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2006年9月 9日

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リフレイン、ユニゾン。

長すぎる、と自分でも反省しているのですが、最近のぼくのブログのエントリーは長文になりつつあります。その理由としては、テーマが整理されていないこともあるのですが、さまざまな視点が錯綜しているということもある。それにしても、実際にはエントリーした文章量の5倍ぐらい書きたいことがあり、徹夜になりそうなので断念しています。一方で、もっと歯切れよく簡潔に書きたいのですが、なかなか思うようになりません。難しいものです。そんなわけで、今日はブログを書くことについて考えてみます。

ぼくの場合、うまく書けたと思うエントリーは、トランプのゲームで「手札が揃う」感じに近い感じがあります。はてなブックマークなどでストックしておいた複数のニュースや、感銘した書籍、映画、雑誌の記事、経験したことなどがいっきにつながるときがあり、そんなときは書いていて楽しい。

手札を揃えるためには、なるべくインプットの量を増やす必要があり、情報源はジャンルを横断しているほうがよいようです。そして、できれば一次情報のほうがよい。

ランチでこんなものを食べた、という写真つきのブログが楽しいのは、そのひとがリアルタイムで経験した一次情報だからです。ブログから引用の引用ということをぼくもやってしまうのですが(昨日もそれだ)、そこに自分なりの見解などを付け加えることはできます。けれども、やはりどこか使い回しという感じがする。しかしながら、使い回しがいけないのか、別に独自の何かを書かなきゃいけないわけでもなくて、新しいことを書かなきゃ、とプレッシャーを感じていたこともあるのですが、最近では同じことを繰り返し書いてもよいのではないか、と考えています。

木曜日に茂木健一郎さんの「脳の中の人生」を読み終えました。このなかに書かれていることは、茂木健一郎さんのほかの著作でも書かれていることであり、週刊誌の連載ということもあるのですが、非常にやさしくわかりやすい言葉で書かれています。書かれていることは同じネタであっても、またこれか、という風には思わない。むしろ、待ってました、的な感じがあり、その茂木健一郎的な思考に再会するのが楽しい。さらに、っちょっと難しいタイプの本には書かれていなかった茂木さんのプライベートがさらりと書かれていたりして、そんなところが魅力的でもあります。

同じことを何度も書く、スパイラル(螺旋)状態で書きつづけるテクニックは、ブログでも使えそうな気がします。どういうことなのか理屈にしてみようと思って考えていたところ、音楽用語の「リフレイン」、「ユニゾン」という言葉を思い出しました。ちなみにぼくは音楽家でもなく、思想家でもないので、単なる思いつきにすぎないのですが。

まずは、リフレイン。YAMAHAの音楽用語辞典から引用します。

リフレイン refrain[英・仏]
〔1〕有節形式の詩で、各節の最後に繰り返される、同一の詩行。通常、同一の音楽が与えられる。〈ルフラン〉〈反復句〉とも。

同一の用語にリピートもあるのですが、これは単純に「楽曲のある部分を繰り返すこと」と解説されています。リフレインというのは、いわゆるサビの部分を何度も繰り返すことです。繰り返すことによって、頭のなかに詩句が刷り込まれていく。しかし、ここで「通常、同一の音楽が与えられる。」というところが微妙ですが重要であると思って、繰り返されるのだけど少しづつ歌い方を変えたり、アレンジが変わっていくものではないでしょうか。特に歌謡曲でサビといえば、覚えやすかったり印象的なメロディが多い。複雑なものを繰り返されても覚えられません。

ここでメタファ(隠喩)的にブログの書き方に転じるのですが、何度もリフレインすることでファンを増やしていく書き方もあるのではないか、と思いました。ぼくは、やわらかい文章やほのぼのとした話題とともに、ちょっと文語的なブログも好きだったりするのですが、家族の話や仕事に関する悩みなど、何度もリフレインされると、その世界にはまっていくところがあります。

つづいて、ユニゾンです。

ユニゾン unison[英] Unisono[独] unisonus[ラ]
〔1〕高さが同じ2音間の音程。〔2〕複数声部が同一旋律を演奏すること。unis.と略記。

これは、校歌斉唱のような感じでしょうか。複数のひとが同じメロディを歌うことです。メタファ(隠喩)的にブログの書き方に転じると、これは引用して記事を書くことに近いのではないでしょうか。つまり「共感」を軸として、引用元の記事に書かれた趣旨をなぞることになります。なぞったとしても書かれたひととは別人なので、声質などが違うのでまったく違う。

