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2007年6月29日

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頭のいいひと、ストッパーを外すこと。

関心というサーチライトを灯しながら、昨日は書店を歩き回って三冊の本を購入しました。これがすごい。三冊ともに外れなしでした。よかった。すべての本が、ぼくの好奇心に刺激を与えてくれます。

久し振りに読書の醍醐味を感じているというか、あまりの嬉しさに脳内カーニバル状態で、どんどこしゃかしゃか脳内でアップテンポのパーカッションが高らかに鳴り響いているのですが、ちょっと落ち着こう(苦笑)。ラテン系のリズムのボリュームを絞って、書かれていることを冷静に記述しながら考えてみたいと思います。

というのも、いま同時並行的に三冊を読んでいて(+さらに並行して読んでいる他の本が三冊、計6冊)超・パラレルな読書状態になっているのだけれど、感動のメーターを振り切ることが多すぎて次々と忘れてしまうのです(苦笑)。こちらの本で、おおーっと感動したかと思うと、今度は別の本で、へぇーっと感嘆したりする。そんなわけで、えーとさっきのおおーっは何だっけ?と思い出せなくなってしまう。これではいけない、と。

いつもはきちんと読み終わってからレビューするのですが、感動が薄れないうちに気付いたことを書き留めておくことにします。ほんとうは佐々木正人さんの「アフォーダンス 新しい認知の理論」に書かれていた「情報は光の中に」という視点や、レオナルド・ダ・ヴィンチが鏡面文字でメモを取っていたことなどについても書きたいのですが、収集がつかなくなりそうなので、まずは脳科学者の池谷裕二さんと糸井重里さんの「海馬 脳は疲れない」(現在、P.72を読書中)から気付いた部分を抜粋してみます。これ、文庫になっていることに気付かずに、ハードカバーで購入しちゃったんですよね(泣)。

海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)
池谷 裕二 糸井 重里


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頭がいいということはどういうことか、という命題から入っているのですが、この部分がまず面白かった。糸井さんの次の言葉がストレートに響きます。ここでは「百貨事典がわり」に物識りであることがアタマがいいのか、ということに対して次のように言及されています。引用します(P.23)。


ぼくにとっての「頭がいい」って何だろうと考えると、そういうことではありません。自分が「これは好きだ」と思ったことを十分に汲み取ってくれる人がいますよね?たぶんそれが、ぼくにとっての「頭がいい」という人なのかなぁと思います。

そして、芸術作品を例に挙げながら、次のようにつづけます。

つくり手が「通じなくてもいいや」と考えながら発表している芸術作品というのを、ぼくはとても苦手なんだけど、そういうものの何が嫌かと言うと、きっと「情報の送り手と受け手のコミュニケーションがあまりないから」なんですよ。

よくわかるなあ。ぼくも同感です。たとえばぼくがポップスを好きなのは、万人に受け入れられる音楽だからです。その背景にジャズがあったとしてもエレクトロニカがあったとしても、ポップス的なものはそんな予備知識なしに受け止められる。一見さんお断りのような排他主義がない。ところが理解を拒むような言葉や芸術は、どんなに高尚なものであったとしても、ひとりよがりになる。他者との共感など、心の流通が生まれないんですよね。どんなに高邁な思想であったとしても、理解されないものに価値はない。

この考え方の延長線上として、糸井さんは、頭のいい=好きなひと、頭の悪い=嫌いなひと、という考え方を提示します。好き嫌いで頭のよさを考えている。これが糸井さんらしくてよかった(笑)。まいりました。

言うことがわかる/言いたいことを理解してくれる、そんな他者が「頭のいいひと」である、というわけです。IQとか知識の量というモノサシではなくて、自分と誰かのコミュニケーションつまり関係性で頭のよさを判断しているわけです。だから誰かにとっては頭がいいひとも、別の誰かにとっては頭が悪くなることもあるでしょう。でも、ものすごくわかりますね。

ところで、池谷さんというよりも糸井さんの話からの抜粋になるのですが、「ストッパーを外せる」ひとという考え方も面白かった。若干長い部分ですが引用してみます(P.42)。


