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2007年1月 1日

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夢をみましょう。

いま1月2日(というか3日?)の深夜、1:05なんですが
元旦の日記を書いています。

さすがに少年の頃のように夏休み30日分の日記を
1日で書くようなことはしなくなりましたが
(あれは辛かった 泣)
過去の日記を書くのもいいものです。
でも、記憶力の悪いぼくには、7日が限度です。

ところで、年末の30日に未来の日記を書いたかと思うと、
新年早々に過去の日記を書いているぼくって一体(苦笑)。
なんてアマノジャクなやつなんだ。>自分B(分身)
アマノジャクにもほどがある。

(分身の自分B)・・・すみません。>自分

けれども今年は共時的に、いろいろなことを考えてみたいと思います
時間軸に沿った線的な思考ではなく、
複数の自分を同時進行的に動かす感じでしょうか。
その自分(たち)が予測もつかない化学反応を起こしてくれるとうれしい。
とはいっても、いままでもそうだったのですが。。。

+++++

ところで、初夢っていつみる夢のことでしたっけ?
今日の夜のような気もしてWikiぺディアで初夢を確認してみると

1月1日から1月2日、または1月2日から1月3日にかけての夜に見る夢を初夢とする。

だそうです。

実は、ぼくは早速、3本立てのオムニバス初夢をみてしまい、
Part1・2ともにカラーでした。
しかもPart3は、音声付きだったりしたので
こりゃー豪華だと思ったのですが、内容は・・・

うーむ(言えない)

という感じです。
監督および脚本家は誰だ?>自分C(無意識)

(無意識の自分C)・・・すみません。>自分

+++++

はたして、夢は今年を占うのかどうか。

みなさん今日は枕の下に縁起のいいモノを入れるなど
コンディションを整えて就寝に臨んでいることでしょうか。
よい夢がみられますように。

でも、目覚めている現実で
よい夢をみることができるのがいちばんです。
(もちろん悪夢ではなくて素晴らしい夢を)
そんな一年間であると、いいですね。

+++++

今年もよろしくお願いいたします。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年12月31日

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素晴らしい年でありますように。

現在12月30日の深夜、1:48なんですが
未来の日記を書いています。未来といっても大晦日の明日だけれど、
まあちょっとした未来かな、と。

そうか、日付をいじると未来の日記が書けるのかー。
2007年3月の日記をいま予想して書いて、
3ヵ月後に加筆修正するなんてことも
楽しそうですね。ぼくはやりませんけど・・・(苦笑)。

+++

さて、今年一年、どっぷりとブログにはまってみました。
ぼくはブロガーである、と宣言したかったのですが、
まだまだかな、という気もしています。

よいこともありました。あまりよくないことも
あったような気もするのですが、すっかり忘れました(笑)
都合のいいことだけ覚えていようと思います。

だから、2006年は
素晴らしいことばかりでした。

+++

ネットを通じて、アート・映画・音楽・書籍などの情報を
教えていただいたり、ちょっとした日常生活の断片を記された日記で
考えさせられたり、癒されたり、思わず微笑まされたり
ほんとうに楽しい時間をすごすことができました。

ありがとうございます。
ネットを通じて知り合えたみなさんに、
感謝しています。

+++

1年間、稚拙なブログにお付き合いいただき、
ほんとうにありがとうございました。

さて、年末年始はお休みをいただいて1週間ほど充電して
1月7日頃からまた書き始めたいと思います。

+++

2007年が、みなさんにとって
素晴らしい年でありますように。

+++

来年もよろしくお願いいたします。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年12月28日

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そんな年末の風景。

納まっていないような気がするのですが、昨日は仕事納めでした。年を越えて急ピッチで仕上げなければならない仕事も残しています。が、とりあえず、納めてみることにしましょう。ほっとしたせいか風邪をひいてしまったようで、今日は家でのんびり過ごしました。のんびりといっても家族の年賀状を仕上げなければならないので、クライアント(奥さんですが)の催促が厳しく、そうそうぼーっとしていられなかったのですが。

年賀状のために撮影した息子の写真をいろいろといじっているのですが、うまくいかなかったので気分転換に生ギターをぽろぽろと弾いたりしていると、うまく弾けなくて指が痛くなるばかりなのだけれど、しあわせな気持ちになります。楽器っていいなあ、音って美しいなあと思う(うまく弾けてませんが)。けれども突然にうっとり状態な空気を破って「住所録にこれ加えてっ」と、クライアント(奥さん)からの催促が入るので音楽に浸ってばかりもいられません。

