02.bookカテゴリーに投稿されたすべての記事です。

2009年5月18日

a001097

「それは、「うつ病」ではありません!」林公一

▼book09-14:甘えと病気を区別する。当事者だからわかる事実。

4796669086それは、うつ病ではありません! (宝島社新書)
林公一
宝島社 2009-02-09

by G-Tools

病気に関する本は、こころして読まなければなりません。というのは、情報を鵜呑みにしてもいけないし、かといって軽視するわけにもいかないからです。病気に対するブログなどの記載も同様です。したがって、これから書くエントリの内容は安易に判断せずに、もし疑わしきところがあれば、しっかり医師の診察を受けて判断してくださいね。

この本では20の事例から、うつ病か、擬似うつ病か、その判断と根拠を解説されています。わかりやすかった。そして、わかりにくい病気であることもわかりやすかった。解答として「現代の診断基準では、うつ病ということになります」というびみょうなものもあるのですが、その曖昧さもわかる。本物のうつ病が増加しているとともに、ブームに乗じてちゃっかり怠けるために利用しているひともなかにはいることでしょう。その事実についてあえてことばを濁すのではなく、ばっさりと考察をのべる著者の視点がすがすがしい。

ブログを休んでいたあいだ、しばらくぼくは精神を病んでいたようでした。「ようでした」というのもびみょうですが、というのも医師に診察してもらったけれど、診断結果は教えてくれなかった。ちらっと盗みみたカルテに、うつ病と書いてあったので、ああ、ぼくはうつ病だったか、と思っただけです。けれどもひょっとすると、もっと別の病気だったかもしれない、と思うこともあります。統合失調症とか、境界性人格障害とか。

メンタルクリニックに通ってわかったことは、ものすごい人数のひとがその場所を訪れているということです。ぼくの通った病院は、それほど待合室が広くないのだけれど、通勤ラッシュか?と思うぐらいに患者さんで溢れていました。みんな大変な時代なんだな、と感じたことを覚えています。

正確には、ぼくぐらいの程度では「うつ病」とは言えなかったかもしれません。重度のひとは、ほんとうに待合室で頭を床に押し付けたまま動けなくなっている。そんな患者さんと比べると甘っちょろい感じです。けれども、次のような日々を送ったときには、さすがに平常ではありませんでした。ほんとうに自分が怖くなり、意を決して「どうもぼくはおかしい。病院に行ってくる」と家族に言わざるを得ませんでした。こんな感じでした。

  • 眠っても1時間で目覚めてしまう。断片的な睡眠を積み重ねる。
  • 平日はともかく休日の朝は起きられない。眠れずにうずくまったまま。
  • 音楽を聴きたいという気持ちがまったくなくなってしまった。
  • ひたすら自分を責める言葉ばかりが浮かんで、こころから消えない。
  • 仕事に貢献できない自分が不甲斐なくて仕方ない。
  • 駅で電車の入ってくる方向を見られない(吸い寄せられてしまうので)。
  • 死ぬタイミングを考えることが多い。ゾロメの時間に死のうとか。

誰にも言えなかった。家族にさえ、最後の最後まで言えませんでした。おっかしいなあ、なんでこんなに落ち込んでいるんだろうなあと思いながら、とにかく日々を過ごしていた。しかし、どうもやばい、これはふつーではないと思いはじめて、病院のドアを叩きました。

最悪な時期に病院に通い、クスリを処方されてわかったのは、クスリを飲むだけでぜんぜん違う!ということでした。つまり、すくなくとも眠ることができる。これだけでも、当時のぼくには画期的でした。

だから、あらためてぼくもこの本の著者、林広一さんが書いている「うつ病はこころの風邪ではない」という意味を理解できます。そして、「うつ病は治る」ということばにも、おおきく頷きます。その通り。

うつ病という診断書を書いてもらって会社を休み、休みにもかかわらずパチンコなどをして過ごす人間が擬似うつ病であることもよくわかります。それは単なる甘えですね。あるいは仕事のできない人間の誤魔化しに過ぎない。

また、ホンモノのうつ病は、この本にも書いてあるとおり、他責的ではありません。自責の念が強まる。だから、会社に対して「会社の理解がないから、わたしはこうなった。あなたたちの責任だ!」と憤る"元気のいい"ひとがうつ病ではないことにも深く頷きました。それはむしろ人格障害ではないか、という疑問についても、なるほどね、と思った。

しかし、そういうひとも、病気であることには変わりがない。そこで著者は、うつ病と区別して「気分障害」という言葉を最後に提示します。次のような定義です(P.218)。

うつ病=本物のうつ病。つまり脳の病気
気分障害=うつ病に似ているがうつ病ではないもののすべて

脳の病気というのは、ほんとうに実感しました。病気になってみてよくわかった。脳関連の書籍に出てくる図解ですが、この本でも「シナプスと神経伝達物質」という次の図解が紹介されます。

090518_nounai.JPG

通常であればスムースに伝達されている物質の伝達がうまくいかなくなる。だから、落ち込むような気分になったり自殺を考えたりするようになるわけで、物質の伝達をクスリで改善すれば治る。次の部分を引用します(P.53)。

