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2006年8月 6日

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想像力、言葉化、対話の欠如。

夏の定番というか、昨日テレビで「ウォーターボーイズ」という映画が再放映されていました(ついでに「スウィングガールズ」もやっていたらしい)。水泳は得意ではないにもかかわらず、うちの長男はこの映画が大好きで、昨日もじっくりと観ていたようです。という彼は来週からスイミングスクールに通わなければならないのですが、このときに気になるのはやはりプールの管理問題です。埼玉県の小学2年生の女児が亡くなった事件のことは、やはり子供を持つ親としては気がかりです。

本日、埼玉県ふじみ野市の市営プールで小学2年生の戸丸瑛梨香さんが死亡した事故で瑛梨香さんの葬儀が行われたようです。瑛梨香さんのご冥福をお祈りいたします。同じちいさな子供を持つ親として、痛いほどに事故のこと、憤りを感じられていることに共感します。

この事件について、あってはならないことだ、というのは強く感じるし、管理会社の杜撰な対策もひどいと思う。けれども、この事故が投げかけた波紋はもっと大きいもので、単に埼玉のできことにとどまることではありません。この事故が問題なのは、すべてのプールに対する不信感を生じさせたということ、あるいは業務委託という業態の会社すべてに対する体制に信頼がもてなくなったということです。だから大きな社会問題であると感じました。プールを利用するときには、どうしてもこのプール大丈夫?という気持ちになる。プールの監視ではなくても業務委託されている会社には、ほんとうに責任もってやってんの?という疑惑の目でみてしまう。

このとき、日本のマスコミをはじめとして一般の対応で顕著な傾向は、問題を起こした会社の当事者を吊るし上げること、批判することではないかと思います。もちろんそれは重要ではあるのだけど、ぼくは問題はそれだけでは解決しないような気がするのです。どうしてそういうことが起きるのだろう、ということを考えつづける必要があるのではないか、と。

一度、うーむ、わかりません、と考えを保留したのですが、実はぼくはいまもその原因と対策について考えつづけています。建築上の問題であれば専門家にお任せすることにして、社会全体を覆う「場の空気」に問題があるような気がしました。そこで、自分がこれまでブログで考えてきた思考の観点から、考察を加えようと思います。ものすごく個人的な考察であり、さらに、もしかすると既にジャーナリストの方が語っているかもしれません。ブロガーであるぼくは、本来であれば情報を収集してブロガーの見解に目を通すべきだとは思うのですが、残念ながら、それぞれのコメントを全部チェックする時間もありません。そこで、とりあえず自分の考えた範囲のことを試しにまとめてみることにします。

このプール事故に、3つの視点による問題を考えました。

ひとつめは「想像力の欠如」、ふたつめは「言葉化されないこと」、そして最後のみっつめは「対話の欠如」です。

まず、「想像力の欠如」の問題としては、企業はリスクを回避するために、危機を想定して仮想的に現実をシミュレーションできるか、ということが重要になると思います。こりゃあり得ないことだなと思えることまで、可能性を追求する必要がある。今回、排水溝の蓋がはずれたら誰かが吸い込まれる可能性はあるわけで、さらにその事態を想像すれば、蓋を上にあげてそのままにしておくという行為によって、より危険度が高まることは容易に想像できるはずです。そのことが想像できなかった。想像できないから適切な行動も起こせなかった。

少し話が横道にそれるのですが、一時の感情に流されて親を殺してしまう子供もいますが、その子供たちにも想像力が欠けている気がする。というのは、殺してしまったあとのことを想像すれば、自分がどのように厳しい状況に置かれるか、わかるのではないでしょうか。そんな冷静な状態にないから殺人が起きるのだ、ともいえるのですが、一度すべての行動を留保して、「よく考える」ということが重要だと思います。考えなしに行動することは、よりリスクのともなう結果を引き起こすような気がします。

ふたつめの「言葉化されないこと」の問題では、想像力があったとしても、心のなかで「なんかこれって危険なことになりそうだ」と思っていたとしたら、他者と共有することはできません。元アルバイトが危機管理に問題があると思っていた、とか何とか言っていましたが、思っていたのに言わなかったら、きみも同罪だろう、という気がする。ただアルバイトにそこまで求めるのは酷な話で、管理者が言葉化する必要があります。

