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2008年5月 2日

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価格と価値。

音楽のダウンロード販売が隆盛の時勢に、ぼくはまだ一度もダウンロードで音楽を購入したことがありません。ファイルにお金を払うのは実体がないような気がしています。身体というイレモノのないタマシイだけを買い求める感じがするから?時代遅れですね(苦笑)。アプリケーションソフトのパッケージがどんどんなくなっていく時代に、われながらそれはないだろうと思う。

たぶんレコードやカセットからCDやMDを経由して、iPodなどで音楽を聴くようになった世代だからかもしれません。パッケージからダウンロードへの過渡期に生きてきたわけです。最初から音楽はファイルで供給されるものだという文化を背景に育てば、何も問題がない気がしています。

考えてみるとレコードでは(若いひとって知ってる?レコード)、A面とB面がありました。それがCDでは全曲を通して聴くようになり、最初はわずかばかりの戸惑いがあったと記憶しています。そのメディアの変化は、CDパッケージの構成にも影響を与えているのではないでしょうか。A面/B面に別かれている場合、それぞれ気持ちを導入させる最初の曲、なんとなく締める最後の曲を配置します。なので、A/Bの構成に区切りがある。でも、CDからのアルバムにはそういう区切りはあまりないのではないか。

もちろんダウンロードで購入すれば、いいこともたくさんあるはずです。とにかく部屋を物理的に圧迫することがない。最近は紙ジャケット風のものが増えてきたけれど、CDケースによるスペースが軽減されます。それから、たとえばCDショップで試聴するような無駄な時間を減らすことができる。家で簡単に入手できるようになります。あるいは、アルバムではなくて楽曲単位で購入することもできるので、ほんとうに聴きたい1曲だけを手に入れることもできます。それでもなぜか、ぼくは非効率なパッケージを選んでしまうのだけれど。

ダウンロードによる音楽の流通は、一方で無料配布という動向にも広がりをみせて話題を呼びました。

大きな話題を呼んだのは、レディオヘッドの「勝手に好きな値段を付けてくれ」というセンセーショナルな配布方法だったかと思います。結局、その後にCD販売もすることになり、ぼくはといえばCDで買いました。個人的な感想を言わせてもらうと、あらゆる雑誌で絶賛されていたけれど、それほどでもないな、と思った。というよりもこのアルバムの音が個人的に肌に合いませんでした。あんまり好きじゃない(苦笑)。なので、騒がれなければ、買わなかったかもしれません。もう聴いていないし。このアルバムです。

In Rainbows
Radiohead
In Rainbows
曲名リスト
1. 15 Step
2. Bodysnatchers
3. Nude
4. Weird Fishes/Arpeggi
5. All I Need
6. Faust Arp
7. Reckoner
8. House of Cards
9. Jigsaw Falling into Place
10. Videotape

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レディオヘッドの過激なプロモーション(プロモーション=販促というのは皮肉か。苦笑。まあ結果として、売れたのだからプロモーションの一環ではないか、と)に追随するようにして、以後、プリンス、ナイン・インチ・ネイルズなどがダウンロードで作品を発表するようになったようです。そして、コールドプレイもシングルを無料配布するとのこと。以下、Itmediaの「レディオヘッド、「価格はあなた次第」は一度きり」から記事を引用します。

オンライン版無人販売所でアルバムにお金を払ってもらうというレディオヘッドの決定は、同バンドが問題を抱えていたEMIから離れた直後に下されたものだった。この決定を受け、音楽業界そしてCD販売という先細りする収入源の今後の方向性について多数の人が意見を交わした。

 レディオヘッドは依然、この実験が成功したかどうかについては沈黙している。多くのファンは一銭も払わずにアルバムをダウンロードしたと考えられている。「In Rainbows」は後に従来通りにCDでリリースされ、米国と英国のチャートで1位になった。

 無料楽曲へと向かうかもしれないこの画期的なやり方は、プリンス、ナイン・インチ・ネイルズなど多数のアーティストに採用された。最近では英国のロックバンドのコールドプレイが4月28日に、ニューシングル「Violet Hill」を無料でダウンロード提供すると発表。その結果、同バンドのWebサイトは翌日にアクセス殺到でダウンした。

ここであらためて考えるのは、価値と価格とは何か、ということです。

やはり、アマチュアではなくてプロのミュージシャンが技術や魂を込めて作った音楽には、対価を払いたい。それが商業的に増産されたBGMのようなものであっても、もし場の雰囲気を変えるようなものであれば(たとえば、美味しく食事をできるような音であれば)、対価が支払われて当然です。プロの作家が書いた本をきちんとお金を払って購入して読むように、貨幣という基準で交換が成立する。お金を支払うべき価値がある。