脳内には神経物質が何十億とあります。そして、互いにシナプスで結合しています。そこにはセロトニン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質が動いています。それによって神経細胞同士は情報を伝達し、それが人間の精神活動を生んでいます。
うつ病は、このシナプスの神経伝達物質の変調による症状です。
つまり、うつ病は脳の病気なのです。
怠けでもなければ、甘えでもありません。病気です。そして、病気である限り、治療が必要なのは当然です。その意味ではインフルエンザやガンと同じです。
うつ病の治療は十分な休養と薬。そして、叱咤激励しないこと。ケース2でそう説明しました。 けれども最も重要なことは、「うつ病は脳の病気」ということを理解していただくことかもしれません。それが理解されれば、薬を飲んで休むのが第一であること、そして叱咤激励してもなにもならないことは、自然にわかっていただけるでしょう。

ぼくの場合には次の薬を処方していただきました。

・デパス(商品名):エチゾラム。抗不安薬兼睡眠薬 Wikipediaはこちら
・ドグマチール(商品名):スルピリド。定型抗精神病薬 Wikipediaはこちら 
・ジェイゾロフト(商品名):セルトラリン。選択的セロトニン再取り込み阻害 (SSRI) タイプの経口抗うつ薬 Wikipediaはこちら

最初は眠気がひどかったけれど、二週間ぐらいすると気持ちが安定するようで、さらに経過すると、あらゆる食べ物がおいしく感じるようになりました。ジャンクフードや580円の定食を食べてもうまい。どうしたことだー、ごはんがうますぎるーと思った。

しかし副作用もあるようです。確かに・・・いくつかの副作用はありました。とはいえ、こころを立て直すと同時に、カラダも立て直す必要があるのが、うつ病ではないでしょうか。こころの面でいうと、依存心を断ち切ることが大事かもしれません。依存心があると、最悪の場合、クスリに依存してしまうことにもなる。どんなにクスリが効いたとしても、こころの問題も解決する必要があります。焦ることはありません。ゆっくり治していけばいい。

いまの時代、ふつーに生きていても辛いことがたくさんあります。だから精神科の扉を開けるのも容易くなってきている。けれども逆にそのことによって、弱者のふりをして甘えたり権利を要求するひとも増えているのかもしれません。そうであってはいけない。

老人に席を譲るように、妊婦さんを電車のなかで労わるように、軽症であるぼくのような人間は、はやく病気を治して健康になって、もっと重度のひとのために病院のベンチをあけてあげることが大事ではないでしょうか。こころとカラダの両方に気をつけながら。5月17日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:05 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月19日

a001084

「美しい時間」小池 真理子・村上龍

▼book09-03:50代のためのリッチな短編。

美しい時間 (文春文庫)
美しい時間 (文春文庫)小池 真理子

文藝春秋 2008-12-04
売り上げランキング : 58163


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


50歳の自分が想像できません。どうなっているんだろう。というよりも最近、そこまで頑張れるのかな、という弱気なことまで考えてしまう。なんとなく息切れがしがちな毎日のせいでしょうか。体調も弱ったり、こころもすこし疲れていたり、どこか病んでいたり。もう少しゆっくり生きることができるとよいのだけれど。

あるひとから聞いた話では、50歳になると悩みや身体的なあれこれから突き抜けられるらしい。しかし男性は二極化されるようで、何かに吹っ切れて人生を謳歌できる突き抜けた人間と、病気などで老いていくだけの人間と別れてしまうとのこと。それは極論ではないかな、とぼくは思っていて、ふつうに穏やかなシニアになっていく道もあるだろうと思うのですが、さて、どうでしょう。

小池真理子さんの「時の銀河」、村上龍さんの「冬の花火」という2編の短編小説をカップリングして、平野端恵さんのイラストレーションと横山幸一さんの写真で構成された「美しい時間」は、ネスレのプレジデントというコーヒーのタイアップとして、50代の比較的裕福な層に向けて書かれた作品のようです。

プロモーションのためか、と考えると若干ひいてしまい、純粋に作品を楽しめないことも多いのですが、この本は楽しくさっと読めました。ささいなことに拘るとすれば、贅沢なレイアウトがうれしい。余白が十分にとられていて、特に下の部分の余白が多く、文字の行間もゆったりとしたレイアウトです。内容はもちろん贅沢なつくりといえます。

小池真理子さんの「時の銀河」は、亡くなってしまった男の妻の亜希子と不倫相手の私・梢がレストランで、かつての男に似た人物をみつけながら食事をするシーンからはじまります。そして回想に入っていきます。

ふたりの女性は互いに52歳で、梢は30代のときに亜希子の夫、つまり彼に知り合っている。そもそも浮気相手の女性とその男の妻はいっしょに食事なんてするものかな、という疑問を感じたのですが、ありそうもないシチュエーションもまじえて、どこか昼間に放送されているドラマっぽい印象です。しかしながら、ベタだなーと思いつつ、読んでいくうちに若干じーんとした場面もありました。うまく言えないのだけれど、女性作家ならではの静かな切なさがある。

