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2006年7月17日

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所有すること、カタログにすること。

雨が降っています。今日は雨のなか息子を連れて、ふたりでポケモンの映画を観に行ってきました。土曜日に公開したばかりなので、すごい混雑でした。劇場版のポケモンはCGが多用されていて、なかなか迫力のある映像になっています。ただ、ストーリーとしては去年のルカリオが出てきた映画の方がよかった、という印象です。先日テレビでやっていたようですが。

このブログ(注:かつて書いていた、はてな)はどんな時間に投稿しても午前9時にスタンプされるようになっているのですが、実際には夜中の日付変更線が変わるあたりで、1時間ほど、いろんなことを内省しながら書いています。映画や本を読んだ感想を中心にしているので、そのときに観たもの読んだものに影響されることも多い。最近は、格差社会とか構造主義とか、そんな本ばかりを読んでいるので、若干しんどい内容になってしまっている気がするのですが、とはいえ、しんどい時期もあれば、ぱぁっと開放的になるような時期もあるもので、しんどい時期にはその深みにどっぷりと浸かってみるのもよいものです。

いまさら構造主義、という感じもしないではないのですが、未来に何がくるのか(こないのか)ということを考える上では、古い考え方を知ることは決して無駄ではありません。思想に限らなくても、古い本のなかにびっくりするほど新しいことが書いてある場合もある。新しいものばかりを追いかける必要はなくて、音楽も映画も本も、古いものを見直してみてもいいかもしれないな、と思ったりします。

内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」という本で、現在のネット社会にも応用できるような考え方を2つほどみつけました。忘れないように書いておきます。ひとつは、フーコーについての解説です。彼が使う「権力」という言葉は、「国家権力」「イデオロギー装置」としてとらえてはならない、として次のようにつづきます(P.110)。

「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類し、命名し、標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする、「ストック趨向性」のことなのです。ですから、たとえ「権力批判」論であっても、それが「権力とはどのようなものであり、どのように機能するか」を実定的に列挙し、それを「カタログ化し、一覧的に位置づけ」ることを方法として選ぶ限り、その営みそのものがすでに「権力」と化していることになります。

一文とばして引用しますが、次のようにまとめています。こちらの方がわかりやすい。

フーコーが指摘したのは、あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや人間のあり方についての情報を取りまとめて「ストック」しようという欲望によって駆動されている限り、必ず「権力」的に機能するということです。

標本化するということでしょうか。蝶や甲虫を捕まえて(捕まえてというか殺害して)、標本箱のなかに虫ピンでとめる。そうした行為が権力的であるということです。となると、昆虫採集が大好きな養老さんなどは権力的な趣味に夢中だということで、さらに最近流行っているカードゲームやムシキング、ポケモンのようなものも権力的な遊戯といえるかもしれません。ポケモンとの共生、などということが映画の冒頭で語られるのですが、キャプチャーしてコレクションする行為自体は、どうしても捕まえる人間が優位に立っている。いままでポケモンが権力的な映画などと考えたこともなかったのですが、雨の音を窓の外に聴きながらひとり深夜に考えていると、権力的なニュアンスがあるかもしれない、などと思う。

さらに連想したのは、グーグルなどの検索エンジンが権力的であるのは、情報をカタログ化する機能だからなのでしょう。グーグル八分のように検索に結果が表示されない、ということがなくても、検索して結果をカタログ化するだけで権力的になる。グーグルが権力的であるのは、そういうことなのか、と思いました。いまさら遅すぎるかもしれませんが。

つまり、それは企業にしても個人にしても、所有する力のような気がします。批判が権力的なのも、それが相手をカタログ化する行為だからかもしれません。「こういうことを言って、こういうことをしたから、おまえってこういうやつだよね」という発言は、権力的に聞こえる。それは他者を自分の論理によってカタログ化し、カタログ化した他者を支配する行為なのかもしれません。他者のなかにある何かを引き出す行為(コーチング的な行為です)ではなく、評価する行為というのはすべて権力的なのかもしれない。あるいは評論家などが社会的現象を意味づける行為も権力的です。だから、不快感が生じるのでしょう。おまえに言われたくないよ、なんでおまえがそういうことを言えちゃうわけ?という。

