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2006年11月 3日

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戻れるものならば。

学生の頃に戻りたいものです。そうして、いろいろなことをひとつひとつやり直したいと思います。というよりも、二児の父親であるいまでも、ぼくはどちらかというと学生気分で毎日を過ごしているような気もします。もちろん、きちんと社会人としての勤めはしているし、妻や子供に対しても夫や親の役割を遂行しようとはしている。けれどもふと気付くと、学生の頃からずーっと時間が止まったままのような気持ちが自分のなかにある。みなさんはどうでしょうか。

とはいえ、現実の時間は止まってはくれないもので、まず長男はいつの間にか自転車をすいすい乗るひとになっていました。どうやら平日に奥さんと練習しているうちに乗れるようになってしまったらしい。今日、午前中にDTMに集中していたら呼び出されて、自慢そうに乗っているところを見せつけられた。うまいものです。うまいんだけど、ちぇっ、と思った。ぼくがついているときに乗れるようになってほしかった。まあそれは親のエゴというものです。気持ちのいい天気のなか、すいすいと自転車を漕ぐ長男をほめてあげました。

その後、夕方から渋谷のユーロスペースで「薬指の標本」をひとりで鑑賞(あっ、いま気が付いたのですが上映は今日までだったんだ!知りませんでした。ラッキー)。

kusuriyubi_main1.jpg映画についてのレビューは後日きちんと書きたいと思いますが、正直なところぼくの妄想に比べれば映画のほうは上品なもので、官能的なシーンであっても壊れずに(笑)冷静に映像美を堪能することができました(そのシーンでごくんと喉がなってしまって恥ずかしかったけど)。いったいおまえはどんな妄想をしていたんだ?と言われそうですが、そんなこと言えません。しかしながら、映像のように具体化されてしまうと逆にイメージを限定するものです。けれども、テキストのようにイメージに限度がないと、妄想は際限なく広がるものです。というか、ぼくが強烈に妄想しすぎなのでしょうか(きっとそうだ)。

映画を観たあとで、そのまま新宿に移動して、夜は会社の同僚の結婚式二次会に参加。この店にもMOONという言葉が使われていて、なんとなく最近月について取り上げることが多いぼくとしては、偶然の一致を感じたりしました。白いタキシード&ウェディングドレスの若いふたりをみていると、ああそんな時代があったっけなあ(遠い目)という気持ちにもなります。体育会系の彼の友人たちの若い力に元気づけられました。それにしても、ビジネスでしかめっつらして話している知人が人前でちゅーしているのをみるのは、なんとなく落ち着きません。もぞもぞするものですな。もぞもぞしたり、うらやましかったり。

会社のひとと話したなかで、宣伝会議の編集講座を受講していた方から、山田ズーニーさんの講座がすごかった、ということを聞きました。サングラスをかけて颯爽と入ってきた彼女に、最初はどんなもんだろうと思ったらしいのですが、とにかくすばらしい講義だったらしい。うらやましいです。山田ズーニーさんの文章術の本は何冊か読んだのですが、小手先の技術ではなく、書くこと=生きることとして、真摯に書くこと=生きることに向き合っている。そんなひとだから、やはり講義の説得力も違うのでしょう。受講してみたいものです。

その後、会社のひとたちだけで飲んだのですが、最近お酒にすっかり弱くなり、酔っ払いました。酔っ払ったので、電車のなかで眠ってしまい、2駅乗り越してしまった。いま考えると別にその駅で降りなくても上りの電車を待てばよかったのですが、改札を出てしまい、2駅ぐらいどうってことないだろうと歩いてしまいました。これが実はどうってことがあって、東に向わなければならないところを北にずんずん歩いていた。これだから自動操縦といっても酔っ払いは困ったものです。北海道まで歩いてしまうところでした(歩けませんが)。

進路変更して、高級住宅街の碁盤の目のような舗道をとぼとぼと歩いていると、見上げた空には満月っぽい月です。まるでぼくを笑うかのように雲に隠れたり出てきたりする月に腹立たしいやら悲しいやら複雑な気持ちになりつつ、1時間かけて帰宅して、ブログを書いています(現在、深夜2時10分)。学生の頃であれば終電がなくなって何駅も何時間も歩いたものですが、さすがにあの頃の体力はありませんね。というか、身体鍛えなさすぎか?

