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2006年5月17日

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謙虚であることについて。

いつでしたか、ぼくよりも若いコンサルタントの方とお話したことがあります。さすがにたくさんのひととお話しているだけに、話題の展開などはスムーズに感じたのですが、ある瞬間に傲慢な何かが言葉の端々にのぞき(ストレートに言ってしまうと、タメグチに近い言葉になったのですが)、会話がつながらないというか、実はぼくの話を聞いていないでしょ、という印象を受けるようになりました。そこで、ああやはり若いコンサルタントというのは、あまり信用できないな、と感じたことを覚えています。

もちろん彼にしても、必死だったと思う。必死であることは当然なのですが、無理に背伸びする必要はないし、相手を見下したような発言をすれば、そこでまとまる話もまとまらなくなってしまう。結局、若さゆえの余裕のなさかもしれません。もちろん、形式的には聞いているようにみえて、実は本心は見下しているだろう、ということもあります。そういう態度はわからないだろうとたかをくくっていても、結構伝わっているものです。謙虚であることが必要だと思っています。

ところで、養老孟司さんの「超バカの壁」を読み終えました。ベストセラーでもあるようですが、正直な印象を書いておくと、ぼくはこの本はなんだか苛立つものを感じました。あまり気持ちのいい本ではなかった。もちろん、これはぼくの私見です。そして、一冊目の「バカの壁」はとても示唆に富んだ本だったという印象があります。どうしてだろうと考えたのですが、次の3つのポイントが原因としてあったからだと思います。

ひとつめは、ある種の思考による人間を見下した表現が目立つこと。そもそも「バカ」という言葉をタイトルに掲げているぐらいなので当然ではあるのですが、一元論的な人間などを愚かであるとしている(ように読むことができます)。ふたつめは、自己弁護に終始していること。過激な持論を展開されているだけに、さまざまな抗議があることも想定内のようで、やわらかく言い訳をされているのですが、それがまた何か気持ちよくない。みっつめは、せっかくの斬新な思考をご自身がちっとも楽しまれていないんじゃないか、ということです。本のなかで養老さんの「面白い」という記述があっても、心の底から面白いと感じていないんじゃないか、と読めてしまいます。面白い、と言っていながら、目が笑っていない気がする。自分とは距離が離れた遠い場所で文章を書いているようなニュアンスが感じられます。

最後の「面白さ」について、茂木健一郎さんの著作を比べてみると、ぼくは茂木健一郎さんは、クオリアとは何かという知的な戯れを、ほんとうに楽しんでいるひとじゃないかと思っています。だから、脳とは何か、私とは何かという、茂木さんの子供のような探究心に心地よさを感じて著作を読み進むことができる。そのわくわくする感じに共感できるからこそ何冊も茂木さんの本を読破し、これからも全部読んでみたいと思うわけです。

ところが、正直なところ、ぼくは養老さんの本はもういいや、という気がしました。養老さんご自身も、あとがきの最後で「私がいま考えていることは、虫の話を除けば、これでほぼおしまいである。ここまで吐き出せば、残りわずかの人生、あとは虫だけで十分じゃないかと勝手に思っている。(P.190)」で締めくくっています。いくらなんでも、これはないんじゃないか、と苦笑しました。

ひどいかな、過激すぎるかな、と思うのですが、あえて正直に書いてしまうと、この「超バカの壁」は、年老いた大学教授が世間からクレームをたくさんもらったなかで溜まりに溜まった不満を吐き出した汚物のような一冊、だったのではないでしょうか。

この養老さんの著作に共感をするひとは、やはり同じような傾向があるような気がします。非常に怜悧な視点を持っているかもしれないのですが、どこか他人を見下している。発想としては、とても面白いのですが、個人的にはこういうタイプは嫌いです。ブロガーのなかにも養老さんの著作を引用して同じような汚物を書き散らかしたひとがいたような気がするし、リアルな世界にも、このようなタイプの人間がいたような気がします。非難するわけではありません。合わないな、と思うだけのことです。

しかしながら、ここまで考えてきて、ぼくが養老さんの書かれたものを嫌悪するのは、自分にもそういう側面があるからだと思いました。最近、どうにか平衡感覚を保っているのですが、ときどき汚物のような文章を書き散らかしてしまうこともあります。気をつけなければ。

