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2006年7月24日

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メタファーと記憶の改変。

記憶について昨日書いたのですが、小森陽一先生の「心脳コントロール社会」という本にもちょうど記憶に関する記述が出てきたところでした。これはぼくがまだ読み終えていない(というよりも途中で放り出してしまった)ジェラルド・ザルトマンの「心脳マーケティング」という本から引用しているのですが、イメージやメタファーを通じて消費者の心を無意識の部分でコントロールできるということを中心に、広告や政治がどのようにして大衆の心を操ろうとしているか、ということを解き明かしていきます。

広告でも政治でもないのですが、とてもわかりやすかったのが「手を貸してくれないか」というメタファーについての解説です。これのどこがメタファーなのか、ふつうの表現ではないのか、とも思えるのですが、よく考えてみると自分の身体の一部である「手」は切り取って貸すことができない。したがって、メタファーであるということになるのですが、不可能なことをやってくれという依頼、援助と協力だけはしてほしいけど主体的な考えはいらないという思考停止の要求などがある、という分析になるほどな、と思いました。

仕事で確かに「手伝ってください」といわれることもあるのですが、仕事として引き受けた以上、しっかりやりたいという意識がある。だから、自分の主張をしようとするのですが、そうすると、なんとなく胡散臭がられるものです。そうして、手伝った部分が終わると、あとは「はい、もう結構」と経緯などは一切教えてくれないこともありました。それはまさに、手は借りるけど頭(というか、あなたの人格)は必要ないよ、ということです。「手を貸してくれ(手伝ってくれ)」という言葉には、気をつけたほうがいいなと思いました。人格を無視して、労働力を搾取するとともに思考停止を促す言葉の場合もあるかもしれません。もちろん基本的には心地よく仕事をしたいと思うので、きちんと個を認めた上での手伝いはウェルカムなのですが。

メタファーは「思考や感情の表現の基本」であって、実はこれは比喩だとわからずに使っていることも多い。「手を貸す」もそうですが、「口を出す」もうそうだし、「目に入らない」もそうです。この多様性と重要性を理解することで、マーケッターは消費者を操ることができる、というと直接的で過激ですが、「効果的なコミュニケーション手法を考案」できるとします。

ほとんど「心脳コントロール社会」に書かれているまとめから要点を抜粋する形になるのですが、ザルトマンは記憶の操作として、エングラム(脳細胞上の物理的な現象の貯蔵)、キュー(エングラムを活性化させる刺激)、ゴール(消費者が抱く購買行動の目的や目標)の3つが重要であると考えます。また、記憶には意味記憶(記号に対する記憶)、エピソード記憶(体験に対する記憶)、手続き記憶(社会で生きていくための諸手続きの記憶)の3つがあるとします。

そしてこれらに「バックワード・フレーミング(過去の経験の改変)」、「フォワード・フレーミング(未来の経験の改変)」という2つの手法によって、記憶を変えてしまうことで、企業が求める方向の「ゴール」へ消費者を導くというわけです。

記憶は生成するものである、という部分はジャック・ラカン的なアプローチを感じるとともに、記憶を改変するということは昨日観た「バタフライ・エフェクト」という映画そのままという気がします。あの映画のなかでは、実際に抑圧された記憶を日記の言葉で思い出すことによって、自分の脳の組成を変えてしまうとともに現実も変えてしまうというSFっぽい演出だったのですが、記憶という物語に新しい解釈を与えることがとてつもない刺激(キュー)になるとすると、未来の生き方も変わってしまうこともないとはいえず、あの映画は作り物だ、ともいえなくなってくるような気がします。

たとえば、ぼくは父の死というものを何度も振り返っているのですが、そのことによって生前に感じていた父のイメージは明らかに変わってしまったような気がします。と同時に、不完全ではあるけれど父親として、現在ふたりの息子に接する生き方も変わりつつあるような気がする。記憶がぼくを変えつつある、ということです。

そんなことを感じたのは、今日、「エリザベスタウン」という映画を観たからかもしれません。

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2006年7月23日

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ハイブリッドな役割。

谷川俊太郎さんの「夜のミッキー・マウス」のあとがきに、この詩で何を言いたいのかと聞かれると答えられなくなってしまう、という表現がありました。そこで思い出したのですが、先日読み終わった内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」という本にも、類似した表現をみつけました。村上龍さんのインタビューについて書かれています(P.128)。引用します。