テーマをどれだけ変奏できるか、ということもあるかと思うのですが、新しいネタを追わなくても、同じテーマで書きつづけるブログがあってもよいと思います。大前研一さんはその著書のなかで、一年間に自分でテーマを設定してそれを追求していく、と書かれていました。今年は中国である、と設定したら、中国について知見を深めていくそうです。なかなかそんな風に戦略的に腰を据えて取り組むことはできないのですが、目移りしがちなぼくとしては、同じテーマをリフレインあるいはユニゾンしつつ、太い思考に変えていく、という方向もありかもしれないな、と考えました。

+++++

■YAMAHAの音楽用語辞典。
http://www.yamaha.co.jp/edu/dictionary/index.html

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2006年9月 8日

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宝とゴミについての長い論考。

最近、ぼくが注目しているブログに棚橋弘季(gitanez)さんのDESIGN IT! w/LOVEがあります。そもそもはMarkeZineに書かれていた棚橋さんの記事を読んで、これは面白い!と思ったのですが、本日のエントリーで「俳句の有限性と自己組織化するWeb」というテーマで書かれていました。

冒頭でまず「404 Blog Not Found]」から「ゴミなきところに知なし」というエントリーが引用されています。ふむふむ、これは情報にはノイズが必要ということですかね、と思いつつ読んでみると、R30さんの「そろそろ」というエントリーの批判なのでした。

批判されている部分を引用してみます。以下はR30さんのブログから抜粋です。ブログを「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」と言っています。

端的に言っちゃうと、要するに「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」ということなんじゃないかと。パーソナライズドされた検索結果から機械的に知的生産に役立たないゴミクズを「見えなく」し、しかもゴミクズからの一切のアクセスを禁じるという技術が生まれないと、どうにもならない気が。でもそれって結局人でフィルタするしかないわけだし、つまりはSNSっつーことじゃないですか。じゃあブログでやる意味なんか、ないよね。

この表現について、danさんは次のように書いています。

ゴミに埋もれたくないのはいい。ゴミ掘りに疲れてSNSに癒しを求めるのも自由だ。しかしゴミに手を出さず知的生産と言い張るのは、「知的」でも「生産的」でもないのは確かなのではないか。

これらの文脈を読んでまずぼくが感じたのは、何が「ゴミ」で何が「宝」か、ということです。

誰かにとってはゴミかもしれないが、誰かにとっては宝かもしれない、そんなことがあると思います。ブラインドがおりていると価値というのはみえにくいもので、けれども意識が変わると「地」となっていたものが「図」として浮上することもある。機械的にみえなくしたゴミのなかにこそ宝があることも考えられるし、みんながよいと評価したものであっても個人的にはゴミなものもある。

つまり養老孟司さん的な言葉を借りると、情報は変化しないが、ぼくら人間は変化しつづけるということです。社会的な文脈(コンテクスト)が変われば、いままでゴミだった情報が宝にもなりうる。逆に、宝だった流行語がいっきに陳腐化することもある。光の当て方によって、情報はゴミにも宝にもなり得るものです。その光とは、ぼくらの意識かもしれない。

棚橋さんの書かれていることを読んで感じた印象を述べると、「ゴミ」か「宝」かについては、組み合わせの問題でもないと、ぼくは思っています。俳句は確かに言葉の組み合わせだけれど、詠むひとの直感や人生が言葉を貫くからこそ、そこに組み合わせを超えた意味が立ち上がってくるものではないでしょうか。

音楽だって音符の組み合わせにしか過ぎない、ということもいえます。ただそこで思考停止になる。作曲家は組み合わせのオプションのなかから検索・選択して曲を作っているわけではないと思います。もちろん制作の過程には、「このドラムは、どこすこどん、だろうか、すたたかたかたん、だろうか」というパターンの選択はあるのですが、結局のところ感性で選ぶ。可能性を羅列するのではなく選ぶという行為が重要で、茂木健一郎さんの本にも書いてありましたが、こうした判断の機能は右脳にあるようです。右脳を損傷すると、選択肢はいくつも列記できるのだけど判断できなくなるそうです(うろ覚えですが)。

さらにそこには作り手だけでなく、受け手(読者、視聴者)の関係性もあります。俳句にしても音楽にしても、関係性のなかで成立するものであり、作り手がただ面白いからランダムに入れ替えた言葉や音符は、「情報」としてのデータはあるけれど創作ではないと思いますね。

科学的あるいは理系的な発想について、ときどき苛立ちを感じてしまうのは、組み合わせれば何でもできるという驕りです。もちろん広告マンのバイブルであるジェームズ・W・ヤングさんの著作や、野口悠紀雄さんが述べているように「アイディアは既存の何かの組み合わせである」という観点はわかるのですが、それはアイディアという意味がある単位であって、音素(Phenome)や音階のように意味を持たない単位で分断されたものではありません。また、ランダムに組み合わせるものでもない。