さらにこういうときに、体制を明確に決めないこと(=言葉化しないこと)も問題です。たとえば、排水溝の蓋が外れたら、外れた箇所に数人を配備し、お客様を誘導するひと、修理のための道具を取りに行くひと、など、きちんとしたフォーメーションを取る必要がある。先日、組織論で批判的な文章を書いたのですが、こういう状況下に「場の空気を読んで、自分で判断して行動しなさい」というリーダーは、リーダーとしての役目を果たしていない。守備範囲をきちんと規定しないから、ぽてんヒットも生まれるわけで、「それはあなたの仕事でしょ?」「え、あなたがやると思ってたけど?」と譲り合うようなことになる。非常に慎み深い光景かもしれないのですが、一般の企業においては、思いやりで配置を決めていたら、とんでもないことになります。「いやーみんなで助け合っていこうよ。協調性が大事でしょ」などと言う経営者に限って、失敗については責任転嫁するものです。私の采配のミスです、と潔く覚悟できているひとは少ないのではないでしょうか。だって部下が勝手にやっちゃったんだもん、知らないもん、という弁明が多い。

みっつめの「対話の欠如」については、危険を感じたひとが危険であることを告げると同時に、管理会社などが「聴く」姿勢にあるかどうか、という問題が重要だと思います。どんなに現場で危機感を感じて訴えていても、上層部にその内容を「聴く」姿勢がなければ、問題は硬直化します。監視社会というと、どうしても告げ口や足を引っ張る方向というイメージが大きいのですが、このような人命を損なうような危険なことについて、はっきりと言える風土があること、そのはっきり言ったことを聴く姿勢があることが重要だと思いました。権力的に握り潰されてしまうような気がしますね、会社にとって不利なことは。でも、きちんと言いたいこと言える会社が、健全な会社であると思います。

と、私見を長々と書きましたが、それでもぼくはまだ「わかりません」という気がします。いま社会に起きている現象をいくつか横断的にピックアップしつつ、また考察してみようと思います。

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2006年7月11日

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メディアに力はあるのだけれど。

格差社会について昨日ブログで書いていたところ、会社からの帰りに駅の売店で日経ビジネスの表紙に「日米欧総力取材 格差の世紀 Global Gapitalismを誰が止めるか」というタイトルをみつけて、つい買ってしまいました。Gapitalismという造語はどうかと思ったのですが。

しかしながら、読んでちょっとがっかりしました。600円も払って、もったいなかったなと後悔しています。ブログなので思ったことをストレートに書きたいと思うのですが、内容が薄っぺらな気がしました。たかが16ページの特集なので、深い考察まで踏み込めないのかもしれませんが、これが「総力取材」なのでしょうか。大文字の言葉で語られているけれど、あまり目新しい見解はありません。たとえば「激しさを増す企業間競争」。そう書いてしまうともっともらしいのだけど、あまりにも大きな括りすぎて、何がどのように激しさを増しているのか焦点が定まらない感じです。それでも大変そうだ、という気持ちは伝わってくるのですが。

マスメディアは気楽なものかもしれません。煽ればいいだけなので。

しかしながら、その格差社会で生き抜かなければならないのは、いったい誰だろうと思う。

結局のところ、この特集記事において、未来への展望を感じさせる記事はまったくありませんでした。煽られている気持ちはあります。厳しい社会がくる、と脅されている感じもある。しかし、未来への構想は、ほとんどありません。しいていえば「格差資本主義に抗う英知を」という特集最後の2ページで、もう現役を退こうとしているビル・ゲイツ氏を登場させて、「その未来図を書き換える英知が我々にあるのだろうか」で結んでいるところでしょうか。とはいえ、非常に曖昧で悲観的な推測です。結びとしてはあまりにも弱い気がします。

このような危機感を煽るだけの薄っぺらなメディアの記事を読むぐらいであれば、むしろブログを読んだほうがよい、などという極論を考えました。地面を這うようなブログの英知のなかにこそ、未来を感じさせる何かがある。現実を生きているひとたちの言葉があります。

手を抜いたわけではないだろうけれども、なんとなく納得できない特集記事のために、600円という小遣いをはたいて買わされてしまうと、だからブログは新聞を殺すなんてことも言われてしまうんだと、なんとなく冷たい批判も生まれてきます。恐竜のような古びた言葉をたいそうに繰り返されても、ぼくの知的欲求はあまり満たされないようです。煽るのはほんとうに簡単だと思います。けれども展望や構想がなければ、読む気持ちも失せてしまいます。