個人的には思い入れの強い曲、そうではない曲があると思うので、価格のモノサシが変わるのもわかります。だから、レディオヘッドのようにリスナーが金額を決めるというのもありだと思う。ただ冷静に客観視すると、おまえらどうせ高く買うだろう?というアーティストの驕りがなきにしもあらず、ですけどね。実際には結局「一銭も払わずにアルバムをダウンロードした」リスナーが多かったとしても。

一方で、ぼくなどは趣味のDTMで制作した曲を無料で公開しまくっているのですが、楽曲を売ろうという衝動が生まれたことは、いまのところありません。売れるレベルじゃないだろう、という実感もある。ただ、“対価”のようなものはあって、何かというと、聴いてくれたということ、感想をいただけることです。つまりは、それが紛れもない対価であったりする。貨幣の価値以上に尊いのではないかと思っています。

ブログの世界にもいえるですが、受信されたという満足感が大きな価値となります。星を付けたりコメントをいただかなくても、かまわない。もちろん大勢に聴いてもらえば喜びもひとしおだと思うのですが、100万人のアクセスよりもたったひとりの絶賛がうれしいことがある。

いま複数の本を乱読しているのですが、やや宗教的な匂いを感じつつも「思考するカンパニー」というアミタ株式会社の熊野英介さんの本に共感を得ました。

4344996119思考するカンパニー―欲望の大量生産から利他的モデルへ
熊野 英介
幻冬舎メディアコンサルティング 2008-02

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いじめ、自殺、猟奇的殺人が起きる現代を嘆きつつ、シューマッハーとドラッカーの著作にヒントを得つつ、「企業を超えた企業」を標榜されて、事業を模索されているようです。その冒頭で、価値を変えることの重要性を説かれています。引用します(P.13)。

人の言動と行動を変えるためには、価値観を変える必要がある。
価値観を変えるため、教育を変え、そして習慣を変えなければならない。

音楽のダウンロードによる無料配布も、レディオヘッドのような単なる反逆精神の注目集めではなく、追随したアーティストの柳の下にどじょうのようなプロモーションでもなく、社会における価値観の変革として考える必要があるのではないでしょうか。でなければ、ぼくは、「1回きりだけどもうやらない」という、レディオヘッドの腰砕けのような状況に終わるような気がしています。無料で配布しつづけたら、すげーなレディオヘッド、やっぱりカリスマだ、と尊敬したのですけどね。・・・残念です。

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ちなみに今日は、会社の帰りに久し振りにCDショップに立ち寄ってこのCDを買いました。

マイ・フーリッシュ・ハート
エディ・ヒギンズ&スコット・ハミルトン エディ・ヒギンズ スコット・ハミルトン
マイ・フーリッシュ・ハート
曲名リスト
1. マイ・フーリッシュ・ハート
2. ロシアの子守歌
3. ホワット・イズ・ゼア・トゥ・セイ
4. ザット・オールド・ブラック・マジック
5. スカイラーク
6. 夜も昼も
7. エンブレイサブル・ユー
8. アム・アイ・ブルー
9. ジーズ・フーリッシュ・シングス
10. ザ・モア・アイ・シー・ユー
11. ザ・ソング・イズ・ユー
12. ジス・ラブ・オブ・マイン

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エディ・ヒギンズの煌くようなピアノと、スコット・ハミルトンの肌触りを感じさせるようなテナーサックスに癒されるなあ。夜中にこんなピアノの音を聴いてあれこれ思いを巡らせている女性がいたら、素敵だなあと思う。惚れてしまうかも。そんなしあわせな気分に浸りつつ、黄金の休日のはじまりです。特別な予定はないけどね(苦笑)。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

a000937

コンテンツありき、ユーザーありき。

気候はもはや夏ですね!あったかいを通り越して、暑くなってきました。今日は気温が30度を超えた地域もあったようですが、東京でもここ数日、陽射しの強い日がつづいています。そして、袖が短くなったり(つまり半袖)丈が短くなったり(つまりミニスカート)、街を歩くひとたちの装いも軽やかになってまいりました。

ええと、読まれている女性の方に対してはちょっと恥ずかしいのだけれど、ついでに自分のフェチ具合をカミングアウトするのもいかがなものかと思うのですが、あのう、女性の二の腕が好きです(照)。もっと好きなのは脚なんですけど・・・。

ところで、休日に「笑っていいとも!」をテレビで見ていたら、モデルの方が二の腕の美しい見せ方についてお話されていました。腕を身体から離す、つまり腋を空けると二の腕が美しく見える、とのこと。何気にインパクトのあるTipsではないでしょうか。つまり、腕を身体にぴたっと密着させると肉が横に広がるので、二の腕が太く見える。腋を離すと肉がたゆまないので美しく見えるそうです。お試しください。しかし、無理に脇を空けていると、鍛えられて太くなっちゃいそうな気もしますけどね。余計な心配か(苦笑)。