村上龍はあるインタビューで、「この小説で、あなたは何が言いたかったのですか」と質問されて、「それを言えるくらいなら、小説なんか書きません」と苦い顔で答えていましたが、これは村上龍の言うとおり。答えたくても答えられないのです。その答えは作家自身も知らないのです。もし村上龍が「あの小説はね・・・・・」と「解説」を始めたとしても、それは「批評家・村上龍」がある小説の「解説」をしているのであって、そこで語っているのは「村上龍」ではありません。

書く行為においては、書いたことの背後に書かずにおいた(あるいは書けなかった)ことがある。書いた意図、あるいは書かれなかった意図について解明するのが評論家の役割です。だから、作家が評論家のように語れないジレンマがある。もちろん作家の内面にも書きたかったことや理由はあるだろうと思うですが、正解の答え合わせが文芸的な活動かというと、そうではないような気もします。内田さんの本では、作品の意図を読み解けば批評家の「勝ち」、作者の秘密に手が届かなければ批評家の「負け」というようにも書かれていました。けれども、その原則を退け、「起源=初期条件」というものがないとしたのがロラン・バルトであったと解説されています。

また難しくなってしまいそうなのでなるべく難解になることを避けたいのですが、作家というのは理屈を考えるよりも、四の五の言わずに書け、まず書くことが大事だ、という一般論のようのものもあります。理論で武装するよりは作品を創ることが先決だ、という考え方です。だから、テレビ番組に出演して本業以外のことを語り出す作家は、なんとなくうさんくさく感じる。とはいえ、村上龍さんなどはメディアに出つつも作品を精力的に書いていて、すごいなと思うのですが。

書かれたものに対して意味をつけることが評論家の役割ともいえます。小森陽一先生の本を読んでいると、「文芸評論家」としての責任という言葉があり、危険な思想をジャッジするような役割もその言葉に込められているようです。とはいえ、評論家には、ぼくはどうしてもネガティブなイメージを感じます。ちょっとやわらかい話を書いてみると、名探偵コナンというマンガに怪盗KIDという泥棒(といっても少年)が出てくるのですが、彼が「泥棒は芸術家で、探偵はその芸術を批判する批評家にすぎない」とコナンに言う台詞がありました。台詞は正確ではないかもしれないけれど、計画的な完全犯罪を生み出すことに才能が必要で、それを解読したり、トリックを見破るのは簡単でしょ、とKIDは冷ややかな目でみるわけです。

音楽でも、他の芸術でもそうかもしれないのですが、自分の創ったものに対して自ら批評家の立場で何かを解説したり、弁解したり、過剰に何かを語ることはよい印象がないようです。プロダクトデザイナーである深澤直人さんの本にも「デザイナーは語る必要はない。ものが語ればいい。」という言葉があり、そのことをブログにも書きました。

しかしながら、ほんとうにそうだろうか?ということを考えてしまったのですが、現代においてはそうともいえない状況にあるような気がします。作家は作家であればそれでいい、あとは批評家が何かを言ってくれる、という時代ではないのではないか。というのはインターネットが出現して、表現を取り巻く環境が変わりつつあるからです。

すべての人がブログを書いているとはいえないとは思うのですが、インターネットやテクノロジーがもたらした現象として、ひとりの人間において、作家/読者のふたつの面が混在しつつあると感じています。つまり、ハイブリッドな役割になりつつある、ということです。

ブログを書いているひとは、自分のブログにおいては作者ですが、他のひとのブログを読むときには読者になってコメントする。コメントされたひとにおいても、また別の誰かのブログでは読者です。書くと同時に読む。書くだけではなく、必然的に読みとる力、コメンテーターの力も必要になります。さらに、作家/読者のハイブリッドだけでなく、買い手/売り手のハイブリッドも考えられます。つまりオークションにおいては、自分で何かを売ると同時に買い手でもある。さらに、広告についても配信主(アフィリエイトなど)であると同時に、広告のターゲットとして広告にも接触します。

ややこしい時代になったものだ、と思うのですが、作家はこれから「きみたちには説明できない何かを書いているんだ」と、えへんと胸を張って言えなくなるような時代ではなくなる気もしています。というのは、一般の読者の方が、ブログによって表現者としても批評家としても磨かれていくと思うので。

といっても、言葉にならない何かというものは確実に存在していて、作家にしてもブロガーにしても、その何かに揺り動かされて書きつづけるのですけどね。

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2006年7月20日

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像を結ぶ言葉。

午前中、電車のなかで構造主義の入門書を読み終えてしまい、たまたま谷川俊太郎さんの「夜のミッキー・マウス」という本が鞄のなかにあったので、電車に揺られながら詩集を読むのはどうだろう、ちょっと恥ずかしくないか、と思ったのですが、それでもその本を読むことにしました。

