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2006年5月25日

a000648

並び替えで変わる世界。

個人的な傾向ですが、本屋には一日に一度立ち寄りたいタイプです。学生時代に日曜日をのぞく週6日間、本屋さんでアルバイトをしていた経験があったせいかもしれませんが、本屋に行かない日は何か調子が悪い。ビデオレンタルショップには、週に一度行きたい。いまのところ毎週旧作を一週間借りることにしているので、機械的に借りたら返却するために行かなければなりません。だから満足です。CDショップは月に一度でしょうか。ほんとうはもっと行きたい気がするのですが、なかなかひょいっと立ち寄れる場所がなく、また行っても小遣いに余裕があるわけではないので、月に一度行けばいいほうです。行かない月もある。

もちろん本にしてもCDにしても、Amazonなどを使えばインターネットで簡単に購入できます。でも、なぜかぼくはやっぱりお店に足を運びたいですね。インターネットで選ぶのと、店で選ぶのでは何かが違う。アナログなのかもしれませんが、その理由について考えてみました。どうやらふたつあるようです。

ひとつめは、お店に行って、本やCDを選んでいるひとをみるのが好きだということ。本屋で立ち読みしているひとたちがどういうわけか好きです。本屋では、うつむきがちに書籍を読んでいる横顔がよいと思う。女性がちょっと髪を掻きあげながら、というのもよいと思うし、男性が眼鏡を人差し指で押し上げながら読んでいるのもよい。CDショップは、フロアにもよるのですが、センスのいい女性がおしゃれな洋楽を買っているのも素敵だし、バンドの練習の帰りなのか、ギターケースを抱えたぼろぼろの髭づら男がまとめて何枚もカゴに入れているのもよろしい。時間があると、ぼくは片っ端から試聴をしてしまうのですが、試聴して無名のアーティストのものを思わず買ってしまうこともあります。

ふたつめは、まったく新しい店に入ってみると、同じ本も違ってみえてくるのが楽しいということです。だから行きつけの店もあるけれど、仕事でどこかへ出掛けたときに本屋などをみつけると、なるべく入るようにしています。店のキャラクターがあるというか、おすすめの本またはCDが違っていているのは当然ですが、同じ本でも配置によってまったく別の品物のようにみえてくるものです。ベストセラーがプッシュされているのはあたりまえなのですが、店長によっては、そうじゃないものが平積みされていたりする。これがいい。

市場に出回っている商品は、どの店も同じだと思うのですが、店によって何を平積みにして何をどこにおくのか、ということが微妙に違っているものです。マーケティング的に言うと、棚割りみたいなものかもしれませんが、構成されている品物の要素は同じでも、配置がまったく違うとまったく別ものにみえてくる。不思議なものです。通い慣れていた店では見過ごしていた本やCDが、知らない町でひょいと入った店では急に目に入ってくる。購入してから通い慣れた店に行ってみると、その商品はあるわけです。どうやらずっと前からそこにあったらしいのだけど、みえていなかった、ということがありました。

今日も仕事の途中で、丸の内オアゾにある丸善のビジネス書コーナーに立ち寄ったのだけど、オフィス街で暮らしていないせいか、新鮮なものを感じました。これはプッシュですっ!という本が、あからさまに大量に平積みにされていて、同じ本が複数の場所に置いてあったりもする。ランキングの棚もあって、新聞などから切り抜いた書評もアピールされている。

部屋も、模様替えするとまったく別の部屋のようになるものです。会社でも人員の配置を変えただけで、急に滞っていた空気が流れ出すことがある。構成要素が同じだとすると、配列を変えても結果は同じではないか、と思うのですが、そんなことはない。つまり、やはり「関係性」によって「全体」が変わってしまうものなのかもしれない。思考だって、わざわざ新しい何かを探す必要はなくて、配列を変えてやるだけでまったく新しいものが生み出されることがある。映画もそうですね。映像の順序を変えるなど編集によって映画全体のイメージが変わる。