音楽や映画や小説など、自分の作品について所有的になると、著作権の問題になるのですが、それはロラン・バルトの「作者の死」という考え方が、クリエイティブコモンズなどにも通じることがあり、さらに引用によって成立するブログやインターネットの世界において所有とはどういうことか、と深く考えさせるものとしてあらためて刺激を受けました。ちょっと長くなりそうなので、またいつか考えをまとめてみます。

雨がやまないですね。明日も雨でしょうか。こうして夜更けに聴いている雨は、あまり嫌いじゃないのですが。

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2006年7月14日

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比喩という跳躍。

たいてい本を読んでいる途中には、これはという言葉をいくつもみつけるのだけれど、読み終わってしまうと衝撃や感動を忘れてしまって、気持ちはもう次の本に動いている。そんなわけでブログを書いている途中に、できるだけ本のなかで気になった言葉を書きとめようと思っているのですが、なかなかすべての言葉を書きとめることはできない。もどかしいものです。

海原純子さんの「こころの格差社会」には、たくさんの寓話やエピソードが引用されていて、とても参考になりました。一行だけれど印象に残っているのは、レイ・ブラッドベリの次のような言葉です。海原さんはこの言葉を好きらしい。

安全を求めない生き方とはがけを落ちながら翼を作る生き方である。

その後、「男たちよ、「とび」なさい。」という挑発的な一文がつづくのだけど、なかなか気持ちよいと思いました。

一方で、その前には、ホルヘ・ブカイの「寓話セラピー 目からウロコの51話」という本から「翼は飛ぶためにある」というストーリーが引用されています。海原さんの本では、別の部分でも「寓話セラピー 目からウロコの51話」から引用されていて、この本も読んでみたいと思っているのですが、「翼は飛ぶためにある」という話は要約すると、翼のある息子に父は山の上に登って崖を指差して、ここから飛べと言う。ところが息子は怖くて飛べないので、とりあえずは木のてっぺんから飛んでみる。ところがうまく飛べなくて、頭にたんこぶを作って、父親に「嘘つき!飛べないじゃないか」と怒る。すると、父親は諭すわけです。「飛ぶためにはな、翼が十分に広がるための空間が必要なのだ。」と。

飛ぶためには高さが必要であり、さらにリスクも冒さなければならない。その空間も得られずにリスクも冒せないのであれば、一生翼を引き摺って生きていくしかない。

小説もいいけれど、こうした寓話もいいですね。もちろんあまりにも説教くさい話は読みたくないのですが、人生のエッセンスをそのまま書くのではなく、寓話というカタチに置き換える行為はクリエイティブな感じがします。それは直接書くことよりも技巧が必要であって、創作のためにはちょっとした跳躍が必要になる。

ここで跳躍というのは「とぶ」という言葉に関連しているのだけれど、ぼくがいま内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」という本を読んでいて(現在、P.62。ちなみになぜ現在ページを記しておくかというと、その後読み進めて別の見解を得ることもあるかもしれないと思うからです)、そのなかにヘーゲルの「命がけの跳躍」という言葉が出てきたからです。引用しておきます(P.27 )。

「存在すること」とは、与えられた状況の中でじっと静止しており、自然的、事物的な存在者という立場に甘んじることです。静止していることは「堕落すること、禽獣となることである」という考え方、これをマルクスはヘーゲルから受け継ぎました。たいせつなのは「自分のありのままにある」に満足することではなく、「命がけの跳躍」を試みて、「自分がそうありたいと願うものになること」である。煎じ詰めれば、ヘーゲルの人間学とはそういうものでした。

共感すると同時に、ぼくはこの熱さに距離も感じてしまうのですが、それは時代的な背景あるいはコンテクストの違いがあるからでしょう。次のような部分も同様です(P.30 )。

ヘーゲルの言う「自己意識」とは、要するに、いったん自分のポジションから離れて、そのポジションを振り返るということです。自分自身のフレームワークから逃れ出て、想像的にしつらえた俯瞰的な視座から、地上の自分や自分の周辺の事態を一望することです。

ブログを書き始めた最初の頃、ぼくはこの俯瞰的な視座にこだわって、それが立体的にものごとを考える上で重要な視点であると考えていたことがありました。また、自己のなかに仮想的に他者を存在させることで、相対的に自分をとらえることが可能ではないかと思い巡らせていたこともあります。いまこの本から意味づけてみると、それらはヘーゲル的な思考の枠組みから出ていないものだったんじゃないか、と思います。その思考からこそ跳躍をしたい。

