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2006年8月 7日

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グッドタイムス、バッドタイムス。

猛暑到来という感じでしょうか。本格的な夏らしい暑い一日でした。そんな8月の月曜日、ささやかなよいことが幾つかあり、とってもよい気分です。あまり大きすぎるよいことがあるよりも、ささやかなよいことがたくさんあった方がうれしい。頑張った後にはそんな日もあるもので、人生はそうやって平衡が取れているのかもしれません。

その「ささやかなよいこと」のひとつですが、SAPジャパンのメールマガジンに登録したところ、先着150名様にプレゼントということで「仮説思考」という本が届きました(ほんとうに、ささやかです)。欲しかったけれど買うのをためらっていた本だけに、なんとなくありがたいものがあります。感謝しています。

4492555552仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法
東洋経済新報社 2006-03-31

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ブログのテーマのひとつとして思考を挙げているだけに、書店で背表紙を眺めていても、タイトルに思考という言葉があると、ぴぴっと反応してしまいます。ちなみにBCGでいうと、「BCG流非連続思考法」という本も先日買ってしまいました。未読本があまりにも多すぎて、読んでいない本から片付けようと思っているのですが、冒頭部分から面白そうで待ちきれずに読みはじめています。

4478490511BCG流 非連続思考法 アイデアがひらめく脳の運転技術
秋葉 洋子
ダイヤモンド社 2006-07-27

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よいこと、悪いこと、と書いていて思うのですが、ぼくはブログでよいことも悪いこともそのまま書いています。それがいいかどうかは、はなはだ疑問です。というよりも、むしろ他人には「気持ちが不安定なときはブログは書かない方がいいよ。ぜったに悪いように書いてしまうからやめておいたほうがいい」と忠告しそうな気がする。ぼくは時々、ものすごく不快なブログも書いてしまう問題ブロガーなのですが(と、自分で言ってしまうのもどうかと思うのだけれど)、読んでいるひとが不快であろうブログは書いている本人も不快じゃないわけがなく、実はものすごく不快です。そんなものをなぜ書くのか、いや書いてもいいけど公開することはないだろう、後悔するだけだろう、と思うのですが、その通り。ずばり後悔しています。

一度嫌いになったらとことん嫌うという性向もあるようで、先日も「ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち」という本を徹底的に批判してしまったのですが、その本のなかにも2003年にスコーブルが書いたという「企業ブログ・マニフェスト」が引用されていて、そこに次のようなマニフェストがありました(P.277)。

12 悩みを抱えているときには、ブログを書かないこと。それがブログに微妙に影を落とし、読者に気取られる。

なるほど、その通りです。それにしても、「気取られる」とは?気付かれるの間違いでしょうか。また誤字を発見?ついでにいうと、「物語をするにしくはない。」(P.256)もどういう意味だろう、と頭を悩ませているのですが。

ただですね、人間ってそんなに安定したものか、安定していいのか、とぼくは思う。きれいなことだけ書かれたブログというものを読んでぼくが考えることは、ストレートにいってしまうと、よく書かれているけど面白くないな、ということです。そのひとの人間性がみえない気がします。別にめちゃくちゃな毒舌で荒れる必要はないと思うのだけど、かつてはとんでもなくひどい言葉を使っていたのに、協調性が、健康が、などと語っているブログを読むと、無理していませんか?という気持ちになる。無理してきれいにみせる必要もないし、逆に、痛いほど汚れてみせる必要もないんですけどね。ふつうでいいじゃん。

とはいえ人間というのは成長するもので、過去は過去だと思います。デジタルの場合、アーカイブされて残るしコピーして保存もできますが、そんなものは変わらない過去であって、人間というのは明日になれば細胞が入れ替わって新しい自分になっている。過去に突っ込みを入れて面白がっている人間などは、放っておいてかまわない。イチローの名言風にいうと、過去の自分といまの自分を比較するのは、いまの自分に申し訳ないということでしょうか。今日よりも明日、明日よりも未来の自分のほうがもっとよくなっている。

ついでに、きれいな自分しかみせられないひとは、結婚は難しいんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

これはまだ結婚していない方には暴言かもしれないし、むかーおまえに言われたくないよ的な発言かもしれないのですが(すみません)、あえて言及すると、人間というのはきれいな部分もあれば汚い部分もある生きもので、その両面を受け止めることはもちろん、両面を相手にみせることができなければ、信頼というのは生まれないような気がするのです。あくまでも、私見ですが。