自分のなかの意識の配列をときどき変えてやることができると、毎日が新鮮になるのかもしれません。

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2006年5月23日

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世界観のある音楽。

会社の同僚さんの知人さんのバンドに「ヤスミン」というユニットがあり、このあいだの17日に2枚目のアルバムをリリースしました。リリースと同時にライブがあり、ほんとうは聴きに行きたかったのですが、いろいろとあり断念。ものすごく残念です。けれどもやっと今日、TOWER RECORDSでCDを購入しました。「青の時代」といいます。

B000FKNZSE青の時代
ヤスミン
インディーズ・メーカー 2006-05-17

by G-Tools

これがとてもよいです。1枚目のCDを出したときにはライブに行ったのですが、昭和歌謡っぽい感じで、ジャージーでレトロな気分になれる。女性ボーカルとギター、ベース、ドラムスという編成なのですが、ホーンセクションも入ってかっこよかった。曲もよいのですが曲順というか構成も完璧で、うわーっと厚い音を聴かせたあとにギターの弾き語りがあったり、気が付くと長い時間が過ぎていた、という感じでした。

あらためて2枚目を聴いて、まずものすごく音の抜けがよくなった気がしました。そして、これがヤスミンの売りのような気がするのですが、古い感じなんだけど新しい。さらにバリエーションがあって楽しめます。長く聴きつづけることができそうです。このあたりの世界観の構築方法に実力を感じます。曲調や編成が変わったとしても、ヤスミン的な世界がある。実は曲調をいろいろと変えつつ世界観を維持するというのは、結構、簡単なようで難しいものです。1曲だけなら醸し出すことはできても、アルバム全体を貫いた何かというのは難しい。ヤスミンはアルバムで聴きたいアーティストです。

ぼくがいちばん好きな曲は、6曲目の「dolche」+7曲目の「記憶のパフューム」です。「dolche」は明るい曲で、ギターのカッティングもかっこいいし、ウォーキングで弾くウッドベースも、ボーカルとユニゾンするホーンも軽快です。「待ちわびた」と「ドルチェ・ヴィータ」で韻を踏む歌詞もいい。日曜日に海岸あたりをドライブしながら聴きたい感じでしょうか(・・・あまりにべたなレビューで、表現力なくて、かなしくなりました)。そして、この曲の次にピアノで「記憶のパフューム」がはじまり、再びセピア色っぽい「鏡よ鏡」とつづくあたり、ライブの緻密に構成された曲順を思い出します。たぶん3曲目の「アネモネ」は1枚目のCD発売ライブのときにも演奏した曲だと思うのですが、これもよいです。

青の時代という言葉から連想するのはピカソですが、ジャケットの雰囲気も素敵です。部屋の壁などに飾っておきたい。おすすめです。

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■ヤスミンの公式サイト。音が出るかもしれないのでご注意ください。
http://jas-mine.com/

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2006年5月20日

a000643

権威主義的パーソナリティー。

夏かと思うような暑い天気でしたが、湿度が高くて不快指数の高い一日でした。と、思っていたら午後には雨が降り出しました。その後、ちょっと夕暮れどきに近所をうろうろしたのですが、黒い雲と青空のコントラストがきれいだった。そんな空を眺めるのはいいものです。

趣味のDTMで、先週の土曜日から10年前につくった曲を、まっさらな状態から作り直しているのですが、書斎(ってほどでもないですけど)に入ってきた次男3歳に、「へんなきょく〜」といわれてしまった。しょぼん。

ちなみにその曲のタイトルは「生活に紛れたダイアモンド」といいます。このタイトル自体がお恥ずかしいのですが、記念碑的な作品でもあるので、今月中には完成させたいと思っています。今回は完全打ち込みにして、音の素材やサンプリングを使わないで作っています。それなのにPCがフリーズしまくりで落ちます。SONARの場合、右下にCPUメーターがあるのですが、すぐに赤いWarning状態になってしまう。さっきも30分間操作ができない状態になり、気長に本など読みながら待ってみましたが、うぃーんとファンが回るばかりで一向に進展がないので電源を引っこ抜きました。もちろんデータはすべて消えました。やれやれ。