小説のなかのハイライトのシーンといえば、ここでしょう。忘年会で飲んで遅くなる梢を男は待っているのだけれど、彼女が遅くなったことに苛立ってテレビを大音量でかける。子供じみた行為に腹を立てて喧嘩になり、梢は「こういう関係性にある場合、女が必ず口走ること」を言い立てる。すると、男は部屋の片隅にあった二段チェストを窓から外に投げ捨ててしまう。けれども、あとで和解のために電話をかけてきて、実はその日は、彼の妻である亜希子が卵巣の手術を受ける前日であったことを告げる。

うーむ。びみょうなところです。何が正解かはわからないけれど、言わないのであれば男はずっと口をつぐんでいるべきだと思う。しかし、話すのであれば、もっと別のときに話すべきかもしれない。ただ、男の身勝手さのようなものをうまく描いている気がしました。

村上龍さんの「冬の花火」は、ステッキ店を営んでいる「わたし」が新聞で、カジノで1億円をあてたあとに死んだ老人の記事を読むところからはじまります。この老人、大垣さんは父親の友人であり、とても裕福な暮らしをしていたひとだった。そして、亡くなる前に彼から「冬の花火だ」という短いメールを受け取っていた。冬の花火とはいったい何なのか、という疑問を抱きながら、「わたし」は彼と親しかったひとたちに会い、老人のことを回想します。

とにかくディティールの書き込み方がすごい。ステッキに対する知識であるとか、大垣さんが興味のあった化石に対する薀蓄であるとか、富裕層を想定した暮らしぶりなど、緻密にこれでもかというぐらいに書き込まれています。さすが村上龍さんだ、アタマのいいひとだな、と思うのと同時に、けれども個人的には小説としてはすこしばかり食傷気味というか、疲れてしまいました。なんとなく物語よりも知識の奔流に押し流されてしまう感じ。

しかし、そういう薀蓄を楽しむのも、50代ならではのこころの余裕なのかもしれませんね。たぶん村上龍さんはターゲティングに合わせて、物語的な流れより、知識の幅や広がりを重視したのだと思う。

とはいえ、冬の花火とは何か、という疑問から推理小説的に読ませていく力量にもまいりました。和むのだけれど寂しい結末が用意されています。また、村上龍さんのあとがきがまた面白かった。どちらかというと創作を考える上で、参考になりました。まずはコーヒーのタイアップであることについて書かれた以下を引用します。

五十代の読者を想定して、しかも性的、暴力的な描写はNG、というような制約は、実はわたしの好むところである。小説というのは、制約があったほうが書きやすい。

プロだと思いました。ビジネスマンの感覚に近い。

制約というのは音楽のコードや映画の原作に似ていて、一種の「約束事」であり、大げさに言うと「制度」だ。制度的なものへの挑戦と突破を常に自分に課しているわたしとしては、制約があればあるほど書きやすい、ということになる。

この発言、好きです。音楽と映画に喩えられているところが村上龍さんらしいのだけれど、ぼくにもよくわかる。制度そのものを壊すのではなく、制度のなかで制度を裏切るような何かを生み出すことは、とてつもない快楽であり、ものすごい創造性が求められると思います。

というわけで、あっという間に読み終えてしまった一冊ですが、美しい時間というよりも、ちょっとだけリッチな感覚を味わうことができました。作られたコンセプトの通り、深く文学を楽しむというよりも、コーヒーを飲みながらすこしだけ贅沢な時間をすごしたいときにおススメです。3月8日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年3月17日

a001083

「ヘーゲル・大人のなりかた」西研

▼book09-02:社会を生き抜く強靭な思考を鍛えるために。

4140017252ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)
西 研
日本放送出版協会 1995-01

by G-Tools

西研さんの名前は息子から聞いて知りました。小学校の国語で哲学的な授業があったようで、自己と他者のようなテーマのようなものだったかと思うのだけれど、幼い彼は興味を持ったらしい。ぼくも気になって教科書を借りて開いてみたところ、西研さんの名前がありました。そんな経緯があったので、お、この名前知ってるぞ、と書店で手に取った本です。

特にヘーゲルに関心があったわけではありません。しかし、"大人のなりかた"には関心があったかもしれない。というのは、自分の幼稚さに幻滅することが多く、大人になれないなあと最近、反省することが多かったので。

お酒を飲んでタバコを吸える成人になってもちっとも大人ではなかったように、家庭をもって子供ができてもやはり大人ではない自分がいます。幼稚なことに拘って誰かを傷付けたり、自信がもてなくて落ち込んだりしている。稚拙な言動や生き方に、溜息をついたり凹むことが多い。ひとかわ剥けた大人になれません。どうしたものか。

そんなときに読んで、タイムリーに考えさせられることがたくさんあった本でした。本来であれば、ヘーゲルを理解するにはヘーゲルの著作を正面から読むべきでしょう。ただ入門書として、西研さんの解釈を通して学ぶ彼の考え方も、とても魅力的でした。たぶん西研さんのフィルタリングがかけられたヘーゲルだと思います。どちらかというと西研さんの思想の本ともいえる。でも、わかりやすかった。哲学に詳しくないぼくの悪いアタマにもすーっと入ってきた。