汚い自分をみせることがなぜ信頼につながるのか?という疑問もあるかもしれないのですが、汚い自分を隠して頑張って生きるということは、海原純子さん風に言うと「仮面」をかぶって生きている、ということです。つまり、それは、自分に他意はなかったとしても潜在的に相手を拒絶している。相手に対する信頼がなければ、自分をさらけ出すことはできないものです。だから、全面的にかっこいいひと、よいひと、というのは、実はとんでもなくひどいひとかもしれない。しかしながら、なんでもかんでも露出すればいいかというと、それは相手に対する甘えでしかないのですけどね。

「想像の欠如」もあるかもしれません。「こんなひとだとは思わなかった」というのは、ひどい側面に目をつぶってみようとしなかったこともあるし、あるいはパートナーが意識的にみせようとしなかったのかもしれない。盲目的に恋愛をすると心にブラインドが落ちるもので、相手の嫌な部分を無意識のうちに消去してしまう。みえているはずなのに、みえないという現象も起こり得る。このときに相手に対する思いをいったん留保して、冷静になることは大事かもしれません(なれないけどね)。いずれにしても、片面思考でいくと破綻する。人間だから、いい事も言ってるけど悪いこともしてるよね、悪人だけどきっとやさしい一面もあるよね、ぐらいに思うほうが、しなやかに相手と付き合うことができそうです。

ちなみに、内田樹さんの「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」という本には、「「合理的な人」は結婚に向かない」というエッセイがあります。合理的な人は「人間関係を「等価交換」のルールで律しようとするからである」とします。つまりギブアンドテイクだけで考えると、うまくいかない。次のようにつづきます(P.32)。

「私はこれだけ君に財貨およびサービスを提供した。その対価として、しかるべき財貨およびサービスのリターンを求める」という考え方を社会関係に当てはめる人は、残念ながら結婚生活には向いていない(そして、ビジネスにも向いていない)。
というのは、人間の社会は一人一人が「オーバーアチーブ」、つまり「対価以上のことをしてしまう」ことによって成り立っているからである。

愛情も、与えるものです。

反対に、自分が投資したもの(金、労力、気づかい、忍耐などなど)に対して相手から「等価」のリターンを求めると、「夫婦」は潰れる。それは営業マンが彼の努力で制約した取り引きから得られた利益の全額を「オレの業績だ」と言って要求することを許せば、会社が潰れるのとまったく同じ原理なのである。

成果主義が破綻する原因もこういうところにありそうです。

ところで、暴言を吐けば、離れていくひとは離れていくでしょう。それは仕方がないことです。去るものは追わず。でもきっとほんとうに少数の誰かは、まあ付き合ってやるかーぐらいの感じで、付き合ってくれるかもしれません。万人に好かれる必要はないし、バカなので優等生を気取るつもりもないし、友達100人できなくてもいいし、ぼくはまあそんな感じでいこうかなどと思っています。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年8月 5日

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効果音と映像表現。

趣味のDTMで音楽を創っていて、ああ、これができればいいのにな、と思うのは、音楽に映像を加えることです。映像を扱うことができれば、もっと楽しめそうな気がする。

歌詞のついている曲であれば、ある程度は歌詞という言葉によって情景をはっきりと限定することができて、歌詞で映像を喚起させることもできます。しかしながら、インストの曲の場合はどうしても抽象的になります。自分の頭のなかに浮かんでいるイメージがあるのに、曲調に反映できないことがあってもどかしい。

そういうときに仕方なく使ってしまうのが効果音ですが、夏らしい感じということで創った「あの夏、後悔と夕焼け。」という曲では、何度かブログで取り上げましたが、Ace Musicさんで無償で提供されているAdventure Of the SeaというVSTiを使いました。TTS-1というシンセサイザーの波の音だけでは、ざーっというノイズっぽい感じにしかなりませんが、このAdventure Of the Seaを加えることで、波が崩れる音のほかに波の泡立つ音などが付加できます。

ということを書いていて、そういえば他にも面白い無料のVSTiがあったことを思い出しました。VSTiというのはソフトウェア上で機能するプラグインのようなものです。ぼくはホストアプリケーションとしてSONARというソフトを使っているのですが、そこにVSTiを読み込むとシンセとして使うことができる。ぼくの場合、そうやってVSTiだけを使ってノートPC(VAIO)完結で曲を作っています。

