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2006年6月11日

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夢を、あきらめない。

少年の頃、学校の文集には必ず「将来の夢」というテーマがあったような気がします。ぼくの夢は、発明家だったような気もするし、小説家や詩人だったような気もする。父がぼくに託した夢は、教師になることだったのですが、残念ながらぼくは父の夢をかなえることはできませんでした。息子というのはそういうもので、父の願いとは別の方向に育ってしまうものかもしれない。うちのふたりの息子たちもどうなることやら、という感じです。

帰省の途中で立ち寄った書店に、これはという本があり、ついつい買ってしまいました。1歳から100歳までのひとりひとりの笑顔と夢についての文章をまとめた「1歳から100歳の夢」という本です。

卒業文集のように同時代的な夢をまとめるのではなく、世代を縦に100年分横断しているのがいい。まず1歳の木村春太くんの夢からはじまります。まだ文章が書けないので、クレヨンの絵なのですが、なんだか伝わってくるものがある。

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ごくふつうのひとがふつうの夢を語っていく。これがじーんとします。感動する文章が多いのですが、16歳の中平希望さんの「大好きを歌う」という次の文章がよかった。オペラ歌手になるために努力しているようですが、厳しいことがたくさんあるらしい。

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好きで歌っているものに点数がつけられて順位がつけられるのはとても辛い事です。毎日毎日どんなに練習を重ねても向き不向き、さらには才能なんかある人にはやっぱりかなわなかったりして。一時期にはそれが原因で光のない暗闇に落ちてしまった事もありました。

つづいて27歳の河野由紀子さんの夢なのですが、「おばあちゃんになりたい」という言葉があり、思わずシンクロニシティを感じてしまった。というのもかつてぼくはこのブログで「おじいさんになりたい。」という掌編小説を書いていたからでした。悪性リンパ種で入院したときに、同じ病気の50代の戦友(年上なのですが共に病気を克服するという意味で戦友と呼んでいたそうです)が「次の誕生日を迎えられるかな」と言っていたことが忘れられないそうです。歳を取るのが恥ずかしい、というのはよく言われることですが、ひとつ年齢を重ねることができるのは大病のひとにとっては、ものすごく「うれしい」ことである。泣けました。一日一日を精一杯生きなくては、と思いました。

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男性の素敵な文章もたくさんあります。そして素敵な笑顔がある。44歳の北川善浩さんは、新婚旅行のハワイでトラブルがあって奥さんを傷つけてしまった。そのときのことを謝るために、へそくりを貯めて、もういちど奥さんとハワイに行くことを考えているとのこと。

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50歳を超えたらこんな感じになりたいと思ったのが、大学で教鞭もとられている広瀬敏明さんの笑顔です。それから、うちの親父に似ているな、と思ったのが94歳の葛城眞さん。「百薬の酒と羊羹」というタイトルで、一日の終わりのささやかな楽しみについて書かれています。うちの親父も生前は酒が大好きだったのですが、あと25年ぐらい生きて、葛城さんのようなおじいさんになってほしかった。

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そして最後は100歳の矢谷千歳さんの夢で終わります。「悲しいとき つらいときも 楽しいことも 夢のようで/大事にしてもらい 大事に云ってもらい 長生きを喜んでもらい うれしい」という言葉に重みがあります。そして人生にも自然と同じように春夏秋冬がある、自然と同じかと思う、という言葉で結ばれています。

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100人のなかには、91歳で東京造形芸術大学通信教育部の写真コースに入ったというおじいさんもいました。90歳でも夢をあきらめずに追いかけている姿に感動しました。いくつになっても夢は持っていたいし、その夢に向って前向きに取り組んでいたいものです。

この本は読み終わったら、息子たちの写真といっしょに田舎の母に送ってやろうと思います。

さて、ソトコトという雑誌の7月号に、「特集:【完全保存版】ザ・ベスト・オブロハスデザイン」という記事があって、ぼくはこの重い雑誌も買ってしまってしばらく鞄に入れていました。