さて。今日は書店でずーっと気になっていた平凡社新書の小森陽一先生「村上春樹論 「海辺のカフカ」を精読する」を買ってきました。東大ではないところでセンセイに学んだことがあったのですが、恩師の文章は、正しいかどうかよりも先に、まず懐かしい。ついに村上春樹さんについて書いたか!というのもうれしい。この本では「海辺のカフカ」の危険性について論じようとされているようですが、ぼくは「海辺のカフカ」については、癒しや救いを感じるよりも「邪悪な何か」を感じてしまい、そのことをゼミの先輩にも話したことがありました。ぼくがうまくいえなかった感覚を、どのように論じているのか、非常に興味があります。読むのが楽しみです。

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2006年5月16日

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次世代を考えること。

いまを考えることにせいいっぱいで、たとえば10年後、自分がどうあるのかということはみえないものです。目の前に片付けることが多すぎて、長期的な展望なんてものは置き去りになってしまう。けれども、だからこそ意識的に遠くをみることができるようにしておきたい。田舎で母がぼやいていたのですが、ひとりぐらしの80歳をこえた姉がぼけはじめてしまって、とても困っているとのこと。何度も呼び出されて、鍵を探したり、鍵を盗んだんじゃないかと疑われたり、外出のときには行方不明になって振り回されているそうです。10年前に、何か対策を講じておけばよかったのに、と呟いていました。けれども10年前は元気だったから、そんな風に自分がなるとは思わなかった。そういうものです。

体調を崩してあらためて体調のことを考えると、いま自分の身体がおかしいのはいまにはじまったことではなく、長い間の不摂生や勝手な振る舞いが要因となっている。因果応報、というのは大袈裟ですが、誰を責めるわけにもいかず、自分の人生はよいことであっても悪いことであっても、自分で選択している。ただ、同様にいまからでも自分の10年後の生き方を選択できるはず。他人に責任転嫁しているうちは、自分の人生を生きていないのかもしれません。でも、自分で選んだことであれば、どんな結果であれ、仕方がないものです。納得できる。

以前にも引用したのだけれど、学生時代に何度もぼくが観た映画に、大林宣彦監督の「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」という作品があり、これは映画としてはお蔵入り寸前の破綻した作品なのですが、破綻しているゆえに美しい。この映画では、やくざな男性ふたりとひとりの女性をめぐる物語が展開するのですが、最後の場面で、やくざ成田(永島敏行さん)が、「まだ間に合う、まだ間に合う」と言いながら破滅に向って歩いていくシーンが印象的でした。ぼくらは乗り遅れそうな電車に、まだ間に合うと思いながら足を速めるような人生を送っているのかもしれません。もう間に合わないかもしれない。だからこそ、まだ間に合う、という言葉が必要になる。

まったく話は変わりますが、週刊東洋経済や週刊ダイヤモンドといえば、おじさんが読む経済誌というイメージだったのですが、4月になってフレッシュマンの入社するシーンに合わせたからか、やわらかい特集が目立つようになりました。週刊ダイヤモンドの5.20号の特集は「やさしいウェブ2.0講座」。用語解説はもちろん、さまざまな取材もあって、なかなか充実した内容という印象を持ちました。特集ではないのですが、転職の事例として、ロボット科学教育事業を立ち上げた鴨志田英樹さんのインタビューがよかったと思います。ロボットづくりを通して科学教育をする、という酔った場の思いつきを行動に起こして、全国に80ほどの教室を開いているとのこと。こういうビジョンに共感します。

一方で、いま養老孟司さんの「超バカの壁」を読んでいるのですが、このなかでも「子供の問題」について書かれていて、教育はとにかく手のかかるものであること、また、子供は株などと違って「ああすればこうなる」ものではないという指摘に頷きました。「毎日手入れを続け、子供の様子を見ていれば親のほうにも努力、辛抱、根性がついてくるものです。(P.87)」という表現に納得です。確かに教育というより「手入れ」のようなものであり、なぜこれがわからないんだ?ということを丁寧に根気強く教えていくことが必要になる。そのことが誰のためになるか、というと、実はいちばん親のためになっている。

自分の人生をきちんと生きることも大事だけれど、乗り遅れてしまった電車は無理に乗ろうとしないで、次世代に渡してあげればいい。無理ができない年齢になりましたが、無理しなくてもいいと思ったりもしています。

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2006年5月13日

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セルフカバー。

雨降りかつ体調がかなり不調だったので一日を静かに過ごしたのですが、趣味のDTMで、10年以上前に作った曲をもう一度打ち込み直してみることにトライしています。ちょうど社会人のバンドなどをやっていた頃で、そのバンドのメンバーのみんなに、はじめてプレゼンテーションした自分のオリジナル曲だった気がします。

