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2008年7月14日

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空白という充足。

ブログを2週間あまり書かなかったのですが、その間にぼくは何もしなかったわけではありません。むしろめまぐるしいほど狂おしい毎日の連続でした。

空白の時間。まっしろな思考。比喩的に使われる言葉ではありますが、欠如していることが空白ではなく、真っ白な何かで埋め尽くされていることも空白といえるのではないでしょうか。静寂は、音がない状態ではなく、沈黙という静けさで埋め尽くされている。真空は、空気がないという現象でいっぱいである。そして孤独とは、誰かがいないことではなく、自分ひとりの思考で埋め尽くされている状態。そんなこともいえそうです。

また、真っ白であることは、あらゆる可能性をその描かれていないキャンバスのなかに秘めている、ともいえます。白い画用紙の上には、あるいは真っ白なノートの上には、これからさまざまなことを書き込むことができる。未来の可能性として現在の白があるわけで、書かれるはずの何かが白には内包されているのではないか。アタマのなかに描いたイメージを鉛筆で書き起こすのではなく、白い背景のなかに埋まっている図像を浮かび上がらせる行為が、描くという行為なのかもしれません。

などということを考えてしまうのは、昨日、デザイナーの原研哉さんの「白」という本を読了したからでしょう。

4120039374
原 研哉
中央公論新社 2008-05

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慌しく落ち着きのない日々に翻弄されながら、この本を開くと、不思議と落ち着いた気持ちになれました。原研哉さんは、デザイナーとしての職業的な視点を基盤として、和の伝統や背景のコンテクストを張り巡らせながら、白とはなにか、その本質に迫っていきます。

文字の記号的な観点から、□(四角)の図形と白を連携させたイメージは面白いと思いました。本という人口的なモノは、確かに四角形のカタチをしていて、その余白の白さが実は書かれている文章よりも多くを語ることがあります。すばらしいデザインは、文字の配列はもちろんホワイトスペースのバランスが絶妙です。

この本から感じ取ったことについてはいずれゆっくりと書くとして(などと言及すると、結局のところ書かないことが多いのですが)、この空白の期間に買って読んでいた本を書きとめておきます。

ええと、心が弱っていたこともあり、こんな本。

476319612X絵本 小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと
リチャード・カールソン
サンマーク出版 2004-11

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そして、17歳のぼくにとって神様だった、このひとの詩集。

4087462684二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9) (集英社文庫 た 18-9)
川村 和夫 W.I.エリオット
集英社 2008-02-20

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この3冊はすべて、英文も掲載されているのがリッチです。原研哉さんの「白」は、真ん中に観音開きの写真のページがあって後半は英訳になっています。「小さいことにくよくよするな!」は、見出し部分が英語。そして、谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」も英訳された詩が掲載されています。さらにうれしいのは、直筆ノートの写真があること。手書きの詩を読むことができます。しあわせです。憧れの詩人による手書きの文字は、ものすごくあったかい。パソコンによるフォントもよいのですが、手書きだからこそ伝わるやさしさもあります。

張り詰めた気持ちを弛緩させたい、という意味ではこの本も購入。

4532260078ゆるみ力 (日経プレミアシリーズ 7)
阪本 啓一
日本経済新聞出版社 2008-06

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空白という闇に覆われていたので、きちんとオンガクを聞いたり本を読む余裕もなかったのだけれど、少しずつ日常を取り戻していきたいと思います。それにしても眠い。どこかに1日泥のように眠ることができる部屋はないですかね。できれば真っ白な部屋がいいんですけど。

投稿者: birdwing 日時: 21:52 | | トラックバック (0)

2008年6月 1日

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なりたいものに、なりましょう。

少年よ大志を抱け、という言葉があります。志も大事ですが、可能性のカタマリであるところの少年たちには、自由奔放な夢を描いていてほしい。現実的であることは大切かもしれないけれど、最初からちいさくまとまってしまうのはいかがなものか、と思います。できれば型破りな夢を持っていてほしいものです。身の程知らずの夢を持てることは、若さの特権ではないでしょうか。

現在の小学6年生男子のなりたい職業No.1は、野球選手からゲームディレクターに変わってきたというランキング記事を読んだことがありました。時代によって人気のある職業も変わってきているのだと思いますが、ゲームディレクターというのは当たり前すぎる気がします。