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ロハスとはLifestyles Of Health And Sustainabilityの略で、健康と環境に留意したライフスタイルだとか。世界的な動きらしい。ぼくはなにか広告や商業的な思惑が入っているような気がして、いまひとつ全面的に素直に受け止められない偏見があったのですが、「あなたにとってロハスとは?」というページに書かれた読者審査員の感想には頷けるものがありました(P.78)。つまりこういうことです。

丁寧に/暮らすこと。
未来を/想像しながら/今を生きること。
いらいらしないこと。/いらいらしないためには/どうすればいいか、/考えること。
祖先や子供たちへの/リレーが自然に繋がること。

これはよいなあ、と思いました。

ところで、Vocaloid MEIKOのコンテスト結果が発表されました。ぼくは入賞できませんでしたが、なんと!以前このブログで取り上げたMonkey & 36 Maniacsさんが拝郷メイコ賞でレコーディングとのこと。おおーっなんだかひとごとでありながら、うれしい。2月の時点で、このひとは才能がある、すごそうだと思っていたのですが、ひとつ抜け出たのではないでしょうか。

ぼくは残念な結果でしたが、そもそもお祭りに便乗したようなものであるし、ぼくはぼくの夢をあきらめずにいたいものです。それがどんなにささやかな夢であったとしても。

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■「1歳から100歳の夢」。現在45歳あたりを読んでいます。

49020970871歳から100歳の夢
日本ドリームプロジェクト
いろは出版 2006-04

by G-Tools

■「1歳から100歳の夢」を推進している日本ドリームプロジェクトの公式ホームページ。「みなさんの夢」のコンテンツでいくつかの夢をみることができます。

http://www.hello-iroha.com/dream/

■Vocaloid MEIKOコンテストの結果発表ページ。さすがみなさんクオリティが高いです。夢をかなえたという感じでしょうか。

http://players.music-eclub.com/contest_archive.php?id=017

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2006年6月10日

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耳をすます、全体を想う。

集中して誰かの話に耳を傾ける、という2日間でした。まずお仕事では、非常にレベルの高い合宿ミーティングに参加しました。ぼくは書記の役割(レポーター)なので、発言をノート(ノートパソコンではなくてこれがアナログなのですが大判のA4ノート)に書き取りつつ、その後、ミーティングの時間の1.5倍分ぐらいの時間をかけて、ICレコーダに録音した話を聞き取り直してノートの空欄に足りない言葉をびっしりと書き込んでいく。最初のうちは専門的な用語が気になるものです。ところが、全体の流れを把握しつつ何を言おうとしているのか、ということを考えているうちに、いろいろとみえてくるものがありました。

というお仕事の後、久し振りに単独で田舎に帰ったのですが、ひとり暮らしをしている母は待ってましたとばかりにぼくを迎えて、高齢でぼけつつある姉と姉妹兄弟のあいだにあった鬱屈した話を弾丸のようにぶつけてくる。姉をどうするか残りの4人の兄弟姉妹で話しているうちに、末っ子であるうちの母に押し付けようとするので、ついに怒りをぶつけてしまったようです。相続の話、どろぼう騒ぎを起こしてしまったこと(何も盗まれていなかったのだが、ぼけてしまったおばさんは荷物の位置が変わっただけで誰かが盗んだと思ったらしい)、施設に入れるべきかどうするべきかなど、たまりにたまった不満や不安を一気に話す。

ふだんのぼくであれば若干受け止めきれないところもあったかもしれないのですが、仕事で集中して耳を傾けるモードに入っていたぼくは、とにかく母に話したいだけ話をさせるようにしました。吐き出せるだけ吐き出したあとには母もすっきりしたようです。ぼくはというと、そのあとぐったり疲れて寝込みましたが。

話を聞くというのは難しい行為だと思います。ただ受動的に聞いているだけだろ?ともいえるのですが、受動的であっても自分のバイアスがかかってしまう。ほんとうに話したいことを聞き取っているのか、真意はどこか別のところにあるんじゃないだろうか、という不安もある。瑣末な言葉に気を取られるばかりに、大局(全体)を見失うこともあります。聞いているだけでなく自分のことも話したくなるものです。でも、そこをぐっとこらえて聞いているうちに、みえるというよりも感じ取ることができるようになる。ある意味、無我の境地におかなければ、ほんとうに誰かの話を聞くことはできないのかもしれません。