その当時、ぼくが持っていた機材といえば、中古で購入したYAMAHAのカセットテープによる多重録音のMTRとギターやベースだけでした。4トラックにピンポンせずに(ピンポンというのは、ドラムとベースを別々に録音して、その2つのトラックを空いている1つのトラックにミックスダウンすることです)、4つの音だけで作りました。つまり、ドラム(ソニー製のリズムのおもちゃ。リズムマシーンとは言えないようなシロモノでした。)+ベース+ギター+ボーカルという最小の構成です。作ったときに風邪をひいていて、ものすごい鼻声だったんですが、それがかえっていい感じだったかもしれません。とはいえ、ギターは高校時代に友人からもらった通信販売のギターで、ペグがゆるんでチューニングは狂いまくっていて、知っているコードしか弾けないへたくそな演奏だし、ノイズは入るし、いまとなってはローファイでは片付けられないとんでもない音源でした。

いまその演奏を聴くことはできません。というのは、カセットデッキが壊れていて、再生できないからです。カセットデッキというのは、どんどん使わなくなっていきます。壊れてしまってもまったく支障がありません。そもそも、平成生まれの子供たちは、ひょっとするとカセットテープって何?という世代かもしれない。これからはCDって何?ということにもなりそうです。ぼくはやはりプロダクトとしてCDというパッケージを持っていたいタイプであり、ライナーノーツや歌詞や写真などを印刷物できちんと読んだりみたい気がするのですが、ダウンロードによって音源が普及していくと、パッケージの意味はなくなってしまうかもしれません。曲の構成はアーティストやプロデューサーが考えるものではなく、リスナー自体がアレンジするようにもなりそうです。

ところで、いま音源が聞けないのであくまでもイメージに頼りつつ、そんな風に10年以上の前の曲をインスト(歌詞なし)でセルフカバーしているわけですが、その曲の歌詞の趣旨としては「いろんなものに憧れて夢をみてきたけど、結局のところ大事なものは毎日の何気ない生活のなかにあるんじゃないか」ということでした。かつて、ものすごくローファイな機材で作った曲を、いまReal Guitarというバーチャルなギターを再現するソフトウェアを使いながら、PCのDAWで打ち込んでいるのですが、まったく違うものになっていく楽しさもありつつ、そのときの気持ちがなんとなく蜃気楼のように立ち昇ってくるのが、なかなか面白いものです。

その頃、ちょうど学生時代から付き合っていた女性と(まあ、いまの奥さんなんですけど)、結婚などを考えていた時期であり、ひとりではない生活ってどんなもんだろう、と諦めも半分混じりつつ考えていました。しかしながら、そんな想像を超えたところに現実というものはあるもので、いま息子たち2人が加わって4人になった家族のある立場からみると、この歌詞は青いなあ、と恥ずかしくなりつつ、けれども失われてしまった何かも感じられて、せつなくも懐かしいものがあります。

ところで、アンプラグドというギター一本などでアコースティックな雰囲気でセルフカバーすることが流行った時期にリリースされたのですが、高橋幸宏さんの「Heart of Hurt」アルバムが、ものすごく好きでした。何度も聴いて泣けました。そういえば、このアルバムもレンタルショップで借りてきてテープにダビングしたため、いま聴くことができません。ぼくは逆にアナログで創った曲を10年以上たったいま、デジタルで作り直しているのですが、おじいさんになったときにも演奏できるような曲ができると、しあわせだなあと感じたりもしています。

明日は、学生時代の知人の結婚パーティに参加してきます。しあわせな知人を祝福しつつ、もう遠過ぎて曖昧になりつつある自分が結婚した頃のことを思い出したりしながら、体調不調なのにひとりで飲んでしまって、いい気分です(いや、ちょっとまずいかも。若干気持ち悪くなってきた。自粛します)。

++++

■高橋 幸宏さんの「Heart of Hurt」。あらためてCD購入したい気分です。

B001PNVYEMHeart of Hurt【SHM-CD】
高橋幸宏
EMI MUSIC JAPAN(TO)(M) 2009-03-11

by G-Tools

■USENのサイトなどで視聴できるようです(ぼくはなぜか聴くことができません)。しかも1曲ごとに購入できる。便利な世の中になったものです。
http://www.ongen.net/search_detail_album/album_id/al0000003886/
http://listen.jp/store/album_4988006127746.htm

■ひょっとして、廃盤なのかも?
http://music.yahoo.co.jp/shop/c/10/toct9228

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2006年4月27日

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「ふり」と暗喩。

茂木健一郎さんの「意識とは何か」という本から、気になったキーワードをピックアップして考察してみようと思うのですが、まずは「ふり」です。ふりというのは実際にはそうではないのに、あたかもそうであるかのようにふるまう行為です。ぼくらにとっては自然な行為だと思うのですが、実は人間ならではの高度な思考回路が働いているらしい。