さて、小森陽一先生の「村上春樹論」をあと数ページで読み終わります(現在、第五章P.248)。疑問を感じるところもあるのですが、エンターテイメントとして小説を読むのではなく、小説のなかに引用された作品まできちんと精読する、という読み方に、これはなかなかできるものではないな、と思いました。ブンガク批評とはそういうものであり、ブンガクときちんと関わるということは、一文字も取りこぼさない姿勢が大切なのかもしれません。コンテクストとして他の文学との関係性はもちろん、戦争と日本の歴史のなかで村上文学を位置づける試みもされています。ぼくは知識不足なので言及を避けますが、村上文学を戦後の歴史のなかに位置づける試みは、とても興味深いものでした。こういう話題についてきちんと語れるようになるといいのですが。

村上春樹さんの小説を読み解くために、引用されたテキストの分析はもちろん、思想や心理学などのいくつかのキーワードを使われているのですが、そのうち何度も強調されているのが「権利主義的パーソナリティー」という言葉です。エーリッヒ・フロムやアドルノといった学者が使っている言葉のようですが、力の強いものには服従し、弱いものには攻撃性をあらわにする、他者の存在を認めずに自分を固持する、いわゆる軍隊的な思考のあり方のようです。これは、欲求不満が攻撃の引き金となる。一方で、その言葉に対立する性格類型には、「民主主義的パーソナリティ」だそうです。「村上春樹論」のなかでは、次のように解説されています(P.169)。

「民主主義的パーソナリティ」は、自発性と個性を備え、安定し、かつ連続的で統一的な自己を保持し、自我の独立と同時に、他者に対する寛容さを持ち、偏見から自由であり、合理的な思考、つまり「なぜ?」という問いの下に、原因と結果の関係を言語的に考える人格です。したがって、欲求不満の原因を発見し、それを取り除く能力を持っているわけです。

なるほど。本論から逸れますが、自分としては「民主主義的パーソナリティー」でありたいものですね。と同時に、権威主義的パーソナリティの権化のような実在するモデルが、いま頭のなかに浮かんでいます。いつも欲求不満で、権威に弱く、弱いものには攻撃的で、合理的な思考ができない。そんなひとも、いるものです。

村上春樹さんの「海辺のカフカ」は、カフカ少年のオイディプス的な殺人やレイプなどの暴力を発動する機能がある、これは処刑小説である、と小森先生は語っています。そしてその原点となるのは、女性嫌悪(ミソジニー)であるとします。女性であること、女性が性欲を持つこと、複数の男性と関わることを罰として、徹底的に小説のなかで「処刑」する。<精神のある人間として呼吸している女たち>(P.215)を権威主義の立場から否定するわけです。

と、この部分でぼくは納得してしまったのですが、以前から村上春樹さんの小説には、女性に現実感が欠ける感じがしていました。なんとなく物体のようにも、アンドロイドのようにも思える。また、物語のなかでご都合主義的に扱われている気がする。というのは、そもそも初期の小説に、自分が女性とセックスをした回数を手帳に書きとめる主人公がいましたが、要するに記録するデータとしかとらえていないわけです。とても安易に女性と寝てしまうので(うらやましいともいえるけど)、このことを茂木健一郎さんは「村上春樹の鼻毛」と呼んで、おかしいと指摘されていたような気がします。

一方で、そのドライな感じが村上ワールドの魅力でもあるのですが、「海辺のカフカ」で佐伯さんを物語のなかとはいえ「殺してしまう」背景には、作者の女性嫌悪(ミソジニー)があると読み解く視点には、文学批評家の鋭い視点を感じました。これを漱石の虞美人草の構造に結び付けているところも、歴史から抹殺するという意味で従軍慰安婦の問題にも展開しているところにも、思考の広がりを感じました。