ぼくはストッパーを外すことで伸びてきた人間かもしれないです。もとの力を増やすのはものすごくたいへんだけど、ストッパーは意識ではずせますから。

事件にまきこまれたりすると、ストッパーをはずしたり、事件をこっちから飲み込んでしまうぐらいのことをしないと、問題に対処できないじゃないですか。

昔の芸人さんが、事件を起こしたり、たくさん恋愛をしなさいとか言われたのは、ストッパーを外すということに、ちょっと似ているような気がします。

社会と適合しないことをすることで、不慮の事故の処理能力や適応能力が増すんですよね。だから芸人さんは、生活が荒れるようなことを、あえてしたりもする。

ちょうどぼくもこのことを考えていたのですが、ストッパーを外せるということはピュア(純粋)であるともいえます。一方で、きちんとストッパーを機能させることは大人といえるかもしれません。


ストッパーを外すと、過剰な刺激が入り込んでくる。これはまさにぼくが眼科で瞳孔を開く目薬を差していただいた状態で、瞳孔が開ききると過剰な光が飛び込んでくる。目を傷めることになりかねません。けれどもこのときに見えた光は、通常のストッパー状態では考えられもしない感動をもたらすこともあります。


バランスの取れた大人は、ストッパーが完全に機能しています。それは常識や良識かもしれません。しかしながら、外界からの刺激をシャットアウトして強力に機能しているストッパーが外れたとき、逆に非常に打たれ弱くなってしまう。


と、ここで別の文章を思い出してしまったのですが、今週号のR25の巻末コラムで石田衣良さんが書いていた「心のタフネス」でした。


要約すると、最近の話で、新聞社にある優秀な若い記者がいて、当直だったので仕事を終えてジャージに着替えて寝転がって本を読んでいたところ、酔っ払った上司が帰ってきて怒鳴った。おまえ先輩記者が仕事してるのに、何をやってるんだ、と。で、その優秀な記者はどうなったかというと、会社に来られなくなってしまった、とのこと。クリニックに通い、1ヶ月間の長期休職。新聞記者といえばバンカラな印象があるから、なんとなく信じられません。ものすごい競争率を勝ち抜いて入社したエリートばかりでもあります。そんな若者たちが非常に脆い。


コラムを通じて、石田衣良さんは「もろくて壊れやすい」若者たちが増えてしまったのはなぜだろうと疑問を提示すると同時に、「心のタフネス」が必要ではないかということを語ります。


それはひょっとするとストッパーを外しても耐久できるエクササイズができていないから、かもしれない。昔の親たちは、平気で子供をぶん殴りました。ぼくも親父に張り倒された経験があるし、叱られて外に締め出された経験もある。いまそんなことやったら、児童虐待で奥さんから訴えられますよね(苦笑)。親父の権威は失墜している。


当然、ぶん殴ればいいのかというとそうではないのですが、まず親たちが勝手にストッパーを作っています。ストッパーの加減を知らなくなった、といえるかもしれません。過剰に叱り過ぎたり、過剰に何もしなかったりする。適正に叱るということがわからない。叱らないことが誠実である、と思ったりもしている。


ぼくは過剰にストッパーの効いた社会=抑圧された社会は、どこか歪みを生むような気もしています。かといって、抑圧を緩めてそれぞれが強く生きること、強靭であればすべて大丈夫、という短絡思考もどうかと思う。精神の耐久性ではなく他者を蹴落とすようなサバイバルの力でもなく、外部からの力を吸収してしまうようなしなやかな精神を持てないか、ということをずっと考えていて、そのための方策を探りたいのですが、これは信頼という前提があってこそ可能になるものかもしれません。


かつて日本はコミュニティ(ここでは地域社会のことを指します)が非常に機能していて、他人の子供であろうとダメなやつは叱る、という責任を親が引き受けていました。叱るということは他者に対する制裁だけでなく、自分に対しても戒めになるのではないでしょうか。ところがいま、個々は個々のことしか考えないし、地域全体のこと、ましてや日本全体がどうなろうが知ったことではない。個々の利益を追い求めることにせいいっぱいで、他者に何かを与えようとは考えない。むしろ奪うことを考えている。


盲目的なのかもしれませんね。ノイズキャンセラーつきのヘッドホンをかけて、外界のノイズをシャットアウトするような社会です。パブリックな場においても、プライベートな空間が確保できればそれでいいと考える。逆に、そのプライベートを侵害するようなものに対しては過剰に攻撃的になるし、排他的にもなる。