というわけで、最も若人であるところの、うちの息子の次男くん(5歳)に、おおきくなったら何になりたい?と訊いてみたところ、こんなお返事をいただきました。

「しゃけになりたい」

ううむ。鮭・・・ですか。それは意外だ(苦笑)。さすがにとーさんもしゃけは思いつかなかった。おいしいもんね。ええと、食べられちゃうのか、きみは。

ちなみに去年の七夕の短冊には「ウルトラマンになりたい」と書いてあったのですが、「あれはせんせいにかかされちゃったんだよね・・・(ためいき)。ほんとうはしゃけになりたかったんだよ」とのこと。たいへんだな、園児も。いろいろと気を使うことも多いようです。しゃけになれるといいね。いや、なれないって(苦笑)

うちの長男くんはわりあいちいさくまとまるタイプですが、この次男くんはかなりぶっとんでいる気がします。先日までは、宇宙に関心があったらしく「やっぱりどせいがいいよね。かせいはあついんだよ。ひだから」などと言って、ぐるぐる星の絵を描いていたのですが、現在のお気に入りはどうも「せかいいさん(世界遺産)」らしい。カッパドキアとか、マチュピチュとか、ナスカの地上絵とか、そんな絵を描いています。

というわけで、先週のいつだったか忘れましたが、軽くビールを飲んで帰る道すがら、子供向けの世界遺産の本を買って帰ろうかと思って書店に寄り道しました。ところが、高価でびっくりした(4000円ぐらいだったと思う)。なので、ナスカの地上絵も載っている「星・星座」の図鑑にしました。

4052025946星・星座 (ニューワイド学研の図鑑)
藤井 旭
学習研究社 2006-11

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さて、若者の夢を憂いてぶつくさ言っているぼくにはなりたい夢があるのか、といまさらながらに自省しました。可能性も夢も枯れてきちゃったわたくし(困惑)ではありますが、夢がないこともない。どんな夢かというと、できることであれば、もういちど学生になりたい。学生をやり直したい。

キャンパスそのものに憧れるということもあるのですが、学生時代に戻って知識を貪欲に吸収したいと思っています。資格のためにとか、仕事に役立てるためにという理由ではなくて、知的好奇心の動いたものに対して徹底的に調べて、その分野についてずんずん知識を掘り下げていきたい。なんというか無駄に詳しくなりたいというか、何の役にも立たないものを丁寧に調べたい欲求があります。

哲学でも構わないし、経済学でもいい。もちろん文学でもかまいません。まずは俯瞰するようにその学問の全体像を学び、歴史的な流れを把握し、次に、これは?という好奇心のフックが動いたものに対して徹底的に調べ上げて考えて、その分野を究めたい。

といっても、タイムマシンで時代を遡らなくても、いまではインターネットを使えばいくらでも学生をやり直すことは可能です。

とっくの昔に学生を卒業したぼくのような人間であっても、ネットという場を活用して、ひとりゼミを立ち上げてアカデミックに学びつづけることができます。茂木健一郎さんも書いていたと思いますが、ネットを使えば永遠の学生として学びつづけることが可能です。独学で学んだことであってもブログに掲載すれば、面白そうだと誰かが便乗してくれたり、間違った知識を修正してくれるかもしれません。

いまさら学生なんて・・・という照れというか強がりもあるのですが、なりたいものになりましょう。自分の無知を再認識して、まっさらな気持ちで学んでいくことができればいいなあと思っています。永遠の学生でありたい。

気がついてみると、もう6月。1年の折り返し地点になりましたが、子供のときに比べると1日1日の重さが軽くなってきているような気もします。今日は昨日の繰り返し、昨日のコピーのようになっている。

なりたい自分のために、ほんのわずかでも1歩踏み出したいものです。ときには1歩後退もしつつ。それでも平均を取ったら最終的には1歩でも進んでいればよしとして。

投稿者: birdwing 日時: 23:22 | | トラックバック (0)

2008年5月30日

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教養のあるひとになりたい、Part-2。

誰でも簡単にネットを使ってブログを書き、関心のある事柄について討論や研究ができる昨今、意外にきちんとできていないのが学んだり討論したりするときの基本姿勢ではないでしょうか。

情報をどうやって探せばいいのか、探した情報の真偽をどう判断していいのか、単に引用するのではなく自分の意見を構築するにはどうすればいいのか、反対意見を述べるときコメントのリテラシーはどうすべきか。ぼくを含めてオトナたちの書き込みをみていても、できているつもりでいて、意外にきちんとできていないひとが多いと思います。こういうことを教えてくれるサイトは少ないですね。

ぼくもブログを書いていて感じることですが、共感した部分を確かめもせずに引用してしまったり、または感情的に脊髄反射で批判してしまったり、なんとなくスタイリッシュに知識を軽くなぞってわかったような振りをしたり、知識が深まっていかないことが多々あります。