部屋の片隅で眠っていたVS-880というハードディスクレコーダーにエレアコをつないで弾いてみました。VS-880はこれです。ばかでかいです。

heya06.jpg

先日、楽器屋で驚いたのですが、現在はSDカードを使って多重録音できる手のひらに乗るぐらいの機材がありました。しかも価格も数万円です。なんてことだ。

こうやって楽器を弾くのは何年ぶりだろうと思いました。パソコンで曲を作るDTMに熱中していたのでずっと長いあいだ楽器を弾く気分にならなかったのですが、同じ音楽でもまったく生の楽器を使った音楽は別物ですね。けれどもどっちが優れているとか、どっちが楽しいという問題でなく、どちらも音楽の楽しみ方のひとつであり、どちらも楽しい。

それにしても、ちょっとリバーブの設定を変えてみますか、と思ってエレアコをぐるりと横に動かすと、ワイパーのようにエレアコのネックでなぎ倒されて、積まれてあった本がどどどーっと崩れたり、積まれていたCDがガラガラと崩れたり、大変です。部屋が大変、と奥さんに言ってみたら、聞こえてるからわかってる、とふつうに返答されてしまった。片づけなきゃなあ。片づくのかなあ。

さて、私的ウェブ人間論を展開してみましたが、3回で終わりにしておきます。とはいえ、このテーマはこれからもブログのなかで時折思い出したように書いていくのではないでしょうか。終わりからはじまるものもあって、一日の終わりは次の日のはじまりであり(「きょうのできごと スペシャル・エディション」という映画にそんな言葉があったような)、年の終わりは新しい未来のはじまりでもあります。そろそろ新しい年のはじまりのために、準備をしておかなければと考えました。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年12月 2日

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五感のクリエイティブ。

髪を切りに行きました。ついでに染めてもらったのですが「がつんと明るくしてください」と言ったら、がつんと明るくされてしまいました。そりゃそうだ。明るくしてね、とオーダーすれば明るくされてしまうのは当然です。ちょっと明るすぎたか?と不安だったのですが、帰宅して家族にヒアリングしてみると、それほどではない印象だったのでほっとしました。けれども、3歳児である次男は「えーと、えーと」としばし悩んだあとで「バナナみたい」とのこと。うーむ、そこまで黄色くないと思うぞ。

明るさ、という言葉は分解すれば、あ+かるさ(軽さ)でもあり、逆に暗さは重さと結びつくような気がします。髪の色が明るくなると、見栄えも軽くなりますが(そもそも重い考え方の人間なので、ちょっとぐらい軽くみえたほうがいい)、気分的にも少しだけ軽くなります。明るさと重さは単位が違うものなのに、感覚のなかでは対応している。ということを考えていくと、人間の感覚というのは派生・分化しているけれども根っこの部分は同じなのかもしれません。

すかっと晴れた土曜日の午前中、もしくは日曜日の朝という時間帯がぼくは好きなのですが、その何が好きかと言うと、散歩などをしたときに住宅街の家の壁や塀などに太陽の光が反射している明るさがいい。青空の透明なブルー、公園で光に透ける樹木の葉のみどり、そんな明るさのエッセンスから何か創作できないかとも考えています。たとえば、音楽では明るい和音(メジャーコード)が光を表現すると思うのですが、暗い和音(マイナーコード)という影の部分と組み合わせることによって、明るさが引き立つような気もしています。つまり明るさと暗さは対で意味を成すものかもしれません。

今日、髪を染めてもらいながら店内に流れているBGMを聴いていたのですが、カーズ、ブルース・スプリングスティーン、スタイル・カウンシル、シカゴなど80年代の洋楽がかかっていて、そんな曲を聴いていたら一瞬だけ、「すかっと晴れた土曜日の午前中、もしくは日曜日の朝」のイメージがぼくのなかに広がりました。つまり、明るい気持ちになった。それはどこか学生時代の記憶にも似ていたかもしれません。こうしたアーティストの曲は積極的に聴きたいとはあまり思わないのですが、喫茶店や飲み屋、美容院、街頭などで聴くと妙によかったりする。場や空間によって効果的な音楽もあるのかもしれません。そして自分のなかの失われた感覚を呼び覚ましてくれる音楽は、なかなかいいものです。