不信感にあふれた社会では、過剰な防衛が崩れたときに、自己は脆くなる。言っても大丈夫、言われても大丈夫、という相互補完的な大丈夫な社会って何だろうと思ったのですが、考えてみるとかつての昭和初期の日本だったのかもしれません。そんな社会であれば失敗しても大丈夫、挑戦すれば大丈夫、という気持ちにもなる。懐古主義に逃避するつもりはありませんが、現在の社会では失敗が命取りになるようなところもあります。寛容ではない。


希望的な観測かもしれないのですが、日本の文化は決して西洋にひけをとるものではなかったのではないか。全面的に諸外国の真似をしなくても、希望を持てるような気がしました。そして自分の国に希望を持たなければ、ぼくらに生きている価値というのはあるのだろうか、とも思う。


隣人を指をくわえてみていてもきりがないし、ないものねだりをしてもまたきりがないので。とはいえ、一方で海外を見渡す視線はかなり重要です。鎖国的に自国を思うのではなく、外部へ開かれたパースペクティブがあってこそ、日本を再発見できるのかもしれません。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | コメント (8) | トラックバック (0)

2007年6月21日

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詩人、哲学者、ジョニー・デップ。

少年の頃、谷川俊太郎さんのような詩を書きたいと真剣に考えていた時期がありました。あまり大きな声ではいえないのだけれど、彼のような詩人になりたいと思っていた。けれども詩人にはなりたいと思ってなれるものではありません。詩人であるひとは、生まれながらにして詩人である気がします。

一度、御茶ノ水の丸善のサイン会で「にじいろのさかな」という絵本に谷川俊太郎さんのサインをいただいたことがありました。この絵本はMarcus Pfisterの作品を翻訳したもので、シリーズになっています。

4062619512にじいろのさかな 世界の絵本
Marcus Pfister
講談社 1995-11

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生・俊太郎さんは、とにかく異星人のようだった。彼の存在はそこにいるだけでもう詩人で、詩人のオーラというか一種のかぐわしい匂いのようなものに包まれていました。近寄りがたいというか、神々しい何かがあった。いやーこれは詩人にはぜったいになれないなあ、とそのとき思い、そんなわけで以後ぼくは詩を書くことを断念しました。ときどき谷川俊太郎さんの詩を読みながら、会社員やってればいいや、と。

先日、谷川俊太郎さんの詩と、その詩に関連した長谷川宏さんの哲学的な散文で構成された文庫を書店でみつけて読んでいます。もう少しで読み終わるところ。

4022615346魂のみなもとへ―詩と哲学のデュオ (朝日文庫 た 46-1)
朝日新聞社 2007-05-08

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そもそも谷川さんのお父さんは哲学者である谷川徹三さんであり、「はじめに」で「生まれ落ちたときから、うちには哲学者がひとりいた。だから哲学者がどういう人間かはよく知っている」からはじまる文章を書かれています。これがものすごくほのぼのとしていて、いい。息子さんである谷川俊太郎さんの詩に、欄外に寸評をメモしてくれたらしい。けれどもやはり哲学者であったから、「ことばあそびうた」のような語呂合わせで論理的でないものは認めなかったとか。

後半の部分がまたいいですね。引用します。

ところで、私はうちの哲学者の書いた文章が気に入っている。難しい哲学用語を使っていないからだ。哲学者も詩人も、書くもので読者に評価されるが、読者であると同時に身内でもある人間は、書くものだけで評価しない。哲学者も詩人も、身内には毎日の暮らしの中でのその人となり、行動によって評価されるのは致しかたのないことだろう。

ふむ。哲学者も詩人も、家庭のなかにおいては父である。難解なことを言っていても「おならもするしげっぷもする」ひとりの人間であり、日常性と乖離していないほうが人間として信用がおける。

哲学者も詩人も、その考えや表現の根っこを毎日の生活に下ろしているのである。プラトンの言うイデアという考え方だって、いきなり空中に出現したのではないだろう。日常のうちに生きながら、日常を超えた何ものかに向かおうとするところに、哲学者と詩人の接点がある。それを他者に伝えるのに、難解な哲学用語や詩語は必ずしも必要ではないと私は思う。