このブログは途方もない助走である、ということも以前書いたことがあるのですが、考えたことをベースに、さらにまったく違うところへ跳躍したいと思っています。論文かもしれないし、仕事かもしれない。音楽かもしれないし小説かもしれないのですが、ある意味、比喩的に、いま考えているAをまったく違う位相のBに展開することができたら、そのときにはじめてぼくは読みつづけてきたこと、映画を観つづけてきたこと、ブログを書きつづけてきたことが完成するような気がしています。

それはひょっとしたら臨終の一瞬に、作品というカタチはとらずにぼくの頭のなかで「ああ、わかった」というものかもしれない。それでもいいと思っています。結果ではなく、プロセスを楽しむために、ぼくは生きようと思います。

++++++

■いろいろとほしいCDが目白押しなのですが、つい中古CD屋でリトル・クリーチャーズのフューチャー・ショッキング・ピンク を買ってしまった。今日のBGMです。

B00005HV6OFUTURE SHOCKING PINK
フェイスレコーズ 2001-03-28

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2006年7月13日

a000443

自分2.0という進化。

Web2.0という言葉が生まれ、かなり一般的にも浸透してきたようです。関連書籍も多くなりました。また、2.0という言葉を流用して、販促会議の表4広告にはトランスコスモスが「Marketing2.0」などというキャッチコピーもあったりしたのですが、本日、R25を読んでいたところ、タウンページとの連動記事で「自分2.0」という言葉があってちょっと面白かった。

2.0の上に「進化系」というルビがふられていて、なるほどなと思いました。1.0に対してバージョンアップした2.0というのは確かに進化系というと納得するものがある。さらにこの特集では、「2.0的」現象を列記している。冷蔵庫2.0(光パワー野菜室)、博物館2.0(山梨県立博物館)、素材2.0(ダイヤモンド)、病院2.0(外来の混雑度予測システム)、車2.0(クラウンマジェスタ)、日本料理2.0(龍吟)、旅館2.0(ゆ森野お宿いぶすき悠簸離庵)といった感じです。

>R25の定義によると「2.0=人に優しく進化したもの」だそうです。Web2.0の定義よりも、こちらの方がコンセプト的によろしいのではないでしょうか。ぼくは最近、Web2.0という言葉にあまり興味を失いつつあるのだけれど、AjaxだとかSNS、Wikiという技術的な何かよりも、技術を使うひとの意識であったりコミュニケーションの方法の進化こそが2.0なのであり、そちらを考えた方がよいのではないかと思っています。それはぼくが技術系ではないということもあるのだけれど、技術先行型のサービスは、どうしても点で何かを考えがちな気がしていて、技術を知っておくことは大事だけれど技術にとらわれずに、社会の進化を考えた方がよいのではないかと思ったりしているわけです。

ということを考えると、ばかばかしいほど単純だけど「自分2.0」というコピーが気に入っていて、もちろんインターネットによるコミュニケーションもあるのだけれど、ロハス的な思考だとか、スローライフだとか、創造性、全体思考、個のエンパワーメント、格差社会からの脱出、認知科学、脳科学、比喩、デザイン、コーチングなどなど、いままで考えてきたことは、2.0的なものだったからかもしれないと思いました。と書きつつ、じゃあどこまでもバージョンアップするのか、というとやはり直線的な方向性の回避というテーマから、違和感があるような気もします。ぼくが求めているのは上昇志向ではなくなりつつあり、というのは上や下、左や右というのは外部に対する位置づけの話であって、自分の内部においては上も下もないだろう、という気がするからです。

書き散らかしてきたぼくのブログですが、じっくりといままでの断片をまとめる必要を感じています。と、同時にそれをどのように表現するかという問題もある。仕事をしたい、と思います。しかも、よい仕事をしたい。会社に勤めているから仕事はしているじゃないか、ともいえるのだけど、右から左へ何かを動かすようなものは作業であって仕事といえるのかどうか、と思う。文化的雪かきと表現したのは村上春樹さんだったかと思うのだけど、たとえ文章を書いていても(それが収入に換わったとしても)、自虐的に自分を痛めつける作業ではないかどうか、右のものを左に移しているだけではないか、ということを見極めて、いい仕事かどうかということにこだわりたい。