さて、コンテンツビジネスについて考察しようと思います(きりり)。

はああ、フェチな話をしたあとでは、きりりとできない(泣)。いや、しかし、気分を入れ替えて、真面目に考察します。

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先日、はてなのモバイル機能変更の騒動について考察したのですが、このときにさらに考えたのは、ユーザー視点からはもちろん、コンテンツビジネスという企業視点からこの機能変更がどういう意義があるのか、ということでした。

つまり、はてなも企業である以上、営利を追求しているわけです。この機能変更によって、はてなのビジネスとしてのチャンスは何かあるのか。というよりも、そもそもどうやって、はてなは儲けているのか。そして儲けとユーザー視点、サービスはどのような相互関係にあるのか。

通常、ブログやコミュニティのサービスを展開する企業の収益は、広告収入がメインではないかと思います。しかし、有料会員の制度があるはてなとしては、会員から徴収した会費も収入源といえるのではないでしょうか。そして、そのほかにも収入源はあるのではないか。

何気にアフィリエイトでしょうかね。憶測に過ぎないのですが、「はまぞう」というDVDやCDや本をブログに簡単に貼り付けられるサービスがあります。あれはAmazonのAPIを使ったウェブサービスだと認識していますが、はてなダイアリーの利用者が日記に貼り付けた映画やCDを経由して、訪問者がAmazonで何かを購入した場合、はてなにわずかばかりの収益が入るのではないか、ということを考えました。

個人でアフィリエイトプログラムを登録した場合には、おすすめCDからリンクを辿って購入した場合には個人にもちゃりーんとお金が入るのだけれど、きっと数%は、はてなにも落ちるのではないか。つまり販売代行のような仕組みです。したがって、無料のはてなダイアリー使っているユーザーで、映画や音楽好きで、はまぞうを使ってお気に入りのDVDやCDなどをばんばん紹介している場合には、きっと気付かないうちにはてなの収益に貢献している。自分のお気に入りのアルバムを紹介しているだけなのに、はてなを儲けさせている。

ということは、有料会員が増えなくても、映画や音楽好きの無料会員が集まってくれたら、わずかなちゃりーんも積もり積もってそれなりの収益になるのかもしれない。ええと、きちんと検証していないので、あくまでも憶測にすぎません。

なんか騙されている気がしますよね?コンテンツビジネスの裏側の仕組みをある程度理解すると当たり前のことなのだけれど、たぶんユーザーのほとんどは気付かないことだと思います。

はてなの近藤社長は、CNETに「1000万ユーザー規模のサービスを京都から--はてな近藤氏が目指すもの」というインタビューに応じていました。4月28日の記事から引用します。はてなの会社としてのミッションについての回答です。

ミッションですか(笑)。ちゃんと決めてくださいって、よく言われます。これですって1つ示せるものはないんですけど、いま言ってるのは、「自分たちの手で新しいものを作って、世の中の生活を変えよう」ということです。もう少し具体的にいうと、いまはとにかく、1000万人のユーザーを集めるような規模のサービスを作ろうと、数字としては掲げています。

どのように変えたいのか、が見えないのだけれど、1000万人会員を集めたいという意図は伝わります。

ちょっとうがった見方をすると、この記事は、横暴ともいえるモバイルフィルタリング対応や、強力な破壊機能(カテゴリーを消してしまう)のおまけで困惑を誘った「その場編集」機能の実装によって、ユーザーの乖離や批判が浮上したはてなが、急遽イメージアップするために、広報効果を狙った演出にも思えます。タイミングがよすぎる。

つまり、はてなぐらい注目されている企業であれば、CNETにバーター(広告費を出さずに記事を提供すること)で記事を提供する力はあると思います。さすがに編集部との癒着はないかもしれませんが、ユーザーに不安を与えたモバイルフィルタリングの騒動のあと、ユーザーを安心させるには悪しきイメージを払拭させる必要がある。だから広告塔として社長みずから夢を語った。

しかし、ぼくにはこの記事の発言自体が、モバイルフィルタリングの裏側の理由につながってしまうんですよね。どういうことか考察してみます。

あのとき、はてなはモバイルからアクセスした全員に「会員登録」をさせようとしていたわけです。つまり、会員を集める=収益構造を安定化させる、という企業の論理から、あの無謀な機能追加を強制的に行ったのではないか。

