っても気品を追求すること、誰かに大切にされるようなクセをつけることが大事であると書かれています。 思わず背筋が伸びる感じです。こういう素晴らしい女性に出会うと、男性としては若干びびるのですが、横内健介さんのあとがきにも、食事にお誘いしたのですがセレブな黒川さんをどこへお連れすればいいか分からなくなった、という苦悩が書かれています。次のようにつづきます(P.200)。
そんなことをあれこれ悩むうち、だんだん怖くなってきた。そして思ったのだ。 伊保子さんを迎えに行くのは、もっと偉大なオレになってからだ。その時には運転手付きの高級車で伊保子さんの会社の前に乗り付けて、花束を抱えてお迎えに行くのだ、と。 ともかく手柄を立てねばならぬ。女王陛下、その時まで待ってて下され!

ははは(笑)。でも、ものすごくわかります。男性は単純で馬鹿だから、素敵な女性がいるだけで、頑張れたり自分を向上させたりできるんですよね。ぼくもそうです。

さて、このほかにもさまざまな興味深い視点があるのですが、長くなるので割愛しましょう。そして、ぼくが最も注目したキーワードは「時空を貫く」想いでした。

というのは最近、シークエンス(連続)、時系列、歴史などを考えていたからでもあるのですが、典型的な男性脳を持つぼくとしては、空間的な把握は得意であっても、時間のなかで持続していく何かは苦手です。だからブログも、えーい消しちゃえ、と思ったら消しちゃったりする。積み重ねが重要だとか書いておきながら、あまり積み重ねに対する執着もなかったりするわけです。そもそも忘れっぽいし(苦笑)。

ところが、この本のなかでも書かれていたのですが、女性は、ひとつの大切な言葉があれば、いつでもどんなときでも(ユビキタスで)時空を超えてずっと言葉をあたためることができるらしい。会えない時間があっても、その言葉を飴玉のように転がしながら、過ごすことができる、などということが書かれていました。男性脳のぼくには、よくわかりません(苦笑)。言葉は永遠に残すべきではなく衰退させるべきだ、なんてことをブログのエントリーに書いていたぐらいなので。まだまだ理解が足りません。

ちなみに、今日は茨木のり子さんの「歳月」という詩集を購入。これは夫である三浦安信さんが亡くなったあとに、夫の記憶を辿りながら綴る詩で構成されています。泣ける。詩集のタイトルにもなっていますが、「歳月」という詩の最後5行を抜粋してみます。

けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの

時空を貫いて、想ってみますか。3月16日読了。

※年間本100冊プロジェクト(10/100冊)

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2007年3月18日

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「デザイン思考の道具箱」奥出直人

▼book009:デザインがビジネスを変える、デザイン思考の重要性。

4152087994デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方
奥出 直人
早川書房 2007-02

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すでにブログで「build to think(プロトタイプ思考)」について書いてみたり、「経験の拡大」として参与観察によるインサイトの見つけ方を考察したのですが、一般的には視覚的に表現することが主体のデザインの背後で、いわばOS(オペレーションシステム)として機能する思考について言及した本です。思考についてあれこれと思い巡らせている自分としては、非常に興味深い一冊でした。

なぜ興味深いのかというと、その方法論が、ビジュアル表現にとどまることなく、ソフトウェアの設計であるとか、組織のデザインにも応用できる点です。いま世界中のビジネスでイノベーションというキーワードが重視されていますが、革新的な何かを生み出すためには、新しい発想を生むためのシステム、あるいは方法論が必要になります。もちろんシステムや方法論だけでは新しい何かは作れません。けれども、そのヒントとなるようなことがこの本のなかにある。

自分の経験を振り返ってみると、ぼくはどちらかというと技巧に走る側面がありました。仕事においても、趣味の音楽制作においてもいえることかもしれません。けれども上っ面の技巧から創られたものは、説得力がない。何よりも凄みのようなものに欠けると思います。もちろん、現場で手を動かして積み上げた実績が凄みになっていくということもあるのですが、さらにフェーズを跳躍させるためには、「考えること」あるいは、哲学や世界観を持つことが大切になると思う。

考えすぎるのはよくないよ、という言葉が言えるのは、ほんとうに考え抜いたひとだけではないか。そんなことを考えています(苦笑)。一方で、考えながら行動することも重要です。まさに、考える―行動する、というふたつの側面を行ったり来たりしながら(プロトタイプ思考で)、トライ&エラーを繰り返しながら進んでいく。考えてから行動するのではなく、並列処理でカタチにしていく。それがこれからの社会に合ったスタイルのような気がしています。

と同時に、論理的な思考だけでなく、感性の部分を豊かにしていく必要がある。フィールドワークで調べた現場の行動などをシナリオに落としていくという解説があったのですが、ここではまるで小説を書くときのような印象さえありました。物語マーケティングだ、物語が大事だ、と声高に言うマーケッターはたくさんいますが、実際に物語を書いているひとはわずかしかいないような気もします。

しかしながら、マーケッターにおける物語とは、文芸的な物語である必要はなく、要するに重要なのは時系列におけるシークエンス(連続性)の把握ではないかと思います。その一般的なものはAIDMAだったりAISASだったりするのですが、ひょっとすると一般化する必要もないかもしれない。決められたフレームワークを使うのではなく、個々の案件に合わせたシークエンスをデザインできることが重要なのかもしれません。

まだきちんと考えがまとまっているわけではありませんが、いくつかのビジネス書をさらに読み進めつつ、デザイン関連の本にも目を通して、自分なりの理論、哲学を創っていきたいと考えています。3月8日読了。

※年間本100冊プロジェクト(9/100冊)

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