抽象的なことを書いてしまいました。うまく言述できないのですが、また別のテーマを経由しつつ、自分なりのまとめをしてみたいと考えています。

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2006年7月 9日

a000439

円環で方向を束ねる。

2週間前から体調がすぐれずに、地球の重力に負けそうな日々がつづいているのですが、体調がすぐれないときには気分も低迷気味であって、気分が低迷気味だと文章にも切れがなくなります。そんなわけで2週間分のブログを見直すと、削除したいような日もあるのですが、あえて残しておくことにしましょう。上昇と下降を繰り返しながら、それでも最終的にはゼロかちょっと上向きあたりに着地すれば、よしとすることにします。

武満徹さんの「Visions in Time」という本を読んで、「時の円環(P.142)」の円環のイメージがずっとぼくのなかに残っています。それはいま読んでいる海原純子さんの「こころの格差社会」にもつながってきて、どうすればしあわせに日々を過ごせるか、というヒントにもなりそうな気がします。

4872951026武満徹―Visions in Time
エスクアイア マガジン ジャパン 2006-04-13

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どういうことかというと、ただ直線的に上昇していく社会においては、常に自分を(重力と逆らって)上へと向わせる力が必要になる。いま存在している自分の位置をゼロの座標だとすると、X,Y,Zの座標がそれぞれ3上昇したとすると、その(3,3,3)という位置が次の基準となる座標となる。と、書いていて数学的なことは苦手なので、ここでやめてしまうのですが(苦笑)、常に上を向いているとすれば、その到達する位置から考えると現在はマイナスの地点になるわけで、上に到達することを満足というとすると、現在の位置は「常に不満足」なわけです。

そこで直線ではなく円環という考え方で、ぼくらはある軌跡の上をぐるぐる回っている存在だとします。きれいな円というわけではなく、その円はぼこぼこと上がったり下がったりする。上がったり下がったりを繰り返しながら1周すると、もとの場所に辿りつくわけです。けれども辿りついた自分は、決して出発した自分ではない。「1周上がったり下がったりしながら廻ってきた自分」です。同じ位置にいたとしても、その廻ってきた経験というのは違う。

時計であっても方位磁石であってもいいし、太陽系をめぐる惑星というイメージもあるかと思うのですが、円環であるものの魅力をぼくは感じます。それが何か、というとうまく説明できないのですが、デジタルの時計よりもアナログの針がある時計のほうがなんとなく好ましい。それはつまり、加算されていくイメージがないからかもしれません。円(輪=和)のなかに閉ざされる安心感ともいえそうです。繰り返されることの安らぎ、のようなものがある。

ブログのなかで何度も同じことを書こうと思うし、上昇と下降を繰り返してもよいと思っています。けれども、直線的に上をめざしているのではなくて、大きな円を何度もなぞるような行為に似ているのではないか、と考えました。同じテーマで何度も書く。書いているうちに、その内容はどんどん深まっていくわけです。あまりテーマを広げなくてもかまわない。むしろ、ごりごりと深く掘り下げていきたい。

趣味のDTMも同様です。いま夏らしい曲を創っているのですが、別にアーティストを気取るつもりはないけれど、正直なところ自分の世界を壊すことができずに、ちょっと悩んでいます。なんとなく自分で自分のメロディが予測されるというか、ああやっぱりね、という感じになる。でも、それでいいのではないか。徹底的に自分がよいと思う世界をワンパターンで追いかけるのも、楽しいかもしれない。

とはいえ、まだ直線的な起承転結で構成された、いわゆるサビのある音楽しか創れないのですが、いずれは同じフレーズを延々と繰り返すような曲も創ってみたいものです。それこそ円環のような音楽を。

フレーズを延々と繰り返すような曲というのは、トム・ヨークのソロアルバムを聴いて、ベースで同じフレーズが繰り返されるのが、かっこいいな、と思ったからなのですが、彼の音楽は感情を不安定にする音楽というか、かなりざわざわと揺さぶられる曲もあります。2曲目の「analyse」という曲は好きなんですが、闇を感じさせますね。遠く旅をしてきたけれど結局のところあなたには答えを考えるために分析している時間はない、というミもフタもない歌詞です。どうしようもない暗さがあります。