これも日経という勝ち組メディアの奢りなのかもしれないな、と感じました。

三重県亀山のシャープの工場における非正社員の急増と労働者の使い捨てという記事から特集は始まるのですが、この記事においても、記者のまなざしに「無念さ」に対する「共感」が感じられません。というのは、その後に「格差論は甘えです/ほとんどがぜいたく失業/やりたい仕事と能力は別」という、ザ・アールの奥谷禮子さんのインタビューを配置しているからで、これは編集の暴力のようにも思えるのだけど、「やる気があれば何でもできる社会ですよ」と言い切ってしまう奥谷さん自身がもはや勝ち組の発言で、その権力的な言葉こそが格差社会を加速するものではないかと思いました。ウォルマートの抱えている問題も、なんとなくもう一歩先にある核心に触れていない印象がありました。

しかし、ぼくがそのように書かれた記事の背後を過剰に読み取ってしまうのは、「こころの格差社会」という海原純子さんの本を読んでいたからかもしれません。もし、海原さんの本を読んでいなければ、ああ大変な社会になるんだ、頑張らなくては、と思ったかもしれない。そもそも、ジャーナリズムはいま世界で起こっていることを伝えるのであって、これからあるべき姿については触れられないものです。しかし、「こころの格差社会」を読んで、権力がもたらす問題を意識し、あらねばならぬ的な思考を離れて二者択一的な考え方を捨てて考えてみると、このようなメディアの権力的な言葉にこそ抗わねばならないのではないか、という気持ちも生じてきます。つまり無意識的に、格差社会のぼんやりとした幽霊(ゴースト)を実体化させてしまう恐れもある。

実は今日は、ほんとうは「こころの格差社会」という本から、勝ち組ではなく負け組がしあわせになる方法、自分らしさを追及することの誤解と前向きにとらえた考え方、老子に学ぶしなやかな生き方などについて書きたかったのですが、つい雑誌に刺激されてしまって、感想を述べてみました。怒りに任せて書いた印象もありますが、別に怒っているわけではありません。

プロのメディアには、ブログが到底及ばないような、それこそ「総力取材」という力があると思います。なんとなく現状をまとめた記事ではなく、プロならではの深い洞察に満ちた記事を読みたいと思っています。

と、言いたいことを書いてしまいましたが、メディア批判をするにはまだまだ勉強が足りません。さまざまな本を読みつつ、考えを深めていくつもりです。

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2006年5月29日

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デザインと物語。

ビジネスで最も権威のある資格といえばMBAという気がするのですが、「ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代」という本を読んでいたところ、もうMBAの時代ではない、ということが書かれていて驚きました。では何が求められるかというとMFA(Master of Fine Arts)、つまり美術学修士とのこと。GMは「我々の仕事はアート・ビジネスだ」と主張しているようです。つまりロジックで武装した人間よりも、クリエイティブな発想をする人間を求めているとのこと。そして機能だけでなく、デザインのできるひとが重視されていく、とダニエル・ピンクさんは論じていくわけです。

デザインとは何か、というのはなかなか難しい定義ですが、「デザインとは、多くの分野にまたがったものです。ここでは、全体論的に物事を考えられる人材を養成しているのです」とチャーター建築学校のクレア・キャラガーさんの言葉が引用されていて、なるほどと思いました。確かに平面であっても立体であっても、デザインを考えるときには全体をとらえる必要がある。また、全体をとらえるだけでなく、そこには「美」意識が必要になります。つまり、感動を生むこと、共感を生むための力が求められるわけです。

デザインは空間的なものだけでなく、「設計」という意味に置き換えれば時間的にも有効になります。人生設計、というように、歴史の流れをつかんでいまあるべき姿を追求するのも、大きな意味ではデザインといえるかもしれません。

しあわせなことにぼくはデザインに近い仕事をしていて、まさに会社で隣の席には優秀なデザイナーさんが座っているのですが、ほんとうにデザイナーさんはすごいと思う。仕事ぶりをみていて尊敬します。アーティストとデザイナーの違いもあるかと思うのですが、それは何かというと、まさにこの本で欄外に引用されているアンナ・カステッリ・フェリエーリさんという家具デザイナーさんの次のような言葉だと思います(P.153)。

実用的なものが美しいというのは間違っている。美しいものこそ実用的なのだ。美しさは、よりよい生活や考え方を私たちにもたらしてくれる。

フロリダ州の選挙で問題になったのは、投票用紙のデザインである、ということが書かれていました。「バタフライ方式」と呼ばれているようですが、ページが複数ページに渡っていて「どのページにも投票すること」と書かれていたため、誤って二人の候補を投票するひとが続出した。このように「ひどいデザイン」が、世の中を変えてしまうこともある。ちょっと怖い。

