空のコラージュ。
空ばかりを眺めていた時期がありました。とおい昔のようでもあり。近い昨日のようでもあり。いろいろなことに行き詰っていた日々でした。無音のなかで耳を澄まして狙いをつけた雲の方角へ矢を射るように。空ばかりを眺めていました。
締め切った部屋に寝転んで、腕を枕にして、硝子越しに眺めていた空。あるいは歩くことで辛さを忘れようとして、考えごとをしながら見上げた空。ゆっくり雲が移動する日もあれば、灰色に塗りつぶされていたことも。空は同じようで同じではない。まったく雲のない冬の高い空も悪くはありませんでした。青さがまばゆい。いくら眺めていても空は飽きないものです。飽きることがない空。アオゾラ。
空をデジタルカメラで撮影しようとして立ち止まると、かたわらを通りすぎるひとたちは怪訝な顔をします。そこには何もないので。飛行機雲がきれいな線を引いているときもありました。けれども特別な日だから、特別な対象に向けて、カメラを構えるわけではないでしょう。なんでもない日常だからこそ記録しておきたいこともある。何もない何かをかたちにしておきたい気持ち。それでも空を切り抜くときには細心の注意を払います。同じ青でも空には濃淡がある。一瞬の後には雲のかたちは変わってしまう。繊細なのです。夕暮れ時には特に。
「あなたが、あんまりソラ、ソラいうものだから。」
そんなにいったっけかなあ、とおもいつつ否定はできませんでした。狭く縮こまったこころを解放するには、空の広さが必要だったので。俯いてばかりいるわけにはいかなかったから、せめて顎を上げていたかった。空にこだわったのは、身体的な姿勢の問題もあったのかもしれません。
「散歩の途中、空を眺めて歩いてみました。そうしたら、とてもきれいなのでびっくり。それから後、わたしが、きょうの空はきれいだよ、と何度も言うものだから、おばあちゃんまで天気のいい日には、ほら、みてごらん、きれいな空だよ、とわたしを呼び出すようになってしまって。」
空好きが伝播した、というのは照れくさいけれども、ささやかなよろこびです。空の伝道師として布教するつもりはないのですが、この場所ともつながっている空が、すこしだけ他のひとにもつながるのであれば、空について語りがいがある。
「空について教えてくれて、ありがとう。」
こちらこそ。むしろ感謝するのはこちらのほうです。気象天文に詳しいわけでもなく、風景写真のプロでもなく、ときには空虚さを埋めようとして、あるいは青ければ青いほどかなしい気持ちになって、空を写真におさめていただけだというのに。感謝されるなんて、そんな。
高い場所は風が滞り、低い場所では風が強い日には、速度の違う雲の動きがまるでスライドのように、ひとびとを楽しませてくれます。グラウンドのような場所に佇むと、地上を飛び去っていく雲の影をみることもできる。雲のかたちはさまざまで、いきものや無機質な何かの輪郭を連想させます。雲が太陽を隠すとき、光の濃淡が天上をおもわせるような影をつくることもあります。そうそう。機上から見下ろした雲の連なりは、ひとつの芸術でした。
空にまつわる、ささやかなはなし。
語り得ぬものの上で、空は今日も寡黙に拡がっているばかり。
投稿者: birdwing 日時: 07:02 | パーマリンク | コメント (2) | トラックバック (0)