いまある数学的な発想ですべての創作活動も定義あるいは解明できるという姿勢に、ぼくは科学者の権威的な暴力を感じてしまうこともあるのですが、茂木健一郎さんもPodcastingの講義でお話されていたのだけど、創造性を科学的に検証すると、現在の数学とはまったく違うフレームが必要になる気がします。

ということを書きつづけると、長くなるので後日。いまぼくは、問題の源となったR30さんの言説、ブログが「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」ということについて、考えてみたいと思います。

+++++

ぼくはR30さんについて何も知らないので不躾に勝手な感想を述べさせていただきますが、R30さんは、ひょっとすると新聞社系の方、もしくはご出身ではないでしょうか。

新聞社系のジャーナリストにありがちな姿勢として、社会全体を支配しているかのようにふんぞりかえって斜に構えて、権威的な言動をする傾向を感じています。マスの視点からみて「今度はこれだ!」かといったかと思うと「あれはもう終わった!」と手のひらを返して騒ぎたがる。

すべてのマスコミにおいて考えられる傾向かもしれないのですが、ちょうど今週のR25の巻末コラムで石田衣良さんが、「てのひら返しのアップ&ダウン」として、あのボクシングの狂騒的な報道から、マスコミの手のひらを返した騒ぎぶりを批判していました。深く共感しました。以下、R25 NO.108より引用します。

そんなことよりも気になるのが、例によってマスコミのてのひら返しの報道姿勢なのである。ライブドアのH氏、村上ファンドのM氏、あるいは人気の占い師など、すぐに幾人かの名前をあげることができるだろう。てのひら返しは日本のマスメディアの常套手段なのである。
視聴率をあげるため、発行部数を増やすためといった手段で、特定の個人を散々もちあげておいて、なにかトラブルが発生すると、てのひらを返して攻撃に走るというマスコミの報道姿勢が、ぼくは嫌いなのだ。

ひとりの「個」としては、必ずしもマスの現象としての社会で生きているわけではありません。終わったものにしがみつかなければならない人間もいるし、それを糧としているひとたちもいる。

ところが新聞社系の人間は、そんな「負け組」はどうでもいいようです。つまり「読まれる=騒がれる」ネタであれば、なんであってもよいのではないか(と思えるほど、騒がしい)。突っ込みどころのあるネタには、とことん追求する。格差社会を過剰に騒ぎ立てて進展させるのも、マスメディアの責任のない発言によるところが多いと思うのですが、いかがでしょう。

ぼくはCGM(Consumer Generated Media:消費者が生成するメディア)としてのブログの台頭よりも、その傲慢な姿勢がマスメディアを終わらせているような気がします。

もちろんジャーナリストとして立派な倫理観をもった方もたくさんいて、グーグルの本を出した佐々木俊尚さんのオーマイニュースに関する批判などは共感できると思ったのですが、一般的には、石田衣良さんが批判しているようにマスコミは「手のひらを返して」騒ぎたがる傾向にあるようです。憤りまではいかなくても、なんかおかしいんじゃないのか?とぼくも感じている。

R30さんは、いつかエントリーで「Web2.0はもうおしまいだ」と書くのではないでしょうか。そして、つづいて「SNSにはうんざりだ」と書くかもしれない。ただ、そういうおしまいを宣言するひとがいてもいいと思う。それもまたブログの自由です。しかしながら、ひょっとするとR30さんはブロガーと言うより、ぼくらブロガーが批判の対象とすべき「マスコミのひと」なのかもしれませんね。その姿勢は、マスコミ的です。

R30さんは8月のあいだ、1ヶ月に2つのエントリーしか書いていません。個人的な印象と推測ですが、書ける人間に対するやっかみもあるのでしょう。そんな心理を冷静に眺めると、かわいそうだな、と同情もするわけで、いさぎよくブログなんて辞めてしまえば楽になれるのになあ、で、SNSで自分によいしょしてくれるひとたちに囲まれてしあわせに癒されていればいいじゃん、と余計なお世話を考えてしまう。ただ、ぼくはR30さんは永遠に「あれが終わった」を言いつづけるひとのように思います。不満を言いつづけることで精彩のあるひともいれば、終わりを宣言することで胸を張るひともいるものです。

さて、ぼくは好きでブログを書いています。誰から頼まれたわけでもないし、誰かに評価されるのを期待しているわけでもない。

SNSでも、マイミク300人みたいなことは絶対に無理です。できません。でも、きちんとコメントいただいている方のブログはきちんと読みたいと思うし、いただいたコメントに対しては誠実にお返事していきたい。それがぼくの生き方であり、価値観です。