いいですね。すごくいい。ぼくはこの"哲学"が根底にあるからこそ、一連の谷川俊太郎さんの詩が生まれたのだな、と思いました。谷川さんの詩もまた、難しい言葉はあまり使われていない。けれども心のなかにしっくりと馴染んで、深く染みわたる。それはたぶん、神々しい何かを掴みながら、やはりその両足は日常という地面に接しているからだと思う。

ところで、いきなり話が飛ぶのですが、「日常のうちに生きながら、日常を超えた何ものかに向かおうとする」という言葉で思い出したのは、AERA No.29の特集「子育てで大化けジョニー・デップ」でした。

こちらも好きな俳優さんです。かっこいいもんね、ジョニー・デップ。シリーズ第3作の「パイレーツ・オブ・カリビアン」は公開後17日間で興行収入60億円を突破だそうで、ものすごく人気があるらしい。彼がこれだけ大きな俳優に変わったきっかけについて、次のように書かれています。

一体、何が彼を変えたのか。
「子どもがすべてを変えた」
ジョニーはさまざまなインタビューでそう答えている。確かに彼が子供たちについて語るとき、彼のまなざしはとりわけ柔らかい。
「娘を抱いたとき、僕を覆っていた霧がすっかり晴れて、すべてがクリアに見えたよ。今、僕には立つべきしっかりとした土台がある。ヴァネッサと子供たちは僕に居場所を与えてくれたんだ」

くー、かっこいい。ヴァネッサ・パラディに対する愛妻家ぶりもよく言われることですが、この姿勢がとにかくいいですね。そして彼は、子供たちのために仕事、つまり作品を選ぶようになった。「ネバーランド」「チャーリーとチョコレート工場」「パイレーツ」シリーズなど、出演作を子供たちの視点から選別するようになったとのこと。

とはいえ、ぼくが彼の出演した作品で妙に印象に残っているのは(おすすめはしないけど)、ジム・ジャームッシュ監督の「デッドマン」であり、運命に翻弄されてどこまでも流されていくモノクロの映像のなかの彼もなかなか魅力的でした。挑戦的に出演したという「リバティーン」のような退廃的かつアダルトなものはどうかとも思うのだけれど、子供向け以外のものにも挑戦してほしい気持ちはあります。子供の成長に合わせて、いろんな作品にも挑戦していくのかもしれませんね。

AERAには、彼が出演した全42作品のリストもあって、これが参考になりました。観ていない映画が結構あります。ジョニー・デップつながりで観ようかと思ったりして。9月には、「LONDON CALLING/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー」というドキュメンタリーにも出ているとのこと。彼がクラッシュについてどう語るのか、気になるところです。

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スティーヴン・ジェフリーズ
アミューズソフトエンタテインメント 2006-11-24

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AERAの記事のなかにも触れられていたのですが、シャルロット・ゲンズブールが主演の「フレンチなしあわせのみつけ方」にもジョニー・デップがちょこっと出ているようです。ずーっと観たいと思っていたのですが、まだ観ていません。特に、CDショップのなかで出会うシーンはいいですね。YouTubeからそのシーンを引用しましょう。

■Johnny Depp in a french film

うーむ。いま気付いてしまったのですが、以前にこの映像を観たときに、いいなあと思ってこのシチュエーションに憧れたことがありました。

自己分析してみると、ダウンロード販売の隆盛期にぼくはわざわざCDショップに立ち寄って試聴して音楽を購入しているのですが、ひょっとすると、いつかこんなことがないか?という淡い期待が潜在的にあるからかもしれません。残念だけれど、まあ・・・ないな(きっぱり。苦笑)。というか、ぼくの場合、音楽にほんとうに集中すると外界にブラインドが下りちゃうので、素敵なひとが通ったとしてもわからないかもしれない。機会を損失しまくっている。

ふたりがヘッドホンをかけながら聴いているときに流れている音楽が、またいい。あえて曲のタイトルは書きませんが、歌詞を読んでいくと、主人公である「僕」は美しい世界に漂う「羽」のような特別なひとに出会います。そして彼女と同じ世界に存在しつつ、自分だけは彼女にとって特別なひとでありたいと願う。けれども特別にはなれない。特別になるどころか、つまらない自分がいる。どうしようもないほど特別な彼女に対して、比較しようもないぐらいダメな自分がいる。