いま「出現する未来」という本を読んでいます(P.234を読書中)。

4062820196出現する未来 (講談社BIZ)
講談社 2006-05-30

by G-Tools

この本のなかにも「己を捨てる」ことで思考の流れをとりあえず「保留」にして、その保留にされた静寂のなかから立ち上がってくるものを感じ取る、ということが書かれていました。

たとえば火事で自分の家をなくしたひとのエピソードがあるのですが、自分が大切にしていた思い出の詰まった家が燃えていく様子を現前にしながら、最初は失ったものに執着し、かなしみでいっぱいだったのに、いつか静かな気持ちが訪れるようになったそうです。そして過去は失われたとしても「いまここに」自分は存在していること、自分のなかに未来があるという確かさを感じた、というような話でした。執着から手を離して、ありのままに「いま」を受け入れることが大事なことかもしれません。

次のような一節にも、ヒントがあるような気がしました(P.126)。

逆説的だが、よりリアルであるということは、仮想になり、実体をなくし、確定しないということだ。

さらに次のようにつづきます。

知恵ある者は、たえず己を手放し、仮想の自己、脆い自己を顕在化させている。そうした能力を最大限に高めた人のそばにいると、影響を受ける。そうした人たちに会うと、一種の共鳴が起きる。リラックスする。あるがままでいることは、とても楽しい、そうした人生にこそ喜びがある。
真に目覚めた人間は、つねに今この時に生きている(プレゼンシング)*1。

この本は経営学、認知科学、宗教などを横断して、未来を生み出す創造力について考察をしていきます。個人的にスピリチュアルな体験を紹介する箇所はどうも苦手で、内容に入り込めないものを感じているのだけど、いくつかのひらめきを感じました。

前後しますが、最近ブログに書いている「全体思考」についても記載されていて、文脈に欠ける接合や分析についてなど考えていたぼくには、以下の部分も興味深いものがありました。哲学者のマルティン・ブーバーの「我と汝」の関係を考察した言葉のようです(P.60)。

メロディーは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。このことは、私が「汝」と呼ぶ人の場合にもあてはまる。私はその人の髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、その人はもはや「汝」ではなくなってしまう。

全体思考とは、現前に存在するあらゆるものを「汝」という全体として「見る」行為かもしれません。たとえば仕事においてもテクノロジーという部分だけにこだわってしまうと見失うものがある。介護問題を費用や困難の面からだけみると、損ねてしまうものがある。

しかしながら、その個々の言葉のなかに「全体が宿る」ものではないかと思います。短縮された3文字ぐらいの技術専門用語の背後には、とてつもなくでかい人類のテクノロージーの叡智が集約されている。なにげなくこぼした母の介護の不満についての背後に、社会全体が抱えている問題がくすぶっている。

そんな言葉に耳をすまし、全体を想い、受け止められるぐらいのキャパシティを持ちたいものです。

*1:カッコ内の「プレゼンシング」は本のなかでは「生きている」のルビです。

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2006年6月 7日

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上昇志向とこれから。

幕張メッセに行ってきました。

IT関連のイベントがあったのですが、景気がよくなってきているのかな、と感じました。もちろん久し振りのイベント視察なので、いつもと変わらないのかもしれないのですが、なんとなく華やかです。なぜだろうと考えたところ、コンパニオンさんがたくさんいるからじゃないか?と思い当たりました。コンパニオンさんをたくさん配置するとそれだけ費用もかかる。しかしながら、出展される企業にとっては、それだけ予算があるということではないでしょうか。

お腹がぺこぺこになりながら広いフロアをみていたのですが、とあるブースでプレゼンテーションの終わり間際にアンケートを記入していたところ、「ほんとうはプレゼンテーションをみた方に差し上げているのですが、これどうぞ。ないしょで(ウィンク)」と、あるコンパニオンさんからウィダー・イン・ゼリーのようなものをいただきました。うれしかった。天使かと思いました。砂漠にオアシスです。その企業の好感度がぐーんとアップしたことは言うまでもありません。