重松清さんの「その日の前に」を読了し、映画「薬指の標本」のことも書きたいし、「草の上の月」という映画も途中で止めてあるのですが、深夜のお散歩でくたびれたのでまた明日にします。

なんとなくぼくらしくなく日記らしい日記になってしまいましたが、たまにはそういう日もいいでしょう。理屈っぽく考えすぎるのも疲れてしまうので。

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2006年11月 2日

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自分を更新する。

懐かしいタイトルだなと思って、先日書店で「薬指の標本」といっしょに購入したのが、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ、宇野邦一さん訳による「アンチ・オイディプス」でした。

4309462804アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)
宇野 邦一
河出書房新社 2006-10-05

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上下巻に分かれているといえ、何しろ文庫です。文庫でこれが読めるとは思わなかった。確か学生時代にはテキスト(教科書という意味です)として、分厚い本を買わされたような気がしました。本棚のどこかにまだあるかもしれません。読み始めたときに変な文章だなあと思ったことを覚えていて、やっぱり読み始めると変な文章なのであって、こちらも懐かしかった。というわけで上巻から少しずつ読み始めています。

ところが自分で自分にびっくりしたのが、読める、ということです。学生時代にはさっぱりわからなくて、何だこりゃ、どうでもいいか的な気分になって、すぐに放り出してしまった気がします。けれどもいまは読み進めることができる。決して、わかるとは言えないのですが、言葉がイメージすることがぼんやりとはいえすっと入ってくるし、これは?とセンサーに引っかかってくることもある。そしてそれはいまぼくが関心を持っていることに近いような気もする。

何がどのように関連するのかということはうまく言えないので、漠然と引っかかってきたワードを羅列してみると、器官なき身体、パラノイア、生産、生成、強度〔内包〕量、器用仕事(ブリコラージュ)などなど。

最後の器用仕事(ブリコラージュ)については、アンリ・ミショーによる分裂症患者の机についての描写を引用しています。こちらを引用してみます(P.23)。

驚くべきことに、この机は単純ではないが、かといってそれほど複雑でもなかった。つまり始めから複雑だったり、意図的に、あるいは計画的に複雑であったりしたわけではない。むしろ、加工されるにつれて、この机は単純でなくなってきたのだ・・・・・・。この机はそれ自身としては、いくつもの付加物がある机だった。ちょうど、分裂症者の描くデッサンが詰め込み過ぎと言われるように。この机が完成するとすれば、それはもう何もつけ加えるてだてがなくなったときである。

いままさにぼくはDTMの創作においても、昨日の「薬指の標本」のレビューにしても、この机を複雑化していく状態にありました。分裂症的であるともいえる。といってしまうことに居心地の悪さも感じるのだけど、いまインターネットの世界においても、ここで書かれている机を複雑化するような傾向が進展していて、そもそもリアルとバーチャルが混在する世界自体が分裂症的です。まさに複雑化、多様化の行き着く先は「何もつけ加えるてだてがなくなったとき」なのかもしれない、と感じました。

器用仕事(ブリコラージュ:本文中ではルビ)自体が書かれているのは、次のような部分です。

レヴィ=ストロースは器用仕事(ブリコラージュ)を規定するとき、緊密に結びついた諸特性の総体としてそれを提案している。すなわち、多数のちぐはぐな、限られたストックやコードを具えていること、もろもろの断片を、たえず新しい断片化に導く能力をもつこと。したがって生産する働きと生産物は区別されず、用いる道具の全体と、実現すべき仕事の全体も区別されない。

きちんと理解しているわけではないのですが、ここで言いたいことが伝わってくる気がしています。何かを生産したときに、それが別の何かを生産するためのものとなる。この途方もない接続を「機械」としてとらえているわけで、そのあとにはカフカの「流刑地にて」も出てきます。