視覚的な明るさと聴覚的な音楽を対応させて考えたのですが、「ブランドらしさのつくり方―五感ブランディングの実践」という本の最後では、最先端の五感に対する研究を「五感を分解する流れ」と「五感を統合する流れ」の二つの方向にあると書かれています。

まず分解する流れについては、次のように説明されています(P.223)。

嗅覚でいえば、ある香りをいくつかの基本的な香りの要素に分解して、その組み合わせで香りを再現しようとしていることがまさしくこの方向だ。分解することで複雑なデータをデジタル化し、それによって記録したり、伝達したり再現したりすることが可能になる。触感をいくつかの刺激に分解して、再現している触覚ディスプレイや、三つの原色に分けて、その組み合わせで色を再現するテレビなどと考え方は同じだ。

この分解してデジタルデータにする流れが「五感研究を飛躍的に向上させてきている」としながら、五感を複合的に扱う必要性についても述べられています。

五感と一口にいっても、五つの完全に独立した感覚ではなくて、互いに相互作用を起こし、一つの固有の感覚を生み出しているからだ。同じ温度の同じ部屋であっても暖色系の部屋のほうが暖かく感じ、寒色系だと冷たく感じる。同じ映像であってもバックに流れる音楽によって感じ方がまったく異なる。そんな経験は多いだろう。事実、多くの専門家が、五感は互いにつながっており、一つひとつ別々に切り離せないものだ、と指摘している。

分解する流れ+統合する流れのふたつがぼくは重要だと思っていて、それは部分思考+全体思考という形に言い換えることができるかもしれません。たとえば、Webサイトにおいてもカラーだけを追求しても、書かれているコピーやテキストの内容が色の表現する世界感とかけ離れていたらブランディングとして機能しないのではないでしょうか。

もう少しやわらかい喩えにしてみると、恋人を想起する場合には、彼女の香り(嗅覚)+声(聴覚)+姿(視覚)+肌触り(触覚)+味(味覚?えーと、何の味だ?)のような、五感の総体として存在が立ち昇ってくるようなものではないでしょうか。テキスト情報の場合には、そのほとんどが欠如しているため、相手をほんとうに理解するためには欠如している五感の情報を想像力で補う必要があります。

「ブランドらしさのつくり方」では、最後に五感ではなくて「互感」というコンセプトが提示されていました。これが興味深い考え方でした。

五という数以上に重要なのは、それらが互いに関連し合う感覚で、人間の判断に強い影響を与えているということだ。つまり、五感ではなく「互感」。互いに複雑に絡み合う感覚をとらえることこそが、これからの五感ビジネスの醍醐味だ。"互"感を考えることが、この領域をより深めてくれる。

互いに影響を与え合う、という感じがいいですね。ぼくはずっと音楽(聴覚)に映像(視覚)をつけたくて、けれどもなかなかできないのですが、未来のクリエイターはさらに嗅覚や触覚的な表現も可能になって、五感に訴えるアートが登場するのかもしれません。

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2006年11月28日

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事・理・情のバランス。

雨が地面にすっと滲み込むように、活字が心(あるいは脳)に滲み込んでくる日があります。ここ数日はそんな感じでした。面白いように本が読める。逆に、どんなに集中しようとしても文字の上を視線が滑っていく日もあります。そんなときは通勤電車のなかにいても無理に本を開かずに、目を閉じて眠ることにしています。無理に読もうとしても楽しくないし、目をつぶる時間も大切なものです。そうして、さまざまな音に耳を澄ます。

読んでみたいと思っていながら保留にしていた本を昨日購入しました。

博報堂ブランドデザイン著の「ブランドらしさのつくり方−五感ブランディングの実践」です。現在、読書中(P.76あたり)。

4478502722ブランドらしさのつくり方―五感ブランディングの実践
博報堂ブランドデザイン
ダイヤモンド社 2006-09-29

by G-Tools

冒頭でダニエル・ピンクさんの本から引用があって、なるほどなあという感じです。「ハイコンセプト」については、それをどう実践するか、ということが重要ではないかと思っていたのですが、感性重視の方向性を実際にマーケティングに応用したのが「ブランドらしさのつくり方」なのかもしれません。