世のなかが豊かになってくると、機能的なものだけでは差別化できなくなってくるので、デザインによる差別化が進展するということは頷けます。確かに最近、おかしな形をしたペットボトルが多くなりました。その前には食玩(つまりおまけ)が添付されているものが多かったのですが、それだけでは差別化できなくなったのでしょう。もちろん外側の容器だけでなく、製品自体の開発も進んでいると思います。ちなみに余談ですが、いま、ぼくが気になっているのは、スパークリング・カフェ(炭酸入りコーヒー)なのですが、まだ飲んでいません。組み合わせの発想のような気もするのですが、どうでしょう。

「ハイ・コンセプト」という本には次世代に重要な6つのセンスが提示されていて、その第一がデザインでした。そして、第二は何かというと「物語」です。

物語というのは何となく随分前にマーケティングで言われていたことのように思ったのですが、なるほど、と思ったのは、物語を認識するのも「全体思考」であるということです。文を逐次読み取るのは線的な思考なので、左脳的かなと思っていたのですが、考えてみると起承転結などの構造を理解するのは、全体的な把握になります。映画でも神話でもビジネスの成功事例でもよいのですが「英雄の旅の物語」のような挫折と成功の構造を読み解くこと、パターン認識として構造を理解することは、まさにいくつもの物語を俯瞰するようなものです。

この物語的なセンスというのは、医療の分野でも「物語医学」として取り入れはじめているとのこと。病気を診断するというのは、患者さんが時間の推移によって容態が悪くなっていく「物語」を読むことであり、その読解に誤ると生死に関わることさえある。さらに患者さんの物語に「共感」する力も必要になるわけです。理系の最先端でもあるような医学においても、文系的なアプローチが採用されはじめていることに、ちょっと感動しました。

デザインと物語について考えていたのですが、もともと文学系のぼくは物語的な思考は得意なほうです。しかしながら、デザインに関しては、ちょっと弱い。そんなわけで弱点を強化すべくデザイン系の本のフロアをうろうろしていたところ、次のような面白そうな本に出会いました。

4844358588デザインする技術 ~よりよいデザインのための基礎知識
MdN 2006-05-19

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ああ、また買ってしまった。迷ったんですけどね。ちょっと買い過ぎです。

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2006年5月14日

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インターフェースの進化。

体調を崩して倒れました。来週はいろいろと忙しいので倒れているわけにもいかないのですが、そんなわけで以前に書いてボツにしかけた補欠のエントリーをアップしておきます。

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インターネットの黎明期には情報はテキスト中心だったかと思うのですが、次第に写真や鮮やかなデザインのページが多くなり、Flashの登場によってアニメーションなども追加され、現在はストリーミングでビデオなどもみることができるようになりました。一方で、パソコンが登場したばかりにはコマンドによる文字中心のインターフェースだったのですが、まずはマッキントッシュの登場、そしてWindowsの登場により、GUIが進化して現在に至っています。Windows Vistaでは3Dのような形でウィンドウを表示できるようにもなるようで、究極は奥行きのある擬似立体的なインターフェースになるのかもしれません。

音声や動画による情報はかなり前からマルチメディアと言われてきましたが、CD-ROMからDVDへと記録媒体も進化しつつありますが、残るのはなんだろう、とふと考えることがあります。もし、五感に訴えるとしたら、香りや味覚のようなものかもしれません。

ということを考えていたら、映画館で香りを配信するという記事を見つけました。「NTT Com、映画館に香りを「配信」、ハリウッド映画「ニュー・ワールド」で」というニュースです。

4月22日から5月5日まで、同作品が上映される東京と大阪、2つの映画館の中央部3列に香り発生装置「アロマジュール」を設置。「アロマ・プレミアシート」として楽しんでもらう試み。作品の上映中、いくつかの主要なシーンに合わせて、エッセンシャルオイルをブレンドした「旅立ちの香り」や「運命の香り」などをアロマジュールから発生させる。

シーンに合った、銃の硝煙の匂いとか、レストランの匂いというわけではないんですね。「旅立ちの香り」や「運命の香り」というのは、どんな香りでしょう。非常に抽象的ですが、映像と合っていれば、なるほどねと思うものかもしれません。