この曲を書いたソングライターは、やはり彼の人生のなかで特別な女性に出会い、彼女を想い、うまくいかなかった経緯があるようです。リアルな日常において一途に想いつつも破局した経験があったからこそ、ガラス細工のような名曲が生まれたのでしょう・・・・。あらためて、この曲は泣ける(涙)。ぼくはDTMを趣味としていて曲を作っているのですが、インストが多い。けれども、こんな曲を作りたいものだ、と思いました。

ちなみにこの歌詞の最後「I don't belong here. (ここは僕の居場所じゃない)」は、ジョニー・デップ自身がインタビューで語った「ヴァネッサと子供たちは僕に居場所を与えてくれたんだ」に対比するとも思いました。

さて、ちょっと感傷的になってしまいましたが、もし朝起きたら彼氏あるいは旦那さんがジョニー・デップだったらどうでしょう。

ぼくはもう、どきどきしちゃいますね(ぼくがどきどきしても仕方ないのだが。苦笑)。外見的なものは仕方ないとして、考え方だけでもジョニー・デップになれないでしょうか。まあ、いきなりジョニー・デップの言葉だけ借りちゃったりすると、あんた悪いもんでも食べたんじゃないの?と冷たく批判されることになります(苦笑)。やはり言葉だけ拝借していてはだめで、根っこの部分、思考を変えないとダメですね。

ぼくの私見だけれども、かつてパブリック(仕事など)とプライベートをきちんと分けること、けじめをつけることが良識であると考えられていた時代があったように思います。けれども、ブログなどで個人を表現できるようになった現在、パブリック×プライベートという混合により、ライフスタイルを多様化あるいは立体化するスタイルがかっこいい(かっこよければいいのか、という視点もありますが・・・)気がしています。

もう少し難しい言葉で言ってしまうと、日常という瑣末に立脚しつつ高邁な理想を夢見る、ということでしょうか。犬のように日常という泥にまみれながら歩きつつ、鳥のように青空から俯瞰した世界を眺めることができること・・・・・・そんな表現をかつて使ったこともありました。部分思考と全体思考をバランスよく統合していくことかもしれません。

これが結構難しいんですよね。けれども難しいからこそ、挑戦のしがいがある。そして、この生き方のポイントは「しなやかさ」ではないか、と睨んでいます。

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2007年6月20日

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見える、という幸福。

自分の体調不調のことをブログに書くのもどうかとも思うのですが、昨日から右目が見えにくくなり、不安を感じていました。なんだか右サイドの視界中心にハレーションを起こすというか、きらきらしてきれい・・・じゃなくて、見ていて非常にうっとうしいものがあり、食欲不振などもあったので安静にしていました。が、やはり右側の視界すべてがきらきらするのは困惑もので、歩いていても眩暈がしてくる。そんなわけで本日は眼科へ行ってきました。明るい素敵な眼科でした。

読んでいる女性の方にはヒンシュクをかいそうですが、なぜか美しい女性の看護師さんが多い。ここで多いというのは比率の問題だけではなく、人数も多い。ひょっとしてオーディションしているのではないか、医師(男性)の方のシュミではないか、という感じもしたのですが、美しい上にピンクの服がかわいいので、男性のぼくとしては非常によろしい。また来ようかな、と思いました(眼科の常連になってどうする。苦笑)。

背が低めの凛々しい女性の看護師さん(かなり好みのストライクゾーン)に視力検査をしてもらい、意味もなく緊張。その後、眼底検査をしましょう、ということで右目だけに薬(たぶん瞳孔を開く薬?)を落としていただいて、その薬が効くまで待合室で待っていました。

見えなくなりますよ、と言われていたのですが、次第に右側の視界がぼんやりと霞んでいく。ちょうどすりガラスがどんどん重なっていくような感じです。ひょっとしたら眼底が破れちゃったのかも、などと余計な妄想も生れてくる。このまま視力を失ったらどうしよう・・・と。