そもそもぼくは音のクオリアのようなものに関心があってブログに書いたり、アロマ発生装置に興味を持って記事を書いたりしていたのですが、この本は総合的な視点から五感に訴えるブランディングを解説した本といえるのではないでしょうか。ただ、やはり科学的な方法論に比べると、どこか脆いものも感じました。それでも五感に訴えるアプローチは魅力的で、可能性を感じているのですが。

五感もバランスよく機能させることが重要ではないかと思いますが、文章もまた同様です。先日読了した「情報のさばき方」という本には、「事」「理」「情」のバランスが必要である、ということが書かれていました。この3つの均衡をとることは、非常に大事であると感じました。

まず、「事」について。次を引用します(P.200)。

「事」とはいうまでもなくファクト、基本となる「事実」や「データ」を指します。「理」と「情」がどれほど優れた文章であっても、「事実」そのものがあいまいであったり不確かであったりすれば、情報としては信頼性に欠けます。

つづいて「理」(P.202)。

「理」にかなった文章とは、ある「情報」と、別の「情報」を結ぶ脈絡が、すっきりとしていて、すぐに関係が頭に入りやすい文章のことです。

情報をつなぐ文脈が理である、という見解ですが、ジャーナリスティックだなと思ったのは、その少し前の次のような文章でした(P,201)。

権力は「力の論理」を押し通そうとするのに対し、情報を伝えるメディアは、「論理の力」で対抗し、権力をチェックします。

つまり圧倒的なパワーをもつ権力に対して、「論理」で対抗するという主張に記者としての力強さを感じました。とはいえ、逆にその論理を強行するとメディアとしての間違った力を持つことにもなるような気がします。論理を駆使しすぎると言葉の暴力にもなる。いちばん気をつけなければならないことです。

そして最後に「情」(P.206)。

新聞記者には「私という主語は避けろ」という鉄則があります。記者はあくまで観察者であって、当事者ではない。主観は避け、できるだけ現場や状況をして語らしむようにしろ、という教えです。

しかしながら、ここが新聞とブログの大きな違いではないでしょうか。ブログではむしろ「情」の部分の情報こそが重要になることもある。もし新聞とブログが協調を取るとするならば、新聞にはない情の部分をブログが相補的に補うことによって、うまく協調できるような気がしました。つまり観察者として事実を伝える新聞に、それをどう受け止めたかという読者としての「情」を付加していく。このときにメディアとしても広がりが生まれるのでは?(といっても、あまりにも剥き出しな情は困りものですけどね)。

最初に書いた五感ブランディングのような考え方も、事実や左脳的な論理に、感性という付加価値(もしくは付加情報)を加えることによって、より広く人間の心理に訴えることができるのではないか、という気がします。

さて、理屈っぽくなったので、五感ブランディングと文章論についてはこの辺にしておきましょう。

まったく違うお話を。

帰宅する途中、家の近所にちいさなCDショップがあります。ログハウス風の店内で、品揃えは決して多くないのだけど、なんとなくいい感じです。新譜と中古の両方を扱っている。たいていぼくは新宿の大規模なお店を利用するのですが、この自宅の近所にあるちいさなお店が気に入っていて、たまにぶらりと寄ってCDを購入します。ぼくよりも10歳ぐらい年上の眼鏡をかけた上品なおばさんがひとりでレジにいて、お店の番をしている。たまに駅ですれ違うので、どこか別の街からこの店にやってきているらしい。

自主制作のCDがレジの横に飾ってあったので聴かせていただいて、なかなかよかったので350円で購入したこともありました。それを機会に、CDを買ったときにはちょびっとずつ(ふたことみこと)、その上品なおばさんとお話をして帰ることにしています(何も話さず何も買わずにぐるりと一周して帰ってしまうこともある)。きっと若い頃には、音楽が好きだったんだろうなあという感じで、年齢はもうシニアなのですが、音楽の話をするときにはとてもいい笑顔をしている(ちょっとかわいい)。どうしてお店を開いたんですか?どんな音楽がお好きなんですか?と、そんなことを聞き出すまでには5年ぐらいかかりそうですが、月に一度ぐらいは立ち寄ることを楽しみにしています。恋をしているわけではありませんが。

今日はそのお店でこのCDを買いました。アコースティックギターと弦の音が心地よいです。

B00005HO4Aファイヴ・リーヴス・レフト
ニック・ドレイク
ユニバーサル インターナショナル 2000-10-25

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そんな音楽を聴きつつ、また明日。

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