ところが、ときどき抜き書きしたり、付箋を立てたりして読んだのだけれど、内容は広範囲に渡っていて、流れを切り出せるものではない。したがって、感想を書こうとすると途方に暮れてしまいました。そんなわけで読後にしばらく寝かせていました。

最近になってヘーゲル関連の著作をよくみるようになった気がするのですが、80年代のポスト・モダニズムの思想では「諸悪の根源こそヘーゲルだ」と徹底的に批判されていたとのこと。共同体など社会の考え方が、個人に重きを置くポスト・モダニズムの思想家には目の敵となるものだったようです。

しかし、現在の生きづらい社会のなかで個人的な悩みを解消し生き方を考える上で、ヘーゲルの哲学は参考になる、と西研さんは述べています。社会や他者を批判するとき、そこにはタフな流儀が必要になる。自分がなぜその正義に至ったのか、という強靭な自己了解がなければ、想いを貫くことができない。しかも、自分にしか理解できない正義ではなく、社会で通用することが重要です。

うわべだけの空虚なスタイルで批判しても、常識やモラルを引き出しても誰かの発言を借りてきても、言葉には重みがありません。過去に生きてきた自分の蓄積された経験、そして反省を総動員して、ひとつの言葉に結晶化させる必要がある。さらに自己の考え方を自己の内部にとどめるのではなく、社会に投影して、社会に通用する正義なのか思考を鍛えあげる必要がある。

まさにこれは、先日観賞したティム・ロビンスが主演の「ノイズ」という映画につながることです。自分にとってうるさくて迷惑な自動車の警報機をぶっ壊しまくった彼は犯罪者でしかないが、署名を募って騒音を規制する条例を作るための政治活動に変えたなら、その正義も社会には通用する。独断的な正義は正義ではないですね。ときとしてそれは悪になる。

生きにくい社会において、自分の正義を潰してしまわないタフな流儀として、思考を鍛えていくものとしてヘーゲルの考え方はとても興味深いとぼくは感じました。また、西研さんがヘーゲルの思想の欠陥を指摘しているところに共感しました。盲目的に思想を信じているわけではない。しかし、時代と誠実に関わって考えつづけたヘーゲルの人間性に注目されています。そう、どんなに抽象的な哲学であっても科学であっても、そこには学問に関わるひとがいてリアルな世界や社会があるんですよね。

自己了解から社会あるいは共同体へ。社会とのかかわりの中で自分の思想をタフに鍛え上げていくことを考えたとき、次の箇所には力を感じました。終章から引用します(P.231)。

人が生きていく、ということは、人間関係や共同体に対する憎しみや齟齬を経験することでもある。私の存在が拒否され、受け入れられないと感じる。そこから、共同体と他人を蔑んで、「あいつらはバカだ、俺だけがわかっている」と思い込むこともある。逆に自分自身のほうを蔑んで、「ぼくはみんなのようにできないダメなヤツだ」と思い込むこともある。
ヘーゲルは、この理想と現実の対立、つまり自分と共同体との対立を、そのまま放置してはおかなかった。「理想が理想のままにとどまるならば、それは無力だ」と考えたからだ。そしてこの対立を超え出るためにこそ、「時代の精神」という場所を設定したのである。
自分の理想には時代的な根拠があるはずだ。そう彼は考えた。自分が抱いてきたのは、たんなる自分だけの妄想ではないはずだ。そう確信できたからこそ、彼はそれまでの自分の理想(自由・愛・共和制)を、時代の歩みという基盤のなかでもう一度検証し、鍛え直すことをみずからに課すことができた。そして、その理想を実現するための具体的な条件を探ることができた。ヘーゲルはそれ以後、この道をまっすぐに進んでいったのだ。

つづいて、西研さんの経験が語られるとともに「相手のことがわかると、自分が受け入れられること」として、ヘーゲルの思考を自分のなかの言葉で綴っていきます(P.233)。

<人間はそれぞれ、その人なりに苦労したりしながら、生きるための努力を続けている。ぼくだけが苦労しているわけでもなく、ぼくだけが偉いのでもない>
<ぼくだけの悩みと思っていたものは、以外にそうではない。他の人も、大なり小なり、同じような悩みを抱えている>
<これまでのぼくは、「自分だけがわかっている」と思うことで、他人との関係をほんとうに大切なものとは思っていなかった。しかし、その態度はむしろ自分を貧しくさせていたのだ>
それと同時に、<だれかを批判するときには、相手の事情をくみとったうえで相手に通じるような言葉をつくらなくてはならない>。強くそう思うようになってきた。なぜなら、あいてのことがわかること、相手を信頼できること、自分が受け入れられていると感じること、そういう悦びをぼくが必要になったからだ。
つまり、関係の悦びを求めるからこそ、言葉を鍛える意味がある。

思考は概念の労働であるとヘーゲルは言っているそうですが(P.112)、その労働によって、自分を起点として、誰かと誰かの向こう側に広がる社会に向けて働きかけていく。そのことが共感を生むようにもなります。次のようにも書かれています(P.239)。