ということを書いていたら、なんだか学生に戻りたくなりました。永遠の学生のつもりで、このブログで考察をつづけていきたいと考えています。まだ稚拙な感想や所見しか書けないのですが、いずれは論文に匹敵するものを書いてみたいものです。

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■Wikipediaのテオドール・アドルノ。はてなのキーワードを読むと、このひとは哲学者でありながら、音楽学者でもあったんですね。ちょっと興味あります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%8E

■Wikipediaのエーリヒ・フロム。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%A0

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2006年5月19日

a000642

痛み、言葉、新しい価値。

すごい、と思いました。小森陽一先生(実は恩師)の「村上春樹論 「海辺のカフカ」を精読する」を読書中です。現在、第三章P.173あたりを読み進めているのですが、小森先生らしい視点が心地よい。ぼくは新しい小森陽一を期待してもいたのですが、学生時代に教えていただいた方法論とまったく変わっていないところが泣けました。感激です。なんだ、小森陽一そのままじゃんと思った。あのころのゼミが、そして講義の風景がよみがえる感じです。そしてぼくも、その変わらないものを大切にしたいと考えています。手法としては、物語に内包されている物語(引用されているテキストとそのコンテキスト)に徹底的にこだわり、物語と引用との構造を読み解いていく。それがまさに「精読する」ということなのですが、物語の関係性にこだわる小森先生のアプローチには、いまでも何か熱い気持ちをかきたてられるものがあります。

もちろん、あまりにも構造的で、完璧にテキストと意味を結びつける緻密な分析には、どうだろうという反論をする余地がないこともない。処刑小説という仮説を検証するために、あるいは戦争批判をするために、帰納的に村上春樹さんのテキストを利用しているようにも読める気がします。しかしながら、それでは、そうではない読み方ができるかというと、いまのところ思いつかない。

ぼくは小森先生の本を読んで、評論の可能性を感じました。

テキストという結晶があったとします。それは、小説であったり物語であったりするのですが、通常はひとつの方向から光が当てられている。光が反射した部分を、ぼくらはそのテキストの解釈として認識するわけです。ところが、まったく別の方向から光を当てることができた場合、まったく違う物語や意味が立ち上がってくるかもしれない。それが評論です。したがって、意味を消費していく批評とは違って、テキストをまったく新しい作品に再生することもできる。それは文学を創造するのと同じぐらいに創造的な行為です。まったく別の光を当てられた創作は、まったく違うものになる。小森先生の村上春樹論は、癒しや救いという印象が多かった「海辺のカフカ」を全然違う作品に組み替えていきます。この組み替えのプロセスが刺激的です。

したがって、村上春樹さんの信奉者としては、納得できなかったり、嫌悪感を感じることもあるかもしれません。しかし、ぼくはそれが村上春樹さんの本質を掘り起こす行為であるという気がしました。そもそもぼくの村上春樹さん体験を言うと、「ノルウェイの森」を読了したときには、気分が悪くなって寝込んだほどです。なんというか物語の世界に揺さぶりをかけられて、船酔いしたような感じになった。その他の小説を読んでも、軽い文体なのに、なんとなく深い闇をのぞくような居心地の悪さを感じた。大好きな作家ではあるのですが、決して癒される小説ではなかったわけです。問題の多い小説だった。その感想がどこからやってくるのか、なぜなのかうまく説明できなかったのですが、その疑問を解き明かすヒントがこの「村上春樹論」にあるんじゃないかと期待もしています。

冒頭の部分では、オイディプスとフロイトを引用されています。これはなんとなく当たり前すぎるというか斬新ではないな、という印象を感じたのですが、それでもインパクトがあったのは、赤ちゃんが言葉を獲得する「口唇期」に対する解説でした。