そんなぼくの姿勢をあらためて正してくれたのが、「知識だけあるバカになるな!」という本でした。

4479391703知識だけあるバカになるな!
仲正 昌樹
大和書房 2008-02-09

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この本は教養を学ぶ学生の「入門への入門」として書かれたようですが、ぼくのようにネットで何か思考を展開したいと考えているひとにとっても参考になる本だと思います。

困ったひとの例がいくつか挙げられているのですが、読んでいてこれがとても痛い(笑)。疑うことの重要性について考察された第1章から、次を引用します。

P.20

たとえば、大学の授業で、「常識を疑ってみましょう」と先生に言われると、すぐに「そういう先生の言葉を僕(私)は疑います」と答える学生が出てきます。

「そういう先生の言葉を僕(私)は疑います」などという陳腐極まりないことしか言えないくせに、「こんな台詞を返せる私は賢い!」と思い込んでいる学生は、たいてい何も考えていません。自己満足して、思考停止しています。

P.24

結局、自分で考えようとしないで、他人に依存しているわけですね。そういう横着な姿勢を一度身につけてしまうと、何でもかんでも、「~というあなたの言葉を疑います」と言って片付けてしまう。思考停止人間になってしまいます。

2ちゃんねるに意味のない書き込みをしている人とか、ブログで他人の考えを悪し様に言っている人たちは、どこかでそういう横着な癖を身につけてしまったのでしょう。

表面的な意味だけで相手を拒絶することだけでなく、妄信のように相手を信じることも思考停止といえるでしょう。そんなことは分かっている、というスタンスで他人の言葉を聞くと、それ以上にコミュニケーションが深まることはありません。話した言葉、書かれた言葉は氷山の一角のようなもので、その背後には途方もない文脈であったり、そのひとの経験が蓄積されていることがあります。

次の一文は、非常に重要であると感じました(P.47)。

優秀な人間は、“つまらない授業”だとしても何か学ぶべきことを発見できるはずです。

この誠実さは大事ですね。「授業」を「人間」と置き換えてみるとかなり辛辣かつ深い洞察があるように思うのですが、あいつはつまらないやつだ、と思って拒絶したり総括したときに、それ以上歩み寄ることもできなければ、理解を深めることもできない。もちろん見切ることが必要な場合もありますが、それでシャットアウトしてしまうことも多い。

一般的に否定と総括は思考停止させる思考ではないかと考えました。どういうことかというと、例えば「創造力は光だ」と発言したとします。そのときに否定系ならびに総括系のバリエーションを挙げてみると、以下のようなコメントを付けることです。

■否定系
①理由なき否定:「それは違うだろ
②その逆を言及:「いや創造力は闇だね
③人間失格:「だからおまえはダメなんだよ
④無気力:「そんなこと言って何になるのさ
⑤理解放棄:「まったく言っていることがわかりません

■総括系
①人間に換言:「おまえってそういうやつだよね
②全体に換言:「社会なんてそんなものだよ
③過去に換言:「昔から言われていることだよ
④偉人の威:「○○あたりが言っていそうだな
⑤終了宣言:「ブログの創造力の議論は、もう終わってるよ

奢っているように聞こえるのではないでしょうか。高みから見下ろして発言しているように聞こえる。誰かに対して、あるいは誰かが発言したことに対して、上記のようなコメントを付けると賢そうにみえることは確かです。しかしながら、その実は何も考えていない。

特に否定系では、発言されている軸に対して別の軸を立てれば、いくらでも発言できるわけで、安易にフォーマット化された思考なわけです。そして、仲正昌樹さんも書かれていることですが、この二項対立の思考は善/悪という枠組みに押し込めてしまうので、危険な思考でもあります。

教養あるひとになるためには、謙虚であることが重要です。以下、引用します(P.193)。

勉強すればするほど、知的に謙虚になり、自分のことを反省的に振り返るようになれる人ばかりであれば、何の問題もありません。自分の知的限界が本当に分かっていれば、次にどうすべきか自ずから分かってくるはずです。そういう人が、「教養のある人」だと思います。
ほとんどの人はその逆です。勉強して知識が増すほど、横着で傲慢になっていきます。横着で傲慢になると、自分の無知や考え違いを素直に認めることができません。頭が堅くなり、新しいことが学べなくなります。

自分に都合の悪い情報を隔離して、気持ちのいい言葉だけを受け入れようとすること。誰かの発言にわかったような否定や総括だけ加えて、それ以上そのひとの言葉に耳を傾けようとしないこと。そんな奢った姿勢を反省して、謙虚でありたいと思っています。

投稿者: birdwing 日時: 23:17 | | トラックバック (0)