そんな風にフェードアウトしていく右目の視力をもてあましながらぼーっとしていると、美しい女性看護師さんが、よいしょっ!と勢いよくしゃがんだ。わっぱんつ見えそう、と思ったのですが、コンタクトを外して裸眼0.02の超近眼である上に薬の効果もあるので、まったく見えない。モザイク処理どころじゃありません。敵もさるもので(敵なのか?)、見えないと思って大胆にしているようなところもある。悔しいやら情けないやらで不貞腐れて目をつぶっていたら、冷房もよく効いていたので思わず熟睡してしまいそうになりました。と、そんなことはどうでもいいのですが。

障害を持たれている方もいるかと思うので、慎重に語らなければならないと思うのですが、視力を失うということにあらためて不安を感じました。

視力を失うとどうなるだろう。そんなシミュレーションをあれこれ思い浮かべてみたのですが、まずネットはできなくなる。そして仕事もできない。だから仕事を探さなければならない。さらに、趣味の映画鑑賞は無理です。サウンドトラックしか聴こえなくなる。本も読めない。趣味のDTMであっても、いまぼくは鍵盤ではなく、ピアノロールにマウスで音を置いていく作り方をしているから、それもできなくなる。

などと不安を募らせ、少しだけ暗い気持ちになりながら診察を受けたのですが、眼底は大丈夫とのこと。ほっ。たぶん、軽い閃輝暗点症ではないかと言われました。

せんき・・・なんでしたっけ?とまたこれも確認してしまったのですが、眼球の問題ではなく、脳の問題らしい。通常、右の眼球からインプットされた視界は左の脳で画像として処理され、左の眼球からインプットされた視界は右の脳で画像として処理されます。つまりタスキがけのように処理されるわけですが、たぶんぼくの場合、ストレスなどで左脳の働きが悪くなり血管が収縮した。そのせいで右の視界に障害が出たとのこと。

ふむふむ、なるほど。と感心して説明をうかがっていたのですが、先生が一生懸命になって図で説明しているのですが、その・・・コンタクト入っていないので、ぜんぜん見えないんですけど(苦笑)。

とはいえ、眼底の問題ではなかったのでひとまず安心して、帰りにコンタクトを入れてもらいました。焦点の合った世界であらためて見る世界の鮮やかなこと。看護師さんは天使かもしれない、と感動。外へ出てみると光が眩しい。真夏のような快晴だったせいもあるのですが、右目は薬で瞳孔開いちゃっているから、それこそ白い壁なんか飛んでしまって本格的に白です。世界はこんなに眩しかったか!と。

帰宅してWikipediaで調べてみたところ、閃輝暗点症には次のようなことが書かれていました。

ストレスがたまり、ホッとしたときにこの症状に見舞われることが多い。

なるほどね。ロジックを組み立てて左脳を駆使する仕事ばかりが多かったので、左脳に負荷がかかったのでしょう。しかし、次を読んでちょっと眉をひそめた。

中年の場合で、閃輝性暗点だけあって、その後に頭痛を伴わない場合は、まれに脳梗塞、脳動静脈奇形、脳腫瘍や、血栓による一過性の脳循環障害が原因である可能性がある。

ううむ。これは簡単に済まされないのでは。うちの親父も脳の病で亡くなったわけだし。

健康に留意しようと思いました。お忙しいお仕事のみなさんも、十分にご注意ください。そして、無理をされないように。無理はせずに、いまを大切にできますように。

+++++

ここで紹介するのはどうかと思うのですが、今日の話題に関連した映像を引用します。

よく拝見している方の日記で「泣ける」と紹介されていたアジア系の映像をYouTubeから。カメラマンさんと美容師さんの恋なのですが、ぜったいに泣くと思って拒否していたけれども、ついつい観てしまい夜中に号泣。だからぼくは涙腺弱いんだってば(泣)。でも、教えていただいてありがとうございます。泣ける映画、じゃんじゃん教えてください。

見えるってことは幸せですよね。たまに、見なくてもいいようなものも見ちゃいますが。それでもきちんと見えているときに、できる限りのあらゆるものを見ておきたいと思います。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年4月27日