ほんとうはきちんとした外部音源もほしいのだけど、何しろお金がない。ところがインターネット上には無料配布のVSTiというものがいくつも公開されていて、ある時期、インターネットで無料のVSTiを漁りまくっていたときがありました。そのときに70弱ぐらいの無料VSTiを試してみたのですが、なかには動作不安定なものや、やたらと重くなってしまうものもある。けれども、これを無料で配布しちゃっていいのかというものもあって、いろいろと重宝します。貧乏系の趣味DTMであれば、この無料VSTiを使わない手はありません。

そこで、SE(サウンドエフェクト)系のVSTiで、Adventure Of the Sea以外のものを紹介してみたいのですが、TWEAKBENCHの「Field」。これは実際の街頭の音をサンプリングしているようで、それをループで流しつづけるものです。

プリセットには「rain」「street」のほかに、「tokyo」「shibuya」もあって、どうやら実際の街の音らしい。muzieというサイトで曲を公開しているのですが、Rain_Danceという曲で使わせていただきました。mp3のファイルでよく聴かないと分からないと思うのですが、中間部分とラストの部分で使っています。最後の部分は、にゃあと猫が鳴く声が入っているのだけど、これが「Field」にプリセットされている「home」だったかと思います。ちなみにイコライザーも付いているので、ざわめく音のキャラクターを変えることも可能です。

しかし、やはりSEはSEでしかなく、映像を加えたくなってうずうずすることがあります。映像表現と技術についてはぼくはまったくのシロウトなのですが、最近の映画で使われているCGはほんとうにすごいものが多く、さらに子供向けの特撮番組でも何気なく凝った映像づくりがされている。どこまでが実写で、どこからがCGかわからなくなりつつある。

一方で、リアルに向う方向ではないCGというのもあるようで、先週面白いと思ったのは、キアヌ・リーブスの最新作でロトスコープという手法を使い、アニメーションと実写を融合させたような効果を出すものでした。CNET Japanの「キアヌ・リーブス新作「A Scanner Darkly」--アニメと実写を融合した技法「ロトスコープ」とは」で紹介されています。実際に映画のトレイラーによってその技法による映像をみることができるのですが、どちらかというとアナログっぽい。それでいて奥行きのある不思議な映像です。原作はフィリップ・K・ディックであり、というとブレードランナーを思い出してしまうのですが、新しいようで懐かしいこの映像技術が映画全体にどのような効果を与えるのか楽しみです。

ビデオをまわして撮影するのは大変だけれど、Flashアニメという選択肢もある。DTMマガジンでFlashの紹介をされていて、たぶん技術的な知識があり、絵心のあるクリエイターであれば、音楽+アニメという形で簡単に作ってしまえるものかもしれません。

今日の昼に王様のブランチで「やわらか戦車」というFlashアニメーションが紹介されたのだけど、これは楽しいです。テレビで紹介されるぐらいなのでもう旬とはいえないのかもしれないのですが、キャラクターグッズも販売されるらしい。戦車のキャタピラの音や、ちゅどーんという爆発音などのサウンドエフェクトが気に入ってしまったのだけど、無料の音の素材にもあるだろうし、シンセサイザーにもプリセットされているので、こういう動画を作るのは楽しそうです。

このやわらか戦車という作品は、いいですねえ。戦車なのにやわらかいのもいいし、退却して後ろ向きなのもいい。全作品それぞれ楽しめます。こういう作品を創ることができると、ほんとうに楽しいだろうなあ。目を吊り上げて戦争を批判するよりも、こうやって馬鹿馬鹿しくパロディにすると、闘う力も抜けそうな気がします。脱力系でよいです。

全部ひとりでやる必要もないと思うのですが、やろうとすれば音楽から映像まで全部ひとりでできちゃいそうな時代になってきたということに、あらためて驚きます。YouTubeをはじめとした映像の氾濫には悪影響があるのではないかという不安もありますが、この技術を当たり前のものとして育つ次の世代の子供たちは、ひょっとするとぼくらの想像を超える才能を開花させるようになるんじゃないかと、ちょっと期待もしています。