ところで、最近、うちの息子たちはぼくが帰宅すると「なんかなーい?」とやってくる。そんなに毎日玩具をお土産にしていたらぼくのささやかな小遣いは干からびてしまうので、「ないないないっ。これはコンビニで買ったパパの酒だっ。お酒は二十歳になってからーっ。」と追い散らしているのですが、今日だけは、ほれほれーっという感じで、イベントでいただいたプレミアムグッズ(乾電池で動く扇風機だとか、電卓、弾ませると光るボールなどなど)をあげました。でも怪獣ほどインパクトはなかったらしい。すぐに飽きてしまったようでした。しょぼん。

イベントの活況のように景気が上向いてきたせいか、いくつかの提案も承認いただき、仕事も順調になりつつあります。しかしながら、気を抜いてはいけないのはこういうときです。長期的な視野のもとに、地に足をつけていきたいものです。どんな仕事であっても、早朝に出社して電話の前で待っていれば仕事がやってくる、というような安易なものはないと思うのですが、順調なときこそ攻めの姿勢を心がけつつ、誠実にアプローチするべきかもしれません。より難題というか高度な課題をいただくことも多く、プレッシャーも大きいのですが、この緊張感を楽しみたい。レベルの高い仕事をしたいものです。

ところで、仕事はともかく、ブログではついつい長文のテキストを書き散らかしてしまいます。力が入りすぎです。丁寧に読んでいただいている方には、ほんとうにすみません。たぶん書いていることの80%は雑感だと思うので、そのなかに紛れている20%のダイアモンドを拾ってください。はしょって読んでいただければと思います。

非常に外資系的な観点ではあるのですが、1年を4つ(四半期)にわけてぼくのブログの方向性を考えてみると、1月から3月まではネガティブな感情も解放しつつさまざまなトライアルを試みた期間でした。掌編小説を発表したり、批判ではないことを書こうと決意したのもこの時期です。一方で、4月から6月までは、ある程度記事を安定させる時期と考えています。安定させる意味で、ゴールデンウィークの時期には、書けるけどあえて書かない、リアルを充実させましょう、という自律的なこともやってみました。そして、7月から9月までの目標として考えているのは、余計なことは書かない、という方針です。だから文章も短く簡潔にしていきたい。

と、1年間という全体を見渡しながら、ブログをつづけていきたいと思っています。ちなみにお仕事のため明日から2日間、ブログはお休みします。後で書くかもしれませんが、とりあえず。

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2006年6月 6日

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比喩が成立するとき、しないとき。

ある話のなかで「猫は犬だ」という表現が出てきました。比喩やメタファーについて考えつづけているぼくは、そこで立ち止まっていろいろと考えてしまったのですが、この表現は比喩でもなんでもないのではないでしょうか。表現として広がりに欠ける文章です。というよりも文章になっていない気もします。センスがない。

「AはBだ」と異なる言葉をつなげる力がメタファー的な思考であると考えていたのだけど、この一文は何か違うと思いました。首を傾げてしまった。しかしながら、一方で「人生は青空だ」という表現には、文学的な広がりを感じる。それはなぜだろう。

つながりを結び付けている属性に着目すると、「猫」も「犬」も「動物」です。四本足で歩行する生き物ともいえる。AとBを動物というカテゴリーでシャッフルして、ちょうどスロットマシーンのようにランダムに機械的に組み合わせた文章が「猫は犬だ」という文章の成り立ちのように思える。けれども「人生は青空だ」の「人生」と「青空」はそもそも異なるカテゴリーにあって共通する属性はない。ないのだけれど、何かイメージが重ね合わされてそこに意味が生成する(ような気がする)。