おしっこやうんちを垂れ流しの状態の赤ちゃんが、三歳ぐらいになると排泄のしつけをされるようになる。ちょうどうちの次男がそういう時期ですが、このとき、いままで至福であり、信じていた母親が急に自分を厳しく叱る別人になるわけです。おしっこやうんちを垂れ流していると、キタナイ、バッチイと叱られる。だから赤ん坊はパニックになる。ママはぼくのことを嫌いになったんだろうか、と情緒不安定になる。ところが、社会の第一歩である躾をしなければならない行為は、愛情と嫌悪(厳しさ)という相反する感情がいっしょになっているわけです。赤ちゃんには厳しさしか伝わらないのですが、その背後には、社会に出て行く人間としてきちんと排泄ができるようになってほしいという親の愛情がある。

そして、そのときに、三歳児には、なぜ?という感情が生まれる。このなぜ?が言葉への入り口である、と小森先生は書いています。そして親は、それはね、どうしてかというとね、と排泄の重要性をはじめとして子供のなぜに応えるとき、この対話が社会の最も基本的な仕組みであり、言葉を使って生きる人間の基本的な行為を紡いでいく。なぜ?が生まれたときに言葉が必要になり、だからこそ人間は言葉を進化させていく。

独自の解釈を加えてしまったかもしれないのですが、この部分で、ぼくは何かものすごいひらめきを感じました(が、消えてしまった)。なぜ?を追求する人間の本質には、新生児の親とのコミュニケーションにおける穴ぼこを埋める必然性があった。人間の知的探求は、結局のところ三歳児の経験をベースにしているということ。そのあたりに、何かひらめきを感じたのですが。

かなり深い示唆に富む部分ですが、次の文章を引用しておきます(P.58)。

子供が自立した人間になるための、すべての躾は、「誰かを深く愛する」がゆえに、「その誰かを深く傷つける」ことなのです。同時にそのことは、子供が周囲の大人との自他未分化な状態から抜け出して、自分と他者を区別して、自立して生きていくことのできる言葉を操る生きものとしての人間になっていく上での、不可欠な分岐点になるわけです。

しかしながら、そうして自立した言葉を操る人間の築いてきた世界を、暴力的に破壊すると同時に思考停止に追い込むのが「海辺のカフカ」であると述べられています。カフカ少年は構築されたタブーをことごとく破ってしまう。その表現に9・11のテロを重ねて、暴力的な何かを正当化する小説として「海辺のカフカ」を読み解いていきます。

一方で、誕生のときの描写もうまいと思いました。人間が生れ落ちるとき、途方もない苦痛が襲う。つまり、生きるということは、基本的に「痛い」ものなのです。息をすること。それも胎内で羊水に守られていた胎児には痛い。産道から産み落とされると「まっさらな肺細胞の一つひとつに、大気が針のように(P.32)」突き刺さる。けれども、この痛みを受け止めなければ生きていけません。ぼくは喘息の息子が酸素を吸入しているときに、人間には酸素って必要なものなんだな、と思ったのだけれど、その酸素すら最初は自分を苦しめるものであったわけです。

うまくまとめることができませんが、この後、小森先生は、ギリシア神話から千夜一夜物語、カフカ、漱石など、さまざまなテクストと「海辺のカフカ」を重ねながら、「村上春樹論」を展開していきます。ちょっとそわそわするというか、ブログなんて書いていないで何か評論したいぞ、と得体の知れない焦りを感じてしまいました。こんな風に新しい視点からさまざまな作品に光を当てて、映画にしても小説にしても、新しい価値を生み出すようなレビューができるといいんだけどなあ、と思います。

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2006年5月18日

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ユニットという衝撃。

思い込み、というものがあります。長い間、そういうものだと思い込んでいて、ある意味、常識だと思っている。ところが、ある瞬間にほんとうのことを知って、いままで自分で思い込んでいたことが単なる誤解だと知ることになります。確固とした常識だと思っていたことが、がらがらと崩れていってしまう。たとえば、よく言われることですが、「赤い靴」という童謡の歌詞で、「異人さんに連れられて」というフレーズを、「ひいじいさんに連れられて」と間違えていたというひともいるようです。異人さんと、ひいじいさんでは、歌詞の文脈もまったく違うものになります。思い込みは怖いものです。