といってもぼくがブリコラージュという言葉にセンサーを働かせてしまうのは、以下のCDのせいかもしれないのですが。

B000FDF46CBricolages
坂本龍一
ワーナーミュージック・ジャパン 2006-05-24

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表面的であっても、実は本質に関わることであっても、まずはさまざまな読書などから自分に触れたものを探してみる。その結果として、この場で何かを書いてみて、自分の考えを更新していく。自分2.0なんてことも書いたりしましたが、いまのところ2.1βぐらいの感じでしょうか。

今年も残すところあと2ヶ月。本100冊+映画100本という目標の達成度は現在70%というところで、なかなか厳しいものがあるのですが、できるところまで自分を更新していきたいと思っています。

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2006年11月 1日

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難問ばかりのツキはじめ。

まだ余力があるものの、並行していくつかの仕事が動き出し、回転している皿が止まらないように回しつづけている毎日です。けれどもどうしても零れてしまうものもある。うまく拾えることができればいいのだけど、簡単に思えるようなことも、複数の何かが絡み合って押し寄せてくると、手に負えなくなったりもする。こんがらがった頭のなかをどのようにして解けばいいのか、その答えを求めつつ、うまく跳躍できるように願ったりしています。

今朝、電車のなかで日溜りのなかでうとうとしていたら、ふいに小学校の頃の花壇を思い出しました。その花壇を詳細に思い出そうとしていたら花壇ではなくて、渡り廊下だとか、靴箱だとか、そんな陰影に彩られた記憶が鮮やかに蘇ってしまった。ああ、そうだっけ、こんな風景をみていたことがあった、と、何が記憶をずるずると再生しはじめたのかわからずに、それでもぼくはその風景を流れるままにしておいた。けれども完全に身体感覚まで再生できるところには至らずに、どこか言い出せない言葉のようにもどかしいものがありました。なんだったんでしょうか。ぼくが考えるに、きっと思い出した風景ではない別のどこかに、封印して忘れ去ろうとしたぼくの大事な記憶があるのかもしれません。その記憶を思いだしたくないばかりに、花壇のことばかり再生されてしまう。

さて、難問を片づけるよりよい方法論について考えているのですが、いきなり全体に着手しようとしないことかもしれません。ということは、全体を俯瞰することが大切である、と書きつづけたぼくのブログの趣旨とはまったく逆かもしれないのですが、俯瞰して答えが出ることもあれば、俯瞰しない瑣末なあれこれに注目したほうがよいときもある。こんがらがった全体をどうにかしようとせずに、まずは手もとにある糸の絡まりを解いてみる。昨日の日記で原研哉さんの書物から引用したのですが、「着眼大局着手小局」です。

仕事の難問のひとつには、4つの立場をそれぞれWinな状態にする、という案件があります。これがまた難しい。この難しさを体験してしまうと、プライベート/パブリックの成立などは、おちゃのこさいさい、という気もする(そんなことないけどね)。まだ結論はみえません。というかスタートラインに立ったばかりです。スタートラインに立ったけど、ちょっとやめときたい、という後ろ向きな気持ちもないことはないのですが走り出せば何かが変わるかもしれません。変わらないかもしれません。うーん、どっちだろう。

散財がつづきますが、今日もまたCDを買ってしまいました。alva noto+ryuichi sakamoto の「revep」です。

B000GINIE6Revep
Alva Noto & Ryuichi Sakamoto
Raster Noton 2006-06-12

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「insen」が欲しかったのですがなかったので注文してしまった。fakeplasticのブログで紹介されていて、まずジャケットのデザインがいいな、と思ったのですが、実際に手にしてみるとさらにいい。マットコート系の白地にやわらかい色が映えます。そして音は「!」でした。そもそも日曜日に自分の曲を手直ししながら、音を切り貼りする手法を用いていたのですが、このアルバムはまさにそんな電子音で作られています。偶然の一致というわけではないけれど、いまのぼくの気分にぴったりでした。ただし、そんな手法はもちろんのこと、漂う音そのものの重なりだったり、揺らぎが心地よい。癒されました、今日も。