そして、ブログを書ける人間が偉いとは思っていないし、書けない人間が劣っているとも思いません。だから、書ける人間が「ブログも知らないと時代についていけないぞ」というのもおかしい気がするし、逆に書けない人間が「ブログなんて書いてないでもっとリアルに生きろ」というのもおかしいと思います。それは能力というより価値観の違いであり、どちらも「正解」なわけです。モノサシが違うものを比べてもしょうがない。

別の価値観としては、好きなものに対しては、どんなに裏切られようとも信じていたいし、最後まで付き合いたいと思っています。ふたりの息子たちに「パパあっちいけー」と言われても、「そんなこと言ってもひっついちゃうもんねー」と言い返してべたべたするし、運動会の競走でビリであっても、これからどんなにダメな息子になってしまったとしても、こいつはぼくの最高の息子だ、こいつらがいてくれたからぼくの人生は最高だった、文句あるか、と言いたい。その価値観を守れなかったときに、ぼくは自分自身を最低だと思います。

ブログやSNSは、まだよちよち歩きの子供です。終わりもしない。はじまってもいない。成長の過程にはいろんなことがあると思うのですが、どんなにだめになっても、ぼくはこのブログスフィアが大好きだし、つづけていようと思うし、その可能性を信じていたい。自分の大切なものに、ツバを吐く人間だけにはなりたくないと思います。

辛辣に書いてしまった部分もあるかもしれませんが、R30さんを否定するものではありません。このエントリーにむかついた、ということであれば、ごめんなさい、と謝るしかない。ただ、正直に考えたことを書いたらこうなっちゃいました、というだけのことです。

ひょっとすると正直に垂れ流した言葉が「ゴミ」かもしれないですね。とはいっても、インターネットにあるゴミたちは、すべて人間たちが生み出したものです。どんなに酷い言葉にも、しょうもない画像や映像にも、その向こう側には、ときには高みにありときにはダークサイドにも落ちる人間たちの生活があると考えると、いとおしくなりませんか? まあ、ご自身の知的生産に役立たないブログはゴミだ、といってしまうR30さんには、そんな愛情はないかもしれませんけど。

終わってしまえば、ぼくらの人生はゴミのようなものでしょう。どんなに偉いひとの人生も、偉くないひとの人生も、みんな忘れ去られる運命にあります。

ただ、だからこそ佐高信さんがサンデーモーニングで言っていたように、みられることがなくても美しく咲いている山奥のサクラでありたい。ゴミにも存在の意義があります。世のなかに存在するものたちに、意義のないものはひとつもないんじゃないか、とぼくは思う。甘いかもしれないのですが。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年9月 6日

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親も大変、けれども子も大変。

東京は雨模様の一日だったのですが、さわやかなニュースがありました。紀子さま、男の子をご出産とのこと。おめでとうございます。健やかに成長されることをお祈りいたします。皇位継承の問題だとか、過剰な報道についてだとか、社会的な文脈に絡み取られがちなのですが、ぼくはシンプルに、ひとりの生命が誕生したことをお祝いしたい気持ちです。

女性ではないのでわかっていないことも多いと思うのですが、やはり子供を持つ親としては子供が生まれるときの大変さというのは痛いほどに感じるものです。というわけで今日は、親について考えてみたいと思います。

ちょうど、週刊ダイヤモンドの9.9号で「父親力」という特集がありました。

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オープンオフィスで父親の働く姿を子供にみせる、という取材からはじまって、多角的に父親の子育てについて考えられる興味深い特集でした。最近、重松清さんの「小さき者へ」という小説を読んで、親の在り方などについて考えていたのですが、この特集にも重松清さんのインタビューが掲載されていました。これがまた泣けた。電車のなかで不覚にも涙が出そうになって困りました。以下、引用します(P.33)。

僕は家族、非行、イジメなどをテーマに小説を書いているが、一冊の父親論を書いて、これが正解というものがあるなら、小説を書くことはない。いろんなお父さんがいて、いろんな悩みがあるから、小説のネタは尽きない。
子供のことで悩むことも大事だ。もうやめたといって逃げるよりも、一○○倍いい。正解に辿り着くのは大変なことで、何が正解かも実際わからない。

共感します。しかし、小説だからこそパラレルにさまざまな正解を描くことができますが、現実に生きる以上、ひとつの正解を選ばなければならない場面もあります。ここで悩む。ものすごく悩むわけです。たいしたことではなかったとしても、子供ときちんと向き合おうとすると、悩むことばかりです。そして悩んだにも関わらず、嫌われる。父親の悩みなんて子供には理解できないもので、結構、残酷に嫌われます。ただ、それが父親の宿命かもしれない。重松さんも以下のように述べています。