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時間の分断、詩と小説。

仕事で外出することが多くなりました。さまざまな場所に赴き、ひとと会って話をする。いまのところこの活動が時間を忘れるぐらい楽しい。プライベートでは少しばかり思考回路が壊れかけて、得体の知れない不安に覆われていたとしても、お話をしていると紛れるものです。

最近はデスクワークが多かったのでデスクワーク向きの人間だと思っていたのですが、実はそうではなかったりして。ひょっとしたら外へ出ていくほうが向いているのかもしれません。あまり自分を規定せずに、ときには自分らしくないことをやってみるのも大切です。いままでとは違うほんとうの自分をみつけることもできる。

過去から未来へ、継続したリニア(線的)な時間軸のなかにいると、どうしても過去のしがらみを引き摺ってしまうものです。過去が自分を解放しない。けれども、あえて分断された時間のなかに身を置いてみると、そうではない自分というものも浮き上がってきます。浮き上がるのだけれど、やはり自分は自分であって、過去の資産は残っている。べったりと現実に生活していると過去が重みになることも感じますが、距離を置くことができれば過去もいとおしい。

ところで、このところ楽器屋によく立ち寄っています。購入しているのは楽器関連の何かというよりも本です。今日はサウンド&レコーディング・マガジンとDTMマガジンを手に入れました。

サウンド&レコーディング・マガジンの5月号の表紙は、坂本龍一さん。おお、かっこいいな。

Sound & Recording Magazine (サウンド アンド レコーディング マガジン) 2007年 05月号 [雑誌]

とあるファンの方が、あのいやらしそうな顔がいい、と言っていたことを思い出しました。なんとなくそれを聞いて嫉妬しました(ぼくは嫉妬深い?)。ちぇっ、ぼくもいやらしい顔になってやる、とか思ったものでした(苦笑。なれませんが)。坂本龍一さんに嫉妬したりライバル意識を燃やすのは身のほど知らずというか子供じみていて、勝ち目がまったくありません。とはいえ、そんな子供じみた想いがクリエイティブな原動力になることもあるんですよね。たとえ趣味の音楽制作だったとしても。

特集では、まず山口情報芸術センターにおける高谷史郎さんとのコラボレーションが紹介されています。水槽のなかに霧を発生させ、プロジェクターで映像を投影する。そして、各水槽ごとにペアのスピーカーが配置されて、不思議な音響感のある空間を演出する。面白そうです。

解説の言葉にある次のコンセプトにまず惹かれました。

fluid=流動するもの、invisible=見えないもの、inaudible=聴こえないもの、と付けられた副題のように、まさしく体験するものの視覚や聴覚に対して静かに、しかし強烈な揺さぶりをかける作品である。

これは空間的な広がりなのだけれど、ぼくが注目したのは坂本龍一さんの「時間軸」についての発言でした。後に掲載されているフェネスについてのインタビューにおいても同様に、時間軸の考察がされていて興味深いものがあります。

坂本龍一さんは「リニアな時間の呪縛から離れたかった」と語ります。

「オペラだけでなく普通の音楽というものには、始まりがあって終りがあるということになっているけれど、随分前からそれが引っかかっていた。始まったら終われないのはなぜだと。・・・(後略)」

勝手に解釈するのですが、物語的なアプローチと詩的なアプローチの違いのように感じました。つまり物語は、始まりがあって終りがなければいけない。けれども詩は始まりも終りもなく、永遠に浮遊させることもできる。つまり、時間軸の推移を重視した音楽は物語的だけれど、音は空間的に広がるので、その広がりは詩的であるともいえる。

そこで坂本龍一さんのアプローチは、アーカイブされていた音を素材をカテゴリー分けすることだったそうです。打つとか擦るとか、30種類のカテゴリーにわけていく。それらに足りないものを加えて、映像を対応させていく。そして「ランダムであってカオスではない」音の空間を作り上げる。

その作り方は、カールステン・ニコライとのコラボレーションに近いものがあるかもしれません。けれどもクリスチャン・フェネスとの制作はそうではなかったようです。次の部分が非常に興味深いものがありました。