ところで、今日、双子や兄弟のタレントについて会社で雑談をしていて知ったのですが、叶姉妹って、創られた「ユニット」だったんですね。知らなかった。愕然としました。ぼくはずーっとほんとうの姉妹だと思っていた。このゴージャスな姉妹を生んだ親っていったいどんななんだろう、家族はどういう金持ちなんだ、などと妄想を膨らませたりしていたものです。しかし、今日、がらがらと妄想は崩れ去りました。家に帰って奥さんにも話したところ、「そんなの当たり前だわよ(冷たい目)」と言われた。ぼくが無知なのか、おじさんなのか、無知なおじさんなのか(きっとこれだ)わかりませんが、orzな気分でした(これも古いですが)。がっくしな感じです。

同僚から詳しい情報を得たのですが、叶姉妹には昔はもうひとりメンバーがいて、晴栄(はるえ)さんといっていたようです。ひええ、叶ユニットを卒業された方がいらっしゃったんですね。とはいえ、こちらは恭子さんの実妹で、美香さんとは異父姉妹にあたるらしい。セレブの世界は複雑です。結婚されたようですが、その後2000年には離婚されているとのこと。さらに叶ユニット2人のマネージャーでもあるようです。晴栄さんの存在が気になるのは、ぼくだけでしょうか。

とにかく、叶姉妹は異父姉妹とはいえグループもしくはまさにブランド的な何かであり、ある意味、モーニング娘。みたいなものなのかもしれません。叶姉妹(TM)などの商標が付いたりして(付かないか)。姉妹が実はユニットであるという商業的な戦略に、無知で何も知らないぼくは衝撃を受けました。ということは、姉妹ユニット解散ということもあり得るわけですし、姉妹ユニット増強ということもあるかもしれない。女子十二楽坊ではありませんが、叶十六姉妹なんてことも考えられるわけです。

叶十六姉妹、どんなものでしょう。また妄想が全開になってしまうのですが、ボンドガールみたいな印象もあり、ボリュームがすごすぎてみているだけでお腹がいっぱいなイメージもあります。ふたりであればナイスバディもなんとか許容範囲ですが、16人も集まったら許容できません。困ってしまいます。見た目のインパクトからイエローキャブ系アイドルなどの競合にもなりそうです。さらに、浪費も凄いかも。とはいえ、日本経済の消費促進に影響力があり、経済の活性化を牽引する最終兵器的なユニットにもなるかもしれません。恐るべし、叶十六姉妹(ところでなぜ十六なのでしょう?)。

兄弟や姉妹ってユニットじゃないですよね。兄弟や姉妹でミュージシャンなどのアーティストもいますが、特別なケースという気がします。まったく知らない他人が、姉妹になる、兄弟になる、というユニットは斬新なイメージでした。

どなたかバーチャルな兄妹ユニットを結成しませんか?ぼくの作った曲を歌ってください。というのは冗談ですが、リアルなユニット(?)として、ぼくには妹もいるのでした(ちなみに、ものすごく優秀な独身の弟もいる)。妹は音大を出ているのですが、妹と何か曲を作ろうという気持ちには、なぜかなれません。昔からぼんやりと夢(というか妄想)ばかりのいい加減な長男のぼくとは違って、しっかりとした堅実派のリアル妹は、現在かわいい娘さんのママさんになって、クルマ好きのパパさんと素敵な家庭を築いています。

叶美香さんは妹っぽくて、たいてい姉妹って妹のほうが可愛い気がする(姉妹がいらっしゃる方、すみません。ぼくの偏見です。ちなみに兄弟の場合にも、弟の方がかっこいい気がする。うちもそうだけど)とずっと思っていたのですが、その架空の夢も消えました。現実を知らないほうがよかったのかもしれない、などと思いつつ、冷静に考えてみると、そりゃそうだろ、ぼくのバカ、というお恥ずかしい感じがして、なんだかやるせない一日でした。

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■今週のR25にWikipediaの記事もありましたが、Wikipediaの叶姉妹の解説です。かなり詳しい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B6%E5%A7%89%E5%A6%B9

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