「お父さんなんて大嫌い」と言われたら、ある意味、一人前になったな、と思えばいい。いつも仲のいい家族であるわけではない。思い通りにならないときに踏ん張ることができる力、くじけない力、めげない力というのも、父親として大事な能力だと思う。

それを明示するかどうかはともかく、親であることは精神力はもちろん体力も要求されます。そしてみえないところで努力しなければならない。冒頭にオープンオフィスで働く姿をみせるという話もありましたが、頑張っている背中をみせることが、子供に対するいちばんの教育かもしれません。

ぼくの親父は高校教師だったのですが、夜が更けてからスタンドの明かりのもとで、がりがりとガリ版で試験問題を作っている姿が印象に残っています。コピーなどのなかった時代で、鉄筆でロウのような薄い紙に問題を書き込む。それを輪転機にかけて印刷するわけです。

そういえば、試験問題のマルつけをやらされたこともあって、親父が書くマルの形を真似させられた。これ、ぼくがマルつけちゃっていいの?と小学生のぼくは、ささやかな罪悪感を感じたのですが、一方でえへんという気持ちもあった。ぼくに期末試験のマルをつけられた高校生の気持ちを考えると、申し訳なかったなあ、という感じがするのですが、いま考えるとそれが親父なりの「オープンオフィス」であり、まだ小学生のぼくに教師の仕事について教えようとしていたのかもしれません。どうなんだろう、親父?

最終的に親父は校長を勤めた優秀な教師だったのですが、教頭時代には上下からのプレッシャーに悩み、朝起きると身体の形がわかるほど寝汗をかいていた、ということを最近になって母が教えてくれました。また、悪性の腫瘍で右手を手術したこともあったのですが、傷を隠しながら職場に行っていたようです。リハビリのために書いた日記が残っているのですが、文字はほとんど読めません。読めないのにどうやって仕事をしていたのだろう。つらい時期だったのだと思うのですが、親不孝な子供であったぼくは、そんなことには気付かずにのほほんと生きていました。

ダイヤモンドの特集には、奥谷禮子さんが父を亡くしたときのエピソードも掲載されています。かつて格差社会について、負け組みの努力が足りないような発言をされていた奥谷さんについて批判的なことを書いたことがあるのですが、その厳しさはきっと父親から受け継いだものかもしれません。次のように書かれています。

私の「許せないことは許せない」と相手に立ち向かっていく性格は、まさしく父親譲りだと思う。

少し奥谷さんを理解できたような気がします。やはり、人間というものはさまざまな角度からみなければいけないもので、ひとつの発言だけを取り上げて批判するのは浅いかもしれない、と反省しました。

ところで、ぼくの個人的な気持ちをカミングアウトしようと思うのですが、10代の真ん中あたりのぼくは、結婚して子供をつくるのはまっぴらだと思っていました(前にも書いた気がしますけど)。ぼくは一生結婚なんかするもんか、子供も作らない、と思っていた。というのは、自分と同じ遺伝子を持った、しょうもない自分の劣悪なコピーがこの世の中に生まれ出ることは、ぜったいに許せないと思っていたからです。

もしかすると、そんな10代のぼくの気持ちに共感するひともいるかもしれないので、聞いてほしいのですが、その考え方は全面的に間違っている。何が間違っているかというと、子供は自分の創作物であり、そもそも「子作り」というように、親が創作者であるような優位という発想がおかしい。子供は親のコピーなどではない。そんな風に思うのは若い人間の思い上がりであり、親とは何か、子供とは何か、ということをまったくわかっていないと思います。その考えの延長線上に、子供を虐待したり、殺めてしまう発想もあるような気がします。わたしが生んだものだからどう扱ってもいいじゃないの、というような。生んだのはあなたかもしれないが、子供はあなたのものではない。

子供は親とはまったく別の「個」だと思います。子供は所有できない。血縁関係はあったとしても、他人です。多くの他人がそうであるように、自分の「思い通りにはならない」ということを親はもっと理解すべきだとぼくは思います。「思い通りにならない」からこそ楽しいし、親の想像を超えた成長もしてくれる。