文学や音楽は、ときに、「ああ、ここにも人が生きている」という感覚を与えてくれることがある。生き方が大きくちがっていても、深い共感が生まれることがある。思想の営みも、そういう働きをすることができるかもしれない。いや、そういうものでなくてはならない、とぼくは思うのだ。

思考の鍛え方が足りないな、と自分を振り返って反省しました。説得力のある言葉を獲得するためには、ひとりの時間をつくって、自分の深いところまで降りていく必要があるのかもしれません。

いま「孤独であるためのレッスン」という本も読み進めているのですが、ブログを書くときにも、いたずらにスピードや量産を重視するのではなく、ジムで身体を鍛えるように自分の思考を鍛える時間も大事であり、そんなエクササイズをもっと増やしてもいいかもしれない、と思っています。2月23日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年1月23日

a001055

「日本語が亡びるとき」水村美苗

▼book09-01:愛を見失った小説家の、さびしい日本語論。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

by G-Tools

期待とともに読みはじめた「日本語が亡びるとき」。中盤からは失望と反感とともにページをめくる速度が緩み、いったん読む意欲が萎えました。しかし、偏見というバイアスをかけて中断することは、成熟した知の在り方とはいえないのではないか。そう考えて批判的な気持ちや感情的な抵抗を押さえながら、最後まで読み終えることに決めました。きちんとこの本と関わってみよう。それから判断しよう、と。

そして読了。最終的にぼくが到達した気持ちは、途方もない"さびしさ"でした。

水村美苗はさびしい小説家である。

この卓越した文章力を誇る「日本語で書く」作家は、日本文学に対する愛を見失い、愛するものの生命を自ら亡びさせようとしている。そんな寂寥とした気持ちを残したまま本を閉じました。

作家論と作品論を考えたとき、ひとつの作品しか読んでいないにもかかわらず、作家のすべてを見抜いたように批評を語るのは傲慢であり、慎むべき行為といえるでしょう。

また、作品に出来不出来の波があるとすれば、可能な限りすべての作品を網羅しなければ、ひとりの作家について十分な評価ができないかもしれません。一冊の駄作をもって作家のすべてを全否定するのはフェアではない。違うでしょうか。

ぼくは水村美苗さんの小説をまったく読んでいません。漱石が生き返って書いたようだと絶賛された「續明暗」も読んでいなければ、英語と日本語が混じりあう実験的ともいえる「私小説 from left to right」も読んでいない。だから本来であれば評価を保留にして、もう少しだけ作家を理解すべきかもしれない。歩み寄る努力が必要です。結論を出すのは早急ともいえます。

ただ、妄信的なファンではないからこそ、「日本語を亡びるとき」を読んで直感的に感じたことがありました。暴言・偏見を辞さずに論じてみたいと思います。感想やレビューというよりも、「日本語を亡びるとき」を通じて、作家である水村美苗という人間を批判することになるでしょう。まずは非礼をお詫びします。

ぼくは評論家でもなければ、文学者でもありません。ひとりのブロガーです。ブロガーのぼくにとって関心があるのは、うまい感想文を書くことでもなければ、書いたエントリの対価として原稿料を請求することでもない。レビューで注目を集めてアクセスを稼ぐことでもなければ、アフィリエイトで稼ぐことでもありません。

小説にしろ映画にしろ音楽にしろ、ぼくがこの場で作品を通じて追究するのは、自分がよりよく生きるためのヒントです。

自分を救済する方策を探ることで、わずかであったとしてもここに訪問して共感できるような誰かを救済できればいい、と考えています。文章のテクニックを修練したい気持ちはありますが、無駄に思考遊びに長文を費やしているわけではありません。文章を書くことによって、現実を生きるためのヒントを探りたい。そんなエントリを展開したい。

というスタンスから、失礼極まりないのですが、水村美苗さん個人を想定して、作家というひとりの女性に向けて語らせていただきます。

+++++

水村美苗さん。あなたは、誰よりも日本の近代文学を、そして日本語を愛していたのではないのでしょうか。

まずあなたには当たり前すぎると思われるそんな問いから投げかけてみます。寂れた美しい池に石を投げ込むように。みなもに、わずかな波紋を起こすように。

漱石の作品に対する深い造詣はもちろん、ちりばめられた膨大な日本語と日本文学の歴史に、ぼくはあなたの愛情を感じました。

学問的には少々あやしい評論だったとしても、あなたは学者ではない。だから赦すことができます。読書家としてのひたむきな姿勢には、ぼくは素直に尊敬を送りたい。

たとえば、何度か引用されている漱石の「文学論」。ぼくも学生の頃にわざわざ古本屋を数件めぐって購入した本でした。その後、社会人になって購入した新版の岩波の漱石全集とともに、2冊の「文学論」をぼくは持っています。しかし、不勉強なぼくは、この風変わりな科学的なアプローチによって書かれた漱石の理論書を完全に読破していません。

「文学論」が失敗だったかどうかについては別に詳しく論じたいのですが、漱石を研究するひとにとってはメジャーでも、一般的にはマイナーともいえる「文学論」をあなたが取り上げていたことが、ぼくには嬉しく感じました。少しばかり親しみを抱きました。