せっかくアクセスした日記なのに、会員登録しなければコメントができない・・・であれば、仕方なしに登録しようか、というユーザーもいたはずです。とくに著名人の有名ブログなどでコミュニケーションを楽しみにしていたユーザーにとっては、とにかく登録してコメントしたいと思ったのではないでしょうか。そんな狙いもあって、企業の論理から強制的に登録させようとして非会員ユーザーには登録を課すような機能を実装したのではないか、と。

1000万人会員を集めたい、という目標のためには、強硬手段も仕方ありません。ユーザーからの悲鳴は無視しても、登録は増やしたい。モバイル事業者からの要請と言い訳して、子供たちを有害コンテンツから守るという見せ掛けの正義で覆い隠して、実は登録増加を狙ったのではないか。

一方で、こういう視点もあります。会員以外のユーザーが携帯電話で知人のはてなダイアリーにアクセスしたらどうなるでしょう。

携帯電話の特性から、携帯電話の所有者はPCとは比べものにならないぐらい規模が大きいといえます。しかも、携帯電話は「いつでも、どこでも」個人がモバイルインターネットにアクセスできるツールです。電車のなかでも、ちょっと暇な時間にアクセスできる。ベッドのなかであっても、お気に入りの日記の更新を確認できる。

ここで何が起こるかというと、非会員ではないモバイルユーザーによるアクセスから、はてなのサーバーやインフラに24時間、アクセスの場所を問わずに過剰な負荷がかかることになる、ということです。そのための設備を増強しなければならないし、人員も増やさなければならない。収益に直結する増強であれば問題ありません。しかしながら、非会員のコメントは、単なる負荷にすぎない。はてなの収益には何も貢献しない。

だから、はてなは、モバイルフィルタリングという大義を前面に出しながら、自社の収益に貢献しない「負荷(=非会員モバイルユーザー)」を排除しようとしたのではないか。

ということを考えてみると、はてならしい施策ともいえます(苦笑)。ユーザーを単なる収益や機能改善のためのモルモットとしか考えていない。そんな企業姿勢が浮き彫りになる。

そういえば、はてなスターの機能を実装したときにも、ぼくらが時間を削って一生懸命に書いたブログの文章を「流れて消えていくもの」のように表現していたことを思い出しました。その拙い弁明に対して、ブロガーとして強い反発と憤りを感じたっけ。ユーザーに対する説明のひとつも満足にできない、へんてこな日本語しか使えない開発者のおまえに言われたくないだろう、と。

いま、秋草孝さんの「見えるデザイン」という本を読んでいるのですが、そのなかで、ひとびとの利益(=喜び)を優先することが企画には重要である、ということが書かれていました。

4620318698見えるアイデア ヴィジュアル・コミュニケーション・トレーニング塾
秋草 孝
毎日新聞社 2008-03-14

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読み始めたばかりなのに、今日はさらに二冊購入。そのうちの一冊は、幻冬舎から、熊野英介さんの「思考するカンパニー」という本です。偶然ではありますが、こちらでも環境への取り組みを触れながら、営利を追求する企業であっても、利他的な思考の重要性を説かれています。

4344996119思考するカンパニー―欲望の大量生産から利他的モデルへ
熊野 英介
幻冬舎メディアコンサルティング 2008-02

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自社の儲けや利益だけを盲目的に追求する企業は、利用者に愛想をつかされていく。利用者はそれほど馬鹿ではありません。むしろインターネットの登場により、利口になってきている。それよりも重要なことは、設立当初のユーザー視点に立脚した姿勢を、はてなは見失っているように感じています。あるいは時代の流れが変わりつつあることに気付いていない、というか。

「へんな会社」であるはてながどこへ向かおうとしているのか。正直なところ、ぼくにはよくわかりません。海外進出も志があったというよりも、何となく行ってみた(梅田望夫さんがシリコンバレーからの風も吹かせてくれたので)という印象があります。そして厳しい批判をすれば、結局のところ失敗したのではないか、という冷めた目もある。

しかしながら、開発のアイディア=企画に少しでもユーザー視点が加味されれば、若干はよくなるのではないかという期待もあります。「生活を変えるような」画期的なコンテンツありき、でもあるのですが、やはりユーザーありきのサービスではないか、と考えるので。

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あ、そうだ。備忘録的に書いておくと、もう一冊購入した本は、これ。

4777909964おしゃべりなデザイン―ニッポンのクリエイター12人のインタビュー集
田村 十七男 六本木 泰彦 Real Design編集部
〓出版社 2008-03

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12人のデザイナーさんのインタビューです。ロボットのデザイナーさんもいる。ぼくはデザイナーではないのですが、デザインを仕事とするひとに対する憧れはあります。彼らの思考から、しなやかさを学びたいと思っています。

投稿者: birdwing 日時: 01:01 | | トラックバック (0)