逆に思い通りにならないから、切ないこともあります。

上の子(長男)が小学校低学年ぐらいのときのことですが、ちょっと内気な息子は運動会などのイベントを前にして、夜寝るときに「むねが、ぽこんぽこんして、ねむれない」といっていたことがありました。胸がどきどきする、というステレオタイプな表現を知らないので、感じたままに「ぽこんぽこん」と表現したのかもしれません。確かにどきどきも度を越すと、ぽこんぽこんになるかもしれない。その気持ちが痛いほどにわかるんだけど、じゃあどうすれば治るのか、親であるぼくにはわからない。お話をしてあげたりしたような気もするのですが、治らない。思い通りにはならない。

しかし、考えてみるとパパだって、過剰にプレッシャーのかかる仕事をするときには今でも「ぽこんぽこん」するのであって、ちょっとばかり長く生きていたとしても、息子と何も変わらない。なんとかしてあげたいけど、パパにもどうしようもないんだよ、という無力さが切なかった。そうして息子はこれから、何度も「ぽこんぽこん」する場面を切り抜けていかなければならないわけです。そのことを思うと、やりきれない気持ちになりました。

ところで、20代になってからの独身時代のぼくは、将来こんな父親になりたい、という理想像を、あるマンガに見出していました。それは、ジョージ秋山さんの「浮浪雲」です。

4091800513浮浪雲 (1) (ビッグコミックス)
小学館 1975-07

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品川の宿場町で人足のリーダーとしてのらりくらりと暮らす「雲」が主人公で、酒を呑んだり女性の尻を追いかけたり、どうしようもないやつなのですが、実は家族思いで、子供のことが大好きで、じーっとみつめることで何かを教えようとする。子供のほうは、ちゃらんぽらんな父親を反面教師としてみているのだけど、なんだか憎めない。ときには親子が友達のように笑いあったりしている。いまでも理想だなあ、こんな父子。しなやかだけど強く生きたいものです。

さてさて。肉親であるからこそ、共感する力も強いと思うのですが、血はつながっていたとしてもお互いに別々の「個」として生きていかなければなりません。アドバイスができたとしても、最終的に息子に届かなければ、その言葉も意味がない。もしかすると(ぼくのように)親父が亡くなったあとに親父の意図に気付く、ということもあるので、願わくばそうあってほしいものですが。

茂木健一郎さんの「脳の中の人生」という本のなかで、養老孟司さんのエピソードについて書かれていて、これもなんとなくあたたかいお話でした。「死の壁」という著作からの引用のようですが、さらに引用します(P.18)。

父の死については、よく思い出していました。しかし、それを本当に受け止められたのは、三十代の頃だったと思います。(中略)その頃、ふと、地下鉄に乗っているときに、急に自分が挨拶が苦手なことと、父親の死が結びついていることに気づいた。そのとき初めて「親父が死んだ」と実感したのです。そして急に涙があふれてきた。

この経緯として、父が臨終のときは夜中だったので、幼少の養老さんは「さようならを言いなさい」と言われたのに寝ぼけて言えなかった、という経験を語られています。父に最後の挨拶ができなかったという罪悪感が、挨拶が苦手だという形でずっと養老さんの人生に影を落としていたわけです。ぼくも似たところがあって、いまは亡き父親に告げたいことがあったのに言えなかった、という経験がありました。だから、過剰にネットで語りはじめたのかもしれません。

これから世界に生まれる新しい生命、いまはもうここにはない生命の記憶、さらに今を生きようとしているぼくらのように、さまざまな生を想像することが大事なのでしょう。

いまぼくは、親でありながらまだ子供である、そんな役割のなかで生きています。ときにそれは面倒なものであり、先日の北海道の旅行では(ばーちゃんと息子とぼく、という日程もあったので)面倒さにくたびれ果てたこともあったのですが、そもそも人生というのは基本的に面倒なものなのかもしれません。しかしながら、面倒であっても、笑っていられるぐらいの人物でありたいですね。

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2006年9月 4日

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セレンディピティ、偶然の楽しみ。

求めていたことには出会えなかったのだけれど、まったく別の何かに出会えてしまった、という偶然の楽しみというものがあります。昨日のエントリーで書き足りないことがあったので、もう少し考えたことを追加してみます。

北海道の旅行で息子は、旭山動物園で動物をみるよりもトンボを捕まえることに夢中でした。けれどもそれはそれでしあわせであって、決して動物をみなかったからダメということはない。動物園でトンボを捕まえても、悪くないわけです。

目的はひとつである、これしかないと決めてしまわずに、いろいろと動き回っているうちに結果として、しあわせになることがあります。目的なんて決めないほうがいいのかもしれません。動き回っていれば、しあわせの方からやってくる。やってきたしあわせは、求めていたしあわせとは違うかもしれませんが、しあわせであることには変わりがありません。それで満足する。風の吹くままに彷徨う生き方ともいえる。