最後に「あとがき」と文庫本用の後書きがあって、さらにめくってみるとオマケの詩が掲載されていました。なんだか得した気分だな、と思って読み進めたのですが、この詩にまいった。ぐさりとやられた気がした。「闇の豊かさ」という詩です。引用します。

小さな額縁の中のモノクロ写真
木に寄りかかっている子供が二人
何十年も前の午後の日差しの中の兄と妹
シャッターがきられたその日と
今日とのあいだの日々に存在した
割れたグラスや小さくなったシャツ
焦げてしまったパンケーキ
読み終えた何冊もの本
鉛のような気持ち
美し過ぎた音楽
テレビでしか見ることのなかった戦争・・・・・
今はもうほとんど退屈な細部なのに
それらが時折痛いような光となって
私の内部を照らし出し
私は知る
自分と世界を結ぶ闇の豊かさを

なんだふつうの言葉じゃん、と思うひともいるかもしれないのですが、ぼくは読んだ瞬間にハレーションを起こしたような写真の風景と、グラス、シャツ、焦げたパンケーキ、本、鉛、戦争、音楽など、フラッシュバックしたような光景がさっと頭脳のなかを走り抜けて、そうして最後の一行に辿りついたときに感動しました。

この闇という言葉は、先日購入した「暗やみの色」というCDのなかにある「闇は光の母」に共通するものがあるのかもしれないけれど、谷川俊太郎さんが使う「闇」はやはり「二十億光年の孤独」にある闇であって、湿度を感じさせるものではない。音も光もなく、ただ広がっている。広がっているんだけど無ではなく、何かみえないもので充足されている。そして闇の向こうにつづいている場所がある。そんな印象です。

特別な言葉ではないのだけど、詩人が使うと、どういうわけかものすごくリアルに像を結ぶ言葉があります。それは、どの言葉をチョイスするかということもあると思うし、言葉と言葉の連関、あるいは配列に詩人にしかできない技巧があるのかもしれない。

そんな言葉を使えるようになりたいものです。

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2006年7月19日

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集中することと癒し。

本気で仕事に集中してみたところ、あっという間に時間が過ぎて夜の10時になっていました。では、いままで本気ではなかったのか、というとそんなこともないのですが、「そこそこ」本気だったということにしておきましょう。さすがに10時に近くなったところで、効率がぐんと下がったので潔く帰ることにしました。いままではそれでも頑張ってしまったこともあったのですが、最近は何事も「そこそこ」にしておきたいと思っています。

それにしても集中して帰ってきて飲むビールがうまい。このところPRIME TIMEという青い缶のビールをよく飲んでいるのですが、まさに極上の時間という気がします。このビールです。

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そもそもぼくは深い青が好きなのですが、この缶の色がぼくは好きです。といっても、冷蔵庫のなかにごろごろ入っているとなんとなくあんまりよろしくないのですが、一缶だけ取り出して机の上に置いてみると、なんだかいい感じがする。そんなことを考えるのは、ぼくだけかもしれませんが。

ところで、最近、情報系のメールマガジンはほとんどRSSで読むようにしたので、配信されていても開こうともしないのですが、3つのメールマガジンだけはきちんと読んでいます。テキスト系では日刊デジクリと村上龍さんが編集長で発行しているJMM(Japan Mail Media)、そして新潮社の「考える人」という雑誌のHTMLメールです。

このなかで日刊デジクリのNo.2014、7月18日号で三井英樹さんの「プロにとっての「癒し」」という記事があり、これがいいなあと思いました。日刊デジクリは、クリエイターの方が書いているだけあって、なかなか素敵な文章があります。

三井さんの文章は、あるプログラマーが「きれいなクラス定義を見たんです、癒されました」とほんとうに嬉しそうに言っていた、ということからはじまります。

「モノ作りの本質がここにある。」と書かれているのですが、ほんとうによい仕事をするということ、職人であるということは、クオリティに対する感度にあるとぼくも思いました。厳密にはモノづくりとはいえないプログラミングにも、感度のよいプログラマーと悪いプログラマーがいる。