2008年4月26日

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闘争論。

人間が精神面や身体能力で飛躍的に伸びるとき、成長するときについて考えてみました。

幼児の場合、そもそも成長率が高い状態にあります。別格だと思う。ぼくもふたりの息子の成長をみていて、痛切に感じたことですが、生まれたばかりの赤ちゃんが喋ることを覚え、立ち上がり、やがて友達と走り出すスピードはものすごい。ほんとうにびっくりします。昨日できなかったことが今日はできている。まったく別の子供になっているような印象さえ受けます。その成長の速度を目の当たりにすると、のほほーんと昨日と同じ生活を送っている大人である自分の成長のなさに焦ったものです。

また、10代や20代の若い時期も同様でしょう。この時期の特長は遠くを見過ぎていることでしょうか。それがまあ若さなのだけれど、意図的もしくは潜在的に背伸びをしている状態にあります。だから理想と現実のギャップに悩んだり凹みがちなのですが、背伸びをすることが成長の原動力になっていることも多い。

本人たちにとっては停滞感があったとしても、もっと上の大人たちからみると、彼等の成長はめざましい。届かない理想であっても、手を伸ばしている姿が美しいですね。あとちょっとでリーチできるような状態だってある。誠実に手を伸ばそうとしている姿がまばゆい。素直だしね。

そんな時期をとっくに通り越していま思うのは、おじさんたちはもはや成長が止まっている、ということです(苦笑)。成長を考えるときに、まず身体の動きが硬い、鈍い、動けない。あとは、衰退していくばかり、のようにみえます。新しい何かを開拓するよりも、いままで確保した何かを使い減らしていくことに意識が向いてしまう。

しかしですね、それでいいのか。持続的な成長なくして企業の発展もあり得ないように、個人の成長なくして、社会の成長もあり得ない。勝手に成長していく子供たちや若者たちはともかく、おじさんたちも日々新たに成長すべきじゃないか、とあらためて背筋を伸ばしました。成長なんか知るか、俺が楽しければいいんだという考え方もありかもしれません。ただし、ぼくも含めて、そんな大人になれない大人たちの考え方が、社会を行き詰らせている気がしています。

一般的な「べき」論で語ってしまうとどうかと思うので、自ら主体的に宣言すると、ぼくは成長したいですね。まだまだ変われると思う。というか変わりたいし、自分を変えてくれる誰かと出会いたい。憂さばらしに酒を飲んでくだを巻いて、てきとーに仕事やって趣味を楽しむ、そんな人生もありですが、そうやって生きているとなんとなく毎日が弛緩する。

現役でありたいものです。みかけは現役のようにみえて実質的にリタイアして余生のような感じで居残っている人間もいるけれど、さまざまなことに対して現役のスタンスを守りたい。ブログであれば、もちろん他者のブログを読むひとであると同時に、書けるひとでいたい。趣味のDTMであれば、過去に作った曲を引用するのではなく、新しい作品をひとつでも発表したい。

ひょっとしたらぼくはまだ精神的におじさんになりきれていない、というか青い?と思ったりしたのだけれど、成長したいんだよう(泣)。ほんとうに自分を変えたいのです、いま。

しかしながら身体的にも精神的にも、老いていく自分を感じずにはいられないわけで、ものすごい危機感がある。先日ひとつまた年を取って崖っぷちに追い込まれた気がする昨今、なんとかしなければ状態がつづいています。

というわけで、はてな批判、茂木健一郎さん批判と、今週は立てつづき過激なエントリーを書いてみたのですが、はてなにも茂木健一郎さんにも悪いのだけれど、背筋が伸びました。

つまり批判するということは、逆にいえば自分も批判される立場に晒されるわけで、緊張感がともなう。ぼくは勢いで感覚的に書いてしまったのだけれど、本来であるならば批評や批判には、緻密な情報収集や学習、分析が必要になります。裏付けのない憤りだけを感情のおもむくままにぶちまけて、批評・批判するのは幼稚すぎる。ちょっと真面目にビジネスモデルや知的なあれこれを勉強し直そうと思いました。

そして思うのだけれど、オトコは・・・ってちょっと気合が入りすぎて恥ずかしいけど・・・自分よりも格の上のものに喧嘩をうるべきではないか。強いやつにあえて歯を剥く。もちろん相手のほうが強いから、ぼこぼこにやられてしまうわけですが、その反逆精神が成長のエネルギーになる。