これが文脈(コンテクスト)だと思うのですが、つまり「人生」という言葉の背景にある「未来を前向きにとらえて広がる感じ。時にはかなしいこともあるけれど、うれしいこともある」というイメージと、「青空」の「見上げるときの頭上に広がる青。時にはまっくろに曇り夕立ちが降ることもあるけれど、透明なブルーに白い雲が流れるすがすがしさ」を重ねているわけです。そして、人生の広がりとさまざまな出来事を許容し、青空を見上げるように前向きに生きていきたいという「人生観」あるいは「世界観」、願いや希望のようなものがこの一文にはある。もしかすると、そんな考えに至るまで、この文章を語る彼はものすごく辛い人生を送ってきたかもしれない。そんな辛い「経験」のあとに「人生は青空だ」と語ったとき、言葉には重みや深みが付加されることになります。ひとことだけど、ずしんと響く言葉になる。

しかしながら、「猫は犬だ」には人生観も世界観もありません。安易な言葉あそびにすぎない。この程度の表現であれば、コンピュータにも十分にできる。人間がやる必要もありません。適当な名詞をシャッフルして組み合わせればいいだけです。

実はこれが人間とコンピュータを分かつ大きな違いだと思うのですが、文脈という意思、もしくは経験や人生観があるかないかで、そこに立ち上がる意味がまったく異なる。ただシャッフルして組み合わせた言葉や、つながったように「みせかける」うわべの技巧とは大きく異なります。

ところで、困ったおじさんという人種はどこにもいるものですが、彼らの問題の多くは「猫は犬だ」的な発言もしくは思考にあるような気がしました。つまり、それまでの話の流れを無視して、ただ動物つながりというだけで会話に「犬」的なものを登場させてしまうわけです。そうして話の腰をぽきんと折ってしまう。たとえば「猫ってかわいいですよね。賢いし」と話をふると、「そうだな、猫は犬だ(=犬だって賢いし、かわいい)。」のように答える。そんなことを言われると面食らって黙ってしまうのですが、発言した本人は、してやったり(にやり)と思っていたりするから困る。いいこと言っちゃったな、なんて勘違いしていたりするものです。もちろん他者に対する配慮がないから(他人の話なんて聞こうと思っちゃいないので)、ぶっきらぼうな発言もできるわけですが。

一方で、「猫ってかわいいですよね。賢いし」「そうですね。賢いといえば先日、うちの猫が・・・」という風に文脈をつなげていくと、コミュニケーションは成立する。それは相手の話をきちんと聞いて、その文脈を理解した上で自分を表現していく、という当たり前といえば当たり前ですが、話されていること全体を見渡す力が必要になるわけです。会話の流れを変えて自分の土俵のなかに持ち込む技術も時として必要ですが、強引に無理な引用で流れを変えようとすると、文脈そのものを破壊します。これは先日も書いたように、ブログが必要ないのに企業にブログを売り込むようなものかもしれません。

おじさんなぼくは、そんな風にならないよう気をつけなければ。

さて、ぼくは比喩の重要性とともに、意識をシャッフルすることについても書いてみたのですが、これはコンピュータ的にランダムに組み合わせるのとは違います。あくまでも「経験」というパターン認識をしたうえで、そのパターンに近い言葉の「選択(もしくは捨てること)」が必要になります。

先日コメントをいただいたふくちゃんさんのサイトに「音楽が変わる」という非常に面白いエントリーがあったのですが、「音階が有限であるために、メロディは有限である」という音階有限説を書かれています。これは茂木健一郎さんと坂本龍一さんのPodcastingの対談にもあったお話ですが、ぼくの考えを述べると、創作とは、技術的なランダムな組み合わせによってまったく新しいものを創り出す活動ではなく、偉大な過去のアーティストと「つながっている」ことに尊敬と感謝をしながら、その先をめざす試みではないかと思います。

たとえば音楽においても音階をランダムに生成する以外にも、「猫は犬だ」的なランダムな接合による創作は可能です。「恋はあせらず」のようなモータウンならではのリズムがあるのですが、そこにモーツァルトのメロディをのせることだってできる(モーつながりで接合してみました)。確かに面白いし、斬新な試みかもしれない。でも、そういうことをやっているアーティストに疑問を感じるのは「おまえのその世界観はいったい何?」ということだと思います。かつて社会人バンドをやっていたときに何時間もかけて議論してきたのですが、借り物のスタイルをとってつけて繕っても全然かっこよくない。借り物がニセモノになる。借りてきたものに対する愛情や敬意、意識や考え、さらにある意味でテツガクがなければ、頭が猫で胴体が犬のような作品になってしまうわけです。それでは心を打てません。