仕組みは次のようになっているようです。

香り配信の仕組みは、まず制御サーバーからインターネットを経由して、香りのレシピと映画のシーンに合わせた配信スケジュールを送信。映画館に設置した香り配信用ネットワーク接続装置(LAN-BOX)で取り込む。このLAN-BOXから客席に配置した香り発生装置をコントロールするもの。LAN-BOXは、いったん香りのレシピをダウンロードした後は、LAN配線から切り離して自由に持ち運べるため、映画館やイベント会場などで一定期間のみ香り配信を実施する場合などにも利用できる。

LAN-BOXは、特別な装置なので高価だとは思うのですが、一般化すると自宅でブロードバンド回線で映画を観ながら使うこともできるかもしれません。

3Dのメガネで立体映像というのは、いくつかの映画で上演されていて、ディズニーランドのアトラクションではかなり驚いた気もします。また、サラウンドによる音響の立体効果は、自宅でもかなり簡単に再現できるようになりました。となると、次は匂いや味覚などに訴える装置の登場でしょうか。エンターテイメントもかなり違ったものになるかもしれません。

ただ、どうしても考えてしまうのは、そこまでほんとうに必要なのかどうか、ということです。仕掛けだけが立派になっても、物語がお粗末では、あまり効果的ではないような気もします。

立体映像、立体音響、そして匂いなどまで再現する装置というのは21世紀的ではありますが、20世紀的な映画であっても、楽しめることは楽しめるんですよね。ぼくらは、エスカレートして刺激を求め、さらに贅沢を求めるようになるのかもしれません。

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この香り付き映画は上映が終わってしまったのではないでしょうか。どんなだったのでしょう。気になります。

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2006年5月10日

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エンターテイメントの進化。

任天堂の次世代ゲーム機「レボリューション(開発コード)」の正式名称は「Wii(ウィー)」だそうです。既に多くのブログなどで取り上げられていますが、以前、「怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか」という黒川伊保子さんの本を取り上げ、音のクオリアからネーミングについて考えたこともあったので、このネーミングについてまず考えてみることにします。

wii_main_img.jpg

まず単純にみなさんが感じていることだと思うのですが、ファミリーコンピュータから始まりゲームボーイアドバンス、ゲームキューブという流れのなかで「ウィー」というのはどうなのかという疑問があります。「うぃ〜」と音だけを聴くと、ネガティブなイメージとしては「うぃ〜。ひっく」という酔っ払い的な印象とか、「うぃ〜っす」という、いかりや長介さんの挨拶的な語感がある(古いか)。「任天堂ゲーム機の新名称「Wii」、ファンの反応は複雑」というCNET Japanの記事が面白かったのですが、たしかに微妙な感じがします。海外のブログには、以下のような書き込みもあったようです。

「本当にひどい名前だ。任天堂は新しいゲーム機の名前を独りよがりで決めたというのが一般的な意見だ。この愛称は、フランス語の『ウィ』とか、(英語の)幼児語でおしっこを意味する言葉とも聞こえる。任天堂が期待しているような連想はできないが、皆が興奮している理由はそこなのだろうか?」

おしっこ(Pee)という印象があるのは、若干困ったものかもしれません。ゲーム機らしくない、という感触もあるのですが、「革命」というコードネームを売りにしていただけに、斬新なネーミングを意図したのでしょう。前向きに考えると、そもそも「家庭の誰もが楽しめる」というコンセプトを表す「We」であったこと、Wish(願い)やWillなども連想することから、なかなかよい印象もあります。

任天堂ではWiiのロゴをモーションさせたイメージビデオも公開しているのですが、そのムービーをみていると、ふたつの「i」がひとのようにみえるとともに、Wという空に手を広げたような文字のイメージは悪くないな、という気がしました。最初は、えー??と思ったのですが、なんとなく落ち着いてみると、いい感じかもしれません。やっぱりねと納得できるネーミングより、ちょっと違和感があるぐらいがよいのかもしれない。あまり斬新過ぎるとついていけないのですが、Wiiぐらいであれば斬新でありながら許容範囲です。

ちょうどE3 2006というゲームのイベントを契機として、次世代ゲーム機に対する注目が高まっているのですが、ライバルとなるPLAYSTAITION3は、発売日、スペック、価格(5万9800円)を明確に打ち出しています。国内における情報はCNET Japanの速報で知りました。