2008年5月26日

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教養のあるひとになりたい、Part‐1。

つづけざまに本を読了しつつあるのですが、日曜日にこれ。

4344996119思考するカンパニー―欲望の大量生産から利他的モデルへ
熊野 英介
幻冬舎メディアコンサルティング 2008-02

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そして月曜日にこれを読了。

4479391703知識だけあるバカになるな!
仲正 昌樹
大和書房 2008-02-09

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どちらも非常に幅広い分野について触れている本であり、視野を広げてくれる感じがしました。

まず、「思考するカンパニー」ですが、これは環境コンサルティングなどの事業を展開しているアミタ株式会社の代表取締役である熊野英介さんが書かれた本です。非常に共感しました。しかしながら、うーむ、と考えてしまうところもあった、と正直に記しておきます。どこか宗教的な気もする。

歴史から生物学から哲学まで、さまざまな文化を横断する論点は確かにスリリングな感じもするのだけれど、どこかもう少し知識を深めてから判断したい気持ちもあります。批判的ではないのですが、よい/悪いという判断で語れない内容といえます。

メディア論のようなものも考えたいので、あえて裏側的なことを語ってしまうと、たぶんこの本は幻冬舎のカスタム出版ではないかと思います。

これは何かと言うと、企業が制作費用を出して主として企業のイメージアップや製品の啓蒙のために作る、いわゆる企業の自費出版のようなものです。つまり、一般的に書籍の企画を立てたとしても、出版社としては売れなければその企画は通りません。しかし、お金を出すなら別です。そうして企業が制作費を出して、まるでパンフレットのようにPRのために本を作る。この本もそういう作られ方をしたのではないか、と推測しています。

しかしですね、その内容が優れていれば、若者を引き寄せるリクルートツールにもなれば、社会的な価値を生み、取引を拡大するための営業ツールにもなると思う。ぼくは、お金にものを言わせて本を作ることが悪いとは思わないし、結局のところ、しょうもない本は読者に見破られるだけのことであり、自然に淘汰されていく。サイトで問い合わせをくれたひとに無料配布するとか、セミナーに来てくれたひとにノベルティといっしょに配るとか、そんな使い方もあるわけで、それは企業の姿勢によるものだと考えます。

という周辺を踏まえた上で、ぼくは熊野さんの利他的モデル、性弱説という考え方に共感しました。競争社会のなかで強いものだけが生き残る、いわゆる西洋的な強者/弱者の勝ち負けを基準とした考え方ではなく、弱いものだからこそ進化できるという発想に魅力を感じます。また、現代において孤独が病となっていることに着目して、自分のためではなく誰かのために何かをすること、利他的な思考を個人だけでなく企業レベルで追及していく、ということには、なんとなくあたたかいものを感じました。

ただ・・・やはりそれが企業になったときどうなのか、ということがぼくには何とも言えない。農業と工業の次に来ると書かれている「心産業」、「フィロカルチャー(Philoculture)」あるいは「マインダストリー(Mindustry)」というコンセプトも興味深いのだけれど、この本のなかから具体的な施策がみえてくるかというと、ぼくにはいまひとつみえませんでした。

といっても気になるので、環境ビジネス関連は今後も継続してウォッチしていきたいと考えています。グリーンITなども注目されていますが、企業の環境への取り組みは、これからより活発になってくるような気もするので。

それにしても、この本のなかに熊野さんが詰め込んださまざまな知識や日本をみつめるまなざしには、思わず唸るものがありました。教養があるというのは、こういうことなのかもしれないな、という印象を受けました。しかしながら、ほんとうの教養とは何か、ということを深く考えさせられたのは、次の「知識だけあるバカになるな!」かもしれません。この内容についてはまたいつか。

投稿者: birdwing 日時: 23:14 | | トラックバック (0)

2008年5月18日

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音楽と映像。

「海でのはなし。」という映画を借りてきたのですが、10分観てダメだこりゃと断念。そもそもスピッツの音楽から生まれた映画、という創作の過程に関心を持ったのですが、映画というのは映像があって音を付けたほうがいいのではないか、という素朴な疑問が浮かびました。

B000NJLVYW海でのはなし。
大宮エリー
ポニーキャニオン 2007-05-25

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全編に絶え間なくスピッツの音楽が流されると、なんとなく苛立ってくる(苦笑)。スピッツファンのみなさんにはすみません。彼等の音楽のせいというよりも、ドラマのなかの台詞と音楽の歌詞がぶつかっている気がしました。いっそのことインストゥルメンタルのほうがいい。・・・・でも正直言うと、彼等の音楽の甘さにも少し原因があるのではないか。これは生理的な、というか感覚的な、好みの問題かもしれません。