難問ばかりの神無月。天気はよかったのですが、帰宅時には月は雲に隠れてみえませんでした。ツキがなかったとか言ってみたり、言ってみて後悔したり。

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2006年10月22日

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アートなものに対する憧憬。

雨のせいか、徹夜の反動か、今日はとてもぼんやりとしています。思考もうまく回転しない。そんなわけで、抽象的な印象について語ろうと思います。

芸術の反対語って何でしょう。通俗でしょうか。ぼくは趣味でDTMによる音楽創りをしているのですがポップスを志向しています。ポップスはわかりやすくあるべきだとはいえ、あまりにもべたべたな楽曲は陳腐な印象があります。シンプルであることはわかりやすいのですが、ステレオタイプの陳腐化にもなりやすい。そして楽曲が陳腐化すると、その曲の持つ広がりがなくなります。

もう2年ぐらい前になるかと思うのですが、最初にMUZIEで公開した曲を、とある方に聴いていただいたところ、「期待感のあるイントロなのに、その後の展開がありきたりでがっかり」というような厳しい感想をいただきました。かなりへこんだのですが、その感想は非常にありがたいもので、いまでもぼくが課題として考えていることです。わかりやすいんだけど、アートっぽくなれない。

アマチュアさんの作品であっても、どこか抜けている作品は、ポップでありながらもアートな何かを持っています。これはセンスの問題かもしれないのですが、背景にもっている音楽経験の違いかもしれません。

文学でも映画でも音楽でもいいのですが、通俗的な陳腐さを脱却してアートなものとは、どこか複雑、多様、難解な何かを包含している。もちろん、わかりやすくてアートなものもあるのかもしれませんが(谷川俊太郎さんの詩とか)、音楽でいえば、複雑なコード、不協和音、転調、変拍子などを駆使するとアートっぽい。

そしてアートっぽくあろうとすると、それは一朝一夕にはできないものです。表面的な技術で繕ったとしても、どこか付け焼刃の感じがする。まず思考と知識をアート化しなければならないし、ひよっとしたら服装や持ち物などのアイテム、食べる物なども変えなきゃならないかもしれない。と、まあ、これは大袈裟なのかもしれないのですが、あながち間違いともいえないことで、というのは音楽のムーブメントでは、その周辺にあるものを巻き込んで進展してきた気がします。

芸術の秋まっさかりの休日。いまいちアートっぽくなれないぼくは、まず部屋を片づけてみることにしました。で、鍵盤楽器(MIDIコントローラー)を出してみたら、なんとなく気分的にオルゴール職人からミュージシャンっぽくなってきたような気がする。気分ではなく、何を創るかということが大事なのですが、まあそれは追々考えていこうということで。

趣味であるとはいえ、音楽の創作気分を盛り上げるために、イメージ映像をコラージュしてみます。

heya01.jpg heya02.jpg heya03.jpg
heya04.jpg heya05.jpg heya06.jpg

部屋のなかにある音楽ツール的なものをスナップしてみました。上段左から、フェンダージャパンのテレキャスターとヘフナーのバイオリンベース(どちらも弦が緩みっぱなし)、SONAR 5を起動したVAIOノートの画面(これでDTM制作)、使っていないけど出してみたらなんとなく気分がのってきたMIDIコントローラ。下段左から、失敗したパイニアのヘッドフォン(ソニーのやつにしておけばよかったー)、ケンウッド製のコンポ(赤いオニみたいなものは、長男が幼稚園のとき作成したウサギ)、すっかり使っていないハードディスクレコーダーVS-880です。

上記の半分はインテリア化しているのが、かなしい。そろそろギターとベースの弦を張ってみようと思います。

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2006年9月13日

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10年ひとむかし。

うちの息子(次男3歳)は去年から喘息です。昨日も風邪から喘息の発作を引き起こしてしまい、夜中の2時から4時まで救急の小児科に駆け込むということになってしまいました。とはいえ、さすがにもう慣れたもので、落ち着いて彼を連れて行くことができました。

苦しい彼の気持ちを思うとつらい。しかし、とにかく親が落ち着いているだけで、いろいろなことが冷静に判断できるものです。しかしながら、結局のところぼくが眠ったのは5時をまわっていて、しかも午前中に外せない仕事があったので、眠くてめまいがする一日でした。そんな日もあります。