この本のなかでは、チューリング・テストという人工知能に関する試みが引用されていて、ぼくはこれが面白く感じました。たとえばカーテンの向こうにアンドロイドと人間がいる。そのふたりに質問を出して、同じような答えが返ってくるかどうか、ということを問題にするようです。アンドロイドは人間のふりをします。あたかも人間を理解しているような言葉を返す。けれども、繰り返すうちにどこかで機械の答えになってしまう。どこまで人間に逼迫するか、機械は人間になれるか、という試みです。「ブレードランナー」という映画を思い出しました。あの映画のなかで、心理テストのような問いを繰り返すことで人間ではないことを見抜こうとする。みかけは人間そっくりですが、対話しているうちに化けの皮が剥がれていってしまう。

このテストを考案したチューリングというひとは、どうやら同性愛者であることを悩んでいたらしい。男が女の「ふり」をすることが重い病気だと思われていた時代だったからこそ、彼はその課題に自分の人生をかけて取り組まなければならなかった。切実な問題だったようです。

インターネットに氾濫するテキスト情報のなかで生きるぼくらも、いろんな「ふり」をしています。悪意に使う場合には、なりすましのような犯罪にもなる。一方、テキストの世界では別人のように饒舌にもなれる。現実の世界では寡黙で地味だったとしても、テキストのコミュニケーションでは水を得たさかなのように、いきいきとコミュニケーションしたり表現できるようなひともいます。

「ふり」は騙すことでもあるけれども、ポジティブに考えると演出ともいえるでしょう。俳優ではなくても、自分の人生において自分を演じることは大切なことではないかと思います。職業の役割を演じきること。家庭における夫や妻や子供の役割を演じきること。演じることは、そもそも観客をはじめとした他者の視線を意識することでもあります。他者がいなければ演じる必要もありません。

コミュニケーションにとって「ふり」はとても大事なもので、それぞれの役割になれるかどうかが重要です。息子が「かいじゅうだ」といっているときに「そりゃ、おもちゃだ」と言ってしまったら、そこで空想の物語は破綻します。空想だけではなくて現実社会のあらゆる側面で、ぼくらは「ふり」を切り替えながら生きているものです。ピタゴラスイッチに、お父さんが会社員であり電車に乗るとお客さんであり、家に帰るとお父さん、という歌がありました(前にも引用しましたが)。誰かとの関係によって、自分というものは次々と変化するものです。変化しつつも変わらない自己がある。

文章における「ふり」という行為は、暗喩(メタファ)に似ているかもしれません。以前に書いた例文を再利用すると「酒は人生の薬だ」と表現したとき、デジタルに考えると「酒=薬」ではない。アンドロイドなら、ふたつのカテゴリーの関連性はない、と判断するかもしれない。けれども、ぼくら人間の思考は、この異なる記号をゆるやかにつなげてしまう。言葉や情報はつながりたがるものです。ぼくらの脳のシナプスも電気信号によって、つながりたがる。まったく異なったものがつながったときに、新しい何かが生まれる。つながることは、何かあたらしいものを生み出すための行為かもしれません。

人生を豊かにするためには、この「ふり」あるいは「暗喩」的な思考が大事かもしれないと思いました。よき父親である「ふり」をする。頼もしい旦那である「ふり」をする。なんとなく悪いイメージがあるのですが、それは騙しているというイメージがあるからでしょう。けれども誰かを喜ばせるために、あるいはしあわせにするために演じているのだ、と考えると、その「ふり」も決して全面的に嫌悪するものではなくなってくるものです。ほんとうの自分は違うけれども、ときには悪者を演じなければならないときもある。ほんとうの自分は悪い。しかしながら、正しさを演じなければならないときもあるかもしれません。このとき多様性が生まれるものであり、深みのある人生にもなります。ただ、どんなに「ふり」をしていても、その「ふり」で覆われたイメージを壊すような感情が生まれることもある。「ふり」が、めりめりと破れる瞬間が興味深い。

さて。先週末に趣味のDTMで作った曲では(まだプレイヤーズ王国で曲が公開されません。ほんとうにどうしちゃったんでしょうか。待ちきれないのでmuzieで公開しようかと真剣に考え中)、歌詞に「わたしはあなたになれる/あなたのよろこびがわかる」というフレーズを入れました。これはVocaloid MEIKOというソフトウェアと現実に存在するシンガー拝郷メイコさんとの関係を歌わせようとしたものです。厳密にいうとMEIKOはメイコになれないのだけど、なれないけれどもなろうとしているとして、あえて「なれる」と歌わせたかった。