もちろんその方法がすべてうまくいくとは思えないけれど、いい加減な生き方もときにはよいものです。結果ばかりを追い求めていると疲れてしまうので。

このことを「セレンディピティ」と言うようです。茂木健一郎さんの著作には何度か出てきていて、いま読書中(P.60のあたりを読んでいます)の「脳の中の人生」にも出てきていました。もともとは造語であり、イギリスのホラス・ウォルポールというひとが創作したようです。以下、引用します(P.126)。

4121502000脳の中の人生 (中公新書ラクレ)
中央公論新社 2005-12

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一七五四年に友人に向けて書いた手紙の中で、ウォルポールは、ペルシャに伝わる古い童話『セレンディプの三人の王子たち』に言及した。「セレンディプ」とは、スリランカの古称である。王子たちは、旅を続ける中で、決して自分たちが探し求めていたのではないのに、たびたび幸運に出会う。王子たちが示したような「偶然、幸運に出会う力」を、セレンディピティと名付けようとウォルポールは提案したのである。

どこかロマンティックな響きもありますが、実際に、古本のなかにメッセージを挟んで、そのメッセージがみつかったらもう一度会う、恋人になる、という「セレンディピティ」という映画もあったような気がします。クリスマスの恋人たち向けの映画という感じでした。ひとりでそんな映画を深夜に観ていたら、なんだかもぞもぞ落ち着かなくなったものでした(以前にも取り上げたような気がします。確かクリスマスあたりに)。

B0002L4CMOセレンディピティ~恋人たちのニューヨーク~ [DVD]
マーク・クライン
ショウゲート 2006-06-23

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茂木健一郎さんの本には、現実に起こっていることではなくても、起こり得ることを想像するだけで脳のなかには実際に起こったのと同様の物質が分泌される、というようなことが書いてありました。つまり、起こっていなかったとしても、想像は現実の一部というわけです。

重松清さんの「三月行進曲」という小説(「小さき者へ」に収録)にも出てくるのですが、少年の頃には「もしも」ばかりを考えているものです。ところが年齢を重ねるにつれて、「もしも」の可能性はどんどん狭まって、考えなくなる。けれども豊かに生きるためには、現実だけでは不十分で「もしも」という仮想の世界も必要ではないか。小説のなかでは、30代の主人公であるお父さんは「もしも」を少年野球に託すわけですが、自分の子供は女の子であり、そのあたりのジレンマが切なくて、とてもうまく描かれています。

インターネットが面白いのも、仮想の世界のなかで「セレンディピティ」があるからだと思います。検索はアルゴリズムを使った技術にすぎない、とまとめてしまうと終わるのですが、そのクールな技術がテキストの海からひっぱってくるのは、さまざまなひとの生きている現実です。だからとんでもない出会いもある。

ただ、リアルな世界の「セレンディピティ」も面白いと思っています。たとえば本を購入するときを考えてみると、ネットによる購入は確かに便利であり、リコメンデーションエンジン(おすすめ機能ですね)によって、同じ傾向の作品を知ることもできます。けれども本屋がすごいと思うのは(というか、ものすごーく当たり前なのですが)、「サイズで整頓されていること」だったりします。

つまり文庫の棚に行くと、同じ大きさで統一された本が並んでいる。ところが、内容はビジネス書からブンガクまで幅広かったりするわけです。新書なら新書のコーナーで、さまざまなジャンルの本を横断することができる。ネットでもサイズで検索して本を抽出することはできそうですが、あまりにも莫大な候補が規則性なく表示されると思われるので、ふつうのひとはあまりやらないでしょう。それにネットの大きさは、リアルの大きさとは違います。これもまた当然ですが。

本には装丁とサイズがある、という事実に気付き、あらためてぼくはそのことが重要だと思ったりしているのですが、冷静に考えてみると、大騒ぎすることではないですね。けれども当たり前なんだけれども、レコードがほぼなくなってしまった現在、CD世代の子供たちはレコードの大きさなんてわからないのではないでしょうか。

ネットのオークションなどで昔のジャズの名盤などのレコードの写真が表示されていたとしても、CD世代の若者は、CDぐらいの大きさでしょ?と思っているかもしれない。

やがてすべての音楽コンテンツがデジタル配信されると、パッケージの大きさという概念すらなくなるのかもしれません。そのときに存在感として残るのは、音そのものと情報です。歌詞カードすらなくなるかもしれない。書物も紙や装丁や厚さなどのクオリア(質感)がない、ただの情報になってしまうかもしれない。