B000FZEZPQジ・イレイザー
トム・ヨーク
ベガーズ・ジャパン 2006-07-05

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ぼくのブログもそんなものかもしれません。途方もない巡回があるだけで、どこかへ辿りつくためのものではない。辿りついてしまっても、その後に困ってしまうのですが。

それでも、季節がめぐるように、文章を書いていきたいと思っています。

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2006年7月 6日

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活力のための補給。

どうでもいいことですが、R25の表紙、紙が変わったような気がしました。以前はコーティングされていた紙で、湿度が高かったりするとくるくる丸まってしまった。今週号は記念号のようですが、記念ということでこれから表紙の紙も変えるのでしょうか。なんとなく、もう少し硬かったら付録のトランプのような紙です。これはものすごく私見ですけれども。

風邪のため体調がすぐれず、ゆっくりと出社したのですが結局のところ、夜には10時過ぎまで仕事をしてしまいました。それでも体調はなぜかよい方向に向かいつつあるようです。ゆっくりと出社する途中で、これは体力を回復することも重要だが、知力などにも活力を補給した方がよいと考え、書店とCDショップに寄って、しこたま衝動買いをしてしまいました。

臨時収入があったということもあり、ヘッドホンの新調にはじまり浪費方面に傾倒しつあるのですが、今日はなんと本を7冊、雑誌2冊(PRIRと販促会議)、CDを3枚も買ってしまいました。さすがに買いすぎです。

ちなみに購入した本をリストアップすると次のような感じです。

1)「コーチングが人を活かす」鈴木義幸
2)「こころの格差社会」海原純子
3)「心脳コントロール社会」小森陽一
4)「寝ながら学べる構造主義」内田樹
5)「脳の中の人生」茂木健一郎
6)「ミーティングの英語表現」デイビッド・セイン/マーク・スプーン
7)「実務入門 改訂版よくわかるCSのすすめ方」武田哲男

仕事の本もありますが、最近の興味から脳関連の本が多いようです。ちなみにこんなに本を購入したきっかけとなったのは、恩師でもある小森陽一先生の「心脳コントロール」という本を発見したからでした。この本の表紙に書かれているのは「心脳マーケティング」という文字でした。小森先生がマーケティングを語る?と、ちょっと驚いた。と同時にこれは読まなくては、と思った。内容的にはどうやら政治的な話に持っていっているようなのですが、何か遠いシンクロナイズを感じて興味をひかれました。

購入したCDはこんな感じです。時間がなくて聴いていないのですが。

B000FZEZPQジ・イレイザー
トム・ヨーク
ベガーズ・ジャパン 2006-07-05

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レディオヘッドのトム・ヨークのソロ。ロックなんだけど、エレクトロニックな感じがして視聴して購入を決めました。ジャケットがジャバラっぽい。暗いですね。暗くて繊細です。でも、それが彼らしい世界なのでしょう。

B000FPWZJOCURRENTS
ショート・ストーリーズ
RALLYE 2006-06-24

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ショート・ストーリーズのカーレンツ(しばらくアーティスト名とアルバム名を逆にしていました)。これも視聴してよかったので購入。エレクトロニカなんだけど、ネオアコ的なギターが美しい。こういう音楽を創りたいです。最近の音楽ジャンルはぜんぜんわからないんですけど、フォークトロニカってあるんですか。打ち込みのポップスとネオアコが融合したような音楽をやりたいと思いました。

B000FGGEUYEl Sonido Efervescent De
La Casa Azul
Elefant 2006-06-19

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LA CASA AZUL。輸入版です。またまた視聴してよかったから購入したのですが、店頭の推薦文にも書いてあった通り、これはフリッパーズ・ギターです。思わず聴いていて、わははははと笑っちゃいました。さらにバリエーションがぜんぜんなくて、ほとんどの曲がフリッパーズ・ギターの一枚目のアルバムっぽいところがよい。しかし、これだけ聴いていると能天気すぎて疲れそう。なんか苦笑という感じのアルバムです。

と、やはり本と音楽のことを書いてみたところ、元気が出てきたようです。仕事も大事ですが、ときには仕事を忘れてぶらりと街や店を彷徨ってみると、それがかえって仕事のためになったりする。スポーツだったりもするだろうし、音楽だったりもする。けれども自分の好きなことであれば、何でもよいような気がします。活力のための補給は大切です。休息ではなくて補給。枯れたままにならないように、メーターを確認しつつ。

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