少女の時代に渡米して、英語の空気に馴染めず、ひたすら海の向こうの日本と日本の文化を想い、古典から近代文学まで読みあさった日々。トラウマのようにあなたを苦しめた過去かもしれませんが、反面、夢のように甘く美しい時間だったことでしょう。孤独な日々のなかで醸成された日本文学に対する焼け焦がれるほどの憧れは、「日本語を亡びるとき」のなかに息づいています。

しかし反面、あなたのなかには、愛しさとともに憎さがある。その相反する感情が論旨を揺さぶっているような印象を受けました。

揺さぶっているどころではない。この本のなかで亡びているのは、日本語ではありませんでした。水村美苗という小説家、というよりも愛に疲れたひとりの女が亡びている。そんなイメージをぼくは抱きました。あなたが愛したものたちの骸(むくろ)がここにある。そう感じました。

「日本語を亡びるとき」から浮かびあがる水村美苗像は、一途に愛しつづけたあまりに愛の強度に疲れ果てて、愛するものたちを亡びさせようとしている、ひとりのさびしい女の姿でした。愛の残骸、想いのなれの果てが、がらくたのようなことばで積み重ねられています。

論旨が紆余曲折して文章だけが途方もなく膨れ上がる日本語論は、自暴自棄になっているようにさえ読み取れました。あなたは、愛するものたち、愛する日本語を抱きしめることを放棄しようとしている。絶対的な多数として世界を制圧しつつある<普遍語>としての英語に、あなたが少女の頃から愛してきた日本語が亡ぼされることを夢見ている。

それはどういうことなのか。

極論かもしれないし、批判を覚悟でぼくは言い切ります。あなたは絶対的な強者に降伏し、<普遍語>という相手に力ずくでレイプされることを望んでいるのだ。愛してもいないのに。愛されてすらいないのに。

あなたはプライドを捨てた。英語という権力に屈しようとしている。侵されるがままにしている。情けなくだらしなく文体という身体を開いて権力を受け入れようとする文章に、自分を捨てた無力な女のなれの果てを感じました。あなたは、ほんとうに英語に「犯されて」いいと思っているのでしょうか。あなたが愛していた、あれほどまでに強く抱きしめていた日本語を見捨てて。

力がなくても、マイノリティだったとしても、凛とした姿勢で数の圧力に背を向けて自分のことばで語ろうとしている作家もいます。自分の選んだことばを愛しつづける作家がいます。たとえば第一章に登場する、北欧のことば、ノルウェー語で書くブリットです。

ノルウェーには公用語として「ブークモール」と「ニノーシュク」があるそうですが、ブリットはあえて新しい言葉である「ニノーシュク」を使います。それは圧倒的に使うひとが少ないことばです(P.47)。

ノルウェーの人口は四百六十万人。その一〇パーセントというと四十六万人。私が住む杉並区は人口五十四万である。ということは、ブリットは、杉並区の住民に読者を限って書いているようなものなのである。「ブークモール」で書くこともできたブリットが、あえて「ニノーシュク」で書くことを選んだのは、彼女が漁村で生まれ育ち、「ニノーシュク」の方が自分の魂と奥深くつながっているような気がするかららしい。詩的な言葉、詩的すぎるぐらいの言葉なの、と彼女は言っていた。

あなたに欠けるのは、この高潔さ、自分の気持ちに誠実に向きあい、愛情を守ろうとする信念ではないでしょうか。

世界的に絶対多数であろうとなかろうと、ブリットには関係ありません。<私>が、「詩的な言葉」だから、好きだから、マイノリティな言語でも書きつづける。たとえ読者が少なかったとしても、たぶんブリットは、「杉並区の住民に読者を限って書いているような」ことばをきちんと抱きしめることができていると思います。

作家・水村美苗に、ブリットのような覚悟はないでしょう。暗いこころの水面にうごめくものは、格差の呪縛ではないか。圧倒的な規模の経済が弱者を駆逐する囚われた思考が、あなたの自由を奪っている。

世界に向けて普遍的でありたい、たくさんのひとに読まれたい、という大きな志とともに、売れたい、というさもしい低い欲望もあるかもしれません。しかし現実として、あなたは「日本語で書く」マイノリティな作家にすぎません。

自虐で自分を嗤い、売名の欲望にとらわれている。敗者のみじめな意識で、時代を嘆く自分に陶酔し、退廃的な思考に溺れている。澱んだ沼から抜け出すことができないあなたは、その苛立ちを、自分の暗い欲望を、日本語が亡びるという言葉に転嫁して誤魔化しつづけている。自分の内なるほんとうの気持ちに目を瞑って。

冷めた読者の目で読んだとき、あなたの妄想の熱さがぼくには非常識に思われました。だから、とらわれたこころに批判的なことばを投げかけたい。いい加減に目を覚ましたらどうか、と。それでいいのか。