よくブログなどを読んでいて、くだらねーなと思うのは、同じレベルもしくは自分よりも下の弱者にコメントなどで批判して溜飲を下げていたり、あるいは不毛なやりとり自体をエンドレスで愉しむ暗さがあることです。ブロガーどうしの論争もありだとは思うけれど、感情論的に炎上させる方向性は不毛でしかなくて、むしろそんなことをやっているのであれば、社会だとか、政治だとか、あるいは世界という相手にならないくらいでかい何かと格闘したほうがいい。

社会や政治や世界を相手にしたら勝ち目はありません。しかし、勝ち目のない闘争に熱くなることが、必要なのではないかと思いました。

いまあらためて考えるのは、もうちょっと硬派でもいいな、と。しっぽを丸めてしあわせな小屋で眠る犬よりも、荒野を放浪するぎらぎらと目つきの悪いオオカミでありたい。でもやっぱり身のほどというものはあるもので、ぼくの場合には、しっぽを振って、わん!と叫ぶ犬になってしまうのかもしれないけれど(苦笑)。というか、ブログのハンドルは鳥なんですけどね。どうでもいいか。

少し視点を変えるのですが、なんだかやりきれない社会になっているような気がします。人身事故による電車の遅れが毎日のようにあったり、動機が曖昧なままの殺人事件が多発したり、社会全体をなんとなく行き詰った何かが覆っている。不穏な空気がある。

やや軽めのところで気になることを述べると、現在、企業においては内部統制が流行りだけれど、あれはビジネスを失速させるための余計な潮流にしか思えないのですが、どうでしょう。もちろんやらなければならない理由はたくさんあるかと思います。大義だってある。しかし、かつての何倍もの書類を発生させることが、果たしてビジネスをよりよくするためになることなのかどうなのか。

書類作りにやっきになると、本業の仕事をする時間がどんどん損なわれていくような気がしてなりません。疲弊するばかりで生産性は上がっていない。むしろ競争力が衰えていくのを感じる。書類作りのために去勢されて、くたびれはててしまう。そもそも管理を強化することで、飛躍的にビジネスの成長がもたらされることはないんじゃないだろうか。管理は、コスト削減や効率化のためとしては必要だけれど、管理自体が本業と離れたところでメタボリックに体質を圧迫する企業は、書類の重さで沈んでいくような気がします。本末転倒という感じ。

喩えるならば、「未来世紀ブラジル」という映画のなかで風刺された世界でしょうか。YouTubeからトレイラーを引用します。

コーネリアス(小山田圭吾さん)がこの映画のタイトルである楽曲をカバーされていましたね。

闘い方にもいろいろあると思うのですが(風刺も闘い方のひとつではある)、キバを失わないようにしたいと思います。いちおう、いくつになっても、青臭い理想を熱く語りたがる野心に溢れたオトコのコでいたい。

逃走ではなく闘争する姿勢で、飼いならされた犬ではなく、傭兵のようなオオカミ的な志をもって生きてみたいものです。というわけで、とりあえず吠えてみました。わん・・・(やっぱり犬か。苦笑)。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2008年3月19日

a000918

青いロマンス。

新宿の駅では全面的にプロモーションされていて、小田急線の車内広告でも告知されているのだけれど、小田急がブランドロゴを変えたとか。そういえば先日、青いロマンスカーが開通して、一部ローカルな話題にもなっていました。

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ちいさな子供はどういうわけか電車が好きです。電車のなかのノイズが胎内の音に近いからというようなことも聞いた覚えがあるのですが、真偽はわかりません。電車に限らず自動車なども好きなので、単純に動くものが好きなのかもしれない。

いまはティーン(といっても10代にはいったばかり)になった長男くんですが、幼稚園の頃までは電車オタクに近い感じでした。○○系という細かいところまで記憶していたぐらいです。ところが成長するにしたがって別のものに興味を惹かれて、まったくその天才的な知識は消滅してしまった。

逆に次男くんのほうは、暗記はまったくだめで、車両の名前を「すーぱーいえろー」など勝手に命名してしまう(苦笑)。が、彼は絵にはこだわりがあり、まだ3歳ぐらいのときにソニックの絵を書かされて、ものすごいダメ出しをくらったことがありました。ソニックは難しいんだよう(泣)山の手線にしてくれ。中央線でもいいけど(同じか)。

さて、ブランドロゴの変更と青いロマンスカーのお披露目のためか、東京のビジネス街のとあるビルの前には(というか大手町ですが)、青いロマンスカーの催し物が設置されていました。

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何だろうと近づいてみると、ちょっとしたバーのような感じになっていて、そこで飲み物を売っている。なかなか力が入っています(このイベントは19日で終了とのこと)。

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ロマンスカーといえば昔は赤が定番だったのだけれど、白いスマートなVSEが登場してから、イメージが変わってきました。丸っこい以前のロマンスカーと比べると親しみやすさはなくなった気がします。けれども洗練された車体のデザインという感じ。ちょっとヨーロッパっぽい?これがVSE。