「セレンディピティ」について書いていたら、記録メディアとサイズ論になってしまいました。これも「偶然、幸運に出会う力」の一種なのかもしれません。思索の楽しみは、そんな風に脇道にそれるからこそ楽しい。決められた道ばかりを歩くのは、つまらないものです。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年9月 2日

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空気の透明度。

夏が終わって秋に向かうこの季節。空気の透明度が増すような感じがして好きな時期です。と、なんとなく詩的な言説になってしまったのは、トラックバックをいただいた茅須まいるさんのブログで感性とかセンスとは何か、ということを読んでそんなことを考えたからなのですが、秋の夜長にしみじみと哲学や芸術などについて考えられる季節になってよかったなあ、という気がしています。夏の暑い時期には、頭のなかはあちーばかりで埋めつくされていて、それだけでもう思考停止の状態だったので。暑いのは嫌いではないのですが、暑すぎるのは問題です。適当に暑くあってほしい。

夏の休暇を使って札幌の駅に降りたときに感じたことも、空気の透明度が違う、ということでした。それは単純に湿度の問題なのかもしれませんが、日差しは強かったのに(日焼けしてしまった)、さらりとした触感の空気が印象的でした。それは慣れてしまうとふつうになってしまうもので、たとえるならビールの一杯目のうまさ、という感じでしょうか。きりりと冷えた液体が喉を通過していくような感覚がありました。

さて、昨日は近所のCD屋さんに立ち寄って、ドナルド・フェイゲンの13年ぶりのソロを買いそびれていたので買うつもりだったのですが、いろいろと物色しているうちに思わずトラッシュ・キャン・シナトラズの完全生産限定版の「snow」を買ってしまった。夏なのにsnowは早すぎだろう、という気もしたのですが、CDを聴いてみたところ彼等らしい透明なギターの音に感激でした。さらにDVDも付いているのですが、一曲目のアコースティックギターにしびれた。美しい。ボーカルも美しすぎる。

B000FJHFG8snow(2006 Edition)(DVD付)
ランディ・ニューマン トラッシュ・キャン・シナトラズ
ソニー・ミュージックレコーズ 2006-06-28

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ところで、雪といえば、しばた歩実さんというインディーズアーティストさんに「ゆき」という素敵な曲があり、渋谷のライブハウスで演奏するときには、なんきんさんのアニメーション付きで、これがまた泣けるアニメーションで、夏の暑い時期にも「ゆき」は定番だったのですが、透明感あふれる歌声とピアノの演奏で暑さを忘れさせてくれたことを思い出しました。ママミュージシャンとしてNHKのポップジャムにも出演されたしばた歩実さんの音楽は、ぼくの志向している音楽とはまったく違うのだけど、ときどき聴きたくなる音楽です。聴くと癒されて、現実を受け止めようという気持ちになります。いま、しばたさんは二人目のお子さんが生まれて音楽活動を休止されているのではないかと思うのですが、またぜひ聴きたいですね、「ゆき」。

ぼくも稚拙ながらDTMを趣味としているのですが、「ハツユキ」という曲を作ったことがあります。これは社会人バンドをやっていた時期、多重録音をしてデモテープをメンバーに聴いていただいたことがありました。このバンドはものすごく強力なアーティストがふたりいて、それはぼくの学生時代のゼミの先輩とそのお兄さんだったのですが、おそるおそる曲を提出するのですが喧々諤々の議論が行われる。なかなかよい評価をもらえることが少なかったのですが、比較的よい評価をいただいた曲です。打ち込みで作り直して、Vocaloidという歌うソフトウェアに歌わせた曲をmuzieで公開しています。いちばん最初にVocaloidでつくった曲でした。未来的なアプリケーションだったけれど、なんて面倒なんだ、と思ったことを思い出します。その後、Vocaloidのエンジンがバージョンアップしてかなりよくなりましたが。

透明であるためには不純物を排する必要があります。けれども、クリーンルームのような無菌状態で人間は生きてはいけないものだとぼくは思う。問題や課題を抱え込んだまま生きなければならないのがぼくらの宿命でもあり、完全な透明性は不可能だからこそ、透明であることに憧れるのかもしれません。空気が少しずつ澄んでいく夏の終わりに、そんなことを考えてみました。けれども、やっぱり暑い。まだまだ夏がつづいています。

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■トラッシュ・キャン・シナトラズの公式ページ。音が出るのでご注意ください。遠く垂れ込める雲、草原を渡る風というようなイメージがよいです。1枚目の「Cake」は聴きまくりました。
http://www.trashcansinatras.com/

■しばた歩実さんの「ゆき」は、「東京ホットインディーズ」のバックナンバーのページで試聴ができます。
http://www.hot-indies.co.jp/RA71/ra71.html

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)