面白い技術を追求しがちなぼくは気をつけなければ。

ランダムにつぎはぎしただけのマッシュアップ、めちゃくちゃな音階やノイズだけを使ってアーティスト気取りで構成したラップトップミュージック、背景に感情も趣向も感じられない音の配列。それは音楽といえるのでしょうか。魂がないのではないか。インターネットをはじめとした技術と音楽は密接につながりがありますが、技術=音楽ではない。ふたりの息子たちが隣の部屋で歌っている「ウルトラマンメビウス」を聴くたびに、なんて素敵な音楽だろう、きれいな声だろう、とぼくは感じています。人間に口と耳がある限り、音楽はなくならないのではないでしょうか。

企業や企画も同様かもしれません。アイディアをつぎはぎにするのではなく、リーダーシップを発揮する「私」の意志によって個を串刺しにできれば、そこに力強さが生まれる。説得力もある。なぜAとBをつなげなければならないのか。面倒だけれども、そのことをしっかりと考えるとき、創造力を別の次元に跳躍させることができるような気がします。組み合わせの理屈で、ランダムに語を入れ替えただけではクリエイティブにはならない。そんな作業は、コンピュータにさせておけばいい。

とはいえ創造的であること、それが難しいんですけどね。

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2006年6月 4日

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似たもの探しの発想。

ぼくの仕事は、「もやっとをカタチにする」仕事である、と先日定義をしてみました。これはどういうことかというと、お客様のなかにある漠然とした「こうあればいいなあ」という希望や、「こんなことをやってみたい」という願いを、企画書という設計図のなかに落とし込んでいく仕事です。プランナーやマーケッターという職種にどうもぴったりとしないものを感じていたのですが、願いや理想をデザインする仕事、といえるかもしれません。

その後に、設計図をもとに具体化していくのですが、その過程においてはたくさんのプロフェッショナルなひとの力が必要になる。具現化しなければならない「もやっと」がパンフレットを作りたいということであればデザイナーさんの力が必要になるし、サイト構築であればシステム関連の会社の力を借りることになります。イベントであれば、イベントプロデューサーの力が必要です。仕事はひとりではできない、ということを常に謙虚に受け止めることが大切です。

一方で、仕事だけではなくて趣味のDTMについても「もやっとをカタチにする」時間といえます。頭のなかに浮かんだメロディを、ぼくの場合はマウスでちくちく入力していって、つまり和音もひとつずつ積み上げていくわけですが、これが非常に気の遠くなる作業です。でも楽しい。ちくちく置いていくうちにイメージが消えてしまうことも多いし、複雑な処理をさせるとソフトウェアが落ちてしまうこともある。そういうときにはマウスを投げつけて(かわいそうなマウス君)、中断して忘れることにしています。

多くのひとがそうらしいのですが、シャワーを浴びているときに音が浮かぶことが多い。おおっこのメロディいいぞと思って、忘れないように何度も頭のなかでリピートさせておくのですが、仕事のことを考えた途端に全部忘れてしまうこともあります。ICレコーダーでも常に携帯しているといいのですが、そうもいきません。デヴィッド・リンチ監督の「ツイン・ピークス」に出てくるクーパー捜査官のようになってしまう。作家さんなどでは、夢のなかで発想が浮かぶことも多く、枕元にメモが常備してある、という話をよく聞きます。ぼくはアイディアが流れてしまっても、まあいいか、と思うタイプですが、書き留める姿勢がプロなのかもしれません。

ところで、もやっとをカタチにするときに有効なのが、似たものを連想する、という思考のフレームだと思いました。そして、これは何かというと、レトリックもしくはメタファー(暗喩)的な思考ではないかとぼくは考えています。

もやっとしたイメージは言葉にならないもので、なかなかずばりと言い表すことができません。けれども、たとえば白くて円形の何かを言うときに「誕生日ケーキのような」とか、静かだけど爽やかなメロディを「秋空に雲が流れていくような」という試みを繰り返すことで、表現したいものに近づけていくことができる。なんだか違うな、なぜだろう、もっと他にないだろうか、と考えつづけることで豊かな言葉を獲得できるような気がします。