ぼくにはふたりの息子がいます。長男はいま9歳です。ということは、もうすぐ父親暦10年ということになる。

父親も10年やっていると、さすがに慣れるものです。そして、何よりも忍耐力がつく。そもそもぼくは忍耐という言葉とは遠いところにある性格なのですが、子供たちのおかげで忍耐力をつけさせていただきました。まだ長男がちいさい頃には、自分の時間が奪われるような気がしたこともあったのですが、いまではどちらかというと彼等の時間を優先することもあります(いつもではないのですが)。独身で時間があればもっと映画を観たり本も読めたりするのになあ、趣味のDTMだって細部にこだわった作品ができるかもしれない、と思うこともあるのですが、実際に暇な時間ができたとしたら、ぼーっと過ごしてしまう気がします。

結局、人間と言うものは(と、言い切ってしまうのも問題ですが)、豊かであると豊かであることに気付かずに、その豊かさを浪費してしまうのかもしれません。かえって、時間がないっという切迫した気持ちのときの方が、ちゃっちゃっと器用にさまざまなことをできたりする。

時間と言うものは永遠にあるような錯覚がありますが、ぼくらの生命が有限である以上、時間もまた有限です。大前研一さんも書いていましたが、老いていく自分をリアルにシミュレーションすると、あと何回スキーに行ける、というようなことは明確になる。いまを大事にしたいと思います。

昨日、ドナルド・フェイゲンのソロアルバムについてエントリーを書いたのですが、彼は11年、13年という周期でソロアルバムを出しています。この10年という周期は長いようで短い。かつて、ITの世界はドッグイヤーなどということも言われたのですが、変化の激しい世界はそれだけ短く感じられます。ただ、だからといってせせこましく活動するのではなく、ながーい目で腰を落ち着けて何かに取り組む、ということもよいと思います。

セルジュ・ゲンズブールには、シャルロット・ゲンズプールという素敵な娘がいるようです。今月のELLE Japonの表紙にもなっています。

ELLE.jpg

なんと彼女は今年20年ぶりにセカンドアルバムを出したとのこと。glasshouseさんのブログでそのことを知り、なんとなく面白かったのでコメントしたのですが、その後、フランス事情に詳しい、しゃるろっとさんのコメントを得て、シャルロット情報でものすごく盛り上がっていました。おふたりの情報収集力と深い知見には、たじたじという感じです。しかし、深堀りができるのもネットの面白さです。

ところで、DTMで曲を創っていて思うことですが、ぼくの制作方法はステップ入力というアプローチで、さらにキーボード(鍵盤)を使わずに、マウスでちくちく音を置いていきます。しかしながら、その手法に慣れてしまったのでストレスは感じないけれど、それでも4時間PCに向って8小節が完成、ということも多い。1ヶ月そんなことをつづけて、やっと3分の曲が完成するわけです。

CGで映画を作っているクリエイターの方にも共通することでしょう。ものすごい制作時間をかけたとしても、作品のなかではほんの一瞬であったり、画面の片隅の部分であったりする。いわゆる石を積み上げている状態で、それがピラミッドになるとは想像もつかないわけです。ところがこの部分の石を手抜きすると、全体がガラガラと崩れていってしまうことがある。部分と全体はそんな風に密接に関わっていて、部分だからといってあなどれません。

10年ひとむかしと括ってしまうことがいいのか、それとも、いやいやひとむかしといっても10年も毎日、毎時間、毎分、毎秒の積み重ねだよ、と、分解していくことがいいのか。ぼくにはどちらがいいとは言えません。はっきりしていることは、さらにあと10年後には、うちの息子(長男)も成人してしまうということです。頼りない彼が成人することは想像もつかないのですが、いつまでも子供でいるということはあり得ないもので、容赦なく過ぎ去っていくのが現実です。

・・・さて、睡眠不足で意識が朦朧としてきたので、今日はこの辺で。ちなみに、次男は風邪と喘息の発作で、一日でものすごくスリムに変身したのですが、今日はものすごい元気でした。心配かけてもう、という感じがします。とはいえ、やはり若さというか、回復力にはびっくりします。

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