企画も同じであり、ただきれいに企画書を作ればいいと思っているプランナーや、オシャレな横文字を意味も分からずに引用すればかっこいいと思っているようなひとは、違うんじゃないかと思います。というぼくも、かつてはそれがかっこいいと思っていた時期もあるのだけど、最近は変わってきました。相手が必要としないアイディアは、どんなにきれいにまとめても、よい企画とはいえません。しかしながら、そのアイディアをお客さんが求めているかどうかというのは、いつになっても自信がないものです。なぜなら、お客さんの心のなかは絶対に読むことができないものなので。だから難しい。

三井さんは、以下のようにも語っています。

本能的に仲良くできない人たちが居る。きっとそれは、Webそのものを舐めていると感じるのだと思う。開発を舐めている、エンドユーザを舐めている、交わす言葉の端々から、聖域を汚される予感がする。

わかるような気がします。どんな分野でも舐めているひとというのはいますね。それは汗をかかずに成功すると思っているひとのような気がします。

「こんなもんで良いだろう」、「ま、いいんじゃない」、怒りに直結する言葉が、「出来上がり」からプンプン匂う。手抜きをねじり込める場面は、山ほどある。企画、アイデア出し、検証、試作、開発、テスト、体制作り、コミュニケーション、どんな場所でも手は抜ける

手を抜くということに関してちょっと思い出したことがあり、田坂広志さんの「企画力」という本に書いてあったことかな、と引っ張り出して読んだところみつからないので、どこに書いてあったことなのかわからなくなってしまったのですが、「どんなちいさな仕事にも手を抜くべきではない。というのはちいさな仕事で手を抜くと、プロとしての腕が鈍る。腕が鈍ると大きな仕事をしたときに、力を発揮できなくなる」ということをどこかで読みました。しかし手を抜かないのは、こだわるということではなくて、ぼくはツボを押さえることに近いような気がしています。押さえなければならない部分さえ手を抜かなければ、あとは省略してもよい。そのメリハリが大事であって、逆にどうでもいいところにこだわりすぎると全体を見失う。

あとは理屈は置いておいて、集中すると気持ちがいいことは確かです。これも、こだわるのではなくて集中であって、だらだらと遅くまでただ会社に居残ることではない。時間内で最大限の効果をあげようとしたとき、そのためにはどうするか、という考えも巡らせなければならないわけで、緊迫感も生まれる。プレッシャーはきついけれど、そのあとのビールがうまい(こればっかりですが)。

週末に向けて忙しそうなのですが、忙しいというより充実しているという感じでしょうか。しかしながら、睡眠だけはきちんと取ろうと思っています。

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■アサヒプライムタイムのページ。ビールらしくない缶ですが、なぜか好きです。
http://www.asahibeer.co.jp/primetime/primetime.html

■日刊デジクリは以前紹介したような気もするし、JMM(Japan Mail Media)はあまりにも有名なので、「考える人」のページです。実は、実際の雑誌は一度も読んでいなかったりするのですが、最新号は「100人100冊」のブックガイドらしく、気になりました。
http://book.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/index.html

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2006年7月18日

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自然の音、人工の音。

顎が痛いです。というのも寝違えてしまったらしい。たいてい寝違えたときには首が痛くなるものですが、ぼくの場合、うつ伏せに寝てしまったためか左の顎が痛い。今日、提出するものがあって、その仕上げを深夜3時までやっていたのですが、その後眠れなくなって明け方5時まで起きていて、さすがにつらくなって前後不覚のまま眠り込んだところ、疲れていたせいか寝相がおかしかったせいか、顎をやられてしまいました。とはいえ、顎関節症などもあるらしいので、気をつけておこうと思います。

眠れないまま、趣味のDTMによる曲作りをつづけていました。いま手がけているのは、夏らしい曲づくりです。ほぼ全体構成は完成していて、あんまり手をかけずに公開するつもりでしたが、やっているうちに凝りはじめてしまい、結局のところ今月中には完成させたいという感じになってしまいました。せめて夏が終わらないうちに公開したいものです。

ところで昨夜、何にそんなに集中していたかというと、これが「波の音づくり」なのでした。夏らしい曲ということで、海の音がなんだかほしくなってしまった。そこで、SONARに付属しているソフトウェアシンセTTS-1のSeashoreというプリセットと、Ace Musicさんで無料配布されているAdventure of the Seaという波の音を出せるVSTiを使って、どうすればホンモノの波の音に近い音になるだろう、ということを四苦八苦していたわけです。そんなことより、メロディやアレンジに注力した方がずっと有意義だとは思うのですが。