080319_romancwcarVSE.JPG

そして今回は青。通勤電車として東京メトロに乗り入れる意味もあるのではないかと思います。そもそも小田急線は一部、地下鉄千代田線の路線内も走っているのですが、なんとなく地下鉄にロマンスカーが走るのは違和感がある。遭遇したら驚きそう。

ロゴのブランドイメージなどについては、以下で説明されています。説明からコンセプトの部分を引用します。

■「小田急グループ ブランドマーク」を制定(PDFファイル)
http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/3353_1782322_.pdf

このマークは、「豊かな沿線環境のもとに、自然・歴史・都市文化の新しい 融合、豊かな生活の創造、より多くの上質と感動を提供していく小田急 グループ」を表現しています。デザインのコンセプトとして、小田急 ブランドの基準となる価値観のキーワード「真摯」「進取」「機知」「融和」を根底におき、「躍動感」「先進性」「お客さまとのつながり」 といったこれからのグループの姿勢を、odakyu の頭文字である「O(オー)」 の中にダイナミックに集約させました。ブランドマークメインカラーの ブルーは、小田急線を中心に長年親しまれてきた色であり、「小田急らしさ の誇り」として使用していきます。

悪くはないですね。もともと小田急線の各駅停車は青い車体だったわけでもあり、よりブルーのイメージと統合されたという感じでしょうか。しかし、気になるのは小田急百貨店などはどうするか、ということ。現状ではまだ昔のロゴを使っているようです。ODAKYUのAの文字がとんがったようなロゴです。百貨店にこのロゴが合うかどうかは、なんとなく疑問もないわけではない。昔のロゴに馴染みすぎているせいかもしれないけれど。

ちなみに小田急グループの経営理念は次のようになります。

小田急グループは、お客さまの「かけがえのない時間(とき)」と「ゆたかなくらし」の 実現に貢献します。

輸送時間の短縮化や、さまざまなニーズに合わせてバリエーションを用意することは、利用者の「時間」と「くらし」を豊かにするものだと思います。理念-ロゴデザイン-具体的な施策(MSE)という整合性はきちんと合っていて好感が持てます。ただし、その理念のために周辺住民が我慢しなければならないことが生じると、どうかと思いますが。

鉄道の未来としては、リニアモーターカーの開業(首都圏-中京圏)は2025年となっているようです。物理的に時間の短縮となり、利用者にとっては、かけがえのない時間を有効活用できるようになります。とはいえ、既存の電車レベルでは複々線化やダイヤ改正などによって対応するしかない。青いロマンスカーの登場も、小田急にとっては新たな需要を生み出すためのイノベーションのひとつのように思われます。

鉄道のような運輸の分野においても、時代に合わせた変革の必要性があるのでしょう。どのような事業展開をしていくかということにもつながると思うのですが、新しいもの好きの自分としては、青いロマンスの登場に期待しています。

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■青いロマンスカーの特設サイト。
http://www.odakyu.jp/romancecar/mse/index.html

080319_romancecar_mse.JPG

投稿者: birdwing 日時: 23:58 | | トラックバック (0)

2008年2月27日

a000900

個体と所属する意識。

「マイノリティ・リポート」という映画を先日のエントリーで取り上げたのだけれど、映画のなかで人間の個体を識別するような場面があったことを記憶しています。ずいぶん前に観たので曖昧ですが、道路を歩いていくと「○○さん、こんにちは。××の製品はいかがですか?」のように壁の動画広告から呼びかけられる。電子チップのようなもので個体が識別されて、それぞれ個別に売り込むような近未来型の広告です。

たまに洋服を買いに行って店員さんに呼びかけられるのだけでも鬱陶しいのに、ポスターに呼びかけられたら嫌だな、と思ったことを覚えていました。しかしながら、よく考えてみると現在でも携帯電話は個体識別情報を持っています。位置情報サービスと組み合わせて、そんなことを実際にやろうとしていた動きもあったような気がします。そんな広告をやられたら、ぼくは即効でサービスを解約したくなりますけどね(苦笑)。

ペットには個体識別のICタグを埋め込んだりすることがあるようですが、さすがにまだ人間では研究段階のようです。バイオテクノロジーやナノテクノロジーのような技術開発が進展すると可能になるのでしょうか。どこへ行っても追跡されるので、タグなんか埋め込まれるのは困りますよね。

個体を識別する場合には、付随的にその個体が“どこに所属しているか”という情報も付加されるはずです。個体の所属する組織などの個人情報がデータベース化される。

紐付けをあまりにも過剰にやりすぎると監視社会のようなものになりますが、生きていると好むと好まざるに関係なく所属しなければならない組織あるいはコミュニティのようなものがあります。たとえば、次のようなものでしょうか。