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2006年7月31日

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ユーモアとアイロニー。

しなやかでありたいものです。硬直しているものすべてに死の傾向があり、生きているものはやわらかくしなやかだということを読んだのは、海原純子さんの「こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)」という本に引用されていた老子の文章だったかと思うのですが、性別にかかわらず、女性にもこちこちに固まっている思想の方もいれば、読んでいるとふにゃふにゃになるぐらいやわらかい発想のひともいる。それは書き方の問題ではなくて、テキストの背後に息吹いている人間性の問題という気がします。文体でもなくて、「である」調でかしこまっていても、やわらかい身体をイマジネーションさせるような方もいる。一方で、明るくやわらかい文章で書いていても毒のあるひとには毒があるもので、ああ、隠して書いているけどほんとうは違うでしょ?ということがわかる。毒というものはそう簡単には抜けないものです。困ったことに。

一方で男性は比較的こちこちなひとが多いのだけど、男性のなかにもとてもやわらかい発想の方がいて、今日読み終えたのですが「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」という本を書かれた内田樹さんは、非常にしなやかな方だと思いました。何がしなやかであるかというと、まずタイトルからして、「すみません」と謝ってしまうことが、やわらかい。たいてい、自分の説を曲げずに、あやまるもんか、悪に染まるものか、まっすぐに生きてやるぞオレは、と頑なになるもので、その執着やこだわりは偉いものだと思うのですが、その肩に力が入った生き方が結構、窮屈だったりもする。うちのちいさな息子も、謝りなさいっ!というと頑なに謝らないのだけど、さっさと謝ってしまえばその後でおやつにもありつけるわけで、もちろん反省がなければまた叱られるのですが、謝ることで全人格が否定されることはなく、打たれ強くなってほしいし、しなやかであってほしいものだ、と思う。

内田さんの文章を読んでいて思ったことは、文章に余裕がある、ユーモアがあるということでした。ユーモアのある文章を書くためには、相当の余裕がなければ書けないもので、肩に余計な力が入っていると書けない。ところで、ユーモアとちょっと近い言葉にアイロニー(皮肉)があるのだけど、どのように違うのかを考えてみると、ユーモアは人を笑わせる言葉であり、アイロニーは人を笑う言葉のような気がしました。ユーモアは他人を豊かにするけれど、アイロニーは他人を損なうことで自分の優位性を確保しようとする。ユーモアは笑いというクリエイティブな日常のゆとりを生み出すけれど、アイロニーは批判という言葉で他人を縛りつけて自由を奪うものです。ユーモアには拡散性があり、アイロニーには方向性がある。ユーモアは忘れてしまうけれど、アイロニーは根にもつ。

悪口や愚痴や皮肉をサカナに酔っ払うことが大好きなひとがいて、そのひとにとってそれがしあわせであればそれもまた人生だとは思うのだけど、どちらかといえば、ぼくはユーモアのある生き方を選びたいものです。それは単純に価値観の違いであって、どちらが正解というものではないと思います。ほんとうのところどちらの生き方がよいのか、というとぼくにはわからないのだけど、選ぶのはユーモアのほうかな、という感じでしょうか。ただ、ユーモアのほうが難しいんですよね、アイロニーよりも数段。

さて。よくわからないのですが肩甲骨(背中の翼)の痛みについて先日書いたところ、翌日から次第に痛みが引きつつあり、なんだかとても健康になりつつあります。気持ちも落ち着いて、のんびりゆったりした時間を過ごしています。ブログ健康術って、あるんでしょうか。言葉にすると、文体が身体を浄化するとか。気持ちのもちようかもしれませんが。

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2006年7月29日

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複雑に絡み合う倍音、言葉。

夕方から夜のはやい時間にかけて、近所でお祭りの音らしきものが聞こえていて、遠くに聞こえるその音にそわそわと促される何かがあったのだけど、結局のところ静かに家で過ごしました。梅雨は終わっていないらしいのですが(もうすぐ終了らしい)、夏らしくなってきた夜の雰囲気がよいなあと思いつつ、ロディ・フレイムの「ウェスタン・スカイズ」などを聴きながら書いています。

趣味としてぼくはDTMで曲を創ってmuzieで公開しているのですが、最近はVAIOのノートパソコンのなかですべて完結しています。外部からの録音することはまったくなく、さらにキーボードさえも使わないでマウスで音を置いて作っていく。ボーカルに関してはVocaloidというソフトウェアで音声合成によって歌わせています。しかしながら、この試みのなかで、どんなにリアルに近づけようとしても近づかない何かがあることに気づきました。それは何かというと、VSTiによるソフトウェアシンセやVocaloidには「身体がない」ということかもしれません。