波の音を創りながら思ったことですが、波といっても実際には複雑に絡み合った構成になっていて、たとえば遠くで崩れる波、浅瀬で崩れる波、引いて砂を転がしていく波、ぶくぶくという泡の音などがある。ここでまずはじめの波が崩れて、そのあと砂が転がって、次の波がきて・・・のように考えていたのですが、意図すると自然にはなりません。ぼくはステップ入力というスタイルで、音階と長さのマトリックスで表示されるピアノロールという画面を使って、ちくちくとマウスで音をおきながら制作していきます。気の遠くなるような制作方法です。そういえば、キーボード(MIDIコントローラ)をいただいたのですが、やっぱりマウスによるオルゴール職人スタイルの方が馴染みやすく、そのスタイルのままで創っています。そこで昨日もちくちく波の音を置いていたわけですが、方眼紙のようなグリッドにきちんと沿って並べるよりも、適当に置いた方が波らしくなります。その適当さが難しい。

なかなか自然にならないのですが、Adventure of the SeaにはSonitus.fxのリバーブとサラウンドのエフェクトもかけて、サラウンドは左と右のチャンネルをぐるぐるうねるようにしてみました。そんなことを深夜(というか明け方)にやっていると、ベッドルームで砂遊びをしていたとかいうブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズのベーシストでメロディメイカー)のことを思い出したりしたのですが、どこか変だという感じもある。変だけれども楽しい。ギターなども打ち込まないで弾いてしまった方がはやいだろうと思うことも多く、海の音などは音響効果のフリーのCDか、あるいは実際に海に行って録音してきた方がリアルだろうとも思う。それでもなんだか、ニセモノなんだけどホンモノらしい音を創っていくのが楽しい。テレビの鉄腕ダッシュで効果音を創る番組もあり、あれも楽しかった。

そもそも少年の頃のぼくはナマロクに興味があり、デンスケというSONYのカセットデッキが欲しかったものです。機材にも興味があったのですが、最近はコンパクトで高機能な製品が出ていて、しかもEDIROLのR-09のようにSDカードで24bit/48kHzの録音ができるものも出てきています。これです。

EDIROL_R-09_re.jpg

もっと驚いたのが、MicroBRのように手のひらサイズで4トラック録音ができるものも登場しました。
Micro-BR.jpg

家にはRolandのVS-880というハードディスクレコーダーが眠っているのですが、大きくてでかい。長い間使っていないので、操作方法も忘れてしまったのですが、知らないうちに録音機材は大きく進化していて驚かされます。

写真やビデオを撮るのも楽しいのですが、海や鳥や虫などの地球の音を録音して、インターネットにアーカイブしたら楽しそうだ、という気もしました。カタログ化すると言う意味では、神の視点で地球の音を保存するという権力的な行為なのかもしれませんが、なんとなく数十年経って聴いてみるのも楽しそうです。タイムカプセルといえるかもしれない。

Webサイトや本、テレビ番組など、世界中のものをアーカイブしようと考えているBrewster Kahleさんの話が、「全人類の知識を収蔵するデジタル図書館--B・カール氏の壮大な使命」という記事にありました。Brewster Kahleさんはインターネットのコンテンツを残そうとしているようですが、音のアーカイブとしては、2006年7月18日雨の渋谷の雑踏の音、という別にそれを記録してどうするといった平凡なある日の音が残されていたりするのも、インターネットの面白さのような気がします。暇があればそんなことをやってみたいですね。

>ネットにアーカイブする音が、波や虫の声、あるいは風の音のようなものであれば、ロハス的でもあります。映画でいうと「イル・ポスティーノ」という作品がありました。有名な詩人の家に手紙を届けにいく郵便配達員の話で、詩人が遠くへ行ってしまったあと、詩人が残していった大型のテープレコーダーに波の音などを吹き込む。ほんとうは詩を書きたいのだけど、波の音や空にみえている星のようすなどを録音するわけです。

シンセサイザーで波の音を合成しているより、そちらの方が楽しいかもしれない。デジタルで構成された音楽も楽しいのですが、自然の音も音楽のひとつ、といえるかもしれません。

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■Ace Musicさんの無料VSTiは以下のサイトのダウンロードのページにあります。muzieに公開しているぼくの曲では、そのものずばりですがAdventure of the Seaは「Adventure」という曲で使わせていただきました。
http://www.ace-music-exp.com/

■24ビットWAVE/MP3レコーダー「R-09」のページ。
http://www.roland.co.jp/FrontScene/index.html

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