ネーミング的な観点からみると、このプレイステーションは、「プレイ」の「レイ」の部分が綴りは違いますが「Ray(光線)」的な鋭利な印象があり、洗練された印象を受けます。さらに、PS2まではPlayStationだったのが、すべて大文字になっている。この意図については、1年ぐらい前の記事ですが、「後藤弘茂のWeekly海外ニュース」のSCEI 久夛良木社長インタビューにその理由が書かれていて、あらためて読み直して興味深いものがありました。

なぜかというと、要するに、PCも全部煮詰まったから、これはPCですかゲーム機ですかといっても始まらない。次のPlaystationは何なんですかという時代に入ったと思っている。だからPLAYSTATIONは"The playstation"。ちょっと気負いもこめてそうしている。

つまりゲーム機ではなくてPLAYSTATIONである、ゲーム機というカテゴリーで比較されては困る、そういう気負いが大文字に込められています。さらにそこで目指そうとしていたのは、家庭用の夢のワークステーションのようです。

今回の3で、プレイステーションって単語は、初めて全部大文字の"PLAYSTATION"にした。Workstationが僕らの夢のコンピュータだったから、最初にPlayStationってつけた。PlayStationは商品名で、PとSで始まっているから「PS」ってロゴをつけたわけ。でも、今回は大文字のPLAYSTATION。

東芝・IBMと共同してCellというプロセッサも開発したのもワークステーション的な発想があったからであり、ハードディスクにはLinuxをOSとして採用するという話もありました。もともと開発のコンセプトから、ゲーム機を目指したわけではなくて、エンターテイメントを目的としたコンピュータだったわけです。

その戦略の違いが、現在に至ってWiiというネーミングとイメージ作りにこだわった任天堂と、スペックと価格という機能的な側面にこだわったSCEという違いに表れたような気もします。しかしながら、そもそも任天堂はファミコン(ファミリーコンピュータ)というコンセプトでゲーム機を普及させたわけであり、コンピュータ的な方向にも進むことができたように思います。けれども、SCEのようにゲームを核とした家庭用ワークステーションのような広がりは求めていない。

久夛良木社長インタビューの2回目では、その辺りの苛立ちがはっきりと語られていて、いまさらながら興味深いと思いました。

僕がおかしいと思うのは、僕らはコンピュータだとずっと言ってるのに、同じ業界の中で任天堂さんが外に向かって玩具だ玩具だと言い切っている。だから、こちらはスーパーコンピュータ並みで輸出入管理が必要なモノを作っているのに、役所とかには玩具だと思われてしまう。

こうした動きについては、アップルコンピュータなども警戒しているように思われます。PowerPCからIntelのプロセッサの採用に移行しはじめたアップルでは、競合として考えているのはWindowsのPCではなく、Linuxを採用するような次世代のゲーム機なのかもしれません。

しかしながら、うちの息子をみていて思うのは、ハードウェアの進化に熱くなるのは、どちらかというとPC好きな父親だけです。子供にとっては面白いアプリケーションが動けば、WiiだろうがPLAYSTATIONだろうが関係はない。

コントローラの進化も注目されていますが、WiiにしてもPLAYSTATION3にしても、無線のコントローラを振り回すことによっていろんなアクションができるようになるようです。うちの息子は、ゲームキューブにしてもPS2にしても、ゲームをやっているときには熱くなってぴょんぴょん飛び跳ねる。ゲームなのに、汗びっしょりになっていることもあります。まだコントローラが本体と線でつながっているので過激な動きは抑制されているのですが、無線のコントローラになったときにどうなることやら心配です。

ところで、いま家にはゲームキューブ、ゲームボーイアドバンス、ゲームボーイアドバンスSP、PS2、PS ONEとゲーム機があるのですが(DSとPSPは持っていません)、ぼくはというとゲームを一切やりません。やったとしても息子には必ず負けるので(しかもハンディをつけてもらってやる)、やらないようにしています。やらないのに新しい機械モノが発表されると気になってしまう。ついでに欲しくなる。困ったものです。

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■Wiiの公式ページ。スティック型のリモコンは、どうしてもテレビのリモコンを思い出してしまい、きっとテレビのリモコンを振り回す子供が出てくるような気がします。逆にテレビのリモコンに、数年後には振ると画面が変わるような機能が追加されたりして。コンセプトビデオがなかなか楽しいです。
http://www.nintendo.co.jp/n10/e3_2006/index.html

■PLAYSTATION3のリリース。以前は、コンセプト紹介的なページがあったような気がするのですが、みつからなくなってしまいました。
http://www.jp.playstation.com/info/release/nr_20060509_ps3.html

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