スピッツの音楽を生かす場合には、音楽なしで映画を展開して、最後のスタッフロールでこの映画を製作するきっかけとなった曲を流したほうがいいんじゃないですかね。

まったく音楽なしの映画、というのがあるのかどうなのか、映画通ではないぼくにはわからないのだけれど、物語の内容を詰めていって、最後にばーんと曲がきて、どどーっと落涙させるというか、ああ、やっぱりこの物語にはこの曲だよね、という感動を生むほうがよいと思いました。・・・とここまで考えて気付いたのですが、テレビドラマ自体がそんな構成になっていますね。ドラマの山場のシーンで曲が流れるわけで。

それにしても「海でのできごと。」は、そもそもドラマの内容がとても甘ったるい少女マンガ的な印象を受けたので、やさぐれたおじさんが休日に観るようなものではなかったなあ(苦笑)。中学生であれば観るのかもしれません。しかし、中学生はスピッツ聴かないのではなかろうか。と、すれば誰がこの映画を観るのか。宮崎あおいのファンだろうか。

批評するのであれば全部を観て批評すべきだと思うので、この映画に対する言及はここまでとします。ええと、観ないで返却しちゃったので。10分で観る必要なしと判断しました。

よい映画音楽とは、という高尚なことはぼくは語れないのですが、音楽に映像を付けるのであればどうしてもPV(プロモーションビデオ)のように、物語性が弱い空間的な映像にしたほうがよいのではないでしょうか。そして逆に、映画に音楽を付けるのであれば、物語や映像に邪魔にならない音楽がいい。あっちの映像とこっち音楽を組み合わせたらよいという話ではない。お互いに干渉しあう映像と音楽を持ってきただけの作品は成立しないような気がします。

ということを書いていて思い出したのは、久石譲さんの「感動をつくれますか?」という本のなかで「映像と音楽の共存」として書かれていたことでした。

4047100617感動をつくれますか? (角川oneテーマ21)
久石 譲
角川書店 2006-08

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「あの夏、いちばん静かな海。」という映画を作るときに、北野武監督から言われたことが印象的でした(P.76)。

試写のあとにいわれたことがまた印象的だった。
「普通なら音楽が必ず入る箇所があるでしょう? そういう箇所から一切、抜きましょう」
音楽がつく箇所というのは、だいたい映画関係者はわかる。それをやらない方向でいくという。そんなことをいう監督に会ったのは初めてだった。普通は音楽を入れることでよりドラマチックに盛り上げたいものだからだ。

この北野武さんの映画は、ぼくもかなり前に観たのだけれど、よい映画だと思いました。静かに泣ける。

B000UMP1FWあの夏、いちばん静かな海。
北野武
バンダイビジュアル 2007-10-26

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映画に挿入された久石譲さんの音楽をYouTubeから。ああ、なんだかこういう音楽をぼくも作りたい気がする(涙)。

■Silent Love 久石譲

「感動をつくれますか?」の本で久石譲さんは過剰な演出について批判し、北野武さんのスタイルに共感を示します。たとえばコイビト同士がいるとき、ふたりを見つめ合わせて、好きだと言わせて、バックに甘いメロディーを流し、さらにテロップで「彼等は愛し合っていた」というような演出がテレビの常套手段だったりするのですが、これはくどい、と。

映画でもこういう説明過剰なやり方は多い。
そういうのは薄ら寒くて嫌だという北野さんの考え方に、僕は共感するところが大きかった。
北野さんの映像の撮り方は、恋愛関係にある二人だったら、ただ寄り添っているだけでいいというものだ。寂しいシーンは寂しいまま、セリフも入れない。俳優に無理な演技をさせることもない。とってつけたような演技をさせるくらいなら、何もしないで佇んでいたほうがいい。

よい文章も同じことが言えるかもしれないですね。「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」というアンソロジーのなかに、作家レイモンド・カーヴァーと編集者ゴードン・リッシュの逸話が書かれていて、リッシュはカーヴァーの原稿をざくざく削ってしまったらしいのですが、結果としてその甘ったるい部分を削除する推敲が作品としての完成度を上げたとのこと。

というわけで、語らないことが多くを語る、ということもあるようです。音楽のない無音の状態であっても、ぼくらは内なる音でその無音を埋めることができる。作り手が過剰に音や言葉や映像で埋めてしまうことが、逆に作品の豊穣さを損ねてしまうことがあるということも認識すべきでしょう。

投稿者: birdwing 日時: 23:52 | | トラックバック (0)