いま、内田樹さんの「態度が悪くてすみません」という本を読み進めていて(現在、P.170)、その「言語と身体(P.58)」という章が非常に面白くて、実は書店でこの部分を立ち読みして思わず買ってしまったのだけど、音楽にも文章にもあてはまるような深い考察があります。

大学の研究室にいるとき、高校生が芝居の稽古をしている声が外から聞こえてくる。その芝居の声は日常の言葉であるにも関わらず、嘘(芝居)であることがすぐにわかる。それは、言葉の平坦さ、なめらかさにあると指摘します。そうして次のように書いています(P.61)。

「嘘」や「芝居の台詞」には「何か」が決定的に欠けている。
身体が欠けているのだ。

もちろん発話している芝居の稽古をしている高校生には、身体があります。しかしながら、演じている言葉には、どんなにリアリティをもたせようとしても再現として「印字」する言葉でしかない。身体の欠けている言葉は、どんなにきれいでなめらかであったとしても相手には「届かない」とします。

言葉が相手に届き、理解されるためには、まず相手の身体に「響く」必要がある。そして、言葉における「響き」を担保するのは、さしあたり意味性よりはむしろ身体性なのである。

このあとに村上春樹さんの言葉を引用しています。それはJ・D・サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の翻訳に対して書いたことらしいのですが、ぼくも非常に興味深く読みました。村上春樹さんの言葉を引用します。

極端なことを言ってしまえば、小説にとって意味性というのは、多くの人が考えているほど、そんなに重要なものじゃないんじゃないかな。というか、より大事なのは、意味性と意味性がどのように有機的に呼応し合うかだと思うんです。それはたとえば音楽でいう『倍音』みたいなもので、その倍音は人間の耳には聞きとれないんだけど、何倍音までそこに込められているかということは、音楽の深さにとってものすごく大事なことなんです。

当然ですが、村上春樹さんが言っている倍音とは倍音的な何かであって、音楽的に倍音そのものではありません。だからシンセサイザーで倍音を付加すればカイゼンされるという問題でもない。人間が声を出すことを考えてみると、身体のさまざまな部位で共鳴したりしなかったり、とても複雑になる。さらに歌っているひとのプライベートも含めたさまざまな「思い」が歌声のなかに存在していると思います。発話を音声的に解析すれば、そうした思いは削ぎ落とされてしまうかもしれないのだけど、その思いが微妙に音程を狂わせたり音質を変えたりしている。Vocaloidは非常に細かくハーモニクスなどのパラメーターを指定できるのだけど、その「思い」までをシンセサイズすることはできません。

文章あるいは文体も同じだと思います。2バイトの文字情報のデータの集合として置き換えてしまえば、書いているひとの「思い」はデジタルに削ぎ落とされてしまうのだけど、しかしどこかにその見えない「思い」が反映されていて、思いがあるということはそれに応じた心拍数の変化であるとか、汗のかき具合、快や不快の感情による体内や脳内物質の変化もある。そうした身体も含めた変化が伝わる文章と言うのは確かにあるもので、だからこそブログを読んでいて泣ける文章もあれば、非常に腹が立つこともある。

その身体性を削ぎ落とした言葉がまさに、「ブログスフィア」という本で語られている「スーツ」な言葉であり、企業における広報的な統制と抑制によって平坦になったリリース文、もしくは戦略的な意図で心脳的な操作を目的としたマーケティング的なアプローチかもしれません。

ずばっと鋭利な刃物で斬るような言葉も考えもので、ぼくは曖昧性に富んだ文章こそ、身体の複雑さを文体にも投影しているような気がします。白か黒かはっきりさせることが大事なのではなく、グレイであることをグレイであるとする文章に誠実さを感じる。

内田樹さんの本では、「知性が躍動する瞬間(P.119)」でそのことが書かれています。優秀な学生の論文を読んでいて、最近は「一刀両断」に斬り捨てるような文章ではなく、「書いている学生の息づかいや体温のようなものがにじみ出した文章」が多いとのこと。それは、AとBという主張があるがどちらが正しいかわからないという主張だそうですが、以下のように述べられています。

こういう文を読むと、私はほっとする。
「私にはわからない」という判断留保は知性が主体の内側に切り込んでゆくときの起点である。「なぜ、私はこのクリアーカットな議論に心から同意することができないのか?」という自問からしか「まだ誰も言葉にしたことのない思考」にたどりつくことはできないからである。