「カールステンとの場合は、僕が弾いたピアノを送ってそれを彼が料理するというやり方なのですが、フェネスとの場合は彼が先に3〜4分のパッド的な部分を送ってきます。僕はそれを2〜3回ループさせて、その上でピアノを即興演奏する。彼が僕のピアノをいじることはありませんでした。カールステンにはちぎることを前提とした素材を送っているので音楽の時間が切れている。そういう意味では非伝統的な時間の流れになっているのに対し、フェネスが作ったパッドの上で僕がピアノを弾いているのは、場所は違っていてもリニアな時間。その点では伝統的な音楽に近いですね。」

うーん、この部分ちょっと鳥肌でした(まあ、BirdWingなので鳥なわけだが)。

つまり坂本龍一さんの音をカールステンが分断するとき、それはデジタルな処理になる。持続的な坂本龍一さんの演奏を細かく刻んで再構成するアナログ(連続)→デジタル(分断)という処理です。ところが、フェネスが作ったパッドのループ上で演奏するクリエイティブは、デジタル(分断)→アナログ(連続)という流れになる。だからその結果生まれた作品はまったく異なる。

優劣をつけるのは不毛な話だけれど、なぜフェネスの音楽がノイズを多用しながらあたたかいかというと、それは坂本龍一さんのピアノの身体感覚(ぬくもり?)が残っているからではないか。つまり分断された音を身体的に統合するデジタルからアナログへの試みとしての演奏であったわけです。それはテクノロジーを身体で統合していく。一方でカールステンの場合は音を切り刻み、無機質な空間を構築していく。身体を詩的な空間に分断する非常に洗練された未来的なアーキテクチャーとなる。

やっぱり凄いな、坂本龍一さん。音楽は当然のことながら、アーティストに合わせて生成変化すること、そして創作の背景となる考え方に打たれます。勝てないな(当たり前か)。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2007年3月22日

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詩人の発想。

詩人の発想には、はっとさせられることがあります。「デザインの知」という本の建築家の論文のなかで、まさかぼくが好きな谷川俊太郎さんの言葉に出会うとは思いませんでした。以下、引用します(P.118)。

以前にも触れたことがあるが、ある書物を読んでいて、こんな話に出会ったことがある。詩人の谷川俊太郎が、外国のテレビのインタビューのなかで、「日本の教育と創造性」について、「あなたにとって創造性とは何ですか」と質問された時、「ものごとに飽きる力」と即答したという。次に「学びとは何ですか」と質問されて、すかさず「模倣」と答えて、「真似ぶ」という大和言葉の意味を説明したといわれる。それに対して「模倣と創造とは対局ではないか」と反問されると、谷川は「素晴らしいものは何度模倣したって飽きないでしょう。モーツァルトは数え切れないほど演奏されてきたけれど、いまだに飽きないじゃないですか」と言い切ったことが紹介されていた。

少しわかりにくいのだけれど、こういうことだと思います。

どんなに新しいことであっても、飽きてしまうから次の新しいことを考える。それが創造性であり、逆説的に、究極の創造物は何度繰り返されても飽きないものである、ということです。永遠に飽きないものを夢想して、ぼくらは何かを創りつづける。時代を超えて、何度も何度も繰り返し聴くことができる音楽。それが理想形としての音楽なのかもしれません。

学びは模倣である、ということも、なかなか示唆に富んでいます。うちの息子も、次男くんは長男くんの真似ばかりしている。けれども、真似ができるからこそ発達も早い。まずは素晴らしいもの、すぐれたもの、美しいものを真似するところから学びはスタートすべきかもしれません。ところが最近は、真似しない方がよい大人や教師もいることが問題なのですが。

真似をしようと思っても、他者は他者であり、厳密にいえば同一のものになることはありません。どうしても真似できないもどかしさから浮かび上がってくるものは、要するに他者との差異によって浮き彫りに去れた「自分」ではないかと思います。真似をすることによって何を知るかというと自分を知る。誰かといっしょになろうと重ね合わせるたびに、自分が見えてくるものです。

次の世代の誰かが真似をしたくなるような大人になりたいものですね。反面教師ではなくて。そしてどうせ真似をするのであれば、中途半端な真似はかっこ悪い。徹底的に真似をするのが、かっこいい。

いろいろなことを学んでいこうと考えているのですが、既に確立された自我のようなものに邪魔されることもあります。「水は方円の器に従う(Water takes the shape of the vessel containing it.)」という言葉にあるように、しなやかな思考を持ちたいものです。

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