  • 国籍(日本)

  • 地域(都道府県など)

  • 家族、親戚

所属といっても絶対ではなくて、変えようと思えば変えられるものではあります。でも、拘束力は強い。準ずるものとして、次のようなものも考えられます。

  • 学校(在籍、卒業)

  • 職場、企業

  • ライフラインの利用(電話、ガス、水道など)

  • 銀行、保険

どこに加入しているか、などという感じ。さらにゆるいものとしては、次のような感じでしょうか。

  • 持ち物(クルマとか、家とか)

  • 資格取得

  • 嗜好品(タバコ、酒)

  • 好きなブランド(服装、飲食、家電など)

  • 趣味

  • プロバイダー

  • 加入しているブログサービス(ブロガーの場合)

  • コミュニティ、ソーシャルネットワーク

いま3段階のグルーピングのレベル、あるいはコミュニティのようなものを挙げましたが、ひとによってはどのグループに所属するかという意識の強さが違うものです。意識に強弱があるというか、優先順位があるというか、重要度のグラデーションがかかっている。

たとえば、大和魂に惚れこんで日本人であることに誇りを持っているひとの場合には、国籍に対する所属意識が高い。逆に、この企業で一生働きますという場合には企業が重要、学歴重視であれば卒業した大学の重要度が高くなります。その仲間意識が強くなる。

終身雇用制が崩壊した(って言い切っちゃっていいのかな?)現在、学歴や企業はそれほど強い力を持っていないのかもしれませんが、それでもまだコミュニティとしてのつながりは強いのではないでしょうか。目にみえないけれども連帯感や拘束力のようなものがあります。

ただ、そんな個体と所属組織についてぼくが考えておきたいのは

コミュニティは静的ではなく、動的に生成変化するものである

ということではないか、ということでした。たとえば日本といっても歴史のなかでさまざまな変化がありました。ゴーイング・コンサーンと呼ばれ、永続することが前提である企業であっても、時代に合わせて変わっていく。表面的にはとっつきにくいコミュニティであったとしても、将来的にはまったく変わってしまうかもしれないわけです。ひょっとすると「あなた(誰か)」が参加することで、化学反応のようなものが起きて、まったく違う組織になってしまうこともある。

だから面白いんですよね。

同質のものだけを求めるコミュニティはかなり脆くて、実は異質なものを迎えるコミュニティのほうが活性化していくものです。異なるものを排除する組織は短期的には居心地が良くなるかもしれないけれど、長期的には弱体化するのではないか。というのは新しい風が吹かなくなる。

26日に久石譲さんの「感動をつくれますか?」という新書を読み終えました。このなかで久石さんは、日本人はカテゴリーを重視する民族であると指摘されています。カテゴリー(あるいは所属意識)を尊重するあまり、ブレイクスルーが生まれにくい。お互いに牽制あるいは空気を読みすぎて、悪いと思っていても悪いことを指摘できないし、これはいい!ということも大きな声で言えないわけです。協調性を大事にすることかもしれないけれど、なあなあになる。

マズローの欲求段階説(解説はWikipedia)では、5段階のうちの3段階目が「親和(所属愛)の欲求」とされていて、それぞれの段階が満たすことによって上位の段階に進むことができるような解説であると認識しています。ただ、ぼくが思うのは自分探しと同等にコミュニティ探しにやっきになることもありますが、過剰に所属意識を求めると依存的な傾向が強まり、自律できないような気がする。

もちろん日本には数々のイノベーションを生み出してきた企業もあり、すべての日本人がそうだとは言えないのだけれど、ぼくはコミュニティを逸脱するような生き方もあっていいと思うし、またそういう人材をフォローしたり受け止めてあげるような社会があってこそ、創造的な何か=イノベーションが生まれるのではないか、と期待もしています。

コミュニティに所属することによって、長期的には大きな影響をもたらすものです。環境が個人に及ぼす影響は大きい。国や企業のような大きな器もそうですが、家族や夫婦ものちいさな社会も同様。

ただ、所属という考え方は絶対的なものではなく、変えられるもの、選べるものであるという意識も必要ではないでしょうか。選択するのは他でもない自分です。たとえ辛くても、自分が選んだ人生であればなんとかしようとも思う。誰かに委ねたときに、思考停止や戦意喪失して自主的に動けなくなるものです。

仕事も組織も、実は自分で選べるんだ、と思うとちょっと楽になる。がんじがらめに身動きできなくしているのは、ひょっとすると自分の意識のせいなのかもしれません。

投稿者: birdwing 日時: 23:10 | | トラックバック (0)