さらにこの細部を意識的にシャッフルしていくと、別のイメージに組み替えることが可能です。「誕生日+ケーキ」を「記念日+花束」に変えると、ちょっと赴きが変わってくる。ただその背後にある「祝うよろこび」は変わらない。さらに場のカードもいくつか加えて、「家」なのか「レストラン」なのか、手札を広げてみてどれを選ぶかというチョイスで文脈(コンテクスト)は大きく変わる。

レトリックやメタファーというと技巧的でネガティブなイメージもありますが、最近さまざまな本を読みつつ、人間の思考の根幹にありコンピュータには代替不可能な能力がメタファーの力である、とぼくは強く認識しつつあります。逆に言えば、まったくランダムに言葉を組み合わせるのではなく、意図的にメタファーを生成できるコンピュータが登場したら、もしかすると人間の頭脳を超えられるかもしれない。さらに加えると、コンピュータにできない仕事をするためにはメタファー思考を鍛える必要があると思います。だからといって「いるかはいるか?」とダジャレを連発するおじさん的なエンターテイメントの方向で洗練をめざすのではなく(もちろんこの楽しさも必要ですけどね)、あくまでも「似たものを探す」こと、言い換えると「パターン認識を強化すること」ではないかと思います。

目の前で何かが展開されたとき、潜在意識という引き出しにしまい込まれた映像・文章・音・匂い・味などを総動員して、そのパターンに合致する「経験(文脈)」をピックアップする。ピックアップした上で、経験を解体して、意図的にイメージをずらしていく。シャッフルして、まったく別の経験とつなげるわけです。その思考は、そのままではカタチにならないので、アウトプットとして文章、映像、絵画、音楽などで表現する。いつもの通り理屈っぽくて自分でも苦笑気味ですが、このような思考を訓練することで、創造的な力が鍛えられるのではないか、と思いました。

年間本100冊を読破する+映画100本を観るという課題を自分で自分に課してやろうとしているのですが(ちょっと最近、未達ぎみ)、ここでやろうとしていたことは「経験」を積む、ストックを増やすことであって、それだけでは意味がない。積みあげたことをアウトプットしてはじめて鍛錬になるわけです。インプットだけでも実はかなりつらいのですが、アウトプットもつらい。モーツァルトのように楽しんで曲を作ることができるようになればいいのですが、凡人には難しいものがあります。とはいえブログの方は、1ヶ月分でさえプリントアウトできないほど大量の文章を書き散らかしていて、ハイパーグラフィア的ではありますが。


ところで、似たもの探しは類似性に注目した考え方ですが、属性(赤い、大きい、長いなど)に注目するだけでなく、時間の推移による構造についても、似たものとしてとらえることもできます。最も一般的なのが「起承転結」ですが、「今週は仕事の山だ」というときに、時間的な推移をモノに例えている。そして、言葉の背景には「山を越えれば平地(=ひまな時間)がある」というイメージが付帯しています。

さて、そんな仕事の山をひとつ超えて、次の山がみえてきているところですが、趣味のDTMでつくった新しい曲を昨日muzieにアップしました。こちらも大きな山を越えた感じで、ほっとしています。来週の火曜日ぐらいには公開されるのでしょうか。CPUとの戦いというか、RealGuitarがうまく鳴ってくれないので調整に苦労したのですが、最後の方は雑になってしまっていて、いま聴きなおして凹んでもいます

歌詞もある曲なのですが、今回はインストです。10年前につくった曲で、カセットテープのMTRで録音して、ミックスダウンした下手くそな演奏のデモテープもあったのですが、カセットデッキが壊れていて聴くことができませんでした。こんな感じじゃなかったかな?というイメージの記憶を辿りながらまったく最初からつくりなおしました。もとの曲を聴きなおすと、似ているどころか、まったく別ものかもしれません。

メタファーについて考えてみましたが、そういえば初期の村上春樹さんの作品は、秀逸なメタファーの宝庫です。また読み直してみたくなりました。

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