そうではない生き方、あなたが好きだったものたちを愛しつづける方法もあるのではないでしょうか。

ぼくは日本語を信じています。そもそも日本語は、中国からの漢字や、日本独自のひらがなや、外来語をしなやかに吸収して、生成変化しつつあることばであったはずです。

日本語を大切にすることは、古きよき時代を懐古し、古典という権威に絶対的に服従することではない。もちろんそんな至上主義もあるかと思いますが、別の考え方もあると、ぼくは考えます。時代は変わっていきます。変わっていく時代のなかで生成変化するものを受け止めることもまた愛である、と。

「英語の世紀」に入ったことは確かな現実かもしれません。けれども決して日本語はなくなったりはしない。守りつづけようとするひとが、たったひとりでもいる限り、日本語は生きつづける。

日本の教育が、社会が、政治が・・・と批判しはじめると、あまりにもブンガクは無力です。何もできなくなってしまう。けれども、朝起きたときに「おはよう」を大切に告げたり、子供の鏡面文字のようなひらがなの「の」や「と」を正したり、書きかけのブログの助詞や接続詞にこだわって何時間も悩むとき、ささやかではあるけれど、ぼくの行動は日本語を守っているのではないか、と感じます。

水村美苗さんのような国の言葉をどうこうしようという大義はぼくにはない。しかし、このパーソナルコンピュータの前にひろがるインターネットの身近な場所で、ぼくは(あくまでも個人としてのぼくは)日本語をきちんと抱きしめていたい。

<普遍語>として圧倒的な勢力を誇る英語を受け止めるということは、単純に英語を公用語にすること、英語教育を強化すればよいという話ではないと思います。言語の背景にある文化をきちんと流通させなければ意味がありません。

だからもし日本のグローバル化について考えるとすれば、英語力はもちろん、自分で考えること、意思をはっきりと述べるという英語圏の文化を社会に流通させることが重要ではないでしょうか。引用で自分を武装するのではなく、自分の思考力を駆使して自分で考えて、世界に向けて主張する姿勢を獲得すること。その真摯な取り組みのなかでは必然的に英語で話す必要性が生まれます。また、異なる文化に耳を澄ませることで、逆に日本のことばについての意識も高まるのではないでしょうか。

愛情は変化します。ティーンエイジャーのように、ひたすら憧れのひとに夢中になり、高いテンションで想うだけが愛情ではありません。抑圧され虐げられたとしても静かに長く想いつづけることもまた、愛情のひとつのかたちです。直視しがたい憎しみも含めて、変わり果てた愛をみつめるときもあるでしょう。だから、亡びるという水村美苗さんの言動も、日本語に対する愛の変容のひとつかもしれません。けれども、その姿はあまりにもさびしすぎます。

陳腐なことばではありますが、日本語と英語を継ぎ接ぎにしたような両性具有の作品を作るのではなく、英語のロジックをゆき渡らせながら日本語で書くような、きちんと交合した、つまり異なるものたちが愛し合ってひとつになったブンガクを生み出すことができたら・・・。

漱石は、そういうひとであったと捉えています。ロンドン留学における苦渋は彼に影を落としましたが、その悩み苦しんだ時間を作品のなかに融合させていったのではないか。村上春樹さんもまた、翻訳という仕事を通じて、文化の架け橋に注力されています。外国文学を愛しながら、日本のぼくらにもきちんと伝えようとしてくれている。きちんと日本語に対してこだわっている。

あなたは、決してマクロ経済のような冷たい視点でブンガクを語るのではなく(あなたは経済学者の父親のもとに生まれたということも知りました)、日本を担う作家のひとりとして、愛した日本語を<普遍語>のなかで生かす新しい日本語の「子供たち」を産み出すことができるはず。亡びるなどという安易な言葉で終わりを告げるのではなく、たとえ亡びつつあるものであっても抱きしめること。それが日本語を愛した作家として意義があるのではないでしょうか。

いまのあなたの姿勢には、ぼくは情けないとしか感じない。水村美苗さん。あなたは見失った愛を再発見するべきだと思う。余計なおせっかいではあるけれど、ぼくはそのことを伝えたい。

あなたは、自分の愛したものたちを、日本語を亡びさせるべきではない。日本語と日本文学に対する愛を貫いてほしい。そう願っています。あくまでも日本語を愛しているひとりとして(1月16日読了)。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2008年10月21日

a001019

「リヴァイアサン」ポール・オースター

▼book:自由という名の破滅への物語。

4102451072リヴァイアサン (新潮文庫)
Paul Auster 柴田 元幸
新潮社 2002-11

by G-Tools

ミシェル・フーコーの「私は花火師です」という文庫を読んでいたのですが、前半はよかったものの全体的に寄せ集めの講演録というかボツ論文集のような印象で飽きてしまい、中断しました。そこで小説を漁ってみたところ、久し振りにポール・オースターにはまりました。

まず「偶然の音楽」から一気に読了したのだけれど、その後にやはり数日で読み終えた「リヴァイアサン」のほうから感想を書くことにします。というのは、フーコーの次のような言及と合致すると思ったからです。「狂気の歴史」という自著について語る部分です(P.17)。