アンドロイドが人間になりたがる物語には、どこかせつない甘酸っぱさを感じてしまいます。なぜかというと、背伸びして大人たちになりたがろうとする未熟な息子たちの姿がオーヴァーラップするからかもしれません。ピノキオが人間になりたがるようなものです。

未熟なものたちを大切にしたいと思います。技術であっても、もちろんひとであっても。

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2006年4月26日

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デザインも企画書も。

以前にも書いたのですがぼくはフリーペーパー愛好家で、無料配布されている情報誌の収集癖があるのですが、地下鉄の駅で配布している今回のmetoro min.にはなんとなく注目しました。表紙がまっくろです。おまけに薄い。どうしちゃったんだろうと思ったのですが、アサヒの無糖ブラック・コーヒーとのタイアップらしい。よくみると「増刊号」という文字もあります。なかをめくると、「100年BLACK」というキャッチコピーがあって、「100年、愛しつづけた。」「100年、夢をみた。」というサブキャッチもある。なかなか、かっこいい。しかしながら、この黒いのが果たしでどうなんだろう、と思い、会社でロゴのデザインやブランディングに強い優秀なデザイナーさんに訊いてみると、「いいじゃないですか。それにこれ黒だけど、これ3色つかってますよ」とのこと。なるほど、そうですか。

100年というキーワードで、いまから100年前のこと、100年後のことなどが雑誌全体を貫かれた記事になっています。そもそも日本とブラジルには100年の友好関係があったらしい。知らなかった。R25でもタイアップの編集が多いのですが、雑誌全体をひとつのテーマで構成してしまうような大胆なことができるのもフリーペーパーだからこそかもしれません。フリーペーパージャック、という感じでしょうか。いっそのこと交通広告も使って、赤い丸ノ内線を真っ黒にしちゃったら面白いのに。既にやろうとしているのかもしれませんが。

しかしながら、ぼくは最近、フリーペーパーだけでなく雑誌も頑張っているなあ、という気がしています。雑誌や書籍は市場的には厳しい状況に置かれていると思うのですが、フリーペーパーだけでなくよい雑誌もあると思うし、特集記事もなかなか興味深いものがあります。今朝、電車を待つ間に「週間東洋経済」を購入しました。というのも、「企画書超入門」という特集に惹かれたからですが、どこか東洋経済っぽくない感じもしつつ、読んでみるとなかなか楽しかった。

まだ若い頃には、ノウハウ的な本ばかりを読んでいたのですが、最近はノウハウには物足りなさを感じます。方法論ではなく考え方の方が気になってしまう。マニュアル的なものよりも、テツガク的なものを読みたい。けれども、たまに基本的なノウハウを読むのもいいものです。もちろん確認しながら読みとばす感じですが、こんなのわかっているよ、ふん、という感じで読むのではなく、もういちど初心に戻って読む。すると、これが結構、新人に戻ったようなフレッシュな気持ちになれる。謙虚さと情熱を取り戻せるような気がします。

いろんなプロの方が企画書作成のコツを書かれているのですが、全体を通して言えるのは「読み手のことを考えなさい」ということのように思えました。マーケティングも顧客志向になっていて、インターネットもCGMなどということが言われています。クリエイターやプランナーも自分の感性はもちろん、心理学やいろんな分野の学問を総動員して他者を理解する必要があるようです。

山田ズーニーさんもご自身の経験から、「相手の心に届く文章を書こう」という記事を書かれているのですが(はじめて写真を拝見してしまった。なかなか素敵だ)、ずばりと斬られたすがしさがあったのが、ピーチ・ジョン代表の野口美佳さんの指摘でした。ページ数が多いと紙がもったいないなと感じること、見た目だとか無駄な分量ではないこと、使い回されたニオイがいやだということです。男性的なロジック中心の企画書術がつづくなかで、これは新鮮だった。もちろん論理も大事なのだけど、これを言われちゃうと、全部がひっくり返される気がしますね。短い記事ですが、ほかにも、なるほどと思う視点がありました。

結局のところ、デザインも企画書も届けるひとのことを考えて作るのが大事ではないか、と思います。当たり前のことであり、基本の「キ」なんですが、これもまたどういうわけかすぐに忘れてしまうことなんです。

ところで、日曜日にプレイヤーズ王国に投稿&コンテスト応募した作品が、まだ公開されません。コンテストにエントリーされた作品を調べてみると、とっくに公開されている作品もあります。不安です。なんかまずかったんだろうか?明日公開されなかったら、問い合わせてみようかと思いつつ、それにしても待つのは苦手です。慣れたmuzieであれば問題ないんですけどね。

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