わからないことを無理にわかろうとするのではなく、わからないままに留保する。あるいは、わからないと言ってみる。それは複雑に響きあう言葉に耳を傾けることでもあり、結果ではなくプロセスを楽しむ生き方にも通じるものがあるような気がします。

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2006年7月28日

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身体の言葉に耳を傾ける。

とんでもないモノモライに悩まされたかと思うと、今週は背中が痛くなり、もう夜中に寝返りを打つことさえままならず、寝ているどころではないぐらいに痛んで困ったのですが、結石らしき痛みとはまた違っていて、背中にある翼のあたり(翼というのは比喩で、なんという骨でしたっけ。忘れました)が、すごく痛む。たぶんストレスだとか、不摂生だとか、そうしたものがここへきて一気に痛みとなって顕在化しているのだと思います。しかしながら、身体が痛むときに限って精神的にはかなりハイだったりするのも困りものです。翼のあたりの筋肉が痛むのは、とべない自分に対する身体的な肉離れの状態かとも思ったりするのですが、のんきなことを言っていないで医者に行け、ということが正しいような気もしています。

背中の痛みに悩まされていたら、いま読んでいる内田樹さんの本「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」に、三軸修正法という接骨医の池上先生の話が書いてあり、これも「偶然の符合」かもしれないと思って、興味深く読みました。ここで書かれているのは、三軸修正法と構造主義の共通点なのだけど、内田さんが思想的な見解から解釈するところが非常に面白かった。三軸修正法では、「アラインメント」(alignment)と言う言葉がキーワードのひとつにあり、それは「直線にすること、整除すること、提携・連合」という意味だそうです。そうして、それを次のように解釈されているところです(P.113)。

だが、「アラインメント」にはもう一つ語義がある。
それは「ネットワークの中での自己の位置づけ」という意味である。
私たちの身体の歪みや不調は、単なる局所的な疲労や損傷ではなく、ある「ネットワーク」の中で、適性な「ポジション」にないことによってもたらされることもある。いわば「記号としての病」である。

これはぼくの見解ですが、われわれの身体をテクスト(=さまざまな文脈が絡まって構成された織り物)としてとらえると、縦糸の整合性は取れていたとしても、横糸に「歪み」があることも考えられます。精神的には良好だったとしても、身体に思いも寄らないしわ寄せが出てきてしまっていることがある。あるいは逆も考えられます。身体的には健康であっても、精神に歪みが生じることもある。もちろん身体的にも、外科的には良好でも内科的に歪んでいる、なども考えられるかもしれません。ぼくは医学についてはまったくのシロウトなのでわからないのですが、部分ではなく「全体思考」によって身体全体の在り方を判断しなければならないような気がしています。

つまりぼくの背中の痛みは、単純に寝違えた筋肉痛かもしれないのですが、精神的に飛躍ができないとべない痛みが記号的にぼくの背中を刺激していると読み取ることもできるだろうし、背後に気をつけろ、というゴルゴ13的な暗喩かもしれない。オレの背後に立つな、という台詞があったかもしれないのですが、ぼくの足元をすくおうとしている何か不穏な動きがあって、それがぼくの背中に警戒を発しているのかもしれないわけです。まあ、あまりそんなことを思い詰めると被害妄想に発展しそうなので、これぐらいにしておきますが、身体のシグナルに耳を傾けることも大事かもしれません。

それは、身体をコーチングする、ということかもしれない。偏見や前提条件を排除して、身体の発している言葉をありのままにとらえること。仕事などに集中していると、そうした声を聞き逃して、まだ頑張んなきゃ、もっと頑張んなきゃと過度に負荷をかけることで、気づいたときにはどうしようもなく身体がぼろぼろになっていることもあります。そうならないためには、他者の言葉はもちろん、自分の身体の言葉にも耳を傾けるようにしておきたい。

聴くこと、というのは予想以上に深いな、と思いました。とかなんとか言っていないで、医者に行け、ということだと思うのですが、身体論はなかなか面白いものがあります。内田樹さんの本でさらに面白かったのは、肉声と倍音についての考察だったのですが、背中も痛むので今日はこの辺にしておいて、またいつか。

さて、今夜は家族そろってテレビで「となりのトトロ」をみました。宮崎さんの描く世界はいいですね。夕焼けの空、空を背景にした木々の暗い陰影がよいと思いました。あと、ゲド戦記の挿入歌がいいなあ。歌声の背後に流れるふわーっとした浮遊感のあるパッド系のシンセ(ストリングス)の音が素敵です。

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