――あなたは本当に自分の書物を爆弾のようなものと考えておられたのですね。

まったくそのとおりです。わたしはこの書物をきわめて強い爆風のようなものだと考えていました。そしていまでも、ドアや窓を吹き飛ばす爆風のようなものになると夢見ているのです・・・・・・。わたしの夢は、この書物が爆弾のように効果的で、花火のように楽しい爆発物となることでした。

ところが、フーコーの書いた「狂気の歴史」の爆発は起きなかった。そのことをフーコーは残念がっています。花火師、というよりも、ぼくの印象としてはテロリストでしょうか。バクダンを仕掛けるひとです。

テロリストではまずいだろうからあえて花火師と訳したのかもしれませんが、なんとなく花火師は文学的ではあるけれど、のどかな感じが否めません。ぼくが思うにフーコーの過激さは、言論によって既存のできあがった何かを破壊するイノベーティブな姿勢にあって、その意味ではテロリストのほうが合っているんじゃないか。思想の火薬を仕掛けることで既存の文化を破壊し、あたらしい地層をあらわにする。そんな夢想が彼の言葉に込められていたのではないか、と。

このフーコーの花火師のイメージが、ぼくにはオースターの「リヴァイアサン」に重なりました。「リヴァイアサン」はベンジャミン・サックスという作家が、ある契機から人生の意味を問い直しはじめるとともに、いままでとは違った人生に歩みを進める。数奇な運命に翻弄された結果として、各地にある自由の女神像の模型をバクダンで吹き飛ばす自由の怪人(ファントム・オブ・リバティ)というテロリストへの道を歩み、自らも吹き飛ばしてしまう。そんな破滅にまっしぐらな物語です。

オースターの作品は、全体的に自滅的なストーリーが多い。自滅を悲壮感なしに、ある種の淡々とした静けさのもとに書き上げる乾いたトーンが彼の文学の魅力じゃないか、とぼくは思っています。ただ、読んでいてどうにもやりきれない寂寥感が残ります。村上春樹さんの作品を読んだあとにも何かしら満たされない諦観を感じるのですが、オースターの作品の読後感に残るのは、自嘲のような寂しさです。人間ってそんなものだよな、ばっかだよねえ(ふっ)みたいな。

その見下した感じが、ぼくは少しばかり好きではない。物語はものすごく面白い。構想はすばらしいと思います。パズルのピースが組み合わさって、最後に一枚の絵となる物語構築の完璧さは見事です。作家としての力量は絶賛したいところです。でもなぜかしら・・・うーむ、どうだ?というしこりが残る。なんだろう、これは。

うまく言えないのですが、登場人物の感情に立ち入らないで、作品中の人物の人生をコマとして動かす作家としての傲慢さ、のようなものを感じてしまうからかもしれません。

作家に対して、書かれた作品のなかの人物への思いやりやモラルを問うのはどうか、ということはありますが、あんたこのひと爆死させちゃっても何とも思わないでしょ、爆死に向けてディティールを設計しちゃったでしょ、うまく作ったよね、という印象を抱いてしまう。きっとオースターに投げかけたとしたら、だろ?(にやり)のように嗤う彼を想像して、なんだか白ける。作品に対する冷淡な姿勢が気に入らないのでしょうか。偏見かもしれませんが、登場人物をかわいがらない作家だと思いました。

しかしながら、通常、読者というものはそういう視点から物語を読まないものでしょう。ぼくが創作というものを作家の立場から考えてしまうから、うがった見方をしてしまうのかもしれないですね。

物語では、ピーター・エアロンとベンジャミン・サックスというふたりの作家の友情を核として、彼等を取り巻くファニー、リリアン、マリアなどのさまざまな女性との人間模様が描かれています。ファニーはサックスの妻ですが、ピーターは彼女に憧れていて、サックスがいない間に関係を持ってしまう。なんとなく漱石的な三角関係ですが、淡々と欧米的に進行していきます。リリアンとマリアは友人であり、マリアと過ごしながら、サックスは友人であるリリアンのもとへ行ってしまう。物語はもっと複雑なのだけれど、すべてを語ってしまうと物語を読み進める愉しさが半減してしまうので、語らずにおきます。この複雑な曼荼羅のような関係をうまく組み合わせて進行していく物語は、ほんとうにうまい。

ある衝撃的なできごとを契機に、サックスは小説を書くことをやめてしまい、妻ファニーとの関係も放棄して、そこからめまぐるしい転落をしていく。こういう数奇な運命を描くオースターは真骨頂という感じです。ぐいぐいと読ませるエンターテイメントの魅力があります。

ああ、でも感想を書いていて思ったのだけれど、ぼくはオースターがどこか好きではないんだな。とてつもなく面白い話を書ける作家であり、アメリカ文学の歴史に残る作家だとは思うのだけれど、ぼくのなかの何かが拒絶反応を起こしている。琴線に触れない。娯楽映画のような印象があって、という意味でもアメリカ的なのかもしれないのですが、なんだか馴染めない。

面白かったのだけれど、心の深いところでは(ぼくにとっては)なぜか楽しめない困惑する1冊でした。けれども個人的には現在の殺伐とした気分に合っていて、あっという間に読み終えてしまいました。10月21日読了。

投稿者: birdwing 日時: 23:40 | | トラックバック (0)